あれほど頭がいい人が、なぜこんなにもつまらないものを書くのか?
私はそれが疑問で、失望して、読むのをやめてしまった、運命の3作目。
このブログではすでに、先日の川上未映子や、令和の天才新人たる宇佐見りん、他にも例えば村田紗耶香とかもすでに扱っているわけだけれども、芥川賞の女性作家として衝撃的だったのはやはり、平成の大事件である綿谷りさと金原だと思うが、世代もあるかもしれない、けれどそれ以前と以後の文芸を一気に塗り替えたその同時受賞は明確に歴史的なことだったし、その衝撃はやはり大きかった。
彼女たちによって一時的に延命された芥川賞がその後どうなったのか、も一つの注目点。
大事件につき、何回かに分けてお送りしながら、当時を振り返りつつ彼女たちの最新作や現状も追います。読み返したり、調べ直してもなお熱い気持ちになるこの出来事はやはり激震。そしてそこにある文学性とは?


彼女たちが変えた世界と、
女性作家がどう言葉で現実と対峙してきたか
平成における芥川賞の一大事件としては、2004年、綿矢りさと金原ひとみの芥川賞同時受賞が一番に挙げられると思うが、それによる社会現象や芥川賞への印象や信頼や話題性、文学をこころざす者の価値観、様々な功罪を作り出し、いずれにせよ日本純文学の延命と変革を作り出した。その出来事の本質と、芥川賞にとってのその出来事、あるいは日本文学におけるその分岐点はどのようなものだったのか?
若年でのデビューや芥川賞受賞を含めた話題性、身体・痛み・周囲との摩擦など、青春と自我、若者の孤独を描くスタイル、メディア露出・読者の共感を得やすい文体とテーマの簡潔さ・鮮烈さなどの、少女の私語りが文壇中心に台頭した瞬間であり、 文学とメディア・ジェンダー・若者文化の接点として、社会的リアリズムではなく存在論的な自己暴露が主軸になった綿矢りさ・金原ひとみによる平成前期の爆発、女性が文学の中心に立つとはどういう現象だったのか?
「女性がまだ“誰かの言葉で語られていた”時代を、“自分の身体で語り始めた”時代へと変えた」上位男性が上からではなく若い女性の内から始めた文学
従来の芥川賞は社会や人間を深く描く成熟した文学性を評価してきたが、2004年上半期の第130回芥川賞は綿矢りさ『蹴りたい背中』(19歳)金原ひとみ『蛇にピアス』(20歳)の受賞により、一夜にして老成した文学から若い身体の文学へとスポットを切り替え、日本文学における「文学とは何を語る場か」という制度的定義そのものが更新された瞬間になった。
思春期的な身体感覚や、自己嫌悪と欲望の同居、けれども外側である世界の閉塞感、それらに対する直接的で切れ味のある口語文といった、社会的な段階としての10代の若さそのものを文学に変える感性を才能や表現として評価した。
芥川賞という制度が若さと女性性をどう受け入れるかを試した事件だった2004年のこの同時受賞は、戦後文学の延長線上にあった成熟した男の物語の終焉と若い女性の生のリアリティを文学の中心に引き寄せた構造転換点として成り立つ。

文壇が若い女性の美しさと希少性をメディア資本として利用した一方で、その利用が結果的に文学の語りを変えてしまった日本ジェンダー資本主義の縮図として、この出来事を単なる商業的事故と断定しきれないのは、彼女たちの作品が結果的に語りの主導権の転換を実現してしまったからであるし、その後の文学的影響は大きかった。女性が自己の身体・欲望を語る文体や、若年感性による視野や語彙によりsns前夜の感覚での文学のリアルタイム性を取り戻し、感情と身体の直接描写を可能にした。
同年代は共感し、少し上の世代は納得し、さらに上の世代は甘受していくことで、文芸文学が一定の商業性や文化現状的市民権を回復する。これらの特徴は、次世代の川上未映子・宇佐見りん・島本理生などに確実に継承されているように思うし、文壇的には事故、文学史的には転換という二重性がある。
もう少し掘り下げて言うなら、綿矢りさ・金原ひとみの登場によって起きたのは、語りの主体の所有権の転覆であるし、語りの主導権が「女性たちの上から」から「女性たちの内から」へ移った転換としても機能している点にある。
戦後から1990年代までの日本文学においてはたいてい男性的な知性の立場から語られ、女性や若者はその観察対象であったのに対し、『蹴りたい背中』『蛇にピアス』では、観察される側が観察する側に立った。描写され虚構創作化されることで消費されるのではなく、吐露し慟哭することにより昇華していく主体的な自我へと転じていく。この転換は、単に女性作家の台頭という表層ではなく、語りの主導権=誰が世界を定義するのか、を奪還した出来事だった。
戦後文学では「少女」はしばしば男性作家に語られる存在であり対象であり、主体ではなかった。
少女は語られるものであり、「少女が書く文学」は未達の中、たとえば三島由紀夫、村上春樹、あるいは吉本ばななでさえ、少女は「他者」であったのに対し、綿矢と金原は、「少女である私が、私自身の身体を語る」という位置から文学を書いた。ここにあるのは語られる対象から語る主体への転換であり、老練の無い若さの感性が文学の主体として登場したこととしても、現存の主体が語ることによるジェンダー論的にも非常に重要な契機であり、後に川上未映子、宇佐見りんなどにつながる系譜の源流でもあると見える。
戦後文学では身体や性は象徴や対象として書かれてきたが、綿矢と金原は身体を象徴化せず、自己=少女性をそのままの質感で書いたことでそれを脱する。『蹴りたい背中』では、他人への嫌悪や憧れが身体的衝動として描かれ、『蛇にピアス』では、身体改造(ピアス・タトゥー)が自己確立の手段として語られる。私はこのあたりのテーマ性には疎いという核感性が弱いので複雑なのだけど、恐らくここで重要なのは、「身体を通じてしか自己を語れない」という感覚が、理性中心の文学観を根底から揺るがした事であり、それを女性が女性の身体自体として書いて、叫んだことにあるのかなと。これは後の川上未映子『乳と卵』、宇佐見りん『推し、燃ゆ』などにも直結していて、いずれも言語では整理しきれない身体感情の揺れを感性的な表現方法として書く文学となっており、それは女性の身体を持つ女性作家にしか書けないもの、という前提がある。
私はどちらも基本的にはあまり上手く読めないのは、女性の身体の叫び的なことと上手くリンクしきれないこと、その言語化ということに価値を感じづらいことも手伝うのかなと思うが、そうした女性性の身体ということが深掘る純文学性であることは分かる。
2000年代初頭は、チャットや掲示板やブログ文化の萌芽期であり、TwitterやInstagramが登場する前夜。綿矢・金原の文体はまさにこの自分の内側をリアルタイムでテキスト化する感覚に近かったことも特徴と時代性に挙げられる。
書くことが自己の更新であり、外界との断絶の表明である同時に繋がりや親和への希求である、ネット以降の自己表現の原型を文学の言葉で先取りした。彼女たちの語りは時間と感情の距離が極端に近く、出来事が整理される前に言葉になってしまう。その未整理さ自体が文学の新しい誠実さだったし、だからこそ同世代の共感と憧憬を集めることにも成功する。
語彙の少なさをリアルな内面の表出とし断片的な語りをポップカルチャー的リズムとしつつ、SNSや携帯小説が隆盛する直前の時代にネット感覚を文体に先取りした新しい日本語感覚を持つ世代の文学的到来だっただろうし、保守的な層からすれば彼女たちやその文章は「若すぎる」し「軽すぎる」と評されただろうが、その批判自体が文学的成熟の定義のそもそもを揺らした。綿矢・金原の登場は、老成こそが文学性という神話の終焉でもあり、それが文学的にも商業的にも始まりと終わりを作った一つの事件だし、「成熟とは何か」という問いの反対側の価値を露呈させたこと自体に貢献があった。
文体だけでもなく、ネット社会の黎明期としての新たな文化を成長期に触れていたリアルタイム世代として、その虚構創作上のリアリティにも利がある世代の特徴も備える。例えば綿矢りさのデビュー作『インストール』では不登校児の逃避先として巨大な箱から広がるネット空間が虚実のはざまとして使われ、3作目の『夢を与える』では女性性に求められる清廉や性的な動画や行動が社会的価値を失墜させるモチーフを題材に、宇佐見りんが現代的な推し文化を使って外側から描いた”炎上”を、時の人になった綿矢りさは内側から描いた。このあたりの若者文化のリアルを作家が現代としてどのように描くのかの当座を見せてくれる。
芥川賞制度へのインパクトとしても、彼女たちの受賞をきっかけに大衆と文学の接点や文化としての再興を再び意識し始め大きな転換点であり、受賞後、大衆読者が文藝春秋を買い求め、雑誌は完売、文学賞が再び社会的可視性を得た。この成功体験は、その後の選考傾向にも影響を与えたことは間違いなく、文芸・文学の価値観の一つを大きく塗り替える前例を作る。
それまでの芥川賞は、基本的には男性的・中年の知性を主体としており、社会・戦後・思想などをテーマに、文語体や分析的な文体を用い、成熟な構築性でもって評価軸を置いていたが、その社会的効果には文学の閉塞感という行き詰まりがあり、主流文化や大衆性との隔絶が続いていた。そこへ、綿矢・金原の同時受賞が若い女性の身体や感情を主体に、関係・欲望・自意識をテーマとした口語調や即自的な率直さや現代のリアリティとして直面する感性で表現したことにより、若年層の読書や表現の特権性と、それを使った大衆の注目と商業戦略が合致していく。
埃をかぶった皺だらけで大衆に見向きもされなかった文学制度が若さや女性と身体の声をどう受け入れるか、を問い、受け入れた意味で21世紀初頭の芥川賞改革だったし、それらは女性作家の台頭以上の意味を持ち、文学の語りの構造そのものを再初期化した英断と分岐点であったといえる。
若さと容姿が先行した商業的衝撃が、同時に日本文学史的に新時代の語り手の地平を開いた必然であったと結論付けられる。若く美しい女性作家の話題性、メディア的消費、それによる芥川賞ブームは今にもまだ続く主流とすら思えるし、それは男性中心文学の延命策や商業性に留まらず、新しい語りの主体を誕生させ、描写される側だった少女たちの若さや体が言葉の自己所有や表現の回復を行う、文体や支店の革命として、女性中心文学の自立を促した。
つまり、表現され消費する側だった者たちが表現し消化する側に立つことで、利用されただけの存在が語りの構造を奪い返した出来事であり、彼女たちは今日から見てもメディア的には偶像にされたが、本人たちが意図しておらずとも言語的には奪還者だった。
事故や逸脱がしばしばのちの構造改革を引き起こすことは革命の日常茶飯事であって、それは文学においても変わらず普遍のものであり、三島由紀夫の美学の暴走、村上春樹の軽さの導入、そして綿矢・金原の“若さ”の登場、これらはすべて当初こそ異端や軽薄と見なされつつ、結果的に日本語の文学的可能性を拡張した現象となっていく。綿矢りさと金原ひとみは、文学がまだ“誰かの言葉で語られていた”時代を、“自分の身体で語り始めた”時代へと変えた起点となったといえる。
少女たちは自分たちの再定義へ。
男性が語る信頼が崩壊した世界で、
文学とは世界を「どう見るか」を定義する
「語る」とは世界を定義することであり、文学とは世界を「どう見るか」を定義する装置であったといえるし。家父長的構造においては、語る主体は男性であり、女性・子供・労働者・植民地民などは「語られる」存在だった。語りの独占は意味の独占であり、現実の構築権であり権力そのものだった。男性の言葉は世界を描いて定め、女性の言葉は情緒を語り揺らぐものとされてきたこの非対称性が文学の普遍性という名のもとに制度化されてきた節がある。
日本文学におけるそれは、戦後の弱者男性文学の骨格にも代表され、それがジェンダー文学の台頭で語る資格を失ったことでも触れたが、以下には、「誰が語るのか」という主体の変遷と、その変遷がなぜ正当性を持ち得たのか、そしてどこに傲慢や限界が生まれたのか、さらにそれが人類的な価値(human value)にどう接続するか、の主題が存在する。

20世紀後半~ポストモダンとして見るなら、60~70年代のフェミニズム運動、ポストコロニアル批評、民権運動が、上記のような語りの独占構造を可視化していき、それ以降、男性が語る普遍への信頼が崩壊する。文学的にも、ヘミングウェイ的な男の沈黙からトニ・モリスン的な沈黙からの語りへと移り、カミュ的な人間一般からジェイムズ・ボールドウィン的黒人という人間性へと移り、国内的に見ても夏目漱石的な知識人の自我から、綿矢りさや川上未映子的な身体からの思考が始まり、世界を語ることが特権ではなく回復の行為になっていく。これらのことにより文学性そのものが変質していく。
社会構造上抑圧されてきた主体が、自らの言葉で世界を語ることは解放の実践になり、文学は単なる表現ではなく、存在の再定義としての機能を始め、「語られない存在は、存在しないも同然」(スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』)を覆し、「語る存在の私を以って、私は存在していく」、この段階で文学は特権的語りの継承から、多声的語りの共存へと価値基準を転換していく。
このようにして、語りの多様化が進むにつれて、「女性だから書くことに価値がある」「マイノリティの表現は正しい」的な神話が生まれていく。「誰が語るのか」という主体にこそ価値があり、「どのように語るのか」あるいは「何を語るのか」にの倫理には未接続のままである、というのが文学の現状な気がするが、この辺りの話は少し長くなるので、②へ続くとして、
一応読書ブログとして、以下で綿矢りさの受賞作前後に触れつつ、②ではそうして日本文学や女性の語りを変えていった綿矢・金原の二人を日本文学がどのように活用し、2人はどのように自分の作家性を伸ばしていったのか。
初期三部作『インストール』『蹴りたい背中』『夢を与える』
綿谷りさは『インストール』でデビューし、『蹴りたい背中』で2004年芥川賞を受賞。
以降、映画化された作品もあり、若い世代の読者の間で青春の痛みの感覚を描く作家として一定読まれ、近年では恋愛小説の長編で文学賞を受賞していると著作列からは読めるが、その辺りは私は関与しづらいので何とも言えないが、中年以降の女性の恋愛は娯楽や魂なのかしら、くらい。
淡々とした独白体により感情の揺らぎを描き、葛藤を静かに露わにしていく文体は、際立った表現ではないが、背伸びでもない馴染み方が理知感を感じさせて読みやすいし、飾りすぎないことと剥き出しの感性が真骨頂に思うので、その計算も立つ。
若い頃の高校生の孤独や同級生との摩擦のようなテーマから、30代以降は恋愛・結婚・人生転機・自己意識など、女性的な人生の中での変化や自己の位置を問い直すテーマにシフトしてきているようで、この辺りは、この著者は自分の書ける範囲で書く賢さがある、と思った時2004年前後当時に私が認識した著者の特色と強みと相違ない。
デビューと芥川賞受賞付近の印象が強すぎるし、売れ過ぎたので、それと比べてしまうと常に落ち目や精彩を欠いた感が否めないが、その知名度は本物。そしてその後どのようなものを書いた実質で埋め、1986年生まれの著者が2025年現在39歳の女性として何を書いているのか、は一定の興味があるし、デビュー付近の衝撃や話題性を消化し、一般的には過去の人になった作家が、現代どのように受容され、その産声が海外へ渡ったのか否か、そしてそれらはなぜなのか、金原ひとみはどうなのか、の部分も以降何記事かに渡って追っていきたいと思う。
(2001)『インストール』
(2003)『蹴りたい背中』
(2007)『夢を与える』
(2010)『勝手にふるえてろ』
(2011)『かわいそうだね?』
(2012)『ひらいて』
『しょうがの味は熱い』
(2013)『憤死』おとな/トイレの懺悔室/憤死/人生ゲーム
『大地のゲーム』
(2015)『ウォークイン・クローゼット』
(2016)『手のひらの京』
(2017)『私をくいとめて』
『意識のリボン』岩盤浴にて/こたつのUFO/ベッドの上の手紙/履歴の無い女/履歴の無い妹 /怒りの漂白剤/声の無い誰か/意識のリボン
(2019)『生(き)のみ生のままで』上下巻
(2021)『オーラの発表会』
『あのころなにしてた?』
(2022)『嫌いなら呼ぶなよ』眼帯のミニーマウス/神田タ/嫌いなら呼ぶなよ/老は害で若も輩
(2023)『パッキパキ北京』
(2025)『激しく煌めく短い命』
デビュー作と2冊目はほぼリアルタイムで読んでおり、3作目のあらすじを知っていた当時から、等身大で自分から書ける範囲を書く頭のよさを感じていた上で、芥川賞受賞で社会現象にまでなって成功した自身をうかがわせる客観性主人公を建たせたうえで、その光と闇を描き、祭り上げられる成功の若年者が社会や他者にどのように消費されるのかを描くのかと思い相当期待したことも思い出す。自分がどのように周りから見られるのか、それを分かりながら、その上でどう振る舞い、書くのか、書けば効果的であるのかを認識するその成熟を思ったものだったし、上記で(成熟した知性からではなく若さの感性で書く)としたが、それは文芸潮流の上の話で、若者代表として書いた綿矢自身の精神年齢や早熟は相当のものがあった。例えばそれは宇佐見りんを引き合いに出しても思われるのだけど、宇佐見りんのデビュー作『かか』が20歳、芥川賞受賞『推し、燃ゆ』が21歳、『くるまの娘』が23歳なことを考えると、綿矢は17歳でデビュー作『インストール』、19歳で『蹴りたい背中』、23歳で『夢を与える』、それぞれを比較して作風や文体の相互家で考えてみても、やはり綿矢の早熟と、宇佐見りんの熱さと実直が分かりつつ幼さを感じたりもするほど、先輩綿矢の落ち着きを感じるので、この辺りは時代と言語教育や文化的なことにも関連してくるとは思うが、絶対的に若手女性作家として見た時の綿矢の作風や読後感は圧倒的に大人びていて理知的なことが分かる。
初期2作に感じる綿矢の特異点は、彼女の身体感覚的な文体・場面感覚・瞬間の空気の読解などにあり、感情の機微を切り取る観察眼や、生理的な共鳴力が挙げられると思うが、3冊目『夢を与える』では、個人の体感と観察を抜けて、他者や社会に消費される少女を主人公に据えて、社会構造や家庭環境、資本主義や芸能界等、概念的な主題を扱おうとスケールを上げたことにより、当時最も得意だった観察の瞬発力や切れを封じ込め、設計や思想的な構築という領域に踏み込んだことが挙げられる。
これは作家的成長の意欲と、作品スケールアップを狙った挑戦であるし、あらすじや構想段階ではそれは成功しており、どれほど面白いものが書かれたのかと楽しみに思わせたが、文章はそれについていかず、知的な構想が文学的整理を圧殺した。綿矢の知性は恐らく状況を把握し冷静に整理する方向に強く働き、劣等感や羞恥心など人物の内側に渦巻く感情の機微にも敏感でその言語化にもたけていたが、その個人を取り巻く環境や社会性にモチーフやテーマを拡張したことで、多くの特徴が活かされることがなくなったことで、構築された作家的知性と物語的知性の乖離により、著者的な文学的な温度や痛みは生まれなかったのかなと。知性と感性の早熟的結晶の才能が、3冊目にしてその脱皮を果たすスケールアップを強引に進めなければならなかったこと、が引き起こされた爆発的成功と期待値が悔やまれるのかなとも思う、急ぎすぎたのではないか。
著作列で見るかぎり、その後は恋愛小説や年相応の女性の人生テーマを書いているので、社会構造や大きな世界やテーマへの野心は一度で手放して自分の作風の模索を行ったのかなと思うし、3冊目の大事故がトラウマになったのかなとも思ったりした。この辺りはあと何冊か読んで確かめていきたい。
内面の極小化は純文学的な狭さと深さでいいと思うが、成熟と引き換えにスケールを失う結果に繋がったのだとしたら勿体ないことだなと思うし、一度の失敗で作風を決定づける必要もないのかなとは思うが、同なんだろう。個人的な成長や成熟の形を模索している証だとは思うが、挑戦や語りの倫理を手放してまで得る価値があるのかと言われると疑問。
それにしても19歳で芥川賞受賞、夢を与えるは2007年で23歳で書き上げた。年齢で考えれば老練、物凄く頭がいいし、すべて理性的に書いている。処女作にして、ネット時代の先取り・仮想の中で性別が武器、商売になることを知りつつ、2作目では、恋愛という虚構性の強さ、思春期の曖昧、等も使って虚構創作的にも、主人公年齢や世界を含めたスケールアップをさせる部分等、物凄く頭がいいし、完璧な初期三部作3冊目にして長編・芸能界光り輝く舞台、商品としての私と消費、その崩壊等を含め、あらすじや構想を見る限りに惚れ惚れするが、その期待が果たされることはなくて、10代の私はがっかりして著者の作品を読むことはやめた。あれは明らかに夢を見ていたし、夢が萎んで現実に落ち込み、意気を失った3作目のラストシーンに近かった。
『インストール』(短編・処女作)
処女作で文藝賞受賞作。初出は雑誌掲載、2001年発表。
不登校の女子高生が同じマンションの小学生男児の家の押入れにて、パソコンを使って風俗嬢になりすましてチャットをすることでお金を稼ぐ。ネット時代の入り口と大人の入り口が交錯する匿名性や虚偽・演技性を通して二人が見つめ直すそれぞれの居場所と現実、学校や家庭にそれぞれの問題を抱えながら、居場所の喪失と仮想空間による居場所獲得により、ネット空間を効果的に使いながら、匿名世界であるがゆえの自由と責任の欠如、或いは反転する自身の現実と価値が思われる、ネット黎明期と思春期的分裂や内省の合致が素晴らしかった。押入れ→パソコン→ネット空間といったモチーフにより現実世界から仮想空間へ繋がる図式と、異なる主体に成りすますことによる、意識の統合や分裂等、内的な思考の断片や感情の機微を直接的に切り取る短文的リズムとの相性も良かった印象。
著者は私の6歳上らしいので、ほぼリアルタイム、恐らく芥川賞受賞前後に読んだのだと思うが、すると私は13歳前後か、友達と貸し借りして読むくらいにはみんな読んでいた気がする。
『蹴りたい背中』(中編・芥川賞受賞作)
初出は文藝2003年秋号。同年下半期の第130回芥川龍之介賞を受賞(19歳で最年少受賞)
高校に入ったばかりのハツと、クラスで孤立したアイドルオタク男子のにな川の出会いと関わり、クラスに馴染めない者同士の寄せ集めから始まる小さなコミュニティ感、その中においても疎外と依存やすれ違いがあったりして、ここら辺にやはり著者の身体的感覚や距離感を含めた感情的機微の言語化が光っていたし、タイトルから思われる何とも言えない恋愛感情に収まるともいえない感覚を上手く描いた、とてもじゃないが綺麗な著者が描いたとは思えないのけ者同士の複雑な思い。この辺りは川上にも感じるので、小説を書く層の十代の難しさを感じたりもするか。恋愛や苛立ちの感じが上手かったし、川上の『すべて真夜中の恋人たち』よりもずっと恋愛小説だったし、『ヘブン』よりも馴染めない者同士の寄り合いを感じた気がする。この場合の文章の密度は内的な感情の密度で、思春期や十代のそれはもはや世界感の全てと言っていいし、その表現としても同様に感じる。
表面的な言語行為と非言語の身体的交感、社会的孤立や個人化の構造、友情や身体における若さゆえの欠如的なもの、刹那的なもの、でもせいいっぱいな部分、それにしても生理的に受け入れづらい行為や現象、友人、恋愛、それらの結晶的な意味の密度は完ぺきだった気がするが、十代のいつかに読んだ感想と、現在読む感想とでは勿論全く異なると思うのだけど、再読したい世界観かと言われると微妙だったので、今回は読まなかった。それくらい完結した世界と作品性、ケチのつけようはなかった気がする。
『夢を与える』(長編/300頁)
文藝2006年冬号掲載、2007年単行本刊行。のちにテレビドラマ化。
幼少期にチャイルドモデルデビューした少女・夕子は、ベビーチーズのcm年二回登場して全国民にその成長の様子を観察され温かく見守られ、高校入学をテレビの向こうの大勢に応援されるような国民的偶像として成長するも、実はずっと離婚の可能性の重低音を持つ家族関係の揺らぎ、学業との両立や目的化としての葛藤、決定的なスキャンダルによる挫折などを経験する。
テレビやメディアに晒される少女の心理を社会的文脈で描くことで、他者により消費される少女性を題材に、ある意味での監視体制の中で幼少期から育つ主人公は、まず一番近くの母親に見られ、友人たちに見られ、撮影現場や事務所の大人たちにも、実際にはあったこともない一般人たちにも見られ、品定めされ応援されながら成長していく。「夢を与える」という言葉の傲慢性を考えながら、夢や現実や実態などについて考えつつ、恋愛に溺れてみたり大人の言うことをきかなくなっていく。子どもの成長を巡る他者の欲望として、母親、父親、事務所関係者、ファンなど、多くの期待に晒され、期待された夢が主人公をどう規定し、或いはどう交錯していくか、そしてその夢は誰のもので誰のための何になるのか。
上で触れたように、文学的には綿矢・金原の出現は、描写・消費されてきた少女側が自身の言葉で語る、という部分を発端にしており、特に綿矢はその内面の機微を捉えて言語化する知性に長けているので適任かつ、芥川賞受賞により本も雑誌も売れに売れた後、大学生活を送りながら書き上げた受賞後一冊目という大事な作品の構想に、社会や他者により消費される偶像としてのアイドル・女優をモチーフに採った、下世話に言えば成功した少女の像は著者を重ねることも可能だし、芸能界の光と闇という虚構創作性もばっちり、今日的に言えば毒親過ぎる母親や性接待や整形などの要素としての毒は登場しないが、故に主人公が決定的な被害者だったからこそのゆがみなどは描かれず、透明な世界の中で透明な少女がどのような自我の経路をたどって自己形成をし、そのドラマが為されるのか、の直線上に、実は機微的な紆余曲折が存在せず、内的な激情もあまりない。
もちろん、家族は泥沼、両親は常に離婚寸前、父親は娘と同程度以下しか稼いでいないのに別宅にて十歳年上のフランス人を囲っているという謎設定、中学時代の初恋の相手の家では干物作りを手伝っていたゆーちゃんは、気づいたらダンサー集団のイケメンと遊び惚けて恋愛が全て状態になって誰の忠告も聞かなくなるが、その相手にも自分がどんな扱いを受けている現実を突きつけられるまでは受け入れられない。
学校、家族、芸能界といった仕組みの中で、主体がどのように摩耗し消費されるかを描く意味でも、『インストール』のネットと『夢を与える』のメディアという存在や名前や虚構性等の交錯でも関連していくし、それら現実と虚構や個人と社会的装置との合致や衝突も描く点で、著作間の類型も見て取れる。
個が社会的システムに呑み込まれる構造を直接的に描いた作品であり、その場合に誰が消費されるか、母親によって、家族によって、メディアによって、恋愛によって、誰が消費されるか、本人の夢を超えたところにある、無自覚的なシステムや力学の膜や構築、成功した若さの光と闇、自分でコントロールできない外部の力と速さ、得体の知れなさなど、個を超える資本主義や他人社会の中で翻弄される少女の姿が印象的。
消費される少女というモチーフの確立に成功するし、その場合に本作では綿矢は少女の内側からではなく、少女が生きる現実や構造そのものを描いていく。ここの所の筆致の不足や相性が本作の魅力の弱さのそのものの根幹になってくる。それを除けば、本作のスケールや構造感は、作家としての成長や作品性の拡張であることは間違いないので、そこが勿体なかった。
主体性の崩壊としてネットの匿名性や可視化される時代にあって、SNS時代のアイデンティティの不安を予告する構造を持つし、メディア的身体として自新の身体が他者に見られるための存在や、金銭と対価出来る価値として社会的に再構成される。夢を与えることの夢とは消費を生む力学としては、資本主義の装置、完全に他者による多義性のものであることが分かる。
私は今回読むまで、3冊目のあらすじを読んで期待しただけの記憶で止まっていたつもりが、実は既読で、今村夏子のあみこのように、つまらなかったから忘れていただけだったようだった。
自覚的で、頭のいい人が内側から書くのは上手かったが消費される透明な個人の中から見た絶望とかは下手だったのか、こんなに頭のいい人がこんなにつまらないものを書くんだ、という絶望、ラストシーンのつまらなさ、でも勿論1行目のつかみは毎回うまい、とても複雑な気分の当時を思い出しつつ、感想もあまり変わらなかった。
綿矢りさの魅力はその早熟さと自覚にあると思うし、それが消費される少女や自己というモチーフと結びついていたことにあったはずだが、三作目では社会的なスケールと構造を取り入れた上で、未熟で無自覚な少女が大人や芸能や資本主義に消費されることを書いた。どこまでも無自覚な無垢としての主人公は綿矢が描くには未熟で無自覚過ぎた、『インストール』『蹴りたい背中』と等身大の自分が書けるだけの精一杯の自覚と早熟さでそこを描き切る姿勢のまま三作目も書けていたら、恐らく結果は変わっていた、精いっぱいの自分でも消費されるのだ、という現実に打ちのめされることを恐れて、構造と構築の理知に逃げた、とするとだいぶ弱いのだけど、消費される対象として、自覚的で早熟な自分が消費されることはプライドが許さなかった、それが作家としてのプライドに届かなかった理由なのかなと思ってみたりした。
当時は、なぜこんなに頭がいい人がこんなにつまらないものを書くのか、という疑問だけが残って落胆したが、今は少しは考え方も変わったのかなと思えたら少し感じ入るところはあるし、やはりつまらない作品は存在するのだが、精いっぱい頑張った作家の跡は確実に残るし、それにしても頑張ったところで面白いものが書けるわけでもないこと、才能や出来栄えなど様々思う直した。
受賞作である2冊目があれほど売れなければ、こんなに急いだ3冊目で押し潰されることもなかっただろうし、3冊目の出来で終わった云々言われたり思われたりしても気にせずに、本当の作風はどんなものになったのかなとか、売れなずに爆発もしなかった場合の作家の彼女はそれはそれで成功だったのか否かとか。
夢を与えるというワードから考えれば、偶然や爆発にて成功した栄光だけでなく、昭和的に言えば絶望や落ちぶれてからの再起がこそ輝いて夢を与えるし、令和的に考えても気にせず淡々と継続してアップデートできる人が夢と信頼を勝ち取る気もする、その意味でその後の綿矢りさに興味を失った十代の私と違って、今の私のテーマは受賞作(がつまらなかったとしてもそれ)よりも面白い作品を著作列から探す、という幅を持った読書の仕方で楽しめているので、一度転んだ綿矢りさがその後何を書いたのか、恋人との18禁映像がネットに流れて芸能界人生が窮地に立たされたゆーちゃんが、本当はその後どうなったのか、そこで閉じてしまった夢と気持ちが、実はどうなったのかの余白に希望を見出すくらいには、作家の才能や価値を希望観測的に見ている節がある。

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