「皆川博子と物語の力:
現実を超える文学と「役に立たない文学」の価値」
なぜ偉大な文学は現実の外側にあるのか
<English summary>
Hiroko Minagawa is one of the most overlooked writers in Japanese literature.This article explores the value of literature beyond practical usefulness.
“Crocodile Alley” by Hiroko Minagawa is a work of Japanese historical fiction set in revolutionary Europe, depicting violence, survival, and human resilience.
This article examines Minagawa as a writer whose literary power continues to deepen over time, positioning her among the most distinctive voices in dark literature. Her works do not aim for accessibility or immediate relevance; instead, they construct meaning through dense historical detail, atmosphere, and narrative complexity.
Rather than offering practical or relatable stories, many of the Hiroko Minagawa books exist at a distance from everyday life. Yet it is precisely this distance that allows her fiction to capture the intensity and purity of human experience.
Through this perspective, the article argues that the value of literature lies not in usefulness, but in its ability to create vast, self-contained worlds sustained by imagination, knowledge, and structural discipline.
皆川博子は、日本文学において最も見過ごされてきた作家の一人である。本記事は、実用性を超えた文学の価値を探究する。
皆川博子の『クロコダイル路地』は、革命期のヨーロッパを舞台に、暴力・生存・人間の強さを描いた日本の歴史小説である。
本記事は、彼女を時間とともに深化し続ける作家として捉え、その文学をダーク文学の中でも特異な位置に置く。彼女の作品は、読みやすさや即時的な共感を目的とせず、重厚な歴史描写や雰囲気、複雑な構造によって意味を構築する。
多くの皆川博子の作品は日常生活から距離を置いた場所に存在するが、その距離こそが人間経験の強度と純度を浮かび上がらせる。本記事は、文学の価値は実用性ではなく、想像力・知識・構造によって支えられた巨大で自律した世界を創出する点にあると論じる。
文芸文学が時を超えるものだとしたら、齢100年弱しか持たない私たち人間の生存時間に対し、個人の文芸の価値、時代の文芸の価値はいかほどか。その文芸、筆致、物語、構造の価値、それに尽くす執筆と英知と時間の価値、そして個人の価値、情動の価値、その強さ、儚さとは?
80歳でなお加速する作家、成長する物語
皆川博子の作品を読んだ後には、濃密で圧倒的な一つの人生や物語の跡だけが残る。
フルライム労働から卒業して、ひさしぶりに読書を再開するにあたって私がまず最初に調べたのは、皆川博子が存命であるかどうか、という所だったし、それを確認してからは著作列や最新作についてはすぐには調べなかった。生きてさえいれば書き続けている作者だろうと思ったので、読むのはまた今度だと後回しにした。そういう作家だと思う。
彼女は加速する作家だ、そして発展性の作家だ。私が好んで読んだ作品の著作列を調べると2003〜2013年に密集しており、作者の73〜83歳の頃の輝きらしく、1930年生まれの作者は現在94歳ということになる。デビューは児童文学で作者42歳の時、直木賞受賞が作者が1986年・作者56歳の時で、そこから60作品以上出版されている、そして年を追う毎に本気の仕事だと分かるし、『開かせていただき光栄です』(2011年)で比較的軽い作風と装丁で再度新たな境地を開いて三部作として飛躍的に読者層を広げたように思う、当時作者は81歳、そこからの創作的な脱皮や活動の拡大、そしてその周囲の歓迎、これはどういう作家性なのか?
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『クロコダイル路地』(2016/87歳???)
1789年7月14日、民衆がバスティーユ監獄を襲撃。パリで起きた争乱は、瞬く間にフランス全土へ広がった。帯剣貴族の嫡男フランソワとその従者ピエール、大ブルジョアのテンプル家嫡男ローラン、港湾労働と日雇いで食いつなぐ平民のジャン=マリと妹コレット。<革命>によって変転していくそれぞれの運命とは。上巻は貿易都市ナントを舞台にしたフランス編。
クロコダイル路地
登場人物たちは外国名で誰が誰か把握しながら進むことになるが、フランス革命期、ルイ十四世やギロチン、革命軍や反革命軍などといった歴史的な物々しい単語が平然と記されていく物語は、主人公格のロレンスの安穏とした幼少期を一気に血塗られた記憶と日常へと変えていく。まずは貴族、次に富商といった具合に、持てる者が暴動の標的にされていく革命の一刻が過ぎれば事態が急転していき、その渦中で主人公であるロレンスは常に物陰に隠れながら、母親も守れないし度々移り変わる庇護者は彼を身分や富ある者として扱ってくれるからこそ生き延びて運命に運ばれていく。十歳の少女コレットは家族と過ごす貧民生活から次々に庇護者を替えるが、他の何も持たない彼女は自身の少女を使う対象を力のある者と時勢に絞ることで生き延びる。その対照的な二人の人生が交わりながら上下巻を牽引していくが、その脇には時代の暴動に切り刻まれる累々の死が平然と積み上げられていく。
(バスティーユ監獄を襲撃によるパリで起きた争乱による混乱の広がり、という同時代モチーフを問う真希に扱った大団円作品を佐藤亜紀も『喜べ、幸いなる魂よ』で扱っていて・やはり私は国内文芸の作家としてここ2人を並べてしまうし、強く推す)

上巻は青年期の5人が時代の激動に飲み込まれたフランスでの一過を描く。
下巻では後にイギリス・ロンドンに渡った彼らが大人になったプロットと、冒頭からまた新たに五人の子供で当時を映す。ボクシングの腕を見込まれた兄スティーブ、妹メイ、見世物小屋に売れそうな手を持つベニー、上巻で孤児となったファニー、家柄に恵まれたエディ。
上巻の巻き込まれ具合と悲惨との対比で、下巻では、見世物としての暴力的な戦い、仕立て上げられた戦いに身を投じるかはある程度選べる、貧困はある、売り飛ばされることもある、しかし一応は設えられた舞台で掴むために戦う、則った舞台での殴り合いであっても、兄を思う妹や自分のために親友が傷つきながらも戦う姿を見ていられない二人がいる、そして大人になったロレンスは敵討ちの為に申し出た決闘で仕組まれた罠に嵌って負け、足に一生の傷を負う。
上巻とは全く異なる戦いの姿、ほんの数年で見違えた子供時代であるし、ただただ過ぎた革命の禍根とここはロンドン、生き延びた子供たちである彼らの人生も下巻にて続く。
規律のある戦い、というものが何であるか、という定義はなかなかに難しい。イギリスにおいては、決闘で相手を殺した場合、裁判にはかけられるが、正当防衛とみなされ無罪となる。革命と決闘。汚い手もあれば苦しみも翻弄もある。しかし下巻の妹メイは兄とは離れ離れにはならないし、ファニーも庇護を変えながらも無事だ。やはり日常を一変させた革命の物理性を思わされるし、何が時代や他人のせいで、はたまた自分の責任なのか、不明確な中でも、他者の力強さや恩恵や友愛は暖かい。
このごろは、些細な罪でも、すぐにオーストラリアに流刑になる。ロンドンの監獄はどこの満員だし、植民地は開拓の人手が欲しい。以前は新大陸に流されていたが、アメリカが独立したので、代わりにオーストラリアが新流刑地になった。新大陸よりさらに遠い南の果てだ。クック船長が東部にたどり着き、ジョージ三世陛下の名において領有宣言したのが三十二年前。正式に開拓に着手したのは十四年前だ。ひどいところだと聞いている。荒れ地を開拓しなくては食えないし、大昔からそこに暮らしてきた人々と戦わなくてはならないし。でも、刑期を終えた後そのまま居着き、あとから来る流刑人を酷使して農地を広げ、結構裕福になるものも、いないわけでない。イギリスの食い詰め。自ら選んで入植するものもいる。
「ドブソンさん、何か悪いことをしたのか?」
おそるおそるベニーが尋ねた。パブの主人で盗品売買に手を出している者は珍しくない。
「しているかもしれないね」エディは笑顔を見せた。「僕は知らないけど」
十九世紀の諸島でも、イギリスにはまだ国家的にととのった警察組織が存在しない。フランスは既に強力な国家警察を持っている。ロンドンにスコットランド・ヤードが創設されるのは.一八二九年である。一七九八年に創設されたロンドン港の治安を守る組織だけは<マリン・ポリス>と呼ばれている。
一七九二年に、治安維持改革が始まった。以前から作られていたボウ・ストリートのほかに七つの治安維持法廷が設置され、それまでボウ・ストリート以外は無給であった治安判事と教区役人が有給になったことと、判事の下に、教区役人とは別の、直属の有給コンスタブルを置くようになったのが大きな進歩だが、それでも手が足りない。治安判事が私的に、民間の者を泥棒逮捕係<シーフ・テイカー>に任じる習慣は未だ続いている。シーフ・テイカーはパブの経営者だの質屋だの、犯罪者と接触する機械の多い者が選ばれがちだ。脅迫、盗品売買、詐欺などの犯罪に自ら手を貸しているシーフ・テイカーは、ざらにいる。身なりのよい連中と関わると、ろくなことがない。エディは同じぐらいの年だし、困っているのを助けてやったんだし、高慢ちきじゃないから安心できたのだが、連中は、貧民を人間扱いしない。こっちが何もしていなくても泥棒と見なす。実際、相手に隙があれば掻っ払うけれど。
クロコダイル路地
スティーブはふみとどまった。礼を受け取らずに引き下がれるか。
驚いたことに、エディから事情を聞いた男は、「ありがとう」と三人に握手を求めた、
あり得ないことであった。お偉い紳士がたは、決して、貧民に手を触れたりしない。まれに情け深い人が小銭を恵んでくれるとしても、犬に餌を放るように、地べたに投げ出すだけだ。
「次兄のクリストファ」
エディが引き合わせたが、三人は手を後ろにして握手を拒んだ。
次兄。ボウ・ストリートで治安刑事の秘書をしている人だ。握手するふりをして腕をつかみ、窃盗予備犯としてコンスタブルに引き渡すんじゃないかと思ったからだ。
佐藤亜紀の創作的な完成度が削ぎ落した多くの資料を踏まえたものだとすれば、皆川博子の創造性は史実や現実の多くを内包しながら緻密に組み上げられている重厚な物語それ自体にある。
歴史的虚構の文章を可能にする微細な空気まで拾い上げる想像力の為に、作者は毎回膨大な資料や文献に当たり、現地調査を行うらしく、巻末には多くの資料名が記載されているし、あとがきの謝辞ではそれらを継続し創作活動をすることの当時の体力について触れているさまがあった。やはり当たり前に歳をとっているのだ、当時86歳前後、それでも衰えない力、そうして作り上げた堅牢な虚構の中に少年少女の無邪気さやひたむきさを詰め込み、生来の知識や興味として解剖学や人体についてのサブプロットやミステリ的な要素が本作にも絡む。
後のロンドンでは決闘になったのものが、序盤のフランスでは無秩序な革命になった。
抗いがたい革命的な現実や運命に翻弄される様を経験し思い返しながら、内的な記述と数人にしか見せる予定のない、あるいは自分自身の内的な探求と詳細な記録であり、または捏造であるその記述にだけ託して辿る記憶と詮索の筆致は、果てしなく重く、耐え難く、変え難く、ただ苦しい。
時代の外側、運命の外側、それの中で生きるしかない命とその内側の思いやその機微にまで、大から小を描き切る彼女の物語の力。あれほど激動で陰鬱で血塗られた物語を超えてきた生き残りたちに、それでも作者は儚さの末にきちんと光を灯す。そしてその処遇や希望すらも時代と史実を織り交ぜる、その手腕と緻密さが自然な物語を作り上げる。途中で精神的な迷路に迷い込むまどろみがあるのだが、最後は物語を一つの形に仕上げて終える腕力と責任感が、濃い物語の才能とは異なる作者の知的な人間性を感じて安心する。
そして彼女の作品を読み終えるとき、読者は一つの長い人生を終える。
私にも現実にも関係がない大きな物語、
そこに生きる生命の熱さ、純粋さ
私が好む著者の作品の多くは、物の見事に私の人生にも多くの読み手の人生にも関係がない題材をモチーフにとって膨大な頁数で書き上げる、上下巻など珍しくもない。生きていく上で読まなければならないものではないし、働きながら読むのは大変な文字数と、現代日本人の日常からかけ離れて馴染みづらい作品ばかりだ。
著作量の中で私の既読は少数なのだけど、その中でも『双頭のバビロン』『聖餐城』『総統の子ら』『海賊女王』『冬の旅人』『影を売る店』『開かせていただき光栄です』の順で好きで、基本的にはあらすじに目を通して好きな時代や史実的なモチーフを見つけたら読んでみれば、当然それ以上の物語が開ける。
ただそのモチーフを愛する、書き上げる質を求める、文章を書いて生きる、ただそれだけのことが現実的な生活や人生の前に物凄く難しいから、今の時代にこの作者は一際輝いて見えるのだと思う、それはもう私にとっての希望みたいなものだ。私にとってしばらく小説は恥ずかしいもので、社会生活をする上では無関係のものであったし、上手く消化出来ず、好きな小説の話をすること自体半年前には考えられない、その私が今、皆川博子について書いている。
本作に関しても革命期のフランスと十九世紀初頭のイギリスを舞台にしており、私が個人的にとんでもないなと思っている『海賊女王』(2013年)では、誰が16世紀のイングランドとアイルランドの戦い、ど派手な海賊活劇でもない、しかも主人公は女の上下巻1200頁に渡る小説を、働きながら家事もする忙しい現代人が読めるのか、やはり気軽には読めない。皆川博子って誰?という読者はきっと多いだろうし、働きながらの文芸読書は大変、読もうと思っても最新ランキング的な作者と簡単な作品しか目に入ってこない、お金も時間も使うハズレを引きたくない、しかもこんな長い小説読むの大変。
この時代にあってこそ輝く皆川博子は、長い生涯と作家人生を書いて生き続けてきた人だし、自分でその世界観と価値を書き上げてきた人だ。いやどの時代であっても、価値ある物語は自分で作り、自分で書き上げるものだと教えてくれる、自分の筆力のみで生き抜いてきた人だ。


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