G-40MCWJEVZR 思考停止の快楽「人間性の放棄と回復」〜皆消費者社会における希望とは?〜 - おひさまの図書館
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思考停止の快楽「人間性の放棄と回復」〜皆消費者社会における希望とは?〜

働く読書習慣

 受動的にて「考えなくていい」ことに甘えて脳を無思考に浸せる時間の愛おしさは、日々のストレスから解放する現代的な怠惰ともいえる。資格勉強をしなくちゃいけない、読書がしたい、なのにふとスマホに手が伸びてSNSチェックをして、スクロールを繰り返す。
 自分の思考を空白にしたい甘えと、意識的な瞑想によるリフレッシュ。対極に位置する思考ゼロ時間の好悪と心理的循環、その違いを頭で理解するところから始める私たちは、もうすでに脳的な報酬快楽を知っている。現代病たる習慣や逃げ場の概要と仕組み、メンタルや人生に与える非生産性、個人や人生、人類や世界に与える希望と可能性の余白とは?

 

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「思考停止の快楽」と「意識的な思考の休止」

 脳や心理は基本的に楽をしたいし、疲労した脳が求めるのは、決断の回避と自己否定の免責であり、単純作業や動画視聴が脳機能に好まれやすいのは「選ばなくていい」「失敗したくない」 「評価されない」という特徴を持つため。
 人間の脳は、認知的負荷をかけ続けると消耗するため、デフォルト・モード・ネットワークが活性化する「何もしない時間」「反復とパターン認識で処理できる行為」に快楽を感じる。(=その行為によって報酬=ドーパミンを得られればそれが一番好み=ゲームや動画)
 楽を求める無思考は自立性の放棄という意味で脳のハイジャックに近く、意識的に思考を手放す瞑想は意識的な観察という自律性を保ち、両者はデフォルト・モードネットワークを活性化する点では同様ではある。
 「人間性の放棄」とも言える思考停止に対し、マインドフルネス(瞑想)は、資本主義的な加速社会の中で「人間性の回復」として導入される一方、企業の生産性ツールとしても取り込まれ始めている(GoogleやAppleの導入事例など)。
 自己改善ツールとしての瞑想が市場化される逆説、自身による意欲的な改革、積極的な休息や、自尊心が高まる積極的な行動が、徐々に個人にとっての価値であることが見直され、ビジネス化されてきているのが分かる。

1」 思考停止(意識を奪われた無)
 疲れている時、なぜか自然とYouTubeやSNS、スマホゲームなどのコンテンツに無意識に手が伸びる。「考えたくない」「何も感じたくない」状態に陥った脳が、受動的刺激で即時的な快感を得ようとする。多くが短期的な快感と注意分散をもたらす。
結果:思考の代わりに消費する時間と精神
 ・ベッドで寝ながら3時間スクロール
 ・ゲームの報酬ループに依存
 ・気づいたら夜になっていた…
  (翌朝早く起きる能動的計画がつぶれる)
得られる効果:一時的な「現実回避」「報酬系の刺激」
      :難しい思考を回避し、脳を“ラク”にする
失う価値 :生産性・自己効力感の低下
     :情報過多による疲労の蓄積
     :「回復した気がしない」虚無感
 
2」瞑想・マインドフルネス(意識的な無)
 ・疲労や雑念から自分を切り離し、今に集中する
 ・目を閉じ呼吸や身体感覚に注意を向け、反応を抑える
 □3分の呼吸瞑想(朝・昼・夜)
 □音楽なしで歩行し、思考をゼロにする
 □思考に気づいたら手放す習慣(脳内オフ時間)
得られる効果
 :ワーキングメモリの回復(情動の調整、集中力回復)
 :ストレスホルモンの抑制(コルチゾール低下)
 :自己観察と自己理解(メタ認知、内省反復=成長)
継続の難しさ
 :即効性に欠ける
 :無気力状態では始める気力が湧きづらい
 :効果は継続によってのみ顕在化する

■両者の違い、脳と精神に与える影響
 観点 :思考停止の快楽(受動)
     意識的瞑想(能動)
 刺激 :ドーパミン過剰刺激
     セロトニン、GABAによる安定化
 長期的影響:脳の報酬系の鈍化、ADHD様注意散漫
       前頭前野の強化、集中力の改善
 メンタル :感情回避→回復しない
       感情観察→処理される

マインドフルネスが個人に与える影響の好悪
 観点   :思考停止(逃避的受動)
       瞑想(意識的能動)
 短期的満足:◎瞬間気持ちよく、簡単に実行できる
       △効果を実感するまで時間がかかる
 長期的成長:×習慣化すると判断力や想像力が鈍る
       ◎事故認識力・集中力・創造力が育つ
 生産性  :△脳がだらけた後、一時的に回復錯覚
       ◎実際に集中力と作業効率が上がる
 批評性   :×思考停止は批評力をうばう
       ◎自己や社会を見つめ直す土台になる 

資本に嗜好させられる快楽

 思考停止的消費者行動は、資本主義的アルゴリズム(SNS設計・ゲーム設計)によって注意と感情の収奪を目的として設計されているため、「自らの思考を手放し、資本に思考(嗜好)させられる快楽」とも呼べる。他者による翻弄の結果、課金要素・資本主義の中で溺れたネズミになる脳内エサによるデブ化ともいえるが、思考ゼロ習慣の社会文化の中では批評性も育ちづらい。
 スマホゲームや動画視聴は「逃避的な休憩」であり、疲労の回避にはなるが回復にはつながりにくい。瞑想やマインドフルネスは「回復的な休憩」であり、少しずつ心身のバッファ(余裕)を増やしてくれる。一応どちらも脳の休憩だが、方向性と帰結が違う。

 生産性もなく自己肯定感も増えないどころか自己効力感を低下させ、自己嫌悪と非生産的な自分が増すばかり。自身の利益にも他者への貢献にも何にもなっていない、と頭ではわかるが、難しい思考を回避して脳を楽にする、は生命としては正しい。挑戦をしない・思考から逃げる、新たなタスクへ立ち向かわない機能は脳や人の運動性を妨げるが、一瞬の安息をくれる。(→ワーキングメモリを0にしたい=脳への負荷、読書も筋トレもしたくない
 個人最小の脳や心理で言えば、考えたくない・失敗したくないミクロ機能としての私たちは、一時的な現実回避や報酬系の刺激を、思考の放棄によって簡単に得ることが出来る。ドーパミン的快楽と興奮の報酬に関して言えば薬物などと同様であり、自分のためにも貢献のためにもならない時間だけど、どっぷりつからされる(=消費者側として受容する)
 ゲームにおけるバーチャルサクセスの意味と、マーケットが仕掛ける消費者ドーパミン漬けなどはマクロ経済としては繋がる。(脳内快感は現実と仮想空間を区別できないのだとしても、資本主義は金銭を受け取れるから別にそれは構わない。⇒社会的ラットレースと批評性と関わる

 ここにきて、個人的趣味が消費する時間と増幅する幸福は、例えば推し文化や文芸も横断し、マクロで見た時の誰のための何になっているのか、という視点が出てくる。
 多くの人がマクロで見たら労働者であるように、多くの人はマクロで見たら消費者であるので、ここはある程度仕方がないのだけど、趣味として楽しむ領域から、依存や個人がいつまでも消費側に患って発揮的社会貢献に尽くせない所、批評性や生産性のある個人に回したくない社会や構造があるし、消費社会において大衆大多数をそのままにしておきたい資本主義と市場性、という視点がまずある。

 自分の頭を快適なゼロにし、素早く音の鳴る膨大なネットワークの中に暮らしていたい私たちを、消費行動に落としたまま個人を消費したい資本側、という構図からは「労働搾取のラットゲーム」と「知的搾取のラットゲーム」が見えてくる。(→前々回のこちら
 大衆個人のお金と時間と思考を奪いたい体制・資本・搾取側の構造と、そのようにして成熟した社会や市場が労働を求め、個人に娯楽を提供することで体制や加速を継続していく価値観からは、生産性としての女性や妊娠出産育児家事に消費していくことに繋がる恋愛活動が女性にとっての消費であり搾取であるという視点が生まれる。
 三者三様のそれぞれに無知無能でいてほしい構造、それぞれと共通項からの主題とは?

三者三様の無知で消費的なラットレースは、それぞれ異なる文脈に属しながらも、共通して「主体性を奪われ、無自覚なまま消費される個人」という構造を孕む


①労働者としてのラットレース

 会社や巨大資本が個人の労働力を搾取し、「出世・安定・生存」などの幻想の中でひたすら働かせる構造。主体性より従属性、自由より労務、幸福より制度への適応。労働が「幸せに生きるため」でなく「制度を回すため」に変質する。会社や巨大資本が個人を労働者として消費するラットレース。

「コンビニ人間」村田沙耶香
主人公は36歳、独身、女性、コンビニでアルバイトをしている、その歴18年。 「推し、燃ゆ」「星の子」に続いて発達障害気味の主人公がまた一人。読書再開後手に取った5冊中3冊に出てくるとは現代の小説の主人公は発達障害が流行りなのかしら、と思って...
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直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?のテーマ企画に、真っ向から反論する2022年の受賞作『しろがねの葉』。処女作からの作品的昇華、作風的な大成功を目の当たりにして成長性に驚いた。作家はこんなにも良くなる!を目の当たりにしてく...

②消費者としてのラットレース

 資本主義社会は、個人を「購買欲・承認欲求」など受動的な欲望の回路に絡めとり、商品や娯楽、SNSによって消費させ続ける。生産性や創造性、知性から遠ざける一方で、「自己実現の幻想」を提供する。労働と消費が循環することで市場が維持される仕組み。資本主義や市場が個人を受動欲求として消費する非生産的非知的ラットレース。

「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ
ブッカー賞・ノーベル賞受賞作家の代表作、そして傑作なんでしょう、私も感動しました。しかし非常に複雑。これを大声で素晴らしいと言える人、すごいな純粋に。それほど退屈で、完成度が高く、疑問符が残る作品。ある意味でこのつまらなさは日本の純文学的なことなのかも?
「クララとお日さま」カズオ・イシグロ
 人工親友であるクララは14歳の少女ジョジーに買われて、彼女のAF(artificial friend?)になってからの大きく小さな冒険と、ジョジーの長く短い10代を描いた作品。  ノーベル文学賞受賞作家であり、「わたしを離さないで」の作者

③女体のラットレース

 恋愛・結婚・妊娠・出産・育児・家事という一連のプロセスを、女性の自然な役割で幸福であるとして内面化・外面化させ、性的商品化や感情労働を搾取する構造。社会的報酬(承認・所属・安心)を提示しながら、再生産装置としての女性性を維持。家父長制的秩序と資本主義が交差する領域。①②それら成熟した社会が大衆個人を消費するままにしたい現状と、先進国で女性の働き方から少子化に繋がる構造を比較し、③家父長性的な男性優位社会における女体の恋愛妊娠出産育児家事による消費するラットレース。

アジア人女性初のノーベル文学賞作家の描き出す地域性、精神性の文学「菜食主義者」ハン・ガン
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主体性の剥奪、構造とテーマ

「制度的搾取」各種社会制度(会社、資本主義、市場、家父長制)が個人のエネルギーや人生を回して消費するために設計されている。
「主体性の剥奪」意思決定・自己実現の力を奪われ、選ばされる形で人生を進める
「幻想の提供」出世、消費、恋愛・母性などが幸福として提示されるが、搾取の道具としての機能を持つ。
「無知・無自覚の維持」教育・メディア・文化が、構造的矛盾を見えにくくし、思考停止を促す。
「労働/消費/再生産のループ」三領域が相互に補完しながら個人を「資本の維持装置」に閉じ込めている。


 個人の欲望を制度が設計し、意図的に「消費・労働・再生産」へと導く社会の構造的暴力、欲望装置としての社会が見えてくる。それらの中に管理された自由であり、自律幻想の時代における無自覚な従属として、自由を謳う社会が巧妙に個人を走らせるしくみを備えているという皮肉な形も浮き彫りになる。
 人が生きるための時間や労力、感情、身体が、制度のために収奪される構造は生を奪う装置になり、生きることの構造的消費が主になる。知らずに消費される自己、制度的主体性剥奪の三形態は、無知・無関心を前提に設計された社会制度が、性別・役割・生き方に応じて異なる「従属形式」を個人に課すことを明示する。
 これらの構造に知性が介入することで「主体性の回復」がありうるが、気づかないことこそが搾取の最大要因であり、教育・文学・芸術はその対抗手段となりうる。
※特に③においては、フェミニズム的分析(例:エヴァ・イリュズ、ナンシー・フレイザー)、①②においてはマルクス主義的・ポスト資本主義的視座(例:バイウンチュールの社会、マーク・フィッシャーの資本主義リアリズム)が有効、とのこと。


 この構造の外に暮らすこと、構造を壊すことは社会的にはもう難しい。その中でどのように生きるのか、或いは恵まれた構造の中で生きられるのならば幸せだし、個人の判断・判断するだけの理知感であること、或いは判断したうえで選ぶ権利や自立を持つこと、が人間性の回復であり自立であり、社会的な構造の中で生きる個人の選択であることが分かる。

 刺激的な世界、思考停止を望む疲れにより引きずり回されたその世界にあって、成熟期における娯楽の多様化や労働の重責化が生物的な営みを和らげる、社会秩序の中の偶発等としても並べられる気もする。成熟した社会が個人をどのように消費し、労働者・性別的役割・大衆的他人と自己がそれぞれを消費する社会構造が、その娯楽や労働が与える自由享受の中で自立性を忘れさせられているのだとすれば、同時に生殖の自由や貢献の生産性を放棄して自分の人生すら空虚に消費している、という選択にも映る。
 ここで大事なことは、「理知感に従事または反応に振り回されているのか」あるいは「認知したうえでの選択」であるのかということであり、後悔する為の選択であるならば幸福ではないし、思考判断した上である貢献や生産性の選択をしたのであればそれも間違いではなく、個人の理知感は尊重されるべきである。どのように生産性を成すかは個人の理知感に託されるべきであり、自分で選択しているのか、選択させられていることに気付かず消費させられているだけなのか、結果的に何を成せているのか、個々の理知感を内包しながら、社会や文明や人類の秩序や維持はどうすればいいのか。ここがジレンマであり、個人の損得を目指す結果が社会のためにならないそれにぶつかる。

私が愛する文学性と構造上のポストモダン『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ
世界文学旅行企画、第二弾はみんな大好きアメリカ!! 本当に好き?現代の中心地なだけで、私はあまり好みではない、でも20歳前後に『エコー・メイカー』を読んで面白かったパワーズは印象的だったので、今回彼の作品の中から『囚人のジレンマ』を読んだら...


 前提条件として、現代社会において消費者であることは不可避である。だがそれを無意識・受動的に消費させられる存在で終えるのか、選び・問い・使いこなす存在になるのかは、知的・倫理的・文化的問いの核心となる。人間が消費者である、という現代の大前提を引き受けつつ、意識的・意欲的に消費することの可能性と妥当性を、文学・哲学・科学・政治の各視点から考察してみる。

消費社会における虚構・文学性の機能

 文学は、消費の内側で人間が何を感じ、どう生きようとするかを描き出す特権的ジャンル。
◆主な問い:消費される人生に意味や美、抗いをどう見出すか?
      消費が個人の物語にどんな影響を与えるか?
      人間関係(恋愛・家族)までもが消費化されたとき、本物とは何か?
◆代表的アプローチ:
 ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』:消費文化に囲まれた日常の不安と死の意識。
 村上春樹:消費社会の空虚と内面性の探求。
 ボラーニョやクズニックなどの現代中南米文学:商業化された文学や人間を自己言及的に解体。

① 消費の内側で人間が何を感じ、どう生きるのかを描く文学とは
▶ 文学の特権性:文学は「感情・欲望・意味・不在」にアクセスするため、表層や概略に留まらず、消費社会の内面を可視化しにくい層(疎外、倦怠、贖罪)として描写できるジャンル。そのために内的ミクロすぎる冗長や非効率性にも繋がるし、内的個人のための社会的な存在を超えづらい側面を持つ。
② 文学性とは何か(なぜ文学でなければならないか)
 文学は言葉のずれ・余剰・象徴性によって、規範的言語(広告・報告書)とは異なる思考の次元を開く。物語は「何を欲望し、何に抗うか」の価値体系の再編成装置でもあり、テクストを通して「こう生きるしかなかったのか?」「別の可能性は?」等を問う。虚構があるからこそ、現実の制度的言説(消費、恋愛、労働)を相対化できる。
③ 虚構性は「嘘」ではなく「別の現実の生成装置」
 バフチンの対話性理論:文学は、単一の意味を押しつけず、複数の価値観や声を共存させる。
 ポール・リクール「三重の模倣」:物語とは現実の構造の理解を変化させる手段であり、消費社会の再構築のイメージを可能にする。

 虚構とは、現実の隠れた構造を可視化し、それを再創造する方法論である、と言えるらしい。
 個人的には、個人にとっての虚構性、人類にとっての虚構性というイメージはあったし、それが社会的な具現や祈りであるところの文学性のイメージが強かったが、存在としての価値で言えば明言的であり、虚構とそのテクストから成る文芸文学は、社会的な1つのジャンルであることの納得がつく。
 と同時に、概略化される虚構性やテクスト性は、個人や社会に与えて存在する解像度にあって、個人から解放する瞑想にも関連し、思考感情の誘発的な装置である以上のものではないこともわかるし、以降の哲学にも関連するが、社会構造の中に生きる個人に与えるもの以上の何物でものない。


ちなみに【哲学】も見てみると、
 哲学は、消費という行為の倫理性・存在論・欲望の構造を問う。
◆主な問い:「欲望」は誰のものか?それは操作されていないか?
       消費するとは「自分が自分を選ぶ」ことなのか、他者に選ばされることなのか?
       消費を通じて自己を形成することは可能か
◆代表的理論:
 ジャン・ボードリヤール:消費は「モノを使う」のではなく、「意味を消費する」行為である。
 ジジェク:倫理的消費(エコ、フェアトレード等)すら資本主義の「自己免罪」装置。
 アーレント:活動(vita activa)の中でも、「労働」と「仕事」と「行為」を区別し、「消費」は人間の政治性から遠ざかる行為として警戒。

科学は「なぜ人は消費するのか」「何に満足を感じるか」を明らかにする

 科学は「なぜ人は消費するのか」「何に満足を感じるか」を明らかにする。
◆主な問い:消費行動は生理的?社会的?どのように習慣化・強化されるか?
      消費による幸福感や後悔のパターンは?
      消費を通じて得られる「自己効力感」や「選択の自由」は幻想か?
◆知見:ダニエル・カーネマン:お金(消費)はある程度まで幸福に寄与するが、記憶の自己と経験の自己は異なる。
   行動経済学:消費選択の多くは「合理的でない」傾向がある(バイアスや感情)。
   神経科学:報酬系(ドーパミン)と消費行動の密接な結びつき


① 消費行動は生理的?社会的?どのように習慣化・強化されるか?
▶ 生理的基盤(神経科学・行動神経学):消費行動の根底には、報酬系(ドーパミン)が関与しており、「欲しいものを得る」→「快楽の予測」→「習慣化」というループが形成される。報酬は期待値に基づくため、「セール」「限定」「タイムセール」などの社会的文脈は神経レベルでも報酬の強化因子として機能する。(腹側被蓋野(VTA)—側坐核(NAcc)—前頭前皮質(PFC)の回路が、消費の欲求や自己制御に深く関わる)
▶社会文化的学習により、消費行動は「誰かにとってよい・ふさわしいこと」として規範化される(例:誕生日にプレゼントを買う)。SNSや広告は「他人が何を消費しているか」を可視化し、比較的欲望(模倣欲望/ジラール)を刺激する。つまり、比較習慣の始まりは情報社会であることから繋がっていて、そこに消費行動へのレールが自然と引かれているのが分かる。
▶ 習慣化と強化:オペラント条件づけにより、消費行動に即時報酬(楽しさ、承認、快楽)が伴えば、その行動は反復される。習慣的消費行動は、脳の背側線条体の活動と関係しており、「自動運転モード」に近い。

② 消費による幸福感や後悔のパターン
▶ 消費と幸福感の関係(経験の二重性)
 「経験の自己」は現在の体験における快楽を感じる。「記憶の自己」はその体験を記録・再構成し、意味付ける。経験財(旅行・ライブ)と物質財(家電・服)では、経験財のほうが長期的満足度が高いことが判明している。(カーネマンの二重自己理論)
▶選択肢が多いほど、人は後悔しやすくなる(バリー・シュワルツ『選択のパラドックス』)理由は、「これでよかったのか」という疑念(機会費用の意識)が満足度を下げるためにある。消費の結果が期待を下回った場合、自己評価や決定能力の否定につながる(認知的不協和)(後悔と選択のパラドックス)

③ 消費を通じて得られる「自己効力感」や「選択の自由」は幻想か?
▶ 自己効力感の条件と錯覚:バンデューラの自己効力感(self-efficacy)は課題達成の見通しによるものだが、現代の消費ではブランド選択や購入の意思決定が、そのまま自分らしさや能力の指標とされがちである。だが、消費社会は選択肢自体を操作しているため、「選んだ」という感覚の多くは設計された選択肢の中からの選択に過ぎない。
▶ 自由の幻想:リバタリアン・パターナリズム(サンスティーン&セイラー)では、「自由に選ばせつつ誘導する」仕組みが社会に組み込まれている(例:ナッジ、UX設計、アルゴリズムによる推奨)。つまり、消費者の自由や自己決定感は構造的に操作可能であり、現代の「自由な選択」とは「プログラムされた自己表現」に近い。

消費社会と統治のメカニズ

 政治は、消費社会の設計者でもあり、監視者でもある、という前提から始める。
◆主な問い:誰が何を「選ばせて」いるのか? → 消費の自由の本質は?
      労働と消費の均衡・再分配はなされているか?
      国家や企業は「消費者」をどう教育・管理しているか?
◆理論・アプローチ:
 ネグリ/ハート『マルチチュード』:生産者と消費者を区別しない新しい政治主体の形成。
 資本主義リアリズム(マーク・フィッシャー):消費社会は「他の選択肢がない」という前提を人々に染み込ませる。
 ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』:災害や危機を利用して市場原理主義を強化し、消費社会の支配を拡張する。


① 誰が何を「選ばせて」いるのか?自由の設計者は誰か?
 政治とは、選択肢の範囲を定義する権力でもある。(例:アルゴリズムによる情報の偏在(フィルターバブル)、教育格差による文化資本の偏在、企業のマーケティング戦略) そのために「消費者の自由」は政治経済的設計の上に成り立っている擬似的自由のことだと言える
② 労働と消費の再分配構造
 現代資本主義では、労働による所得が消費に向かい、その消費によって資本が再蓄積される、二重の搾取構造がある。国家はこの循環を通じて税収や成長を確保しており、「幸福な消費者」であることを前提とした統治戦略(biopolitics)が進行している。
③ 国家や企業による消費者の管理と教育
 ナンシー・フレイザーやピエール・ブルデューは、文化資本や象徴的暴力によって「政治的選択すら消費化されている」と論じる。教育政策・メディア政策は、良き消費者・適応的個人を育てるための装置として機能しており、批判的思考、主体的選択、創造的行動を抑制し、「現状を支持する市民」を再生産する。

 


 以上から個人を消費者に落とし込む構造において、
①資本主義・マーケット・政治が構造を作り
②科学はそれを分析・証明し
③文学や哲学はそれに疑問や体感を呈する
 提示した三分法が現代の「消費者化された人間の構造世界」を理解するために有効な視座になりそうなので、それを整理しつつ、“思考停止する消費者が生きる構造世界”とは何か?

①構造を設計する領域「資本主義(市場)・政治(制度)」

  個人を消費者に変換する構造を生み出すシステム本体。
 資本主義は生産と利潤の拡大を目指すシステムとして、あらゆるものを商品に転換し、市場に流通させることで回転させる。マーケットは欲望や不安などの幻想を受容に変換し、生活と人格を購買行動に落とし込む。政治や制度は労働・税制・教育・保険などの仕組みを通じて、消費者の再生産(次世代の消費者)を安定させる。
 ライフスタイルを設計することで、住居、車、家族、教育、老後不安などを買わせる(消費させる)人生設計として制度化し、市民や労働者ではなく、顧客や利用者として存在させることで主語の転換を図る。思考の無力化を通して、選択肢を“複数の商品のなかの選択”に限定し、思考を“自己の購買力”に矮小化させる。

②構造を可視化・強化・説明する領域「科学・心理学・経済学」

 なぜ人はこう動くのか?を観察・証明する分析機構。
 行動経済学・脳科学の分野では、消費欲・報酬系・選択の認知バイアスを測定・モデル化。社会心理学は、なぜ群衆行動や模倣消費が起こるのかを明らかにし、マーケティング工学においては行動の傾向と予測を数値化し、精密に広告やUI設計に活用する。
 科学の両義性としては本来は中立的な観察知だが、現代ではマーケットに応用されることで、行動誘導の道具となっている。AmazonやTikTokのアルゴリズムは、ユーザーの次の欲望さえ科学的に予測・先回りし、選択すら消費行動に繋げており、結果、人間の無意識の欲望や選択の癖が構造の内部で最適化され、「自由に選んでいるようで、最も予定調和な選択」をし続ける構造が完成する。

③構造に疑問・痛覚・越境をもたらす領域「文学・哲学・芸術」

 構造の“外側”や“内側の痛み”を言語化し、自由や違和の感覚を回復する分野。
 文学は、体験と感情を言葉によって結晶化する。構造の中で見えない苦悩や美、違和感を描出し、読者に「これは本当に自分の望みか?」と問い直させる機会になる。(カズオ・イシグロ『私を離さないで』→消費される存在としての人間への内側からの問い)
 哲学では、概念の基盤(自由/欲望/自己)にさかのぼり、問いの形で構造を破壊する。(ハンナ・アーレント「思考なき凡庸さ」→思考停止による悪の制度的再生産)
 それらの役割としては、既存の構造により感覚が麻痺している諸事に対し、体感の修復として再び「感じる能力」「疑う能力」を呼び戻し、虚構(フィクション創作)により現実には見えなくされた構造の具現を促す(母性の商品化、愛と労働の市場化)。結果、構造に対して言語・感情・倫理の軸を持ち込み、消費者ではなく思考する主体としての個人を回復しようとする。

「思考停止する消費者が生きる構造世界」とは何か?
意識的消費の倫理と美学

 自ら選択していると信じながら、構造的に選ばされている私たちには常に主体性の問題が付きまとい、労働・娯楽・疲労・不安によって思考の時間や自由を奪われ、選択肢を検討する余地がない。SNS的な消費文脈では、語る言葉や疑問の形すら構造に吸収されてしまう(自己実現=良い商品選択)。もっと良くなれるという幻想の連続で、永遠の未完成感と疲労、さらなる向上や欲望が続くことにより、家族・仕事・愛情などの関係性までもがパフォーマンス化・コスト化されることによる疲労感と空虚感がある。
 その結果として、消費者構造は思考する余地の剥奪こそが本質であると仮説する。そしてその構造に抗えるのは科学でもマーケットでもなく、文学と哲学など志向し言葉にする読者としての個人である。
 巨大資本や知的労働階級及び政治的な構造がこそ、個人を思考停止のネズミ・現状を支持する市民、怠惰で思考しない個人に落としておきたい大衆構造からして、単独矮小の個人がその構造を打開していくことの途方もなさが分かるが、同時にそれに対抗しうる意味でも内的な要素は特権的ジャンルであることも分かるし、基本的には構造や制度の問題であり、それら外的を消費し、消費される個人の問題であることもわかる。
 科学は明確に、文学や哲学は思索的に、それらを提示するが、基本的な労働者や消費者たちは、それら知的要素にアクセスすることなく、社会によるレールが敷かれた世界、個人を無知的レールを敷いた世界により労働と生殖と消費でさせたい層によって操られていると言っても過言ではない。

 人間は不可避に消費する存在である。だがその欲望の意識化と、消費の意味づけ・選択・文脈化によって、単なる受動者ではなく、倫理的・美的・政治的主体になりうるが、それは思考によってのみである。思考の放棄が人間性の放棄であり、労働や知的や幸福な人生を無味に消費していく個人への対抗策は、自身で把握・批評・選択して掴むための思考であるし人間性であり、人類性であり、ある意味の文学である。

植物小説と気候文学の違いと虚構創作の完成度『菜食主義者』と『オーバーストーリー』リチャード・パワーズ②
十年ぶりのリチャード・パワーズとして前回『囚人のジレンマ』を読んだが、個人的に趣味絵はないポストモダンについて考えたり、パワーズの作家性に不安になったりしながら、今回は二冊目。 私の杞憂をあっさり覆しながら、主題や志向性が文学性にとっていか...
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