私にとって小説家とは技術で、文章力と創作性の完成度なのだけど、同じだけ商業性が必要であり、芸術性と商業性はどの時代の作家にも付きまとう実力と実績だ。
少し前にフォロワーさんから、『辻村深月「かがみの孤城」の書評を読みました、辛口でした、好きな作家さんなので「傲慢と善良」の評価がどうなるのか楽しみに待ちます』というようなお言葉を頂き、「かがみの孤城」のページを読み返すと結構褒めていて、むしろ人気作家に心理的忖度があるなと思ったくらいだったので、感覚のずれや認知って怖いなと思いつつ、人気の作家さんはやはり難しいなとも思いました。現代の作家が書く意味でも、最新作が最高である意欲でも、辻村はそれを最高水準で備えている、と言っても良い。著者自身も豊かな作品性が好きなのだろうし、実力も上げていき、成功している意味でもプロの小説家だ。文章と創作性の完成度以外の対外的な評価はしているつもりで、その上で満を持して本作を読むことにした。
小説家とは変奏に耐えられるだけの実力のことで、それは基本的に文章と創作技術のことを言うし、もう一つ言えば現代における商業的な成功のことも含む、と「諸葛亮」で小説の変奏性について触れたときにも、辻村が作家性は優れるが小説家としての技術がどうなのかという点と、小説家の成功は現代で売れているということに他ならないので、個人的な彼女の評価判断は定まっていると思い、今作で不足を覆して欲しいとは思った。
売れている作家の強みとは、求められている需要を掴んでいるという明確な価値がある。それを語ることがすなわち売れていない作家作品の実力と、売れている実績の作家作品を扱う理由の明言にもなるし、その理由を考察しながら読み書きすることの価値についてもここで明文化できるように思う。
本作で言えば、現代的なテーマモチーフである婚活と言語化の上手さがある。
言語化については、過去作品にも見て取れる作者の誠実さと知性にもよるし、作者の場合のそれの多くは人間性に思う。ある作家が現代的な主題をテーマに言語化してここまで切り込んだ、ということは一定の評価に値すると思うし、それだけの特色は見て取れる。しかしうまく書けたとも、上手く作れたともいえないし、創作技術としての不足や彼女らしい豊かな作品生の不在に言及せずに、売れている商業成績から本作を最高傑作と推された文言を信じて手に取ると、読後感としてはあっけなく感じると思う。
現代として読まれやすい強い主題を扱ったキャッチ―さも、題名から並べる古典を意識した価値も十分にあるが、辻村作品を初めて読む読者が期待値を上げたままこれを手を取っても、肩透かしを食らうような気がする。少なくとも私は著者の初めて読む作品がこれなら、次はもう読まない。意欲は買うし「かがみの孤城」と共に二大系譜であるとは思うが、これは途上の作品であり、本作には主題があるだけで作者の個性や魅力はほとんど感じられない。私は愛読者ほどこの作品を推さない、と思うのだが。
「『高慢と偏見』という小説を知っていますか?」
「名前だけは。ただすみません、読んだことはないです」
たしか、映画にもなった小説だ。名前を聞いたのは映画公開の時かもしれない。小野里は続ける。
「イギリスの、ジェーン・オースティンという作家の小説なんですが、あれを読むと、18世紀末から19世紀初頭のイギリスの田舎での結婚事情というのがよくわかるんです。恋愛小説の名作と言われていますが、”究極の結婚小説”と言ってもいいのではないかと思っています」
「はあ」 なぜ今そんなことを聞かされるのかわからず、首を傾ける架を翻弄するように、小野里が微笑む。
「当時は恋愛するのにも身分が大きく関係していました。身分の高い男性がプライドを捨てられなかったり、けれど、女性の側にも相手への偏見があったり。それぞれの中にある高慢と偏見のせいで、恋愛や結婚がなかなかうまくいかない。英語だと、高慢は。つまりプライドということになりますね」
「はい」
「対して、現代の結婚がうまくいかない理由は、『傲慢さと善良さ』にあるような気がするのです」
小野里が言った。さらりとした口調だったが、架の耳に、妙に残るフレーズだった。
「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、みなさん傲慢です。その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、”自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います」
小野里がゆっくりと架を見た。そして、ひとり言のように、どうだっていいように、付け加えた。
「その善良さは、過ぎれば、世間知らずとか、無知ということになるのかもしれないですね」
今作は婚活を通して婚約まで至った二人の第二思春期が恋愛に至るのか、あるいは仮に成婚したとしても個々人のエゴで終わるのか、という紆余曲折の物語だ。
この息苦しさには覚えがあって、作者の「オーダーメイド殺人クラブ」を思い出す。かの作品は重度の思春期小説と言えたし、本作はその年齢立場をスケールアップして書かれた発展版に思える。婚活を通した恋愛小説とも青春小説ともいえるし、両作品ともある年齢における拗らせを明文化させており、著者は個人の抱える内面の問題や心理状態について誠実に向き合う姿勢があり、その言語化には定評があるように思う。本作はその特徴がよくあらわれている。
相手にピンとこない理由は、自分に付けている値段に釣り合わないから、という婚活や恋愛における傲慢について割と序盤に明文化する部分は特に顕著だ。結婚相手に選ぶ相手を見れば、その人が自分に付けている値段がわかる、というのは鋭い。だから年を追う毎に結婚できなくなるし自分の価値の過信が伸びる。
婚約者であるヒロインが寿退社した翌日に失踪してしまった、という主人公の目線から本作は語られ、最初は「高慢と偏見」よりも宮部みゆき「火車」のが近い。確か辻村は宮部みゆきの作品を好んで読んでいたとの対談を読んだことがあるから、婚約者の失踪はストーリーテラーへの挑戦にも思えて興味深かったが、それはすぐに失速する。
彼女がストーカー被害にあっていたので主人公は警察に相談するが、該当女性は自ら姿を消した可能性が高く事件性は低い、とそれ以上の捜索をしてくれず、主人公は彼女の失踪の理由の探求を開始し、彼女が地元で婚活していた時の仲人さんや婚活相手の男性二人や義理姉と電話したりしながら、誰が彼女のストーカーで、彼女がどこへ行ってしまったのかを探し回る。
婚活仲人への聞き取りの時点から主人公の婚活テーマへの興味が強すぎて、展開の核心がストーカーや誘拐といった緊迫や恐怖から彼女の婚活という主題にすり替わっていていて、その違和感は仲人・小野里の場面から義理姉・希美の場面に引き継がれる。姉も妹が自分の意思で男と逃げたと感じている告げられ、主人公はその可能性を否定したいようなのに、『彼女がいなくなったと知った日に感じたのは、また振出しに戻った感覚』との婚活疲れを吐露をするのだが、婚約者がストーカーに誘拐された可能性を信じる身としてはあまりに想像しづらい内容になっている。
この主人公格の視点がぶれていて、彼女の失踪の謎に絞ったミステリ要素で読めばいいのか、彼女が自分で姿を消した婚活内心主題を追えばいいのか、どちらにも読めるならいいがどちらにも読めない所が本作の序盤と全体を大きく損なう作りになっているように思うし散漫が過ぎる。明確な創作であれば小野里の場面では前者に、希美の時点からは後者に主軸を置くべきで、であるならば主人公はその時点から男性としての敗北を感じる内心の恐怖や羞恥などの複雑な葛藤が必要であり、それが出来なかったことを傲慢であり人間の臆病だと書くのであれば、一貫したテーマが見えてくる。現在の不明瞭などっちつかずであるということが作者が創作上の理知を欠いている証左であり、創作上の着眼の弱さに他ならないように感じる。ゆえに作品性が定まらず、主題性もぼやける。
単に作者が婚活という主題を追いたいだけの文章化作品であり、その血肉としての物語が生きていない。着眼だけでは小説にはならない、小説家の仕事はそこからの料理のことだろう。
ヒロインの自己愛が自作自演にあるのだとすれば、主人公の自己愛は満点ではないが失踪したために執着が強まる部分の作為性に使うべきだったし、そんな男女双方の自己愛が衝突する婚活による結婚が、ただの事故で終わるのか、恋愛や人生に発展するのか。思春期の内省を素材とり、心理的に描き切ることを年齢を上げても解像度を高く行えるのは強いし、婚活心理の言語化には成功しているので主題テーマの着眼や意欲は買う。恋愛や婚活において自分の傲慢を口にし、他者の善良を認める、その言語化の難しさや憚られる外聞と、少年少女から大人の男女に移す年齢的なスケールアップを果たせない作家が多い中で、本作は誠実に着実な創作が為されている。
「オーダーメイド殺人クラブ」では中二病と片付けられた、本作もワゴンセール品同士の恋愛未満、売れ残りの出会いは打算と妥協を生むようなさまは矮小であるし、そこからどうにか抜け出そうとするヒロインの嘘と、ヒーローの徒労と振出しの観点は良い特色だと思う。婚活の末の嘘と隠し合いではあるけれど「大恋愛だがね」と、まとめてしまう力技は悪くないので、彼女の嘘に込められた真実や、そんな真実を拾い集めて見えてきた彼女に感じる愛しさ等、傲慢な婚活の末の善良な恋愛のための要素をもう少し描けたらフィクションとして全く違った評価になるのかと思う。
前半のヒーロー視点の展開における不明確さに加え、後半のヒロイン視点の震災を扱いたかったのかなという部分の、読み物としてのつまらなさも特筆すべきかと思う。逃避と回復がテーマなのだとしても、まじめに書いて面白くすることを忘れたつまらない作品性は、本作の全体の評価を表す好例ではないかと思う。責任感を持って描く生真面目さを持ち得るからこそ、読み物としての面白さを持たなければプロの仕事ではないとの自負が強く感じられた有川浩のそれとは、創作技術的な力や志向性が全く異なる印象を受ける。
オースティンの時代の結婚と、辻村の時代の結婚との違いは、時を超えて変容していく文明的な私たちの生活であるとして、そこに生きる心理と文化の言語化における筆致は、その時代時代においての価値と、後世から見たその世界観という意味の創作的な価値もある。その面で本作は確かに現代的な結婚やそれに至る活動としての婚活を主題に扱い、その明文化の価値を有している。
逆に言えばそれ以外の要素が本作は弱く、それほどに主題テーマへの切込みのみが際立つ。大人の男女の現代的な婚活という実写的にまじめ要素を扱っているので作品性やそのほかのモチーフについても弱く、婚活主題のテーマ筆致を抜けば、本作には何も残らなくなる。
ほんの百年、二百年の間に様変わりする文化がその時々に当代の作家により言語化され、物語化、戯曲化される価値を思えば、狭い範囲の結婚観に絞った主題で書いたオースティンに習った狭さで辻村も書いたということになるが、著者の魅力であるはずの豊かな作品性を持たずして十九世紀的な平凡を目指して現代的な魅力を失っているのであるとすれば、それは間違った作為性であるし、そのような創作意図は不要であったと思う。現代における創作物はもう少し豊かであるべきだし、作為に溢れずして芸術作品にはならない。
主題テーマの筆致だけで小説が書けると思うのであればそれは傲慢だし、自分の魅力が何であるのかを忘れ過ぎた非常に視野の狭い善良な仕事だと感じる。
商業的な成功の実績とともに辻村にある美点に、向上と成長の豊かな素養がある。
常に粗削りである、という作家の姿勢ほど評価に値するものはないし、そうした彼女の姿勢が商業的にも認められて数字がついているというのが素晴らしいなと感じる。完璧とは程遠い、けれど好印象を抱かせる理由はしっかりある、意欲を買いたくなる作家だろう。
ある意味でオタクくささもあった、中二病でもあった作者が、一般的で現実的な要素で構成した作品をいかに創作し得るのか、という視点で見れば、なるほど本作は進展が見て取れる。
正統派の作品を目指したがゆえに、作者の既存の魅力が損なわれながら代替の新たな魅力を埋め忘れた作品であり、けれど個人の内面に真摯に寄り添う誠実さが主題テーマと共に結実した長所は生かされており、まだまだ及第点の作品である、といった所感に留まる。こんなのは代表作でも何でもない、ただの通過点に過ぎない。著者はもっと書けるし、もっと書く。
前半に私は<著者の初めて読む作品がこれなら、次はもう読まない>と書いたが、私はこれ以前の作品も何冊かは読んでいるので、本作が作者の魅力ではなく新たな頭角だと分かるので、次も読む。「琥珀の夏」のあらすじは、今村夏子では書かれなかった不穏を辻村の作品性で書いてくれそうだし、「この夏の星を見る」もまた、作者らしい魅力を感じられそうな設定に富んでいる。
本作は今年の九月に実写映画化されるということで、そこでもまたさらに読まれることと思う。映像化にあたっては、創作的な工夫がなされていることを願うばかりだ。
当ブログからお買い上げいただけた本作品を、ななななんとxでの書評ブログ仲間のもくまおうさんがご自身のブログ<3点読書>にてデデン!!とレビュー紹介されていました☺️
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