(2018)アメリカ・イギリス・フランスの合作
監督:ジュリアン・シュナーベル
主演:ウィレム・デフォー
出演:ルパート・フレンド、マッツ・ミケルセン
歴史上の人物を扱った虚構創作は、個人的にあまり好きではない。
あまりに有名な人物に関しては、史実を楽しく知るなら小学生が読む伝記漫画で事足りる。
そんなモチーフを採る場合はそれ相応の覚悟と完成度を目指すべきなのに、基本的にはその価値をうまく取り込めずに終わることが多い。あまりに大きなモチーフに、書きあぐねたり忖度したり、それを扱うだけに胡坐をかく、あるいは遠慮する作品性や完成度の作品が多いからだと思う。
ゴッホも人気画家として愛されているから、虚構モチーフに採られることも多いが、満足した作品を鑑賞したことはまだない。巨大すぎるモチーフなのかなと思うし、個人的には才能とは別の、個人としての性格や内向的過ぎる部分などが好みではないことと、それによる虚構作品的なテーマ性に関わるからかもしれない。芸術家の憂鬱とは、生産性とはかけ離れた内向の問題だし陰鬱な陶酔がある。
本作は、不遇の時代や成功を描き上げられない閉塞感に閉じ込められるゴッホが、不安や混乱を伴って精神的な錯乱をし、周囲との折り合いも極めて悪く、女子供に不安がられ、それを守る立場の人間たちに蔑まされ手追われたりする。画材を荒らされ、石を投げられ、迷惑行為が災いして精神病院に収容されたりし、その結果として腹部を銃で撃たれた、というラストを採用している。
史実的には頭部を拳銃で撃った自殺であったと思うのでストーリーに乖離がある。けれどそうした虚構性の採用自体には問題ない。その結果、どんな作品性で描き上げる気で作ったのか、が重要で、結果どんな完成度が出来上がったのか、が問題なのだ。
私が鑑賞/評価するのは基本的に虚構創作としてなので、例えば先に鑑賞している「グレイテスト・ショーマン」のバーナムが史実と異なる人物像で描かれていようと、創作品としてのその魅力と完成度に問題がなければ個人的には評価点を下げないし、特にゴッホのようにその生涯が多くの人に知られている有名人を扱うなら一つの採用違いくらいは別に何の問題もないと考える。創作品は周知や広告による波及の効果を持つが、虚構性は必ずしも史実性を優先しなければならないルールは存在しない。
主演のウィレム・デフォーがあまりにゴッホの自画像に似通った風貌を作り上げているために、単独主人公としての印象値が強すぎるのもわかるのだが、その彼に対しての弟テオとポール・ゴーギャンが内面に与えた影響は計り知れないはずが、そうした主要人物の描き方にも不足が残る。
本作は不安感に満ちた酩酊状態のゴッホからの視点をメインに採用しているが、単純に創作的にゴッホを描く為に使用しやすいのはテオとゴーギャンの視点であり、それでもゴッホを視点に据えたときに採るべき創作性と、それに生まれる効果はどんなものがあると勝機の目星を掴んだのか? それがあまりに見えてこない作品。
狭い視野の混乱で作家が見た色彩を画面に映す場面の自然は確かに雄大ではあったし、途中から画面作りにさらなる趣向が凝らされる。作家の内面と視界への重きが鮮明になるが、それのみの魅力で二時間近い長尺は、ヨーロッパ系の映画にしても退屈が過ぎるし、心理的なテーマが感動や情感に与えてくる効果のあまりの小ささを思うとコストパフォーマンスは最低。
聖職者や医師などとの会話を通じて、なぜそこまでして絵を描くのか、をゴッホに語らせるが、そこまで言語化するような、そして出来るような、作家や状態であるとも思えず、不安なピントに満ちた作中で、そこだけが理路整然としているのも個人的には腑に落ちない。
前述したように、歴史的な人物を扱う虚構作品は退屈な印象もあるので避けているのだが、一作前のココ・シャネルの作品が面白かったことと、本作のメインビジュアルが明るかったので鑑賞を決めた。
背丈以上の麦畑の中で諸手を上げている一枚絵に魅力はあるが、それ以上の最高潮は作中には登場しなかった。その人生ゆえにゴッホを扱う作品は陰鬱な印象が強く、それは使用できる絵画作品群の多くのイメージも踏襲される意味でも仕方がないのかもしれない。
少し明るい側面に光を当てた作品かと思い見始めたが、そんなことは無く、従来通りのイメージからの脱却もなく、2018年、比較的新しい作品であるのに、なんのためにこの作品の制作を決めたのかは終ぞつかめず。
時折登場するひまわりのモチーフも悪くなかったし、黄色い家も鮮やかだった、もう少し新たな趣向が活かされても良かったのかなと思う。
「霧にも灰色の光にもうんざりだ。
新しい光を見つけたい、まだ見ぬ光。
明るい絵、太陽の光で塗った絵、南に行こう」「平らな風景を見ていると永遠にしか思えない」
「きみは何を描く?」
「太陽の光」「神さまは時代を間違えた
人生は種まきの時で収穫の時ではない」
台詞では色彩豊かなこと、描きたい渇望を明確な言葉にしていて、明るさへの希望が見える。けれど映像作品として描けていないことが問題だし、とするとやはり前述した「なぜ描くのか」の問いに対して語りすぎである部分を踏まえても、せっかく天才を扱っているのに、ただの台詞劇でしか何も描けていない部分が、映画としてのダサさが凄いのではないかと思う。
題名もいまいち活きていない。
永遠の門とは何なのか、私は虚構創作におけるゴッホ=鬼門とのイメージが先行してしまい、永遠の門、良い得て妙と言えばそうだが、創作上のそれを言っているのなら皮肉が過ぎるから多分違うんだろうな。魅力がないわけではない、でもこれにお金を払いたくはない。
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