全般的に物凄く魅力的な作品に仕上がっている。特にこの生命力と、作品性の豊かさは目を見張るものがあるし、ある死体の発見からクライムノベル的なフーダニットが存在するが、本作のリーダビリティは圧倒的に主人公の少女カイアが親に捨てられ、兄弟にも逃げられた6歳から始まる孤独を生き抜く生命力や、ふりかかる厄災に対する彼女の防衛本能とその達成の必然性、そして生息地である湿地の虚構性による。
著者は動物学・動物行動学にて博士号を取得している異色の持ち主。本作が69歳にして初めての小説上梓なのだそうだが、文章力と創作性は良質。翻訳文ではあるが文章にも不慣れなところはなく、本作は章ごと大きく視点人物を分けているが、主人公カイアの章で一文だけテイトの視点が紛れている所がある以外の混乱はなく、恐らく文章もまともで読みやすい連なりにて500頁以上を、構想的にも豊かで破綻なく、ミステリーも絡めながらうまいリーディング要素が散りばめられている。
生物の暴力的摂理と生命力、生物の雌と雄から人間の男女、営みの中における関係と心理、そしてその人間模様の渦は愛や恐怖。素材が豊富すぎるほどだが、それらを惜しみなく書き切って破綻もしていないし、書き足りないと思う部分もない。惜しむらくは、題名の文言が作中2回出てから、最後にもう一度出てくるのだが、現在のさらりとした終わり方ならば事前には出さない方が際立つし、途中で数度使ってからならラストはもう少し膨らませて上げても良かった気もするが、気になるのはそれくらいか。
非常に映像映えするであろう本作のモチーフ性と、偏見や差別を含んだ遜色と男女の残酷と情感も含めた本作は、2019年と2020年連続でアメリカで最も売れた小説として本国で500万部以上を達成し、全世界で累計1500万部を超えるベストセラーになったそうだ。2022年に本国で映画化もされている。こういう作品が売れるのだから、多少文化的な落ち着きを感じるし、話題作が売れる早さも海を渡る早さも、羨ましくも力強くもある。
同じ2019年に発売され、映画化、今も売れ続けている点や男女のテーマモチーフが類似する日本の小説に辻村深月の「傲慢と善良」が浮かんでしまい、小説としての出来の圧倒的な違いに文化的成熟の差に唖然とする。
豊かな自然界と人間的な差別や偏見、男女関係や親子関係など、緻密に組み上げられた世界観に生きる主人公キャサリン・クラークはみなからカイアと呼ばれ、彼女にとって幸せな記憶の頃は四人兄弟の末っ子として生まれた女の子だった。家族は街から隔離されたような沼地のぼろ屋に住んでおり、過去の従軍トラウマから酒浸りでほとんど働かない父親は機嫌を損ねると妻や子供たちに容赦なく暴力をふるい、母親が盾になっても守り切れずに子供にすら手を出された日々が続き、ある日彼女は幼い子供たちを捨てて一人湿地を離れる。その日から、盾を失った子供たちはひとりまたひとりと散り散りに消えていき、一番幼いカイア一人が父親のもとに残された。当時6歳。
街の人々はいつしか彼女を”湿地の少女”と呼ぶようになる。
加害性や暴力的な言動を持つ男性からどのように逃げ、どのように隔離するのか。
それを社会的な司法や正当な他者が行ってくれない場合、女性や生物としての防衛を考える場合にどうすればよいのか。これは古来からの問題であるし、それを主題にすることが許され始めているが解決はされていない現状であるという意味では十分現代性がある。
作中で主人公は、なぜ母親は自分たちを捨てていったのかと、愛しく帰りを待ちわびた幼少期から、いつまでも迎えに来てくれない日々に、いつしか捨てられた理由と自分の非を思索し、それが要因にもなって他者との親しい関わりが上手くこなせない。幼少期に捨てられてから一切の言葉を交わしていないにもかかわらず、ある経験から母親が耐えられなかった苦しみや現実とは何であったのか、そうした生物界や人間性の到達を果たして、母親の苦しみや弱さを許す場面が出てくるが、こうした想像力や理解による邂逅、十何年も会えない相手との理解と許容が生まれる場面が描かれる、素晴らしかった。
そこの現実的な効能は、彼女には起きない方が幸せだった、けれど起きたから母親への理解と想像力が及ぶ。翻弄される運命や腕力を持たざる者の恐怖感と、理知感的な人間性や社会性を持つ者が陥る、そして救われる、大事な場面。その描き方が、本作のメインテーマの生物や母子や男女と生存や幸福を表す大事な要所を作り出していて、とてもうまいなと感じた。
本作もまた男女的な要素を多分に持ちすぎている側面、それは生物界においても人間界においても同様である点、などもひどく現代的であり、つまり商業的であることも痛感した。
惜しむらくは、裁判官が戦略であろうと訴えたかった祈りとするところの言説、この裁判で裁かれるのは彼女ではなく私たちである、とした点や、少年テイトにより表現された幼き恋心の純真と、都会や将来への可能性や発展性との天秤に掛けた時の彼女、つまり孤独と無理解と無力と偏見に満ちたカイア、という社会性との間に挟まれた苦悩が要点。それは少年が少々の特権性を持った大人になったからとて簡単に克服できる類ではないからこそ、長年にわたり大衆が克服することが出来ない要素であることの呪縛、がもう少し描かれたらそちらもテーマ的だし現代的で、その苦渋が本作をもう少し深みに描けた可能性だったかなと思う。
自然界への心惹かれる興味よりも、人間社会的な価値観との間に揺れ動くが克服できずに生きるも、カイアに対し憧れと後悔がありながらも彼女を選べない普遍性が描けた方が永遠の憧憬としてロマンスになったはずだし、付かず離れずのその視点のほうが第三者感やダイナミックも取り入れられたし、ラストシーンの取り返しのつかなさも増したと思うし、彼女の孤独感や彼が選べなかったことにより得られなかった幸せが立体的になると思うのだが、それだと主人公が報われないし浮かばれない視点は分かる。しかしテイトという人物は元々現実的ではないので、迷う所。
作中でテイトと復縁がかなうことがどのような効果を上げたかと言えば、カイアの幸福感くらいで、勿論それは読者が安心し一息つく要素にはなっただろうが、ラストシーンが上げた効果は弱いので、よりテーマとストーリーテリングを優先するのであれば、二人は結ばれない方が賢明だったと個人的には思う。
親兄弟に捨てられた少女が自然界にて暮らし、周囲の人間社会から遠巻きにみられる構図や、その生存地域の自然の中でのびのびと暮らすさまや、生物に囲まれて過ごす様子などはひどく虚構的かつヒロイックな要素で、およそ現代現実的には本作は描かれない。
自分で食料や燃料を手に入れた最初の場面の誇らしさや協力者が増え、書き貯めていても”何の役に立つのか”と恋人に言われたものを称賛され本にして貰え、自分の力で食べていけると感じた時の誇らしさ。家を手に入れる心地、自分が信じる安心を手に入れる自由裁量についても印象的だった。
幼い彼女から貝を買い取って食料や燃料に換えてくれた黒人夫婦や、彼女に文字を教え愛を注いで交流に尽くした後に出版への足がかりを作るテイトの存在は、ご都合主義とはいえるが、現実の交流や親愛は転がるところには転がっているし、主人公の行動力や継続性にも生命力を感じるし、始まりや成長性の物語という要素もあり、決して暗いだけの作品性でないのも魅力的だ。
本作が評価されるべきはその真新しさや現実性などといったものではなくて、既存の魅力的な虚構性の多くを体現しきって完結させた、その手腕によるところが大きいし、またそたうしてまとめられた一冊の物語としての雄大さだ。
本作のテーマは生物としての生存や雌としての成り行きであり、そうした自然界や人間界での生き方であるから、暴力的な父親に難儀する母子も、元恋人に脅かされる女性の心身や生活も、そうした非人道的かつ生物的な要素も摂理だとして扱わなくてはならなくなるので、主人公の生命力も父親や別れた男の暴力性も、ひとえに生物としての自然的摂理だということにもなってしまい、それを湿地の奥深くでは、起こり得て、存在し、敢行されても仕方ないし、故に実行して然るべき、とするのは理知的にはなかなか厳しいが、生命の営みの中で発生する結露としては、その循環や落着がまさに自然界と生命を総合して描けているところにもまた情感がある。
カイアは鳥の羽根を介してテイトと交流し、チェイスに貝殻のネックレスを渡すなど、より自然界に近い場所にて、生物としての交流を行っており、人間社会や家庭の中で育たたなかった彼女が、どこで人生や社会性を育んだのかと言えば、孤独と生物と自然界の中でであり、その彼女が法律や社会性の中での規則に従って生きていないのは明白で、そのように育たなかったし、そのように彼女を育てる大人もいなかったわけだから、その帰結は仕方ないようにも思える。
精神疾患により司法で裁けないのと同等以上に、自然界に生きる彼女の自然な感覚での行動の数々は誰が裁ける類のものでもなく、人間界に生きていなかった彼女を人間界の法律で裁こうとする方が無理がある。
女性の生存性についてがテーマになっているのは間違いなく、自然界で生きて育った彼女だからこその必然性を創り出せているのも本作の素晴らしいストーリー性。そしてそれが現代や人間社会における現実性としてショッキングに思えるところ、生物としては古来からあったものだが、人間の女性が現実的にそれを行う所の凶暴性、素直、そして防衛性。そこに辿り着く、そして理解出来る、という所の邂逅が一つの人間性と文学性なのかなと思う。
母親が自分を捨てていった理由、彼女が怯えて耐えられなかった実存、そこに存在しうる感情や生活への理解や配慮。
保安官側を強めればクライムノベル感がさらに増してエンタメ的だったし、弁護士側を強めても守るべき彼女を囲む人間界や社会性が描けたのかなと思うが、そのあたりを強めると逆にラストの根幹に猜疑心が生まれるからこその賛否両論がもう少し掻き立てられて、それこそ本作により彼女を裁く場面に引っ張り出せる、かつ、生物と社会が交わるところにテーマを打ち出して求められる思索における賛否両論を選べる場所になったのかなとも思う。
彼女の行動に善悪を点けるというのではなく、そのケースに思索が及び議論が起こる事と可能性の理解に価値があり、本作はやはりそうした、娘が母親に、彼女に社会や読者が、触れて感じる邂逅と思考の機会を生んでいる。機会創作としては満点だし、下品でもない。
自然界における生物性と、人間界における差別や偏見などの常識や認識、その交差するところに生きる主人公と、その彼女を見定めて裁く場としての人間社会。対岸や社会的な要素としての陪審員や弁護士や編集長、黒人商人夫婦などの描き方が弱く、本作の大部分はカイア側の生命や自然の濃密さを膨らませて描いているので、一長一短だなとも感じる。
自然生物界の対岸や、彼女の外側にある人間社会や社会性を描けていない所が、本作の社会性を少し損なっていて、それは本作が基本的にはカイアの視点を窓にしている点から仕方ないからこそ、彼女と幼い日々を過ごしてから社会性へと踏み出していったテイト側の視点がもう少し伸びれば、ネタバレを差し引いた以外のラストシーンの感慨もう少し膨らませられたかなというのが正直なところ。本編が豊かであるのに対し、ラストがネタバレ以上の膨らみなっておらず、タイトル性と合わせて若干残念で尻窄みに感じる、もう一押し欲しかった。
まあそんなカイアの対岸にある社会性なんてものは、どの時代においても今後も存在するであろうものであり、そこに生きている私たちはしっかりわかっているはずなので、それに対し虚構創作として彼女や本作が寓話的なファンタジー性で浮かび上がることだけでも充分作品性であるし、無駄がないと言えばそうとも言えるのだし、やはりそれを一作目から長編で書き上げた著者の力量に賛辞が尽きないのは言うまでもない。
本作が素晴らしいのは、そうした多くの要素やドラマティックなモチーフを盛り込んだうえで、ほぼ破綻なく構想され、文章にも魅力を称えながらも、長編としてまとめ上げた仕事量だし、孤独と成長、生物と湿地、人間と男女などの多くの要素を余すところなく堪能させる一冊としての集約価値、それを小説家ではない人間がまとめあげた点にある。
専門性や経験値が生きているその魅力、自然や生物への知見やそれをうるさくない文章やモチーフとして馴染ませられている部分、その大自然の中で人間模様による孤独や愛おしさ、そして悲しみ、その情景が本作の根幹や基盤としての魅力を形成出来ており、これが無理をせずとも大胆に本作と作者の魅力を物語っていること等も加点要素に思う。それを手垢がついていない作家が500頁以上の長編で書いた、しかもそれが売れた、素晴らしい。
ランキング登山、こつこつ登頂まで応援よろしくお願いします🌞
↓1日1クリックまで🙇♀️🌞
小説ランキング
コメント