G-40MCWJEVZR 『2666』の著者、逝去した旗手『チリ夜想曲』ロベルト・ボラ―ニョ - おひさまの図書館 あらすじ・つまらない・ラテンアメリカ
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『2666』の著者、逝去した旗手『チリ夜想曲』ロベルト・ボラ―ニョ

文芸作品

 『双眼鏡からの眺め』と同様に、二十歳前後の私が挫折した小説の一つに『2666』という大長編があり、十年以上前なので内容は全く覚えていないのだが、そもそも読み進めていてもこれはいったい何が書いてあるのかがあまり理解できず、筋も追えないし覚えていられないしで大変だったが、今回ラテンアメリカへの回帰として思い出して調べると1100ページもあったらしい。ほとんど異常だ。

 本冊子の解説でも触れられているように、大多数の共通認識としてラテンアメリカ文学におけるガルシア=マルケス以降で名前が挙がる著者としてロベルト・ボラ―ニョの名前はよく聞いて、著作の中でもエンタメ的なイメージのある『野生の探偵たち』(上下巻)に比べ、『2666』はそのページ数だけでなく、構成やテーマモチーフも並々ならないものを感じて手に取ったのに、その作家の覚悟の長編さに、当時の私はまったく歯が立たなかった。
 謎の作家アルチンボルディについての考察、多視点を通して描かれるアメリカと国境を隣するメキシコ北部の街サンタ・テレサで発生した未解決の連続殺人事件、第二次世界大戦の東部戦線で起きたユダヤ人の虐殺、そしてまたサンタ・テレサの連続殺人事件へと回帰していく構成になっている、とのことだがそのあらすじを読んでも、虐殺事件と退廃した街の様子まではおぼろげに思い出せるも、読中は何がなにやらわからなかった。本作の読後感としても同様だ。


 本作はセバスティアン・ウルティア=ラクロワという名のカトリックの神父が、死を前にして己の人生を回顧し懺悔する一人称で描かれ、語られることと語られないことを含んだ謎の多い人称により記述されている。私が著者の文章を素直に追って理解できない理由の一つに、そこかしこに飛び火していく思考の突飛と執拗があるし、それを脇道や迷宮に例えたり、堅牢で無駄のないマルケスの作風の緻密さと比較する読みもあるとの解説を読んでも納得したし、私は詩との相性も良くないのでボラ―ニョは詩の人であったということに少し納得したのだが、思考実験の体を持った表現を思わせる文章は、単純な描写や今日的な小説の体裁を持たない。本作も146ページに渡る中篇であるが、改行もかぎ括弧による台詞も存在しない。

 その中で、詩の文体、執拗な脇道、人称の狭さと複数で描き上げる作風、ある意味で政治的かつ切実な現実と隣り合わせで重ねて作り上げる所の作者の世界観的な文芸文学の存在、それらがあるのかなとは思ったが、読了できなかった大長編と本作のみでは判断がつかない所であるから、そういう読者やそれ以前の読者からしても、どのようにこの作品と作者を扱っていいものかの手助けに、本作にも小野正嗣氏と訳者・野谷文昭氏の解説が役立つ。

 直接的な関係はないだろうが、本作の最後の一文にも、一つ前に読んだガルシア=マルケスの『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』の一編目に置かれた「大佐に手紙は来ない」の最後の一文にも、”糞”という単語が秘められており、偶然にしろ面白い幕開けだった。
 ロベルト・ボラ―ニョは1953~2003年のチリ、ガブリエル・ガルシア=マルケスは1927~2014年のコロンビア、これ以降に作家がいないわけでもラテン文学がないわけでもないし、私が知る拙い範囲の作家が二人というだけで、しかもチリとコロンビアだから本質的には全然違い、日本と韓国位の違いだと思えば、過去と現代のラテン文学の広大さにめまいがする。
 解説にて「長編小説は迷宮であり、短篇小説は砂漠だ」とのフランス人作家パトリック・シャモワゾーの言葉があり、その意味は良くは分からなかったが、広大な砂漠と迷宮の奥深さの永遠をラテンアメリカ文学に感じるし、一つの大陸でさえそれなのだから、世界旅行の無謀さに今さながら怯え始めている。

『百年の孤独』の後に書かれた『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』G・ガルシア・マルケス
一九八二年のノーベル文学賞がガブリエル・ガルシア=マルケスに決まった時、当時五十四才の現役でしかも世界的人気作家ということが大きな話題となった。一九六〇年代に起きたラテンアメリカ文学の世界的<ブーム>の頂点となったのが、魔術的リアリズムの作...

 例えばもう一人、マリオ・バルガス=リョサ(ペルー、1936年~)もまたラテンアメリカの高名な著者であると思うが、その著作の中で私が好きな作品として、ドミニカ共和国の独裁者トゥルヒーリョの暗殺計画をモチーフにした『チボの狂宴』(2010年作品社、八重樫克彦・由貴子訳)と、池澤夏樹文学全集で初めて著者の作品を読んだ時の『楽園への道』(2008年河出書房新社、田村さと子訳)は画家ポール・ゴーギャンとその祖母で社会革命家フローラ・トリスタンの物語をモチーフにしていて、虚構性の快活と緻密さのガルシア・マルケスとも詩情性と執拗さで政治性や体制的暴力に対する文学性を貫くロベルト・ボラーニョとの違いは明白だが、似通う部分は感じる。
 多くラテンアメリカはその地政学的に独裁者や軍事政権のテーマや体感が避けられず、例えば欧州でいう所のペンとパンの価値観におけるジャーナリズムのようなものが、南米では暴力と文学の戦いが文芸シーンにあるようなイメージが私にはしていて、それはどちらも現実と知性や真実性との戦いとしては同義だし、つまりは人類的な要素としては同様に思う。故にラテンアメリカ文学は強いし、虚構性の強さが増すし、ある意味で読まれなければ始まらない強さを知っているようにも思う。
 ロベルト・ボラーニョの中編である本作にも、アジェンデ政権に対した1973年9月11日のピノチェト軍政を中心モチーフに据え、荒れながら流れたチリの姿があり、その只中に生きた作家で妻、批評家、秘密警察と地下の尋問部屋、落ちる名声と信頼、不安、見て見ぬ振り、その人、そして文学。
 全体の構成にも文章表現にも難を感じるし、やはり全体は冗長ながら中盤以降のエピソードの連なりや鮮烈さの語りは魅力的だし悲哀も感じる。好みかと言われたらそうでもないが、中編が読めたのでもう一作読みたい気はする。
前回『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』と同様に訳者と解説を務められた野谷文昭氏の筆があまり乗っていない感じもし、やはりこれは作家の代表作や真価の一冊ではないが、一つの著作列の愛しさと手がかりなのはわかる。

 思い付きと脱線の連続ばかり、というと怒られそうだが、ここのエピソードの論理的なつながりや必然性がよくわからない。その点で、「大統領とか大司教連中とのおつきあいが嬉しくてたまらないのだ」と揶揄していたことからもボラ―ニョがおそらくあまり評価していなかったガブリエル・ガルシア=マルケスの作品とは対照的だ。一九五三年生まれのボラ―ニョらの世代にとっておそらく目の上のたんこぶであり、劣悪コピーにならないためにもその影響力からいかに逃れるかが重大な課題であったと思われるガルシア=マルケス。「マジック・レアリズム」と呼ばれる、奇想天外なことが現実の同一平面上で繰り広げられる手法は彼の代名詞だが、とことん自由奔放な書き方をしているようで、ガルシア=マルケスの小説は細部に至るまで緻密に構築されている。機能重視の建築さながら実は無駄というものが一切ない。すべてが計算し尽くされ、あらゆるエピソードが、いや、すべてが、しかるべきところにぴたりと収まっている。
 (省略)
 文学は不都合なことを見えなくする夜でしかないのだろうか。
 だが、その夜を罪悪感に苛まれる不眠の夜に変えるのもまた文学である。ウルティア神父と彼に対峙する「老いた若者」には、文学の不振と文学への信頼によって引き裂かれるボラ―ニョ自身の二つの側面が投影されているのかもしれない。(省略)
 文学と悪という問題は、ボラ―ニョ作品を貫く問いだった。政治の暴虐に対して、歴史の暴力に対して、沈黙を強いる力に対して、はたして文学には何ができるのか。ウルティア神父なら、首をすくめて黙り込み、見て見ぬふりをするだろう。(省略)だが、「老いた若者」は、それが文学ならば、そんなものはいらないと言うだろう。(省略)「老いた若者」は、ボラ―ニョは、歴史に裏切られ、たとえひとりぼっちになっても、たとえかすかな声であっても「否」と言い、そこからたぶん文学ではない新しい言葉を語りだそうとするにちがいない。

解説 沈黙を眠らせない為の夜想曲  小野正嗣

「都会と犬ども」マリオ・バルガス=リョサ
ネット上で散見される攻撃的な困ったちゃんから、何も獲得出来なさそうなチー牛こと弱者男性などのバーチャルから、現実的な愛しいあの人まで、全部ひっくるめた全ての男性への憐憫と慈愛の一考が止まらない一冊!

 次はリョサの『世界終末戦争』、イザベル・アジェンデの『エバ・ルーナ』(精霊たちの家)、そして他冊子から拾えた現代的な誰かを読む予定ですが、果たしてどうなるか。

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