畑野智美は運が悪い。
「神さまを待っている」で目をつけられたせいで本ブログに扱われ続け、三回目となる今回はカズオ・イシグロの次に書かれるし、次回扱うのは佐藤亜紀。錚々たる二人に挟まれる現代国内の女性作家の見劣りはしょうがない。それでも扱う価値はあると思っている。
私がもともと海外作品が好きなこともあり、今後も海外の作家を扱うことも増えるが、その中でも現代国内のカテゴリーの作品も読み続ける。どれほど著名な作家も亡くなっていては価値が鈍る、生きて書いている作家の強みは間違いなくあるし、共に生きる現代の作家と言うだけで価値は強い。
だからどんな作家と比べられても、書いてほしい。そして読んであげてほしい。
現代作家の価値とは、今を生きていて、これからもまだ書くということだ。
特に国内の作家は、同じ文化、同じ言語、同じ時代を共有しながら生きる、作り手と書き手としての特別な価値がある。
「神さまを待っている」を読んで、興味が向いて作者を調べた。「大人になったら、」が35歳のカフェ副店長、「若葉荘の暮らし」が40歳以上の独身女性が暮らすシェアハウス、という設定を見たときに、この作者は信用できる、と思って図書館ではなくネットで取り寄せた。
この二冊を読もうと決めたのは、女性の年代別のテーマについて責任感がある作家が現代にいるべきだ、という価値観によるものだった。優れた作家性が現代性をモチーフに取り創作にあたることは非常に有益なことだと個人的に思っている。
「神さまを待っている」「海の見える街」「大人になったら、」「若葉荘の暮らし」と短期間に四冊読んできて、題材やモチーフ設定の違いはあれど、創作性として後半の伸びが毎回弱い。
そこに生きる女性をモチーフに丁寧に見つめるところの誠実さが根底にあって好感は変わらない。ただ基本的な創作性が甘く、題材もテーマも扱えていなければ読み物としての面白さも足りない、文章も平坦。せっかく作者は年齢モチーフを扱う気があるのに、文章力と思索が足りないので人物を描くのが得意ではない、題材を扱う気があるのに物語として作り上げられない、その所のこの作家の創作性や傾向が見えてきた意味でこの二作の読書は個人的には有意義だったが、特にお勧めはしない。
多くの作家性の意味で著者の最高は今のところ「神さまを待っている」になるかと思う。
「大人になったら、」
本作が扱っている女性の年齢は35歳ではあるが、主人公の女性による記述は30歳程度で、それは次の「若葉荘の暮らし」の主人公が40歳を扱っているのに35歳くらいに感じるし、それは「神さまを待っている」でも感じられる。作者の想定する人物像は全体的に幼い。
小説は文章による創作なので、視点人物の内的な理知は作品性を左右するし、テーマの筆致にも関わる。これを意識的にしているのであれば想定する人物像に問題があるし、テーマへの創作的な推定も間違っている気もする。ただ若葉荘の方は、モチーフが40歳以上の独身女性としているので作品単位の均衡は保たれている側面があるため、主人公の人称がいくら若くても一応は問題がない。
「若葉荘の暮らし」で若年デビューし小説家として華々しく活躍していた登場人物が、社会経験がないから青春小説以上を書けない、とした作中の吐露をどこまで作者に重ねていいかは不明で、私は作者の青春小説も芸能事務所シリーズに関しても未読だし興味もないので言及は控えるが、心理的には作者もその創作性には気づいているはずであり、では自身の作品をどう捉えているのか、ということは気になりもする。
年齢や職業に括らずとも内的な文章だけでも多くの情報や印象を作家は読者に与えるので、その経験値や知見の豊富さや深度が文章化へ与える思考の影響と、それが作品や読書に与する範囲は大きい。それがこの作家の全般に言える評価の大部分を占めるのかなと思う。
この点において、これは何も著者だけの問題ではなく、大部分の作家が評価から脱落する部分であるから、特別著者に対してのみ向けている問題ではない。
本作に関しては、35歳が30歳程度の問題に悩んでいる点ですでにつまらないし、人物の幼さや内的な解像度はどうしても低く見えすぎるきらいがそれだけで評価軸を下げる。
とにかく三十五歳は、まだまだ若いはずだ。
高齢化社会と言われる世の中で、三十五歳くらいで、年寄ぶってはいけない。
でも、若くなんてないんだ。
ドラマで見て、かっこいいと思った男の子は、わたしより一回りも年下だった。歌番組では、わたしが二十歳の頃にうまれたような女の子たちが、パンツの見えそうなミニスカートで歌って踊っている。十代の頃に見ていたドラマは、大人の世界という感じで憧れだったのに、いつの間にか主人公たちは私より年下ばかりになった。三十代後半や四十代の女性が主人公のドラマもあるけれど、社長だったり医者だったりして、わたしとは程遠い感じだ。
年齢なんて気にすることではないという考えもある。わたしも、昨日まではそれほど気にしていなかった。
しかし、三十五歳から高齢出産というやつになる。
子供もいなければ、結婚もしていない。八年前、二十七歳の誕生日に、十年間付き合ったフウちゃんと分かれてから、彼氏もいない。好きな人もいないし、気になる人もいない。だからといって、恋愛を諦めたわけではないし、仕事に人生を捧げていて恋愛どころではないわけでない。
この文章だけで読むと、やはり本作は設定が三十歳でも通用するし、その方が現実味のある主人公の緊張感や取り巻く環境である、と改めて思える。
三十代後半まではあと数年、四十代までも五年以上あるのに、この主人公は仕事に精を出す気もなければ、最終的にそれを恋愛や好きな人に結び付けて結婚で人生を上げようとする甘ったるさは「神さまを待っている」にもあった他力本願な主人公像そのままで落胆する。
一般的な三十五歳の女性のキャリア形成における平均的なレベルは、人生は紆余曲折もあるので全体に向けてはなかなか言えないが、こと本作の主人公は新卒で入った飲食業界の会社で勤続し続けており、入社当時は三十歳に寿退社をする予定で働いていた、という甘さであることを留意して読み進める。二十七歳で恋人と別れ、三十歳で店長試験を受け、三年連続不合格により挫折して今の35歳に至る。恋愛に逃げるならその空白の二年間に何かしているべきだと思うが、その間に彼女が何をして何を考えていたかは不明である。
もっと言えば新卒から二十七歳までの五年間も、初めて店長試験を落ちてからの三年間も、彼女は自分が何をしていたかは明かさない。
三十五歳の副店長がアルバイト従業員からの評判を気にして店舗異動して逃げ出したくなったり、試験内容が変わったことを理由に店長試験に再挑戦したり、運よく個人経営の店を譲ってもらえそうな好機に恵まれたり、店に七年も通う常連の男性との恋愛秘話があったりするが、どれも良い大人の職場経過としては何と言っていいか迷う。
つまり主人公は社会に出てからの十三年間、何をしていたのか謎なくらいに蓄積が感じられない内的文章と言動が延々と続く小説、と言っていい。これだけで本作が本質的には何も描けていないことが分かる。
主人公の恋愛要素となる常連客が過去の恋愛的なトラウマから7年も生活を一定にして自分を維持しているという謎の時計仕掛けを繰り出すので、主人公の人生の時計に関しても同様に止まっていた、表現できていたら面白かったのかもしれない。
本作が創作的に面白くなる可能性があったのは、唯一二人のその共通の停止や停滞であり、それはどちらも恋愛という、自尊心を大きく損なう性別や性的な自信や肯定感によるので、恋愛小説で取り上げるには格好のテーマになりえた可愛らしさだと思う。男性側の矮小さは描いて主人公が手を差し伸べるのだが、主人公側は幼さも汚さも滑稽さも描かれず、性別として手を差し伸べる側に立って自分を開け広げない。自分だけ綺麗なままでいるそれが自尊心ならまだいいが、それを主人公が自覚しているのか、そしてそれを作者が創作やテーマ的にどう捉えていて、そんな主人公を人称に据えた本作の読み物としての魅力をどこだと確信し執筆するに至ったのか、私はそれが気になる。
この作者の突飛な要素として「海の見える街」の青い鳥が思い出たされたので、むしろ本作では毒林檎を食べて殺されかける白雪姫のような儚さで二股によるショックで女性不信になる塾講師をなぞらえ、高校生からの初めての彼氏に二十七で振られたストレスにより昼寝している間に歳だけ食った眠り姫的なカフェ店員を描いてみるとか、二人の人生が停滞しているし、恋愛に乏しくなっている現代性も重ねられてより虚構的に創作する自覚が作者にあれば、本作の作為性は異なっていたと思われる。
「海の見える街」ではとっ散らかっていた恋愛小説の側面を一応曲がりなりにも形にしていて、小奇麗な作品性までに体裁を整えているし、焼き飯等の料理をおいしそうに扱うことにも成功していて、創作的な上達を感じさせる意味ではその系譜に読める。その代わりに小奇麗にまとめ過ぎたために本作は何の魅力もない虚構性で始まって終わっている。
三十歳前後の女性が自身の恋愛や仕事を主軸にして人生を考えることはよくあるパターンだし、それはやはり妊娠可能年齢だとか結婚適齢期などといった身体的な条件を理由に、やはりそれは三十歳で悩み考えることであり三十五歳では遅すぎることは理知的に揺らがないとだろうと思う。
この主人公の人生や仕事に対する感覚に、共感する読者と共感しない読者、と分かれる時点でそれなりの価値があるのかなとも思う。三十五歳で三十歳程度の人生観と危機感ではまずい、と感じるか否か、で読者と作者が思われる気がする。
「若葉荘の暮らし」
「神さまを待っている」が二十代前半の女性の貧困を描き、家庭や就職先からこぼれ落ちた女性性の貧困が性風俗と結びつき、女性の若さと性別の価値と性的な換算について触れていたのに対し、本作は四十代以降の多様な女性の人生を内包する物語になっている。
若葉荘という四十歳以上の独身女性限定のシェアハウスに住む彼女たちは、女性の類型人生を記述していく。結婚と妊娠育児を選んで夫と家庭に尽くして経済的な自立を失った女性は、夫の人間性に恵まれなかった場合の不自由と我慢を経て、自立することを喜ぶ。結婚と妊娠を選ばずに、その両立が難しかった時代のキャリア女性は作中で生理が終わる。才能一本、あるいは若さとの併わせ技で小説家というつぶしが利かない職業で食べてきた女性。離婚が家の恥であると爪弾きにされた時代に、そうして一人で生きていくのが心細い女性が集える場所を作ろうと思った管理人。
これら現代女性のパターンは、どれも魅力的でその体現だけでも読みごたえはあるはずが、多くは台詞による吐露のみで、物語としてのストーリープロットを持たない。集う真ん中の食堂で、飲み食いしながら語り合うような明るさで、彼女たちはお互いの人生を見せ合う。この特色は本作を印象付ける魅力的な要素となっている。
二十代から四十代以上に世代を変えた女性の貧困を扱いつつ、「神さまを待っている」では落ちて助けられる側の主人公を描いた作者は、本作では助ける側の立場への志向を鮮明にする主人公を置く。そこまでの物語運びも、共同生活とある一つの区切りがあるからこその展開と決着を描いている点では評価できる。
独身女性の不安や人生の後半を見据えた主人公は、シェアハウスでの交流を軸に友人関係や交友関係が生まれて精神的な余裕を持ち、家賃の安さと共同体としての安心を得る。コロナ禍が襲った個人飲食店の変化と充実を主人公のプロットで扱い、元小説家を友人に据えて才能の仕事と作家性を思わせ、書けなくなった小説家の最後のあがきと自己分析などをサブプロットに置き、その二人が多少友情をはぐくむ。これが40歳以上の女性同士の友情という雰囲気の魅力がまるでないことは、もうここでは触れない。
本作の魅力は複数人の女性の類型提示であり、中でも主人公と友人のプロットを中心に添えている向きがあるが、その部分が創作的に成功しているとは言えず、気になる点がいくつかある。
主人公は職場である個人経営の洋食屋にも、その店での仕事にも愛着を持っている一方で、非正規雇用により尽くしても待遇が変わらないことへの不満や不安を感じている。そんな自身の経済的問題と、終盤での問題提起と次への目指し方への合致が弱いために、一人の女性が自身の人生を考える一体感がなく、そのメインプロットが魅力に乏しいことがまず一点。偶然の好機が主人公のもとに転がり組んで物語に希望を持たせて落着させる手法をこの作者は毎回使うが、何作もその終わり方を見せられるとさすがに辛くなってくる。
友人の小説家の浮遊感は人物的な魅力を設定つけようとした部分はなんとなく感じられるが、著者に重ねて読むことも可能な読者への面白さの提供もされず、テーマモチーフとしても消化不良であることが二点目。ここは作者が自覚的な創作を行えるか、意識的に創作性に組み入れる戦略性を持てるかにかかっていて、この視点の獲得があれば、今回扱った二作品とも異なる作品性を持てたはずとすら思う。
この作家は割と職業小説かと毎回思わせるくらいに職場にいる人物を作品内に据えるが、多くを描かない。「神さまを待っている」失業期間中のハローワーク、夜は漫画喫茶と昼は出会いカフェと言う二重生活、派遣社員と日雇い労働、等題材的なものを詰め込んでも多くは書き込まずに主人公を転がし続けた作家は、それでもその豊富さは読み物としての魅力が一応あったが、「海の見える街」では職場恋愛に精を出す図書館職員たち、「大人になったら、」ではカフェの副店長が後輩の社員と転結しつつ店長試験に挑む過程、「若葉荘の暮らし」でも飲食店でのバイト女性の転機と奮起を描くが、どちらも浅い業務内容しか描かれない。共同生活とそれを支える管理人という職業についても特色的に描けていたなら、それが一点目にも繋がったし、複数人の女性のシェアハウスという本作のモチーフテーマも補強できたはずではあるが、作家はその役割職業について終盤以外ほとんど触れていない、ここが三点目。ここが本作の一番の創作的な失敗であると個人的に思う。
優れたテーマ性を持ちながら、この作品を創作性と文章で語れば、「神さまを待っている」から「若葉荘の暮らし」までが四年か、と思う。現在作者は45歳。
男性の労働と成功が画一的であり、上層と下層の二分割であることの救いの無さに対し、女性の救いは、アルバイトやパート等の非正規により自分を生かすだけ、隣の誰かとおしゃべりするだけ、でも案外楽しくて、その意味で集う場所で不安を分かち合い、語り合い、肩を寄せ合い、楽しく笑い合う場所があれば女はある一定幸せになれる。
そしてこれは本質的に言えば性別の問題でもなく価値観の問題であり、社会や他者が性別に押し付ける役割からいかに解放され、生活を楽しみ他者を味わうことにもよるだろうし、例えばコロッケから始まる食事シーンの豊かさが本作にはあって、その共同スペースでの飲食が交流の形を模していて魅力にもなっている。主人公が職場である洋食屋からまかないを持ち帰る、料理上手な住人女性が多く作って冷蔵庫に入れてある煮物や、管理人さんが入れておいた漬物などは、他の住人も自由に食べていいことが食卓を彩っていたことを退去してから気づくところなども、食と共有を通した人間関係を思わせる小ネタは良い。
共に暮らし、共に食べて、共に話し、共に抱え合う、その生活が描ける共同生活住宅をモチーフに取った割に、それを活かしきれていないのが残念でならない。
テーマの選択は嗅覚であるし、それは現代性と共にあるとやはり価値がある。
そもそも小説家とは創作技術や文章力と共にあるので、知性や人間性が現代におけるなにがしかの問題にも秀でるなどということも難しく、しかしそうした総合的な人物による産物が他者に享受されることは価値だし、波及しやすい物語や創作という形で他者に親しまれることは本質的な価値になると私は思っている。ゆえに現代の女性や社会問題を扱う姿勢や意識がある作家、というだけで私は少しの評価をしてしまう、その期待を「神さまを待っている」で私は持てた。
著者がそこで触れた二十代の女性の貧困の可能性と、本作で触れた四十代の女性の貧困は、とても優れた題材とテーマ設定になっていて、半分は成功しているが、まだまだ足りないので、他作家による変奏を待ちたい。
本項で触れる多くの部分は著者だけでなく全般的な現代作家に言えることだ。
この作者は題材として扱う意欲はあっても、それについての熟考が不足している自覚があるのか否かが不明だ。題材やテーマとモチーフをいくら扱おうと、小説は文章による物語創作だから、作者の知見の深度やその表現の文章は絶対的に魅力に与する重要な要素であり、価値的な題材やテーマを魅力的な文章と物語で起こせてこそ小説家の実力になる。最近改めて佐藤亜紀に感動したので、小説家という技術については後日に触れる。
小説家はすべからく横並びの、本来は亡くなって埃をかぶった作者たちとも横並びの職業と作品群であり、しかし新作からして読まれていない現状は現代の作家にしか変えられない。
私はどんな作家も横並びで扱う。現代作家に期待をするからこそ横に並べ、新発表の作品に勢いで負けて埃をかぶる過去作品は、発表の真新しさで現代には勝てない、だから読んで語って新しさを取り戻す。
完成度や実力で並べないのならば、せめて現代的な商業性やテーマ性で勝ちに行くべきで、そうした野心的なところもない量産の作品ばかりだから小説が文庫価格でも読まれなくなるのであり、期待されない文化が先細りになる体現として思う。
今が書く、今が語る、今が読む、その価値を思えずして今に価値はなくなる。
おひさまのランキング登山、こつこつ
登頂まで応援よろしくお願いします🌞
⬇️1日1クリックまで🙇♀️☀️
コメント