読書を再開しようかなとランキングを検索した時に目に入ったなじみの作家名の筆頭はこの人で、私が読書から離れる前に彼女は直木賞を受賞していた。それから10年以上もの間ずっと書き続け、売れ続けているのだとしたらすごいなと、文学性としては特に評価した記憶もないのだけれど最新作「傲慢と善良」が気になりつつ、まずは先に手に入ったこちらを読んだ。
辻村深月は作品性に優れるのに小説家としてはどうなのかという意味でその資質は判断に迷う。本作も刈り込める部分は多分にあって、魅力的な発想力に対し創作的な完成度が不足している。では辻村深月の豊かな作家性とはどこにあるのか。
家の中の秘密の扉から異世界へは作中でも言及があるように「ナルニア国物語」が有名で、さらに日本人の記憶にもまだもしかすればある「ブレイブ・ストーリー」も家庭環境に問題を抱えた主人公が異世界へ紛れ込んで願いを叶える過程で友人と交流しながら結ぶ。
クラスメイトや友人との何かを理由に不登校になってしまった中学一年生の4月、学校にいけない自分、お腹が痛くなってしまう自分、スクールに連れ出そうとする母親、そこにも行けなくなる自分の申し訳なさ、学校や次のスクールにも行けないこんな自分でごめんなさい、という母親への気持ちが全面に押し出される幼い一人称は可愛らしく、こちらの同情も買う。何が不登校の原因となったのか、その繊細な気持ちに興味は集まる、母子関係や思い出す友人との描写にもまずいところはない。
しかし異世界への鏡が光り始めてからの冗長さはどうか。登場人物が子供ばかりだから言動や浅さが多くなるのも仕方ない、しかし設定でも文章で読ませるでもなく進むページ数の多さは、選んだモチーフや題材から伺わせる、想定読者層への配慮なのだとしても、これは弱い。
子供心の世界の狭さについて、あるいは行き場所の少なさについては、使い古されたほどの材であると思うが、あえて言えば、押し殺されそうな脆さも知識から成る世界観の狭さもどうしようもなく本当で、その気持ちに寄り添う想像力や思い出すことの出来るかつての自分を掘り起こし、寄り添う優しさや賢明が周りの大人にあってほしいし、普遍的なテーマになりうるのはすべて、小さな内側の世界の心と、大きな物理的な世界の固さによる。
その小さな内側の世界での出来事は、大なり小なりたいていの人間が経験するものであり、同時に、子供時代や幼少期というものの普遍的な経験の過程も大人数が経験するものであり、ノスタルジックな青春性も併せ持つため感慨を持って読み進めやすい。この小説には七人もの内側を抱えた子供たちが登場するので、自分の過去になんのひっかかりもしない読者もまれだと思う。
主人公の”こころ”の母親は、最初は戸惑いながら、フリースクールの先生との会話で娘との関わり方を冷静に模索し始めて、初めて主人公に「何があったの?」と冷静に聞いてくる。その母親のたどたどしい時間の中で娘にも話す土壌が生まれていて、話せる、そして話を聞いてくれる、味方になってくれる、それは担任の先生に対しても戦ってくれる、ある意味で対立する当該生徒を反射的にかばう教師に対しても戦ってくれる、自分の守る弱いわが子のために戦ってくれる、素直な話を聞いた上で外の世界ときちんと戦ってくれる母親に安堵する気持ちが主人公にあるかどうかはそこまで明記されないが、私はここの場面が一番好きだったし、安心した。
そしてその後、その感動や感謝を表現する母子の描写や場面がいくつか出てきて、重ねすぎだと思いつつもじんわりと読める。
「お母さん」
かがみの孤城
「ん?」
「――ありがとう」
~~~~~~~~~~~~~~
「先生に、あんな風に言ってくれて。私がどう言ってたか、伝えてくれて」
~~~~~~~~~~~~~
「お母さん、私が言うことの方を信じてくれたから……」
「当り前じゃない」
お母さんが言った。声の語尾が微かに掠れ、お母さんが俯いた。繰り返す、「当り前だよ」の声は、もう完全に震えていた。
お母さんが目頭を軽く拭う。顔を上げると目が赤かった。 「怖かったでしょ。――話を聞いてて、お母さんも、怖かった」
「学校、かわりたい?」 カワリタイ、という言葉の意味が、最初、すぐには入ってこなかった。
かがみの孤城
~~~~~~~~~~~~~~
「……ちょっと考えてもいい?」
~~~~~~~~~~~~~
「いいよ」とお母さんが答える。 「一緒に考えよう」
~~~~~~~~~~~~~「――外に出たの、久しぶりだなって、思って」
たくさんの照明がまぶしくて、相変わらず頭がくらくらする。けれど、前よりは短い時間で慣れてきた。
「お母さん、つれてきてくれてありがとう」
言うと、お母さんが完全な無表情を浮かべた。見えない衝撃に打たれたように黙った後で、心の右手を引き寄せ、「お母さんも」と言った。
「お母さんも、こころと来られてよかった」
こんな風に手をつなぐのは、小学生の低学年以来かもしれない。手をつないだまま、一緒に車まで戻る。
文字に起こすと本当になんてことない会話なのだ、でもこれまでの不登校を持つ親と娘の緊張感や息苦しさ、娘が一人で抱えていた胸の苦しさと、世界を変えてしまった出来事の中で震える恐怖をわかるだけに、そしてわかって受け入れ守ってくれた安心感と、やっと親子が自分の言葉で会話できる場面に積もる感慨がここにはある。
この作品の根幹にあるのが不登校の子供たちだったので、そのテーマについて話すことに文字数を割いたが、これは特に大人になってから無関係な題材かと言えばそうではない。
子供のころより知識も経験も増えて受け止められる土壌が強く豊かになっただけで、大人になってからも個人が抱えられる気持ちには容量があるし、個人的に解決できる度量には限度がある。不登校もあれば引きこもりもあるだろうし、ホームレスもいれば生活保護もある、どこかに逃げ込んでしまいたい、その結果守られて息をする立場に安心したい気持ちがすべての弱さで悪だとも私は思わない、事情が違うそれぞれの人生の中で精いっぱい逃げて、隠れて、戦ってはいるのだとは思う。
人は目の前の人に対して話し言葉や事柄とその深度を計りながら話す。開示する内容や深度を測って話すことを決めている、対面する他者とはその価値そのものだ。
この人はわかってくれる、この人は許容してくれる、あるいは反対に理解されない,大した事ないと思われるだけでもショックがある、そしてもうその人に話す内容の線引きを決める。年齢を重ねれば知性や精神性において幅や深みが増すわけではなく、年を経れば経るほどその色彩や深度に個人差も出てくる、すべての大人がすべからく大人らしく賢明に優しくなれるものでもない。
子供の心が小さいように大人の心も小さくて、周りの大人に説明しても理解されないと思ってしまうように、この人に話しても理解されないと思ってしまうこともあって、どんなに話してもお母さんは私の言いたいことを理解してくれないと思うことのように、この人に話しても少しも許容はされずそのことで私は悲しい気持ちになるんだろうなと思うようなことに近く、けれどお母さんは私の味方を絶対してくれるんだという安心感のように、この人は私の話を聞いてくれるし理解し味方をしてくれる、という安心感は果てしなく重いし温かい。
創作的な刈込はもっと可能だし、文章は相変わらず濃度がない、著作列を見ても題名もたまに微妙、と思うのだけれど、この豊かな創作性はどうだ、と思う。彼女はとても優れた作家だ。
制服から自分たちの関連に気づくところはびっくりしたが、約束したあの保健室の日の主人公の混乱の最中に、それぞれの子供たちの関連やかがみの城に集められた子供たちの仕組みにも気づいたのだけど、私はそうした伏線の察知が悪いので、それ以外の読者の方もそれ以降の設定については勘づいた方がいるかと思う、なのにそのあとも冗長に頁を割く創作性の甘さはやはり気になった。
しかしその後の謎解き、オオカミ様の正体から、謎のアドベンチャー展開や、それぞれが詳細には語りたがらない個々の生い立ちや経緯についても自然と披露していく創作性は魅力的で腑に落ちるし、記憶はなくなっても会うことは可能だという設定は、別れ際のそれぞれの会話からも感動を醸すし、中盤から謎解きの鍵にもなった人物の職業と存在感が、この作中を貫く題材やテーマにも関連し、その生き方や人生の尽くし方を含め、主人公のラストとその人物の冒頭になるエピローグの心地はどうだろう。いい小説を読んだ、と思った。
遠い記憶だけで語って申し訳ないけれど、作者の作品で私が既読なものは「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」「水底フェスタ」「オーダーメイド殺人クラブ」「鍵のない夢を見る」、記憶上で順位をつけて並べるとこの順の読後感だったように思う。
この作者は個人が内側に抱える弱さや葛藤、息苦しさを深掘る作業が得意で、その気持ちに寄り添う人間性と誠実さがまず前面に感じられるところが好感を持てるし、その文章も読みやすい。ただ創作としても文章としてもなんとなくまとまりが悪く、特にほかの能力に対し文章の面で弱いので小説家としての優秀さという意味では個人的に評価に困る点でそれは本作も同じだったが、毎回終盤に与えてくる印象の強さがある作家だ。そしてとても意欲的な感じがする、その秘密は何か。
本作は彼女の作品の中でも最高傑作と推されるものらしく、2018年の本屋大賞受賞、累計発行部数も170万部以上、アニメ映画化もさ入れているらしい、読後に調べてびっくりした。
大衆小説に与えられる直木賞は、けれどそれでも一般的には権威的な立ち位置だとは思うし、現代で売れる作家や作品が選出され、しかも受賞後もその作家が売れ続ける例は結局簡単に増えるものでもなくて、やはり小説家の連続的な活躍や多作は難しいものだと思う。
直木賞、本屋大賞、わかりやすい大衆小説の賞を受賞した作家が、その後も何作も映像化され、華々しく売れる、これはとても素晴らしいことだ。そしてまだ作者は43歳、勿論作家は閃きもあるし渾身の着想もあると思うが、最新作が一番の出来でなければ実力や才能とは何か、と個人的に思ってしまうし、実際に最新作が最高値だと思えると次への期待と成長性を感じられて、私は高揚してしまう、彼女にはそれがある。実力のある作家が、それを出し切らないことや、次を目指さない姿勢が私は嫌いだ、しかし辻村深月は常にその心の内側で、作品の内側で、登場人物の内側で、きちんと悩んで創作やモチーフと向き合ってる感じが、一作や著作列から感じられるところが好印象だったが、それに作品が追い付いてきたのが嬉しい。
正直、こうして小説を読むことを再開して、ブログをはじめようと決めたにも関わらず、読書があまり進まず面白くないし、私は道を間違えたかな、と少し思って、図書館で違う類の本を探して読み始めてみたりもした。本作も途中まで読んで、相変わらずダラダラした地の文を読みながら、売れてる小説も辻村深月も大したことがないし、やはりこの程度、などと思い始めていたりしたのだ。
それが。読書から離れて十年以上経って、あの作家がこんな作品をものにしていた、と思えたことが嬉しかったし、この小説がきちんと売れていることが嬉しかった。けれど完成度はまだまだで、でもだからこそこの作家も、これから売れる作品にも、まだまだ可能性があることが確信出来て嬉しかった。何より作家の最新長編の評判と出来がいいとは、これ以上の喜びがあるだろうか。そうすると次も読みたくなる、 最新作を読むのが楽しみだ。
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