<English summary> This article examines The Handmaid’s Tale by Margaret Atwood and reflects on the enduring power of its central themes within dystopian fiction. Through personal reading impressions and literary criticism, the essay functions as a form of Margaret Atwood analysis, exploring how the novel portrays a society structured by gender hierarchy, political power, and the regulation of women’s bodies. The article also compares Atwood’s work with Jane Austen’s Pride and Prejudice, considering how both novels depict the roles and expectations placed upon women in different historical contexts. From this perspective, the essay situates these works within the broader tradition of feminist literature. By placing these novels within a wider literary perspective, the article reflects on how literature portrays the experiences of individuals living within powerful social systems. Ultimately, the essay argues that both Atwood and Austen contribute significantly to world literature by revealing how timeless themes―such as gender, social order, and individual agency―continue to shape literary imagination across generations. 本記事はマーガレット・アトウッドの小説『侍女の物語』を取り上げ、ディストピア文学におけるその中心的テーマの持続的な力について考察する。 個人的な読書体験と文学批評の視点を通して、本稿は一種のマーガレット・アトウッド分析として、この小説がどのようにジェンダー階層、政治的支配、そして女性の身体の統制によって構成された社会を描いているのかを探る。 また本記事では、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』とも比較しながら、異なる時代の社会において女性に課される役割や期待がどのように描かれているのかを考察する。この視点から、本稿はこれらの作品をフェミニズム文学の広い伝統の中に位置づけている。 さらに、これらの作品をより広い文学的視野の中で捉えることで、文学が強力な社会制度の中で生きる個人の経験をどのように描き出してきたのかを考える。 そして最終的に、本稿はアトウッドとオースティンの両者が、ジェンダー、社会秩序、個人の主体性といった普遍的テーマを通じて、世代を超えて文学的想像力を形作り続けていることを示す点で、世界文学に重要な貢献をしていると結論づける。
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ある日突然、主人公の女性は仕事も預金残高も奪われ、両足を失った気分になる。
預金残高は最近親者となる男性の所有財産に移るだけだったから、主として彼女の財産を得た夫は何でもないじゃないか安心するようにと彼女を抱きしめたが、主人公は既に強い違和感を持っている、1日にしてこの人とはもう価値観が変わって決まったし、私は自己のものではなく他者の所有物になってしまったのだ、と感じる。
次第に国は変わっていき、作り替えられた国の要職に就く高位な男性に種付けされるための女性たちが赤色、彼らの正妻が青色、家事など雑務を行う役割の女性が緑色の服を着せられ、それらにありつけず子供も生めない女性は不完全女性としてコロニーに送られて処分される世界では、たまに正妻が夫にはもう子種が望めないからと種馬として用意する使用人男性が登場するくらいで、それ以外の低位な男性は描かれもせず、多くは管理された女性と関わることすら禁忌され、無理に立場を犯したレイプ犯は他人の所有物に手を出した者として処刑されて壁に吊られる。
古めかしい『侍女の物語』(1985)に
それでも感じる新規性と作家的才能
本作はそうした冒頭から始めればいいものを、すでに赤色の服を着せられた女性が粛々とその立場に乗っ取った生活をする中で上記のような世界観を読者に提示していくひどく古めかしい語り口になっており、この恐ろしくテーマ的でショッキングな世界観を効果的なエンタメとして読者に読ませることを、むしろ拒否しているかのような語り口とプロット構成を、単に私は残念に思った。
ここまで明確にフェミニズム的な問題作のモチーフを1985年に発表する著者は間違いなく天才的な小説家としての才能があると思うが、しかしその展開や構成を考えると、本作は現代に読むと退屈に思えるし、目立った文章表現の効果があるわけでもないので、ただただこのテーマ・モチーフとしてのすばらしさに感嘆して終わる。
プロット展開やエピローグによる解説や転覆などもそこまでの効果を持たないし、ぜひこの優れたテーマ・モチーフで度重なる映像化や他の作家による変奏を待ちたいところで、本作はそれほどに舞台設定とテーマにおける有効性を持つし、本作を読んだ男女と読まない男女であれば、必ず前者の読書体験は人間性やジェンダーにおける価値観が進むものになる。
しかし私はフェミニズムについて歴史的にも現代的にも詳しくないため、作家的見地や古さからではなく現代の進んだ理知からきちんと学びたいと思えた、これは虚構創作から始まる大事な一つの現実的な興味に他ならない。
創作的な難点はいくつもある
本作が現代においての読書として本作が読み進める上で魅力的だと力説できない理由は多々ある。
優れたモチーフ・テーマを有しながら、ドラマのピークとなる狂乱の一夜がただの通過点に終わっている点、多くの不安や恐怖を持つ主人公女性は抵抗もせず所有物で居続けるが、反乱分子となるような知り合い女性に願いを託しつつそれを失い、不安だった日々にも愛しく思える他の男が現れれば脱出はもはや必要なくなる恋愛至上主義的の価値観が、優れたジェンダーテーマの本作の中でどのように扱ったったらいいのか謎である部分、ラストや一文はやはり目を引くが、頂点を持たない小説だなという感覚は間違いなく持つ。設定や素材の素晴らしさに対し、創作や文章表現の点で今一歩弱い。前者が優れすぎているだけにどうしても見劣りしてしまうだけであるとはわかるのだが、そこを抜けてこそ作家の仕事かなと思う。
ただ重ねるが本作は1985年に発表された作品になるので、どうしても表現や技術、或いはこの丁重でまじめな語り口がこそ当時では魅力的な嗜みだったかもしれず、現代からするところの安易さや商業的な加工の過度な目線がこそ邪推とも思えはするし、本作の15年後を舞台にした『誓願』にて2019年のブッカー賞受賞という経歴を含め、なみなみならない作者であることは明白。
ちなみにまだ読了はしていないが、『誓願』を読むと序盤からリーダビリティが高く、本作の主人公単独の視点である語り口の狭さと古めかしさからは感じないような、本作の主人公やそのほか多くの女性が閉じ込められた”ギレアデ共和国”という一つのモチーフを三人の女性による三つの視点から語るさまは、視点の多さから世界の広さから語れているし、老いも若きも含む人物像から語り手の個性も生まれた語り口の文章にも硬さはなく、特に若い視点人物の言葉使いを含めて軽妙であるし、翻訳文章ではあるがそれなりの意識と表現を感じることが出来る。
作家の成長は時を超えて、時代をも超えるか?
本作は、テーマモチーフやその虚構性については物凄く魅力的だが、その展開や創作性としては微妙な体で終わるので、その15年後を描いた続編には、その世界モチーフの提示作を脱し、その後の展開としてメッセージ性を強く持った、創作技術的にも情感溢れるプロット展開を期待した。
と同時に、1985年に一つの代表作を持った作家が、34年後にもう一度代表作を期待されて書いた作品がブッカー賞という外側の快挙と共に、作家にとっての老齢と経験値を積んだ上で、いかな作品を改めて書いていけるのか、という成長性や変化軸を見て取れることが出来る、これは既に奇跡的なことだ。
著者について名前は知っていたが読むのは本作が初作品になるので、特に注目したいが、基本的に人の仕事は向上すべきだし、代表作を書いた作家はそれを超える作品を書いてもらいたいし、自己が書く作家性と他者に読ませる職業としても、自己に感じ、他者に感じさせて欲しいし、本質的にそうあるべきとも思う。
時代と共にどうしても制限や成約があると最近ひしひしと感じる創作技術ではあるが、同じ作家が30年以上経過した後に大事な自分の本願たるテーマ・モチーフ及び代表作の続編を扱って渾身で仕上げた作品、ぜひ味わいたくて読んだ『誓願』(2019)、しっかり面白かった。
そして2024年の『老いぼれを燃やせ』(Stone Mattress /鴻巣友季子訳/2024年早川書房)の表題作も他のアンソロジーで読んで、面白かった。落胆せずに成長を追える、何度も素晴らしいと思える作家が現存する、この喜びは読者の醍醐味の一つのはずで嬉しかった


ちなみに、2020年にグラフィックノベル版としてリバイバルされているようで、装丁も印象的で可愛らしい。グラフィックノベルが何であるか明確にわからずAmazonにて試し読みしたら、広義の意味の漫画で、小学生の時にシャーロック・ホームズシリーズや赤毛のアン、偉人の伝記などの漫画を図書館で読んだが、あれに近く、コミックノベルとの差異は曖昧なれど、わかりやすくキャッチーな表現にて少年少女から親しみやすくするために名作の表現を工夫してみた、ということだろうと思うので大賛成。試し読みにて、本作の世界観をビジュアル的にも確認できるので大人の方にもお薦めです。重ねますが1985年にこんな印象的な世界観を築いた著者、素晴らしい。
つまらない現代文芸と古典文学から逃げ出した3か月
最後になるが、時代に制限されてしまう創作技術を感じる一旦として、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』に触れたい。誰しもが聞いたことがある題名として、古典文学としては一定以上の有名作品であると思うが、私は未読だったため辻村深月『傲慢と善良』に関連して読もうと思い購入したが、ほとんど挫折するようにして苦しみながら上下巻を読了し、その後私は文芸読書が自分にはもう楽しめないかもしれないと読書から仮卒業して、映画鑑賞に浸る3ヶ月を持った。

『高慢と偏見』は1813年に刊行された、1775年生まれの著者による作品。
翻訳文章とは言え、恐らく原作の文章も適切な並びにて明瞭に文章化された作品だろうことは伺えるのだが、上巻は鉤括弧による長台詞が多く苦痛で、下巻は流れるような情景描写ばかりで読めはするが、結局は全編が結婚と上下階級と男女にまつわる狭い範囲の交流に収まっていて、婚姻がいかに女性の人生の多くで全てであったのか、そして文芸や作家が描ける範囲がどれほど狭く、むしろその狭さと心情とその文章表現が特筆なのだとは思ったが、どうしても退屈で私はそれを愉しむ才能に欠けるし、これが押しも押されぬ名作であるのならば、自分はもう小説自体を卒業したほうが良いのかと思ったほど合わなかった。
当時の世相もあえて取り入れずに狭い範囲で書いていた著者が、例えば現代に生きていてもこの狭さで書いていたのか、或いは時代的な制約が無くなれば、同じ才能でどんな作品を書いていたのか、それが気になりもする一作だったし、有名古典作品の扱い方と、世代における制約と状況を鑑みた読書姿勢が求められることにも至った。
有名冒頭だけを見ても文芸の魅力があるのは分かる
相当の財産を持っている独身の男なら、きっと奥さんを欲しがっているにちがいないということは、世界のどこへ行っても通る通りである。
つい今し方、近所にきたばかりのそういう男の気持ちや意見は、知る由もないけれど、今言った真理だけは、界隈の家の人たちの心にどっかりと根をおろして、もうその男は、自分たちの娘の誰か一人の旦那さんと決められてしまうのである。
私は岩波文庫の富田彬訳版(1950)を読みましたので上の一説で始まりましたが、以下河出文庫の阿部知二訳版(1963)と比べても違いが感じられて面白いので、翻訳小説が時代と共に変換していく魅力を感じる意味では楽しくもありましたが、一般的な読書というよりは、機関的なテキスト扱いで、基本的な読書の魅力かと言われると良くわからなくなります。古くさい狭い世界観で生きていたのだな、と200年以上前に生まれた著書の作品に感想を抱くのは現代からすればむしろ当たり前であり、しかしうちなる個人としての心情や狭苦しい内心の事情こそが個人的な至上問題であり、その歌い上げこそ密なる表現の小説のあるべき姿、と言われたらそうなのかもしれません。
独身の男性で財産にもめぐまれているというのであれば、どうしても妻がなければならぬ、というのは、世のすべてがみとめる真理である。
初めて近所へきたばかりの人であってみれば、彼の気持ちや見解は、ほとんどわかっていないわけだけれども、周囲の家々の人の心には、この真理はかたく不動のものとなり、その人は当然、われわれの娘たちのうちのだれかひとりのものになるはず、と考えられるのであった。
各時代、各世代の女性像や内省を吸い取る、世相を映す各時代の文学
マーガレット・アトウッド『侍女の物語』に話を戻す。
続編を読みながらふと思い出し本稿を書く立場からすると、三者三様の視点人物により軽快に書き進める続編に対し、旧時代に閉じ込められた1人の赤色女性が慎ましくも平均的な恐ろしさと不安を胸に体制の中の自分の毎日を暮らすクラシカルな魅力があったように思うし、個人はそうして劇的な気持ちや行動を持って生命を全うする者ばかりではない、不安に揺れて、恋に溺れて、動かずにも安心して暮らしたい大多数の受動的な心地、その平均性や一般性の、ある種の愚かさと現実味を持って描けているのだとわかる。
この点に関しては、『高慢と偏見』を書いた作者も『傲慢と善良』を書いた作者も、書かれた人物も、読み親しんだ読者も、全て一介の平凡な個人であり、特異な世界設定に閉じ込められた普遍的な理知感の平均的個人に過ぎず、そこに特殊な要素は存在しない、皆全て一介の個人にすぎず特別な理想は不要、とも思えはする。
劇的な世界に生きる平凡な個人を立体的に描く、それが本質的で本来的な文芸のある姿で、他者を知る読書としての世界観なのかもしれません。そして、ある時代やその時代に生まれて生きた個人としての著者が如何に何を思い生きて暮らした中で、ちょっとした才覚や表現と技術で成した一冊の著。改めて作家の仕事や功績について考え、それを受け取る読書についても思い耽ります。

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