効率や生産性を求める現代において、非効率的な教養という言葉の商業上の使われ方や売れ方に変化があるような気がする。
倫理は歴史を媒介してしか育たないし、人間は希望を持ってしか未来を作ることが出来ない、そのためには、包括的な教養という言葉がもたらす旨味と、他分野を読むときの入門性から考えると、初心者にも読みやすい入門性を2.3冊読んでからがよい、という発想があるが、まずは優しく広範囲を扱うものを読んで興味や土台を作ってからレベルアップしていくことが可能だし、そこだけでも読んだ気になれる満足も手伝う。
以前であれば鼻白む言葉であった感のある「教養(としての~)」という言葉が、最近はまた一周まわって市民権を得てきた感じがするのは、ある種現実的な早さに疲れた現代性とも思えるし、無知の他分野を知る時にあえて包括的な書籍を採るのもまた異なる効率を感じて、興味深いのだが、読書を主体と考える私からすれば、教養としての○○という言葉は文化としても姿勢としても得しかないので、改めて教養ということについて考えてみたい。
働く上で教養なんて役に立たないとか、教養と読書は同一視されることも多いと思うし、これは働く読書習慣とも関連するものかなと思ったりもしますが。
私のブログは読書行為を主体としているのと、今回読んだ本は2019年出版の「教養としての世界史の学び方」なので、教養/読書/歴史、をキーワードに考えてみる。


コスパ・タイパ重視の現代は教養の危機だった
「投資回収の思考」と「教養の思考」のベクトル
むしろ現代だけでなく、もしかしたら人類始まってこの方、常に加速する人間社会においてコストパフォーマンス(費用対効果)やタイムパフォーマンス(時間対効果)という価値基準がほとんどの行動や学びを測る暗黙の尺度になっており、教養はそこから抜け出した特権者の余裕や零れ落ちた者の世迷いごとの余暇や遊びの嗜みのようでいて、生産性や能率などの尺度で教養を測ろうとすると、根っこにある時間の意味が失われてしまうのがそもそもの始まり。
回収を前提にしない知
コスパ・タイパとは、「どれだけ短時間で、どれだけ利益や成果を得られるか」という投資回収の思考である一方、教養とは「すぐには回収できないものを、長い時間をかけて熟成させる」ことに価値を置く。後に触れていくが、歴史・文学・哲学を読むことの本質は、効率ではなく成熟にあり、その知は内側で遅れて効き、ときには10年後、人生の転機や他者との対話の中で、静かに発芽する。コスパでは測れない理由は、成果が人格や判断の深さとして現れるからです。
「タイパ的教養」は、“早く知った気になる”危険の側面があり、SNSや要約動画によって知識の断片を高速で消費することは容易になった現代は、知識の皮だけを舐めて満足してしまう構造でもある。「知っている」と「わかっている」のあいだには、いつも時間や理解という不可視の距離や温度があり、教養とはその時間の厚みや不可解さを引き受けることにある。つまり、価値に成るには時間がかかることを前提に、思考し続ける姿勢のようなもの。

教養は効率の外にある自由
効率性とは、社会的には生産力のための概念ですが、人間は効率だけで生きられる存在では必ずしもなく、それならば機械やAI等のテクノロジーの進化に人間性はただただ不要になっていく合理性や機械製と同様。教養とは、効率の外側に自分の精神的自由を確保する行為であり、「無駄や種を引き受ける」「目的を問わない知を愛する」「すぐに答えを出さず、問いを持ち続ける」などの人間的な知の姿勢ともいえる。
コスパ的知識は世界を使う力をくれるが、教養的知識は世界と共に生きる力をくれる。前者は生産性に役立ち、後者は人間性を耕す。役に立たない知の価値を理解できるという知的贅沢の側面が教養にはあり、すぐには回収できないものだけが人に美しさや豊かさを与える、と気づくところから個々人の人間性が一歩進む、とすら思う。
が、その一歩の余裕が現代人にはないし、働くことで精一杯の社畜人生には思考の余裕よりもお金や時間の余裕がまずほしい。効率の内側、人生の内側で苦しんでいる人間自身にとって、自分の人間性は最低限確保しており、それ以上を求める生物としての余裕はどの時代も結構なかったのだろうとは思える。お金、時間、精神に余裕が生まれて、やっと読書が出来るようになった私は、その辺りのことを最近常々痛感している。


効率化された世界における最後の非効率
現代では「知識=即効ツール」という発想が強く、理解できないもの/すぐに役立たないものが軽視されがちですが、まさにその役立たなさの中に精神的自由が潜んでいて、教養とは恐らく効率化された世界における最後の非効率であり、その非効率を自ら引き受ける勇気のことでもあるように思います。
コスパ社会の中で消えゆく学びの余白、投資思考と教養思考の決定的な違いであり、すぐには報われないものを信じ、味わう豊かさを選ぶということから始まる。
現代人は「役立つ/立たない」「金になる/ならない」「得をする/しない」で世界を測っているので「役立たないけれど、人生の密度が上がるかもしれない」と言われても、目に見えない価値がなかなか図れない。現代性に潜む感度の問題かなと思う。人生の中盤や後半に効いて来るとか、数か月後や明日の自分を変えていってくれるものを自身の価値として上手く捉えることが出来ない。
「教養」という言葉そのものが堅く感じられる人も多い、これが冒頭で触れた鼻白む感覚だが、教養側も「わかる人が分かればいい・わからない人もいる」などといった知的特権的に認識したり誇示して、相互の溝を深め陣地どりもあったりして、感性的に好ましいものとして再定義する必要があり、「品格/品性/人格」「言語化のセンス」などの言葉が現代的に響いて来た流行もあった。
■投資回収型の知(コスパ・タイパ的知識)
目的 :成果・収益・即効性
時間感覚:短期的、ROI(投資対効果)で測られる
成果 :スキル・効率・社会的評価
思考形式:線形的・量的・目的合理的
典型:「この本で何が得られるか?」「読む価値はあるのか?」
■教養型の知(熟成的・非効率的知識)
目的 :人格・感性・判断の成熟
時間感覚:長期的/非直線的、時間に委ねる
成果 :世界との関係性・思考の深度・語彙の厚み
思考形式:循環的・質的・意味生成的
典型:「この本をもっと味わいたい」「これはまだわからないが、いつかわかる気がする」
倫理は歴史を媒介してしか育たないし、
人間は希望を持ってしか未来を作ることが出来ない。
「教養としての歴史」と「教養と読書」は深く結びついていると思うけど、それらはどちらも人間がどのように世界を理解してきたか、という長い時間の継承行為のように思う。
教養(culture, Bildung)は、博識や雑学ではなく世界との関わり方の型であったり知の使い方の姿勢であったりすると思うが、古代ギリシャでは「パイデイア(人間形成)」、ドイツ語圏では「ビルドゥング(自己形成)」とも呼ばれ、どちらも「人間としてよりよく生きるために、知を媒介として自分を耕す」ことを意味する。
つまり教養とは、世界を理解し、自分の位置を理解し、他者と共に同じ生きるために蓄えられる力、のことを指すように思うが、これがなぜ必要/不要論に巻き込まれたり評価軸が不安定になるのか、というところが、現代における市場主義/資本主義/現実主義、等のような主義思想の変換によるしそれはつまり個人内的の価値や真価や真骨頂を求め、理想憧憬や志向性を重視する私の価値観ともどう交わるのか、というところも明確になるように思う。
人類のスケールを獲得し、現代を相対化する
世界史とは、「人間とは何か」「社会とは何を選び取ってきたか」という長大な実験の記録なので、現在という時代の偏りを見抜く思考スケールであり、例えば「国家」「資本主義」「民主主義」など、現代を生きる私たちが当たり前と思っている制度や思想は、すべて特定の時代と文脈の中で生まれた偶然的な産物であり、その起源と変遷を知ることで、「別の世界の現存も有り得た」という想像力を持てることにより現代の常識を絶対化せず、「制度や価値は人間が構築しうるもの」として扱えることが可能になる。この歴史的相対性の自覚は、批判的思考(クリティカル・シンキング)の土台となる重要な知覚となるし、常識も真理も現代も、すべては条件づけられた構築物であり、人類が経てきた歴史にすぎない、という知覚が、現代社会における最強の知的防御となる。
現代しか知らない、自分しか知らない、友達しか知らない、会社しか知らない、専攻分野しか知らない、この仕事しか知らない、その狭さや短さの中で暮らし培うことの危うさと愚かさに対する絶対知は、歴史であり、他者であり、先輩であり、他業界であり、他分野であり、他業種や次の職場であったりするかもしれない、と自分の価値と満足を求める人間性であり生命力が、歴史や教養を求めるということの本質かもしれない。
歴史、特に世界史を学ぶことの現代社会における有価値的4つの観点
観点 得られる力 現代的意義
思考:相対化・批判的思/メディア情報や流行を疑い、自立した判断を下す力
倫理:共感・責任感 /多様な他者と共に生きるための倫理的基盤
社会:構造的理解 /政治・経済・環境問題を「点」ではなく「線」で理解
個人:自己物語の拡張 /人生を人類史の一部として意味づけ、希望を持つ力

歴史とは人類の営み時間の積み重ね
歴史を教養として学ぶとは、人間の時間の構造を理解することに繋がる。
「なぜ文明は興亡するのか?」
「なぜ人は戦い、支配し、また共存を模索するのか?」
「科学・宗教・芸術はどのように社会と影響し合ってきたのか?」
これらを学ぶとき、私たちは過去を追体験しているのではなく、人間という存在のパターンを経過観察していく。歴史は類型を保ったまま繰り返すので、歴史を教養として身につける人は時代や価値観の変化を構造的・長期的に理解する力により、日々過ぎる現代の複雑なニュースや政策、経済を読む上で1つの確かな軸や層を自分の中に持つことになる。
現代世界の因果を読む場合には社会構造の理解が不可欠だが、グローバル資本主義、移民問題、環境危機、AIと労働、国際秩序の不安定化など、これら現代人類社会が抱える諸問題は単独の出来事ではなく、歴史的な流れの結果であり、産業革命・植民地主義・冷戦・グローバリゼーションなど、現代の政治経済構造の“根”はすべて世界史の中にすでにある、ということが分かる。
歴史を学ぶとは、構造的な因果関係を読める人間になることであり、それは単なる過去の理解だけではなく、未来への創造的意思や想像力から成る危機感に繋がるし、歴史的教養を持つ人ほど、情報の洪水の中でニュースや経済指標の背後にある文脈を読み取れる。歴史とは世界の“因果を読む”力の思考訓練やそのパターン蓄積であり、世界史を理解するとは単に過去を学ぶことでも未来を予測することではなく、その背後にある人類的な構造を読み解くことに他ならない。
世界史は、戦争・植民・革命・思想・疫病といった人間の苦悩と選択の連続であり、歴史を知るとは人類が犯してきた誤りと、それを克服しようとした努力を認識し、継承していくことだともわかる。ひとつひとつの時代にあった正義や暴力の構造を理解することで、現代における人権・平和・多様性といった倫理の根拠が見えてくる意味で言えば、歴史教育は人間の倫理的成熟を備える装置でもあるといえるだろうし、過去を知ることは他者の痛みを想像する力を拡張する行為にも繋がる。
それらは出来事を覚えることではなく、痛みを継承することに近い。過去から現代を引き受け、他者や人類がどのように生き、何を誤り、何を願ったのかを知ることで、わたしたちはやっと正義を語る資格を手に入れ、現代を生きている役割を思い出す。倫理は歴史を媒介してしか育たないし、人間は希望を持ってしか未来を作ることが出来ない。
読書とは他者の思考や時代を自分の中に迎え入れる行為でもあること、追体験をする時間の共鳴でもあることは読書習慣の記事でも触れたと思うが、さらにそこから歴史に焦点を合わせると、歴史書や文学を読むことは遠い時代・異なる文化の人々が直面し抱えた問いを、自分の中で反響させることに繋がる。
読書によって教養が形成されるのは、本を通じて自分以外の知覚を獲得することにある。歴史書は人間社会の思考と試行錯誤の軌跡を、文学は人間の感情と倫理の軌跡を、それぞれ伝えてくれる、と仮定することも出来るし、その上で教養的読書とは、知識を増やす読書ではなく人類の問い(=行い)に対して自分がどう応答するか、を育てる読書であり、記憶などの受動的なだけのそれとも、効率や投資効果などの即応性とも異なることも分かる。読書や教養、歴史の中心には必ず人がある。
人類の歴史を学ぶ上で、個人形成の次元として、あらゆる私やあなたという存在も、文化・言語・制度・価値観という歴史という文明の成果の上に立っている。世界史を学ぶと、自分や時代の今を偶発的な出現ではなく人類の物語のひとつの結果であり課程であることがわかる。その視座を持つ人は、短期的な成功や個人的不安に振り回されず、どのように人間として今を生きるかを長期的な時間軸で考えられる可能性が生まれるし、その大局観は個人のコスパやタイパ等の軸で語るものでは確実になくなってくるのが分かる。
テクノロジーと情報が過剰な現代では、速さや即応が評価される一方で、時間をかけて考えることは軽視されがちだが、教養とは本来その遅さや結果の無さに価値を置く営みであり、喜びであり、人生そのものであるようにすら思う。
世界史を読むことで、世界の長い呼吸と接続し、自分の判断を一時代の制限やしがらみから切り離すことができるし、それが次の時代を考える出発点になることもある。教養とは、現代社会の速度に飲み込まれないための知的呼吸法であるし、思考のゆとりを自分で取り戻す主体性のことだと思われる。
教養:世界との関係の持ち方
→情報社会の中で自分の軸を持つ
歴史:人間の時間の理解
→社会や文明の構造を読む力
読書:他者の時間を生きる行為
→感受性・想像力・倫理の拡張
現代:思考のゆとりを取り戻す営み
→速さの時代における精神的抵抗力
長い時間の継承行為
教養や読書を単なる学習や娯楽ではなく、人類の記憶を受け継ぐ営みとして捉えると、
教養とは長い時間を自分のなかで引き受けることであり、私たちが本を読み、歴史を学ぶとき、それは情報の取得ではなく、過去の思考や感情をいまの自分に引き継ぐ行為になってくる。
全く時代の異なる哲学者や詩人や科学者の問いや発見が、自分の中で再び息をする瞬間を味わい、新たな知覚を得る瞬間こそ時間の共鳴であり、教養や読書の本質ではないかと思う。
時間を超えて他者と会話しつづける積極性や姿勢でもあるし、人間がその会話を続けるために発明した最も静かな手段が読書であるともいえる。
世界史を学ぶことは時間の連続性を回復することであり、私たちの世界は今現在しか見えない速度で日々動いているが、歴史を知ることはその背後にある長い連続性を回復することに繋がる。
文明・価値観・科学・文学のどれもが人間が積み重ねた長い時間であり、教養としての歴史とは今を過去から照らし出し、未来への責任と現状として引き受ける認識と主体性に繋がる。
近代の捉え方と現代のダイナミズム
「教養としての世界史の学び方」(2019)山下範久
25>だとすれば、何を「真実」として選ぶのか、どのような筋の配列に説得力を感じるのかは、歴史を書く人間とその歴史を読む人間が属する集団や社会の価値や信念に左右されますし、また逆にどのような歴史が書かれ、どのような歴史が読まれるかによってその集団や社会の価値や信念のかたちも変わります。つまり、特定の社会のかたちを正統化するという点で歴史には神話と共通する機能を帯びるのです。
このような機能を果たすことを目的として歴史が書かれるならば、そのような歴史は当然神話に接近しますが、逆にこうした機能を帯びる可能性から完全に隔離されたところで歴史を書くことは不可能です。実際のところ、例えば中国の歴史の王朝が編んだ正史のように、人類の歴史の中で書かれていた(そして読み継がれてきた)歴史は、多くの場合、むしろ特定の社会のかたちを正統化することを目的としていましたし、近代の国民国家が整備した大学において制度化された歴史学は、後にも述べるように近代国家としての国民の統合と国民的な発展を支える機能を――しばしば明示的に意識された使命として――果たしました。
わたしたちの生きている現代において、社会統合のあり方に影響を与えるために歴史が書かれること(あるいは歴史が書き直されること)はけっして珍しいことではありません。
29>「ただそれが如何にあったか(wie es eigentlich gewesen)」いうフレーズです。このフレーズが意味しているのは、歴史は、現代にあって歴史を書くものの価値観による解釈として書かれるのではなく、客観的な事実にのみ基づく過去の再現として書かれなければならないということです。そして過去の客観的な事実に基づくということは、再現しようとしている過去の
37>近代がいつ始まったかという問いは、大きく二つの理由から少し複雑な問題をはらみます。ひとつの理由は、すでに述べたように、近代という時代区分が、近代人が自分たちの生きている時代を過去から区分し、「新しい時代」として切り出してきた自己言及的な概念であることです。もうひとつの理由は、近代という時代が現代を生きている私たちの時代であり、その意味で現代と地続きに捉えられていることです。
まず前者の理由について、近代を生きる人々が自分たちの生きる時代を「近代」という固有の性格を持った時代であると認識し、それを概念化し、そしてその認識が社会に定着するのは、近代という時代そのものよりも遅れてやってきます。そしてそのように自分たちが近代に活きているという時代認識が定着することで、ほかならぬ近代社会自体の性格が強められ、近代社会の中にダイナミズムを生み出すため、いわばそうして後からやってきた認識が、近代社会のあり方を変えていくことになります。
38>先に述べたように近代社会には、それ自身のありようを捉え返し、それまでの近代社会の限界を乗り越えて、さらに近代的な社会へと変容を促していくダイナミズムがあります。むしろそうしたダイナミズムこそが近代という時代を特徴づけているともいえます。
〜たとえば、初期近代の間にも17世紀の科学革命のような大きな離陸の区切りがありますし、18世紀末以降にも、例えばフランス革命からロシア革命あるいは第一次世界大戦までの時期を「長い19世紀」、両次の世界大戦から1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦の終焉の時期までを「短い20世紀」と区切って捉える見方は広く共有されています。
〜「長い19世紀」はヨーロッパ帝国主義/植民地主義が近代文化をけん引した時代、「短い20世紀」はヨーロッパの外部の世界からの巻き返しの時代、あるいは社会主義というかたちのオルタナティブな近代へ向けた挑戦の時代といった性格づけができるでしょう。近代の起源は、複数のスパンで多層的に見いだせるものなのです。
~一般的に近代は、おおむね15世紀後半のルネサンスや宗教改革、大航海時代と結びついたイメージか、18世紀末から19世紀にかけての市民革命、産業革命、国民国家の形成といったイメージで捉えられますが、もう少し厳密に考えた場合、近代という時代くヌンの持つ自己言及性が問題になります。その自己言及性に由来する近代のダイナミックな――たえず自己更新していく――性格がゆえに、「近代」は複数の異なるタイムスパンの起源をもつ伸縮的・多層的な意味内容を帯びることには注意しておく必要があります。
最近気になっていた「近代」「現代」の捉え方とその性質やダイナミズムとは、私が近代ポストモダンを捉えた後に現代の文学(21世紀の文学)を考えるのに似て、自分たちの時代を常に現代と捉える、近代はその前で克服と回復の連続であるということ、現代のダイナミズムの話は凄く面白く読んだ。 でも序盤のこの部分などの文章がすでに合わない、と思われる方は選書から違うかなと思う。
本質的な世界史の教養が、年譜やその時系列の並走などであるとすれば本書はそうしたつくりをしていないし、2022年度における高校での歴史教科の指導要領の改訂により、学生自身が主体的に現代社会への歓心と関連付けで自ら問いを立て、主体的に資料と向き合い、能動的に理解を促すアプローチをきっかけに本書が書かれた、というようなことも序盤に登場することからもわかるように、教養的な世界史である、というのがうなずける内容であるし、それは本書タイトルそのものであり、教養や読書や勉強全てを含む主体性や視点のテーマに繋がるのかなと。
(2022年、日本史と世界史を統合して近代史を学ぶ歴史総合の科目が必修になるうえで世界史探求という科目に繋がる、という学習要項の改訂が行われたそうですが、子供もいないし自分は遠いしニュース見てないこともバレるし、私は無知)


41>もちろん近代化は大きな達成であり、人類の諸社会をより良いものにしてきました。生産力の向上のような物質的な思想もそうでしょうし、人権や民主主義といった観念の普及もそうでしょう。しかし近代社会が一度そこにたどり着きさえすれば、永遠に約束される楽園のような場所であるかといえば、かならずしもそうだと決めてかかることはできないでしょう。21世紀の今日に至っても地球のすみずみまでが近代化したとはとてもいえませんし、近代によって破壊された価値を過小評価すべきではありません。また、近代社会として一定の達成をみた社会において、例えばポピュリズムや排外主義のようなかたちで、近代社会の基本的な価値がむしろ否定されるような傾向もないとはいえません。それが近代からの後退や近代の崩壊を意味するのか、既存の近代社会からまた別のかたちの近代への進化や近代の超克へと向かうものなのかはきわめて論争的な問題ですが、近代社会が固定的な歴史のゴールでないことは確かです。
かつて冷戦が終焉を迎えたとき、アメリカの政治学者であるフランシス・フクヤマは「歴史の終わり?」という論考をNational Interst紙に寄稿し、古代から近代にいたる人類の解放の中でリベラルな民主主義こそが人類にって最善の政治体制であり、冷戦の終焉と社会主義体制の否定によって、それに対する有意味な代替案がないことがはっきりしたいま、人類はまさに「歴史の終わり」に到達したと述べ、大きな反響を呼びました。しかしその直後からリベラルな民主主義へのバックラッシュはむしろ強まりつつあるように見えます。ほかならぬフクヤマ自身が近著の『政治の起源』および『政治の衰退』の中では、リベラルな民主主義へ至る歴史のルートが必ずしも普遍的ではないかもしれないこと、またいったんリベラルな民主主義に達した社会がそれを維持するための政治的なコストは決して小さなものではないことを強調しています。
近代社会が達成した価値を認めることと、近代化を普遍的、必然的、最終的なゴールとして歴史を解釈する枠組みを無批判に前提とすることは異なります。すでに21世紀に生きている私たちはこの意味で歴史のゴールとしての近代を相対化する視点を持つ必要があります。
現代のダイナミズムの次は、グローバリズムにおけるヨーロッパや歴史におけるヨーロッパ等、歴史や現代における西洋の扱い方などにも触れていて、この辺りも近現代の新しさだと思うのは、私が現代のアジア人だからだろうとは思う。現状の西欧からすると、この辺りはどのようにとらえられているのかは気になるところ。移民問題なども、アメリカや日本の視点で見がちだが、入り組み混迷を極めるヨーロッパ諸外国の方が地獄絵図的なイメージだが、現状や今後の問題点を含め、ヨーロッパに明るくない私の今後の興味関心はどんどん膨らむが、何分時間が足らない。
世界文学旅行でいつかヨーロッパ旅行編もやりたいけれど、ヨーロッパという概要がそもそも大きすぎて無謀で多彩で素晴らしいなと思うばかり。

42>19世紀から20世紀の初頭にいたるまで、近代的な歴史学が研究の退潮とした社会派、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、かなり遅れてせいぜいアメリカ合衆国が加わる程度でした。近代化を果たしたとみなされたこれらの国々は「歴史を有するネイション(historic nation)」っとして歴史学の対象となりましたが、例えばインドや中国、マリやメキシコ、と乱視愚場にアやアナトリアとちった地域は、文献学や地誌、民族史の対象になりえても、世界史の対象にはならなかったのです。逆にいえば、20世紀に入って、ヨーロッパの周辺部や非西洋の諸社会が、近代国家の建設を目指したとき、自分たちのネイションの歴史を書くことが、おおきな政治的意味を持ちました、それは自分たちの社会が近代国家であると言う存在主張に直結していたからです。
しかしいずれにせよ、歴史は近代化の主体としてのネイションを単位として書かれるものであることが、近代を基準とする歴史学の前提になったことにはかわりはありません。結果としてネイションの境界をまたぐように存在する集団や交通関係は歴史学の歓心の背景に置かれることになりました。近代化の担い手としてのネイションにとって有意味なこと以外は公式の記録にも社会の集合的な記憶にも残りにくいというバイアスを生むことになりました。
さらにネイションが歴史記述の単位となることには、もうひとつのバイアスも埋め込まれています。ネイションという概念は、歴史記述の地理的な単位の側面も持ちますが、むしろ第一義的には近代化の担い手たる人間集団として定義されるものです。「歴史を有するネイション」とは、自然や伝統に対して受け身な存在ではなく、自分たちの社会を自分たちで製作する主体として、近代化を目指す意思を持つ人間の集団であることを意味します。この見方の中で歴史は、人間が自らの意思で構築する者、言い換えれば「自然」と対比されるような意味で「社会」的に構築されたものに視野を限定されるバイアスを持つことになります。
今日こそ、例えば気候変動のような自然の要因が歴史を動かす視点は比較的考慮に入るようになりましたが、それは、近代を基準とする歴史観が持つ近代的な人間観――意志と理性によって自らの社会を製作する主体としての人間――を乗り越えようとする、比較的新しい試みの中で出てきた視点です。この意味で近代を基準とする歴史観は人間中心的な歴史であったと言えます。
59>突き止めて考えれば、ある時代の起点をどこに定めるかは、そもそも何をその時代の本質と捉えるかと表裏を成します。近代の場合、たとえばその本質を資本主義や市場経済に求めるのか、民主主義や立憲主義に求めるのか、合理性や世俗主義に求めるのか、さらに資本主義なら資本主義、民主主義なら民主主義について、何を基準としてどのように定義するのかによっていくつもの異なる捉え方が可能です。そして先に述べたように、近代社会派その本質を再帰的に更新し続ける性格を持つため、それが論じられる状況や、それを論じる者の立場によって、近代の起点は不可避的に論争的な主題になります。
さらに言えば近代という時代区分は、私たちが現在生きている時代であり、私たちが社会の基盤的な価値として何を奉じるのかと直接にかかわるので、近代の起点をめぐる問いは、単に歴史学的な問題の範囲を超えた議論に開かれやすい傾向を帯びます。またそうであるがゆえに歴史学的にも挑戦的な主張がなされやすい主題です。
~要するに時代区分概念としての近代の困難は、私たちがいわば近代の内側から近代を定義しようとするところにあると言い換えてもよいでしょう。自己言及性とは、適宜する者が定義されるもののうちに含まれていることにほかなりません。踏まえて、ここの論点は、グローバル化を近代の中に位置付けるのではなく、逆にグローバル化の中に位置づけなおすことでした。言い換えれば、グローバル化という視点を梃子にして、時代区分概念としての近代を、近代の内側から定義するのではなく、人類史的なスパンのグローバル化の中で外側から定義しなおそうということです。
61>「世界の一体化」が意味するもの
先に歴史におけるグローバル化は一般的に「世界の一体化」として捉えられると述べました、その上で「世界史を捉える枠組みは、おおむね15~18世紀を境として、複数の世界が並存していた時代から地球規模で世界が一体化していく時代への転換として捉えられるようになった」と述べました。しかし、15~18世紀以前と以後とで人類史を二分するこの捉え方は、それだけでは近代を基準とする世界史観を必ずしも脱し切れておらず、いわばグローバル化のインパクトを十分に受け止めているとはいえません。人類史を二分したうえで、前近代を「世界」が複数ある時代、近代を「世界の一体化」が進む時代と規定するのであれば、結局のところなんらかのかたちで内側から本質視された近代によって、いわば複数の「世界」が近代に統一されるような仕方で「世界の一体化」が進むという 見方に接近し、近代をゴールとする見方にグローバル化の概念が回収されてしまうからです。
~だとすれば、「世界の一体化」とは、個々独立の「世界」がひとつまたひとつと特定の世界なりシステムなりに飲み込まれていくプロセスというよりも、最初からグローバルな関係の中に置かれていたざまざまな「世界」の間の関係の様式が変容していくプロセスだということになるでしょう。
例えば国際政治経済学者のケース・ヴァン・デル・パイルは「対外関係様式」概念を導入して、世界史の時空を、部族間関係の様式、帝国/遊牧民関係の様式、主権国家関係の様式、グローバル・ガバナンスの様式という4つの様式で分節化する見方を定期しています。宮崎正勝は、空間移動と背活様式という観点から、グローバルな交通空間の変容を、定住農民の開始、ウマの導入による地域世界の形成、地域世界感の交通ネットワークの形成、外洋航海を通じたグローバルな空間の再編成、鉄道と蒸気船の導入、電子空間を通じた結びつきの形式といった画期で分節化する見方を提示しています。
~第1に、近代化を特定の「世界」への統合とみなす見方から切り離すことで、近代化へ向かう経路が複数あることが前景化されるということ。第2に、「一体化」した世界は、必ずしもフラットで単一の世界ではなく、「一体化」された関係性の中に置かれた複数の「世界」が潜在的に存在することが示唆されるということ、言い換えれば近代のかたちが複数あることが前景化されるということ。そして第3に、近代を、長期的な「世界の一体化」としてのグローバル化の過程の中に置くことで、近代が必ずしも歴史のゴールではないことが前景化されるということです。
72>第1に、ヨーロッパ的近代の相対化は、特に19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパによる世界支配をどのように説明するのかという問題を逆に前景化します。ヨーロッパ的近代だけが普遍的な歴史の進歩であって、他の「世界」がそれに失敗したのであれば、ヨーロッパによる世界の支配はある意味で必然として説明がつきます。しかし少なくとも初期近代まで、ヨーロッパを含む多元的な「世界」が、互いに関係しあいながら、異なる経路で発展を遂げていたのだとすると、ではなぜ19世紀に突然、ヨーロッパとその他の「世界」のあいだで歴史のコースが大きく分岐するのか芽問題になります。
この「大分岐」問題は、古くはマックス・ウェーバーのようなヨーロッパの社会科学者が追求した大問題でしたが、近代的歴史記述に対する現代的批判の展開の中で再浮上してきました(「大分岐」というフレーズは上に引いたケネス・ポメランツの著作のタイトルとして広まりました)。ポメランツ自身は森林資源の枯渇にともなう石炭への転換と新大陸へのアクセスに寄り土地供給の制約の緩和を、資本集中的(=労働節約的)な技術革新の連鎖、すなわり産業革命が起こった理由に挙げていますが、そのような環境面の状況よりも所有権や取引の法的保護、あるいは都市の政治的自立性といったような制度面の条件を強調する議論も有力ですし、科学革命などの思想的条件を上げる議論もあRます。また第4章で激しく批判されるように、そもそも突然分岐したという捉え方自体にも異論はあり、決定的な結論は出ていません。しかしそのような競合する説明のうちのいずれが打倒するかは、歴史を見る時間的・空間的枠組みと絡み合います。近代的歴史記述という枠を外すことで、ヨーロッパ的近代があらためて(歴史解釈の基準ではなく)歴史的な説明の対象となったわけです。
そして、やはり私たちには時間が足らない。
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