G-40MCWJEVZR 文体と虚構性の異才と古典性入門『乳と卵』『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子① - おひさまの図書館 つまらない・あらすじ・たけくらべ
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文体と虚構性の異才と古典性入門『乳と卵』『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子①

文芸

 2020年の宇佐見りんを2003年受賞の綿矢りさ・金原ひとみの系譜で思ったけれど、その間にあったのが2007年の川上未映子で、受賞時は31歳で年齢的な話題にはならなかったが美人で見栄えが良かったし、デビュー作がちょっと変わっていたから印象的だった。
 個人的には津原泰水と短篇「黄昏抜歯」の話題を知ってからだったので、印象的には色物感もなんだかあったけれど、デビュー作とブッカー国際賞の候補になった『ヘヴン』が悪くなかったので、個人的には悪い印象ではなかった。
 その後、『黄色い家』が話題になっていて、一般化したし、まだ書いてるんだな、と思ったのが2023年と、けっこう最近。著者は1976年生まれ、あんなにきれいだった人が現在50歳近いのかと思うと不思議な感じがするが、2年前の小説を読んでとてもきれいな印象で浮かぶので、作家なんて別にそれでいい、と思った。

 ということで、芥川賞企画の6人目は川上未映子さんです。
 みなさんはこの作家さん、どう思われますか?賛否両論?石原慎太郎みたいに激おこ?

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芥川賞受賞作『乳と卵』の文体と虚構性オマージュ

 中盤までめっちゃ濃密で、これは獲るわ、と思った。
 芥川賞受賞作家を読んできた最近、狭い話ばかりでつまらなくなってきたかもと思っていた気持ちも、全然好きなテーマでも作風でもないしなとか、他の候補作を知らなくても、全部含めても関係させなくても、これは獲るわ、と思った。
 川上未映子と言えば、思い出すのは『わたくし率 イン 歯ー、または世界』(2007)で、文体の濁流や流れの勢いで、文芸の趣を凄く感じる作家さんの独自性と、美人な女性作家がこれを書くのか、という虚構性や主人公像の印象の強さと、けれども2冊目の『ヘブン』にて、学生時代のいじめや仲間外れや同調意識や差異を超えた他者との関りや自己肯定などといった、10代や思春期に特化した1冊を読んで、テーマ特化の虚構創作も出来るのだ、という異なる印象をきちんと持つことが出来たので、一目以上は置いていた。ただ、扱う主題への興味関心と、基本的には文芸や詩情性が、基本的な私の読書の趣味ではない為に、特に読む必要や好意を感じていなかったし、それらと評価とは根本から違うものだと思うので続行は無かった。
 しかし今回読めてよかった。受賞作の『乳と卵』これは良作。

41>その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたち物を考えるための前提であると言ってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかないのよね、じっさい、あなたは気が付いていないだけで、なんだたもっともらしいことを云って、胸大きくしたい女の子はそれに対して、なんだって単純なこのこれここについているわたしの胸をわたしが大きくしたいっていうこの単純な願望をなんでそんな見たことも触ったこともない男性精神とかってもんにわざわざ結びつけようとするわけ? もしその、男性主義だっけ、男根精神だっけかが、あなたの云うとおりにあるんだとしてもよ、わたしがそれを経由してるんならあなたのその考えだって男性精神ってもんを経由してるってことになるんじゃないの、わたしとあなたで何が違うの、と答えたわけだ、するとその冷えっと女子は、だーかーら、自分の価値観がいったいどこから発生してるのかとかそういうことを問題にしつつ疑いを持つっていうか飽くまでそれを自覚してるのと自覚してないのとは大違いだって云ってんのよ、とこう云って、その批判に対して胸大きく女子は、まあ何がそんなに違うのかあたしさっぱりわかんないけれど、わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ、それだけのことに男性精神云々をくっつけて話ややこしくしてんのはあなたで、あなたが実はその男性精神そのものなんじゃないの? 少なくともわたしは男とセックスしたりするとき、例えば揉まれるときなんかにああこの胸が大きくあって欲しかったこの男の興奮のために、なんてことは思わない、ってことははっきりわかってるって話よ、ただ自分一人でいるときに思ってそれだけよ、
~は、じゃあさ、あなたがしてるその化粧は男性精神に毒されたこの世界におかれましてどういう位置づけになんのですか、その動機はいったい何のためにしてる化粧になるの、化粧に対する疑いは? と胸女子が云えば、これ? これは自分のためにやってんのよ、自分のテンションをあげるためにやってんの、と冷っと女子、それを受けて胸派女子は、だかたあたしの胸だって自分のために大きくしたいってそういう話じゃないの? あんたのそのそのばちばちに盛った化粧が自分のためだっていうのがあんたのさっきの理屈に沿うんならね、だいいちおんなじ世界で生きててこっちは男根主義的な影響受けてますここは受けてませんって誰が決定するんだっつの。と鼻で笑えば、何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうか、だいたい女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ? あなたのその胸を大きくしたいってんならまずあなたの胸が包括してる諸問題について考えるってことから始めなさいよって云ってんの。
~じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、大体女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう言わせてもらうっつの。まずあんたのその私に対する今の発言をまず家に帰って逐一疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわおまえのド頭に、

 本作は、母子家庭である巻子と娘・緑子が、巻子の妹である主人公・夏子が住む東京へ二泊三日の旅行に来た期間を描きた中編小説である。おそらく初期の著者の特徴であるところの、地の文の冗長さや台詞の羅列などによる、過剰な思想文の提起とカモフラージュがあったり、あれよあれよと話しまくる展開が本作にもよく表れているが、デビュー作よりは勿論端正、一定以上に普遍的な小説の体裁を保っていてるし、展開も月末にも破綻はないが、序盤に展開される上記の「胸派女子」と「冷っと女子」の会話が面白いと思うかどうかがまず第一の試金石になるのかなと。
 主人公の姉の巻子は豊胸手術を考えており、巻子の娘の緑子は初潮や妊娠についての疑念や反発を綴ります。それらは全年齢の女性が普遍的に抱える人生要素や女体要素を多く巻き込んで、胸や化粧の価値観や文化、オレオやアメリカンチェリー等の文芸、妊娠出産を経て変容する女の身体や人生の、偶然に左右されつつ確実に変化をもたらす身体と人生などを提言しつつ、胸を中心としたや裸体としての女体観察をする上での銭湯という場面選びと、中年になった姉妹でも腹を割ったデリケートな話題としての応酬も面白いし、とにもかくにも喋りまくる姦しさと、大阪弁なのか関西弁なのか私にはわからないけれども、人称文の軽快さとともに愉快に暗すぎず展開する。

 そのじつ、母親とうまくいっていない娘からの、なぜ私を生んだのか、働き詰めで幸せでもない母親、私は産みたくない、生まれたくなかった等への思想的飛躍は切実だし、他に女がいて捨てるつもりなのになぜ子供を作ったのかという問いに対する、それは人為ではないとかのたまう男の精神口上を突き付けられるなど、重さや核心にも触れていくことを恐れない。

58>「あたしも子ども生むまえはゆうでもここまでじゃなかった。そんな変わらんと云われるかもしれんけど、そら滅茶苦茶にきれいではなかったけど、そやけど、これ見て。これはないよ。色も大きさもなんてここにお菓子のオレオがっていうこれはないよ。ま、オレオの今はまだましで、最強の時はアメチェ色、知ってる? アメリッカンチェリーな。あの色。すんごい色な。ただの黒じゃないな。赤が混じった黒っていうかな、」
~「あの人がゆうたこと今でも覚えてて、今でも訳のわからんことがあるねんな。あたしまるまま覚えてるねんけどな、あたし記憶しても打てるねんけどな、あたしと一緒になる前からあの女おって、ずっとおって、おりっぱなしで、最初からあっち戻るてわかってて、ほんならなんであたしと子供を作ったかってことあたし訊いたわけ、わかってるやんそんなこと、本人やねんから、東京にもどるてわかってるやん、自分の状況とか相手のこととか気持ちとかさ。ほんなたあの人な、なんてゆうたと思う、これあんたにゆうたっけ、まえにゆうたっけ、あの人な、云うで、『子どもができるのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というわけだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ』ってな、嘘くさい標準語でな、のままをゆうてん。あんたこれの意味わかる? あたし訳わからんくて今もわからんくてさあ、何をゆうてんのかがわからんのよ」

64>んで色々あって、最後は、泣きそうな顔で仕方ないやろ、食べて行かなあかんねんから、ってお母さんが大きい声で言ったから、あたしはそんなんあたしを生んだ自分の責任やロッテゆってもうたんやった、でもそのあと、あたしは気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、あたしはぜったい大人になっても子どもなんか馬偏と決めてあるから、でも、あやまろうと何回も思ったけど、お母さんは時間がきて仕事に行ってもうた。

 全体テーマとしては、題名が表す「乳と卵」から想像できる女体やその人生の話だし、テーマ特化は著しく、私はこのテーマに興味も好意もないし好きな小説だとも思わないはないが、これは間違いなく文芸だし、特化だし、テーマとしてまとめてある。その意味では、津村がテーマ特化と文芸筆致が全く出来ていないと言う論旨で書いたが、その項だけで言えば川上は完全にテーマ特化だし、そもそもが文芸筆致にすら特化した作風をデビューから2作貫いており、その2項目だけで言えば完全に川上は純文学風。だが暗くはなくむしろ明るく、なにかしらの熱さが常にあって、固苦しさもなくて、その不思議な感じは、それだけで結構面白いし、独自性がある。
 それで言えば、『乳と卵』は文芸特化とテーマ特化のバランスの良さを持っていて、私の昔の読後感で申し訳ないけれど『わたくし率~』と『ヘブン』のちょうどよいバランスと、けれども女体や人生という古典的なテーマに寄り、芥川賞らしい中編に収まっていて小器用かつ、以降で触れるようなオマージュ手法や文体の古典性も相まってよく出来た商品であり、かつ確かな熱も籠っていてバランスが良い。
 そこからの恋愛小説的な一般かつ趣味読書にも寄りそうな『すべて真夜中の~』への興味、社会的なテーマやモチーフを採った長編『黄色い家』への期待が否が応でも高まる。そのようにして作家性や著作列の変化や進展が見て取れる可能性を感じるだけでも、この作家への好意がわくし、それはその作風への好意や感心ではなく、好みではないけれど評価は確実に出来る、といった体感がした時に、その上で私はこの作家が好きかもしれない、と思えた。作風でも文体でも好みではないけれど、著作列と姿勢に信頼や関心が持てる、ということの私にとっての大事さが思われた。

 ただ、その後は、すっかりつまらなくて、ピークもラストも微妙だった。その辺りは以後読む『すべて真夜中の恋人たち』も同様だったので、作風なのか私の相性なのか、まだ計りかねているが、それは次回へ。

『たけくらべ』と樋口一葉の紐解きとガラスの仮面

 以下、選評にて、池澤夏樹が「樋口一葉のオマージュ」と本作に触れて下さっていたので気づけたのだけど、どうやら『たけくらべ』との関連があるようです。
 個人的には、『たけくらべ』との出会いは漫画『ガラスの仮面』なので何とも言えませんが、それで思い出したのが劇中劇で一番好きだったのが『たけくらべ』だったので、中学生の時に樋口一葉をチョイスしてテーマ作文みたいなことをし、原文にも当時当たった覚えがあるのですが、この読み方はなるほどなあと。確かに緑子=美登里、夏子=名都(樋口一葉の下の名前)と言われてみたら当てはまるし、少女が初潮を迎えて女性へと変化していく過程や心情の変異の吐露として使われる「ゑゑ、厭や厭や大人に成るは厭やな事(「たけくらべ」美登里)」→「厭、厭、おおきなるんは厭なことや(「乳と卵」緑子)」と言っており、類似点はたしかに。
 川上未映子はお喋りすぎるところがあると思うが、たけくらべはその語らなさの余白が染みる作品であったと記憶しているので、その対比と、それでいて扱う少女からの成長と女性の生涯を思う儚さと力強さ、その体現や爆発と表現は、古典性を引き継いだ現代における虚構創作や文芸として見紛う事のない仕事だと思うので、こういう読み方が自らできる人の読解は凄いなと思った。
 と同時に、津原泰水の件も思い出したりして、着想の素直や創作表現の難しさや姿勢や作品性が思われたりもしたし、厄介ではなく自由と素直で創作が出来る人であるといいと思ったが、そのようにして私はオマージュ性にも自分では気づかないし、個人的な突飛比較はできても古典作品との王道な比較批評は出来ないかもなと思ったりした。古臭くてなんか嫌だとか言わずに、いつか読みたい気にもなったのは今回とても大きかったし、それは「芥川賞で日本文学が読めるのか?」の主題にも関わるし、日本文学の近現代を知るの大事さが思われて少ししんどい。(オースティンも投げ出す私は現代性ばかり追わずに古典性に向き合わなきゃならないツケが迫ってきた感)
 作り書く人にせよ、読み書く人にせよ、着想や自由から膨らむ表現上の姿勢や核心において、理知感が及ぶところは結局闇の中、他者は読み考える、筆者は書いて晒す、言説と創作の哀れが思われる気がしたし、だからこそなおのこと読んで語って読み継いで書き記す必要と文化芸術に感じ入った。

 ガラスの仮面ではほかに「ふたりの王女」のアルディス役や文化祭の劇の「女海賊ビアンカ」とかが好きでしたが、紅天女あたりまでしか読んでないけど、完結はしたのかな?
 「嵐が丘」「真夏の世の夢」「椿姫」「アンナ・カレーニナ」「コッペリア」「ジュリエット」「カーミラ」「奇跡の人」「若草物語」など、有名作品の名前に初めて触れることも多かった漫画、懐かしい。小学生の時に姉の文庫版で読んで、色々な古典作品の導入になったように思う。

 本作の文体上の特徴は、句読点や鍵括弧等の使用が少なく、特に地の文が明確な口語体で書かれていることを含めて古文のような読み心地の可愛らしさもあり、今では珍しくもないが文語体から口語体に移行する大きな変化は明治時代後期から大正にかけての言文一致運動や外来語の使用などの近代化を経て様々な要因が影響を与えてきた中で、書き言葉と話し言葉の一致を目指してきた。
 古文のような読み心地と近代的な口語体の柔らかさを組み合わせた文体は、デビュー作でも見られた過剰な文語体の特徴を上手く使った魅力となっているし、その文体上の試みと合わせて明治時代の女性作家の有名作品をモチーフに、主題テーマも女性性や少女性を扱い浮かぶ古典性は、えてして浮世絵離れした華や軽やかさとともに軽さも感じる著者イメージのよい錘にも成り得る。
 著者も大阪でホステスをしていたとのことで、姉の巻子もホステスをしながら緑子を育てているし、後日読んだ『黄色い家』の主人公も母子家庭で、母親もスナック勤めをして主人公を育てていて、類似。このあたりは無理をしないで書ける範囲で書く、価値観や世界観で無理をしない部分に好感。

選評

 デビュー作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」で1度目の候補、2度目の候補で受賞したそうです。

「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(平成19年/2007年5月
小川洋子□「自意識から離れた瞬間の、川上さんの描写力には衝撃を受けた。」
池澤夏樹△「この饒舌、この沈黙恐怖のようなしゃべくりは朗読してみると実に快い。ナンセンスな内容はそれにふさわしい。だからだろうか、後半に至って現実の青木とその女が出てくるところで急に話が弛緩してしまう。相手が一人ならばともかく二人では現実感がありすぎる。」
石原慎太郎「自分が苦労?して書いた作品を表象する題名も付けられぬ者にどんな文章が書けるものかと思わざるをえない。」
黒井千次△「言葉のエネルギーが小説に必要な他の要素を上まわった感がある。しかし次作への期待を抱かせる力量を備えている。」
山田詠美△「言葉の扱いとスピード感が、とってもチャーミングなので、こんな題名ではったりかますことはない。いじめに持って行くラストは疑問。」

 石原慎太郎のコメントが面白過ぎる

「乳と卵」(『文學界』平成19年/2007年12月号)
池澤夏樹〇「仕掛けとたくらみに満ちたよい小説だった。」「二泊三日の滞在という短い時間内にきっちりとドラマが構築されている。」「最適な量の大阪弁を交えた饒舌な口語調の文体が巧みで、読む者の頭の中によく響く。」「樋口一葉へのオマージュが隠してあるあたりもおもしろい。」
小川洋子〇「目の前にある、具体的な形を持つ何かを書き表わす時、その輪郭をなぞる指先が、独特の威力を持つ。勝手気ままに振る舞っているように見せかけながら、慎重に言葉を編み込んでゆく才能は見事だった。」「ただ、読み終えた時、もしこれが母娘の関係を描くのではなく、巻子さんの狂気にのみ焦点を絞った小説だったら……と想像してしまった。(引用者中略)しかしこれは、全くの余計なお世話である。」
黒井千次「前回候補作『わたくし率 イン 歯ー、または世界』に見られた言葉のエネルギーが持続力を持つものであることを証明する作品であった。」「女ばかりの二泊三日を通して、女であることの心身の実像を「泣き笑い」の如く描き出す。息の長い文章は「わたし」の語る大阪弁に支えられてはじめて成立すると思われる。」
石原慎太郎「私はまったく認めなかった。」「乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。」「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。」

 石原慎太郎が面白過ぎる

著作列

 次回、川上未映子②では2023年の『黄色い家』を扱うので、今回と次回の3冊を含めて、既読作品をマーカーすると、初期の4冊を連続で読んでおり、一気に最新作に飛ぶので、間を埋めていく作業は結構面白いと思う。正直、出始めはそんなに書き続けるとも思わなかったが、情熱が続いてよかったなとも。2024年から芥川賞の選評委員も務めているらしいので、そちらも気になる。エッセイなどもたくさん出しているようですね。

2007年『わたくし率 イン 歯ー、または世界
2010年『乳と卵』第138回芥川賞受賞
2009年『ヘヴン』芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞
2011年『すべて真夜中の恋人たち
2013『愛の夢とか』短篇集 谷崎潤一郎賞
  アイスクリーム熱(『真夜中』2011 Early Spring)
  愛の夢とか(『モンキービジネス』2011 Summer)
  いちご畑が永遠につづいてゆくのだから(『アスペクト』2007年5月号)
  日曜日はどこへ(『yom yom』2011年第23号)
  三月の毛糸(『早稲田文学』2012年4月)
  お花畑自身(『群像』2012年4月号)
  十三月怪談(『新潮』2012年6月号)
2015年『あこがれ』
   ミス・アイスサンドイッチ(『新潮』2013年11月号)
   苺ジャムから苺をひけば(『新潮』2015年9月号)
2018年『ウィステリアと三人の女たち』短篇集
2019年『夏物語』 毎日出版文化賞
2022年『春のこわいもの』短篇集
2023年『黄色い家』読売新聞2021年~2022年連載 読売文学賞小説賞

『すべて真夜中の恋人たち』が恋愛小説ってホント?


 まずタイトルが素敵で、途中までとても面白いのは『乳と卵』と同様。
 校閲という、いずれなくなるかもしれない文字だけの静かな仕事が真夜中モチーフにマッチする世界観と、終業後に帰宅してから就寝までする事がない主人公女性の社会人経験と、その仕事の副業アルバイトからフリーランスの仕事が開ける所など、静かに読める。
 このあたりは、十年前後の社会人人生を経て、その間の資産や経験や人脈の積み上げにより中年以降の働き方に変化を持てる社会性として、津村記久子『水車小屋のネネ』で読めなかったテーマが読めるかなと期待したが、勿論そんなありきたりな期待は叶わず、単純に虚構性や題材性としても、校閲という仕事の面白みとか、静かな中年女性の生活感などを魅力的に展開してくれるかなと思わせておいてアルコール依存で投げ出して号泣してめでたしめでたしにする、物凄い展開を見せてくれる本作。

芥川賞作家が贈る癒し系小説『水車小屋のネネ』で出世した津村記久子の先行き②
芥川賞作家は、この時代に何を描くのか。 これもまた、現代においての本企画や該当作家に求められる問いかもしれない。 現代文芸に求められる癒し系要素、社会的な悲しみや禍根に対する文学や虚構性の癒しや祈りの要素、そこに結びつくところに生まれる魅力...

 徹夜明けのみすぼらしく、断れない自分をガラスの中に見るが、そこも光の加減と見え方の問題であるし、お酒を飲む人は忘れたいか雰囲気を楽しみたいか、どちらにせよ、思考を手放し合理的でも現実的でもない所が、やはり私はあまり好きではないのだなと感じるので、以後ほとんど常に飲酒状態で生活する主人公像をうまくとらえることが私には出来なかったし、急におかしな人のおかしな文章が始まり、唐突に川上未映子が始まる。
 アルコールで考えたくない自分の人生、鏡に映った自分の直視から始まる、酩酊状態で外をうろつく怪しい女と親しくしようとするシラフの男なんてまずまともではないし、主人公は35歳、男は58歳、年齢からして怪しすぎるし、「寝たいですか?」には「はい」と答えたけど、「愛しています」には頭ポンポンで返す不自由、号泣しながら愛してるの重さは純愛ではないし、職業が嘘でしたとかもほんとなのかどうか、これが恋愛小説とは言えないことを承知で表現している著者の冷静さを感じたい。

 そもそも学生時代の唯一の性体験の相手にしても、クラスの余り者同士で、事後の台詞とフラッシュバックはきついし、友人らしい友人も恋人らしい恋人もいない、寂しさと孤独に満ちた中年女性が、これを恋だと思いこむことは可能なのだろうが、私にはホラー作品に感じたし、相手の男からしても会ってない間に延々と色々考えられて、しかも毎回アル中だし、普段すっぴんなのに急におしゃれしてきて値段の高いレストランに連れていかれて、愛してるって、大人になり切れない恋愛未満、という意味では『傲慢と善良』も思い出すし、恋愛に疎い私にはどちらも恋愛小説には思えなかったけれど、恐らく『すべて真夜中の恋人たち』は著者も恋愛小説とは思って書いていないだろうが、辻村深月側は恋愛小説と捉えているだろうことがまた怖くなってきた。
 このあたりは視点人物しかうかがい知れないものだが、作品性を決定づける小気味よさの点で本作は一応留意点がある。そしてその救われなさの中の救いの点が、『ヘヴン』にもあった光のような気がするが、十年前なので完全にうろ覚え。同一著者の作品である趣は充分感じる。

ワゴンセール品同士の恋愛未満が空前の大ヒット、ドロドロ婚活小説『傲慢と善良』辻村深月
私にとって小説家とは技術で、文章力と創作性の完成度なのだけど、同じだけ商業性が必要であり、芸術性と商業性はどの時代の作家にも付きまとう実力と実績だ。 少し前にフォロワーさんから、「辻村深月『かがみの孤城』の書評を読みました、辛口でした、好き...

 静かで受け身な主人公・冬子に対し、おしゃべりな友人・石川聖(ひじり)が少しうるさいし、台詞調が多く口上の並べ方に稚拙を感じるが、著者らしさで流せるレベルではあるし、使い勝手の良い重要人物で展開を作ってくれるキーパーソンは、主人公との対比に置かれる行動派。
 友人関係の変転というのも、この人は長い台詞で話し続ける、という特殊な手法をとるし、そこで恐らく人物像を浮かび上がらせる会話をさせることをよくするが、女関係のマウントや品定め、蹴落とすそれは主人公と友人との間にもあって、露呈した最悪の状態が全てではないし、綺麗な気持ちと言葉だけで話している時も嘘だけではないことは確かで、けれどその関係をどのように大事にしたいか、継続するのか、というのは温度と変化を持った人間関係に委ねられている自由だが、それに対し本作の登場人物たちはみな不器用だ。

コミュニケーション不全と孤独な主人公に訪れた友情と恋愛?の夜

 「会話の次元を上げてはいけません」と言われて三束さんとの会話は上げていけなかったたが、友人との会話は本音の衝突によって上がった、というのが本作のプロットだったのかなと。 
 質問を質問で返すことでその人の本心が見える、本心を見せ合う。友人同士は温度を上げて初めてお互いを見せ合うことが出来たが、それすらコミュニケーション不全ではあるものの、三束さんとはそこまでもいかなかったし、三束さんとの関係を進展させられなかった理由は、お互いがお互いを隠して通り一辺倒な問答を繰り返すのみで、次元を上げて質問に質問で返す会話をしなかったからだ、という読み方ができる本作。
 喫茶店で向き合って物理や音楽について話す間も、質問されて答える一問一答を繰り返すのみで、お互いを見せ合って交わらせる会話はしなかったし。それを禁じたのは三束で、彼は冬子に踏み入らせること選ばず、ここには彼がついた嘘が関係するし、パーソナルスペースのように人は踏み込ませる相手も選ぶし、それでも踏み込む相手も選ぶ。
 友人も恋人もいない孤独な主人公である入江冬子の物語には、聖以外に3人の人物が登場するが(恋愛?相手の三束さん、フリーランスきっかけの元職場先輩女性、高校時代の同級生)、彼らとはほとんとまともな会話もせず、受け身のままでいる主人公が描かれる。家に帰って寝るまでの時間に何もすることがないし、休日を一緒に過ごす友人や恋人もいないし、そもそもが自分というものがわかっていない。
 おそらく冬子も他の誰ともそのように自分を見せ合って関わっては来ていないので、静止する三束を振り切って踏み込むことも出来ず、彼女自身も見せるだけの自分というものの存在や形すら見えていないから、聖になろうとしたり、真夜中をさまよったりする。
 貰った服をどうすればいいかわからない冬子に「そんなの着ればいいだけ」と言う聖と、クラシック音楽をどう聞けばいいかわからないと言う冬子に「ただ聞けばいいだけ」と三束は言う。でもそれらがいまいちよくわからない主人公には誰もいないし、自分という何もないから、「あなたをみてると、いらいらする」というようなことを高校一年生の時の初体験の相手と35歳現在の友人の両方から言われてしまう。

その考えもこの価値観も、この世界の誰かの引用であり、わたしのものではない

 これは『乳と卵』にも登場する、当人が素直に信じて疑わない価値観は借り物や汚染であるということの提起。

 慣れてない高級レストランなんか行かずに、ワインなんて飲まずに、いつもふたりで過ごしていたあの喫茶店で、スパゲティーとかサンドイッチを食べればよかったと思った~お酒を飲みたかったら、コンビニで買ってきて、ふたりでならんで公園で飲めばよかった。

 自分の考えと他者の引用ではないか、というのに関連して、本作でも主人公が書店に調べものにいく素直な吸収力を見せるが、それは『黄色い家』にも出てくるが捉え方が難しい。
 読書ブログを運営する私からしても、現実現代のリアルタイムや人間関係を書店や書籍から学ぼうとする姿勢がなんだかずれていてまずいというか、現実現代の人間関係を問答出来る他者の不在が浮かび上がる点がまずくかんじるのか。やはりここも孤独とコミュニケーショ不全があり、過去二回の恋愛?経験の相手ともうまく交われず、恐らく友人とも誰一人交わることが出来ずにいた主人公は、唯一聖とは激しく言い争うことが出来たが、それもまた聖が孤独を見せてくれた瞬間が合致した夜があったからだった。
 『わたくし率 イン 歯ー、または世界』でも、恋愛と独りよがりのストーカー行為が交わったりいじめに関連したり、『ヘヴン』にもそれは重なり、『黄色い家』でも友情をメインに重なったので、この辺りが著者のテーマや世界観で、複数作に渡って披露する作家性であり、他者に見せることが出来る何者かである自分自身である、と信じたいが、とても不器用な創作にも感じる。

光と真夜中の虚構性

 孤独な夜に響く虚構性は小説や恋愛の醍醐味であり、本作が素敵な恋愛小説でキラキラきれいな世界観を保持して擬態できている可能性に思うが、魅力的なその虚構性を表現創作する文章の密度は結構散漫で、ひらがなが多い文体は冬子の幼さや思考力の低さを感じさせるけれど、それとの相性が微妙。
 綺麗な世界観で自分の人生や日常を見ることをやめられない幼さを感じられるし、だから恋愛未満を恋愛に捉えることが出来、不器用にも友人と感情的に掛け合って、そこでは馬が合って友情が生まれた。
 飲酒習慣を始めた日は、飲んでも飲まれない聖にバーに呼び出された以後。
 何者かになりたいし、自分がある人になりたいし、おしゃれな服をそのまま一式トレースすることの方が自分を見つけるよりも楽だし、お酒を飲んで誰かと話す方が自分らしく話せる気がする、という逃げの戦略から浮かびあがる主人公像。

 物理の先生が話す光の虚像、という趣きに詩情性もあるし、孤独な夜の散歩も同様だが、それら虚構性が強い表現を可能にする密度は、冬子の一人称から成る幼い文章からは難しかった。

中盤まで面白いが展開は微妙
=世界設計は良いが主題表現が微妙

 次回でも触れるが、今回二作扱ったがどちらも途中まで物凄く面白いし、それはテーマ設定や世界観から進む場面選びなどが光るが、展開と落着が微妙である、ということは物語による表現としての作品主題と表現が微妙だと言うことになる。どこかしらで主人公が変化する表現のための文体の変化、視点人物の一人称がおかしくなるのにも、技が狭いかなとも感じる。

 でも、強烈な個性と小気味よさを維持しながら、それを貫いて書き続ける、というだけで、その力強さが好きだし、古典や社会テーマから採る意欲も感じる、暗い野心よりも明るい好奇心のが似合う感じが、好みなのかもしれない。そこに純粋を感じる。

次回②は『黄色い家』

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