<English Summary>
This article explores Innocent Erendira and Other Stories by Gabriel Garcia Marquez, examining the author’s short fiction in relation to his monumental novel One Hundred Years of Solitude. Rather than simply presenting a collection of stories, the book reveals Marquez’s literary evolution and the broader context of Latin American literature.
The selected stories portray marginalized individuals, poverty, and fragile communities, reflecting the social realities that shaped Marquez’s worldview. Through magical realism and sharp irony, everyday life merges with the extraordinary, exposing both human cruelty and resilience.
Particular attention is given to the title story, The Incredible and Sad Tale of Innocent Erendira and Her Heartless Grandmother. The narrative follows a young girl forced into exploitation by her grandmother, creating a disturbing yet mythic tale of oppression, survival, and resistance.
The article also highlights the importance of translation and literary commentary in introducing Latin American literature to Japanese readers. It suggests that revisiting these stories today allows modern readers to rediscover the historical significance of Marquez’s work and the enduring power of short fiction in world literature.
本記事は、ガブリエル・ガルシア=マルケスの短篇集『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』を中心に、『百年の孤独』前後の作家性と短篇文学の魅力を考察するものである。
収録作品には、貧困や社会の周縁に生きる人物が多く登場し、日常と幻想が交錯するマルケス特有の魔術的リアリズムによって人間の残酷さや生命力が描かれる。とりわけ注目されるのは表題作「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」である。祖母によって搾取され続ける少女の運命を描き、抑圧・生存・抵抗をめぐる不穏でありながら神話的な物語を形作っていて、ラテンアメリカ文学の持つ社会性と幻想性を同時に体現する作品として印象的である。
また本記事では、ラテンアメリカ文学を日本の読者に紹介するうえでの翻訳や解説の重要性にも触れている。これらの物語をいま改めて読み直すことは、マルケス作品の文学史的意義を再発見するとともに、世界文学における短編小説の持続的な力をあらためて認識する機会となるだろう。
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本作はノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスの醍醐味を直接知る一冊というよりは、文学史に燦然と輝く長編『百年の孤独』の作家が発表した複数の短篇集の中から選りすぐった編纂を元に語るその作家性、それを披露する解題と解説の文学研究者の一冊、という感じがした。そしてまさにその部分が一級品なのが素晴らしい。
一九八二年のノーベル文学賞がガブリエル・ガルシア=マルケスに決まった時、当時五十四才の現役でしかも世界的人気作家ということが大きな話題となった。一九六〇年代に起きたラテンアメリカ文学の世界的<ブーム>の頂点となったのが、魔術的リアリズムの作家として知られる彼の『百年の孤独』(一九六七年)だったことはよく知られている
『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』解説冒頭
- 翻訳者:野谷文昭さんの解説が素晴らしい
- 『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』
- 「大佐に手紙は来ない」(1961年。『ママ・グランデの葬儀』所収)
- 「火曜日のシエスタ」(1962年)
- 「ついにその日が」(1962年『ママ・グランデの葬儀』所収)
- 「この街に泥棒はいない」(1962年『ママ・グランデの葬儀』)
- 「バルタサルの奇跡の午後」(1962年)
- 「巨大な翼をもつひどく年老いた男」(1968年。『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』所収)
- 「この世で一番美しい水死者」
(1968年。『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』所収) - 「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」(1972年。同名表題短篇集所収)
- 「聖女」
(1982年。『十二の遍歴の物語』所収) - 「光は水に似る」(1978年。『十二の遍歴の物語』所収)
- 短篇集の醍醐味としては十分以上の威力
翻訳者:野谷文昭さんの解説が素晴らしい
ガルシア・マルケスがいかにして日本の読者にも親しまれていったのか、なぜ最初の評価が芳しくなかったのかなどを優しい言葉で語りながら、先にラテンアメリカ文学の主流派として受け入れられた作家性とは異なった要素として、他のヨーロッパ志向と主の土俗性の辺りはまさに私も感じていたことで納得したり、読むということの信頼を感じたりもしたが、やはり圧倒的に知識や角度が違い過ぎて、こんなふうに書けたら素敵だ、とばかり思って読んだ。
以下のように、収録作品を少し違えながら700円の文庫という破格な『エレンディラ』がちくま文庫さんから出ているが、本冊子の肝は解説などにあると思うので、図書館利用でもいいからぜひ一読してもらいたい。そしてそれは私なんかよりも、本冊子に携わった方の、日本の読者からすれば遠い南米の文学を2019年にまたまとめて読まれたいと願う気持ちだろうし、ノーベル文学賞を獲った作家も、文学史に輝く『百年の孤独』の響きも、時と共に、読書趣味でもない人には何が何だかわからない、読書が趣味の人間も別にそんな古い長い作品読まない、といった気持ちもわかるだけに、2024年の今年新潮文庫から文庫版が出たことは喜ばしいことだが遅すぎるほどだし、つまりそれほどに海外文学が翻訳出版される奇跡や不足が思われるに至る。ハードカバーで3000円前後する小説なんてやはり読まれない、それでは広まらない、廃れていくばかりの名作や傑作をどのように残していくのかは、全体で考えるべき問題に感じる。
彼の作品で最も早く日本の読者に紹介されたのは『百年の孤独』ではなく、第一短篇集『ママ・グランデの葬儀』(一九六二年)のなかの「土曜日の次の日」で、
~一気にブレークしたかと思うと実はそうではない。当時、玄人受けはしたが、必ずしも多くの読者を獲得するには至らなかったという。
同じラテンアメリカ文学の作家でありながら、西欧的教養の香りのするボルヘスやカルペンティエールは別格で、外国文学すなわち欧米文学の一種として受け入れやすかったのだろう。土俗性と前衛性の混沌というのは今ではラテンアメリカ文学についてまわるクリシェだが、ボルヘス、カルペンティエールは前衛性が勝るのに対し、<町>や<コマンド>のようなラテンアメリカの田舎町を舞台にした作品が知られ始めたガルシア=マルケスの場合は、どちらかというと土俗性が勝る作家と見なされた。
~ガルシア=マルケスは本質的に短編作家だと評したのは丸谷才一だが、本来の意味での短篇集は四つある。第三短篇集『青い犬の目』(一九七二年)、すでに挙げた第一短篇集『ママ・グランデの葬儀』、第二短篇集『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』(一九九二年)で、すべて邦訳がある。
~『ママ・グランデの葬儀』所収の作品に顕著なのが、主要な登場人物がマージナルな存在であることだ。それも貧しくつつましく生活を送っている人々である。小説ではその集団そのものよりも、集団に属するあうりは属さない個々人に焦点が当てられる。その結果、個人と集団の関係が浮かび上がるのだ。〜作者は舞台となる共同体を金持ちと貧しいものから成る階級社会として描く。この現実の把握の仕方は、彼が貧困を経験していることや、高校の教師から教えられたマルクス主義の影響、大学時代に共産党の細胞と接触していること、学生時代に知り合ったブリニオ・アプレヨ=メンドーサのような政治意識の高いジャーナリストの友人がいたことなどが要因として考えられる。
簡易版的な『エレンディラ』の訳は木村榮一さん
本冊子を買おうとしたら定価2500円がネットで4500円の古本しか出てこず、絶版なのかもしれないし、その値上がりの幅に驚く。表題作「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」の異訳版を収めた『エレンディラ』(ちくま文庫)は700円程度で買えるのでそちらなら手に入れやすい。
そちらの収録作は
「大きな翼のある、ひどく年取った男」
「失われた時の海」
「この世でいちばん美しい水死人」
「愛の彼方の変わることなき死」
「幽霊船の最後の航海」
「奇跡の行商人、前任のブラカマン」
「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」
そして訳者あとがきとなっている。
本著の中でも何度か名前があがる木村榮一さんが訳で、それだけでときめく。
(バルガス・リョサ『緑の家』フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』『狼たちの月』
アジェンデ『精霊たちの家』サンディアーゴ・パパ―レス『螺旋』、
『族長の秋』『わが悲しき娼婦たちの思い出』『コレラ時代の愛』)
『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』
収録は10篇、巻末に全ての解題。全体が読みやすいコンパクトな中短篇集となっている。翻訳者である野谷文昭さんによる編纂であり、著者ガルシア・マルケスが発表した3つの短篇集の中から選りすぐった作品群であること。その遍歴と著者の志向や作風と共に語られる解説は分かり易く、それゆえの著者の作為とは別である編纂者の意図や景観が現れたものになると思うので、それを追う意味でも作品の純粋な発表年数と著者の生誕と没年数で並べてみようと調べる前に、解説でもきちんと年数が明かされていた。
往年の作家の短篇集の編纂意図、という意味でイーディス・パールマンの以下の短篇集も思い出す。
名作家・名作だと信じるがゆえに語りたくなる、新しく読まれたい、読み継がれてほしい、という意思において、どのような編集作業と当代的な努力誠意の払い方があるのか、について考えれば、当ブログにとっても他人ごとではない意思の強さと知的効果を感じた。

ガルシア・マルケス 1928年3月6日生まれ。
百年の孤独は1967年、族長の秋は1968年、ノーベル賞は1982年。
「大佐に手紙は来ない」(1961年。『ママ・グランデの葬儀』所収)
1編目に置くには、全体の中では多少長めで冗長だがラストの締めは鮮明。「この街に泥棒はいない」に通じる貧困夫婦のコントラストが眩しくも儚い躍動感のにじり合いに感じられる。
「火曜日のシエスタ」(1962年)
二編目。喪服の母と娘、泥棒と射殺。
「ついにその日が」(1962年『ママ・グランデの葬儀』所収)
三編目。歯医者、復讐の事件性。
「この街に泥棒はいない」(1962年『ママ・グランデの葬儀』)
貧困夫婦の様は一編目「大佐に手紙は来ない」を彷彿とさせる、コミュニティの中の差別や混乱と平和、排他性や人間の弱さや強さのドラマ。そこまで描き方が上手いとは思わない。
「バルタサルの奇跡の午後」(1962年)
ディケンズ的なお話感は以後に続くものに思えるし語り口もまろやかだが、閉じていくにしたがってこの作家独特の鮮烈さやさっぱりとした価値観が思われる。ドストエフスキーの『白痴』を思わせるらしいことを解説で知る、あまり好きじゃない作品だったことに納得。
「巨大な翼をもつひどく年老いた男」(1968年。『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』所収)
解説がとても素敵な語りだったので引用したい。
メキシコの近代派の詩人アマード・ネルボ(一八七〇~一九一九)が書いた童話に「落ちた天使」がある。この天使は軽はずみで雲の上から地上に落下して怪我をするが、子供たちに救われる。また彼らとは言葉も通じる。やがて傷も癒え、無事に帰っていくであろうことが暗示されてこのクリスマスのために書かれた物語は終わる。だがガルシア=マルケスはこの短篇を転倒させてしまうのだ。ヨーロッパ志向の強い近代派の描く秩序と調和のある物語の舞台に対し、ガルシア=マルケスの短篇では、タイトルが示すように天使か否か同定されない老人が、終末を思わせる大雨の中、世界の辺境のような共同体に墜落し、ぬかるみでもがくという醜態をさらす。これだけでもネルボの美しい世界とは対照的なのが特徴だ。しかも彼がなぜ落ちてきたのかは最後までわからない。
全体としては一見幻想的な物語だが、カニの大群の移動という現象は、インド洋のクリスマス島では雨期の初めに実際に見られるという。事実を取り込みながらそれを幻想的に感じさせる作者一流の書き方の一例である。また老人が見世物にされる辺りは、カフカの『断食芸人』のパロディーのようでもある。それに彼が人々の期待するような奇跡を起こさず、見物人の興味が別のスペクタクルに移るとその存在がわすれられてしまうという具合に、人々の軽薄ぶりやローマに報告しその指令を仰ごうとする神父の滑稽な姿が皮肉たっぷりに描かれる。
「この世で一番美しい水死者」
(1968年。『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』所収)
海を漂流してある村に流れ着いた海藻や小石などにまみれた水死体が、村人たちにより敬虔に扱われ清められて次第に花が咲き誇り村を後にする、その反転と豊かさは目を見張る印象を残す。短いが印象的な作品。解説を読むと、その水死体の正体などを歴史や地政から考えられていてなるほどなと思わされた。
「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」(1972年。同名表題短篇集所収)
圧巻の表題作。本冊子は作品部分が236、解説が14、計250ページでなされており表題作は60ページと24%に満たないが、印象の厚みは圧巻。そう考えるとやはり一編目の「大佐に手紙は来ない」に71ページも割いている不自然さが思われるし、初期の冗長さ、研ぎ澄まされていく中短編の創作性が分かる。
祖母の世話を懸命にしている少女エレンディラは、夜が更けるまで行った家事により疲れ切って寝てしまった結果、祖母の豪華な屋敷を一夜にして焼き尽くしてしまった過ちを罪に、14歳から寝床で客を取らされる日々を始めさせられる。途中で出会う少年ウリセスとの関わりと終り、後半で明かされる祖母の強い眠りと寝言により思われる彼女の人生のドラマと、そこから推察できる独善と強欲の豪胆が生まれるに至った彼女の過去や、奪われた苦しみや憎しみを実の孫という自分と同様の性別生物に向けて求める所の人生のやるせなさも交差する。解説の通りとして読むなら映画脚本として執筆された経緯からもわかるが、全編を読みながら感じるエンタメ性と豊かな映像性、ヒロイックで天使的なウリセスも成功者風な彼の父親の存在感も恋心も蹴散らして、祖母と孫娘の愛らしさと痛ましさと憎悪で女性二人の生命力と存在感で描き切った本作は、それも含めて宮崎駿作品を思わせた。日本人に馴染みがあるヒロイン性の躍動エンタメは凄みがある。
通常、虐待や痛ましい過去の経年により人間の脳機能は委縮して低下していくらしいが、祖母にしろエレンディラにしろむしろ強まっていく所が、現実よりも虚構性を強めている要素の一つに感じる。通常なら純愛的な少年との性愛と優しさの初恋から始まる流れは普遍性なれど、虐げられたまま大人になる少女はどんどん鋭利に研ぎ澄まされ洗練されて行ったことが分かるラストは鮮烈。
少年ウリセスの名がユリシーズに由来することは明らかだろう。彼がエレンディラをアリドネレと呼ぶのは、ギリシャ神話でくれた島のミノタウロス退治に手を貸したアリアドネの捩りと思われる。祖母がミノタウロスに見立てられ、ウリセスがテセウスの役を演じているのだ。だが、神話ではアリアドネが捨てられるのに対し、この短篇ではウリセスが捨てられる。したがってこの物語は反ギリシャ神話ということになり、ラテンアメリカ文学特有の西欧神話転倒の恒例と見ることが出来るだろう。
「聖女」
(1982年。『十二の遍歴の物語』所収)
教皇、映画製作、ヨーロッパ的な雰囲気で走り抜ける短篇は18ページで終わる。
「光は水に似る」(1978年。『十二の遍歴の物語』所収)
まさかの5ページ。
短篇集の醍醐味としては十分以上の威力
表題作と野谷文昭氏の解説だけでも十分な読み応え。逆に前半や後半の数作は、その魅力というよりは著者の遍歴を見せるためのものにも思えたりもして、個人的にこの著者を好きだと思いはしない自分を感じたけれど、『百年の孤独』前後の著者と作風、その後に生み出された模索の中の『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』は魅力的。プロットも状況も全く異なるし、主人公に据えられているが視点人物ではないエレンディラの内側が語られない意味で神話的ではあるものの、女性性の人生における暗雲と疾走の意味では『ザリガニの鳴くところ』にも感じた現代性があり、これがその古めかしい物語の構え方は言わずもがなながらも1972年に書かれているところは驚異的。そして男性作者によりなされているところ、そしてしかも『百年の孤独』の著者によりなされているところ、すべてが面白みに満ちた読書になった。

解説の一部に丸谷才一氏の言葉として、ガルシア・マルケスは長編ではなく短篇の作家である、とした言葉や逸話に言及してあるし、本冊子収録作品と解説を読むと、著者がジャーナリズムに生きた時代があることや、映画に注目していた時代があることなどから、フィクションと現実や貧困と仕事など多くの遍歴を持ちながら紆余曲折があることが分かる。そして短篇における作為性やその広くまじめな見聞とユーモアについても言及があり、短篇創作においてそれを感じることもできる。
第3短篇集の『十二の遍歴の物語』は1992年、それ以降2014年に亡くなるまで何作も書いていてるが本著作ではその辺りをカバーしていないし、私は全部未読。時間を見つけて読み進めたい。特別好きな作家だとは今も思わないけど、今からすれば幼い私に世界文学の始まりを教えてくれたのがラテンアメリカで、その中心はこの作家だったので、やはりセンターピンなのは間違いなく、そこから広げていくのが私としても文学史としても正しい気がする。
けれどやはり、あれだけの大作を読んだ心地を短篇で与えることは難しいし、やはり文学史における中訳や名声は大長編でしか残せないものだと感じるし、二十歳前後で読んだ『百年の孤独』がどんなだったかはもうおぼろげにしか思い出せないが、その輝きの印象は消えるものではない。そうした作家を研究し読み尽くした末にだけ書ける解説とその美文に魅せられながら、三冊発表された短編集を撚り集めて作家を語る所業に出る後世の仕事、ひたすらに憧れつつ、再度語るという行為の価値について考え、残る図書と新たに開く読書についても考える。楽しかった。
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世界文学旅行、10カ国目はコロンビア。
ラテンアメリカといえばこの人!と思い始めてみましたが、一口にラテンアメリカと言いますが地図を見るとただコロンビアの一時代にすぎません。そしてやはりラテンアメリカの二大巨頭として私はマルケスよりバルガス・リョサのが好きなのも実感。





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