G-40MCWJEVZR 頑張れない時代の私たち「週5日8h労働からの脱走」The Age of “Not Trying”: Consumer Society and the Collapse of Motivation - おひさまの図書館
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頑張れない時代の私たち「週5日8h労働からの脱走」The Age of “Not Trying”: Consumer Society and the Collapse of Motivation

働く読書習慣

「頑張らない時代」:消費社会とモチベーションの崩壊

 

<English Summary>
Why do we feel unable to work hard, even when we want to change our lives?
 This article explores a central contradiction of modern life: the desire for change alongside a persistent refusal to act.
 While this condition is often described in terms of burnout or motivation loss, the author argues that such explanations are insufficient. Rather than a simple depletion of energy or willpower, this state reflects a deeper alignment between human psychology and the structure of consumer society.
 People naturally seek pleasure, avoid discomfort, and fear failure. Consumer society does not suppress these tendencies?it stabilizes them. By offering constant distraction, passive consumption, and the illusion of possibility, it allows individuals to continue wanting change without confronting the effort required to achieve it.
 As a result, individuals remain in a suspended state: they wish to transform their lives, yet avoid the risks and discomfort that transformation demands. This is not merely a failure to act, but a condition in which inaction becomes sustainable.
 Importantly, this state is neither fully imposed nor entirely voluntary. It persists through a subtle overlap between internal desire and external structure. Individuals are not simply trapped; they participate, to some extent, in maintaining their own stagnation.
 Ultimately, the article suggests that what appears as burnout or motivation loss is not just a personal issue, but a defining structure of contemporary life-one in which agency is not lost, but continuously deferred.
 なぜ私たちは、人生を変えたいと思っているのに、頑張ることができないと感じてしまうのか?
 この記事は、現代における核心的な矛盾――「変わりたいと望みながら、行動は避ける」という状態を分析している。
 この状態はしばしばburnout(燃え尽き)やmotivation loss(モチベーション低下)として語られるが、それでは不十分だと指摘する。それは単なるエネルギーや意志の欠如ではなく、人間の心理とconsumer society(消費社会)の構造が一致した結果である。
 人は本来、快楽を求め、不快を避け、失敗を恐れる。消費社会はこれを抑圧するのではなく、むしろ安定させる。絶え間ない娯楽、受動的消費、そして「変われるかもしれない」という可能性の提示によって、人は努力せずに変化を望み続けることができてしまう。
 その結果、人は宙吊りの状態に置かれる。変わりたいと願いながらも、そのために必要な不快やリスクを回避し続ける。これは単なる行動の失敗ではなく、「行動しないままでも成立してしまう状態」である。
 さらに重要なのは、この状態が外的に強制されたものでも、完全に自発的なものでもない点である。内的欲望と外的構造が重なり合うことで維持される。つまり人は閉じ込められているのではなく、ある意味で自らその停滞に参与している。
 結論として本記事は、burnoutやmotivation lossと見える現象の背後にあるのは、個人の問題ではなく現代社会の構造であり、主体性は失われたのではなく、絶えず先延ばしにされているのだと示している。

 1日8時間、週40時間働く、最低限の労働でも大変だし、それすら卒業したくてFIREを目指すような人が増える現代社会においてがんばることは正しいと知りつつも狂気に近く現実的ではない。
 がんばることや今の労働以上を目指すこと、夢や希望のために尽くすポジティブは強靭よりも狂人じみており、多数の共感は下を見る・怠惰・諦念に集まりやすい。
 FIRE志向や志向的倦怠は個人的な堕落や逃走ではなく、そのような価値観に至る個人が見てきた日本社会全体の制度的疲労や閉塞の表象ではないか?
 もう頑張りたくない働くために生きていたくない、安心して中層に落ちたい。
 より良くする生活の基盤は、成長性ではなく安心への墜落にある現代社会に共感する大多数の心理は、SNS時代や加速する資本主義も含み、時代性の疲れや夢破れも含み、現実的防衛と希望の喪失を映す。希望的な観測や上昇志向強めな当館ではあるが、私自身もセミリタイアしてから始めた今の生活が大事で、現代的な息苦しさや労働の閉塞感は経験済み。
 ネガティブやポジティブなどの簡易な単一で語ることの出来ない現状における本当の幸福とは?

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 物凄く現代的な感覚で呟き、共感を集めていると思うFFさんが今回モチーフに近くて好き。


「がんばる=狂気」下を見る共感が拡がる理由

 1日8時間・週40時間という標準労働ですら、現代人にとっては生活・健康・心の安全を脅かすラインになっている。労働の重さは変わらないのに「報酬・安定・夢」がどんどん削られている今、「これ以上を目指そう!」という人間は、 現実を見ていない脳筋か、精神の安定を犠牲にした変人か、どちらかに見えてしまう。
 怠惰や悲観への共感は、弱さの現れというより、現実に適応しようとした苦肉の共生戦略でもある。
 期待しないことで裏切られず、安心を求めることで生存していく、週5日8H労働が苦しくなった時代背景とは?

共感が努力ではなく諦」や逃避に集まる理由
・現実があまりにも コスト高&リターン低
・希望や上昇に「裏切られた経験」を共有し易い
・求めないことで裏切られず、求めていない他人に安心する、諦めが「コミュニティの潤滑油」として機能するから
FIRE志向は逃避か?それとも現実的な選択か?
 FIREを目指す人は、必ずしも怠惰ではなく、過剰な頑張りの後に燃え尽きた人、あるいは将来を計算して動く合理的な人たちの現代社会への戦略と選択と言える。 
 ・将来の日本経済に希望が持てない
 ・労働のコントロール感がなく、
自己決定権も奪われている
 ・「頑張っても報われない」を何度も見てきた

 FIREやセミリタイアについてはしれっと書くだけにとどめます、検索すればいくらでも出てきますし私は詳しく無いですし😉ともすれば違うお友達が最近FIRE関連のnoteを始められたのでよろしければぜひ⬇️

目標を明確化!私が「セミリタイア→フルFIRE」を目指す理由|旅子@FIREを目指す旅好きアラフォー独身
みなさんはどこでFIRE(経済的自立と早期退職)という生き方を初めて知りましたか?私はコロナ禍のステイホーム期間にYouTubeで関連動画を見漁ったのがきっかけです。 当時はまだ「知る人ぞ知る」といった印象でしたが、FIREブームの到来とと...

それでも、夢や希望を掲げる意味はあるのか?
日本社会全体の下方力学

 ・実質賃金は20年以上伸びていない
 ・将来に対する信頼(年金制度、経済成長)は喪失
 ・金融資産の中央値は、ほぼ横ばい or 減少
 ・労働から得られる“自己実現”は減り、“消耗”が増えた
 ・教育・労働・税制・地域…どれも「先細り」

  単に個人の気質や怠惰ではなく、構造的に下がっている社会の現状において、「がんばる」ことに意味や夢を見出す人は、見慣れない異物として扱われがちで、今の社会の正しさとはズレているかもしれないが、始める個人や求めて動く個人無しに社会が変わることもない。
 これらは夢を失ったからではなく、がんばっても報われない構造に夢が見つからない時代の物語。
 夢を見ることがリスクであり、現状維持こそ生存戦略となる空気が支配する静かな絶望が日常になった社会では、希望を語る者ほど現実から乖離した浮遊者とされる。努力しない理由が正当化される時代になったということだが、それでも挑む者がいるかぎり、その希望が本当に“要らなかったもの”だったかどうかは、まだ誰にもわからない。
 がんばることが狂気に見える社会や夢が見つからない時代とは単なる心理現象ではなく、日本の歴史・制度・大衆感情の複合的な帰結であるともいえる。

孤独なエンジン~運と才能で勝手に好転して欲しい~
できれば世界に勝手に好転してほしい。 でもなぜか世界は勝手に変化してくれない。 努力したくない、失敗したくない、幸運と才能で成功したい、という心理は、人間の根源的な自己保存・快楽追求・不安回避の欲求に根ざしている。  消費者構造は思考する余...

“国策”から“自己責任”へ(社会史的視点)

 戦後〜高度経済成長期、国家・企業・教育のすべてが「成長=善」「努力=報われる」の夢を提供していた。しかしバブル崩壊(1991年)、リーマンショック(2008年)、新自由主義改革を経て「夢を叶えるために頑張る」から「夢を持たないことでリスクを避ける」社会に変質した。

ペルソナ:団塊ジュニアの“失われた世代”(現在40代後半〜50代)
 ・大学進学率の上昇と就職氷河期のギャップ
 ・“報われない努力”を経験した最初の世代
 ・結婚・住宅・老後といった人生設計が破綻
 ・子どもに「夢を持て」とは言えず、無理なく生きろと教える
 ※この世代は「がんばったことが傷」になってい
  夢を語る若者に警戒・批判・苦笑する空気が生まれた

努力のリターンが急下降した社会(経済史的視点)

 ・実質賃金は1997年をピークに下落
 ・社会保険料・税負担の上昇
 ・終身雇用の崩壊と非正規率の上昇(現在約4割)
 ・資産インフレと収入の乖離
 ・リスキリングしても、昇給も安定も見えにくい
 ※頑張っても年収300万円台。
  住宅は買えず、子どもも育てにくい。
  労働とは「搾取されるもの」
  「再起不能になるもの」という感覚が拡大。

ぺルソナ:30代前半の都市部勤務サラリーマン(非管理職)
 ・有名大学卒だが、家賃と物価で貯金はゼロに近い
 ・会社に夢はないが、辞めても状況が変わらない
 ・SNSではFIRE・ミニマリズム・副業が人気
 ・出世より「健康とメンタルの安定」が優先
 ※ 「夢?あったけど、維持できなかった」
   がんばる人を「すごい」と思っても「自分には無理」

ロールモデルなき社会
(ポピュラーカルチャー的視点)

 昭和:石原裕次郎→長嶋茂雄→松下幸之助→“高度経済成長”
 平成:キムタク→ホリエモン→孫正義→ “勝者の夢”
 令和:ひろゆき、メンタリストDaigo、ヒカル、SNSインフルエンサー etc…
 ※勝者のイメージは「過激」「早熟」「規格外」へ
  凡人が真似できる夢がなくなってきた。

 ペルソナ:20代のZ世代女性(地方出身・都市就職)
  ・TikTok・YouTubeで成功者は見ているが、自分の道には思えない
  ・推し活やカフェ巡りが自分の「生きがい」
  ・「働くの怖い。燃え尽きるのがオチ」
  ・目標より「心地よい状態」を守ることに意識が向く
 ※ 「夢って“努力できる人間”専用でしょ?」
  がんばる人を「別の世界の生き物」として見る


 夢が見つからない時代とは、夢がある種の幻想として露呈した時代。
 労働は、食えるが自由をくれないし、成功は、真似できない才能と運の上にある。社会構造は、努力の見返りを提供しなくなったし、ロールモデルは、近づくための地図を持たないから人々は、“夢を見る”のではなく“期待を制限することで心を守る”ようになった。
 かつては国や企業が夢を配給していたが、今はそれを自分で設計し、育て、持ち運ばなければならない自己責任だと押し付けてくるようになった。がんばる人間が狂人に見えるなら、それは時代の中で夢が個人に押し戻された結果だろう。現状維持や安全保存策こそ生存戦略となる空気が支配している現代という時代を貫く努力と希望の意味の根本とは?

1|構造的視点:
それでも「がんばる」ことは何を支えるのか?

 努力はしばしば報われない。才能と環境と運がすべてであり、凡人がひたむきに生きたところで、報酬も称賛も用意されていない。にもかかわらず、がんばることには構造の裏側で支える役割がある。
 ・誰かが汗をかくから、他の人が生き延びられる
 ・目立たない努力や個人が、
  じつは社会の隠れた耐震設計になっている
 ・世界は、個人の静かな誠実さや情熱によって、
  わずかに押し広げられ、継続している
 ※報われるから頑張るのではない。
   頑張らないと「何も始まらない」ことを知っているから、頑張る。

2|思想的視点:
「報われない努力」は意味を持たないのか?

 フランスの哲学者アルベール・カミュは言った。
 「現代の努力とは、ある意味でこの「岩を押す行為」に似ている。」
 出口の見えない日常、終わらない不安、そして成果のない誠実、それでもがんばることは、世界に対する自分の応答。
 ・意味ある世界を求めるからこそ、意味を投げかける
 ・他者評価ではなく、存在証明として行動する
 ・希望がないからやめるのではなく、
   希望を作る行為が希望のはじまりになる
※報われないかもしれない。でも報われなさを超えていく力こそ人間の尊厳=人間制であり人類性

3|詩的・内的視点:
 「がんばること」は、未来の誰かの光

 貫かれた努力が「あの人みたいに」という願いに変わることもあれば、夢が持てない時代でも「夢を持って生きた人」は忘れられない。
 がんばることは、今すぐ成果を生まないかもしれない。けれどそれは、
 ・他者の尊厳を守る動作
 ・自分自身の思想と世界への応答
 ・希望なき時代のただひとつの希望をかたちづくる所作

 「がんばること」が狂気に見える時代に、それでも燃えている人がいる。その火が私たちの生きる意味をまだ照らしているし、希望を絶やさずにいてくれるはずなのだ、至極勝手に、至極まっとうに、至極孤独に。
 この時代の構造と希望は私の中核的な主題であると実感しつつ、等身大の10代当時の目線や、30代現在の主観も時代的だなと感じる。

今の働き世代が見てきた世界

 1990年前後生まれの人々は「ゆとり世代」から「プレッシャー世代」へと移行した層であり、若さの輝きと、社会構造の停滞を同時に目撃し、自らが30代として「時代の主体たり得るのか?」という切迫した問いに立っている世代であると仮定する。
 夢が持てない時代を前提の上で、例えば1990年生まれの私は10代から20代前半にスポーツや芸能などの若い世代が活躍するジャンルで同年代が世界的に活躍するのを観始めることが出来た(ゆとり世代)が、それと同時に社会経済的な国内の動きの無さを見た。今思えばそれらは中核になるべき30・40代と、彼らを迎えたその上世代の作っていた社会が根底になる。

1. 90年代生まれが見た光と停滞の二重構造

□10代・20代前半:光の時代
 ・スポーツ (浅田真央・錦織圭・本田圭佑)
 ・音楽・芸能(Perfume・嵐・AKB)
 ・ネット文化・サブカルの躍動(ニコ動・YouTuber黎明期)
 若い人が脚光を浴び、世界で活躍し、時代を変える姿をリアルタイムで見た。
 これは個人の可能性が信じられた時代だった。
 →スポーツや芸能等の個を売るジャンルは、
  若さと才能が商品化される突出の陳列。
  目立ちやすい構造性の上に成り立つ消費システム。
□同時期:社会の沈黙
 ・バブル崩壊から立ち直らない経済
 ・就職氷河期世代(1970〜80年代生まれ)の沈黙
 ・政治・企業・学問の刷新のなさ
 ・“挑戦する大人”の不在
 ※「個の商品は輝かしく売られるが」
  「社会に出たら詰み」という現実を学習。
   構造や制度の中の個の難しさ、動かし難さの構造。

2. そして迎えた30代の今、「主体」たり得るのか?

 これは今、多くの1985〜1995年生まれの人が抱える実存的な問いでのはずであり、忘れている現実。「あの沈黙した30代・40代と同じように、自分たちも結局、何も変えられないまま使い潰される側になるのでは?」この問いが強いのは、あの停滞を知っているからこそ、「ああなりたくない」気持ちと、「ああなるかもしれない」現実の板挟みにある。

1|中核年齢であることを受け入れる
 ・いつの時代も30代・40代が主軸
 ・政治・経済・文化・教育・テクノロジーすべて、
  中核層の自覚と選択が社会を動かす
 ・もう「若者枠」でもなければ、
  まだ「下の世代」でもない
 ※逃げ場のなさ=変革の可能性でもある
 →ここの世代が今FIREや労働や組織から逃げ出している。個人の責任よりは時代が作り出した心理で戦略性

2|諦めとの熱望の間に立つ言語と感性を持つ
 ・ゆとり教育の自由と、現実の閉塞を両方知っている
 ・成功の幻想と挫折の実態を理解している
 ・SNS世代として「共感」も「冷笑」も経験済み
 ※ゆえに希望の表し方をアップデートできる層
  無理に鼓舞しない言語で、確かな行動で語れる人間になれる

3|沈黙を継承せず、構造の遺伝子を書き換える
 ・上の世代は「がんばっても変わらない」と沈黙した
 ・でもあなたたちは、その後ろ姿を知ってしまっている
 「ああはなりたくない」と思うなら、今、構造を変える側に回るしかない
 ・転職の常態化/副業・独立への許容
 ・政治・市民活動へのソフトな関与
 ・メディア発信、言論形成、言語の再設計
 ・地元経済や生活文化の担い手


 今の30代は世界が変わらなかった過去と、もう一度変えられるかもしれない未来の交差点にいる世代と言えるし、常に30.40代がどの時代もその主体性であることは変わらない。そして常に10代、20代に見られている世代であり、社会の中核の世代。 夢が持てなかった時代に夢の形を変えて生き、社会が動かなかった時代に動かす側として立つ。それができるかどうかは、自分たちが10代のときに目撃した“輝き”と“沈黙”の両方が、自分自身がどちら側へ進むかを問うための準備だったし、それ以外の場所で呼吸するための意思や戦略の準備だったともいえる。
 社会や時代の中核を担っていると自覚しはじめる或いは自覚すべき30代・40代にとって、今の10〜20代にどう映っているのかを客観視することは、構造的責任を伴った実存的な自己照明になる。あの時自分たちが見ていた社会に今自分たちがなっている、彼らに見せている姿とは?

Z世代・α世代(2000年以降生まれ)の中核世代の見え方

1】「疲れて見える大人たち」:共感と諦めの中間
 ・頑張ってるけど、いつも余裕がなさそう
 ・夢とか言ってたけど結局仕事と家事でいっぱいいっぱい
 ・愚痴と反省が多くて、楽しそうに見えない
 ・「理不尽さ」への対処が「我慢」になってる

 Z・α世代は、成功するかもしれない希望より、
 壊れないようにやりくりする大人の背中を見て育った。
 「自分もああなるのか…」という予習された疲労感

2】「アップデートされていない存在」:技術と感性の断絶
 ・スマホもSNSも「使えるけど、わかってない」
 ・ジェンダー・多様性・メンタルヘルスへの感覚が古い
 ・リアルの上下関係に縛られ、自由がなさそう

  彼らは、生まれながらにインターネットがあり、多様性や選択の時代にいる。「何かに縛られて動けない人間」に対して、尊敬よりも距離感を感じやすい。“大人=合理的で自由”ではなく、“不自由と惰性の象徴”として見られることがある。

3】「演技してる人たち」:リアリティの欠如
 ・本音と建前の区別が露骨
 ・本当にやりたいことじゃないのに働いてる感じ
 ・社会のルールを守ってるだけで喜びがなさそう

 若い世代は、「演じない自分」「正直であること」に価値を感じる、“やらされてる感”のある大人たちを、ちょっと不気味に見ていることすらある。
 「正しく生きてるけど、幸せそうじゃない」
  =「ああなりたくない

4】「声は大きいけど、現実は変わっていない」:無力感の連鎖
 ・政治や社会問題を語るけど、変化してない
 ・SNSでは言うけど、リアルでは黙ってる
 ・「頑張っても無駄」って、自分たちにも言ってくる

 Z世代は「変わらない社会」を既に内面化している。
 原因が“今の30・40代”にある、とは思っていないが、彼らが「変える役割」を果たしていない感覚は持っている。
 「変わらない中でやっていくしかない」という無力感が、世代を超えて連鎖している。

5】「尊敬されていないわけじゃない」:ただ、希望としては見られていない
 今の10〜20代が、30・40代を嫌っているわけではない。親世代や先輩として、一定の共感と信頼を寄せている部分もある。ただし
 ・「ロールモデル」にはなっていない
・「こうなりたい」とはあまり思われていない
 ・「大変そうだなあ、お疲れさまです」的な視線が多い
 これは尊敬の断絶ではなく希望の断絶

10〜20代の若者にとって、30〜40代の社会とは?

 ・過労と我慢の末に、変化も自由も得られていない
 ・技術的にも感性的にも“過去の設計図”で生きている
 ・幸せそうには見えないが、文句ばかりも言っている
 ・でも、なんとなく「自分もそうなるんだろうな」という予感もある

 だからこそ彼らは――
 ✔ フラットな人間関係
 ✔ 無理しない働き方
 ✔ オンラインで完結する自己実現
 ✔ 本音・正直さ・メンタルヘルスを重視  といった方向性に舵を切っている

現代日本の全体感:10〜20代にとっての社会とは?

「変わらない社会」×「個人主義化された希望」

 彼らが生まれてから、以下の現象がずっと続いており、社会=大きな流れで夢を見せてくれる場ではなくなった。
 ・経済成長率はほぼ横ばい
  (「日本が伸びる」を経験していない)
 ・格差は拡大しているのに、
   「上の人」の姿が見えない
 ・災害・感染症・戦争など、
  “コントロール不可能な不安”が連続
 ・SNSで「成功者」は身近だが、
  「自分には関係ない」とも感じる

政治|「自分とは関係ない」「言っても変わらない」

 ・政治は「高齢者のためのもの」という感覚
 ・「投票しても誰も変わらない」無力感
 ・政策や選挙は“義務”ではなく“遠いノイズ”
ゆえに、
 ・政治的無関心ではなく、
  「政治的効果」に対する不信
 ・気候変動・ジェンダー・多様性など
  身近な課題には関心が強い
 ・「自分が政治を変える」とは思わないが
  「生活圏は自分で整える」意識はある

経済|「お金は必要。でも、がんばっても増えない」

 ・物価は上がるが給料は上がらない
 ・投資・副業・節約で
なんとか“生活を成立させる”意識
 ・親世代(団塊ジュニア~氷河期)のような
  “正社員信仰”はない
ゆえに、
 ・資本主義のゲームを「傍観している感覚」
 ・無理せず小さく暮らすこと、
   趣味や推しへの消費が優先
 ・将来の資産形成よりも、
今、壊れない自分」の確保を重視

労働|「がんばって壊れるなら、がんばらない方がいい」

 ・働く=メンタルをすり減らす行為
 ・「正社員になること」がゴールではない
 ・転職・独立・ギグワーク等“逃げ道”の多さが前提
ゆえに、
 ・「自己実現」より「自己保存」が優先傾向
 ・ワークライフバランスではなく
  「ライフ>ワーク」が基本
 ・リーダーになりたくない、
  責任を背負いたくないという価値観も強い

夢・理想|「現実と折り合える“ちょうどよい希望”

 ・「起業家・芸能人」などは、自分とは別世界の存在
 ・「普通に暮らせて、
   好きなことが少しでもできれば幸せ
 ・「人生で叶えたい夢」より
  「心地よい日常」の設計
ゆえに、
 ・大きな目標より、
  日々の“好き”を優先する「推し活」文化
 ・「夢を語ること」自体が
  ちょっと恥ずかしく、重すぎる
 ・“逃げられる自由”の確保が、理想に近い


社会不信 × 個人最適化の時代

 「世界は自分を守ってくれないけど、
  自分で整えることはできる」
  → 社会不信 × 個人最適化の時

 頑張るに値すると言えない社会を継続し、そこから逃げ出し頑張らないことを賢明だと思う世界で、夢や理想を語っても嘘にならないように、どんなふうに何を語り、楽しめばいいのだろうか。
 若者が夢を持てなくなったのではなく、夢を持った人がどうなったかを見てきた結果として慎重になったその先に、誰かが言葉と行動で火を灯すなら誇張でも逃避でもなく、簡単には変わらない社会や現実でも、他人に無理に夢を押しつけず、でも自分は諦めだけでは終わらない姿勢を見せる人、そんな背中を、若い世代は尊敬よりも信頼し、そして「まだ、選べる未来があるかもしれない」と思い直すかもしれない。

 かつて、大人たちが築き動かしているはずの社会を見上げていた頃の私たちが30・40代の大人になって、今の10代20代の子たちに見上げられている今、彼らが見ている社会から、自分の世代の背中はどう映っているのか。
 かつて格好悪く何をしてるか分からなかったどうしようもない”社会”の正体は、普通に真面目に働くだけの大人たちだったと思う。それも難しいし偉かっただろうことも分かる年齢になって、でもその歳になったからこそ、下や後ろに見せる背中や社会であることも認識してしまう上で、今自分たちはどんな”社会”で”大人”の姿を見せることが出来るのか?
 その希望と絶望の祈りは、意識せざるを得ない実態に基づく。そしてそんな私たちと彼らで世界は続いていく。

 耐えてきた無理だけでなく、変えようとしている姿の楽しさを見せる、自分の言葉で語り、社会を自分の手で動かす感覚を見せる。
 中核の世代が時代や社会に愛想をつかして個人へ逃げ出している時代に、自分たちも夢のない時代の諦念を次の世代に引き渡し、その連鎖が続くのが人類社会で現代日本なのか?
 個人の幸せ、社会の幸せ、明日の幸せ。
 自分なりの幸せを探す、この時代なりの幸せを探す、できれば未来や後輩のための幸せも探す。
 この時代のどこにどんな希望が見いだせるのか?

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