G-40MCWJEVZR 文芸読書というモラトリアム、あるいは言語全般の価値という空想 - おひさまの図書館
スポンサーリンク
スポンサーリンク

文芸読書というモラトリアム、あるいは言語全般の価値という空想

本筋

 本来、資産運用と小説とは相容れないものだ。人生における効率と物語性については私もかつてひどく悩んだ。たとえば著者があとがきで触れている「派遣社員あすみの家計簿」は、主人公が自身の仕事や恋愛への向き合い方と、生活レベルや金銭感覚をリセットしながら進むアラサー女性のリスタート物語で、可愛い絵柄で節約や労働に励む主人公はけなげで応援したくなる一方、題名を預かる家計簿ノートの存在は少々弱いし、描かれる期間は契約社員時代より日雇い時代のが長く魅力的。
 家計簿の堅実さと恋愛部分のテーマ消化がこの作品の肝であったはずが、立ち消えのまま幕を閉じており、消化不良感は否めない。
の 本作に話を戻すと、投資について、副業について、育休という名を借りた疑似FIREについて、人類の成長に賭けるポジティブな右肩上がりとショックの存在、稲妻の瞬く瞬間の30日、人類最大の発明、各校に挟み込まれるこれらのテーマは台詞の掛け合いやコラムにより非常にわかりやすく読者に提示され、資産運用における要点や留意点を一つずつ披露していきます。
 現実現代におけるお金についての説明を筆頭に、実践編として文字数が多くなる語りと、豊かな物語性とは相性が悪い。それが漫画×生活トピックにより成功しているあすみの物語とのギャップだ(調べたら原作は小説で、私は漫画のみ読みました)
 ただ著者が志したこの作品の創作性とは、前例や特性の向き不向きを踏まえたうえで、むしろその稀有さが価値につながる可能性はあるし、現に一重にはすでに成功している。
 知識や実力においてプロには勝てない、ただkindle出版やXのような裾野は発信と受信の相互関係が優しい。そして著者は今の時代に必要で価値だと疑わない資産形成の裾野の広げ方の一環や言及の手法に小説やkindleを選んだ。
 読み考えて触れて始まる出会いのきっかけや門戸は、低く優しく温かい方がいい、すべての人とプラスサムゲームをしたい著者の祈りも広がりやすく、その優しさや賢さが、まだ資産形成を知らない層や消極的な層への初歩になりますように、その私の祈りにより本項の起筆に至る。
 書きたいことがあることは幸せで、喜んでいる人がいるのは幸せなのだ。
 不幸より幸せが広がる世界は価値なのだ。それを可能にするXで生まれた本著との出会いが、Xで一人でも多くの方に広がりますように。

「派遣社員あすみの家計簿」青木祐子
人生初書評に引用させて頂いた本作、やっと原作小説読みました。結婚詐欺により口座残高が427円になった主人公が、友人の助言に従い、自炊や節約、日雇いバイトや派遣労働に勤しむ日々。 ガツガツ働く、コツコツ貯める、いつもここから始められる人生の豊かさと個人の力強さの清々しさが私は好きですし、本作には節約生活を彩る可愛らしさがあるのも好み。 楽しく読めます。

上記は2023年10月23日のポストの再掲載になります。
 成り行きで書いた処女書評は、売り出しのための説明と祝福の固さが文にあり、批評や創作性のつもりはないから批判も少なく、パッケージ説明に徹していて、明快だなと感じるし、何より文字数984文字。この簡潔さは今の私にはない愛すべき点だと率直に思います。

 一文目の「本来、資産運用と小説とは相容れないものだ。人生における効率と物語性については私もかつてひどく悩んだ。」という部分が今の私にも響きます。
 本ブログの開設から4か月が経過し、特に4月までの3か月間に「月間1000PV」「Googleアドセンス通過」「Amazonアソシエイト・3件」の達成と共に、佐藤亜紀さんやカズオ・イシグロさんの書評にて、『書けるかな?』の不安と『書けた!』の心地を味わい燃え尽きた感もあります。
 当ブログの本意として、働きながらの読書、読みたい気持ちを迷子にさせない等があるはずでした。しかし資産形成する人生に読書は必ずしも必要ではないし、労働や成果を目指すうえでも文芸に意味はありません。労働の方が自他にとり現実的で有意義への近道であり、文芸読書と思索や執筆作業は自他にとっての空想への逃走ではないのかと、現実を重視する面白みに立ち返ってしまい、文章や創作性との乖離が生まれているなと感じます。

 「派遣社員あすみの家計簿」を挟んで少し前から三冊・三作家さんの作品を読みましたが、どれも面白く読めず、面白く書ける気もしなかったため挫折し、私はそのたった三冊で、それに使った時間の無駄さを憂い、何度も立ち返り逡巡する途方もない時間には見覚えもありました。
 文芸は生活とも経済活動とも個人的な成長とも異なる、愉悦や確信の筆致の類であり、実生活や実利の第二価値であり、至高ではない。十代から二十歳前後の私にとっての読書が何であり、働き始めてからの私にとっての文芸読書が何であったのか、そしてこれからの私にとっての文章が何になるのか、本質的に文学が一人や人類にとって何であるのか、私はずっとその筆致を探しています。
 労働や実生活を楽しみ、資産形成で効率や金銭を求める生活をしながら、SNSでの活動や交流もしつつ、当たり外れある読書をして一週間に一度ブログを更新をする、ということのハードルの高さと、それが出来ていたこの数か月の生活が、あまりにも現実的な生活や労働から離れた期間であったのか、文芸読書というモラトリアムと、学生や社会人にとってのその価値について再度懐疑的になります。
 そんな時、当ブログで扱った作品を購入し、久しぶりの読書として投稿してくださっているのを目にして、迷子になっている私の言語を契機に現在まで8冊の本が購入され、それ以上の回数の読書が生まれていることを実感しました。

 次に読む作品が浮かばない読書迷子と同様に、次に書くべき作品が見つからない書評迷子に陥っているだけ。楽しい生活や労働以上に読みたい、書きたいが見つからない、第二迷子。
 作家がその価値を信じて書かず、書評家がその価値を読まずに書かずして、読者が読書と言語を楽しまないことで広がることのない、文学と文章の価値がさらに乏しくなった世界で今、全ての人が迷子である、と仮説する。誰も彼もが文章の価値を信じず見つけられないゆえにその思考は途絶える。思考し、創作し、生活する、言語としての私たちの不安は、絶えず何に至ることもなく、生まれては死んでいく不安と価値の確信の経過に漂う。筆致までの距離や読書は常に試されていて、今回の問題点は選書であると仮定して進む。
 その文章と創作を探して、その筆致を探して、私は迷子になりながら読むし書く。
 きっとこれからも私はこの不安の迷子になる。ずっと誰もくれない答えを探す。
 6月は、辻村深月「傲慢と善良」オースティン「高慢と偏見」で再スタートダッシュをきる予定です。ご期待ください。

→スタート切れず、高慢と偏見で挫折して、梅雨休みから映画レビューに入りました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました