現代社会が、なぜこうも労働から脱走したくなる人に溢れ、個人が希望を失ってしまったのか。
社会構造や個人内的、人類社会科学と文学に興味がある私にとって、これは結構主題で、その流れで見ると「働く読書習慣」カテゴリーはそのシリーズだととることが出来る。
思考停止とラットレースも含みながら、労働から脱走した私たちが見てきた時代と世代間ギャップを据えて、中核世代が逃げ出す現代。逃げ出した先の副業的成功、或いは本業+副業を行う経済的不足+心理的不足、そこからの体力的枯渇や時間的閉塞。そして今回は、そのように疲弊の個人から希望を奪う構造的問題と、変革を担う現実性、その政治性、私たちが暮らしている日本や過ごしている現代、その閉塞感や魅力、未来の平和とは?



前回のおさらい
本業だけでは足りない時代、副業が加速する時代の正体とは、暮らしていけるかどうかの経済的問題と同時に、生きている実感を持てるかどうかが問われている。
~労働の中で疲弊する個人はなかなか構造に気づかない。
副業が経済的問題であり、やりがいや挑戦楽しみ的問題もまた現代性や政治性であり、その発露で露出、労働や社会活動が、個人にとって何であり、構造にとって何であるかを提示する。
前回の脱出=夢を見た個人と副業だが、結局はそれも構造内で回収される。
前々回も同じ、基本的な個人は構造の中、そして必ず内的理知感を有する。
社会的文脈の中には必ず個人の理知感があるし、必ずその個人は社会構造の中に閉じ込められる、ゆえにその輝きが価値になる。
偽装された自由の認識、
読書=自己投資、の意味が映す個人の価値
生きることは本来自由であったはずが、生存のための労働や給与のための生活に、気力や体力が奪われ、自己裁量や個人的な希望や感動の多くが枯渇している背景には、個人ではどうしようもない社会構造がある。
どの働き方をするかは選べても、働かない自由や資本主義的評価軸から降りる自由は保証されないし、SNSで何を発信するかは自由だが、発信せずとも承認される権利や監視アルゴリズムから自由でいる権利は消失した。これは自由の名による統治という逆説的構造と見ることが出来るし、現代の自由は形式的な選択肢の多さに還元され、実質的な自己決定や意味のある参与は失われていることにも気づくことが出来る。
選択や関与の自由とは、選択肢の数ではなく選択せずとも良いという余白の再確保であるし、民主主義とは参加だけでなく不参加にも意味があるとされる包摂の形式であるともいえる。自由の回復は、個々の人生において意味を編む力を自己が取り戻すことに他ならないし、役割や生存から自由になり、現実や理性から夢や希望が取り戻されることにも行きつく。
行動しないこと、頑張らないこと、等を選べることも民主主義であり選択の自由であるし、絶望も諦念も自由ではあるのだが、そちら側の自由は認められない風潮がある。個人的な価値観としても私もそちらに傾くので反省したいのだが、存在の許容とは無価値の肯定に他ならない。
個人を思考停止のラットレースや労働と絶望に閉じ込める社会構造の中で生きることは、思考停止のラットか孤独のエンジンかの二択であり、疲弊しやすく脱走者も出現しやすいが、それを楽しむ志向や希望や活力があれば、理想憧憬は構築と構造の実現に結びつく。
本カテゴリの初期記事のタイトルに据えた「なぜ読書が自己投資といわれるのか?」という言葉が最近よく響いていて、痛感するし、私にとっての価値観の発端は個々なのだとも実感する。
内的個人を育てる価値と無価値、その有価値が行動し発揮し構築していく価値をこの世界と生涯に還元していく時、最も遠い個人内的と人類構造が結ばれ、その間には必ず憧憬や希望が存在し、それを諦念や暴力や構造が打ち消す。
これで一つの私の社会科学と文学への興味が循環するし、テーマ性の打ち出し、人類社会・構造と現代や打開的筆致と明晰、考える個人や動く個人が思われるが、それらは徐々に個人的に埋めていく部分だなとも感じる。それほどに現実や現代は内的な個人の理知感よりも多くの現実的な構造を持っているし、波乱は起きないし希望は絶たれやすく、持ち始めることすら容易くない現実現代に私たちは生まれてしまったし、生きてきてしまった。
有価値的個人の話をするとき、そこには社会性や発揮性が必要になってくるが、当人からすれば内的個人の夢や希望だけでも充分憧憬であり、それを抱えた頭と胸で幸せだと胸を張れる時、個人は充分に満たされている。勿論それでは生活は変わらないが個人の生涯は変わり始めていて、他者世界の実現は変化していないから発揮と構築による達成も必要になるが、そこからは内的個人から外的人類が暮らす全員の社会構造の中の正義や効率を求めていくことが始まる有価値化へと繋がる。
社会構造が見る夢、個人内的が抱える希望の非現実性と、諦念や絶望からは高さも豊も生まれないこと、その選択の自由と肯定は保証していきたいが、それにしても現実と現代は求めて浮かべて動いて強くなる個人と構造との戦い。
自由な成功は社会の構造補強に組み込まれている
<上層>成功した個人が可視化され、構造を変えないまま、個人の努力のせいにされる社会
<中間層>頑張れば届くと信じて労働を続けるが、実際は構造によって止められている
<下層>は可視化されず、
制度の外で声を上げられない
※現代社会の最大の特徴は、
自由な選択という言葉で構造の不自由を覆い隠していること
「分断される自由社会」表面→実態
<政治>働き方改革、制度的放置悪
→社会保障の崩壊、制度的放置
<経済>成果主義、選べる働き方
→貧困の流動化、階層固定
<金融>投資、資産形成
→自助の罠、格差の拡大
※これらは互いに連動し
「働く自由・稼ぐ自由・生きる自由」を強調しながら、実際には構造の外に出された者を増やし、沈黙させていく。
現代的不自由はいかに設計され、
いかに維持し、沈黙させているのか?
前回や上記のように、三者三様の「労働者、成功者、敗北者」が生きる現代の社会構造の文化・可視性・承認構造を主眼に置いたとすれば、三層(成功者・中間層・下層大多数)が共に存在する実存的な社会である現代日本の実存構造を形作る政治・経済・金融の3つが要点になってくる。
以下、少し足早に構造社会の前提条件的な説明文。
私はモデルケースや現状の把握が好きですが、興味がない人は飛ばしてください。
資本主義経済や金融や政治の話題って、もう少し一般的になってもいいと思いますが、余暇の時間に持ち込んで楽しめるものとは距離がありますよね。でも社会構造と個人内的とは切り離せないということの示唆として。
グローバル資本主義 × 国内閉塞経済(経済構造)
□グローバル資本主義の帰結
・一部に集まる超過利潤 × 多数は抑圧される流動層
・労働分配率の低下、利益の株主配当集中
・富は労働の成果より資本の保有量に依存する
□国内経済の停滞
・1990年代以降の長期停滞 → 生産性が上がらず、賃金も伸びず
・消費税導入や法人税引き下げにより、個人消費の余力はさらに減衰
・企業は内部留保を貯めこみ、投資は消極的に → 中間層の剥落
□雇用の非正規化と“柔軟労働”
・1990年代以降、雇用制度は「正規から非正規へ」大転換
・働く側はより不安定に・企業はリスク回避に
・正社員=構造内の特権階級、非正規=分断の常態化
・フリーランス化・副業化・ギグワーク化は、
労働者の資本化=労働者が自己責任で商品になることを意味する。
個人リスクの転嫁×自助の神話(金融構造)
□金融政策と資産の偏在
・日本銀行の金融緩和(ゼロ金利・ETF買い)→ 資産価格の上昇
・だが恩恵を受けるのは「既に資産を持っている層」
・現役世代・低所得層・フリー層は資産形成の外に置かれ続ける
□ FIREの幻想と現実
・FIRE(Financial Independence, Retire Early)は
資産運用で「脱労働」を目指す
・初期資本がない者には門がない。階層格差のゲーム
・年収300万円世帯では資産運用どころか貯蓄も難しい
(その中でのやりくりすら自助に押し付けられる構造)
□「貯めよ」「自己責任で生きろ」の罠
・国は年金・医療・介護など
社会保障を「自助・共助」へ移行中
・国家の責任放棄が自由の皮や夢を被って個人に押し付けられている
・保障から取り残された群衆を生む
維持の論理×多数の沈黙(政治構造)
□ 政治の基本戦略:変化させない
・日本の統治構造は 「分配より安定」「改革より無難」
・高齢層(票田)を重視する制度設計により、
□現役世代の流動性や夢は政治的関心の外
・非正規・副業・フリーランス層の多くは
政策対象にされていない
□労働政策のねじれ
・働き方改革は時間規制など表面的な調整
・実質的には正規雇用を崩し、柔軟労働を推進
(派遣法改正、業務委託推奨)
・フリー化は自由ではなく、保障の外に出されることでもある
■なぜ三層が固定化されるのか?
・社会保障・年金設計が安定した継続雇用者を前提として設計
・その外にいる人たちは制度的に透明化
政治にとって都合のよい、見えない階層化として温存される
実存構造に対応する思想
今年の5月くらいから、社会構造に興味を持ち始めたあたりから色々調べ始めているのですが、まだまばら。日々の労働とブログ更新とSNSに加えて、雑多に読み進める難しさを日々痛感。
それらにより、無知と無気力が、堅牢で狡猾な構造に生きる個人にとっていかに大敵であるのか、現状の自分の迷子も改めて痛感。
以下に、代表的な思想家や理論を自由の幻想と構造の暴露の視点で分類。
この実存構造に対応する思想地図(フーコー、バリュエル、ハート&ネグリ)、社会の構造転換(ベーシックインカム、プラットフォーム民主主義)、学術的な見地や視座の高さを感じるが、その把握や見識の補給もまた読書と内的個人の価値である、ということが言いたいが、まだ表現的には上手く言えない。本カテゴリを書き続けるうちに読んで考えて模索していきたいので、ご興味がある方はご一緒にお楽しみくださいませ🌞
とともに、「これちがうよ!」「もっとこうだよ!」「これ参考になるよ!」などあればぜひご教授くださいませ。
権力のミクロ物理学/生政治(ミシェル・フーコー)
キーワード:パノプティコン/統治性(governmentality)/主体化
主張:現代社会では強制による支配ではなく、
選ばせることによる統治が支配的。
個人は自由に行動していると信じながら、
国家・資本・規範に内面化され行動している。
権力は個人の自律性に宿り、それが自らを統治させる。
体例:キャリア選択やSNS表現は、自己実現として行われるが、
その「自己」こそが市場とアルゴリズムに規定された存在。
フィットネス、健康管理、自己啓発は、自律と見せかけた服従の自動化。
『〈帝国〉』『マルチチュード』帝国と共生型抵抗(ハート&ネグリ)
キーワード:帝国/マルチチュード/自律的共同体
主張:現代の支配構造は国家ではなく、
非国家的・非中心的な「帝国」として存在。
この帝国はグローバル資本主義と情報ネットワーク、国際金融の総体であり、境界を超えて自己を再生産。抵抗の担い手は階級ではなく、複数性・分散性を持つ「マルチチュード(多衆)」。
実例的視点:労働者階級というより、非正規、移民、プラットフォーム労働者、アクティビスト、アーティストなどが新しいマルチチュード。これらは連帯によって、ベーシックインカムや非中央集権型経済を要請。
シミュラークルとコード化された自由(ジャン・ボードリヤール)
キーワード:シミュラークル/コード/消費の意味化
主張:現代社会は記号が記号を模倣するシミュレーションの段階。
商品は物理的な機能ではなく、
ライフスタイルや意味を売る記号となっている。
自由や個性とは選ばされる幻想であり、
コード化された選択肢の中からの選択に過ぎない。
具体例:アパレル、スマホ、SNS、自己ブランディングは、すべて意味を消費する自由でしかない。誰かになれる自由があるように見えて、全員が似たような自分を演出している。
改革のための代替案の不足・構造転換のタイミング
こうした実存的な構造に対応し自由の実質化をはかるには、以下のような構造転換が必要、とされているが、このあたりは個人ではなく社会基盤や政治性の話になる為、人類社会的な達成や提言ということになる。個人内的に合わせて、私はこのあたりも興味があるけれどもまだまだ消化不良。資料膨大につき、走り書き。おそらく現時点ではこれらに興味があるブログ読者さんもいないでしょうし、お許しください🐶
と同時に、お詳しい方がいればぜひご教授くださいませ。
① ベーシックインカム(BI)
無条件の経済的基盤
目的:労働と生存の切断/選択の自由を再構成
思想的背景:ポスト資本主義論(アンドレ・グルーエン/フィリップ・ヴァン・パリース)
ハート&ネグリの「コモン(共有財)」としての富の再分配
アカデミズム的論点:労働価値説と交換価値からの脱却(マルクス再解釈)
AI・自動化時代にの労働の再定義
現実の事例:フィンランドのBI実験(2017–2018)
韓国の「青年基本所得」政策
日本では大阪府泉佐野市の限定BIモデル
注意点:自由な時間が生まれても自律的行動力や意味の設計力がなければ空白に落ちる。
金銭的自由ではなく、時間と生き方の設計自由が鍵。
② プラットフォーム民主主義
中間層の主体的関与と意思決定
背景:国家と企業による「二者択一」的支配からの脱却
形態:デジタル直接民主主義
(エストニアの電子国家、台湾のvTaiwanプロジェクト)
デジタル自治(DAO=分散型自律組織)
思想的基盤:ネグリの「構成的権力(constituent power)」
=制度の外部からの制度創出
ブロックチェーンを通じた制度の非国家化
事例:バルセロナ市政:市民参加型予算
台湾のvTaiwan:市民主導の法案形成
DAOによる自律的コミュニティガバナンス(Gitcoin、Aragon)
全体図のまとめ:思想地図+制度地図
統治形態:フーコー:
生政治と統治性(自由による統治)
記号空間:ボードリヤール:
消費と自由の幻想(シミュラークル)
構造的搾取:ネグリ:
帝国と非中央的搾取/抵抗の分散(マルチチュード)
転換提案①:ベーシックインカム:
労働=生存の前提を解体
転換提案②:プラットフォーム民主主義:
市民自律的ガバナンス構造
前提条件:教育、自己物語設計能力、時間と意味の再獲得
まだまだ未熟だが、
主題は定まって来た
人類社会に生きる祈りとしての文学を見れば、現代現実の希望である限りに人類社会と文学性や虚構創作は切り離せず、生きる個人の内的とそれが、映し、動かし、進み続ける現代社会と歴史の総体は私のテーマであり続ける。個人内的を重視するからこそ、その志向性や価値観や希望的観測を形成する社会構造や、発揮していく舞台としての社会構造という基盤は重要で、個人を阻むのもそれであるように、個人を育むものも確かにそれであって、両者は切り離せない、と改めて実感。
現実は必ず誰かがみんなで作ってきた構造であるし、個人内的や読書や主題性や志向性は必ずその個人を導くし、そこの途方もない距離を埋め、近づけ、個人と大多数を生む文化、政治、主題、現実のありとあらゆる実存で成り立つこの現実と人類の構造と瞬間に、暮らす私たちは、それゆえに、内的理知感やそれを養う努力などは自助努力の最たるもので、構造や他者が「すべし」と言うのは違うが、個人側からすれば「すべし磨くべし」が当てはまる。
ネズミに気づかれたくない管理側も、自分で学ぶ意識の突き抜けの歓迎あるいは歓迎せずに下層に繋ぎ止めておきたい警戒までの差が知れる。
空白にしておきたい思考と、大衆の認知と、時代の転換期、と誰かが思うなら、自分だけでも自らその思考を埋めて、誰かの思考や胸も埋めて、今ここから何を変えていく気持ちを持たずに現代に生きていたからと言って、それにどんな価値がある瞬間で、自分の頭は人生は命は空白ではない、と言えるかどうか。
苦しい生存の無価値を生み出し、肯定しても応援してもあげられない個人と社会延長価値とはあるのか、という思考は社会構造の中に生きる個人として考えることを忘れないでいたい。
少なくとも私は、会社員として労働時間や責任に縛られ、負わされ、尽くしている間、自分の思考や時間が濃密であった自覚はなかったし、それを消耗と感じたからこそ脱走した。その脱走ですら構造の一部の現象の一つに過ぎなかったとしても、役割の放棄や無意味への転落だとしても、その点滅から自分を考え、社会を知り、現代を見つめ始めること出来た。
その余裕がみんなない、空白がない、認知が足りない、時間だけが過ぎていく、構造の中で、だから考える、自分の主題が見つかる、明日が少しだけ高く明るくなる。
読書習慣の価値、内的個人の価値、そして人類社会の意地成長の価値、その貢献を手放さない。
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