G-40MCWJEVZR 四季を咲かせた音楽家と反戦の天才画家『ピエタ』『暗幕のゲルニカ』芸術家小説に飛び入りした原田マハと大島真寿美② - おひさまの図書館 つまらない 画家 ヴィヴァルディ
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四季を咲かせた音楽家と反戦の天才画家『ピエタ』『暗幕のゲルニカ』芸術家小説に飛び入りした原田マハと大島真寿美②

文芸作品

「直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?」通称直木賞企画第7弾、前回受賞作『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』が浄瑠璃を扱って面白かった大島真寿美の著作列の中でそれ以上を探す今回、代表作的に有名な『ピエタ』が音楽家小説だったので、芸術家小説としてピカソを扱った原田マハ『暗幕のゲルニカ』を思い出し、読みました。

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直木賞企画
直木賞はつまらない作品に受賞させるものなのか? 受賞作以上を著作列から探せ! 2025年現在から2005年東野圭吾まで遡りつつ、気になる作家の受賞作+αを読んで、受賞作とそれ以上を探して読むこの企画。直近の国内中間小説の著者を把握しながら読...

小説家の才能、芸術家小説の魅力と難点

 大島真寿美の直木賞受賞作『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』を読みながら、その小説的な豊かさや鮮やかさで森見登美彦を思いだし、今回の『ピエタ』を読み始めたら芸術家小説として原田マハを思い出し、芸術家小説という虚構性抜群の作品性に対し作家がいかに史実性と虚構性を交え、どれ程の創作的な堅牢さと文芸的な魅力で一作を仕上げたのか、楽しく読みました。

 作曲家をモチーフに取った本作を読みながらふと思い出したのは、画家を手に取った原田マハ。ファッションとしての読書、空想としての小説、先日の門井慶喜②で2016年第155回直木賞の候補作の中に見つけた『暗幕のゲルニカ』。私はブログ開設間もなく著者の作品としてゴッホを扱った『たゆたえども沈まず』が微妙だったので印象が良くなかったが、それもまた直木賞受賞が微妙なだけで著作列にはそれ以上の作品もあるかもしれない可能性に似て、一冊読んだだけで作家の判断をした可過去の私の読みが固すぎた意味もあるかもしれないからもう少し読んでも良いのかなと思った。
 浄瑠璃の内側の事情も知らずにモチーフにしようとした展開も感じるし、次に控える空に牡丹も時代小説で大島真寿美が歴史や時代小説の書き手なのかもしれない、ということも今回感じつつつ、原田マハと並べると虚構創作モチーフの鮮烈では軍配ではあるが似通りつつ、実力は大島のが上であると感じるのに商業的にそこまで売れている感じではないこと、それにしても原田マハの着想モチーフや虚構性の強さと商業性の素晴らしさ、そして佐藤亜紀や皆川博子に通じる日本人女性作家が海外歴史時代小説モチーフがどう受け取られるか、等を思ったりした。大島は日本の浄瑠璃小説で直木賞受賞、海外画家小説の原田マハは直木賞未受賞、という賞の狭さを感じる。それで言うと佐藤亜紀は直木賞受賞していない。(イメージで言うと吉川英治文学新人賞をとった『ミノタウロス』(2007)の次で文藝春秋から出ている『激しく、速やかな死』(2009)で初ノミネートして、その後『金の仔牛』(2010)『吸血鬼』(2012)あたりでとってるみたいなのが妥当っぽいのにな?)皆川博子さんは1986年にとっています。

「たゆたえども沈まず」原田マハ
彼女が描き上げたかった芸術家の一生とは? 本作は誰もが知るところの画家、フィンセント・ファン・ゴッホがその生を閉じるまでの芸術家としての足掻きと苦悩、それを金銭的・経済的にも支える弟の筋を主軸に、脇に浮世絵を西洋に持ち込み広げることに成功し...

『ピエタ』(2011) ヴィヴァルディと孤児音楽

 私は基本的に事前情報を無しで読み始めるので、突然のヴィヴァルディ登場で驚いた。
 直木賞作家の受賞作と著作列からより面白そうな作品を何冊か読んで、その作家の本質を探りたいこの企画ゆえ、基本的にはタイトルからあらすじを読んでリストアップするのだが、著者の『ピエタ』は本屋大賞ノミネートなど当時非常に有名だったのであらすじも読まずの選本だったし、聞いたことのある方も多いかと思う。同じ頃に流行していた小川糸さんなどの元祖癒し系と同じ部類の作家作品なのかなと思っていたので、音楽家モチーフの時代小説というのは良い意外性で始まる。

 18世紀のヴェネチア、孤児を養育するピエタ慈善院は貴族からの寄付と付属の音楽団〈合奏・合唱の娘たち〉の舞台コンサートによる収益で運営されているため、著名な音楽家を教師に招いて娘たちの指導を行っていた。その一人で『四季』の作曲家ヴィヴァルディは彼を先生と慕う娘たちを残し旅立ち、興行先のウィーンから訃報が届く。ヴァイオリンの神童アンナ・マリーアの親友で音楽の才能に恵まれなかったエミーリアは悲しみながらも、娘たちの運営を継続させるために貴族からの寄付の為にある楽譜を探すために奔走する。

 冒頭から仮名が多い多少児童文学的な読みやすさを感じる、これもまた語り手の才能かと思う。非常に滑らかな滑り出しと、少女時代の友情や、幼心から始まる導入は誰もが共感しやすく可愛らしいし、主人公たちは生みの親が匿名で子供を託す慈善院育ちだと冒頭から明かされ、音楽の才能がある者は育て上げられる付属の音楽団に入り、その収益と貴族からの寄付によって保たれる環境に棲む娘たち、そしてその音楽的素養を見出し育む音楽教師の名に有名なヴィヴァルディが出てくるから、歴史小説の趣もある。
 調べてみるとピエタもヴェネチアに実在した団体であるし、ヴィヴァルディが庶民階級出身の音楽家として一定の地位を得る出発点として聖職者加入や音楽教師になることの理由に合点がいく。
 中心モチーフになるピエタは、母体が子供を社会的に託す捨てられてしまった子供たちを預かる養育施設で、本作には娘たちしか登場しないが現実的には男児も受け入れており、男児は16歳頃には仕事を見つけて出しているのに対し、音楽の才能がある娘は8歳前後から英才教育をして音楽団に送り込み、それ以外の娘たちは手作業による裁縫などの仕事をこなして、結婚を機に外に出る以外は養育される、との仕組みらしい。音楽の才能を見出された娘たちとはいえ、上は70歳まで、平均年齢は40歳前後、娘たちの姿かたちが見えない舞台構造似て行われるコンサートや教会における演奏スタイルは、興行過ぎないし見世物にしているわけでもないことに安心する。
 慈善事業が自立するために、地域への文化貢献を兼ねて興行を行っている点は面白いし、文化的に根付くことで市民や貴族を広く鑑賞者にし、その知名度や有名な音楽家を輩出した経歴から、貴族の娘の花嫁期間的な物にもなっていた、それがまた貴族社会との結びつきや拍付けとしての文化を強めていただろうこともうかがえて面白いが、そのあたりは本作ではあまり触れられていなかった。公的な資金に頼るのではなく、存続のための自立性や、文化への貢献と雇用創出の側面、勿論一人では育てられない母親の救済と、後に顔も名前もわからなくても成長した娘が所属するかもしれない一段の興行に母親が人知れず触れられる、救済と文化の象徴性であるところも、個人的に非常に魅力を感じた。

 孤児院と財政難、人気作曲家の献身や逝去とスキャンダル、楽譜に隠された謎、貴族の政治性、ヴェネチアの祭り、仮面のまま通わせた愛と出会い、婚姻話など、要素としてはあるが魅力的な虚構性までは書き上げられない前半は冗長に感じる。財政難の打開策としての楽譜の行方を探しながら、作曲者であるヴィヴァルディゆかりの人物を訪ねていく先で、ヴィヴァルディが外部の興行に伴っていたことで関係を噂され史実でも虚構性に溢れる有名な歌手アンナ・ジローが出てきたり、公的にはされていないある女性との関わりが描かれたりもするが、きっかけであるヴィヴァルディのモチーフが若干弱いし、主人公がある女性の看病に手を尽くす理由も薄弱、事務方の彼女が助けて奔走すべきはピエタの財源難への解決策であるところの楽譜の入手か音楽団の再興であるし、プロット的にもそちらに説得力があるので、途中は何に迷い込んで展開しているのかよくわからなくて混乱した。
 実在の有名な作曲家をモチーフに採れば、それに興味がある人が読む可能性は高いし、そのモチーフ性を使った虚構創作であることを期待して読み始める読者もいるだろう、その期待に対して、音楽教師をしていたヴィヴァルディの魅力を描けておらず、史実や読者のイメージ頼りであるのは創作性としては微妙。それらを逆手に取った創作性が狙われているわけでもない。
 合奏団に対する提供としての作曲故の多様な楽器を扱った合奏協奏曲から独奏協奏曲へと進んだヴィヴァルディ創作の特徴や、簡易や高度までの作曲的展開、温かな楽曲のメージと即興・速筆による多数の楽曲数、オペラ興行で外国からの華々しい名声と国内の微妙さ、死後すぐ忘れられ二十世紀に再評価されるまでの展開、などの音楽家モチーフはほとんど採用されておらず、ヴィヴァルディとピエタの焦点が膨らまないまま、楽譜探しや人探しが進行していくプロットは上手いとは感じない。

 他の関連書籍で何作か「ヴィヴァルディ×ピエタ」のモチーフ題材で書かれた虚構創作を見つけたが、基本的には女の園の音楽団の中で才能に恵まれた少女とヴィヴァルディを描いている作品が多い中、本作は音楽に愛されなかった女性たちの物語になっている。外部の歌手であるアンナ・ジローやピエタの歴史の中でも抜群の才能で輝いたアンナ・マリーアでもなく、才能に恵まれなかった彼女の友人を視点人物にしているし、作中プロットを引っ張る人物として貴族の娘がキーパーソンになっているし、才能あふれる音楽家の兄の稼ぎで養われていた姉妹だとか、主人公たちを助ける形で登場する薬学校で出会った相手に嫁いだ薬屋の女性等、興行としての音楽性を持つピエタを題材にしながらも、その才能に恵まれなかった娘たちを描いている特徴がある。
 そんな彼女たちもそれぞれの道で恵まれるという提示もされるがそこがテーマにまで昇華はされているとは読めないし、とくに主人公は謎のまま落着する。孤児ではなかったが娼婦に落ちた女性や、家族に苦労させられながらも年の離れた才能溢れる妹のために人生を使う女性、貴族に生まれ初恋の男性に嫁ぐも何やら必死過ぎる女性、なども登場し、それでいて何かを明確に描くわけでもなく、その上でそれら多数登場する女性同士のつながりや円環を描いている気もするが、リーダビリティはなく虚構的な効果も微妙で、安易な楽譜探しのミステリにも寄らず、主人公の破断の過去や当時の恋愛も描かれ過ぎないし、なぜある女性の救済にそこまで尽くすのかも謎なまま、ピエタの貧困や救済のための音楽団の奮闘なども描かれないし、上品を狙ったのかと思うがその創作的な効果がいかほどなのか、私にはわからなかった。


 このあたりは『渦』にも関連し、魅力的な素材を集めてくることは得意ではあるが、プロット展開や表現上の実存に難があり、虚構性は感じるが物語的な実態がないので雰囲気創作の感が否めない。『渦』でも、着想になったらしいお末は魅力的だったが肝心のお三輪が魅力的に展開されず、一門の頑張りや興行に関する部分の描写による実体性があまりにも希薄で、本作も口語体による筆記が上手いから読めはするが、実態プロットや場面があまりにも不明確で、創作性が弱い。
 素材集めや組み上げ方の上手さは序盤と終盤に感じるけれども、中盤のプロット運びや場面の魅力に難があり、これは後述の『暗幕のゲルニカ』にも言えることだが、創作的な堅牢さがないから読み応えがつかみづらいし、物語の弱さがテーマ表現の弱さに通じる、故に明文化する以上の表現が与えてくる威力が弱い。テーマ性の誇示に関して言うと大島と原田の作風は正反対な感じがするのは作家の個性が見えて面白い所。

 終盤における音楽題材故の魅力の爆発はあるし非常に魅力的。冒頭と最終場面の印象値が創作的にいかに大事なのか、の要所は押さえてくれるのは安心する。
 船乗りの歌や中庭での演奏、希望や悲しみと老いと光と隣人、そして最終的な締めの部分は良いし、締めてなお広がる感じは文芸ならでは。そして音楽家モチーフ作品であることを思い出させてくれる音と光の豊かさやまろやかさの奇跡を感じる虚構性はお見事で、閉じ方も非常に上手い。虚構性の勝利だし、それが題材やテーマにもマッチしているのが良い。情感の引き方を知っている感じが作家だなと感じる。
 ヴィヴァルディの時代は音楽家も優秀なものが育ったが、その後はその星を失った、そして収益が下降していった、そのそこはかとない才能の終焉や儚さを扱っている気もするし、才能を見出され、手に職を持ったりしながら、豊かに暮らす、けれど母親に捨てられた自分のアイデンティティの普遍性もあるし、その孤独、あるいは家族がいても貴族に生まれてもその孤独、様々な幻想、その音楽の喜びと悲しみの色合いは魅力があり、優秀な着眼はなされている。
 彼を抜いては語ることができなかった孤児院に材を据え、この虚構性の選択、音楽関係ないやろと思わせる中盤から、船乗りの歌と中庭の音楽の締めは見事。

 それだけに勿体ない前半の刈込は可能で、主人公の恋の決着や人生の展望や楽譜紛失にまつわる語り過ぎなさは良いにしろ、では本作はなんだったのかと総合すると、ヴィヴァルディ作品でもないし、ピエタ楽団作品でもないし、ヴェネツィア作品でもないし、女子交流の円環作品に過ぎない、と言われたらそれまで。
 望まぬ妊娠や、女一人では自分の身体に宿った命の責任すら果たせないせちがらさや、身分違いの男に騙されて身籠る、一人で育てられずに子を棄てる女、捨てられた子供たちの低音モチーフが本作にはあり、それを内包するのが音楽家や少女性と身分社会で貴族政治的なヴェネツィアの華やかさと暗さの明暗、というのもあるし、ここももう少し濃密に明暗くっきり虚構性にもテーマ性にも描ける。
 ただその重みのテーマに対して、女性同士の親愛の円環、団結や救済の慈愛の院があること、その公的な成り立ちの柔らかさ温かさと、自立のためのビジネスとしての音楽や芸術の見出し方によりいかに稼ぎ、才能のあるなしなどの固さ冷たさは対比になるし、両立させた上で存在するピエタや音楽が浮かばれる虚構性というのは魅力的なモチーフテーマ。

 受賞作『渦』(2019)に比べて、豊かさや明るさのモチーフと創作を成せているとは感じるが、技量はやはり後年の成長と当時の稚拙を思わせる今回の『ピエタ』(2011)、才能を感じさせる良作だが、長所を伸ばして短所は未だ継続との状態も観測。次読むなら最新作だな。『空に牡丹』は『弾幕のゲルニカ』に撃ち落とされて脱落しました。

語りの上手さに劣る浄瑠璃題材の威力『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』大島真澄美①
浄瑠璃時代小説を可能にした口上の上手さ、これに尽きる (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});  受賞作、その渦の中の魅力、内包された威力  驚くべきはその語りの上手さで、冒頭から...

 

『暗幕のゲルニカ』(2016)天才画家パブロ・ピカソに感じる運命

p427>一度離れ始めた芸術家の心を繋ぎ止めるのは、飛び立つ渡鳥を押しとどめるようなものなのだと。
 もとより永遠にピカソの隣の席に座ることを許されているのは自分以外にない、とは思っていない。付き合い始めた瞬間から今までずっと、ピカソの一番近くに陣取っている自分の席はあくまでも仮の席なのだ、と自分に言い聞かせてきた。
 自分がピカソの恋人になったのは、幸運と、偶然と、成り行きが重なったからに過ぎない。
 最初のうちは、自分はほかの女とは違う、自分は芸術家で、芸術家である自分をピカソは愛しているのだ、といい気になっていた。
 しかし、それは勘違いなのだと、やがて理解した。私はアーティストなのよ――と、どんなに虚勢を張っても、パブロ・ピカソという圧倒的な才能の前では、芸術家としての自分の存在など芥子粒のようなものだ。それがわからないほどどらは軽薄な女ではなかった。
 ピカソと付き合ってもう八年にもなる。
 その間、離婚が成立していない妻、オルガ・コクローヴァや、ピカソの子どもを産んだマリー=テレーズ・ワルテルの存在に煩わされながら、また、そのうちにきっと現れるだろう「新しい女」にすでに嫉妬を覚えながら、ドラは、ただひたすら、自分でも滑稽なほど一途に、ピカソという太陽を追い続けるひまわりの花だった。
 けれど、ひまわりが咲き誇る真夏はとうに過ぎ去った。遠ざかる太陽をどれほど求めたとて、一輪の花ごときに日没を止める力などない。

 この部分を読むだけで冗長な文章で、刈込の余地があることが分かると思う。
 本作は非常に魅力的な題材とテーマ性を持っていることは否定できないほど強烈ではあるが、その一方で文章や創作性の稚拙が勿体無いほど目立つ、確実にこのモチーフは作家が代表作を書く時の力の入れ方で発表されたものだと思うが、それでこの出来なのだから、もう実力だし表現力の問題になる。
 でも私は『たゆたえども沈まず』だけで読まなくならなくてよかったと思ったし、これほど野心的な作家が国内にいるのだと思えただけで楽しかった。壮大なテーマや題材を書くこと欲望を作家は持つべきで、その意味では素晴らしい。

 第二次世界大戦前後のスペインが輩出した天才画家ピカソをめぐる女性と、9.11で夫を亡くしたピカソ専門のキュレーター女性の二軸を結わえ、その焦点にパブロ・ピカソの代表作の一つ「ゲルニカ」を用いたもの。
 一枚の絵の存在感、戦争や暴力に対する芸術、芸術という表現の強さと儚さ。これは結構なテーマで力作、全力を込めてきたのが分かるし題材モチーフとテーマは圧巻、多彩なだけの森見登美彦は消し飛んだ。
 本作は2016年下半期の直木賞候補作だが落選、プロットも微妙だし展開の微妙さは間違いないので、創作的な面と文章作品としての完成度の話であればそれも納得。ただ、テーマ選択やモチーフ着眼は良し、これは絵画や画家がおしゃれ題材になり得るとした商業性の察知にも通じるし、総合的な野心や逸材性の高さは買いでしかない様に感じる。
 現代側の女性は、幼少期にゲルニカを見たことでピカソ専攻への布石を持ち、巨大すぎるが避けて通れないと実感、その後9.11で夫を亡くし、その報復としてアメリカがイラクに攻撃を仕掛けることに対して、今こそゲルニカと反戦、猛然とした講義や責任感、あれは私たちの絵、私たちの作品、誰もが人類であり芸術であり人生であることの、奪われない人生と表現の自由のための、その戦いであるとしたその軸は題材的でテーマ的で現代的。
 それにあわせるクラシカルな軸として、ピカソが鍵括弧で話す台詞小説を恋人からの視点で描いた。点在するように女性を渡り歩いた画家がゲルニカを創作するときに一緒にいた女性、その点から見た喜びと悲しみ、前後の天才と現在その時の天才、というモチーフも良いし、もう少し恋愛とピカソの個人的側面を描いてもいい気もするが、そこは描きすぎないドライは個人的には悪くないし、巨大な天才過ぎて通り過ぎていくもの、太陽に向かうひまわり、だからこそ今守り抜かなければいけないし、後世に作品を守らなければならない自意識と、最後の最後では女や芸術家としての自負をきちんと持った、というのも結構悪くない。
 この二軸が交わるところにあるゲルニカ、そして今後や現代の人類にとってのゲルニカ、反戦や人類主義、第二次世界大戦や二十一世紀初頭アメリカのテロとの戦いと中東、そして未来へ、という題材テーマは本当に良いし、巨大なピカソと二大戦乱と反戦を扱った焦点、これは間違いなく代表作狙いの力作に間違いないし、一応破綻せずに済んでいるのがまず評価。これで獲れないかあ、という感じはする。 
 この作家がとても尊大で壮大なスケールのモチーフと自分を持ち合わせているのは感じるが、文章力が足りないので語り方が文章以上には広がらないし、現代側の展開は確かにお粗末で創作性は微妙、それにしても一番の欠点は人物に魅力が無く、内的に浅薄な人間しか登場しない、これは『たゆたえども沈まず』にも感じた外側のモチーフのみで内的な成熟も魅力もない人物しか描けない点が共通しており、もはや作家の理知感だと思う。
 それにしても題材の重さ、テーマへの責任感、作家が愛するモチーフと重いテーマを掛け合わせた力作だとは十分わかる作品性、文章も創作性も足りていないが力作で、評価に値すると思うし、これが評価されないのは拍子抜けの感あり。
 ただ私は絵画について詳しくないしピカソも好きな印象は無いので、反戦要素だけを際立たせてそれ以外の作家性要素に触れておらず、あくまで不遜の天才で女遊びが得意なシニカルさで人物造形を飾った本作の趣に奥行きは無いか。選評でもそのあたりのことは触れられている。
 こんなに書いて、こんなに売れているのに、中間小説の第一箔のような直木賞が受賞できないとなると、ちょっと脱力してしまう気持ちもわかるか。別にあげてもいいと思うが、売れてて虚構性に嫉妬するけど、文章や文芸性でダメだし出来るウィークポイントを持つところに付け入る隙があるのかな、勿体ない現代性と商業性の小説家だと感じた。
 作家が作家を評価する、って難しいよな。

『坂の上の雲』が立ちはだかる、明治時代の創作的難易度『家康、江戸を建てる』『東京、はじまる』直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?門井慶喜②
直木賞はその作家のつまらない作品にあげるものなのか?企画第三弾ですが、前回同著者の受賞作『銀河鉄道の父』が割と面白く、ハズレとは言えなかったために企画の仮説が早くも倒れそうです。しかし、初読書だったので、受賞作は実はこの作家の中ではハズレレ...

 代表作を狙った意欲作、というのがまず良いし、おしゃれ雰囲気文芸が社会性を扱ったらどうなるのか、という実験としては面白い。小説家としての才能は再評価に値するが、創作的な実力はまだまだだし、文芸にしては内的な能が弱いなと感じてしまうのはかわりなし。
 芸術家をそれぞれ扱った作品として、ゲルニカがピカソを焦点にしているのに対し、ピエタのヴィヴァルディはあくまでその装置に過ぎず、彼が与したピエタが本質になっているのと、終盤の見せ場の船乗りの歌と中庭での演奏会が音楽題材の面目躍如、大島真寿美は悪くないバランス感覚だった。
 それに対して原田マハは自分の書くべき虚構モチーフがある作家の威力で、おしゃれ系としては似てるが、文章や虚構創作の作り方の堅牢に関しては大島の相手になる高さは無いが、虚構性の強さと自分なりのジャンルを編み出した意味、それなのに後追いさせない知識量などの強み、虚構創作的な威力のモチーフは圧巻。ぜひ突き進んで欲しい。

消し飛んだ森見登美彦はいつか再登場するのか

 

 音楽家や音楽の才能、興行や商業で生きる人や家や町などという自分では手に取ることがない要素の題材モチーフ作品を、浄瑠璃につづき読む機会に恵まれたのは著者のおかげだし、このモチーフの手広さ、題材性の下調べやその着眼などは高いレベルに感じる。これらは間違いなく小説家の才能の作品であり、その鮮やかさや明るさ、楽しさや軽さ、読みやすさと分かり易さによる享受のされ易さはある。ただ創作技術的な明確性で語る部分でもなく、完成度の話でもない。森見登美彦にも関連するし、一冊目の渦でも感じたものであるし、この作品世界観の豊かさ、その作家の土壌、作品世界の土壌、その理知感の豊かさで、たとえば個人的に小川洋子も思い出す。
 たまにいる小説家になるべくしてなったし他の職業の可能性は感じない作家というのが存在するが、個人的にそれを強く感じるのは、文学性やテーマ性などの天性よりはこの豊かな小説家の才能に感じるところが強い感じがするし、それは虚構性を映す文章性の豊かさであり、技術実力文芸文章力はまた異なる。それは確かな魅力と色彩を持つから、こうした作家が読まれて売れる可能性は高いし、ミステリのようなジャンル商売とも違うのに、一定以上の読者を獲得する。
 小説家の才能と文学とは何の関係もないと私は思っていて、才能と技術も違うものだと思っているが、こと小説家の才能とは虚構性の豊かさや魅力の独創の文章による語り口になるのかなと思うし、全方位的な虚構性の強さ、文学性の重さとは関連しない軽さと豊かさと明るさ、けれど創作的な固さを持ち得るまでの高さやテーマ的な筆致にまで届かない素養の話とも感じる。
 文学性も文芸性も気にせず、好きだ、と思える虚構性作品はなかなかないのではないか。ただそれを実践させるのが小説家の才能に思う。

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