<English Summary>
This article analyzes Thomas Pynchon’s novel The Crying of Lot 49 and discusses its significance within postmodern literature. The author reflects on their personal ambivalence toward Pynchon, noting that although the writer is highly valued in academic literary circles, the style and themes often feel dominated by irony, ambiguity, and intellectual play rather than by constructive meaning.
The novel follows Oedipa Maas, who becomes the executor of a former lover’s estate and gradually uncovers clues suggesting the existence of a mysterious underground postal system called Trystero. As she investigates, the boundaries between reality and conspiracy dissolve, leaving the reader uncertain whether the clues point to a hidden truth or simply to interpretive overreach.
According to the article, this narrative structure exemplifies the core of postmodern literature: a world in which information is unstable, meaning is endlessly deferred, and definitive answers are impossible. Pynchon’s fiction is therefore described as representing the “poetics of collapse,” where storytelling exposes the fragility of language, knowledge, and interpretation.
However, the article also contrasts this approach with later writers such as Richard Powers. While Pynchon’s works often emphasize fragmentation, irony, and epistemological uncertainty, Powers is presented as a writer who attempts to rebuild narrative meaning and ethical engagement with the world. In this sense, the article frames contemporary literature as moving from postmodern negation toward a “post-postmodern” search for connection, responsibility, and renewed storytelling.
Ultimately, the article argues that the question “What was Pynchon?” is inseparable from the broader question of what postmodernism meant?and how literature might move beyond it.
この記事は、トマス・ピンチョンの小説『競売ナンバー49の叫び』を取り上げ、ポストモダン文学におけるその意義を考察している。
筆者はピンチョンに対する個人的な複雑な感情を述べており、学術的な文学界では高く評価される一方で、その作風やテーマは皮肉や曖昧さ、知的遊戯に強く依存しており、建設的な意味や希望に乏しいと感じているという個人的な違和感を述べている。
物語は、主人公エディパ・マースが元恋人の遺産管理人に指名されたことをきっかけに、地下郵便組織「トライステロ」の存在を示す謎の手がかりを追うことから始まる。調査を進めるうちに、現実と陰謀の境界が溶け、読者はそれが本当の秘密なのか、それとも過剰解釈なのか判断できなくなる。この構造こそがポストモダン文学の核心である。すなわち情報は不安定で、意味は常に先送りされ、確定的な答えは存在しない世界である。ピンチョンの作品は「崩壊の詩学」を表現しており、物語を通じて言語、知識、解釈の脆弱性を露呈させます。
さらになぜか筆者は、この文学観をリチャード・パワーズの作品と比較する。ピンチョンの作品が断片化、皮肉、認識論的な不確実性を強調する一方で、パワーズは物語の意味と世界に対する倫理的関与を再構築しようとする作家として紹介されています。そのためこの記事は、現代文学の流れを「ポストモダンの否定 → ポスト・ポストモダンの再建」という変化として捉えている。
最終的に筆者は、「ピンチョンとは何だったのか」という問いは、「ポストモダンとは何だったのか」という文学史的問題と不可分であり、文学がそこからいかに進化しうるのかというより広範な問いと切り離せない、と結論づけています。
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世界文学旅行2地域目として、米国・リチャード・パワーズを続けて2冊読み考えてきて、特にアメリカにおける近現代文学に少し詳しくなれた気がするが、過程の文脈の中で何度も出てきたトマス・ピンチョンを避けて通れなくなってきた。
前回あれほど扱ったピンチョンではあるが私個人の既読は20歳前後の『重力の虹』のみで、再読のやる気は起きなかったので著作列を調べながら、一番売れたポストモダン小説とのことで中身もぺージ数も読みやすそうな『競売№49の叫び』と処女作となる『v.』を読んだ。こうしてみると、大長編で代表作である『重力の虹』を最初で最後のピンチョン作品に選んだ当時の私の幸運と不運が凄いし、これだから選本は難しい。



過去記事を読んでいただければ、私がパワーズに好感を抱いていて、ピンチョンに否定的であることはお分かりいただけているかと思う。アメリカンカルチャー的な虚構性や創作的志向性(ポストモダンという形式とその主題性=否定性)等の好みが分かれる部分が対極にあることを大きな理由であると思うが、作風や特徴の好みと評価は異なるのは紛れもない事実だし、特にアカデミック的な観点による見つめ直しや、破壊の後の創造としても21世紀文学をこころざす文学性としても、否定性をさら否定して乗り越えていく壁や惑星であるのかを認識する意味でも、意味ある読書になるのかなと思う。
ピンチョンの作品における語りの崩壊の詩的さとは「単に物語が破綻しているという否定以上に、言語や物語という人間の営みがいかに不安定で、それゆえに美的かつ存在論的に深いものになりうるかを、極めて意識的に描いている点」にあるそうで、20歳前後は代表作一冊読んでもその魅力や価値が分からなかった私はこの作家が好きではないし評価も出来ないと決めつけるだけにしか届かなかったが、今では複数作による読み方も出来るようになった気もすることもあり、ポストモダンや近現代文学の主題テーマがあるので動機も十分というところまで来た。
ピンチョンとは、何だったのか?
その問いは恐らく、ポストモダンとは何だったのか?を映すし、それはそのまま、ポスト・ポストモダンへの体現と認識にも連れて行ってくれるはず。
彼をありがたがるアカデミックや批評筋やアメリカ文学、日本国内にとってのその価値や現状とは?
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前回のおさらいから
ポストモダンのあとの文学は、どこへ行くのか? の結びから引用すると以下。
なかなか書いていて驚くが、作家個人や著作一冊ではなく、潮流の中や体系の文脈としてのそれであり、それすら現実的な人類社会の動向や歴史的な流れの文脈こそが大きな意味での文学性であり人類性である、とするのが私の主題であると思える。(客観的・学術的な意味としては不明につき、ここにおける文学性や人間性や人類性は、私にとってのそれである、ということには注意)
>ポストモダンの言語的暴走と秩序の断念、その暴走から倫理と関係性の構築へ向かうポストポストモダンの核心としては、「世界は壊れているが、語ることで再び関われる、関わるべきだ=語れなくなるし・人間性が活きてはいけなくなる危機感=否定性へ」。
ピンチョンはポストモダンの到達点において、不確実な世界でいかに知的に生きるか、の孤独を問うことが否定に繋がった。パワーズは、その知の不確かさを受け止めたうえで、それでも語る・それでも関与する人間性の回復に向かう。ポスト・ポストモダン的な文学は、皮肉ではなく共感を、知の戯れではなく持続的な倫理を、断片ではなく相互関係を目指す地点にあり、ピンチョンが語りの崩壊を詩的に描いたのに対し、パワーズは語りの再建を生態系的に描く、その違いこそ、現代文学の転回点を象徴し
~ここの転換は、彼自身であるというよりは、そうした文芸文学界の潮流、それを生み出す政治情勢、特に近現代のアメリカにおける社会情勢であるところの祈りに基づくと思われるのと同時に、業界潮流としての創造の後の破壊がスタンダードになる時期と、破壊の後の創造がニーズになる域との反復に過ぎないとも思えるが
~時代は常に否定性の繰り返しでありそれが人類的な進展性であって、現状の打破の繰り返しによるその筆致が価値であることは言うまでもなく、その部分が文学性であるともいえる。
虚構創作や人文学は人類社会の憧憬だから、時代と共にある。形式のためのポストモダンは、物語のための物語だった近代モダンへのカウンターだけど、人類社会が直面するあらゆる出来事により、「形式のための物語」「物語のための物語」を経て、今やっと「人類のための物語」になってきた感。それが21世紀今後の文学、私の文学性の主題性であると確信。ただ、まだ未熟。
パワーズ『囚人のジレンマ』から近代アメリカ的なポストモダン文学(①)
パワーズ『オーバーストーリー』のポスト・ポストモダン潮流と現代性(②)
うろ覚えピンチョン『重力の虹』の否定性とパワーズの希望的構築の相対(③)



近代文学が避けて通れない巨大惑星の崩壊と詩学性
『v.』『競売ナンバー49の叫び』『ヴァインランド』を通じて
いよいよ、ピンチョンという作家の把握のために著作列全てにあたる必要が出てきたが、私もブログ読者さんも大長編かつ難解な作家の作品に全部当たることは不可能に近いので概要に頼ることになるが、これこそ邪道ながら現代的なアプローチの仕方であり、この形式や読み方や文芸文学が形骸化していることの証左に他ならないし、きわめて現代的な簡素と問題点であること感じる。
結果的に、上記冒頭(>私はこの作家が好きではないし評価も出来ないと決めつけるだけにしか届かなかった)の過去の私の感慨は揺るがなかったが、落着までのプロセスや肉付けには現在の私の真性を感じた。好きではないのはアメリカ文化の虚構性や否定性に終わる主題性の無さのまま嘯きのスタンスと陶酔に終わるその感じ、知性は否定や破壊に終わらずに、希望や進展性であり文学性であり人間性である、と思いたがる趣味が私にはあり過ぎる。
『競売ナンバー49の叫び』(The Crying of Lot 49, 1966
崩壊の形式:
カリフォルニア郊外に住む専業主婦エディは、死んだ元恋人から遺産管理人に指名されたことをきっかけに、世界を覆う地下郵便組織「トライステロ(Trystero)」の存在を探る迷宮的な旅に巻き込まれる。秘密組織トライステロとその通信システム「W.A.S.T.E.」の痕跡を追ううちに、事実と妄想の区別が溶解していく。探偵小説の形式を取りながら、手がかりが多すぎる、真実がひとつもないという逆説を組み立てる経緯を見守る中篇。
結末では、核心が提示されることなく、拍子抜けするようにタイトルの「叫び」が最後に訪れる。(=物語の空白を開いたまま放置=明かさない空白に思いを巡らせてもその余白には何もない疑惑がある=知的遊戯性と言えば耳障りがいい)
主題というか記号的には、コミュニケーションと情報の不確実性、陰謀論の魅力と限界、アメリカ消費社会の空虚さ、解読不可能なメッセージというポストモダン的知の不安。
詩的さの本質:
語りの崩壊は意味解釈の不可能性そのものを美しく象る物語構造であり、エディパは探偵役を果たすが意味の決着にたどり着けず、むしろすべてが意味の痕跡のように見える偏執的状態(パラノイア)に落ち込んでいく。終末論的状況における意味の喪失と感覚の爆発を詩的に体現する。
劇中劇『The Courier’s Tragedy』の写し絵構造が、物語の中の物語の暴走と、現実すら虚構に感染していく様を暗示する。最終章で「叫び」(Lot 49)が競売にかけられるという物語構造の終端は、語りが到達すべき真実が「叫び」だけで置き換えられるという空虚なカタルシス。ここでの詩的さとは、真理への到達が不可能であるという経験の美的昇華であり、語りの形式と内容が完全に一致する、脱構築的な詩学。
本編が200頁ちょっとに対し、訳者あとがきが異常に長く、例えばタイトルの49という数字について、アメリカの州48の次に来るものだとか、韻の憶測や陰謀感が凄くて、偏執的な愛や研究感が凄くて一般的な読者や読書との乖離を感じたが、それほどの偏執性の力があるのはわかった。と同時に、商業性を叶える創作技術的な用意もきちんとなされていて、『重力の虹』の長さに比べれば読了の難易度も低いし、タイトルのキャッチ―さ、冒頭から巨万の遺産相続人に指名される分かり易さの後は、主人公女性のエロネタや不安情動も絡めた感情的なドタバタ劇の中にあるので読みやすい。が、魅力的な虚構性があるかと言えば個人的に趣向が違うと強く実感。コテコテなアメリカ文化的な軽薄や不衛生さ、入れ子式のテレビドラや舞台観劇が意味する中に潜むもの、軽い文体の中に仕込まれた記号的な単語の強さや集積、記号性のみを残すあざとさも感じるが、個人的にロマンを感じないのでやはりどうしようもない気がした。ラストの収束の仕方、余韻は圧巻。最後のテキストの締めが秀逸、男の子的な格好良さには十分。
小説の原題がThe Cying of Lot 49.テクストのエンディングも”to await the crying of lot 49”クライングとロットと49は絡み合って、きわめて隠喩的な拡がりを持つ。(訳者あとがき)
□アカデミックな批評
ポスト構造主義的読解:記号の無限連鎖、意味生成の不安定性(デリダ的)
女性性の不在と過剰:オエディパの主体性をめぐるフェミニズム的読解も(Judith Chambers)
陰謀と情報社会の原型的作品:現代ネット社会に先駆けた、分散化された知の不信
ロラン・バルト「作者の死」と共鳴する、意味の脱中心化の象徴的作品
□批評家の評価
発表当時から話題作となり、米文学界でピンチョンの名を一躍高めた作品、
一部からは「未完成な中編」とも評されるが、60年代アメリカ文学のマイルストーン
カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』と並び、ライト・ポストモダンの代表とされる
□商業的成功・賞レース
全米批評家協会賞最終候補
中編(200ページ以下)ながらシラキュース大学、スタンフォード大学など
多くの大学でシラバス採用。ピンチョンの入門編として現在も最も読まれている
『ヴァインランド』(Vineland, 1990)
崩壊の形式:
舞台は1984年のカリフォルニア北部、レーガン時代のアメリカ。
主人公は元ヒッピーの「Zoyd Wheeler」、その娘「Prairie」、そしてZoydの元恋人で政府のスパイだった女性「Frenesi」。1980年代のアメリカを舞台にしながら、物語は過去の記憶・フラッシュバック・メディア記録の中に分裂していく。時系列が曖昧で、視点が飛び交い、統一的なナラティブの進行が妨げられるし、国家権力や監視体制によって、登場人物たちの語りや過去は操作・改竄される。
主題としては、60年代カウンターカルチャーの敗北と変質。家族・記憶・国家権力。アメリカにおける監視国家・メディア社会への鋭い風刺。
詩的さの本質:
語りが記憶と抵抗の場になる詩的政治性。
本作で語りが崩壊するのは外部的力(国家・メディア・消費社会)によってであり、それゆえに語りが持つ抵抗の可能性が示唆される。ヒッピー文化・対抗運動の残骸としての人物たちは、語ることの主体性を奪われつつも、記憶を断片的に再生産することによって歴史の忘却に抗おうとする。テレビや映画といったメディアの影響下で、語りが他者に支配された言語で行われる=語りがすでに誰かの物語であることの自覚についても示され、この作品の詩的さは、語りがどのように制度によって歪められるかを描きつつ、それでも語る意志がどこかに残ることへの哀切な希望に宿っており、ある意味で著者の本質的な人文性を感じることは出来るようだ。
□アカデミックな批評
批判理論的読解:国家と情報による支配(アドルノ的視点)
ネオ・マルクス主義的解釈:テレビと消費社会の麻痺作用
ジェネレーション批評:親と子の60年代以後の断絶・継承
□批評家の評価
ファンからは評価されたが、批評家には賛否両論。
「かつての実験的精神が後退し、分かりやすくなった」との声、
反面、「現代政治批判としては最も鋭いピンチョン」と評価する声も。
□商業/文学的成功
ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー入り
90年代初頭のピンチョン復帰作として話題性抜群
文芸誌・新聞等では特集が組まれたが、賞レースでの成果は控えめ
『V.』(1963)
主人公はナレーター「Benny Profane」と、彼の友人「Herbert Stencil」による探索。謎めいた存在「V.」を追う物語は、南アフリカ、マルタ、イタリア、アメリカなど時空を超えて展開。 主題は、20世紀における歴史の断絶と再編、「V.」という象徴的存在を通しての近代の女性・身体・記号性の分裂、「無意味な探求」に憑かれる人間の悲喜劇。
→長すぎて挫折、上下巻、6.7月の忙しさから2週間で読み終えられずに図書館へ返却。
映画作品のようなタッチ描かれる冒頭は、狙いや描き方からしても著者の若さを感じられたし、その虚構性がアメリカ的であることやその古き良き風情が好きな人からすると読みやすいし、好みやすいので、難解さや革新性は皆無。逆にこの処女作からどのような進展を見せたのか、興味は持てそうだったが、その上でやはりアメリカ文化的な虚構性が私は好みではないのだなということが物凄くわかる一冊。小説を楽しむ、という意味で、その部分は重要。これは評価とか妥当性とかとは別。
読み切れなかったこが悔やまれるが、それもまた現代文芸における大長編の宿命、要課題。
こういう文章を書くのが意外でありつつも、安心もした。読めてよかった。
□アカデミックな批評
構造主義的読解:V.という符号が象徴する多義性
歴史の断片化:モダニズムとポストモダニズムの橋渡し的テクスト
帝国批評:植民地主義、暴力、性のポリティクス
(特にヴァージニア・ウルフの逆写像として論じられる)
□批評家の評価
ナショナル・ブック・アワード最終候補。。
ピンチョンのデビュー作にして、壮大なスケールと文体実験の野心に満ちている
一部の批評家は「彼の最も純粋にポストモダン的な小説」と評価(エドワード・メンデルソン
□商業/文学的成功
デビュー作としては異例の注目を浴びた。
現代アメリカの実験的小説の一角としてカノン化。
※参考メモ
<分類と時代区分>
時期:作品群→特徴
初期(1963-1973):『V.』『競売ナンバー49』『重力の虹』
→ポストモダンの成立期。壮大な主題と形式実験。
中期(1990-1997):『ヴァインランド』『メイスン&ディクスン』
→カウンターカルチャーの回顧と歴史叙述への関心。
後期(2009-2013):『インヒアレント・ヴァイス』『ブリーディング・エッジ』
→サブカルと現代社会批評の融合。読みやすさと深さのバランス。
◆補足:ピンチョンの作風の特質まとめ
■ 文体:過剰な比喩、専門語、風刺とユーモア
■ 主題:陰謀、情報、国家、テクノロジー、記憶
■ 批評的立場 :反権力・反中心・知の多元性
■ 読者への挑戦:「読む」ことそのものを問う構造
ピンチョンにとって「語りの崩壊」とは何か?
競売№49の叫び 解釈の不可能性/意味なき叫びの構造が逆説的に詩となる
ヴァインランド 記憶と語りの政治化/消された語りを断片的にも出も取り戻す意思の美
重力の虹 意味と因果のカオス化/言語そのものの運動と暴走が美を生む
<作品リストと分類>
タイトル(出版年)主要ジャンル、分類:特徴・位置づけ
『V.』(1963)
歴史+探偵+モダン文学
ピンチョンの壮大なデビュー作。初期ポストモダンの象徴。
『競売ナンバー49の叫び』(1966)
陰謀+都市+風刺
情報・意味・陰謀をテーマにした中編小説。
『重力の虹』(1973)
歴史大作+科学+性:ピンチョンの最高傑作。
ナショナル・ブック賞受賞。ピューリッツァー賞は拒否。
『ヴァインランド』(1990)
政治風刺+家族小説
60年代カルチャーの帰結を描く。賛否両論あり。
『メイスン&ディクスン』(1997)
歴史小説+大航海
アメリカ建国前の時代を描く。文体は18世紀英語風。
『インヒアレント・ヴァイス』(2009)
探偵小説+サーフ・ノワール
ピンチョン流ロス・ノワール。
映画化(ポール・トーマス・アンダーソン監督)。
『ブリーディング・エッジ』(2013)
サイバー社会+9.11前夜
インターネット時代の管理社会風刺。最も現代的な作品。
嘯きとはったりの頂点
ピンチョン作品の読中に感じるハッタリ感や無意味の冷笑は、実際に作品の表層に強く現れているものらしく、若い読者であった20歳の頃の私が感じた嘯きや無意味性の印象は、むしろピンチョンという作家が読者に最初に仕掛ける効果の一つであるらしい。その虚構性や魅力的価値があるかどうかはここでは置いておく。
ピンチョンの詩学は、語りの不可能性の中でなお語りを通じて生きようとする人間の滑稽で尊い姿を描くことにあるらしく、語りの不完全さや非中心主義における自己認知としてのアイロニーや皮肉という入れ子も存在している模様。語りの崩壊は終わりではなく、新たな物語倫理のはじまりとして提示される、とのことだが、個人的には破壊の詩的さよりも自己陶酔の陳腐に感じもするが、そうした感覚に浸れることもまた知的ではあるなとは思った。
ピンチョンは語りの虚構性・恣意性・操作性を露骨に見せつけるがために、「これって本当に意味あるの?」「作者は真面目に何かを語ろうとしてないのではないか?」 「何か大きなものを提示してる風で、結局ただの空虚では?」などの感想を読者持ちやすいらしく、この“空疎な巨大さ”こそがピンチョンが現代社会のメタファーとして構築する語りの罠そのものであり、読者の知覚を試す装置として意図されたものだと言える。
語りが破綻し、意味が解体され、それでも人は何かを繋げようとする。その営みが滑稽で愚かに見えても、そこには語ることをあきらめない人間の姿、沈黙せざるをえない言語に、なお震えながら声をあてようとする営為が確かに描かれている、と好意的に受け止められているご様子。処女作『v.』においては滑稽さや愚かさの体温のようなものはむしろ感情的にすら感じるほどなので、皮肉や非感情性は彼が理知的に身につけたものだろうとは思えるが、ならばこそそこに描かれる人間性やロマン的な情動はもう少し違うもののような気もするが、ここも好みの問題なのだろうか。
たとえば代表作『重力の虹』では、主人公が世界の構造を解明しようとするものの、次第に世界に吸収されていく。最後に残るのは、彼がそれでも語ろうとした痕跡だけであり、そこにあるのは意味の達成ではなく意味への欲望と、言葉がそれを担保しきれないという哀切さであり、それを詩的と感じるには言葉に賭けて敗北するという構造に美学や情感を見出す視点が必要になりそうだし、そうした敗者の美学に酔ったり主題的に塗り固める必要性の価値を私は全く感じないので、やはりここは好みの問題だろう。
私は前回、文芸文学におけるモダンを物語のための形式、ポストモダンを形式のための形式とし、ポストポストモダンを人類のための形式(=物語)としたが、そこにくる哀愁は主題というよりはただの情動に過ぎないので、美学であっても主題にはなり得ない陶酔の類に感じるので、それ(ここで言うピンチョン)を大々的に持ち上げるのは狂気の沙汰に感じるが、革新の芸術であることは認めざるを得ない。
ピンチョンは世界の構造についての語りを装いつつ、本当は「語りとはなにか」「語ることは倫理たりえるのか」を常に問うてきた作家であるために、読者の年齢・経験・時代によって語ることの可能性と不可能性を人生の文脈で捉えるようになったとき、その滑稽さが崇高さに転化する瞬間があるらしい。彼の文学性が巨大な嘘から微細な真実を立ち上げて見せるのだとしても、ピンチョンはポストモダン文学の代表者であり、彼の語りは嘯きとハッタリの装置として設計されており、意図的で構造的なものであるという点で、決して否定できない要点はピンチョンの嘯きは本物であり、外殻は欺瞞のレトリックである。
・陰謀論と情報過多による意味の拡散
・語り手の信頼性の崩壊とメタ言及
・キャラクターの類型性、物語の記号化
・「大きな物語(Grand Narrative)」のシミュラクラ(模造品)としての語り
これらは単なる文学的手法ではなく、世界がもはや意味を提供しないという前提への皮肉と反抗のパフォーマンスであり、ピンチョンは語りとは虚構であり嘘であるという地点から始まり、しかもそのことを見せびらかすように語る。これは純然たるポストモダンの身ぶりであるが、それでもピンチョンが嘲笑しながらあらゆる物語を破壊する表現においても、倫理的な欲望や人間的な痛みによって駆動されているようにも見える瞬間があり、それこそがピンチョンの詩情性であり、真実としての文学性だ、と熱心な読者や読書には捉えられているらしい。
ピンチョンの詩情は救済の詩学ではなく絶望の形式美
20世紀後半、物語の形式や物語ることそれ自体においての虚無と欲望のあいだでポストモダン文学は語りの終焉を宣言した。トマス・ピンチョンは、その最も象徴的な語り手の一人とされている。一見すると、彼の作品群は巨大な虚構構造の知的ハッタリによって世界を虚無化し、あらゆる意味をアイロニカルに解体したが、その深層には、報われなさの中でなお語ろうとする人間の姿が浮かび上がるとのこと。本稿では、ピンチョンの語りに潜む倫理的嘯きに焦点を当て、ポストモダン的諦念と達観、それを突き破ろうとする詩的衝動あるいは歌い上げるだけに終わる非生産性、その両義性を検証する。
たとえば『重力の虹』では、終盤にスロースロップの意識が世界と融解していく過程が描かれる。創作的には完全な解体のように見えながら、その内側には世界の因果と痛みを語りうるものとして組み立てたいという絶望的な欲望が透けて見えるし、それは語りの倫理的残滓である、という愛読者的な読解の向きがあるとのこと。ピンチョンは絶望の形式美を操るポストモダニストであり、語りが嘘であっても、それにすがる人間はいるし、それに傷つく人間もいる。それでも語らなければ、世界はもっと空虚になる。この滑稽だが真剣な姿勢が、嘯きの中にこぼれる人間的余熱として読者に届くとき、ピンチョンは単なる冷笑家ではなくなるらしい。
おそらく私の読解はポストモダンの構造的理解としてはまちがっていない、その上である意味で愛読者が見出したいピンチョンの詩的性というのは感情に過ぎず、形式の作家に対して夢や憧れを持ちたい詩情性込みの読みであるとしか思えない。彼の文学は語り得ぬ世界を、語り得ぬことを承知で語る試みであることも間違いないと思うが、物語のための形式としてのモダンの否定性や、語りの形式としての革新が評価される一点の強さであって、ポストモダンの嘲弄的レトリックのうちに人間の断片的真実を残す装置である、とするのはもち上げ過ぎだと感じる。(次回、②へ続く主題)
「物語の信頼性」「作者の権威」「読者の理解可能性」は、ピンチョンにより意図的に破壊された。『競売ナンバー49の叫び』における〈トライステロ〉のような陰謀やその読解は、常に意味へ到達しないし、『ヴァインランド』では、テレビ的記憶と政治的追跡が反復され、歴史の現在性が空洞化する。『重力の虹』はとくに、情報・キャラクター・物語の過飽和状態を作り出し、構造そのものが読み手の読解欲を打ち砕く。ピンチョンの語りは、意味生成を表象するのではなく、意味を拒む構造そのものを示す嘲笑、というのは個人的感覚にも近い。
ピンチョン作品に現れる人物たちは、そうした構造的語りの不全の只中にありながらも、なにかを語ろうとし、探ろうとし、繋げようとする。たとえば『重力の虹』のスロースロップは、ロケットの因果構造を読み解こうとするが、その努力は滑稽であり、最終的には失敗するのだが、その行為そのものに語りへの執着が現れる、というのもまあ同意する。
スロースロップやエディパは、知ることも救うこともできないまま、それでも世界を繋ごうとする。語りや世界の無意味さや不可能性の先に、語れなさの中でも語ろうと抵抗する人間の姿を見つけようとする、憧憬の思索を無理にして作り出している気がしてならない。それは真理への信仰ではなく、語ることでしか存在できない人間の宿命的な姿であり、この滑稽さの中に、ポストモダン以後の倫理の萌芽を見出すことができる。「語れなさ」の中にこそ、語る欲望が最も切実に立ち上がるところが、嘯きの中の情感であり、詩的破片としてのピンチョンとは思う。
ピンチョンの作品では、解体された構造の隙間に、しばしば祈りや喪失、愛、死といった実感的情動が現れる。それらは物語の核ではなく、むしろ周縁や傍流としてひっそりと存在する。ピンチョンは、あらゆる語りの虚構性を暴き出し、あらゆる意味に対して嘲笑的であるが、その嘯きの中には、それでも語らずにはいられない人間の姿が潜んでいるし、逆説的には破壊した物語をそれでも紡ぎ続ける作者自身が浮かび上がる。ポストモダンの解体の果てに残された最後の倫理としては、個人的の祈りとして機能する作者自身の自己満足に近く、そこに詩情性は感じながらも、他者社会に託すものではないために主題性には欠け、それを尽くして賭ける人間の滑稽さや尊厳と結びつけることには、個人的には少し無理がある。
ただ恐らくピンチョンの魅力はその部分であり、著者の価値はアカデミック的な革新や形式の破壊行為にあって、その両側面のギャップまでは認められる。
ピンチョンの作風やその作家的価値を論じる場合に焦点になるのは、彼がなぜポストモダン作家であるかということであり、その場合に論点になるのは「彼が物語を否定したかったのか」或いは「希望や憧憬を捨てきれなかったのか」という点にあり、彼をポストモダン作家として捉えるときの核心であるように思う。
ピンチョンは近代的な因果関係に基づく意味の構築としての物語や、中心=真理を目指す語りのあり方に強く懐疑的であることは『競売ナンバー49の叫び』や『重力の虹』などで顕著であり、これらはすべて、意味や秩序を作ろうとする語りの構造そのものを疑い、崩壊させようとするもので、物語は真理を伝える媒体である的なモダニズム的信念への反抗を思わせる。
・過剰な細部と情報の氾濫(情報の暴力性、理解の不可能性を示す)
・語り手の不安定性(信頼できない語り手、多重視点)
・ジャンル混成・言説の過剰引用(SF、オカルト、科学、神学、陰謀論など)
・因果の寸断と目的論の拒否(物語の「回収」を拒否)
・メタフィクションと自己崩壊的構造(語りの中で語りの不可能性を語る)
その後の作品となる『ヴァインランド』や『メイスン&ディクスン』ではつてのようなカオスの祭典的語りを少し抑え、人間的・歴史的共同体への回帰的関心が見られるとのことで、『インヒアレント・ヴァイス』や『ブリーディング・エッジ』では、真理の探求を嘲笑しつつ、登場人物たちはそれでもなお人を愛し、つながり、語り合おうとするのだとか。
ピンチョンは、「物語は真理を語れる」「物語は人を救う」といった近代的理想の神話性を徹底的に破壊する、ここは革新の真骨頂で揺るぎない。『重力の虹』で描かれるのは、語れば語るほど中心から逸れていく知識と情報の迷宮であり、物語とはむしろ現実の不安定さを隠すための装置にすぎないという認識であり、探せば探すほどそこには何も無い的なアメリカであり、彼らが暮らすその国、この国、現代社会人の人生そのものであるということになる。そしてそれらの作品には、語らずにはいられない人間たちが常に描かれているし、作者が物語を否定するための物語を書く作家であるということも揺らがない。
この矛盾の内側に、語りたいという欲望の残骸が、希望や憧憬として残っているし、決定的に人間らしいそのアンバランスなギャップは結構魅力的であると認めることはできる。
ピンチョンは作品は物語を否定しようとしたが、それすら一つの語りでしかないことを描き出す。そのために語りの否定は語りの終わりには至らず、それでも語る人間の根源的欲望や主体性の祈りであることは間違いない。ピンチョンは物語の破壊者であると同時に、物語や世界に裏切られ続けてもなお、それを必要や体現してしまう人間の姿を書いた作家でもある、と読める。
つまり、文芸による物語や世界を否定する癖に、そんな世界で文芸表現をし続けた男、が正しい。そしてそれはひどく古典的な作家の姿である、と帰結する。
代表作『重力の虹』を頂点とする作家的到達とその後
1. 『重力の虹』(Gravity’s Rainbow, 1973)
崩壊の形式:
舞台は第二次世界大戦末期から戦後のヨーロッパ。中心はV2ロケット(ドイツ製の弾道ミサイル)。 主人公はスロースロップ中尉。彼の性的興奮とロケットの着弾地点との奇妙な相関関係を軸に、国家・テクノロジー・偶然・決定論が語られる。
・時空・因果・語りの連続性の解体
・語り手の視点が転倒・変形・逸脱する(複数の視点が滑らかに接続されず、断片化)
・言葉が独立した生命体のように振る舞い、意味よりも運動に重きが置かれる
・ストーリーの核心(ロケット00000)は決して捉えられない=中心の空虚
詩的さの本質:
本作では、語ることができるはずだった「真実」「原因」「終末」などが語れば語るほど遠ざかるという構造を、カオス的・音楽的な言語運動として描く。歌・スラング・科学論文・広告・心理学といった多様なレジスターの混交は、語りを知の音響空間に変え、言語の暴走性と意味の亡霊性を超誇大に描き出す。主人公スロースロップは、自分の記憶・身体・語り手との関係までも解体されていき、最終的に語られる対象から語りそのものへと溶けていく。
□科学批判の主要ポイント
①決定論 vs. 偶然性
ロケットの軌道=ニュートン的な決定論。
しかしスロースロップの性反応との相関は非科学的で、ランダム性と超常性が示唆される。
⇒科学的知識による未来予測は不完全で不確実であるという批判。
②科学と権力の癒着
科学技術は真理探究ではなく、殺人装置の開発に用いられる(ロケット開発者の悲劇)。
⇒知の堕落=科学の軍事化・国家装置化。
③情報・通信の構造そのものへの懐疑
言語、暗号、科学的記号、数式すらも世界を捉える方法として不完全である
⇒記号論的・脱構築的科学批判(言語と数式の等価性を皮肉る)
□影響を受けた思想家・理論家
ノーバート・ウィーナー(サイバネティクス)
マックスウェーバー(合理主義の鉄の檻)
トマス・クーン(科学革命の構造)
アドルノ&ホルクハイマー(啓蒙の弁証法):
「啓蒙(科学知)は、野蛮性(戦争・管理)へと転じる」=ピンチョンと最も親和性が高い。
□『重力の虹』が文学史上で担った役割
1973年出版、ナショナル・ブック賞受賞
ピューリッツァー賞は「露骨すぎる」という理由で選考委員に拒否された。
20世紀英語圏文学の最高峰の一つとされ、ジョイスの『ユリシーズ』の再来と位置づけ
□専門家・アカデミック界の見解(評者:評価の主眼:コメント)
エドワード・メンデルソン→人間主義的読み
「ピンチョンは技術と人間性の交錯を描いた叙事詩作家」
トニー・タナー→ポストモダン研究の第一人者
「ピンチョンの価値は、その作品に知の迷宮としての世界を再現した点にある」
キャサリン・ヘイルズ→メディア理論・情報批評
「『重力の虹』は人間が情報とどう共存するかを問い直す装置」
その後の作風の変化(作品:傾向:評価)
『ヴァインランド』(1990)
政治・家族の物語に縮小:読みやすいが深みに欠けると批判も
『メイスン&ディクスン』(1997)
文体実験(18世紀風)、壮大な歴史描写:評論家の評価高いが読者離れも
『インヒアレント・ヴァイス』(2009)
サーフ探偵ノワール、カウンターカルチャー:楽しめるが軽いという印象も
『ブリーディング・エッジ』(2013)
ネット時代批評、陰謀、金融:現代性はあるが、かつての重厚さはない
□『重力の虹』の頂点性とその後の軽さ
一般読者や商業的観点からは、確後期ピンチョンは軽くなったと映る。
だがアカデミックな評価は二分されている。
<肯定派>
『重力の虹』は不可能なまでに総体的な知の結晶であり、それを繰り返す必要はない。
後期作品は脱中心化された語りの実践であり、ピンチョンの関心がメタ政治、ポストネット社会、感情の分散に移った証拠。(Brian McHale は「ポストモダンの後を引き受ける文学の形」として後期作を擁護)
<批判派>
『ヴァインランド』以降は明らかにトーンダウンしたとする見方。特にFredric Jamesonは、
『重力の虹』以降のピンチョンは「ポストモダンが自己模倣に陥った証左」とまで言う。
『重力の虹』は文学という知の総体に挑んだ構造的・哲学的山岳であり、それ以降の作品は、変化した社会構造(テレビ、インターネット、情報のフラット化)に対応する形式と倫理を模索したもの。よって、重厚さの減退は退化ではなく文体と倫理の再配置である、とされているらしいが、このあたりは私は未着。私が読み触れたのは処女作『v.』読みやすい中篇『競売№~』代表作『重力の虹』の著作列における前半の重厚であり、著者の真骨頂だとは思うが、その後作家としてどのように変容し苦悩し到達していったのか、という文脈で著者を見るところまでには今回は辿り着かなかった。それだけに思い作家が、それだけに長い間書き続けてきた歴史であると受け取ることは十分可能。
(初期(1963-1973):『V.』『競売ナンバー49』『重力の虹』
後期(2009-2013):『インヒアレント・ヴァイス』『ブリーディング・エッジ』)
人間がいかに語りえないかを語ることで、
人間が語らずにいられない存在であるかを描き出した
ここまで読んできて、或いは書きながら感じたこととしては、20歳前後の私が代表作『重力の虹』を読んだときに、多くの虚構性(きわめてアメリカ文化的な素材)が好みではないためにリーダビリティを欠いていて(モチーフ素材として好きではないこと、陰謀やアメリカ文化の消費性なども丸ごと嫌いだから、ここはもう相性だと思う)、それでも読み進めた終りに意味や到達が主題として認められず、そのために作者の倫理的責任性を認めづらかったために、第一義的な文学性としての勝手な期待が裏切られた事の落胆に理由があったのだと感じた。文芸や文学に何を求め、その主題や主導性がどうであるかは個人の価値観や志向性であるし、その主体性や多様性を認められないことは柔軟ではなく、広義の読書としては寛容さに欠けていた、との落着と内省を得られたことは今回大きかった。
アカデミックな文学が形式の革新を重視する1960年代以降の風潮がまず嫌いだし、それこそがポストモダン的であって、ピンチョンが評価され過ぎる狭義の主体であるとすら感じる。総体としての文学は進み続けるのかもしれないが、読書としての文芸は死んでいくのではないかと思う点。(次回へ続く)
私はあくまでも形式は主題表現と虚構創作のためのものであると考えていて、文芸と虚構創作とは表現と物語化であり、つまりその形式は、何を表現するのかの方法論であるために本質は主題にあり、それこそが文学が人類性である価値で本質であり文学たる所以であると私は考える。ピンチョンは形式や構造の革新が強すぎるために、ひどく文芸的でアカデミックであることは間違いなく、通過テキストとして必須で惑星なのかもしれないが、読者への流通と文化的普遍性や情動性を持つわけでもない文芸作品をことさらに文学だと無駄に崇める気にはなれない。
おそらくピンチョンの文芸性はその形式自体が目的であり、それがアメリカだったり陰謀だったりし、その形式がモチーフや素材にするところが百科事典的であり、現実のパスティーシュ的な混成はつぎはぎ知性の在り方であり、その具現自体で物語性やアメリカを否定している、と言われたらそうだし、否定・破壊したそれに固執したが故=主題・関心・テーマであるとはいえるので、逆に日本的な純文学的というか、内向的な側面、意味ありげに終わるその感じ含め、その狭さや自己満足の文学性に近い。
私は文学はあくまで人類の憧憬であり文芸による虚構創作だと思うし、性格的にも虚構的にも、真面目や魅力を求めるから、その性質の違いなだけで、『重力の虹』には一応情感もあるし・私が切り貼り知性が好きでないなだけど、その創作表現においてどんな魅力があるか、という部分にやはり懐疑的ではあるものの、代表作の高さは感じる。ピンチョンが形式における革命だったとしても、私は文芸形式のアカデミックも虚構創作や技術や、その商業的成功や大衆性も、すべては方法論であり、その目的としての主題性と現代性が必要だと考えすぎるところがあり、だからこそ否定性や謎を創りあげて終わるピンチョンを受け入れがたい気がするのだと思う。
だが、ピンチョンが見せる語りの崩壊や中心の消滅、終わらない情報の連鎖は物語による意味生成の否定ですらありながらも、その非生産性は別の意味で高度に生産的である。
語りを壊しているように見えて、実は語りという行為を更新しており、意味を壊しているように見えて、実は新たな問いの行為を生み出している。その結果、ピンチョンの語りは意味の嘯きを描きながら新しい語りの創出を行う。
支配的な意味秩序の外部で、言葉の無力と向き合いながらも語ろうとする姿勢は、
巨大な情報ネットワークに個人は呑まれ、統一的な物語(国家・歴史・宗教)は解体され、語れば語るほど意味は霧散していく。そんな世界で、なお語ろうとする。その姿勢は、たとえば戦争帰還兵のトラウマを語る行為、監視社会で呟く内心の声と同じような言語行為になる。
ポストモダンやピンチョンは、人間がいかに語りえないかを語ることで、人間が語らずにいられない存在であることを照射してしまった。この自己矛盾が、巨大な構造に抗う弱き者や希望も意味も奪われた中でなお微かな関係を信じる者の像へと接続する。ポストモダンやピンチョンの文学が語るのは、意味に裏切られても語ることをやめない人間の滑稽さと、それを笑えない私たち自身をも映す。
反権力の倫理性を持つ彼の作品は敗北する主体の言語であり、物語や虚構創作が意味を語ることの無価値さを前提にしたうえで語り続けるという倫理そのものにつき、そのスタンスが巨大な物語や真理を嘯きとしつつ、個々の語りの芽生えを描くことでしか創作出来ない肝になる気もする。
たとえば『重力の虹』は、情報の過剰・意味の攪乱・語りの断絶を通して読者の認知を混乱させ知の構造を暴くが、読者を混乱させて脱構築させようとする意図こそ構造であり、意味から自由になるという価値の生産であり、そういう意味では立派に機能してしまっている。
ポストモダン以後の文学においては、敗北しても語る、敗北しかないからこそ語ることの情感、倫理性、美学が焦点になってきたと言ってもいいかもしれない。リチャード・パワーズが提示する「語りの再倫理化」、サンドゥが『エグザクトリー・ナッシング』で描く「言葉が何も生み出せないという場所からの倫理」と明確に接続する。
語れないことを語ろうとする行為、破綻した言語でなお世界と接続しようとする姿勢、という敗北前提の言語美学に身を投じているという見方を用いると、ピンチョンはその先駆として、語ることの敗北=言葉の弱さに賭ける文学の源流にいる。
語りの再倫理化としての再評価、嘲笑のあとに残るもの
ポストモダンが正当な物語性の腐敗化としての語りの終焉だったとすれば、21世紀以降の文学はその語り直しでもあった。ピンチョンが語りを嘲笑して破壊したあとに、リチャード・パワーズやアレクサンダー・サンドゥは何をしようとしているのか、或いはポストモダンを尽くしたピンチョンに対し、ポスト・ポストモダンとして、どんなカウンターや祈りを尽くして変化展望していけるのか。
パワーズは『オーバーストーリー』において、語りの外部(人間以外の生命や時間)を語ろうとした試みは壮大で、圧倒的に構築したとは言えないが、語りという行為に倫理を取り戻そうとする意思がある。彼の語りにはピンチョンのようなハッタリはなく、語ることとつながることにただ尽くしている印象を感じるし、これは姿勢の問題であり、基本的な志向性だけではなく主題性の問題で、そのスタンスがこそ他方との違いであると感じる。
一方サンドゥは、『マインド・イヴァンホー』などで語りの人工性を意識しながらも、人文学と科学の架橋を志す。その語りは透明性と複雑性の間で揺れながらも、知性と言葉の再信頼を求めている点で、やはりポスト・ポストモダンの作家といえる、とのこと。
ピンチョンは語りの不可能性を突き詰めたがゆえに、語りを倫理化せざるを得なかった先行者だったが、彼が切り拓いた断崖の果てでパワーズやサンドゥは「語ることはまだできる」と応答している。その系譜は、語ることの倫理をめぐる現代文学の静かな闘争なのだとか。
このあたりは私にはまだよくわからないが、モダンを否定したタポストモダンの覇者のあとに、それへのカウンターとしての萌芽があるということはポストモダンを扱い始めたパワーズ①から見えていて、まだ決定打や到達を成していなさそうな歯切れの悪さが、物語のためでも形式のためでもない人類のための物語であり形式である文学性であるところの創作性が、きっと今も生まれ始めていると現代性と未来性の瞬間を感じる喜びがある。
否定して、否定して、進む日々や時代の毎日は、生きるしかない、書き続けるしかなかった、見える者は語る、ピンチョンの中にも物語る人がいるし、それでも書き続けた作家しかいない。ピンチョンもパワーズも形式としての文学や人類に対し、何をどのように語るかの命題からは逃げられない上に、向き合う者だけが残り、それはやがて、絶えず革新になる、そう続くのが人類性であるし人文性であると私は信じる。
お付き合いいただきありがとうございます。
②へ続く……
ポストモダンとピンチョン、長くなってしまったので記事を二つに分けました。
近日中に②も投稿する予定でいます、一括投稿できず申し訳ありません。
次回となる②では、そんな1980年代付近にあったアメリカ文学における革新としてのピンチョンをアカデミックにおけるポストモダン批評と共に眺めながら、いかにそれが現代との乖離を持ち、そしてどんな未来へと続いていくのか、という辺りを行います。
大長編である一冊の文芸を働きながら読む、という行為がいかに現代社会におて難度であるのかということを改めて実感し(今回は特に評価とは別の好みが異なる作家作品を複数作読むべし)、かつその疲労的行為の後にさらに主体的に執筆・編集行為を含めると、働きながらの読書習慣を主題にした当ブログの徒労感が襲ってきた7月。退職後1.5年の区切りを感じる最近ではありますが、改めて労働と読書、生活と読書、現代と読書というテーマが迫ってきますが、それにしても主題と人生、文学と人類とも切り離せないものだとの確信もしばしば。


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