女性の労働意欲と金銭感覚ほど個人差があるものもないだろう。
本書は、結婚するからと会社を辞めるも、それは軽度の結婚詐欺で、貯金残高を使い切ったために資金繰りに困り、生まれて初めて家計簿をつけたり、キャベツと卵で節約料理を作ったり、日雇いバイトで半月後のカード引き落とし額をなんとかクリアしなければならない、と奮闘する二十八歳の女性の物語だ。
私が初めて書いたある書評に引用させていただいた本作を、私は漫画でしか通読していなかったため、いつか読もうと買っておいた文庫六四〇円。楽しく読んだ。
本作はそんな千円単位での出費や収入に、一度でも本気で向き合ったことがある人間には面白く読めるし、そんな経験とは無縁のはずだった主人公女性が転がり落ちる恋愛の罠や、金銭的な機能や奮起については、味合わなければそれはそれで幸せだけれど、その清貧や力強さがなんの誰の役にも立たないとは言い切れない、現代は女性にとってもそのような時代になりつつある。
本作の主人公は有名企業の事務で正社員勤務をしていたし、貯金もある程度はあったようだが、イケメン結婚詐欺師の、結婚後は僕のカード、結婚前は君のカードで支払いを分けた方が分かり易いなどという謎の言葉を信じて、結婚準備のための支払いを自分のカードで行い、新居となるタワーマンションに移る前の仮住まいの家賃は女性の口座からの引き落としにしており、なぜか男のスマホ通信料金まで彼女の口座から引き落としにされていたりして、退職金50万円を含めた口座残高も気づいたらほとんどなくなっており、家賃九万二千円の為にキャッシングで十万借りた、という冒頭から始まる。
似たような女性の転がり落ちた先での物語には本ブログでも扱った畑野智美の「神さまを待っている」が浮かび、あちらは二十六歳、こちらは二十八歳、若年層の女性の貧困を描いているはずが、雰囲気は全く異なる。
畑野智美の生産性のない甘ったれな主人公を導く物語と、本作のあすみの労働意識や金銭感覚は趣が異なるし、基本的に本作は労働と節約に満ちた建設的な貧困物語を描いている。
似たような作品性としてはコナリミサト著「凪のお暇」が思い浮かび、あちらは漫画原作からドラマ化されたものだと記憶しているが、節約意識と自分らしさ、女性にとっての恋愛や自我との挌闘や自立、選択と自活が描かれていた印象だが、漫画原作は未読、未完だそうだ。
類似作品の中でも本作の主人公は、行動力や活力の意味でとても魅力的に感じる。
「キャッシングした十万円、手を付けずに次の家賃にまわしなよ。で、手持ちの五千円で米を買う。コシヒカリじゃないよ、5キロくらいで、いちばん安いやつ。残りでキャベツともやしと卵を買って、一か月持たせる」
「栄養取らないと体壊すからね。日給もらえるバイト見つけて、収入あったら小遣い一万円抜いて、残りは次の家賃と光熱費、キャッシング返済分に全部回す。買うのは食料とトイレットペーパーのみ。三か月我慢したら失業保険か再就職手当が入ってくるから息つけるでしょ」
「マスカラは論外。アイスを買うお金があったら豆腐を買え」
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「ここ払っとくからって言ってくれないの?」
無駄だと思うが言ってみると、仁子は露骨に嫌な顔をした。
「悪いけど、そういうことやってたらきりがないから。あたしが出したお金でカップラーメンやアイス買ってほしくないし」
「カップラーメン、おいしいよ。なんでいけないのよ」
「おいしいわよ。便利でおいしくて、考えなくてすむから癖になる。でもお金がないなら袋ラーメンに野菜とお肉入れて、自分のドンブリで食べて、洗い物までやるべきなのよ」
まずあすみにはその主観的な価値観にダメ出しをしてくれるまじめな友人がおり、客観性を保ち、建設への意識がある。どのようにしたらいいのか明確過ぎるほどの指示を出してくれる、働けと言ってくれる。助言はくれてもお金は貸さない、いい友達だ。
本作の主人公は常に周囲に誰かがいる。人生最大の困難を相談できる友人の仁子は旅行会社勤務を経た現在はフリーのアテンドとライターで活動的に海外と日本を行き来している。日雇いバイトで出会うフリーターのミルキーは派遣先がなかなか決まらず落ち込む主人公を身銭を切って励ましてくれるし、同じ職場で出会ったが絵画展などのバイト先を紹介してくれた深谷さんは実はファイナンシャルプランナーで「自分のライフプランはほとんど立て終わっているから」と周囲の心配をしておせっかいを焼く。そんな周囲の人々が主人公に対し親切なのがご都合主義に思われないのは、基本的には主人公は悪意がない素直な性格をしており、可愛さを重視する選択判断の天真爛漫さや、彼女自身も周囲に対しての優しさや思いやり、一定以上の生真面目さで自分の人生を歩んでいる精一杯さを感じる、その点が「神さまを待っている」の主人公とは異なる好感度の違いだろう。
しかしこういう素直な女性も恋愛や男性を相手になると騙されて利用されるのだから、根本的なコミュニケーションや損得の利害は奪い合いであり、与え愛や譲り合いで成り立つ女性同士のコミュニティやコミュニケーションとの違いを感じる。
この点では同じ作者が描いた「若葉荘の暮らし」にも登場したモチーフである、女性のコミュニケーションやその親和性などに共通するかと思う。本作でもいくつもの女性の人生の類型を描き出しており、それが主人公の物語と関係する。そのどれもが不安定で可愛らしい主人公のあすみとは異なる要素ではあるが、それぞれの深みと安定感のあるエピソードになっている。
主人公は結婚詐欺にあい、会社も寿退職したので新たに就職活動をするが派遣先にすら断られる、悲壮感が漂うはずが本作にはそういう悲しい雰囲気はほとんど出てこない。自分で生きていくことに取り組む主人公は、アメニティ配りなんて仕事ではないし誰かに見られたら恥ずかしいと思いながらも、せっせと日雇いバイトに励むし、手作りのお弁当を持参する。シートマスクは買えないけどパックはしたいからとティッシュペーパーで代用する、友人の旅路のお供に手作りスコーンを渡す、結婚詐欺の元カレが隠していた古本を売ってお金を得る。遊ぶお金がないから図書館に行き、食費節約のための自炊が続き、交通費を節約したいからとなるべき歩く生活をしていたら自然と痩せたと喜ぶ。痩せていつもよりちやほやされるが、お肉が食べられるならと食事会にも参加したため男性は友人に譲る。最初は落ち込むも、派遣先に断られたのはエクセルスキルが低いからではないか、と習得講座に参加する。
可愛いものが好きで、綺麗に自分を繕うことも好きだし、おしゃれなカフェでゆっくりするのが好き。けれど目標達成までは我慢したり言われたことはまじめにこなし、次はどうすればいいのかの打開策もきちんと考えて尽くせる。家賃の支払いに困っても、性産業に触れるのはだめだ駄目だと首を振る。現実的な指針という友人や状況に叩き直されてからではあるが、堅実な考え方や行動力で実践していく姿には好感をもつ。
お金を貸してくれる友人、性別を売った商売、生活費を出してくれる恋人、そういたものは本作には登場しない。自分なりの方法でコツコツとした節約や、性別にかかわらず行える労働のみでガツガツと活動していく主人公は、話を追う毎に頼もしくなり、しっかり貯める、しっかり働く実直さがある。
ご褒美ランチやカフェよりも、まずは自炊と手作り弁当、既成の高価な家計簿よりも自分で線を引いて好きなように書き込める自由度の高い百均のノート。日々の収支を確認しながらバイトに励む最低限から、派遣会社のプランナーさんと相談しながら定期雇用の模索もして意識的に行動していく。リスタート、今はまだ何もない、ここから始める、という現状からの向上と成長推移がコツコツと分かり易い清々しい状態が、個人的に好きなテーマがあるのも私が本作に好感を持つ理由かもしれない。
人は生まれた限りに生きていくしかなく、それは基本的に自分の力によるので、その生き様の生命力は力強くて豊かに感じて好ましい。「神さまを待っている」では描かれなかった、最悪に落ちる前に出来ること、自分で人生を立て直す自活と建設性があり、自分で人生を生きていく力強さが個人には必要だし、自分のお金で飯を食う、そんな自分だから誰かに何かがしてあげられる、という活力が本作にはある。
原作小説では友人にクレジットカードを折れと言われてからもカード支払いをしていたり、序盤の明確な路線変更や気持ちの切り替えは漫画の方がはっきり描かれているが、終盤の恋愛要素では原作小説のがテーマがはっきりしており、漫画版では主人公はまだやり直したい気持ちが前面にあって、恋愛的な主題や自制に対する主人公の価値観に曖昧さが残っていたように思える。
漫画は絵柄の可愛らしさと序盤の金額計算の部分が分かり易く、クレジット―カードも割とすぐに折るので建設生活への切り替えははっきりしていて活力を感じるのだが、終盤の完成度は小説のが上だ。ミルキー、仁子、派遣プランナーの矢野さんなど、いくつもの女性の人生を描きながら、彼女たちとの出会いから関りまでの中で主人公の成長を感じさせる配置と創作を見せてくれる。
漫画三巻と文庫小説一冊、コスパは小説に軍配が上がる。個人的には、絵柄の可愛らしさと主人公の可愛らしさがマッチして、節約生活を楽しむ明るさがある漫画の魅力が印象的で、お弁当のきんちゃく袋だとか、余裕が出てきたのが分かる描写として登場するシートマスクのパッケージや、成長してから週ごとの生活費を管理する封筒などが共通してネコのモチーフが使われていたりして、イラストとしての付加価値も感じる漫画版の方が魅力的に感じる。序盤は原作の昇華には十分達していて、そのぶん終盤の恋愛要素は原作では完成されている成長と女性の主題のテーマを揺らしている分、残念に思う。
漫画版は三巻で小説一巻のプロットで幕を下ろしており、小説は二巻からナンバリングされ全四巻で完結している。
著者の作品列にある「これは経理では落ちません」もシリーズ化・テレビドラマ化・漫画化がされており、原作小説は累計で100万部以上という過去の数字は拾えました。現代におけるライトノベル的な商業展開としては順調といっていいのでしょう。本作も可愛らしい女優さんを集めてドラマ化したら絶対魅力的だと思うのですが、いかがでしょう。
文芸は静謐であり雄弁ではあると思いますが、デジタルの時代にあってはやはり静かで色彩がなさすぎますから、人の中に響く近さになるまでの能動的な働きかけや商業の感覚はやはり必要な積極性だと思うので、その近さまで届けようという姿勢と結果は評価に値するのかなと思います。
現代における貧富の格差、労働意欲と倹約意識、資産形成の格差や能力、節約して働いて得られるもの、労働や倹約に懸命になって得られるもの。
主人公がそのままセレブ妻になり、不安も苦悩もなく暮らせていけることは、間違いなく女性の幸せの一つだろう。両親、家庭環境、友人、同僚、職場関係、恋愛、恋人、結婚相手、それらに恵まれて不自由も困難もなく幸せになれたら、それは間違いなく幸運だ。
苦労すれば価値とは言えない、しかし幸運は運に過ぎない。
本作の主人公は明らかに騙されたと分かってからも元カレのスマホ料金を払い続けているし、顔がいい結婚詐欺師が再び訪ねてきても寄りを戻せるのかもしれないと期待する。しかし質問や意思表示に気を使い、彼の顔色や言葉尻に気兼ねして、彼の機嫌を窺うしかなかった。けれど、本作の出会いと成長の物語を経た主人公は、友だちの精一杯の気持ちを大事にすることが出来るし、友だちの為に怒ることも出来る、友人の為に力になることが出来るし、貸し借りを良しとせずに堂々とすることが出来る。自分の人生を、自分で決めることが出来る。
自分の上位互換の人間の庇護のもとで甘さを享受する生き方には気楽があるが、他人の機嫌や感情の意思判断に左右される人生よりも、自分の機嫌や行動や頑張りが反映される日常や人生の方が楽しいと思う私は、他人より自分に左右される人生の方が力強く明確だと思うのだが、勿論幸福は他者との関係や言動の間に生まれることだとも思うのは、主人公が関わる周囲の人間との関係に恵まれたことからもよくわかる。
他者は自分の人生へのより豊かな加点要素に他ならない。それが減点要素になった時にも、少なくとも自分の人生の基本はいつも残る。私はいつも基本的にはそちらの話がしたい。そんな個人と個人が関わる舞台のこの世界は、それゆえに誕生と交流の価値があるのだと思える。
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