「芥川賞で日本文学が読めるのか?」芥川賞企画がスタートしまして、初回は村田紗耶香さんと歴代30年ほど振り返って読みたい作家を抽出した一覧まとめを行いました。
二回目は今村夏子。個人的に『星の子』が結構面白かったので期待していたのですが、今回三冊読んで急ブレーキ。急な暗雲が垂れ込めでどうなるかと思わせて、受賞作とデビュー作の二冊を読み、まだ微妙な心持ちでしたが最後の望みを求めて、あらすじや設定から、『菜食主義者』や『オーバーストーリー』などの植物性への逃避を感じつつ、今村のユニーク方向が読めるかなと最後に読んだ『木になった亜紗』を読む。私の願いは繋がったのか?
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芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』
視点人物の女は、街で有名な「むらさきのスカートの女」の観察と一方的な友好に熱心だ。公園のベンチでクリームパンを食べて子供の遊びに使われたり、髪の毛を洗わずに不潔だからなのか短期就労の面接に落ちまくっている彼女のために、自分の職場で働き始めるように丸を付けた求人情報誌をベンチに置いたり、シャンプーの試供品をむらさきのスカートの女の部屋のドアノブに備えておいたりして陰ながら応援する。念願叶って自分の職場で働き始めた彼女をつぶさに観察するのだが、なかなか親しくなる瞬間は訪れないし、その間に同じ職場で働くほかの同僚先輩たちに気に入られ、上司に気に入られ、見違えていく彼女をつぶさに観察して手をこまねいている彼女に、ある転換期が訪れる。
とても文芸らしく、視点人物や台詞や地の文の使い方等、小技が効いていて、破綻はしていない。
台詞の羅列の魅力、一人称=信用できない語り手、窃盗事件の痕跡を自然に忍び込ませる作為、対象となるむらさきのスカートの女に対する黄色いカーディガンの女の対比、友達になりたい欲とストーキングの不穏、文芸ならではのクスッとした笑いも不穏なおかしさもあり、上手くまとまっているが、結果的にどんな何を上手くまとめたのか、の打点や威力には届かず、良く出来た小品を読んだ心地以上はない。
受賞作として読んで落ち着かないだけで、ただなんとなくの一作として読めば及第点。ラストシーンの収束まで綺麗に落ちているし、働き始めるまでは冗長だが、職場に馴染んで羽ばたいていくむらさきのスカートの女のサクセスは明るいし、対比としての”私”の存在感も凝っていて、面白い所がないわけでもないので、普通に読めば悪くない。
ただあえてこの作品に受賞させるだけの威力をどこに感じたのか、と問おうとすると微妙。このあたりは一緒に候補作になった並びや比較にもよるのだろうなと、この企画の難しさを感じたりもする。
ちなみに、同じ2019年代161回の候補作は今村のほかに
高山羽根子「カム・ギャザー・ラウンド。ピープル」
(候補二回目/次々回163回にて受賞)
古市憲寿 「百の夜は跳ねて」(候補二回目/慶応~東大大学院修士と目立つ)
古川真人「ラッコの家」(候補3回目/次回162回で受賞「背高泡立草」)
李琴峰 「五つ数えれば三日月が」
これで見ると、候補作はどれも何度か候補に挙がった面々で受賞が閊えていた側面、その後受賞していくメンツがそろっているので、今村が先抜けだっただけという感じもする。
若手の門、輩出して文学を応援して奨励していく文学賞だと認識すればこれで問題ないか。
若年女性に与えるイメージ定着がある芥川賞かつ、村田紗耶香や今村夏子ら最近読んでる著者の経歴に対し、30代後半~40歳前後の男性で高学歴という古市憲寿さんの属性が目立つか。逆に、芥川賞の特異な特徴が感じられて面白かったし、最近だとお笑い芸人の高学歴がベターだけど、文芸はどのような特徴なのかなとも気になる。162回に受賞した古川真人「背高泡立草」で「セイタカアワダチソウの空」が思い出されてきゅんとした。

それでも受賞作を深掘りするのであれば
視点人物の語りと形式と小噺の手品的な感じ、著者特有の可愛らしさとユニークさと不穏は感じる。綺麗にまとまっているが、それ以上の何かになっているとは思いづらいが、主題やモチーフとして明確に追おうとしなければ一定面白い読書にはなるか。
下に見ていたむらさきの女、優越感と親近感、彼女となら友だちになれると思っていたが彼女は職場でも意外に上手くやれていく様を見つめることになる。先輩にも気に入られ、物を恵まれ、上司の女にもなって、髪も爪も綺麗になって、男女関係の修羅場にも目立つが故の同性の敵視にも対抗したり変化を遂げる。
短い作中で異様なほどに変化していくむらさきの女に対し、黄色いカーディガンの女と自分で寄せてキャッチコピーを付けるが、なんの変化もせず、相変わらず誰の噂にも上らなければ会話に名前もほとんど出てこないし、犯罪の犯人に疑われることもない、目立たない。
下を確認したいとか友人になりたいとか、色々分からなくもないが、それは家を差し押さえられてロッカーや漫画喫茶の確認準備をし、窃盗をして小金を稼ぐ傍らに、多くの労力と注目を持ってストーキングや作戦を練ってまでするほど対象に執着する熱がどこからわくのかわからず、執念の不在が目立つのに行動の執着が見て取れるのが理解できないし、人間の様としても読書の様としても奇としか映らない、頭で書いた小手先、という感じしかない。友達を作るより働けと思う以外ないが、それが個人内的の不穏で隔絶で内省で文学だと言われたら、そうなのか?
『星の子』を読んだときは、あえて語らない言葉の数々を著者の文学性だと感じたが、本作においての語らなさは効果を生んでいるとは思えないし、その向こうにあるものを描けてこそ文学としての特徴を持つ作品性に向いたのではないかと思う。今のままではただの文芸に終わり、行間に何が滲む熱さもない、人間不在であるとすら思う。著者は手品がしたかっただけなのか、そのあたりが受け止めづらかった。
私が広い話や強い主題が好きで興味があるのは認識していて、だからこそそうでない作品に対しての言葉に迷うところがあるが、広くないといけないとは思わないが、怖くも熱くも愛しくもない、それは文芸が書くべきもので、著者が書くべきものなのか、よくわからない。
『星の子』と同じ著者なことが不思議なくらい、あっさりさっぱりした作品で特に感じるものはない。あの作品には漏れだす情感と粗削りがあったが、本作は洗練されて著者の魅力や個性が削ぎ落されていたという感じすらする。その洗練が威力や魅力に寄与しているかが不明なのが本作の問題。
よく書けている、でも別に著者が書く必要があったのか、その部分。
選評を読んでみる
先に2017年『星の子』の選評
山田詠美「ラストで父と母に両側から強く抱き締められた主人公は否定出来ない枷をはめられたようにも思える。今回は受賞を逃したが、この先も目の離せない作品を書き続ける人だと確信している。」
吉田修一「この小説は、ある意味、児童虐待の凄惨な現場報告である。本来ならすべての人間に与えられるはずのさまざまな選択権、自由に生きる権利を奪われていく(物言えぬ)子供の残酷物語であり、でもそこにだって真実の愛はあるのだ、という小説である。」「このような物語が、平易で、ある意味、楽しげに綴られていく。(引用者中略)力ある作品だと認めているのだが、ではこれを受賞作として強く推せるかというと、最後の最後でためらいが生じてしまう。」
高樹のぶ子「意図的に会話で小説を作っているが、会話のリフレインが冗長に感じられた。大人に支配される子供の切なさや、独特の浮遊感に混じる不穏な暴力の気配も、この文体の効果として認めるものの、この文体では少女の視点でしか書けないのではないかと危惧する。」
小川洋子「(引用者注:「影裏」と共に)推した。(引用者中略)どちらも、いかに書かないで書くか、という根源的な問いをはらんでいて興味深かった。」「ラストの星空の場面。崩壊の予感に満ちあふれながら、決定的なものは描かれない。にもかかわらず、言葉にされなかった痛みは、傷とラクガキに覆われたお姉さんの手にありありと浮かび上がって見えている。書かれた言葉より、書かれなかった言葉の方が存在感を持っている。」
川上弘美「作者は、誰も教えることのできない、「どう書けばその小説を小説たらしめることができるのか」ということを、すでによく知っている。第一に、推しました。」
島田雅彦「語り手自身が問題系の内部に閉じ込められているために批評的距離を保てない。実はこの点に本作の企みがあり、また問題がある。」「たとえ、子どもの視点で書いても、道具立ての工夫により大人たちのグロテスクな言動、挙動を描き、キラキラ系のコトバの背後に隠されている闇をあぶり出すこともできたはずである。」
小川洋子さんの素敵さ。ちなみに文庫版で『星の子』の巻末に小川洋子×今村夏子で対談が収録されているようです。『木になった亜沙』では解説が村田紗耶香。
2019年・受賞作の選評を読んでみよう
小川洋子◎「奇妙にピントの外れた人間を、本人を語り手にして描くのは困難だが、目の前にむらさきのスカートの女を存在させることで、“わたし”の陰影は一気に奥行きを増した。」「ラスト、クリームパンを食べようとした“わたし”が、子供に肩を叩かれる場面にたどり着いた時、狂気を突き抜けた哀しさが胸に迫ってきた。」「常軌を逸した人間の魅力を、これほど生き生きと描けるのは、間違いなく今村さんの才能である。」
高橋のぶ子△「新進作家らしからぬトリッキーな小説で、語り手と語られる女が、重なったり離れたりしながら、最後には語られる女が消えて、その席に語り手が座っている。」「不確かさを不確かなままに書き置くことが出来るのが女性の強みだが、裏に必死な切実さが感じられなければ、ただの無責任な奔流になる。さてこの先、いくらかでも理路を通すか、さらなる大奔流で、実存を薙ぎ倒すか。」
島田雅彦△「商品としては実にウエルメイドで、平易な文章に、寓話的なストーリー運びの巧みさ、キャラクター設定の明快さ、批評のしやすさなど、ビギナーから批評家まで幅広い層に受け入れられるだろう。だが、エンターテイメント・スキルだけでは「物足りない」のも事実である。」
吉田修一○「前作の「星の子」や「あひる」などにも見られる書く技術の高さには文句のつけようがない。」「個人的には、不潔な女性の描写に魅かれた。これまで不潔だが魅力的な男性というのは小説でも読んだことがあるが、ここまで不潔なのに魅力的という女性は初めてのような気がする。」
小川洋子さんが引き続き推していて、◎。2017年の『星の子』に続いて、2019年の『むらさきのスカートの女』でも◎
諦めずに読むぞ、デビュー作『こちらあみ子』
読みだして、何か読んだことある、とほくろの下りと強烈なチョコレート舐めクッキーで思い、田中先輩の登場で確信する。本作をわたしはかつて読んだことがあるが、強烈な印象は無し。ピークの眩さ、何か描いている感や兄弟の感じなどは、西加奈子『さくら』(2005)を思い出したりする。
『星の子』から打って変わって、古典的な様子。『むらさきのスカートの女』にも感じた冒頭の冗長さ、本作はさらにこれがきつかった。まだ文体も物語展開も借り物、自分のスタイルの心地が見つからない感じの重さを感じる。「じゃけえ」などの広島風の言葉遣いが雰囲気作りに一役買っているが、それで見ると著者は広島出身らしく、郷土感を埋め込んだのだなと思えば、飛び道具にはなったのかなと。
完全なる変わり者である主人公に対し、唯一一途を貫く救いの男の子のエピソードなんて泣けるのだが、その彼が好んだあみ子の面白み、貫く思いのおかしみなどは、読者として実感できるほどではないのがおしむらく。あみ子の人生も可哀想だと思うが、周囲の人間のたまらなさの方が強い、義母とのり君はひたすら哀れだ。兄もああなった、妹も生まれなくてよかったのかもしれないとすら思う、視点人物のとじた世界により、救いも肯定も存在しないし、責任感も倫理観も存在しない世界で、何を描きたくて、何を求めた世界なのかがはっきりしない。
一つ新しいのは問答無用の母性や、実母の存在がないこと。常に父性は試されておらず、元来この系統の子に試されてきた母性の不在が、あみ子を迷子にさせているといった古典的な読み方も出来るか。
そのような中途半端なあみ子の人生も、それに付き合った読者の徒労も、何になるかわからない読書。

著作列を見てみる
広島の高校を経て大阪市内の大学卒業後は清掃のアルバイトなどを転転。
2011年『こちらあみ子』
『太宰治賞2010』掲載時「あたらしい娘」から改題
「ピクニック」 – 書き下ろし
「チズさん」(文庫版のみ) – 書き下ろし
2016年『あひる』
「あひる」
「おばあちゃんの家」 – 書き下ろし
「森の兄妹」 – 書き下ろし
2017『星の子』(2020年に映画化)
「対談 書くことがない、けれど書く 小川洋子×今村夏子」(文庫版のみ)
2019年『父と私の桜尾通り商店街』
「白いセーター」「ルルちゃん」
「ひょうたんの精」 「せとのママの誕生日」
「冬の夜」(文庫版のみ)
「モグラハウスの扉」 – 書き下ろし
「父と私の桜尾通り商店街」
2019年『むらさきのスカートの女』
芥川賞受賞記念エッセイ(文庫版のみ)
2020年『木になった亜沙』
「木になった亜沙」「的になった七未」
「ある夜の思い出」
ボーナスエッセイ(文庫版のみ)
2022年『とんこつQ&A』短篇集
「とんこつQ&A」 「嘘の道」「良夫婦」「冷たい大根の煮物」
挽回なるか?『木になった亜沙』
これねえ、題名が悪いです、装丁も可愛くないです、中身は数倍面白いし、百倍可愛いです。
と言いたかったが、もうそもそも著者は読者に一定以上の作品を読ませる気があるのかどうか、不審になるほどに意気が入っていない3作品が続き、どれも草稿レベルという感じがした。
設定は悪くないのでプロット的には面白そうだが、読み心地は未熟。これを芥川賞作家の作品だから、と初対面の読書手に取る可能性を作り出した著者と文学賞関係者はもう少し危機感や責任感を持った方がいい気がする。作者や読者を守る、書かない誠意、出さない意識、売らない節度も、あっていいはず。
「木になった亜沙」表題作
主人公は物心ついたころから、自分の手から誰かが食べ物を食べてくれないというテーマで悲しんでいる。るみちゃんはひまわりの種を一緒に食べてくれないし、転校する男の子に渡した餞別のクッキーを食べもらえないし、あまつさえ母親と祖母にもそのクッキーは食べてもらえないし、飼育係をすれば金魚は自分の撒いたエサを無視するし、給食当番をしてもインゲン豆のサラダやマカロニサラダだけ素通りされるし、いじめをする側に回ってから被害者にセミの死骸を食べさせようとするが、どれも食べてもらえない。そんな主人公は在る事故に遭い、動物に囲まれ、その子たちにもチョコクッキーを食べてもらえないし、いつの間にか意識が遠のき、きづいたら割りばしになっていた第二の人生のお話。
設定は面白いが、寓話的なリアリティの欠如をどこに向けて、どこに落着させたうえで本編で描きたかったものがどうにも見つからず、着眼を昇華する表現創作の実力以前の意識の問題な気がした。
「的になった七未」上の姉妹作なのかなんなのか
主人公は他人から何を投げられても「当たらない」ことに悩み、いつしか「当たれば終わる」と渇望するが、どんぐりも、ドッジボールも、空き缶も、自分にだけ当ててもらえない。いつの間にか的になる女の人生の走馬灯。
表題作と本作は題名も設定も展開も表題作に似せた作りだが、二作品を相対的に扱って作り上げる作為まで昇華されていないので、ただの似たり寄ったりに終わってしまっており、相乗効果的な何かが生まれているとは私は思えなかった。その場合には三編目は蛇足か、それなりそれ以上の作為を感じさせる作りにしてほしかった。
突飛な設定はどちらも魅力はある、基本的に自堕落な精神性の女が、ある特定の更生施設にて社会復帰を目指したり、行政の力を借りながら、それでも結局は零れ落ちていく様、というのも酷似しているが、基本的にはた迷惑な彼女たち二人が創作的姉妹だとしたら、この人間誠意のスケッチが醸し出す文学性は何か、文芸のための文芸以上には思えず。
「ある夜の思い出」
設定は結構面白い、文芸にて信用できない語り手を使った文芸らしさは効果的。
本作も寓話的なユニークさで満ちていて、不穏さやおかしさに著者らしさがあると言えばそう。ただそれが何になっているか、真で書き上げられているかと言われると微妙。
義務教育を終えてから15年間畳の上に寝転がってニートをしていた主人公は、ある日父親に家から追い出されたので、その股下を通って夜の街へ飛び出して行き、路上のポリ袋をほどいてコロッケを食べていたら、ある夜の運命の男に出会うが、顔半分が髭に覆われた男の名前と私の名前は冗談半分。
書くべき物語を持たない作家の生活感
木になる逃避が『菜食主義者』とかと結び付けられるかもしれないと思い読んだが、まったくの的外れ。割りばしになったことは魅力的ではあるし、全体的に文芸性を利用した突飛ユニークだとは思うが、その着眼をどう展開し何を表現するかに満たない発表や創作にどんな価値があるのか。
系統としては「発達障害系×ポップユニーク×不穏」で、似たタイプに先陣かつ強力な村田紗耶香がおり、さらにあちらはテーマ的には広いので、今村は他の要素や突き抜けで独自性を出せないと路線的に厳しいかなという感じ。現代女性作家がみんなそういう路線にいるのなら、先人にすでに現代最終形態がいるので、これはなかなか難儀だし、それに気づいて似たり寄ったりは卒業してほしいし、無理なら突き抜けて作り上げ書き上げないと独自性は出ない。
内的や思考力が未熟な発達障害未満みたいな女性主人公の存在は共感や祈りに近いのかもしれないが、そういう物が求められる社会というのは非社会的な感じがするし、あるいはそれが日本的な文学や純文学の役割だと言われたら、うじうじしている非生産的な男性性が嫌いな私が真っ向から好きではない純文学のイメージそのものだなとも思った。
『こちらあみ子』に関しては、太宰治賞/三島由紀夫賞のw受賞、という文言が踊っていてこれ。
『木になった亜紗』はおそらく芥川賞作家が描いた、とかって文句を添えてこれ。それで期待して読んでこれだから、文芸が現代において落胆されて廃れていくのが分かるというものな気がするが、純文学的な読み方や見地からすると本作は正解で正統なのか? それはまだ現時点の私にはまったく理解でない、今後に期待。
芥川賞受賞をしてからが好きなものを書けるようになった独自性なら、及第点評価としてのバッジをとってからが一人前。そこからみんな好き勝手に自信をもって羽ばたけばいいと思うが、それを境に下り坂になるなら何のため激励と拍手なのか、甚だ疑問。
巻末に収録されたエッセイで、書けない、受賞前後で変化ない、という話も何度も書かれて、一度目から別にだからどうしたでしかない。書けない、何とか書いてる、というひねりだし系の作家は、書くべき主題や社会性テーマがないのに書くために書いている、というのが形式のための形式に近く、そこにどうしても書きたい情感や苦悩が感じられないと結局はその作家は書くために書いていて、書きたいから書いているし書かねばならない魅力を帯びないのではないか、と懸念してしまう。
書くために書く必要はないはず、読むために読む必要がないのと同じ。
書く苦しみがあるのも推察は出来るし、才能や経験と向き合う創作は並大抵ではないことは分かるつもりだが、やっとひねり出した並程度の作家の話や、商品以外の言葉を吐くのがエッセイならやはり私にはエッセイは無価値だし、そんな生活作家感覚の作家作品も私には無価値。
文庫版巻末の村田紗耶香の解説も微妙。飾り立てた言葉で褒めればそれが奨励というわけでもないだろうし、言葉と向き合う人間の平坦な言葉ほど嘘くさいものもない気がするのだけど、どちらにせよ両人ともしっかり作品だけ書いてくれとしか思わなかった。書く価値を見出せないことも、読む価値を見出せないことも、どちらもうっすら地獄。

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