G-40MCWJEVZR 売れても売れなくても難しい個人を貫く作家性と資本主義時代の文学性と「読む倫理」平成の爆発、美少女小説家の潮流②『私をくいとめて』『パッキパキ北京』綿矢りさ - おひさまの図書館
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売れても売れなくても難しい個人を貫く作家性と資本主義時代の文学性と「読む倫理」平成の爆発、美少女小説家の潮流②『私をくいとめて』『パッキパキ北京』綿矢りさ

文芸

 誰が語るかの特権から、どう読むかの倫理と、権威からの再接続へ。
 ポストモダンの記事の時の、文芸が、語りのための形式から、形式のための形式になり、21世紀は人類のための形式にやっとなる、というところを考えたけれど、それに近しい部分、現代文学への接続と未来が思われた気がするし、私が考えたいのは作家作品側だけでなくて読書読解の受容側もあるのだなと分かった今回。

 前回は、芥川賞の平成の爆発と女性作家の潮流として、綿矢りさ芥川賞受賞作とデビュー作と三作目を読んだりしました。今回は著者の最近の作品を二作読みつつ、そんな爆発を平成に持った芥川賞がその効果をどのように使っていけたのか、或いは使えていけなかったのか、を考えていきたい。

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若い女性を感性と商業で消費したジェンダー資本主義の先

若い女性が売れる時代に、
文化資本の延命策として「文学」より先に「現象」として消費

 芥川賞は制度的に純文学の価値の象徴であるはずだが、2000年代初頭にはすでにメディア露出が減少し、文学賞がニュースになる機会が激減していた。そこに19歳と20歳という最年少記録(しかも女性の同時受賞)かつ才色兼備としての特に外見の良さという宣伝に最適な条件が揃った結果として、文学賞本来の価値判断がメディア資本による商業的演出の中で吸収された。文学賞が偶然にも若さと美を宣伝に使ってしまった構造が、一瞬で彼女たちを時の人にし、芥川賞も瞬間的に話題性で爆発し、社会的に再接続することに成功した。

 2000年代初頭の日本社会は若い女性価値社会のピークで、ファッションモデル・アイドル・読者モデル文化、『CanCam』的なかわいい経済により「女の子文化=消費の牽引力」という構造が浸透していた。文学さえもその文脈のなかで消費され、若き才能あふれる文学少女像が文化的ブランドとして再利用された。文学界が若い女性を受け入れただけでなく、結果的に若い女性の価値を利用して文学を再ブランディングしたという逆転が起きた。当時の芥川賞選考委員会も、純粋に文学性だけでなく社会的インパクトを計算していた節もあるだろうし、結果的に選考後の文藝春秋は過去最高部数を記録し、文壇が若い女性の顔を借りて自己再生を果たした。これは、ピエール・ブルデュー的に言えば、象徴資本(文学的威信)が性的魅力資本(メディア映え)を通じて交換された瞬間と言える。
 もし彼女たちが年配の作家だったり、地味な容姿だったら、若年女性の同時受賞というキャッチーは成立せず、あそこまでのメディア熱狂は起こらなかった。このときメディアが作ったのは、「文学界に現れた美しく若い天才たち」という物語化された虚構であり、文学の中身よりも年齢と性別による特殊がニュースになり、作品ではなく人物の属性が消費された。
 2人に「若く・美しい・女性・最年少・同時受賞」というラッピングがあったからこその文壇による商業性としての事故だったと思うし、若年女性価値の高い日本ならではの出来事であることは、文学史・社会学・メディア論のいずれの観点から見ても避けて通れない本出来事の論点であり、綿矢りさと金原ひとみの同時受賞は、文学的事件であると同時に、日本的ジェンダー資本主義が作り出したメディア事故でもあったのではないかなと。
 文学性より市場性、どうしたって求心力や影響力はどの時代も必要の必然で、資本主義、あるいはポスト資本主義の時代、文学は商業あるいは虚構性、そして文化性などどんな部分で価値となって残り続けることができるのか、を考える上で、ひとつの重要な実験で通過点になったのは間違いない。人や金が集まることの威力と問題性を日本文学の中枢が最も感化し利用した時代、そしてそれを受けた現状は恐らく低迷、そしてその先に見据えて何が機能していくのか。

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 ここには、文学賞やひいては出版業界が、そこもそも文化と商業により成り立ち、片側だけでの存続はあり得ないことは外せない視点であるし、以降文学賞特に芥川賞の受賞者には一定上の著者のジャンルやキャラ立ちが求められることも増えていく。これが良し悪し、長期的に賞や日本文芸のためになるのか否かというところは現時点では判断がつかないし、その為には私は著者名とかを見ただけで終わらずに近年2020~25年くらいまでの作品は読んでから言えよという感じもするが、むしろ最近年のその辺りは地味な並びにも感じられるので、爆発と色物をまた地味回帰を果たして真骨頂を模索している印象があるので、その辺りはまた時間を作って読んでいきたいが、専攻するほどの興味は勿論ない。
 ただ、以下、一度成功した後のレッテル、凋落や自己肯定、糧にした他人生あるいはしがみつき、エッセイや有名人としての生き方の現代性多数、文芸と文学の違い、芥川賞という制度と文化の功罪と真価、それらを以て1人の作家や1人の人間がデビュー後書き続けて著作列を残して買いて買いて死んでいく、作家性についてはやや興味があるし、売れても売れなくても、注目されても見向きもされなくても、自分を貫く、書き続ける、進み続ける、それ自体は内的個人と外的社会との関連性としても関心は高い。
 早熟の天才が自分を貫く難しさ、貫かれて現れる著作列から見る作家性、個人内的の難しさ・外的成功の難しさと成功してからの内的の維持向上の難しさは読書習慣の本質だし、それらはまたいずれ企画するとして。

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近現代文学史の正念場、
語りの倫理から読む倫理へ

 上記のように綿矢金原の爆発を「若く・美しい・女性・最年少・同時受賞」というラッピングがあったからこそ商業的事故、として認識する場合、また新たに浮かぶ1つの問題は、彼女たちが描かれる側だった年齢と性別の主体として言語化を解放した分岐点という前回触れた点とも関連し、上記のように若い女性が書いた文学が商業利用された点が抱える、誰が書く主体機能上の限界と展開が近現代文学の最前線に結びついて来るのではないか、という点。
 抑圧者の新たな語りが生まれたことにより、以前的な「男性が語ることは普遍である」と同構造の、「女性だから書くことに価値がある」「マイノリティだから表現は正しい」という語りの倫理が再び権力化することへ繋がった感がある。かつてあった家父長的傲慢が、今度は被抑圧者的特権や傲慢性として現れ、「声を持つこと」「だれが書くのか」が目的化され、「何を語るか」「どう語るか」の倫理が曖昧になったし、特権性が作家性を制限し助長する結果は、性別や国籍や地域など多岐にわたる。出自や価値観を含めたどんな誰が語るのか、の内的を作り出す外的要因を含めたその作家の価値観や著作列の形成は、ひどくデリケートなうえで、さらに作品性以外の要素で特権的に作品を扱うことになり、それは作品批評としては正統ではない。

 現代における正当性は、「誰が語るか」よりも「どんな構造を自覚して語るか」に移行していけるはずだし、これこそが常に文学だったはずだと信じたいし、未来はさらにそう加速するべきだと感じる。
 男性でも家父長的構造の中での自分の位置を自覚して語ること、女性でもジェンダー構造を普遍的倫理の問題として開くこと、マイノリティでも自己の経験を社会の構造や普遍性へ昇華することにより、感性や特権で終わらない虚構創作や文芸形式が作品化であり文学性である。それこそが当代的正当性と倫理的更新であり、この場合の(文学的)語りの倫理とは自己位置の意識化+他者との連結可能性であり、他者と社会構造への接続や再現性がその要素となってくる。それらにより、やっと人類的価値の次元の本質的な変化が望める。
 人類的に見れば、「家父長的語りの時代=単声的文明」「マイノリティ文学の時代=多声的文明への過渡期」と位置づけらるように思う。人類の叡智は単一の真理から複数の現実を翻訳し共感し合う能力へと進化し、文学はその翻訳能力=共感の技術=文明的知性の実験的表現となっていく。

 抑圧された声が語ることで世界の多様性が回復され、解放・多声性・構造理解により正統性が保たれ、語りの正義が自己目的化し構造批判を停止させる権力の再生産・表現の制度化の傲慢が存在しつつも、それを超えたところにある人類的価値とは、他者の語りを聴き、自らの位置を問い直す知性であるし、それこそが文明的成熟としての文学や文芸表現とその享受による翻訳的共感力ということが出来る。
 その場合の文学の使命は「誰が語るか」から「何をどう語り」「どう読み合うか」へ移る。つまり、語る権力から語る倫理を経て読む倫理への転換が21世紀以降の文学の核心に思うが、この途方もない距離を資本主義において市場的にもどのように埋めることが出来るのか、ということも絶対的なテーマとなってくるし、文学が大衆個人や一般社会にどのように文化的貢献や波及が出来るのか、という現実問題にもぶつかる。その意味でも、そもそも文学が特権や権威だけではなく、真に語りから始まる倫理へどのように移行しながら、一般大衆や人類社会にとっての何に再接続していけるのか、の近現代的正念場を常に感じる。

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 以前ポスト・ポストモダンの文脈で作家的倫理について考えたが、同じ倫理として捉えたときに、読者にとっての「語る倫理」という語はやや作者依存的な響きを持ち、勿論読書とは作品をベースに行うものであるし、読者や社会は常に作品や作者を相対において鑑賞を行うものだが、そのようにして現代文学に要請するだけでなく、文学的営為の核心である能動的読解や思考的受容など、「読む倫理」として読み手に求められる能動的受容の倫理も含まれていく相互間も存在するのだとふと思いつく。読むことは作品や作者を基調とする行為ではあるが、その行為の半分は読み手側にも求められている。
 社会的マイノリティの文脈においては「理解し感受するが批評は控える」的な受動性が有効ではあるが、文学においては、作者/作品=他者を神聖化し思考を停止させる危険があり、また逆に才能や達成を読めずに手放すことも存在する。読書における共感的受動や批評的能動を含み、文学とは、本質的に他者を読むことであり、読解とは常に自己と他者の批評的反照を含んだ認知上の往復運動になる。

 個人や社会が引き受ける読む倫理とは、他者の語りに対して共感と批評を両立させる態度であり、他者の経験を尊重しつつ構造を批評的に理解し、物語の情動に浸ると同時に語りの枠組みを観察し、作者を崇拝せず読者自身の理解の責任を引き受ける類の思考的運動と認知機能の結晶だし、読む倫理とは他者を理解するだけでなく、理解しようとする自己をも同時に考えることに繋がる。これが21世紀的な知の姿勢であり、読むという行為の哲学的成熟の形となるのかなと。
 一般的な「ことわり」とは、世界の仕組み・秩序・法則の意味で、「文学的ことわり」は、(科学的合理性や達成や数値ではなく)人間の存在と意味の構造を洞察するものであり、そこでの読む倫理とは、感情や共感のみに留まらず、物語が映し出す人間存在の構造を思考する理性として、主体的に読むことで、世界の見方を再編成する力なのかなと。ここで文学は、他者理解の技術から世界理解の方法へと昇格する。
 このあたりの読書法はまだまだ色々な余地があって、人類が文学に求めるものと、文学が人類に求めるものの両方でもって、自分と読書と文学を考えていきたい私には改めてテーマだなと思ったし、作品や作者側だけでなく読書や読書側を扱う「読む考える書く」事の価値についても。

 現代文学の使命を言い換えるなら、文学の使命は「誰が語るか」から「何をどう書き」、さらには「どう読み、どう考えるか」へ移っていく。語る権力から、読む責任と考えることわりへの転換であり、受容と崇拝、理解と批評、作者や作品として誰が何をどう語るにせよ、読者や読解こそが主体的な倫理的存在となることで文学は(書く・読む)人間の成熟を試す思想的獲得の場へ変わるのが21世紀の姿勢であり状態である、と思いたいし、そのようにしていきたい、というのが私の所感なのかなと。

 語る権力の時代から読む責任と考えることわりの時代へ移り、読解とは他者を受け入れることではなく、他者を通して自らを再構築することにもつながるし、文学は人類を読むことだけでなく、自己や社会に自分も接続していく行為運動であること、読書の意味知や文学的知の再接続へつなげていくための一稿を考え続けたい。

爆発の跡、消費されたあとに貫いた作家性

 需要が持続するためには テーマの更新性と読者層の拡大が鍵になって、金原ひとみはそれを比較的上手くやっているのかなという印象があるので、また読むとして、綿谷りさはどうなのか、というのが今回。
 以前の綿矢が、「青春・若者の痛み」などをテーマにして若輩時代の成功を収めたのち、大学卒業や結婚や妊娠出産などを経て、人生キャリアを積んで安定したのちに、「結婚・自己意識・年齢変化」などの普遍的なテーマに落ち着きながら、恐らく好評と書きやすさなどの点で現在は恋愛小説の執筆に移っているのはある意味で作家的余生の延長線上な気がするが、それは今回以降で触れるとして。
 現在にsnsなどで聞こえてくる名前や話題性としては金原ひとみの方が強いし好感はある。今回図書館で資料予約するにあたり、読みたい作品の予約状況を見るかぎりにも金原ひとみの方が現状の人気を感じられ、圧倒的に違った。手がけているテーマなども現代的な模索を感じるし、そもそもが綿矢との同時受賞がなければ単独でここまで大きな知名度になるはずもなかった、逆に言えば系統の類似と正反対としての朝吹と金原とを比べてみても、羽田的なじゃない方扱いも思い出しつつ、境遇の好悪ともども、金原ひとみは結構複雑なものがある気がするのでそこはまた彼女の単独の記事で考えつつ調べたいところ。
 現在の印象としては、金原の特徴は、デビュー当時は「若さ・過激な身体性」などから、こちらも年齢や成熟を重ねつつ、作家としての生き延び方や稼ぎ方として「中年・日常・社会関係・他者との距離」などに興味を映しながらもそれでも書き続ける強さや下心的野心を感じたりもするが、いかに。

現代作家の生き残り方『雷と走る』『男ともだち』受賞作ストレート勝ち以外の価値を探せ!直木賞企画、千早茜②
受賞作がデビュー作を彷彿とさせながらも完璧に上回ってみせる納得の出来だった千早茜。作風メインはその二作に見える非現実的な虚構性だと思うが、現代性のある作品は書けるのか? 手広く書く中で他路線でさらなる魅力が見つかるのか? 不安と期待を胸に三...

綿矢りさ『私をくいとめて』『パッキパキ北京』

『私をくいとめて』(2017)

 びっくりするくらい普通の小説っぽいものを、文章が一定しっかりした人が書きましたよ、以上の印象は受けなかった。海外での年越しと飛行機に関する場面の書き込みの強さは小説というよりはエッセイ的だし、それは2冊目にも関連し、本作に登場する中国への夫の出張についていくことは妻にとって大きなテーマ、という内容の話をカフェで聞く、という部分でも2冊目との関連も感じる。このあたりの関連性に、私が運よく関連作品を掴んだというよりは著者の世界観や興味の狭さ、ということなのかもなと思うとひどく残念。
 唯一魅力的だったのはコミカルな恋愛要素だったので、それをメインにした恋愛小説は確かに一定の魅力にはなるのかなと思ったし娯楽としての需要も明確なので、著者が現在の主戦場に選ぶのは間違いないし、もうエッセイ的な内容をつらつら書き連ねるだけでも仕事になってよいなという感じ。でもこれは文学とは全く違う話であるし、恐らく本人も周囲も読者も感じていることだろうから、特に何も言うことは無し。
 書くことに賭けているとはもう何も感じられないが、私が読んだ文庫版にはちょうど金原ひとみの解説が巻末にあって「綿矢さん」と呼びながらつらつら書かれた文章は澱みなく悪くなかったので、かつて同時受賞同士の馴れ合い以上の何かはあって欲しいなと感じた。

『パッキパキ北京』(2023)

 こちらも旅行エッセイや、コロナ禍の中国というモチーフ選びで小説を書いてみたよ以上のなにかになっているとは思わず。終盤に後付けのように登場した、性的や恋愛的に惹かれる相手にだけ抱かれる友人女性と、生活や生存手法として逆の男性にだけ抱かれる自分、の二種類の大局的な女の提示と、今や未来やその時々の自分の人生を一番大事に楽しくいきたいから子どもなんていらない、という主張は強めなテーマになるが、それが全文に生きていないので、冒頭に提示した上での夫の海外赴任帯同ほかという展開であればまた色々ちがったかなと、主眼の取り方が微妙だったように個人的には感じた。
 それにしても1冊目でも30代の恋愛から縁遠かった独身女性、2冊目も上記のような固定観念の女性、という、20代中盤でキャリア官僚の男性と結婚した著者というステータスを忘れてしまわせる筆力があるでも無し、やはりこういうところのジャンルというか属性以上に書いて与えてくるものがない作家性が、国内文芸や所詮小説の限界だなと感じたりして切ない。特に一冊目はその狭さが売りであると思うが、頭や小手先で小説を書いているし、書き続けていくよ、以上の何かは著者には感じない。作家的には生き恥って感じもするからむしろ書かない方がいい気もするが、今後書き続けることでよい展開が見えてきたりするものなのだろうか?謎だ


 若い時は若さと葛藤を利用しつつ、その後は年齢や成熟を重ねつつ、作家としての生き延び方や稼ぎ方として「中年・日常・社会関係・他者との距離」などに興味を映しながらもそれでも書き続ける強さや下心的野心を感じたりもする、と金原の所で触れたが(まだ漠然としたイメージ)そこにあるのは恐らく焦燥や劣等感だし、それは有名人の娘に生まれた、同時受賞とじゃない方、満たされなさがあるような気がするし、生きていく為の文筆業のライトさもあるし、その上で綿矢の方は既に作家的にも女性的にも満たされている部分があるので、それ以上の野心や渇望を感じない、日常的に生きていければいいやの余生を感じるし、中年女性の娯楽はまだまだ恋愛野生愛に落ち着くのかと落胆してみたり、それらはほとんど作家的ではないし、単独でみた良心でもなければ他者から見た可能性や価値でもない、でも個人として満たされているならそれでもいい。作家の難しさを感じる。一生涯を満たされずに突き進む作家的な強さや渇望、なんてものが本当に存在するのか、早熟や成功をした上で或いは、成功しないで誰に多く読まれず資本主義の中で他者世界的成功をおさめずして、続ける、書き続ける、けれど成功し達成すること、その難しさを。孤独のエンジン感じつつやはり内的な個人は主題だし、色々見えて広がる良い機会になった。と共に感じる日本文学の現状と狭さ、色々感じ入ることができて、芥川賞企画としては満足だが、社会一般で見たときの文化の現状としては散々だろう。

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