スウェーデン映画を初めて観たし、「マネー・ショート」の次に「ロッタちゃん はじめてのおつかい」を扱おうとしていた本ブログや私の幅について可能性を感じざるを得なかった時期はあったものの、パンチが足りないかとレビュー更新はしなかった。本稿の下書きを思い出したのは、前回『おばあちゃんのごめんねリスト』の中で引用・オマージュで利用された『はるかな国の兄弟』や世界的な児童書『長くつ下のピッピ』の著者アストリッド・リンドグレーンの著作を眺めていたら、『おばあちゃんのごめんねリスト』の登場人物の名前を見つけたからだった。
映画化もされた『幸せなひとりぼっち』により現代スウェーデンでヒットメイカーとなったフレドリック・バックマンが、自国スウェーデンの児童書の女王の作品を読んで育ち、オマージュにも使用して謝辞をそえたと思うと、その文脈と系譜は可愛らしく愛おしい。
ブリット-マリとブリット=マリーの違いこそあるので、具体的にどう関わるのかは『おばあちゃんのごめんねリスト』の登場人物による続編『ブリット=マリーはそこにいた』を読まなければ断言できないが、誰もにこれは私だと思わせる普遍性を持ったHerやItな気もするし、誰も彼もがかけがえのないいびつで愛しい個人のような気もするような、そんな普遍的な作品だった。
スウェーデンの小さな町に住む15歳のブリット-マリが学校同士の交流として繋がったペンフレンドに向けた無数の手紙の形式をとって綴られた全編は、これ見よがしな作為性などなくとも、一切の無駄なく描き出された感情豊かな少女の生活や感情や初恋や家族との思い出と友情の詰まった日々を次々と手紙の一部一部から届けてくれる。
正直言うと、本作も単独で読むと1冊で印象的だったとは思わずパンチが弱いのだけど、ラストには情感があるし、想定読者の限界値もあるし、形式がそもそも15歳の少女が友人に宛てた素直な内面吐露であるために、その筆致の限界値も存在するために、これが精一杯だろうと思う。
普遍的で時代と先鋭性を持った個人のペン先だからこそ、その素直な喜怒哀楽がこそ愛らしいタイプの小説だ。
正直私は、児童書を愛読したり図書館に通うような小学生時代を経ず、外で走り回って遊ぶタイプだったので児童書には弱いのだけれど、今回読んでみて、主人公が15歳とまず少し年かさであったことからして、本作『ブリット-マリは ただいま幸せ』が児童書の範疇であるかというところに疑問を持ったりもする。しかしそれだけに本作は言葉の使い方やプロット性にも富んでいるし、少女の自我や初恋、家族や同級生との交流や愛、たった200頁にひと季節を通じて少女が喜怒哀楽する慌ただしさの中でしっかりと成長して遍歴をして行く様をその筆致から読み取ることの出来る、普遍的な意味での文学性がベースにあるので安心しで読めるし、本作至る所に女性でもまずは仕事を持つこと、子供が安心して暮らせる世の中になる必要性、本を読む楽しさや魅力、誰かを愛して毎日を楽しみ騒いで暮らす幸せ、等の要素が控えめながらもちりばめられていて、解説で触れられるような著者の個性とはこういう所なのだろうなというのに安心する。
のちにスウェーデンの国民的作家になるアストリッド・リンドグレーンのデビュー作の産声、それは37歳ですでに子供もいた主婦だった彼女が「子供の本の女王」と呼ばれるまでの始まりの一冊。国際アンデルセン賞を含めた数々の賞を受賞するに至るそうですが、作中で言及されている幻の”ノーベル文学賞受賞”とはならなかったようで、その部分の回想と共に語られる解説も必見。
著者が作家デビューを果たすきっかけになった本作は、懸賞小説として出版社が企画したものに当選をしたそうで、まだ弱小だった出版社がリンドグレーンの著作と彼女を編集者として迎えてから大きくなった逸話もあるそうでそれもまた面白い。編集者生活と共に作家人生を駆け抜けた著者は『長靴下のピッピ』『やかまし荘』シリーズ『ロッタちゃん』シリーズ、『名探偵カッレくん』などなど。
徳間書店より出版された本作は、閉じられた冊子まできれいに保管されており、編集部の上村令さんの言葉が印象的でした。
いい子どもの本とはなにか、児童書に必要なものは何か、ということを考えるたびに、わたしの頭に浮かぶのは、リンドグレーンを初め何人かの作家の作品です。リンドグレーンには、明るく前向きで、エネルギッシュに人生を肯定する姿勢と、子供の寂しさや悲しみを自分のことのように感じとり、寄り添う姿勢の両方があり、読むたびに元気づけられる気がします。彼女の作品は世界中で一億三千万部以上読まれているといわれます。~一億人以上の子どもの「面白い本を読む幸せ」が、十五歳の女の子ブリット-マリの幸せから始まった! というわけなのです。
「ロッタちゃん はじめてのおつかい」
(Lotta 2 – Lotta flyttar hemifran)
(1993年)
児童文学作品を原作として製作された映画で、「ロッタちゃん」シリーズの映画化としては第2作だそうで、原題はそれが分かり易い。
ロッタは両親、兄と姉と暮らす5歳の女児。家族の一員にもう一匹、ブタの縫いぐるみのバムセがおり、ロッタはこの縫いぐるみを大事にしているのだが、ある朝バムセが兄と姉に殴打される夢を見たロッタは、きわめて不機嫌に目覚める。そこに母から着心地の悪いセーターの着用を強要されたため、母とも対立する。家族に対する不信感を抑えられなくなったロッタは、家を出ることを決意する。
5歳児ロッタの激しい自己主張と、彼女を受容する周囲の人々の生活を描く本作は、3つの短篇を組み合わせて「初めての家出・初めてのお使い・初めての活躍」という感じでまとめられている。一編目では確実に一番幼かったロッタが、二編目・三篇目では徐々に兄と姉の幼稚さが目立つ中で活躍を果たす部分が微笑ましく、末っ子らしい要素で勝ち誇る感じが虚構的にも面白かった。
汚らしいブタのぬいぐるみのバセムが全編に渡って目立っており、一編目では母親とのケンカの発端になりながら最中も寄り添い、二話目ではクリスマスツリーを運ぶそりに「バセムはここに乗せるね」と大事に乗せてもらったり、三編目では頼まれたごみ捨ての生ごみ袋と間違えて、隣の家で風邪をひいている老婆への差し入れのパンと一緒に入れたバセムの袋をごみ箱に捨ててしまい、一生後悔する様が描かれる。子供心と必ず一緒に存在する少し大きくて抱っこに適するぬいぐるみの存在価値は全世界で共通するのだなということがよくわかる、私も汚いウサギのぬいぐるみをずっと大事にしていた。
ロッタに対する周辺住民の対応も微笑ましく、隣の家の老婆も優しいく物置を貸したり、風邪なのに不出来な家事に付き合ってあげたり(ここは女児の思いやりに満ちている感動的な場面)、そりに木を括りつけてあげる売店夫婦や、クリスマスの売れ残り商品をあげる引っ越し間近の菓子屋の店主、ごみ収集者のおじさんとのエピソードなど、地域で子供を可愛がる風景に羨ましさもあるし、虚構創作だからではあるが、あんなに可愛い女の子が、夕方や夜にさえ一人でさんぽすることが可能な治安にも色々思わされるところがある。
微笑ましい作品ではあったが、これと言うほどはなかったのでレビュー記事は書かずにいたが、リンドグレーン著作を眺めていて思い出したので日の目を見ることに。
公式サイトは綺麗だし、説明部分にも愛を感じた。
>『ロッタちゃん はじめてのおつかい』(1993)の日本初公開は2000年、恵比寿ガーデンシネマで動員8万人、興収1億2000万円を記録する大ヒット、その人気を受けて同年6月にはシリーズの善作にあたる『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』(1992)が公開。2作品で20万人を動員し、3億円を超える興行収入をあげて2000年屈指のミニシアター・ヒットとなり、映画に登場する人気キャラクター・バセムのぬいぐるみも大ヒット商品となりました。
>スウェーデンからやってきた世界一ふくれっ面の似合う女の子。
2000年に日本中を幸せと感動で包み大ヒットしたスウェーデン映画”ロッタちゃん”が帰ってきます。「長くつ下のピッピ」で知られるスウェーデンの国民的作家リンドグレーンが産んだもう一人のスーパーヒロイン、五歳の女の子のロッタちゃんと彼女の相棒、ブタのぬいぐるみのバムセが巻き起こす愉快なエピソードの数々。
~何気ない日常が紡ぎだす幸せの花束のような2本の傑作が、日本の映画館を再び笑顔でいっぱいにします『ロッタちゃん はじめてのおつかい』と『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』
普段利用する図書館の児童書コーナーに今回初めて行ったのだが、近くで子供が本を読んでおり、時刻は夕方だったので、お母さんの帰宅時間までここで時間をつぶしているのかなとか、早く帰らなくて怒られるのかなとか思いながら心配もしたが、熱心に本を読む横顔をしばし眺めてしまった。
帰宅するときに横目に『レ・ミゼラブル』なんかも見つけてしまい、また来たいと思った。本棚を眺めるだけで読みたい本が次々見つかる、そういう読書体験がここでたくさん生まれてきたのだろうし、これからもそうであって欲しい、と貸し出しカウンターに向かった。
おひさまのランキング登山、こつこつ
登頂まで応援よろしくお願いします🌞
↓1日1クリックまで🌞
小説ランキング
コメント