G-40MCWJEVZR 文芸への信頼と彼の文学が目指すもの『ラ・カテドラルでの対話』マリオ・バルガス・リョサ - おひさまの図書館
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文芸への信頼と彼の文学が目指すもの『ラ・カテドラルでの対話』マリオ・バルガス・リョサ

文芸作品

 めちゃくちゃ面白かった。しょっぱなから2025年の個人的ベストなのではと思うくらいの衝撃。
 それもそのはず、「ラテンアメリカ文学を旅する58章」などで再三言及されている著者であり、私も以前から好きな作家、バルガス・リョサの長編第3作目、
 ただ勿論誰にでもおすすめ出来るというわけでもなく、文庫版は上下巻で1200頁という大長編。私は集英社刊行の一冊で本編は546ページ、1時間で30ページ前後、普段の半分以下のスピードだったので18時間ほどかかって読了、しかも以下のように語り方の形式や構造が読者泣かせな文芸的手法が駆使されているので、人物名や相関図を頭に入れようとしてるのに、今これはいつの誰の言葉かわからないし、全然知らない人物が急に話し出したり、そういう会話が入り乱れて時系列もなにもかも無茶苦茶で、読み慣れるまでの序盤は重かった。
 読書にも筋力があるとすれば、本作を読み進めるだけでも相当鍛えられる脳部位があると思う。
 こんな分かり易くなく、長い、海外小説を、現代の誰が好んで読めるのか、全く想像できないし安易におすすめも出来ないのですが、私は明確に面白かったので、作品自体を読んで貰える可能性は期待せずに、それでも本作の魅力をどうにか見聞くらいはして貰えたらなと思います、それはそれで読書ブログの魅力や役割の一つかなと。

文芸の面白さってこういうものか、ってわかった時の豊かさ、凄味、味わって欲しい⬇️

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 本作を読むきっかけは「100人の作家で知るラテン文学ガイドブック」にて
>少なくとも90年代初頭までは、『精霊たちの家』を『百年の孤独』や『ラ・カテドラルでの対話』に比肩する小説と見なす文芸批評家が後を絶たず、博士論文のテーマに選ぶ文学研究者まで現れたのだから、今振り返れば驚きとしか言いようがない。
 というイサベル・アジェンデに関する一文。
 本作の題名は何度も目にしていたし、主人公であるサンティアーゴがかつて父親の運転手をしていたアンブロ―シオと再会し、「ラ・カテドラル」という居酒屋で過去の話をする、という筋書きも知っていたが、読まずにいた。なんだか題名も筋書きも地味、だけどあの『百年の孤独』に比肩するとは?今回はその印象を含めて、読書感想を書き留める。

『ラ・カテドラルでの対話』で目を引く特徴は、特に第一部で著しい複雑な構造だろう。この作品は、居酒屋<ラ・カテドラル>で交わされるサンティアーゴとアンブロ―シオの対話を大枠にして、その間に、時間的な前後関係を無視して語られるいくつかの筋が、断片的に、断りなしに割り込んでくる。しかもその一つ一つの筋が、あい異なる過去の出来事を並列して並べたり、事実の描写と回想を混ぜ合わせていたり、説明的な文章の中に正体不明の人物の会話を挿入させたりしている。あるときには、時間も場所も異なるところで口にされた複数の人間の言葉が、発話者を明示することなしに並列されていたりする。そのため、サンティアーゴの問いに対すアンブロ―シオの答えが、いくつものエピソードを含んだ数頁の後に出てくることも珍しくない。(しかも原文のスペイン語ではそれが、句読点の多い日個性的な文体を用いて、主語を省略するというスペイン語の特徴を利用しながら行われているので、全く何の抵抗もないままに、無関係な話の中に滑り込むように書かれているのである。)

 愛犬を探した先の野良犬殺処分所で旧知の相手と再会する、という衝撃的なドラマを引きつつ、安居酒屋ラ・カテドラルである二人が会話し、それまでの経緯を話し合う、という形式。
 全体のテーマ像は冒頭で示される通り「なぜペルーは、僕や君は、こんなにもダメになってしまったのか?」を全容としており、いつ、何故、という漠然とした徒労と悲哀の問いを持ってお互いの人生を語り合う2人の男をモチーフにしていて、一国やその最下層に転げ落ちた2人の男それぞれのモチーフ性は、明るくはないがテーマ性は明確で社会性に富む。野心的であるが、なにぶん書ききれていないきらいがあるのは、本作がそうした豊かなテーマモチーフを本願としたものではなく、語り書く上での文芸上の形式を第一主題で念頭にされているからと思うし、本作の旨みも愛しさもそこにある。

 デビュー作『都会と犬ども』では、終盤になってある過去と時系列を異とした時期との会話が交互に書かれる会話劇などがあったと思うが、本作ではそれよりもさらに滑らかに自然に、けれど超不自然的に、異なる時期の会話と会話が、それも単純な2軸ではなく多様な複数軸で展開される。その中身は地理や政治や個人的な人間模様だったりするので全貌の把握がそもそも難しく、基本的にはどれが本筋である「ラ・カテドラルでの対話」なのか、昔話の中の「誰それの会話」なのか、はある程度判断できるようになっていて、勿論それは”〇○は言った”という名詞によるところも大きいのだが、地の文にて独白のようにして散らばる”お前はその時そう思ったな、サバリータ”などと自他に語りかける口調をまぶしたり、しかもそれがたまに本名ではなく親愛な呼称だったりするので(サンティアーゴがサバリータだったり、ケタがケティータだったり、カルロスがカルリートスと呼ばれたりして、慣れるまで誰が誰かわからない)このあたりもスペイン語圏のセニョリータやセニョールなどといった言葉に似たニュアンスだとか、『都会と犬ども』にもあった特徴的な”雀斑””痩せっぽち”などといった特徴的なあだ名も作者普遍のものであることもわかって可愛らしいが、読み手は結構混乱する。
 この複雑なのに滑らかでいて明確な混在は面白みに溢れていて、形式としてはまずよし。

 ただやはり展開する昔話が基本的に外国で政治性に溢れたり地理的に遠いので興味を持ったり楽しみづらく、途中で何度もこれは何を読まされているのかのリーダビリティに弱く、これは誰で今何が起きているのかすぐに判断出来ずに行きつ戻りつしながら読み進めることになり、単純な読み物や現代的一般的な小説の形態とは異なる上に、単純に読み物として長すぎるので挫けて読了出来ない気持ちになりもする。
 この根本は、主役二人の再会の魅力や、本作の劇的を暗示する虚構性を冒頭で築けてていない点にあるし、これは諸人物群像と場面の全てに当てはまり、これは結構古典的な物かなと感じる。しかし本来著者はドラマ的で虚構的なモチーフや情感が得意なので、どうしてこんな出来なのかと不思議に思いもした。

 徐々に語られていく彼らの歴史の展開、本作の物語性があらわになる。
「坊ちゃん」と呼ばれる光の主人公たるサンティアーゴが開示する自身の物語は、良識的な父親の庇護のもと特権階級に生まれた少年がいかにブルジョアからはみ出して今に至るのか、年下の彼に「アンブローシオ」と呼称される元使用人はサンボ(黒人や先住民との混血)や黒すけさん等とも作中にて蔑称される闇の主人公の側面があり、転げて転げて最下層に落ちていく人間の差別や困惑にまみれたある国や当時の社会性をそのまま映し、彼が語る本作の最後の一文は鮮烈な印象を引く。その辺りも虚構性やモチーフ性は抜群だし、2人の相対性も王道。
 主人公サンティアーゴが少年から大人になるまでの歴史は、そのまま政治意識や学生運動を通した青春時代などで、多く政治主義的な要素に溢れていくし、そのようにして袂を分かつことになる父親や家族との関係性、特権階級的な都会の白人階層の主人公の所属からの逸脱の経緯なども含めつつ、社会性と青春で読むことが出来る。父親の政治的な闘争に関連して息子の学生政治意識が晒され、それにより父親の立場を晒すことになる対比と衝突の場面の双方の換気は鬼気迫る場面で序盤の見せ場か。
 巻末の解説にもあるように、長編3作目の本作においても長編処女作においても、父親やマッチョとの関係性というのは著者の関心テーマであることは間違いないし、本作もそれを出発点にしているのは、いくつもの人物関係のテーマモチーフからも伺い知ることが出来る。ラテン的男性というと、やはりマッチョや暴力性や肉体性、独裁や軍事などと安易に考えがちだし、そうした風土による母数もあるだろうが、内的な思考性や文学性が生まれないし内なる苦悩がないわけではないのは、その土地に生まれて育ったこの作家の存在自体が証明する鎮魂歌的な側面も感じる。その生きづらさ、ペルーや家庭内における息苦しさが、彼の文学的素養の発端であったと自身が語る言葉などを解説からは拾える。また訳者に野谷さんが見つかる。

 そして本作の相対的マンツーマンなモチーフとして、お坊ちゃんサンティアーゴと元使用人アンブローシオとは別に、さらに堅牢に本作の物語性を体現するはずの2人、サンティアーゴの父親ドン・フェルミンと、彼の職務上協力関係から政敵に移るドン・カジョ、ここの創作性と表現が弱く、あくまでサンティアーゴとアンブローシオのスケールで描いた所に本作の弱さや薄さを感じたりもする。
 ドン・フェルミンはラテン文学ではあまり見られないような常識的で非暴力的な男性性で描かれ、ブルジョア的な雰囲気が強く作中最後まで栄光の権力者で居続けるが、あることで息子との関係を失い、あることで性的なスキャンダルを抱えた、内面のとても弱い側面を持って描かれる。
 反対に、庶民の生まれから貸金利で成り上がった父親を持つドン・カジョは、それゆえに気骨ある頑丈な父親に拳骨を食らわされても、自分が気に入った混血女を諦めなかったが、それにより親子関係は無碍となり、混血女は一度も子供を生まなかったし、カジョ本人も愛らしさを失いどんどん醜くなっていった妻を憎んでいたのではないか、と結び、後に金に物を言わせて愛人を囲ったり、失脚して一時亡命しても舞い戻ったりと、作中最も生命力を感じるが、やはりその人生の最初に戦略的に適切ではなかった”混血女と無理に結婚して父親と仲違いする”というエピソードは目立つし、それを語るアンブロ―シオがサンティアーゴではなく旦那様に語りかける文章で語られる部分は、父と息子の仲違いについてサンティアーゴと離れてしまったことを気に病むドン・フェルミンの姿が思われて、幾重にも面白いが、初読だとこのあたりは何が何だかわからず、まだ把握や読解に忙しい場面。


 (ベルムデス)一家というのはつまり、禿鷹と、信仰深いドニャ・カタリーナと、当時は女の尻を追いかけていたらしい息子のドン・カジョだ。
 禿鷹は農場の人夫頭だったので、彼がチンチャに来たときには、あいつは泥棒としてデ・ラフロールの連中から追い出されたのだと言われていた。彼はチンチャで高利貸になった。金を必要とするものは誰もが禿鷹の所に行ったものだ、このくらい必要なんだけど、担保は何だね? この指輪、この時計、そしてもし返済しないときは、彼はその担保を取り上げていたが、禿鷹の利子がべらぼうだったので債務者たちは死んでいった。だから禿鷹って言うんですよ、旦那様、奴は死体を食って暮らしていたんです。。彼は2,3年のうちにお金をしこたま持つようになり、べナビデス将軍(1933年から1939年までペルーの大統領を務めた独裁者)の政府がアプラ党員たちを投獄追放しはじめると、彼はその金を黄金の留め金で封じ込めたのだ、つまり副知事のヌニュスが命令を下し、ラスカチューチャ大尉がアプラ党員たちを投獄してその家族を追い立てると、禿鷹が彼らの持ち物を競り落として、その後で3人がケーキを分け合っていたのだ。そんなぐあいにして、禿鷹は金のおかげで重要人物になったんですよ。
~息子がいつも靴を履いているように、そして黒人とは交わらないようにと気を配っていた。子供の頃は彼らは一緒にフットボールをしたり果樹園で果物を盗んだりしていた、アンブロ―シオはよく彼の家に遊びに行ったが、禿鷹はそれを気にしていなかった。それなのに禿鷹が金持ちになると、アンブロ―シオは追い出されるようになり、ドン・カジョは、アンブロ―シオと一緒の所を見つけられると叱られた。彼の召使だったのか? とんでもありません、旦那様、友達だったんですよ、と言っても、こんなに小さい時だけでしたが。

 のちに最初に運転手として雇われる経緯のドン・カジョとは子供の頃は一緒に遊んでいた混血のアンブロ―シオ、最初はそんな近しさだったのだ、というところが明かされる。ここはドン・カジョとアンブロ―シオの生まれと出発点の提示としても印象的だし、成り上がり、落ちぶれていく対象の意図も明白。と同時に、先に触れたように父と息子の仲違いのもう一つの逸話でもあるし、実はサンティアーゴが語る自身の結婚が家族にどう受けとられたのかの経緯も重なるし、ドン・フェルミンとドン・カジョという二人の相対性をどちらの下でも運転手を務めたアンブロ―シオが語る、というところにも何重にも妙が重なる。
 ただ、この二人のドンがそこまでモチーフとして生きたかというと結構難しくて、それが本作の物語性の弱さをそのまま表している気もする。ただ、二人が重なるところの中盤における政治劇は、本作ならではの形式にて表現されて、それはそれで面白いので必見でもある。

 ただ、2人のドンが弱いにせよ、結局は主役2人が強ければ問題ないが、その部分もサンティアーゴは好きな女にここぞのタイミングを明示されても告白も出来ないし、家出先の新聞社での自活にも覇気を感じないし、主人公的な推進力は感じず、あくまでお坊ちゃんの良心の域を出ない。
 アンブローシオもまた、最後の印象が代表するような無気力さの自己的非情みたいなもの、女に対する身勝手な熱と無責任も、かと思えば男社会では縛られ、弄られ、騙され、下へ転がっていくしかないその知能の低さはアマリアを決して笑えないし、娼婦や愛人風情と見下すオルテンシアやケタの内なる強さや優しさすらも持ってないような、どうでもい男のように見える。
 何故彼らやペルーは落ちぶれたのか。混血や黒人への差別、特権階級の恵まれ、それら社会性はわかるが、物語を劇的に変える行動力や結果は物語すぎるとは言え、自身が語る内面や吐露の時点ですらなんら光る部分も強みも特徴もない、軽薄な弱者だからこそ社会的な仕組みの中で流されただけの結果、と思えなくもない。その意味では頭ではわかっても男に流されるアマリアも、愛人の特権を享受したのちの波乱から全て持ち崩していくオルテンシアも、友人が崩れて行く近くに寄り添いながらも自身の人生を何ら変えることなく数年過ごすケタも、兄を気安く思いながらも特に取りもてないテテも、登場人物の多くがペルーや自身の物語の中で躍動性や自主性を持たず、流れや状況に身を任せるのみで、本作の登場人物の多くの特徴とも言えるし、現実的な大多数はそんなものだよと暗示しているようでもある。
 少なくともその意味でラテンアメリカによくありがちだと思われるし、本作でもドン・カジョや将軍などの力強さで政治的に金銭的に、他者より先んじて登り、倒しては自らは先に進む躍動は特例で、主役の2人も決して持っておらず、安居酒屋で昔話やアンブローシオお得意の愚痴で盛り上がり2人ごちる、というのは、確かに趣があり、やはり地味だ。

 本作には男性マッチョ一辺倒だった長編処女作『都会と犬ども』に比べて、女性キャラクターも多く登場する。学生時代のサンティアーゴが友人との間に挟んで恋焦がれるアイーダ、アンブロ―シオの子を身籠る男運のないアマリア、ドン・カジョの愛人として栄光と衰退を極めるオルテンシア、彼女と娼婦仲間であり同性愛相手であるケタなど、様々な階級と境遇の様々な女性が登場し、性格も思惑もそれぞれに彼ら2人ないし無数の彼や彼女の言動や人生が織り成し重厚性を増す群像劇を、文芸的形式にて表現した意欲作であるにもかかわらず、なぜ本作はここまで物語的ではないのか。
 ペルーはいつから悪くなったのか。サンティア―ゴとアンブロ―シオはいつからダメになったのか。その2つを重ねて読ませるところの重層も本作を端的に表していて、物語性もモチーフ性も幾重もの重複 や入れ子式など、創作的な工夫は文芸上の形式以外にもきちんとなされていると思うが、本作はその部分がどこかで常に弱い。

 本作の主眼は間違いなくその異質な語りの形式や構造にあって、それは先に触れたような、会話の入り乱れや誰から誰への独白や時系列、名称や呼称やあだ名の乱用、初登場の人物が急に名前だけ出てきて説明は一切ないとか、ただの台詞や場面が入り乱れる以外にも結構実験的な形式が含まれていて、対話と対話が織りなす濁流であり清流でもあるような、ただの文芸とも言える。
 バルガス・リョサの魅力は、そうした語りや文芸の形式という複雑や難解の中に、親子や内的葛藤や不安等といった普遍的なもの、情感や虚構的なものを入れる小説家的な才能にあると思うし、さらにそのモチーフ性と共に、政治性や国際色等・文学性や社会性に繋がるテーマ性も含ませて語るところにあるし、その三つの良点が絶妙だと私は感じる。
 本作で言えば、ペルーはいつからダメになったのか?僕や君は?という主題的要素を、落ちぶれた安居酒屋で語る、という虚構性も悪くないが、その素材に対し上手くも強烈にも描けておらず、形式や文芸の域に留まっている印象。これは本作が表現描写ではなく独白吐露や伝達に重きを置いているので仕方ないし、台詞劇における印象が基本的な読後感に直結していることにもよる。

 男運が良くないアマリアから見たアンブロ―シオだとか、オルテンシアの栄華からの失墜だとか、息子を思う父親のドン・フェルミンだとか、ほら吹きみたいに場面や視点人物によって印象が違う回顧上のアンブロ―シオだとか、二人のドンの対象性だとか、そんな彼らが争い競ったような政治的な応戦だとか、ブルジョアと学生運動や政治の関与や意識殺人事件や同性愛等のミステリや性愛や友情の要素など、これほどまでに虚構性が強いモチーフを数多採用しながらも、それをあえて色彩豊かに描かず、重点化されているのは形式のみという感じが、形式にこだわった結果主題的なペルーがそこまで色濃く表現されているに至らず、物語的な魅力もそれほど押し出されておらず、あとに残ったのは読み進めづらいテキスト、というところが、本作の読了の難易度を上げており、その点で名作と言いづらい要素があるようにすら思う。

 例えば『百年の孤独』がなぜあそこまで語り継がれ、読まれているのかについて、世界文学史やラテン文学史の系譜や体系として語れるほど私はまだ読書量が足らないので難しいが、商業的や創作的に単純に考えれば、難解な長編だけれど物語的な魅力に溢れているし題名もキャッチ―で、著者の代表作としても間違いのない明確な輝きにあると思うのだけど、では本作はどうか。
 少なくとも私は何作か著者の作品を読んで好きな作家だと思ってはいても、本作は長らく未読。代表作は外側の聞こえ方ですれば『緑の家』と『世界終末戦争』だと最近まで思っていて、『ラ・カテドラルでの対話』は語られているのを見たことがなし、題名も筋書きも地味だ、という印象が強かった。しかし本作は少なくとも私にとってはこの上なく面白かったし、本来私は文芸の形式をポストモダン的な無機質と捉えていて、虚構性や主題とも異なれば、文学的な価値とも別だと認識しているが、本作のそれは読書としての本質的な魅力をありありと感じさせる。
 読まれていない、語られていない、この印象値と、読みたくならない、語りたくならない、は大きい。<文学的迷子たちへ>でもふれたように、文芸の読書は能動的な行為なので、仮にそのテキストが優れていても読み手が目を通さなければ無いも同じ、何度も発掘され、開かれ、語られ、そして読まれ続ける、その過程が常に生産的になる。

 それでも本作が面白いのは、そうした文芸上の形式や試みだけでもこれほどまでに旨味や妙味を感じる文芸好きが一定以上いることと、本職的な読解が体系の中にきちんと押し上げる評価軸は本質的には存在するからだとは思うが、やはり読者は一般的、大衆的に、広く読まれ親しまれ物語られる系譜にのみ存在しており、当時もどの時代も普遍的に読まれて魅力的な要素がないと埃と共に廃れるだけであって、だからこそ、そうした読み方の手引きや、難解な初読に対して何が書かれているのかの理解を補足して助ける巻末解説の役割や、その魅力を認めて感動した人間の口伝や表現によって広がる副次的な読書の効能のみが、こういった読みづらい作品の魅力それの発展性になるかどうか、というところ。
 例えばバルガス・リョサが物語的に優れた作家であることは他の作品を読めばわかることなので、形式にこだわり抜いた本作独特の配分であるのだろうと感じる。その上で考え、思い返してみると、本作の文芸的な魅力は抜群だし、形式を把握した上で冒頭からしばしを再読してみると、あれよあれよと綴られる波に乗っている情感も感じるし、それは心地よい。
 でも一般的な読書や読者が、いつの時代であろうとこうした作品をことさら面白いと思う人数は母数に対して少ないのは分かるし、その苦渋が常に感じる私の心細さにも近い。

 でも私はとても面白かったし、本作をつまらないし読み進めることが出来なかったと言う人も想定できるし、そのような人もいるだろうし否定も出来ないことは事実で、別にそこに優劣や理知感を持ち出すつもりはなく、でもだからこそ読了した人間は感じた魅力を語る価値を感じたりもする。
 逆に言えばこんな作品を面白いと口々に聞くような状態や時代がこそ異常であり、やはり等号的に文芸や文学性を面白がり尊ぶ層は異常な変態、ということにもなるかもしれないが、変態がその魅力を語ることは許されているし、それはともすれば豊かだとも思う、それを許されたい。

 改めて解説を引用したい。

 大型の新人として期待されていた彼は、長編の第2作『緑の家』(1963)で見事にその期待に応えた。この作品は、いまだに石器時代の生活を保持しているようなアマゾンの密林地帯の話と、スラム街を抱えている小都市ピウラの話を同時に展開させたもので、ピウラの町はずれに建つ淫売屋<緑の家>を拠点としながら極めて入り組んだ構造になっている。バルガス・ジョサはこの小説においては『都会といぬっころ』よりもはるかに高度な技法を用いながら、白人のインディオに対する態度を取り上げている。たとえば、スペイン人の修道尼たちはアマゾンの奥地で、それこそ超人的ともいえる努力を払ってインディオの娘の教育にたずさわっているが、そうやって強制的に教育された娘たちはもはや未開の世界に帰ることが出来ず、都会において女中か売春婦になるよりほかはないのではないか、という批判である。
 バルガス=ジョサが『都会と犬っころ』で示した2つの特質、つまり先鋭的な問題意識と斬新な技法の駆使は、この作品においては前作をはるかに凌ぐ形で発揮されており、そこに作家としての著しい進歩の跡がみられる。

 『緑の家』は20歳前後で挫折してしまったので読了できていない、初期3冊のうちの最後、いつか読まねば。
 本作がラテンアメリカ文学史や世界文学史におけるどれだけの何になるのかはよくわからないが、現代においての読書の対象になってほしいし、少なくとも私の読書体験の大きな鍵になることは感じた。幸先よく大傑作を当てたことで気分が良い、読書は楽しい、何度も思わせてくれる作者に出会える、その作品が読める、幸せだと思う。面白かった。

文芸の面白さってこういうものか、ってわかった時の豊かさ、凄味、味わって欲しい⬇️

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