歴史小説は個人的にミステリー小説と同様に創作技術の一つであり、物凄くエンターテイメントなと思う。その中でも私は宮城谷正光と司馬遼太郎は好んで読んだ。
歴史的な激動を描くということは、臨場感や血がたぎるさまにどうしてもなりがちだと思うが、宮城谷正光作品の魅力的なところはどんな英雄や激動の時代を材にとっても必ず静謐さがあり、根底の優しさがあり、それが本質的に歴史小説を好きな層からすると評価判断がどうなるのかはわからないけれど、個人的にはその落ち着きがあるから安心して読める、好きな作家だ。
最初に読んだのは「太公望」で、「重耳」「晏子」「沈黙の王」「花の歳月」「夏姫春秋」の順で好きだった気がするが、もう遠い記憶過ぎてあまりよく覚えていない。
十代に読書をしていた頃に多く読んで、再開後に読んだのは本作が初めてになる。
読書を再開し、創作技術としての歴史小説に書き触れたくて、では著者の作品でも何か読むかと著作列を見て「三国志」を書いてる、と見て驚いたのだけれど、さすがに十二巻も読んで一記事にまとめるというのは難しいなと思い、とりあえず最新作と言ってもよさそうな二〇二三年十月に刊行された本著を先に読むことにした。
三国志の概要についてはどのように触れればいいのか迷う。
天下を平定して覇権をとるのは誰なのかを魏・呉・蜀の三つの国が争った時代の、数多の英雄たちの物語、という感じなのだろうか。基本的に主人公に据えられることが多い劉備が蜀の筆頭で、それを軍師としても内政者としても支える諸葛亮は三国志に登場する知将としてはほぼ並ぶものがないくらいの人気な人物だ。本作では劉備の知恵袋、と分かり易く表現されていた場面があった。例えば武将は数えきれないほど登場し、その人気や能力評価や実績などは人により判断が分かれて、明確な首位は簡単には定まらないのではないかと思うし、それが戦乱の物語では強烈な魅力になるのだが、知将の中での評価では本作の主人公は群を抜いている。何百を超えた登場人物の中で、さらにその向こうに無名の人物も含む時代の中で、これほど明確に評価と活躍が不動であるということは稀なことだろう。
そんな諸葛亮が、主である劉備と出会う前どにのようにその素養を育み、どのように仕えるに至り、どのように忠義を尽くしたのか、本作はそれを筋として、遠く離れた戦乱を眺める一人、時代の中心にて尽くした一人としての彼の姿が描かれる。
献帝と董卓の悪だくみの胸中も遠いし、袁尚と袁術と対する曹操の台頭と、わずかな劉備の登場から不穏、孫策の勢いが世に聞こえてくる。それでも静かに家族を大事にしたり学問に励む主人公の主観から遠くを眺めるさまは、この時の多くの民の不安や転々とする生活の様も映していて、誰が覇権をとるのかよりも早く乱世が静まってくれることを願う庶民の姿が伺える。波乱の歴史に生きた多くの中の一人に寄り添った前半と、雑踏の中にいたその一人が急に世に出る、臥龍からの天昇に関してはやはり魅力がある。
長い歴史をなぞるようにしか描けない速さは、広大な三国志を上下巻にすることで仕方なくて、四百頁を十巻も読めるかといえば、それはもう熱烈な趣味になる。逆に言えば本作はたった二冊で三国志に触れられるので概要や主な人物を知れる入門編としては良い。人物それぞれの魅力まで描いているかといえば微妙なので、かつて三国志に触れたことはあるけど、もう長いのは読めないという層への再入門には優しいし、中でも気になった人物がいればそれに特化した作品作者にあたるという次の読書への照らしにもなると思う、個人的に本作を読み終えた後では孫策と周瑜の作品が読みたくなった。
一般的には、赤壁から入蜀までが盛り上がりで、益州南部攻略あたりから面白味は薄れ、北伐はつまらない部類に入るのかと思うけれど、個人的には関羽が好きなのだけれど、その弔い合戦としての劉備の暴走や五度の北伐は面白すぎて声を出して笑いながら読んだ。十代の頃に触れた三国志はゲームやそのほかの文化からの知識も入り乱れ、その時系列が曖昧だったものが、二冊の短さで遍歴を知れたので把握の意味で物凄く簡易的で助かったので、個人的に利点が大きかった。
赤壁といえば二〇〇八年に「レッドクリフ」としてジョン・ウー監督作品として映画化された。魏の曹操軍の兵力を前に、呉の孫権と蜀の諸葛亮を中心とした連合軍が、抗戦するか降伏するかを家中で話し合うその大戦前夜や、火計を使った派手な戦い方は印象的だった方も多いと思う。
「今曹操の威勢は四海を震わせております。将軍よ、あなたが呉と越の軍勢を持って曹操の中華に対抗できるのであれば、即刻、国交を断絶なさるがよろしい。しかし、対抗できないのであれば、臣下の例をとって服従なさるのがよろし。事態が切迫しているのに決断を下されなければ災禍はすぐにおとずれるでありましょう」
孫権はむっとした。
「君のいうとおりであれば、寡兵しかもたぬ豫洲どのは、なぜ曹操に仕えぬのか」
「項羽と劉邦が争った楚漢戦争のころ、漢がほぼ天下を平定したのに、斉の壮士にすぎなかったで田横は、義を守って、屈辱を受けませんでした。まして劉豫洲は漢王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。それでも事が成就しなかったならば、それは天命なのです。どうして曹操の下につくいことなどできましょうか」
劉備はあなたとちがって曹操に仕えることなど、最初から考えていない。
そのように、相手の感情をさか撫でしておいて自説に引き込みという語り口は、戦国時代の縦横家の話術であり、ここでの諸葛亮の説述はそれを想わせる。
「あなたは田横ほどの勇気と自尊心はないのか」
と、暗に諸葛亮になじられた孫権は、
――われは曹操に屈しようか。
と、反発するように意ったのは当然であり、その時点で、諸葛亮の術中におちいったといってよい。
~~~~~
さて、孫権は、
――曹操には降伏しない。
という決意を、張昭とならぶ貴臣の到着を待って、発表しようとしていた。その貴臣とは、兄の孫策の親友であった周瑜である。
孫策の急死の後、周瑜は若い孫権をはげまし、群臣の離心をふせぎ、その覇気を持ってかれらを引率してきた。家の存亡にかかわる大事の決定に、居てもらわなければならぬ人である。
周囲は孫権の使いとして鄱陽(豫章群の東北部にある県)へ行っていたが、急遽、呼び返された。この孫権の裏にも、じつは魯粛がいた。
周瑜の頭の中には、最初から降伏という文字はない。
それゆえ集会にあらわれた周瑜は、騎馬を棄てて船を用いる曹操がいかに不利であるかを説き、
「わたしに精兵三万をさずけてくだされば、夏口まで兵をすすめ、かならずや曹操軍を撃破してみせます」と、力説した。
この壮烈なことばを待っていた孫権は、上奏文を載せるための案(つくえ)を斬りつけ、
「緒将や官吏のなかで、これ以上、曹操を迎えるべきだと申す者がおれば、この案と同様になるのだ」と、群臣を威嚇した。
それを観た諸葛亮は、岱と斉方に、
「あの決定が覆ることはあるまい。なんじらは船を調達して、主にお報せせよ」と、命じた。
その後、劉備が没し、誰もが諸葛亮も利害や損得にまみれた多くの人間性と同様に、幼い劉禅よりも自身の得を獲りに行くと周囲諸侯も思っただろうところを、「もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」との主の最後の言葉を受けて、自身の最後まで主の子に仕え続けた姿やその忠義、そしてやはり赤壁時の「劉豫洲は漢王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。それでも事が成就しなかったならば、それは天命なのです」という言葉に生き方の全てがあるように思う。なんて創作的な魅力があるほどに初志一貫した思想が見える人の人生だろうか。これがたとえ後世により磨かれ抜いたフィクションであろうと私は構わないし、歴史も歴史小説の魅力もそのあたりにあるだろうし、歴史小説家の骨折り作業もそのあたりにある。
軍師であり丞相である諸葛亮を表題名に持つだけあって、蜀を扱う本書は当然のように劉備に仕える勇猛たちも描かれるかと思いきや、関羽、張飛、趙雲、馬超などはほとんど描かれず、かろうじて益州平定に参加した龐統、黄忠、法正らと、北伐に参加した魏延、馬謖、その後の姜維などは触れられる。
前後での人材の豊富さの落差が、人の命の影響力と儚さを思わせ、歴史の長さと人間の短さを思わせる。一騎当千という言葉や、歴史上の人物を扱う歴史小説は、基本的に一人の人間の価値や重さを思わせる描写や作為が多いが、実際に判断や決定権にまつわる人間の知性や人間性がいかに大事であるか、そしてその性質や思考性がいかにどこへ導くのかという群像性については、あながちただの創作性だけとは言えない真理を思わせる。
勇猛や主人が次々亡くなって、己が下に仕事が集まり、腹心の部下の大舞台でのやらかし、さらに仕事が任せられる部下が見当たらずに自身が前に出るしかなくなく、生き抜く疲労、それでも快進撃したが没する。
ただし管夷吾は「管仲」とよばれて天下に知られ、晏嬰は「晏子」とよばれて絶大な人気があった。ちなみに管仲を名宰相といったが、正確には宰相ではなく次席の大臣であったものの、斉国の運営はかれがおこなっていたので、実質的には宰相であった。とにかくかれの政治と法的整備それに軍事のすばらしさを、後世でも敬慕するものが多く、その研究書としてあらわされたのが『菅子』である。この書物は,法家の先駆的な位置にある。
――父上の手による写本なのだ。
陽都にいるときは、なにげなく読んでいた書物が、ここにきて極めて尊くなった。
法は国の秩序をつくり、国民の思想と行動を制限するが、しかしながら法を優先すれば、どれほど身分が高い者も、どれほど富んでいる者も、法の下に置くことができる。法治こそが、公平を実現できる道でもある。諸葛亮は人格の魅力で国民を順守させる晏子の政治は例外的であるとみて、
――管仲をみならったほうがよい。
と、思っている。
公的な誠実さ、罪人や排斥に関しては自身の部下でも明確に下す、公正の示し方。
諸葛亮自身は管仲のような規律を求め、それを好んだという言及ともとに、著者は晏子と管仲の比較に触れており、晏子のような人格の魅力で膨らむ劉備に仕え、忠臣として義に生きる諸葛亮の姿を印象的に描いている。忠臣と主との信頼関係と敬愛、ここは作中で一番の中心要素であったので、著者が主人公格の人物に見た創作着眼の第一であると思っていいだろう。そのために劉備周辺となる関羽、張飛を描かず、かろうじて趙雲に言及するさまは匙加減であるのかなと思う。劉備が感じる信頼を寄せる臣下への印象が、国民が頼りにする丞相にまで映るところに諸葛亮のいとおしさとすさまじさがある。
諸葛亮の功績や実力を語るときに、軍事的な面への懐疑的なものと同時に、国政の面にも多少触れていて、後世への歴史つくりという意味では多面的な機能についても書いてある。基本的に内政と軍事もが一人の肩にかかってきた点を問題視する論調は諸葛亮にあるのだと思うし、徐庶が離れたとき、龐統を失ったとき、孟達を引き入れられなかった時などが印象的なのがそれにあたる。
その二つの異なる才能を結ぶ経緯として、幼いころの叔父の失敗と経験を見つめた諸葛亮が、兵糧についての知見と土いじりの経験を合わせて屯田を行う部分をさらっと書いて、一貫した人生経験を描いていて、連弩や木牛の発案に至る経験も優しく描いている。
水路の建設についての言及があった、法的な整備や、その模範的な立ち振る舞いもだし、養子を必ず後継にすると言ったり、歴史小説を書く上で、中心となる人物造形は作品性を決定づける。著者がなぜその作品を書くに至ったのかは、基本的にその時代かその人物のどれかに魅力を見出しているかであり、読者にとってのロマンの前に作者にとってのロマンがまず初めに来る。その創作意欲がまず明確であるところも歴史小説の魅力かなと思うし、それが作品性の多くに影響してくるという意味で根幹になる。基本的には正史に近い創作にあたろうと思うと、執筆までの下調べに相当な時間と労力がかかるのが歴史小説の創作過程であると思うが、それを押してでも自分の文章で書き上げたいと懇願するその熱意が私は好きだ。
管仲と晏子、重耳と申生など、ファンには嬉しい名前が出たりして、著者の主観の総ざらいでもある気がしそれも楽しく読んだ。
ところで、私が著者の著作で初めて読んだのは「太公望」で、「封神演義」という漫画から流れていきついた中学生時代のことだったように記憶している。三国志についても、ゲームから北方健三の「三国志」を読んだが、こちらは十三巻もあったようで、諸葛亮の死で締めくくってあったような記憶だが、こちらは確か周瑜が多く描かれていた気もする。
三国志は有名な時代素材だから、複数の作家が題材にとっており、有名なところだと吉川英治の作品が挙げられるのかと思うけれど、私はこちらも未読で、これが面白かったから三国志が日本で人気があるのだと聞いたことがあり、文庫8冊、青空文庫にもあるそうで、チャレンジしてみたい気はする。
魅力的な創作的脚色が強い、正史に近い、視点や作風や着眼の違い等で、同じ時代や歴史素材を扱っても作家や作品によって全く異なる魅力とそれゆえの価値を放つことがある。その変奏こそが創作技術の第一価値であるということを明確に感じさせてくれるところに歴史小説の魅力がある。
通算の変奏が多い有名な題材ほど、比較対象が多く、やりがいのある仕事になる。数多の創作物が扱ってきて、これからも扱われていく人物モチーフを題材に取る、ということはそれだけでも挑戦だ。その意味で本作は、これほどの有名な人物を題材に取りながらも、描いたのは人ではなくその時代であり、人物を描きすぎない著者の作風は、歴史上の人物の過剰な強調表現を求めない。故に英雄列伝のような三国志も音のように流れ、諸葛亮一人の人生の思惑に吸い込まれて、静かに収束していく。
「奇貨居くべし」なんて、呂不韋を宮城谷正光が描くとどうなるのか気になるし、「楽毅」は本作中何度も諸葛亮が憧れたと書かれるだけに気になる。中国史について詳しくないので、呂不韋と言えば有名な漫画の人物イメージしかなく、既存の創作物から受けたファンタジックな人物イメージを他の創作物が覆して多面的な変奏を行ってくれることもまた、創作物における変奏の一つだし、それは演劇などにも繋がる解釈と体現の技術になる。その人物、その時代を、どのように自分のものにするのか、これは小説も映画も戯曲も役者も何も変わらない、創作の基本のように思う。
小説家とは、変奏に耐えられるだけの実力のことで、それは基本的に文章力と創作技術のことを言う。当代における商業的な成功が、小説家の成功のことでもある。
私は創作技術としての変奏を愛するし、基本的には作為が凝らされた作品のほうが評価してしまいがちでもあるのだけれど、宮城谷正光作品の魅力はやはりその静謐さ、そして歴史小説家として創作の前の歴史的な史実にあたるところの誠実さ、そして救い上げる事象や人物の誠意、その丁寧な仕事と静かな仕事の成果がはっきりと分かるその作品性にある。安心して読める、信頼して読めるということは作家に、そして歴史小説は創作技術の変奏である前に、歴史題材の創作であるという大前提に安心して読めるところにあるのかもしれない。飾らない、飾りすぎない、けれど作り上げる作品に魅力がある、それはその作家の素朴な持ち味だろう。
そしてどれだけ静かに書かれていようと、歴史小説を書くにあたり必ずある途方もない労力を押す情熱を感じる所が好きだ。
本作は単行本しか刊行されていないので、もしも著者の作品で興味があれば検索して気になる時代や人物で選ぶのもいいと思うが、個人的に上げると「太公望」「重耳」になる。どちらも文庫上中下の三巻で、前者は一冊1000円前後、後者が一冊800円前後で読める。歴史小説は題材がすでに古いので刊行年数が経っていても古さが気にならない感じがあるし、現代でも日本でもないモチーフは非日常を鞄に入れておけるという意味で楽しい。
おひさまのランキング登山、
こつこつ登頂まで応援よろしくお願いします🌞
⬇️1日1クリックまで🙇♀️☀️
小説ランキング
コメント