芥川賞で日本文学が読めるのか? 第三弾は、若干21歳で受賞した宇佐見りん。
私は過去記事で『推し、燃ゆ』を読んでいますが、推しという社会派テーマを扱ってなぜかこだわった発達障害が著者の最大モチーフかと思い、狭い範囲で書けた作品で受賞したのだ、と思い込んでいましたが、デビュー作と三作目を読むことでその想定はひっくり返る。
今回で著者が個人名で出版済みの作品は3作全部読み終わります。令和の最年少受賞者、今後が楽しみです。
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私が評価するタイプの作家性
受賞作の『推し、燃ゆ』は既読のため、今回はデビュー作『かか』から読んだ。
地の文章からして、どう考えても『推し~』よりも生真面目に書かれた文章は、ある意味で古めかしく、この印象は直近の今村でも既視感があり、『こちらあみ子』と同様に、デビュー作=文芸賞応募作なので、通用する形式以上に届くようにしっかりとした文章を書こうとする背伸びがあるはず。この部分は、日本の小説家のデビューの流れとして、一般人が文学賞に応募してから作家としての道が開ける、という従来文化が生む特徴なのかなと思えたりしました。海外のその流れはよくわかっていませんが、そう考えるとこの文化や形態って結構古めかしい感じもしますね、懸賞感というか。
1人で誰かに認められるかそわそわしながら始めた独創から、他者や社会に認められ始めたところから自分なりの特徴や特化を経て、その作家らしいものが見えてくる、書く自身にも見えてくる、読む読者にも見えてくる、という経過をデビューからやっと辿るわけですが。
ただ恐らく、どれ程の才能で若年でともてはやされても(逆に中年で様々な職歴を経た年齢から突如の小説家への転身と、前職の知見を活かしたもので一気に社会派になろうとも)自分にしか書けないもの、というのは結局特徴個性の特化と距離や筆致の問題でしかないのだと思うが、特に若い作家の場合は書き始めてから見えてくるものが多いだろうに、書き始めてからの成長性という面で見ると、小説家や創作の職業のその進展性って少し弱いのかなと。
このあたりは職業や業界の特徴でしかないし、まだただのイメージに過ぎないのですが、このブログの読者さんは私がそうした作家の成長性や進展性が好きなことをもう御存じかと思うので、過大評価・過小評価の点にも注意いただきたいのですが。
逆に私はデビュー作=才能や特徴個性のまま伸びずに、食いつぶすタイプの人は嫌いです。



19歳の叫び、文体の爆発『かか』
芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』(2020)が”推し”という現代的な社会派テーマへの着眼センスを見せたが、その素材を扱いながらも、なぜか発達障害というモチーフに寄ってしまったが為に作品性や価値性を欠いたと感じて疑問があったが、著者の最大モチーフや興味点であれば仕方ないかと思っていた。それが、デビュー作『かか』(2019)と三作目(2022)を読むことでその想定はひっくり返る。
地の文章から『推し、燃ゆ』よりも生真面目に書かれた文章は非常に古めかしく、視点人物(うーちゃん)がある人物(おまい)に語り掛ける文体と、その装飾に使われる”かか弁”=母親が使う言葉を自然と使っている視点人物=私=うーちゃんが主体となっている。この体現自体で本作が”かか”=母親テーマの作品であることが分かる。当初は選択性の飾り気のようにも感じたが、最後まで読めばこの世界感の濃さに一役以上に買っているこれらの特徴を持った文体は、標準語とは離れているので最初読みづらいが、内的な語りにおいて現れる文体の必然性によって本作を強靭に表現した力へと昇華していく。
ちなみに著者は1991年生まれで静岡県生まれ、神奈川県育ちということで、文体の地方感がすんなり受け入れられたのは私が中部生まれだからかもしれないし、『かか』でも『くるまの娘』でもさりげなく横浜の地名が出てきたりするのもなじみがあり、著者は想像以上に素直にこのあたりの選択をしており、表現において素直を隠さない、とお感じられる。
今村もデビュー作において、特に鍵括弧使用の台詞表現において広島生まれを活かした広島風の言葉遣いを取り入れていたが、その表層性とは大きく異なり効果的であったと比較できる。
19歳の浪人生のうーちゃんは、大好きな母親が父親の不倫による離婚を経て祖母のもとに身を寄せてから色々とおかしくなってしまい、悲しんでいる。という設定上のベースから作中プロットにおいての進展はあまり見せないが、その展開性の無さから受ける爆発力は圧巻の一言。ここは純文学性と言ってもいいかもしれない、厚さと深さをしっかりと感じさせてくれるし、肝となる特徴的な文体は中盤以降に筆致や特化され、深掘るということに成功した作品であることも感じさせてくる。
芥川賞受賞作家のデビュー作だとか、三冊目との関連点などを思索せずとも、本作一冊だけで見ても『かか』は充分以上によく出来た印象的な作品。これはデビューしますし、三島由紀夫賞も最年少で獲っちゃいますよ、そんな若年作家がストレートで芥川賞受賞しちゃうのも仕方ない。関わったみんなの英断は商業的というよりは適切。
うーちゃん=私
おまい=弟(みっくん)、
かか=二人の母親
ババ=かかの母親
二人の祖母、夕子ちゃん=かかの姉の娘
母親という普遍的モチーフを扱う狭さを十二分に描き切った作品の評価
個人的な話として、去年母親の病気があったため、死別とか母親の命に感じ入った時期がある為に、母と娘の問題とか母親の老いや命や人生といったモチーフに弱いという基盤が私にあるので、それだけで本作のアドバンテージがあって、まずテーマで来るものがある。
ただこれは、普遍的テーマやモチーフを素材採る時のありきたりな要素になるので、普遍的かつ古典的な閉塞感としての家族や母親という誰しも身近に感じて生きて暮らしてきたものを、その才能や感性や文章力でどのように描くのか?というところに、才能や実力の分かりやすい写し絵になる。
女性の人生、妊娠や出産、母と娘の関係の二世代は祖母を巻き込み、母子へと受け継がれて今と現実が思われる、その時々の悲しみと狭さの感情と隔てりのような普遍的かつ局地的なものが、結局は個人大衆から社会的な意味を持つ広さへ通じるし、テンプレや古典性に落ちない独自性や現代性も取り入れながら書ける著者からは、日本的な純文学性が持つ文学性をしっかりと感じることが出来た。直近の今村と比較して申し訳ないが、才能やセンスの違いをはっきりと感じた。その意味では最年少受賞という踊り文句の価値は必要、社会や業界はきちんとした冠を付けて売り出すべきだし守るべき、その判断は完全に正しい。
文学賞応募でこのレベルを書いて来る、普遍的なテーマでここまで書いて来る、圧倒的だった。
デビュー作の気概と圧倒
著作列はまだ少ない、どんなテーマモチーフでどこまで書いて、人生や作業で何を見て何を得て考えて書いていくのか、これからが楽しみだし、処女作が固く古臭くなる、その後自分なりの書き方をつけていく、という主題で今村と重ねて、発展的に書くつもりが、完全に単独主題で書かせてくれることにまず拍手。読書ブログを1.5年運用経過して、1冊で記事を書くことの難しさを最近感じますが、『かか』はその不安を綺麗に払拭してくれた。結果的に受賞作と3作目と関連して書いていますが、中核になるのは間違いなく本作。作家の才能と勢いと青さをきちんと感じさせてくれる処女作の魅力も十分。

本作の主題はとても古典的で、母子関係、母と娘或いはさらに祖母。
それを独自性で支えるのが、信仰的倫理や神仏モチーフの描写、輪廻的価値観と思考回路など。強靭さを持つことに成功しているし、その世界観は上滑りせずに濃密。宗教的な観念ほどは介入していかないので、一般感覚の読者も置いてけぼりを食らわず、不信がるほどにまで書き込まないのもバランス感覚に優れているなと感じる。どす黒い宗教観とかまでは書かれない。
そこに現代性を与えるのが、チャット・sns要素。綿矢りさはデビュー作『インストール』で押し入れのPCとエロチャットを小道具に、ネット用語の「落ちる」などを使ってそれらしく世界的な違和感、仮想空間の体感を提供してみせたが、それより本作は濃密。窪美澄もまたデビュー作『ふがいない僕は空を見た』にて、歳の差×コスプレというどぎつい性行為画像がネットで拡散されるも、頭が弱い女性主婦は年下学生の将来がネットに張り巡らされた蜘蛛の巣によって全世界にばらまかれた、常時が世界的な禍根となる時代の、浅はかさが現実的に拡大する影響力を考えた。

どちらもデビュー作にて、現代性を出す意識、今の自分だから書けるものを信じて、その感性の持ち込みを武器にしていたように思うが、本作のその使い方は最も濃密。
舞役役者のファンの集まりのような鍵付きタイムラインにて、時に雑談も混ざりながら流れる会話からは空気や雰囲気が見て取れる。ある時は女性ばかりのコミュニティにして初体験の年齢の話で加勢やブロック展開が起きたり、推しの歌舞伎役者の結婚と引退にてタイムラインが荒れている最中に自分の現実的な不幸を流し込む視点人物。即時の反流があるとうろたえるだとか、その嘘の中身だとか、人間性と社会性の現代における要素と表現に一定以上に成功しているし、違和感なく表現されている。
視点人物にとって切実な母親の人生や自分の人生と、他人の興味や思惑や人生が交錯し一体化して流れていくタイムラインの表現、その空気感と生まれる嘘や焦燥など、上手く描けているし、そこが落着に関連していく、この辺りの重さと軽さの巧妙が上手かった。
普通に書けば狭くなる娘と母と祖母の話、狭い範囲のテーマをここまで広げて、深めて、濃く書く、私の純文的なイメージにも相違ないのも良かったし、けれどバランス感覚、現代感覚、最後のあっさりとしたまとめ方、裁量が滞りなく素晴らしかったと思う。
デビュー作がこれ、背伸びもした、大事なテーマをしっかりかいた、その上で『推し、燃ゆ』はむしろ一般的安易に寄せたし、その装丁がピンクのあれだったのかと思うと、非常に理知的でしたたか。
処女作の濃密は序盤人生の濃密だとすれば、作家としての背伸びは作家になる為の突破、そしてそこから始まる二冊目以降、作家人生の本流の伸びや表現それ自体とは。
それ以外を書けない事態は、個人人生の知見の狭さと作家的才能や感性として要因は存在するから、その意味で二冊目『推し、燃ゆ』に自活的な変化を付けたこと、社会的なモチーフを材に採ったこと、それにしても現代性sns要素と推しなど、無理をしない等身大を使ったことは一冊目からも見て取れる、とても素直に書かれたものだと分かる。
ちなみに受賞作『推し、燃ゆ』の選評は?
164回/2020年下半期
小川洋子◎「本作に心を惹かれたのは、推しとの関係が単なる空想の世界に留まるのではなく、肉体の痛みとともに描かれている点だった。」「DVDの中で真幸は、大人になんかなりたくないピーターパンだった。その尖った靴の先で心臓を蹴り上げられた時、まず彼女の中に飛び込んできたのは、陶酔でも衝撃でも憧れでもなく、痛みだった。」「推しを通して自分の肉体を浄化しようともがく彼女の姿が、あまりにも切実だった。」
山田詠美◎「今回、出会った何人かの少女の中で、この〈あかりちゃん〉だけが、私にとって生きていた。確かな文学体験に裏打ちされた文章は、若い書き手にありがちな、雰囲気で誤魔化すところがみじんもない。」
平野敬一郎〇「推した。「けざやか」という古語を何となく思い出したが、文体は既に熟達しており、年齢的にも目を見張る才能で、綿矢りさ・金原ひとみ両氏の同時受賞時を想起した。しかし、正直に言うと、寄る辺なき実存の依存先という主題は、今更と言っていいほど新味がなく、「推し」を使った現代的な更新は極めて巧みだが、それは、うまく書けて当然なのではないかという気もする。」
堀江敏幸〇「バランスの崩れた身体を、最後の最後、自分の骨に見立てた綿棒をぶちまけ、それを拾いながら四つん這いで支えて先を生きようと決意する場面が鮮烈だ。鮮やかに決まりすぎていることに対する書き手のうしろめたさまで拾い上げたくなるような、得がたい結びだった。」
吉田修一●「残念ながら目新しさを感じないまま読み終えてしまった。文学の新人賞界隈でよく見かける少女というか、そもそも推しに依存して生きる人生の何がいけないのかが分からない。」
一回目の候補、ストレートで採っておりますね。
著作列
1999年5月16日生まれ
2019年『かか』(『文藝』2019年冬季号)
「三十一日」(文庫版のみ、書き下ろし)
2020年『推し、燃ゆ』(『文藝』2020年秋季号)
2022年『くるまの娘』(『文藝』2022年春季号)
デビュー19歳、21歳で芥川賞受賞、23歳『くるまの娘』、現在26歳のはず。
社会的に広く書く必要はない、主題の濃さ深さ強さ、そして表現力があればよい、と思わせるのは結構強い。その才能が、今後広く見て扱っていくのか、に注目は集まるが、とりあえず三冊目も自分の書ける範囲で書いた、その素直を感じるし、その素質で描いてもまた一冊書ける、結果それが及第点以上、というのが以下評価点。
最新作は2022年『くるまの娘』
前述の『かか』と今作『くるまの娘』は、どちらも家族の話で焦点になるのは母親、と思わせておいて、驚いたことに中盤以降本作では両親どちらも核になる濃さがあり、印象値で言えば今回は主に父親の展開の方が強力。暴力的な家父長制の話でもあり、そこから飛び出せる兄と、連れ出される弟と、車から降りることが出来ずにすみ着いてしまう娘の話だったし、ラストシーンは見事で圧巻。
その二人のもとに生まれた三人の兄妹の哀れが目立つし、その中で兄と弟に挟まれて唯一娘として最後までそして今後も一員でいる主人公の選択が目立つ。兄が一番最初に家族を出て行った、それに対する主人公の感慨。父親が、兄が背を越したら手が出せなくなった、というありがちながらも普遍的な家父長制の支配する世界、反発する良心の兄(今村の田中先輩も浮かぶ)、へらへら笑う弟に投げつける言葉と浮かぶ涙、主人公の怒り。中盤以降の熱さは鮮烈、そのまま落着まで運んで締める手際の良さと、ラストシーンの落とし方は三作続けているので定評。
正直中盤は、言語化が強すぎて、文芸虚構創作における表現性としてはデビュー作の『かか』の方が上だが、ラストシーンは『推し、燃ゆ』にも勝るとも劣らない表現力で優れていたし、きれいに落ちていてよかった。
この著者のテーマは発達障害よりもむしろ母親から繋がる世界に生まれ落ちた自分にとっての家族自体であり、『推し、燃ゆ』が、逆に母親や家族以外・社会性広いモチーフをとった結果とは前述した。母親とへその緒で繋がっているから世界の中で孤独ではない子供たちの私たち、家族・内側の話を書くことは才能があればできる。母親のへその緒は背骨、とすれば、家族から疎外され・母親が希薄な『推し、燃ゆ』は、故に背骨がない空虚な世界観とも。
家族の話を書かない、家族の中にいない主人公を唯一採用している『推し、燃ゆ』では、故にその空白加減、背骨の無さ、無関心で無関係な家族関係が、そこまでの空白を作る。と著者が書いたことが、それを認識しているしていないにかかわらず、濃密な家族モチーフをテーマに持つ作家なのだ、ということを明確に示していて、面白かった。非家族小説を書き、推しという中核を持った主人公を描いた二冊目が、むしろその空白と行間で家族がいかに大きな存在であるか、を暗に示す形になったのは面白いし、現時点でのこの作家の可愛らしさだと感じた。
父親と母親に対する目線の奥行きにも、単純に縋り付く弱さだけではなく、両親を守る側の自分の役割といった自主性があるのも多少独自性があるが、そこまで強く描かれてはいないか。弟を守るために父親に歯向かう怒りの強さなどもここを補強しており、守られるために親に寄生する形のみで描かれていない所に本作のテーマやタイトルの表現が費やされており、画一に落ちていない感は及第点。
口汚く家族をののしり、頻繁に手まで上げるらしい父親の描写は結構すさまじく、一作目『かか』が視点人物の独白と内的な要素の塗り固めによる慟哭であったとすれば、本作は自分なりに精一杯父親業を尽くしたのに家族や人生の現状に満足いかない男の慟哭となっているし、それに寄り添う娘の話となっている。アルコール依存で精神的におかしくなった妻を持ち、三人の子供を養うために仕事に邁進して勤めながら、”セツヤク”と称して車中泊させたり塾に通わせずに自身で子供に勉強を教えた結果、娘は難関私立高校に合格した自慢だったのに登校生活に不調を見せ、長男は家を出て行き、次男は自分に似ず弱い男に育った。自分の人生は何だったのか、という父性の管理的自己満足的側面に力を入れており、俺の人生の否定や徒労を返してくれ、と自己管理できなくなった長男には言えず、弟の弱さに向かい、勿論娘である視点人物にも向かうし、守るべき家族観というよりは管理すべき家族観と転換が悲しくもあり、やるせない。
この辺り、『かか』ではあくまで視点人物である娘の立場から見た家族以上の描き方はしておらず、故にその視点が強固濃密で、その独白や内面の展開が際立ったのだが、本作では視点人物から見た家族全体に視野が広がっており、その中核にある暴力的な父親に色々説明をさせているので、家族という単位と社会的や家族的な父親の役割や家父長制の重さやメンタルなど、テーマ性を多角的に広く描いた結果、その家族にどのように育まれた娘がどのように今後も寄り添っていくのか、という部分まで描けており、テーマと世界観の広さは獲得している。
ただ難を上げるとすれば、やはりその場合の描き方としての台詞や言語化が強すぎており、外側から描くよりも内側から叫ばせる場合における表現力の未達や采配の部分に不足を感じないでもないが、破綻まではいっていないし、今回も熱さや深さは健在。叫び、という意味では届いて来るものがあるので、本質は充分。面白かったです。
『かか』の視点人物は19歳の浪人生、『くるまの娘』は17歳の不登校気味の高校生、というあたりに思春期と不調、共に両親や家族に関する影響を感じる、弟や兄弟の存在感または役不足感(あくまで自分と親)、という類似性が見て取れるし、ある意味で私小説的な要素と感じさせる地名や連帯感もまた、著者が狙っている、いないに関わらず、私小説的な純文学的要素から脇へ逸れない正統は出ると感じられもする。
芥川賞で日本文学、読めるかもしれない
芥川賞で日本文学が読めるのか? の問いのアンサー、もうすでに2人目にして、読めるかもしれない、と思わせてくれた。
狭義の文学としての純文学、日本的なその狭さ熱さ深さ、今の私の稚拙なイメージ通りの作品を、とても現代的な年齢の才能が読ませてくれた、ということは、結構明るい現状なのではないかなと。
何度も繰り返すけれど、『かか』も『くるまの娘』も、どちらも親子や家庭をモチーフにしているので、とても狭く、書こうと思えばみながみな一作は誰しも創作が可能な普遍的なテーマのはずだが、その狭さと普遍性でここまで書ける、ここまで読ませる。狭いが、読ませる、広い世界観や社会性が好きな私にもこれほど面白かったと思わせる、この狭さの魅力が日本文学だと言われたら先が楽しみだし、この狭さで読ませる作家が広さを知り広さを採った時に何が書けて何が読めるのか、もとても楽しみ。
正直私は日本的な純文学って好きじゃない、と思ってきたし、どんなものが日本文学的なのかわからない、という気持ちで今回の企画をスタートさせているのだけど、狭い中で深く厚く激しく、でも退屈でもない、というドンピシャなイメージで、しかも古臭くない現代作家が書いてくれているものを読めて、とても幸先が良いスタート。一つ前の今村で落胆したのを、一気に盛り返してくれる力強さが嬉しいです。
十数年前の綿矢りさが作り出した芥川賞レースのイメージの真骨頂を継承したままで、ここまで書ける、こんなものが書ける、をしっかりと示してくれたロケットスタート、この先が非常に楽しみだと思いました。綿矢りさを上げも下げもしたくはないのですが、『インストール』と『蹴りたい背中』の合わせ技と『かか』と『くるまの娘』の合わせ技は、どちらも著者の本質とイメージを捉えたまま脇道に逸れずに違和感なしと感じさせてくれたけれど、綿矢の方のその後は読んでいないし、宇佐見に関してはここから書いてくれる、人の特徴と成長と進化を感じることが出来る作家の著作列、その人生の全てが感じられる意味で、やはり読書はいいものです。
企画スタートの段階で遡ったのは15年から25年くらい前までだったと思うので、それ以上も遡る気にもなるかもしれないなあ、くらいには文脈に興味が出てきた今回。とても良かったと思います。
次回、芥川賞企画4回目も1週間後の水曜に投稿予定。予習復習に、過去記事良ければ。

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