(原題: The Great Gatsby)(2013)
非常によくできていてびっくりした。
こんなにも誰にも共感できないし、華々しい夜毎の栄華のような空虚さと虚像である一途な恋を重ねて見ても、突如始まる近未来世界のカーレースや原色ポップなファッションセンスも、時空や時代がねじれているとすら思えるのに、着地するプロットがしっかりしているので、それらの多彩が退屈させない趣向と色彩に思えてくる。虚構創作としてのバランスは結構悪くないと思う。
まずなぜこんなにも有名な原作を未読なのか、という理由は完全に村上春樹で、ディカプリオが華々しい舞台セットで演じていると知っていてもすぐに観なかった理由は、原作小説に付随する村上春樹への嫌悪感からだ。けれど金融業界を描いた「マネー・ショート」や成功した男の人生の類型として「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」等の際に、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に言及して下げ過ぎた感じになっていて嫌だなと思い、今作を観ることに決めた。
だからといって、本作にも無視することの出来ない気持ちが悪い部分は多数存在する。
まずは圧倒的に主人公格、ニックの気持ち悪さ。
の ”アメリカに生まれた繊細で内向的な僕が書いた小説”が私は大嫌いで、村上春樹もこれの系譜(+悲しい過去を持ったりしながら気軽に女と寝てジャズを聴きながらパスタを食う、というファッション性の上書きがされているのが洒落た現代性を被せることが出来ていて非常に上手い)だと勝手に思っていて、これに関して先日大事な友人と話して、改めて食わず嫌いやイメージで作家や作品を語るのはだめだなと思い、今映画を観たことで、やはり実際の鑑賞が最も大事だと思わされはしたのだが、未読の現時点で語るとこうなる。
第一次世界大戦の従軍経験者であるニック・キャラウェイは、睡眠障害やアルコール中毒の治療で現在は精神科医にお世話になっている。そんな彼が見たひと夏の経験と、その中でひときわ印象的だったある人物について診察で白状すると、作家志望だった彼にその経験を言葉とプロットにして自分を癒すために書くべきだ、それは他人を喜ばせる才能とは別の価値がある、と医者は勧める。
当時の彼は作家を諦めて証券会社で働き始め、従妹デイジー・ブキャナンとその夫でアメリカで最も裕福な男性の一人であるトム・ブキャナンが暮らす豪邸の対岸に位置する小さなコテージに移り住み、富裕層の生活に巻き込まれていく。コテージの隣には夜毎豪華なパーティを開く謎の大富豪であるギャツビーなる人物が住んでいて、ある時彼からニックにだけ招待状が届き、自分と親交を深めようとするギャツビーには頼みごとがあることや、彼が夜毎開く宴は何の目的であるかの理由が、自分の美しい従妹のデイジーであることを知る。
受動的で、達観的で、相手が友人で同情心があろうとも、基本的に自活的に何かを動いたり変える気はない、圧倒的な傍観者、現実への甘え。ある意味で文芸作品の気持ち悪さそのもの。そして経過した現実に対して哀愁を持ったり悟ったりして、自分が価値的な気持ちになる人種。本映画作品の主人公も、そして私が十代の頃にちらっと「グレート・ギャツビー」を読んだときに読了できなかった理由もこのあたりにあると思う。
今回で言えばニックは何もしていない、ただすべてが終わったときに外周に激高しただけ。美しく愚かなデイジーの親戚だったから富裕層の世界に足を踏み入れることが出来ただけ、彼女に近づくための橋渡しとしての招待状から友人になれただけ、改装してもらった家を偶然の逢引の間に貸しただけ、権力者の世界を味わい友人扱いしてもらい、その墜落と無情を目にして怒りを表して愚かな大衆や女を軽蔑し、勝手に一人で精神を病む。何もしておらず、夢見心地を楽しんだ後、非難だけして、落ち込んで終わる。そんな僕が小説を書き始めるらしい……。
ただ本作の配役は素晴らしくて、ニックを演じたトビー・マグワイアの純粋そうな表情と目の力は素晴らしくて、適正はそんなつまらない男ではなく夢や希望に溢れたディズニー作品の主人公だよと言いたくなるほど、困惑した純粋や、疑惑を持つ純粋など、空っぽな男の内側を言葉で語らずとも表情で魅せてくれる。陰鬱に傾倒した人間の内側の空虚さは本人にはわからない。これは文章という一人称に委ねられた文芸作品全般に言える陰鬱の空虚の正体だ。
では映像作品におけるそれとは何か?
傍観者のニックのほかに、本作に見えるもう一つの気持ち悪さが、うっすらとした女性嫌悪。マッチョの反対にある女性性ではない、繊細な僕から見た非繊細な彼女たち、という感じ。
ギャツビーにとってデイジーが特別だったのは外見と良家の女性であったことが一つの輝かしさであり、手を伸ばして手中に収めたかった光の正体は、彼女個人ではなく彼女が生まれ育って持ち得ている家柄であり、そんな空虚な彼女を愛していた彼の純粋さとは、結局は彼女ではなく自身の生まれを変えたい欲求による。その空虚を指摘しない所に自覚的なのであれば哀れみさえ感じるし、友人であるニックは彼を何度も止めてあげられたのに止められなかった、誰も愛していないし、誰も友人ではない。
事実、デイジーはとても魅力的な外見の女性に描かれているが、そうした彼女も簡単に夫に浮気され、気づくも悲しむだけで、そこに現れた昔の男と簡単に寝るし、なのに現在の立場を簡単に捨てられずに新しさを選び貫く覚悟も弱く、ギャツビーの素性や現状に疑惑が持ち上がれば彼を選ぶことも出来なくなり混乱する子猫ちゃんだし、感情的な行動により取り返しがつかない事故を起こし、その責任も取らずに軽蔑していたはずの夫に守られたまま、自分を愛した男のことなど忘れて新天地へ旅立っていく。
こんなにも主体性がないのに、こんなにも可愛らしさをも備えていない女性がいるだろうか?
この塩梅は非常に絶妙だ。ゆえに逆に、彼女の魅力は良家の生まれと備えた外見だけである事実がはっきり浮かび上がる、とても素晴らしいテーマ性特化に思う。
主人公とヒロインの人物造形に関して、原作の記憶は一切ないので映画作品だけでしか語ることが出来ない。本作はF・スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』(1925)が原作。
同時に、そんなお飾りの正妻を持ちながらも、友人である男の妻を寝取って不倫しているトム・ブキャナンについても語ることが出来てくる。おそらくデイジーには外見と生まれ以上の魅力は無いので、その弱さや自立心の無さはある意味で飾っておく時代の正妻にピッタリだし、そこに据えて外で遊ぶブキャナンは現代の感性で考えても理解はできるが、遊び相手がB級だし、魅力にそぐわない部分が微妙か。本作の悲劇を創り出すためと、ブキャナンの品性を表すための作為性にしか感じない。
自分の手中にいる可愛いだけの子猫ちゃんとして見ていた女性が、ある時他の男性にとられそうになる、という危機に直面した時の言動としてみると、トム・ブキャナンはだいぶお粗末で、ある意味アメリカ的な要素にも思うし、対比として「ココ・アヴァン・シャネル」のバルザンは、間男に対するアクションとしての大人の魅力があった。比較すると非常に魅力的だったと思う。
身分社会における婚礼、超えられない壁に涙するココとギャツビーの対比も必見か。
恋愛という意味での不倫を見たとき、両作品や両者に見える歴史的な婚外恋愛としての不倫は、正式な婚礼を持てない身分違いの恋としての要素が魅力であり、そこには多少真実の感情があるとする趣は無くはない。この意味でもトム・ブキャナンの婚外恋愛の相手を見た時のお粗末さは品性や恋愛観の問題だろう。
確かに本作には途切れがちな作品性のほころびがあり、デイジーもニックもブキャナンも、もしかすれば重い男なだけのギャツビーも、欠点だらけの軽薄人間しか登場せず、本当に誰にも共感できないし、嫌悪感を感じる登場人物しかいないかもしれない。
けれど埃を被るだけの受動的な文芸作品を現代によみがえらせる、その一点として考えるなら、魅力的な役者を集めて現代的な映像でリバイバルするだけでも一定の価値があり、本作は重さと軽さのバランスが極めて良いし、その多彩さが絶妙な外面を創り出し、多彩な魅力に溢れている均衡は悪くないと思う。芸術作品や技術に必要なのは共感や親近感ではない。
時代も違うし、生まれも違う彼らが理解できず共感できないのも問題ないし、そうしたタイプに書かれた当時からも時は流れた現代、この作品を映像化することの価値は共感や親近感ではないので、このまとまりを味わう心地を忘れないようにしないとと思うし、映像作品としての魅力や圧倒的な華を感じられる本作の魅力は別にある。
ニューヨーク的な乱痴気騒ぎやドラッグと酒と男女の酩酊があり、ファッション的なカラフルも凄いし、画面は明るく、車は派手だし、運転の映像の魅力は近未来的なカーレースの様相があったり、不倫相手の女性の部屋やそこでの登場人物たちだけ異様に強い色彩のハイカラ―でクラシカルな服飾をしている理由はよくわからないが、勢いや魅力があって創作性を感じた。トム・ブキャナンの愚かさや勢いが目立つし、恐らく華々しいギャツビーの公的な大きさと、ブキャナンの秘め事でありながらも大胆な遊び方は、対比に置きながらも同様に作者による皮肉の対象であるのは間違いないだろうし、そこに飲まれて酔う、友人デイジーへの罪悪感、それらに興じながらもあえて何にも染まらずにいるニックの非積極性がここでも気持ち悪い。
原作を忘れている私にとっては、この印象的な車のビジュアルや荒っぽい運転の危なっかしさは、後半への不気味な予兆に感じられて、とても良いと思う。映像の魅力はたっぷりあるが音楽は微妙か。激動なドラマが展開されるが盛り上がり的な情感に欠けるのは、登場人物への共感の無さによる言動へのついていけなさがあるので、それを補う意味でも音楽的な効果はもう少し狙ってあげても良かった。
「女は美しいおバカさんが一番幸せ」というデイジーの台詞も、これぞ古典、という良さがある。
フィツジェラルドの「グレート・ギャツビー」、アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」(印象だと長距離ランナーの孤独だった気がするので、十年以上昔の記憶なんて本当に宛にならない)へミングウェイの「白い像のような山並み」だったか、フォークナー「アブサロム!アブサロム!」、スタインベックなどの中短編が収められていた、実家に合った緑の分厚い文学全集を恐らく十代で読んで、アメリカ文学は自分は好きではないなと判断し、その後ラテンアメリカ文学のが好きだとそちら側に流れていった。
基本的には西部も炭鉱もアメリカ的な文化があまり好きではない好みの問題ではあるが、資本主義的な年代からのアメリカや興行商業的に消化されていく映画文化などは好きなのだが、土俗的な文化と、そうした広大で強大なアメリカ文化の中に生まれて、仮に大戦や大きなトラウマを経験しようとも、むしろ踏みにじられるようなことのない特権階級であればあるほど、内的で繊細な文学に流れていくタイプの人間の性根があまり好きじゃなかったのかもしれない。これは今後も考えていきたいテーマだ。
アメリカに生まれた内向的な傍観者で悲観者であるニックや村上春樹と、彼らが強烈に憧れるが、憐憫も出来るような破滅を迎える無鉄砲さ、身分世界に無で生まれて自力で生き抜き勝ち得ていった男の能動と純粋さと快活さ、その輝きを演じる能動的なレオナルド・ディカプリオの圧倒的な華、スターとしての存在感はやはり強くて、米文学史における一つの目立つ人物モチーフを彼が演じる場としての価値が本作にはある。こういうめぐり合わせや功績の結実のために作品は存在する。
映像作品としての導入の上手さも、古めかしい古典のリバイバルとしては素晴らしかったと思うし、この点で「レ・ミゼラブル」が現代においての価値を再変奏出来なかったことに比べれば、だいぶ成功している。名作古典を蘇らせる価値や映像作品として作り替えるとは、なぜ今の時代にこの作品をリバイバルするのか、という部分が必要で、それはテーマや創作技術的なことだったりする。
村上春樹の翻訳によって、彼が名乗り出るほど好きな作品であるならその主人公や作品観は必ず気持ちが悪いだろうと思わせ、事実間違いなく傍観者の系譜にあり、その彼が憧れとして語る対象は、ただのモチーフに過ぎない。ただの傍観対象であり、自己愉悦の為道具につき、非能動な人間が一瞬黄昏た憧憬の対象は間違いなく米文学史の明確なスターであるし、それを現代の映画スターがきちんと配役され、きちんと創作されたこと、この事実や虚構性が素晴らしいなと思う。
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