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国内外での受容のされ方、社会的関心と時代性テーマ、カテゴライズのジレンマ『黄色い家』川上未映子②

文芸

 平成から始まった芥川賞の潮流とも思える女性作家の流れを汲みつつ、海外活躍までさりげなく果たしていることが分かった川上未映子。
 最新長編の『黄色い家』話題にもなりましたから題名をご存じの方も多いのではないでしょうか、こちらも新聞連載、くしくも同じ芥川賞作家の津村記久子『水車小屋のネネ』との類似点を感じさせる、「芥川賞作家の一般化」「新聞連載小説/著者1長編」「少女が親元を離れて暮らす」等の点で思われる川上未映子の『黄色い家』。作品性評価、そして狭い純文学から自分の作家性や世界へ飛び出す真骨頂とは?

 当初の予定では今回②記事目で終わるつもりでしたが、色々拡がって③記事目も想定。
 更新スケジュールの関係で次回は違う作家(今企画・初の男性作家)記事が2つ続く予定ですが、その次、来月の頭に川上未映子③をお送りする予定でいます。1記事を2つに分けさせたピンチョンの膨大さのように、2記事3冊を3記事5冊にしてしまう力、主題の見つかり方、私の読みたい書きたい触発の全貌とは?以下🌞

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『黄色い家』(2023)

 ホステスをしている母親と二人暮らしの主人公・花は、目が覚めると隣で母のホステス仲間が寝泊まりするような長屋での貧乏暮らしを余儀なくされており、その頃出会ったのが黄美子さんだった。貧乏暮らしを揶揄されたりして友人や地域の先輩たちに馴染めない花を救ってくれた幼心にヒーローに映った黄美子さんは、ある夏の1月が終わると姿を消した。花が全てを忘れて大人になったある日、ニュースサイトにてその名前を発見する。

 幼い頃に自分を救ってくれた優しい光のようだった黄美子さんが、なぜ少女たちを集めて監禁や暴行などの犯罪行為で裁判沙汰になっているのか、かつての友人に連絡をとり、花は少しずつ当時の記憶を呼び起こしていく。自分が忘れたかったこと、救われたこと、犯してしまったこと、忘れられなかったこと、救えなかったこと、盗まれた72万円、援助した200万円、山分けした500万円。

 前回、芥川賞受賞作『乳と卵』(2008)でも、姉妹の会話に見られるモチーフ選定や場面選択の上手さが私は好きだったし、狭く深くの純文学は掘ることや熱量に本質があるのだとすれば、そこも一応感じる上で、人称人物による文体や妄想性、冷っと女子と胸派女子の会話に見られるテーマ議題や思索性の手法なども、洗練は感じないが独自性と作風の方向性を感じさせた。著作列4作目となる『すべて真夜中の恋人たち』(2011)では、人称の文体や妄想性に拍車をかけつつ、女子同士の会話も変わらず使い続け、恋愛小説という虚構性を壊しながら個人内的の要素を膨らませ、学生時代から一貫して主体性がない幽霊のような女性を使ってあたかも恋愛小説風の外面を創りあげて見せる器用さを発揮。
 そして2023年の『黄色い家』でもそれらの個性や作風を持続したまま、長さ、題材性、知名度などから代表作と目されているであろう作品を最新長編に置くことが出来ているのは気持ちが良い。

 

時代とともに変化するもの、しないもの

 社会的な題材、時代と共に変化していくカード詐欺や、隅へ追い詰められていくだけの反社会性から編み出されていく新手口の犯罪と、時代が変わっても変わらない未成年少女たちの家出と共同生活、友情と偏執、子供が親に守られるということ、あるいは1人で生きるということ。そこに集まるまでの女子高生の三者三様の家族状況、或いはヤクザの道へ歩んだ少年たちや先で出会った風俗関係の女性たちを含めて、出自や家族関係などの要素、安易な毒親がどうとか言うより、その世界観と価値観に生れて暮らして、どこをどう引き返すでも作り替えるでもない、途方もない人生と取り返しの無さと労力と無気力などが思われたりするくらいには、人生の厚みに結構疲れるし徒労の割に強い主題らしい主題が見えない所が、文芸とも文学とも言いづらい何とも微妙な感じはするが、一生を読み終えた心地はする。
 幼い主人公が感じた黄美子さんへの頼もしさ、実の母親の頼もしく無さや純粋さ、自分が何とかするしかない責任感からストレスフル、管理したがる家父長制と友人の少なさ、集える家や仲間、家族、信頼できる大人、大人たちも巻き込まれて首が回らなくなる世界の闇、お金、犯罪、心理、それらの渦等の要素は語られ過ぎないがしっかり感じることが出来るし、破綻もしていない。

 最初はファミレスアルバイトをしていた花だが、黄美子さんに連れられて17歳で家を出て手作りスナック「れもん」にて酒を飲んで接客するが、勿論未成年なので年齢を偽る違法行為だし、未成年で保護者以外と暮らすので身分を証明する書類も持たない。けれどそこから初めての同世代の友人を得て、自分の力でお金を稼ぐことを知り、友人に頼りにされることを覚え、つかの間の青春らしい謳歌があるも、その後色々波乱に見舞われ、お金も足りない、稼ぐ場所もない花はカード犯罪の出し子で日銭を稼ぐようになる、というもの。その間では、お金を盗まれ、奪われ、騙される側の人間と、盗み、奪い、騙す側の人間がいること、花や母親や黄美子を初めとして、モデル級に美しい琴美のやるせない生き方、同棲する彼氏に暴力を振るわれ親に金を無心される蘭、可愛い妹と比較されて育ったので簡単な色恋営業に騙され50万が必要になる桃子など、騙され奪われる側の人間や場面がいくらも出てくるのに、他方では花たちもまた奪い、盗む側に回るしかない展開が描かれる。
 この転落は悲しいし、行政はどこにあるのか、生まれる家が違えば、あそこであんなことすらおきなければ、の出来事がいくつも重なって、あれよあれよと暗闇に転がり落ちていくクライムノベルの側面と、冒頭に示された「あの黄美子さんが、なぜ少女監禁と暴行首謀者として捕まったのか」のミステリー要素もある為、リーダビリティを備えつつ、ある程度の文章と人間性なども保持しつつ展開するので、単純に読み物としてのバランスも良い。展開していく過程で、ファミレスのアルバイト、スナック店員、出し子、さらなる犯罪、と加速していくたびに登場する金額が変わり、稼ぎ方が変われば視点人物である花の価値観や慢性的な心理的なストレスや現実的な危険度も変わる、その辺りと、中盤の変調と一緒に過ごしてきた友人の蘭と桃子との関係性も変化し、黄美子さんとの関係も変化する辺りに著者の本領が発揮されていくあたりで交差する。

 それにしても本作にも冗長な所、刈り取るべきところもあるし、鍵となるところの少女たちの拠り所にしたことわりと、それを信じてすがることが出来た主人公など多くのリアリティは無い。
 主人公の優しさや幼い頃のあどけなさ、何度も裏切られ、守ってくれる大人すら弱くて、貧困からはなかなか抜け出せないし、けれど犯罪で稼いだお金が自分の価値や肯定感を作ってくれるはずもなく、無駄に大きくなる自尊心は誰にも認めてもらえることはない。軽口の罪悪感や、自分を守るためのどうしようもなさ、それでも悪気がないから責任感が変な方向へ行ったり、誰かの面倒を見たいし一人になりたくない心地、そして残る黄美子への最後の純粋な気持ちに真実があったと思いたい気持ち、母親の封筒、など少しずつの希望をちりばめることは忘れていないし、これはまあ、結構よい小説だし、連載小説の長丁場と初の長編作業の構想や構成など大変だったろうなと思う。
 けどまあ、何か強く与えてくるものがあったかと言われると転落と貧困の悲しさや、長さの割にという感じは及第点だが、割とコンパクトに書きがちな日本人のとくに芥川賞系の女性作家がこういうものを無事書き上げ、広く読まれた、と言うだけで価値なのだと思う。

 先2作でも、序盤は良かったが展開以降と落着が微妙だと感じたことは今回も同様で、3冊とも変調から先が微妙であることから、逆に著者はその変調からが良いと思っている節があるのか、個人的にはどう考えても3冊中3冊が前半までが良くて、中盤以降の変調や盛り上がりや完結からの出来栄えやセンスが微妙であること、それゆえにテーマ主題もいまいち表現しきれていないだろうし魅力も感じず読後感は微妙なことを思うと、創作的にも文学的にも成功とは思えないのだけど、これを専門的な批評性からしたらどうなるのか、ということは気になる。
 それで思い出すのが、より虚構性も題材性も密度があり主要がはっきりしていたしリーダビリティに優れていた長編『ザリガニの鳴くところ』はやはり面白かったなと思ったし、それは主題選びというよりもやはりドラマの作り代と運びの文章の密度であると感じたが、川上の世界観や文体は情報量や事象的な密度とは違うから、空間的な虚構性と人称文体による妄想性、そして他者との折り合いなどといった現実とのはざまにある事象や衝突それ自体だから、社会性のある題材を採っても、その下心からでもない題材の選択は、毎回ある意味で一定以上は上手くいっている気もするから何とも言えないんだろうな。
 うろ覚えではあるものの、デビュー作の『わたくし率』にも中盤以降の変調の印象はあって、『ヘヴン』をよく覚えていないが、むしろ文芸効果として狙ってやって、著者的には成功していると思っているのかもしれないし、そのは判断であれば私とは趣が異なるなとは思う。

『ザリガニの鳴くところ』2年連続米国で最も売れた小説、ジェンダー的ヒロイック
女性性の生命力、男性性の暴力性  全般的に物凄く魅力的な作品に仕上がっている。特にこの生命力と、作品性の豊かさは目を見張るものがあるし、ある死体の発見からクライムノベル的なフーダニットが存在するが、本作のリーダビリティは圧倒的に主人公の少女...

 ただ久しぶりに、60分タイマーが鳴ってもまだ読みたいから、もう一度60分が始まるくりかえしボタンを押す、ということを『真夜中の恋人たち』『黄色い家』ともにしたので、途中まで良い読書で、最後までどうなるかは気になって読めるし、まあでもやはり落着はそこかよ、と毎回思わなくもないけれど、展開はどうしようもない所があり、入り口である世界観や文体の選択などの基本がその作品の基礎を作るので、その部分だけを見れば実力も魅力も間違いない、とするとやはり展開は意図と意味を形作るので、その部分が個人的には課題か価値観の違いだなと思うし、それはほとんど文学性や作家性ということになってしまうので、評価は難しい。
 どちらかというと、川上未映子って著者は色物イメージがあったが、そのイメージは完全に払拭。

芥川賞系と直木賞系、一般化作品の長短
毒親と家出少女『水車小屋のネネ』
ジェンダーと社会性『BUTTER』

 冒頭でも示したように、「芥川賞作家の一般化」「新聞連載小説/著者1長編」「少女が親元を離れて暮らす」等の点で思われる川上未映子の『黄色い家』。作品性評価津村記久子『水車小屋のネネ』とは複数の類似点があるし、発行年も2023と同年ではあるものの、重さも文芸性も異なる。
 毒親や貧困の要素の扱い方で言えば、ネネの方が毒親は重く、黄色い家は軽いし、ネネは貧困要素をほぼ描けずほのぼのしさや与えられた恵まれに感謝する構図の中に人と人の繋がりを散りばめ、黄色い家の人間関係は妄想や利害に満ちていながらもどこかで本質的なつながりも感じさせることをやめない点では共通かなと思う。この辺りは正直どちらも主題的には描けておらず、かろうじて黄色では幼い主人公が周囲と馴染めずコミュニケーションを学ぶことができなかったことを親の職業や貧困に押し付けている格好になっていることが不服だけれど、他の川上作品よりも唐突な人格破綻に説得力は繋いでいるし、親や生まれや人種によって反社会的勢力へと流れる男児たちの部分で多少感じることはできるが、主題としての明確な消化はされていない気がするし、それらの出自を抱えた彼彼女たちも本質的には割と暖かな情感や信頼で結びつける人物群に描かれていて、本作のリアリティの無さに一役買っている気もするが、悲惨過ぎない描き方は安心した通読を助けはする。その読みやすさが、このモチーフや主題として正しいのかどうか、という点が私は引っかかるが、一般が作品を狙うのならば妥当な線かなとも思う。
 未成年の少女3人を使ってお金稼ぎするならまず浮かぶはずの売春行為や、本作には不慮の事故や暴力も登場するが、妊娠出産などの展開は起きないし、パパ活や援助交際などといった時代変化を持ちながらも本質は変わらない少女性の稼ぎ方にも流れていかず、あくまで性犯罪性は封印されているところにも特徴がある。

 同じ芥川賞系の作家でありながら、同じ長いものを書いて一般化する、という達成を行うにしろ、津村と川上が上梓した作品性には違いが大きく、未受賞ながら直木賞系であるだろうはずの柚木麻子の『BUTTER』も女性犯罪者をモチーフに社会派小説を目指して一般化を狙ったが、個人的にはここでも柚木の社会派狙いの下心と実力不足の露呈、川上の多くは素材に過ぎない主体性としての作家性を感じたり、内実が違うので比較して読むと色々川上の重さや厚みが感じられたが、みなさんや業界的にはどのように読まれているのだろうかは気になるところ。
 芥川賞作家が一般化する作品を書く、一般的に読まれる作品を書く、芥川賞系直木賞系の作家がそれぞれ、広さを志し、広さが深さを志すなどの野心やその進捗に生まれる作品を思えば、各作家の試みやその点定としての商業出版の面白みも感じる。
 海外だと日本ほど純文学/エンタメ小説などというくくりはないとの話だったけれど、それを云えば逆に日本のその風潮と各位を区画して作り出したのはもしかしたら芥川賞系・直木賞系というくくりなのかもしれないし、その箔付けや明確化が貢献してきた文化もあっただろうし、以降もどのように機能し発展させていくのかも気になるところ。

芥川賞作家が贈る癒し系小説『水車小屋のネネ』で出世した津村記久子の先行き②
芥川賞作家は、この時代に何を描くのか。 これもまた、現代においての本企画や該当作家に求められる問いかもしれない。 現代文芸に求められる癒し系要素、社会的な悲しみや禍根に対する文学や虚構性の癒しや祈りの要素、そこに結びつくところに生まれる魅力...
『BUTTER』は『ナイルパーチの女子会』より優れた小説なのか? 社会派小説の意義と書ける範囲。柚木麻子①
>これはいったい何を面白がればよい小説なのか? >これを社会派長編小説とは、お前の社会どんだけ狭いんだよ >ナイルパーチで獲れないとなるとやはり直木賞は信用ならないかなと思ってしまう ☑️上げられた期待値 ☑️社会派小説という不適切な煽り ☑️小説家が書くべき自分の範囲 ☑️私の読書が全く現代的ではない点について

私が求める作品性とは異なる次元に存在する文体が志向するもの

 序盤設定は良いのに展開が良くない点は、今回読んだ三作全てに関連しており、大抵の場合主人公や一人称が崩れ始めて文体にも変化が出て、ある種の変態や酩酊状態への展開を見せる。主題性の消化に繋がるから、文学性にも関わるが、現時点では川上が書きたいものはそうした私が興味を持つタイプの明確さや主題性とは異なる、ある意味で哲学や文芸的な雰囲気の方向なのかもという傾向は感じていて、それは趣向や志向性の違いだ、と思うくらいには距離を置いた読み方が出来るようになってきた自分も感じる。以前の自分なら社会性や主題性の無さだけで断じがちだったが、それを制止させるだけの虚構的あるいは創作的な魅力を一定以上備えているのだとも思える。
 今のところの既読作列の類似項目として、
 ・主人公は大抵の場合は妄想や仲間外れ感が強い
 ・書店でリアルを拾おうとする謎行動
 ・同性の友人関係の築き方に難があり、
 ・そもそも対人が苦手なので異性関係も大混乱しがち
 このあたりのことを、一冊目に著者の作品として読んだ『わたくし率 イン 歯ー、または世界』で、こんなきれいな人がこんなものを書くなんて信じられないと思ったものだし、それは今も変わらず、『ヘヴン』も確か変な疎外感の話だった気がするし、私はエッセイとか対談とかは読まないので著者自身の内面には触れる気はないのですが、川上さんは少し気になる。

 上記の要素をテーマ展開として読み解きながら作風や個性を考えると、
 ①「コミュニケーション不全」
 ②内側の内在的な理知感や、文体
 ③外側の事象や展開(ストーカー、妄想、アルコール中毒、友情性)
  →ここが意外とあるから、女性作家の中で意外
 結果としての痛みやドラマがあり、言語化と視点表現だからこそ、文芸的であると言える。

国内作家が海外で読まれる時のレッテル

 ここまで今回川上未映子を読んできて、著作列や受賞歴を見ていると、津村と同様華々しい中でも相違点として、『ヘヴン』のブッカー賞翻訳ノミネート、『夏物語』のノミネートが目を引いた。
 個人的に国内作家の海外受容として、古く村上春樹や小川洋子、多和田洋子等のイメージで止まっていたけれど、多くのグローバリズムと共にこのあたりも現在は変化しているのだろうし、映像化しやすい作家や漫画アニメ系の特色の強みによるラノベ系の強さもあるのだろうなと思ったりするし、現状のそれが気になるところ。

 川上単体で見ると、発端はコミュニケーション不全が著作のきーわーあどになる気がして、個人内的と外的事象との折り合いの悪さ、その狭い世界観と広い世界を微妙に描けていることが、好みではないが興味に繋がっているのかと考え、海外需要の面でも見てみようとして以下。
 海外テーマや題材の広さはないが、個人内的から見た折り合いの悪さの事象という、狭いスケールで拡げている点が、内側から見た狭さと外側との事象を描けている点で、狭さと広さの邂逅であり個人と世界であり、日本文学的でありながら普遍的な広さとの邂逅がある、それは世界文学へ通じるのではないかと思えるし、個人内的と世界社会というのは私にとっても主題だし、社会派題材テーマの広さはなく個人内的テーマの狭さ=日本文学のまま、というのが上手いのかも。

国外での受容のされ方
「社会的関心と時代性」 と 「カテゴライズのジレンマ」

 著者の作品は多数の言語に翻訳されており、英語、ドイツ語、イタリア語など欧米での出版も進んでいるらしく、その面から見ると代表作は『ヘヴン』(英訳“Heaven)で、国際ブッカー賞(International Booker Prize)最終候補になったとのこと。『すべて真夜中の恋人たち』 (“All the Lovers in the Night”) の英語版が全米批評家協会賞(National Book Critics Circle Award)の最終候補にノミネートも目立つ。『夏物語』(“Summer Story”など邦題・英訳)が40か国以上での出版が進んでいるとか、最新長編『黄色い家』のドイツ語版が出ており、ドイツでブックツアーや朗読・トークの場が設けられ、ベルリン国際文学祭など、海外文学祭での登壇や朗読イベントが行われているのとのことで、その際立ったビジュアルや作家個性も上手く使えている様子。

 女性の身体性、ジェンダー、社会階級、家庭・貧困・社会の周縁部の人々の暮らし、倫理的問いなど、普遍的かつ国際的に共感を得やすいテーマを扱っているという評価があるようで、社会的な関心と時代性など、今世界で議論されているテーマと重なる部分があり、それによって読者や批評家の共感・関心を引きやすい主題であることや、文体の内声、身体感覚、感覚的表現への関心も高いそう。
 学校でのいじめや貧困、家庭内の関係性など日本社会特有の状況を描きつつ、それが人間性や痛みや個人と社会のかかわりなど地域を問わない普遍的なテーマで描かれていることや、それを表現する言語の感覚的な文体として身体感覚から微細な感情の揺れなどを豊かに描かれ、翻訳者にも評価されやすい伝えることの難しさと魅力を持っている部分も強みになっている模様。

 翻訳の質や翻訳可能性の問題として、感覚的に詩的な表現や日本語ならではの言葉遊び・文体を保つのが難しい場合があり、翻訳者の力量に依存するようだが、いくつか見られたのは翻訳チームや出版媒体の組織的強さも見られたので、そうした部分に恵まれたのだろうことも読めたが、実際のことろは不明。
 「日本文学」「アジア文学」「女性文学」などのラベルが付くことがあり、それが作家自身としての「個別性や作品性」が見えにくくなるジレンマを著者本人も指摘しているとのことだったが、個人的にはそれは悪いことではないと思うが、外から見られる側に立つと書いても理解されづらさの苦肉があるのかもしれないが、作風的にそれは仕方がないのアと思ったりもする。日本だけの作家ではなく国際的な文脈で語られる存在になりつつある、というのがすでに面白い。

 冒頭で示した通り、3記事目へ続くが、2回異なる作家作品を挟みます。3記事目では『ヘヴン』の再読と初読みの『夏物語』を予定。

 

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