彼女が描き上げたかった芸術家の一生とは?
本作は誰もが知るところの画家、フィンセント・ファン・ゴッホがその生を閉じるまでの芸術家としての足掻きと苦悩、それを金銭的・経済的にも支える弟の筋を主軸に、脇に浮世絵を西洋に持ち込み広げることに成功した美術商・林忠正とその秘書的な役割を担った仏語学生の副軸を据えて描かれる。
まず、生涯のうちにただ一枚の作品しか売れなかった、そんな芸術家の人生は勿論並大抵ではないし、それはそれを支える人間についても言える。
たゆたえども沈まず。本作の題名とそのモチーフにまつわる語りは作中幾度となく散見されるが、その哀愁と装丁の『星月夜』はなかなかに強い。
西洋絵画の素養に乏しい私ではあるが、有名なゴッホの作品となれば何枚かはすぐ頭に浮かぶ。そのどれもが強い色彩と暗い色彩、明るい筆触と暗い筆触、相反する印象は作家の内面の精神性によるものだということは彼の生涯を知らずしても推測できる。有名な『ひまわり』が1987年に58億円で落札されようと、作家自身が生存中には一枚の絵が二束三文で売れたに過ぎない、その困窮と絶望がわかる。
時代や社会の時期に恵まれず不遇を味わうことは現代でもあると思うが、そして自殺に至る結末は現代的ではない劇場的なロマンと言えるし、逆に言えば芽が出ない芸術に十年以上も打ち込むだけの情熱もまた、国柄やその人間性の賜物であったともいえるだろう。芸術や創作に生きるということはほとんど情緒に近い。つまり本作は個人的な情緒の物語だったといえる。
生前は困窮し、死後名声を得たゴッホ。日本芸術作品を売り捌いて活躍し、パリ万博では日本事務局の事務館長を務め、フランス政府から様々な労章を贈られ名声も得ながら、死後には「浮世絵を流出沙汰せた国賊」と罵られる林忠正。対照的な二人を創作としてテーマ的に扱うことは物凄く骨が折れるが、それだけに長編の価値がある。
林忠正、ジャポニズムが本国日本よりも西洋で先に開花され、評価されてからでは日本では国賊扱いされた男の物語。格式高い西洋芸術のアカデミーの権力が強い時代、日本の浮世絵が持ち込まれ、そして印象派の台頭、その時代や流行を感じながらその中で呼吸に奔走する姿、時代を体現し新たな時代の窓を開く芸術家たちの野心、それを支える画商や支援者、最後に生活を保障し絵を描けば描くほどかかるお金の工面をする身内。
認められないままの不遇と苦悩と天才、芽が出るまで、あるいは時代を変えるということ。そのテーマ性は悪くないし、描き切れなかった部分だと個人的に感じる。
彼が自分の才能や人生をかけて描き上げたかった究極と、芸術が生まれて認められる土壌としての時代性、当時の美術史とその業界の段階についての知識は作者にもあって、それでこそ題材に選んだはずであるが、前時代の格式、渡り始めたジャポニズム、影響されて始まる印象派時代の芽吹き、それぞれを詳細に知らない私のような読者にも体感させるに描き出すには膨大なページ数と労力を要し、かつそれを完成度的に創作する難度は高い。
その一端として、突き崩し振り撒く側でもあるジャポニズムの作中体現の為の林忠正パート重要だと思うが、弱い。だからこそ、説明上の現代と新時代を感じながら、その次世代を成したいと自分の芸術を重ねて魂のままカンバスに向かい己を探求する画家の熱さや凄みが感じられずに弱い。
作者は画家とそれを支えた弟を描きたかったのはわかるが、だからこそなおさら、パリの絵画の転換期、そこに現れたジャポニズムでの紛争が時代を変える重さになるし、時間の経過の重要さにもなる。変革前の時代背景、すべてを飲み込むパリ、そして格式を重んじるパリ、その重さ、深さ、豊かさが描かれていなければ、転換期の難易度も、次に来る時代の明るさも微妙、だからこそそれに奮闘する日本人側としての林忠正はもっと作中で躍動すべきだった。
作者が本業とした職業知識による専門性という特性と個性は特筆に値するし、それをまとめあげる丹念な仕事と綿密で膨大な資料との挌闘には頭が下がる。私は本稿をまとめることですら眩暈がした。
魅力的な創作上のモチーフはいくつも存在した。語学生の渡仏に映るパリ、画家にとってのパリとセーヌ川、ノエルと折鶴、アーモンドの葉とベビーベッド。特に鞄の中身の黒い正体の使い方に切れ味もあったし、その滑り込ませ方と切迫と御茶目が混ざり合い行き着く先の悲劇は見事だったと思う。
文芸と絵画芸術の内的趣味としての領域の被り、多作と誠実な文章の作者が美術的知識とそれを走らせる筆はよどみなく魅力もある。画家というモチーフの創作的優秀さと文芸との相性は悪くないはずで、芸術作品と文芸装丁の感慨は商業性もよいため、芸術家をモデルにした小説は、ある種の時代小説や歴史上の人物をモデルにした小説にように普遍的に成りえる価値があり、それを切り開いた上で、一作に終わらず「楽園のカンヴァス」「ジヴェルニーの食卓」「暗幕のヴェロニカ」「リボルバー」など複数作を上梓し、一定以上の成果を上げたことはそれだけで価値のあることだと思う。現代小説、海外のそれにしても、ほかに類を見る作家や作品がいるかどうか私の知識ではまだ至れないところではある。
しかしこの作品が悲劇の作家ゴッホというモチーフにまつわる描き出しに成功したかと言えば、どうか。ゴッホというモデルを扱うのなら、一人の画家が死ぬまで認められなかった時代をこそ書くべきで、それを描き上げるために立体的な創作性が必要だったが、彼女はそれを説明する知識を持っていたが表現しあげた作品性を私には見つけられなかった。どうでもいい時代に売れなかった不甲斐ない画家が、弟に助けられて、助けられて、どうにもたまらず自身の命に手をかけたメロドラマが書きたかったならこれでもいいと思う。そんな一つの命の中でだけの苦悩から生まれた絵だというのならば、時代の中でもがいた芸術家はそこには存在しないのだから。
歴史小説や美術小説、そしてエンターテイメントとしての扱い方として私には少し判断に迷うところがあるが、一つの小説としての評価は以上に留まる。
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