G-40MCWJEVZR 現代においても小説家の才能は文学より軽いのか?『骨狩りのとき』エドヴィージ・ダンティカ - おひさまの図書館 移民・ハイチ・ドミニカ・とるひーよ
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現代においても小説家の才能は文学より軽いのか?『骨狩りのとき』エドヴィージ・ダンティカ

文芸作品

 歴史の勝者が書き上げてきたものの裏側にある本質や私的な物語による祈りというモチーフを文学は好きだ。
 個人的に「トルヒーヨ時代のドミニカ共和国におけるハイチ移民労働者の掃除的虐殺」「骨狩りというタイトル」などの外側の予備知識やイメージから本作を重い作品かと思っていたが、読み終わってみれば作者の小説家としての才能が目立ち、むしろ文学的には軽く感じられた。
 自分が書くべき物語を持っている作家は強いし、それは使命的で、それこそがその作家の文学性だと思う以上、彼女には彼女のモチーフや主題があるはずで、その力強さが文学性にまでとどく可能性はあるとも思うし、以下示す受賞歴でこれだけの評価をされている以上、マイノリティ文学以上に誰かの文学的価値に敵っているのだろうとは思う。ただその主題性がなんであるか、創作的癖や好みなども1作読んだだけでは何とも言えないのでも何作か読んでみるために、翻訳後作品がいくつも見つかるのはありがたい。
 若い頃の作品は表現技術は拙いけれどその作家のモチーフやテーマ性が見えるものだと思うし、つまり本作は題材性的に可能性はより高まるはずが、それらよりも作家的才能やセンスが目立つというのはこの時点ですでに彼女が作家としての特性に磨きをかけていたということになり、文学的というよりは創作性に秀でており、その作家的特性は重く読みづらいものでは決してない。
 出版デビューは1994年で25歳、著者は1969年生まれの現在56歳、本作は29歳ごろの作品。結構高齢なのが意外に思ったし、華々しい経歴に対し、その後代表作らしいものが見つけられないのが不安。

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 本作の冒頭は豊か、まだ幼そうな主人公の豊かさと、彼女が暮らす屋敷の温かさを感じる。
 ハイチ系移民のアマベルは女中として奉仕する奥さまの出産にただ一人で立会い、その夜双子の男の子と女の子の命を取り上げる。陣痛の知らせから道を急ぐ祖父と嫁婿は夜道を急ぐあまりに車である事件を起こし、その後ドミニカとハイチの国境近くのサトウキビ栽培の盛んなその地域が見舞われる1937年の悲劇を通して歩くアマベルの長く厳しい夜が始まる。



 同じ夜に命が失われる事故が起きるその中、交差するようにして生命の力強さを表すときに新生児の誕生を使うのは分かり易いし、同時にこの場面が女中と奥さまの連帯感や秘密の作り出しになるし、とてもうまい場面から始まる。本作の主人公アマベルがお世話になるドミニカ人の富裕層や軍関係者の家庭がどのようなもので、その守られた平穏がどのようなものであるのかの提示が自然となされていく。
 それと共に肌の色の鮮烈さ、黒人文化、階級社会、どうしても超えられない人の内側にある差別や特権についての意識の強さは長く現実で日常に染みついたものであり、ドミニカに住むハイチ系移民という特色、超低賃金労働者が働かされる危険なサトウキビ栽培畑や、恵まれた奥さまのもとで平和に暮らすアマベルの身分も女中であり、彼女の肌の色が奥さまに生まれた子どもとは違うということも明確に示される。

 そして最後まで読み通しても、やはりここが本作の普遍的かつ現代的要素だったし、マクロでみると本作は独裁者による政治的狡猾で戦略的なパフォーマンス的虐殺であり、その題材をしてミクロで描かれるのは急襲された最下層の名もなき弱き者たちの儚くも明確な叫びであり、その選定は古典性としては在りがちで、そこをどのように文学性にまで高めて個別の意義や個性を持つかが本作の創作性の要点になるはずだった。助産師やサトウキビや骨狩りやナタなどのモチーフやパセリの意表などは、モチーフ集めや配置の上手さに小説家的才能や裁量を感じるし、特にサトウキビ労働と骨狩り、パセリと浄化作戦と発音の重ね方は抜群だろう。そのあたりの史実的素材の扱い方の上手さや軽やかさが素晴らしく、だがそのモチーフを持ってして本作が描くのは、名もなき個人が打ち出す生命感に留まり、個人的には弱いと感じてしまうが、別に著者は文学的な作品を書こうとしたわけではなく、史実とされるものの裏側に追いやられた弱き者の声やその絶望を蘇らせる祈りとして書いたのなら本作はその通りに書かれているので、特に何の問題もなく感じるが、文学作品としては勿体なく感じた。
 翻訳文ではあるが、文章が書き慣れているとは感じないし、文芸的な形式も稚拙、その意味で文字で味わう魅力も薄弱だが、言い切る強さと着眼の豊かさはあるので目を引く文章がないわけでもない。
 文学を目的とすれば文芸や創作技術的なことは手段になるし、商業として考えれば現代の小説家の才能は目的ともいえるし、それらやこの作家がどのように文学や文芸を担っていくのか、は展望。

p64>ジョエルはサトウキビの生活から解放されて幸運だと彼が考えているのが、私にはわかった。サトウキビの生活、つまり土を耕して骨を収穫する生活から
~「ときどき、サトウキビ畑で働いている連中は、疲れて怒りがこみ上げてくると、われわれは親のない民族だという」と彼は言った。「われわれは鍋の底にこびりついた焼け焦げの汚れだ、という。人間の中にはどこにも属していないものがいるが、それはわれわれだ、と」

p213>最後の息で、彼女は「ぺシ(pesi)」と言った。道沿いの畑や青空市場でそれを求めているかのように落ち着いてゆっくりとではなく、天の面に向かって、無意味な行為の持つより大きな意味とは何なのだと問い質すようにでもなく、まるで命乞いをするかのように懸命に「ペレヒル(perejil)」というのでもなく。愛と言え? 愛? 憎しみ?私に語って聞かせて。世界がまだ本当には理解できていないことを。一羽一羽の鳥の鳴き声の瞬時の意味を。母の胎内にいる子供の密かな思いのことを。小さなことの中にあるより大きな奇跡のことを。より深い神秘のことを。でも、パセリ? それは、それがよくつかわれ、とてもありふれて、いつでもいくらでもあって、小枝を欲しいと思う人は誰でも手に入れることができるからだろうか?私たちはパセリを、食物に、お茶に、お風呂に、身体の外側だけでなく内側を洗うのにも使う。恐らく総統も、もっと大きな次元で、同じことを彼の国の為にしようとしているのだろう。
 総統の心は死と同様に暗いに違いないけれど、オデットの「ぺシ」を聴いていたら、ぎょっとしたかもしれない。彼が予期していただろう涙でも懇願でもなく、抑えこむことをやめた恐怖から発せられる叫びでもなく、長髪、挑戦、高飛車な反抗だったから。あんたの世界、あんたの草、あんたの風、あんたの空気、あんたの言葉なんかどうでもいい。あんたが私にペレヒルを要求するんだったら、私はあんたにそれ以上のものをお返ししてやる。

p234>私は父が、葉っぱと温かいラム酒で満たした瓶を詰めたタップサックを持って急ぎながら、出産へ、あるいは臨終へと、どうすればそれを促すことができるか、あるいは押しとどめることができるかを考えながら、よく言っていたことを思い出した。「不幸は、やさしく触れることはない。いつも、その人の上に刻印を残す。ときにはほかの人々が見られるように、ときにはその人だけにしかわからないように」

 歴史的出来事としての本質は今日更に移民問題として読めるし、その普遍性や本質を掴んで形に出来ていたら物凄く輝いた。主題性が時を超えるというよりも、本作がやはり虐殺や不慮の事故のモチーフにより生死を分かつ恋人や親子への感覚と、残された者がどう受け取って生きるのかその部分にのみ注視していて、本質の断片はあるのに、それ以上には形成していない作品性としての部分が残念なのかなと思う。
 ただ勿論のこと、作者本人や歴史的な当事者が出来事に対して感情的であることは仕方がないことだし、基本的には本質は客観性からしかつかめない気もするので、本作は別に間違っていないし、けれども文学性として見た時に本作が弱いのは、結局は文学は情動ではなく本質的に何を書けるかであるということを感じた。情動の部分のみで突き抜けることもまた文学性に行けた気もするが、本作は筆致をそのように向かわせておらず、そこはむしろ小説家としてのバランス感覚が邪魔をしたのかなと思うくらいに、本作は素材集めと創作のバランス感覚が見事で、逆にどこにも偏りがない。そのあたりが小説家と文学者を分けるのかなと思ったりもするし、それならば商業と本質も違うことになるので、個人的にはそのあたりはまた違う話になるので今は深追いしない。

 この大虐殺は総統トルヒーヨが国民主義意識に染まった脳や打算で軍事政権を指揮した上での暴行に過ぎなくも見えるし、歴史はそのようにして簡単に暴挙に出るし、善良や良心はそれを止められないように見えるし、その意識さえ長年の慣習や生まれ育ちで判断がつかずに染まっているのが人権や特権意識であり、特に時代はまだ1930年代の南米、この堅牢な舞台設定がモチーフとして優れていると言うと不謹慎だとは思うが、これほどまでにテーマ的な題材もないと感じてしまうのは、きっと私の悪い癖だろうとはわかる。後に引用するように解説にて触れられる、同時代の同一人物である総統トルヒーヨをモチーフにしたバルガス・リョサの『チボの狂宴』が私は好きだし、その理由は、テーマモチーフの着眼だけでも作家の創作的センスだと思うからだし、文学性のほとんどはその時点で路線を決定するようなところがあると思うからで、あとはその何を深掘る筆致がどこへ届くのか、の部分が作家の実力だと思うからだが、その部分が本作は何とも不自然だ。
 少し逸れるが、リョサの『チボの狂宴』に対抗して書かれたというジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』もまたトルヒーヨ政権下のドミニカを描いているが、本作のハイチ系移民側からの視点でことを読んだのは初。作家同士は優れたモチーフの奪い合いや自負や使命感かもしれないが、読者としては複数読めて嬉しい限り。ジュノ・ディアスのそれらに関しては以下記事の中盤にあり。読み返すと、ディアスはドミニカとアメリカを行き来、ダンティカはハイチとアメリカを行き来、この辺りも現代性を感じる。

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 まず前提として、著者は小説家としての資質が抜群だなと感じる。前例のように、勝者やドミニカ共和国の軍事政権の計画的な殺戮の内側にあったただの個人の物語として落とし込む普遍モチーフの選定と、それにまつわりその視点を最下層のサトウキビ畑で働くハイチ移民(自国では貧困により暮らすことが出来ずに川を越えてドミニカに移りすんできた)に置き、主人公を女性でドミニカ共和国の特権階級の良心的な家庭で奥様に大事にされる女中のアマベルと、その恋人にサトウキビ畑で働く男性を置いた、その視点と属性の配置はスタンダードだが外しておらず、具体的な喧騒を生き抜く彼らを描ける。そしてサトウキビと骨というタイトルと労働や生命のモチーフ性も濃密、個人的には虐殺事件の内側の叫びを書きたいと言うよりも、ひどく冷静な創作的選択によるところにすら感じる。
 終盤の、自身がアマベルであるのだと奥さまに信じさせるための場面は、ある者の死を最初は疑い長年の間に信じ言い聞かせて諦めてきた生者からの視点において、奥さまの胸の内から死者を見た時の反転を使ってその他多くの類似の再開の場面と重ねる、その不確かさや超えることの出来ない時間の流れや記憶の愛おしさのようなものが作為的で素晴らしいと感じた。
 死んでしまったとアマベルが感じて見つめてきた大事な者たちの死と、どのように向き合い、受け入れることができるのか、という個人的テーマは作中何度も彼女の夢や独白の中で行われ、幾度となく迷い、諦め、霧散してきた希望の深い悲しみの塊になってくる。生者としての自分が他者である奥様にどう見られ、或いは信じさせることができるのか、の邂逅の場面であるし、単純にはアマベルが自分の生涯や発端を語る原点回帰と本質の語りと表明の場面でもあるから、ある意味で実質的には滝の場所を聴くためにだけ思い出した奥さまが、物語的には大きなエピソードになり、落着へと運ぶのも良い。

 本書の現題「The Farming of Bones,Penguin Books」は、直訳すれば「骨を栽培すること」となる。サトウキビの硬い茎を借り入れることを意味する口語表現だということであるが、ここでは、「土を耕して骨を刈り入れる」すなわち「土を耕して、その重労働のあげくに畑が差し出してくれる見返りは、目に見えるとおりの豊かな作物ではなく、実は人の目にはそうは見えなくとも、労働者たちの骨なのだ」ということである。

訳者解説

 骨狩りのとき、という日本語訳のタイトルも良い。骨折り損的な、その心身や骨の髄まで尽くしたとしても見返りはわずかである、としたサトウキビ栽培における労働や、その収穫の時とそれ以外の無の時間を指しているが、勿論人と思わぬ大量虐殺も重なるし、この骨やサトウキビやそれを刈り取る際のナタや事故や深い傷というのは本作の根底に絶えず流れ続ける低音のモチーフとして機能し、この重さが本作のメインイメージを深く重くしている。
 貧困や肌の色や差別意識などは重いテーマではあるが、本作は多くに触れ過ぎず、ほとんどが失われた命や、モチーフとしての骨やその塵や墓などの個人的な生命や愛おしさや悔恨にページを割いているし、多く描写と言うのはあまりなされない。一文の強さはあるが、重いモチーフが重く感じられないということは表現力の問題になるのか、この辺りが不思議な作品だなと感じる。
 基本的に歴史的題材をモチーフに、しかもそれを弱者の側から描く場合は、どうしても筆の重さが読みづらさにも、居た堪れなさが虚構創作的な魅力にの重しになりもするが、本作はその小説的な才能による、ある意味で軽さや魅力さがあるのが不思議な所だ。
 それは重要なモチーフや発音テーマでもあるパセリであったり、冒頭の誕生や、奥様と女中との再会や未来へ続くモチーフやそこにある両親や自我の薄っぺらさであったり、息子のいい相手である女性に対する2人の母親の普遍の優しさであったり、コーヒー豆を繋いだブレスレットであったり、自分のその三粒を植えて旅立つ彼女であったり、かつての屋敷は居を移し様変わりし光り輝くような未来を歩いて来たかつての赤子であったり、レジスタンス的な仕事をする現代の彼はあの同じ虐殺の中で父親を失ったモチーフを重ねながらも今明るく暮らして他者に力も貸したり物語の終着へを助けるし、それら多くの素材を均等に扱いながらきちんと集約させている。箇所の書き込みが足らないと感じさせるほどに重みを持たない物語は、その題材にしては読みづらさもなく、閉塞感はあるがどこか読みやすいし、いい意味で創作的で、その豊かさは重さを逆に魅力的な要素にしている節があるが、逆に奥深さへの手引きはしていない。

 そしてもう一つには、著者の興味やその筆先が向かうのは、歴史的虐殺のスケールでも、その内的テーマである差別や階級でもなく、誰と誰の区別の存在しない生と死と親や子や愛しい誰かといった普遍性に感じる他者を思う気持ちにのみ焦点を当てており、多くはその喪失や事実に対する克服や消化がテーマになっているから、確かに普遍的で道徳的な要素が交差したりする。ここが視座が低くなっている要因だろう。

 本書『骨狩りのとき』は、一九三七年に起こったドミニカ共和国におけるハイチ人移民大虐殺の史実を題材としている。二〇一〇年十月十二日にハイチを襲った大地震の報道で知れ渡った通り、ハイチは西半球の最貧国である。だが、そのハイチはまた、一八〇四年、アメリカの奴隷制度廃止より六十年も前に、奴隷制を廃止し、フランスからの独立を勝ち取り、世界初の黒人共和国となったという輝かしい歴史も持つ。しかし、独立の代価はあまりにも大きく、フランスからの独立の承認と引き換えに支払うこととなった巨額の賠償金は、ハイチ経済の繁栄の機会を恒久的に奪うこととなった。
 物語の始まりは一九三七年のドミニカ共和国、ハイチとの国境近くの町に設定されている。当時のドミニカ共和国は総統・大統領を頂点とする軍部が支配するヒエラルキー社会であり、底辺にはドミニカ人貧困層があったが、さらにその下に位置していたのが、自国で生計を立てられず仕事を求めてドミニカに流れてきたハイチ人移民労働者であった。
 ドミニカからのハイチ勢力の一掃を図る人民主義製作を推し進め、国土と国民に対する自らの支配力を強めて独裁体制を固めようとするトルヒーヨの対ハイチ人政策展開の発端となったのが、この時の大虐殺であった。
 作品中に引用されているトルヒーヨの言葉に如実に表れているドミニカ人のハイチ主義民族意識形成の歴史は、コロンブスのイスパニオラ島到着の植民時代にまで遡る。十六世紀以降イスパニオラ島は、スペイン人がクレオールと奴隷を支配する形で治められてきたが、十八世紀にフランスが島の西側を植民地とした。海賊を基盤に強力な力を誇ったフランスに対してスペイン側は政治的・文化的独立を保とうとしたが、このときにドミニカの強力な民主主義が生まれた。この後は位置による占領期間を含めて隣国は位置との敵対的確執の中で、「白人(誇り高きスペインのコンキスタドールの子孫、またたとえ肌の色が濃くても絶対的に黒人ではないとされた)、カトリック、スペイン文化」で定義されるドミニカ人と、「黒人(野蛮なアフリカ奴隷の子孫)、ヴ―ドゥ―、フランスの薄皮を被ったアフリカ文化」で定義されるハイチ人を区別し、ハイチ人を蔑視する民主主義思想が、自らの権益保持のために大衆支配をもくろむエリート階級によって確立され、その徹底的喧伝によって、ドミニカ人民の反ハイチ感情が煽られていった。
 ハイチ人の祖母から受け継いだ肌の色を明るく見せるためにパンケーキで化粧をしていたと言われるトルヒーヨは、ヒトラーの人種思想に傾倒し、民族浄化のためにこの大虐殺を決めた。しかし彼は、批判をかわすために、自分の偏執狂的人種差別主義を、自国の民をハイチの脅威から護るための「ハイチ人問題」解決作戦として強力かつ効果的に展開した。そしてそれは、搾取に喘ぐ貧困層ドミニカ人たちの不満をハイチ人移民たちに向けさせたい富裕・エリート階級の思惑にも後押しされて、ついに成功裡に断行された。
 わずか数日の作戦で殺されたハイチ人の数は、二万人から三万人に及んだ。しかしながら、この貧困層ドミニカ人の不満を吸い上げるための「民族浄化」作戦であったハイチ人移民労働者の虐殺では、同時に、失われた大量の超低賃金ハイチ人労働力を新たに供給することでハイチの支配階級も利益を得ており、ハイチ政府からドミニカ政府への断固たる講義もなく、国際的な非難を受けてドミニカ政府が支払いに応じた犠牲者への補償金も驚くほど微々たるもので、それでさえほとんどがハイチ政府関係者の懐に消えたと言われている。
 なお、トルヒーヨ時代のドミニカ共和国をテーマにした長編小説としては、二〇一〇年にノーベル文学賞を受賞したペルーの文豪マリオ・バルガス=リョサの『チボの狂宴』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社)がある。

訳者解説 佐川愛子

 労働階級の価値観、ドミニカ人の主人、ハイチ系の使用人、家事も従来は使用人が労働としてすることであったが現代的には無くなってきているが、現代では職業貴賤は無くなってきているとはいえ潜在的に全くないとも言えない、このあたりも時代を感じさせるが逆に普遍的で現代的なテーマ。
 そこからの資本主義、雇用関係と労働者、能力と成功と金銭の拝金主義。しかしどこまで行っても現代もまだ社会主義的要素や政治的な不可解や特権は残っているし、ハイチ政府が黙認した理由には賠償金の着服や労働者の供給により潤った政治的な判断という部分が古さと現代性の両方を感じるし、結局政治性は各国まだ結構その程度。このあたりからは、現代的な主題や文学性の進む先という感じもする。地域性をまだまだ残したまま、画一的に近く現代的に均されてきた現代や今後は、どんなモチーフと主題性が見て取れ、創作されるようになるのか、やはり世界の狭さと広さ、そしてその均一化は魅力あるテーマ性だなと感じる。
 その中で、小説や虚構創作の技術がどうなり、商業的にも大衆文化的にも小説が何を映し文学が何を吸い上げるのかを私は見たいけど、今作で改めて作家的技術や才能による出来栄え、それとは異なる位置にある文学性についてまた考えた。過去の文学史的名作が、当代における商業や一般大衆的にどう評価され成功してきたのかはよくわからないけれど、その享受や堪能の意味で一般化してきたとは思わないし、その公的な成功と学術的な成功の違いや隔たりはきっと続いていくのだろうし、けれどその撚り合わせ無くして上手くいく未来が見えないのは、所詮私が現代に生きて読んでいて、今までもそのような平行線のままきただけで、つまりだからそんな現状は変わらないのかと思うと、私はそれが不満だし不安だ。

 主人公の特技である産婆的能力と裁縫能力のうちの前者を使ってほしかった気もするし、後者を選んだのであればもう少し使ってほしかったが、唯一奥様と自分の生きてきた手を見比べる部分にのみ生きた場面では後者を選んだ意味はあったか。古典的だが、手を見て人生を感じるのは象徴的な場面。
 主人公はそれ以外にも身体的欠陥があるように描写されていたし、それ以上に重い人生があったのは言うまでもないが、モチーフとしては普遍的であるし、反対側にある奥様の人生の軽さ、かつて匿ったし出来ることはしたと罪悪感を飾りながら、それでもアマベルを近しく思う現在の寂しさを本質にしつつ、守られ恵まれて何も味わっていない彼女が、平和の中で何を思い何に至らずしてさえ、その平和は誰しもが夢見て求める、何に傷つけられることのない平穏で安心には違いない。
 重さを知らない軽さも幸福、という普遍性がある気もする 。虐殺を知らない歴史の方がよかったし、襲われずに逃げ出さずに奥様と恋人と平和に暮らせたら良かった、そのように思えば別に本作が文学的な重さを持たなくてもいい気がしてくるし、歴史的な虐殺を優れたモチーフなどと言うふざけた私も存在しなくなるし、小説家としての才能一辺倒で面白い時間だったと単に言えればそれは幸せな読書だし、何も知らず何も読まない人生も気軽な幸せだということになる気もしてくる。
 しかし起きてしまったし、一度知った傷は取り返しがつかず、世界や人生は変えられてしまったとすれば、何が幸せなのか、その上で存続や実態の価値はどうなるのか。きっと著者は別に意図していない所で、ふと感じ入るものはあった。それは人類も歴史も文学も読書も同じ、普遍性でくくれる。

著者1969年1月生まれ
Breath, Eyes, Memory (1994)『息吹、まなざし、記憶』
The Farming of Bones (1998)全米図書賞
Krik? Krak! (stories, 1996)『クリック? クラック!』全米図書賞の最終候補
The Dew Breaker (2004)『デュー・ブレーカー 』全米批評家協会賞、ペン/フォークナー賞
Claire of the Sea Light (2013)『海の光のクレア』
Everything Inside (2019)

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