日本的な純文学における文学性とは、私の個人的なイメージは先週扱った宇佐見のような狭さと純度の慟哭やうじうじなのだし、世界文学的な意味でも広さと社会的な主題にあると思っているのだが、そこにくると小川洋子は文学なのか?
著者の得意とする文学性がいまいちよくわからなくて、恐らくファンタジックに描く多義性や自由の非画一や不穏に潜ませる非日常の創作性であったりするのかなと思うし、幻想文学と言われるような甘美な芸術的な、至極文芸的な要素だと思われるが、果たしてこれが文学だと言い切ることが個人的には少し難しくて、では私の、あるいは世界的な、文学、とは何か?
少なくとも、小川洋子の文学とは何か、鋭さも熱さもない、なんだか少し素敵な読み物である。
作家の本気や鮮烈さといったものとはむしろ無縁な、この作家の才能と魅力、そして文学性とは?
そして、現代文芸の純粋を、世俗的な私が読むことの矛盾と難度を感じた。
芥川賞企画4作家目、以前から何作か読んでいる小川洋子さんの芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』と最新短篇集『耳に棲むもの』を読みました。「芥川賞で日本文学が読めるのか?」今回は、日本文学とは?に問いが浮かびます。


芥川賞受賞作「妊娠カレンダー」
大学生の視点人物=わたしの姉が妊娠した。姉は妊婦になったが、彼女と義兄の間で妊娠に関連する会話を聞くことはないし、姉もわたしも子供が育っていることや子供が生まれた後の生活をイメージできない。やがてつわりが始まり、わたしはそんな姉を懸命に支えるが、同時にグレープフルーツジャムを作り続ける。義理兄は気弱、姉は昔から通っている精神科の先生のもとへ通院するのにおしゃれをして出かける。
わたしは姉の体の中の子供や幸福な妊娠のイメージが出来ず、染色体のイメージだけが鮮明な中、以前参加した環境セミナーのパンフレットに「防かび剤PWHは人間の染色体そのものを破壊する」と書いてあったことを思い出し、「PWHは、胎児の染色体も破壊するのかしら」と考える。バイト先のスーパーから大量のグレープフルーツを貰えたのをきっかけに、わたしはジャムを作り始める。
長期間に感じさせる強烈な姉のつわり期間中、わたしは姉の前で料理を作らない、食べないなどに気を使っていた。つわりが終わった姉は、むさぼるようにジャムを食べ、どんどん欲する。わたしは求められるままジャム作り続けながら「この中にPWHはどれくらい溶け込んでいるのかしら」とも考えている。
「変貌する妊婦観察日記」、或いは
「姉の腹の中の染色体の毒殺日記」の経過
本作が面白かったのはまず、妊娠や新生児誕生という本来であれば輝かしく幸福に包まれた期待感や歓迎ムードなどが一切存在しない視点人物の記述により形成されている点。内心を記述し続ける視点人物のわたしにも、精神病患者である姉の描写にも存在しないし、わたしが姉夫婦二人を見たときにもそんな会話は存在しないし赤ちゃんを迎える家庭環境の準備としてのベビーベッドとか服とか名前などの準備も感じない。
ただ淡々と腹が膨らんでつわりにさいなまれる姉の記述で進み、その姉を見て感じる妹の初歩的な科学的視点からの胎児=染色体のイメージだけが浮かぶ。そしてそれを脅かす可能性がある防かび剤、その可能性があるジャム、食べ続ける姉、作り続ける妹、そして陣痛が始まり出産日の病院にて、
わたしは破壊された赤ん坊に会いに行くため、新生児室に向かいました。
この記述の前に>かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がしました。
とあるので、姉の赤ちゃんは無事なのでしょうが、その上で上記のような記述は結構強烈。おそらく破壊された赤ん坊は妹のただのイメージであり、本作全ての記述のような妹の印象に過ぎない。ではその印象やイメージの意図するところ、心理状態、本作のテーマとは何か?
”わたし”は姉の妊娠を喜んでいたのか?
記述無し。本作はわたし=視点人物の記述で構成されているが、作中一度も「妊娠」「出産」「胎児」に対する喜びの表現は無し。逆に、妊娠によって姉の心身に変化があり、通常の生活を送ることが出来ず、それに寄り添うわたしの生活も変化を余儀なくされていること、そして姉を妊娠させた気弱な義兄への嫌悪感などの方が目立つ。
姉とわたしの生活に介入してきた「義兄」と「妊娠」への不信感や嫌悪感がそれとなく示される。
わたしは「おめでとう」と言いそびれてしまい、妊娠とは本当におめでたいことなのかとふと疑問に思うし、枇杷のシャーベットが食べたいと深夜に騒ぐ姉に対し、義兄は相変わらずおどおどした様子で「とにかく今日はもう眠ろう」などと言うだけでで、わたしはまた苛立つ。
わたしにとって義兄との出会いのシーンからして指を食いちぎってやりたかったし、歯科技工士である彼に最初に出会った日の妹の視点は以下。
白衣とマスクに包まれたこの貧弱な男が、姉と結婚するのだろうか
フルーツジャムによる胎児破壊の思惑
わたしは胎児を染色体として捉えており、その染色体をアメリカ産のグレープフルーツで破壊しようとするところも本作の面白みの2点目。
わたしのこの不可解な行動を紐解く時に、姉に対する嫌悪や妊娠に対する嫉妬などのジェンダー的な記述は本作には登場しない。ここが人間性としてのわたしを限定させないところにも注目。
女性作家の心情的視点を持つ小説の多くが、家族に対する個人的な感情や、性別特有の概念を持つ場合が多いが、本作や視点人物にはそうした人間性や温度を持った情動は記述の上では一切見られない。
わたしが妹ではなく弟の可能性はあるか?とふと思い、「妹」「姉妹」等の明確な記述を探そうと再読しようとしたが、予約があったので延長できずに図書館に返却していて闇の中。もし読まれる方がいたら、その点を確認しつつ私の代わりに確かめてほしいです。
あらゆる要素からわたし=妹だと思っていたが、明確な記述がなければわたし=弟である可能性もあり、姉にフルーツジャムを作ったり、スーパーのアルバイトをしたり、姉の食事を作ったり、胎児の毒殺を測るのは、=妹、という先入観を成り立たせていたのなら、それもまた文芸だと思ったが、恐らく妹という記述はあったのだろうな、無かったら面白いなと思った次第。
わたしはつわりに苦しみ、食事もままならず、食器や炊事の匂いすら嫌悪しはじめた姉のために、洗剤替えたり自分は外でご飯を食べたりと尽くしているので、姉のことを大切にするつもりはある様子。
代わりに、姉と一緒に体調を崩したり、不満を口にする姉におどおどしたりと、主体性がなく頼りにならない義兄の描写が目立つし、わたしの注目を表す記述は、つわり=姉に身体的かつ心理的不具合を起こす妊婦特有の時期にとても多くの文字数を費やしており、妊娠における姉への悪影響は、幸福な誕生への助走のイメージがないだけに、妊娠のデメリットにだけに注目しており、従来的な妊娠=絶対的幸福や礼賛のイメージは皆無。
それらは、おそらくわたしや姉の生活を変化させ、脅かし、変調させたもの、異物として捉えることが出来、それら「妊娠」や「義兄」を歓迎していないわたしの視点が見えてきます。
両親の記述もなし、姉とわたしは同居しており、その後義兄が追加された様子、そして今度は胎児。
精神的科に通院しているらしい姉、大学生だが通学の記述は見られずにアルバイトと家事をする記述が目立つわたし、生活感が有るようで無い日々の記述。姉は妊娠で心身がより不安定になり、わたしは出会いの時点から義兄に良い印象をもっていなかったことも明かされ、姉が義兄と結婚したことにも歓迎時の記述は皆無。そして今度は妊娠。
姉の心身やわたしたちの生活を変化させる義兄と胎児に対するわたしの嫌悪感は作中一貫しているが、激しくもなく温度もなく、自分の嫌悪感にも感情的ではなく、淡々と記述されるにとどまるところが一種の不穏で満ちており、そして最後は新生児室と破壊される胎児へたどりつくという倒錯が印象的に閉じているお話。
わたしからすれば妊娠は姉を苦しめるものであり、姉もまた幸せそうな言動を妹には見せませんが、精神病患者らしい様子も特に見受けられないので、このあたりはわたしの記述ミスであり、一般感覚からの乖離であるかとも思われ、それは義兄に対する嫌悪感にも、客観的なものではありえないことが、視点人物の一人称小説の面白みが隠れているとは言えるか。すくなくとも「妊娠」と「義兄」が嫌悪の対象で腫瘍のような認識はわたしの主観に過ぎないが、文芸文学はそれで成り立つ。
ただ、わたしから見た妊婦の様子は基本的には客観的な描写であり、妊娠というものが女性や妊婦にとって身体や人生にどれほどの影響力を持ち、かつ必然的で避けようがない変化や状態であるのか、そしてそれを誕生や家庭などの幸福的イメージが作られているからこそ肯定し渇望できる通過儀礼であるかの現実にも考えさせられる部分がある。
ただそれにしても、私は個人的には妊娠や出産に興味がないが、それにしてもここまで科学的に嫌悪的に妊娠や出産を扱う作品、というのはやはり奇異に感じたので、それほどに社会的や固定観念的に、妊娠出産という生産性が幸福なイメージで包まれていくことを強く実感した。
そのあたりで思い出したのは、芥川賞企画の一人目として読んだ村田紗耶香の『消滅世界』で、あちらも、性別や恋愛や家庭などの要素を経て、妊娠出産のモチーフも扱うが、扱い過ぎて広げ過ぎた挙句に、著者特有の飛躍的思考にいろいろついていっていない表現力が勿体なかったが、小川洋子はそこまで広げ過ぎる大胆さは魅せず、あくまでも「姉の妊娠の観察記述=妊娠カレンダー」の一点で描き切っている点は、古風であるし、本作が1994年の作品であることも手伝ったり、どちらにせよ両作とも現代に生きる現状の私に妊娠出産の強烈なテーマ表現を行ってくれたとは思わなかった。とても難しい、故に普遍的なテーマ主題であることも実感。

「義兄」「胎児」に追加して、
わたしの世界観では「食べ物」すら気持ちが悪い
本作では姉のつわり期間が長いので、その間の記述を中心として、食べ物に対する描写は基本的に嫌悪感や拒絶対象となっているようで、それもまた彼女たちの生活感や人間性を抜けさせている要因かもしれない。ただ、私が知っている小川洋子の着眼と描写力あれば、本作の中の嫌悪の対象である「義兄」「胎児」「食べ物」に対するその記述はもう少し強くても良かっただろうし、その意味で本作が濃厚さや威力でいまいち足りていないのは、まだ著者の実力や特化の方向が定まっていない時期ならではの、ありきたりさや特徴の弱さに凡している初期という感じもしました。
特にわたしがアルバイトしているスーパー店舗内において、以下のような記述があります。
ここにある物が全部、人間の食べる物だと思うと、恐ろしかった。食べ物を捜すためだけに、これだけの人数の人が集まっていることが不気味に思えた。
食べ物を探すために群がる、或いは目指す、或いは狩る、という行為の多くは生命力であり、妊娠や胎児もまた生命力や繁殖として、ひどく動物的な行為や状態であるが、それらの多くを拒絶し、嫌悪し、ただわたしと姉の平穏な生活という変化のなさのみを求めるわたしの視点は、時が止まった幼さと、そのまま進んだ先にある未来の何を求める計算も意図もないだろうことの、うすら寒さがある。そのわたしもまた、そうした人間活動や動物的活力を資する場合の働き口で給与労働を賄っており、姉の妊娠前の仕事の記述はありませんし、少なくとも現在は義兄の給与で大部分が賄われているであろう姉妹の生活を、例えばわたしはひとりだけでも姉と二人分を賄っていけたのか、それが幸福だと考えるのか、姉の幸福はどうなのか、姉はグレープフルーツジャムにどんな悪影響があると分かったうえでドカ食いをしていたのか。
防カビ剤があらわす、既存の身体を傷つける可能性がある方法で生産する科学的なやり方と、女性に妊娠と主産という生産性を求める社会や固定観念も被るし、傷つけてでも生産や消費し続ける資本主義や生産性の価値としての化学物質や妊娠を置くと、変化のない存続を望む形のわたしの視点は、姉との生活を健全と捉える現状維持を基盤にしており、存続していく生活と染色体を対比において、何が悪意で何が健全なのかもまた交差しつつ、生まれて生きて一喜一憂して生産し生殖し続ける人間や食事、の気持ち悪さと存在感を思わせるし、多く”わたし”はそれを理解できない。
生命に対する神秘とか不思議とかいうものではなく、ある意味科学実験的な、現代で言えば必達障害気味な視点人物による狂気的なsfやホラーの世界観とも読める本作は、女性的な嫉妬でもないし、純粋な研究対象となる、淡々とした文章ゆえの普遍性と違和感、ある意味で人間性を感じないから、文学的でないと感じるのかもしれない。
結局は何を読んでいるかは不明。ふわふわとして地に足がついていない世界観は健在。不穏で、ファンタジックで、人間がそこにいる感じはしないし、頭というより感性で書いている感じに作家の才能と幸福を感じたりもする。
受賞作はデビューから3年目の4作目。約20年前の本作から最新作の現在まで、彼女はその才能や感性の発表により、食べて、無数の創作をして生きてきたし、得てきた。その発表で誰かが喜び、お金を出し、歓迎され継続されていた証拠で、それはとても幸福なことだと思う。
ただ、私にとってこれが文学かもわからないし、文芸の完成度とかも正直よくわからなくて、私にとってはやはり『猫を抱いて象と泳ぐ』以上とは思えないが、あれが好きだった記憶は永遠で、つまりそれは読者的幸福であり、それは作家的生活を助ける。
まだまだその真価や文学性はよくわからないが、幸福な作家であり成功した才能であることが揺らがない、という存在がいるのは素晴らしいこと。
選評(第104回、1990年)
「完璧な病室」」(『海燕』1989年3月号)
「ダイヴィングプール」(『海燕』1989年12月号)
「冷めない紅茶」(『海燕』1990年5月号)
に続き、四回目の候補で受賞したことに。
ちなみに三回めの「冷めない紅茶」の選評から
大江健三郎■「せんさいな細部を素直にかさねる文章でひきつけられるが、小説のたくらみのかんどころまで淡彩であるために説得力に欠けてしまう。」
三浦哲郎△「清潔で透明な作風も印象的であった。」「けれども、死者との交歓を描いた部分に曖昧さが残り、そのために出来のいいエチュードだと思わざるをえなかった。惜しい作品である。」
丸山才一□「清新で哀れ深く、後味がいい。死者と生者の交流のし方がややこしくて、筋がわかりにくいといふ難はあるものの、この才能は属望するに足ると思った。」
河野多恵子■「この作者の持ちまえの見事な描写にも拘らず、創造しようとした妖しい世界が少々低迷している。」
黒井千次「死の世界に筆を突き入れ、透明な世界を細心に作り上げようと試みる姿勢に好感を抱いた。」
そして翌年「妊娠カレンダー」
河野多恵子〇「今度も文章がよかった。」「作者はこれまでに妖しい世界、あるいはエキセントリックな様相を手がけながら、そのたびに説得力が足りなかった。今度の作品も同じ傾向のものではあるけれども、展がりが備わった。」「受賞に価する作品だと思われる。」
黒井千次□「(引用者注:最後に絞られた「妊娠カレンダー」「踊ろう、マヤ」「七面鳥の森」の三篇は)いずれも一長一短の感があり、どれを選ぶかに苦慮した。」「妹の悪意が倫理によって裁ける性質のものではないだけに、作品はどこか透明な仄暗さを孕んでいる。そこに魅力があるのだが、同時に曖昧さの残るのも事実である。」「結局は、他の二篇に比して、「一短」を上まわる「一長」が窺えたので、授賞には素直に同意した。」
大江健三郎□「心理のこまやかな移りゆきを鋭くかつ柔らかに具象化できる人だ。」「妹は姉の陣痛への恐怖にうちのめされて、幼児期への退行にかさなる幻想世界にはいりこむ……そこを微妙な陰翳の濃淡で表現しえたのが、小川氏の作風の手柄。しかし骨格をなすプロットを揺らぎなく作って、現実的な手ごたえをしのばせる工夫が、今後の展開には必要だと思う。」
日野啓三「今回の候補作は、作品全体の密度が均質化して気持ちよく読めた。」「ごく普通のことの奥に、ぞっとする不安ないし恐怖を透視すること。それが作品の中だけの恐怖であっても、文学という営みの貴重な意味と考える。出産を含めてこれまで自然だったはずのことが自然ではなくなってきた時代の感触が、声高にではなく書かれていることに感心した。」
吉行淳之助「この作風を貫くためには、説明はいけない。いつも困らされたが、透明で鋭敏な文章は健在であり、そこを評価して○をつけた。この人は、一作書き終ると振り出しに戻り、あらためて苦しい旅をつづけるタイプのようで、そこが信用できるとおもった。」
耳に棲むもの
恐らく連作短編集。
補聴器セールスマンである父親をキーパーソンに、亡くなったあとの娘、思い出の缶、それが最終の挿絵となって終わる。悲しみや詩情性はあるが、だからといって何になっているかは不明。「今日は小鳥の日」がぞっとするし、「選鉱場とラッパ」の少年時代の土俗性や汗臭さは普遍性だし、娘の母親との出会いと思しき「踊りましょうよ」なども雰囲気はあるが、その辺りからタイトルも適当なのは個人的にはいただけない。補聴器セールスマンの父が生前関りがあった耳鼻科の先生や、父の耳たぶを触った男、骨カルテット等、耳に関するモチーフと、耳の中で鳴る、鳥のさえずりや鳴き声、鳥のモチーフ、の二つが交差する。
連作短編のどことない作為は悪くないし、不気味でファンタジックな世界観も及第点。
でもやはりこれが文学かと言われると、すでに成功した作家の肩の力を抜いた佳作という感じで、評価の軸に困る。進化していく力強さや尽くす筆力とかとは全く違う作家性だが、これはこれでファンがいることも、小川洋子が癒し系の系譜に属することで納得しようともするのだが、これでは基本的には作家の真価は見えてこないのが個人的には我慢できない。

「骨壺カルテット」
補聴器製造会社の営業部に勤めていた父親が亡くなった。納骨を明日に控えた日に、業務上の付き合いがあった耳鼻咽喉科医院の先生が訪ねてくる。
「お父様は実に立派な補聴器販売員でいらした。
~単に物を売るというのではなく、お一人お一人に本当に必要な音を届けておられた」
娘は幼い頃にその耳鼻咽喉科に通っており、治療が終わったあとにもらえるのど飴が嬉しかった。
「父は物静かな人でした。普段から耳をいたわって、大きな声を出さないようにしていました」
「補聴器を売る人間が騒々しくては、お話になりません」
「耳鳴りがひどかったのです」
「しかしそれを苦にされていたご様子はありません」
「はい。むしろ外から入ってくるより、内側で鳴っている方に耳を傾けている方が、心が落ち着いたようです」
「よくわかります。こんなわたくしでも一応は、数えきれない方々の耳の中を覗いてきましたから」
~「父が出張から帰ってくると、すぐにわかったんですよ」
「路地の向こうから、カバンの中の缶が、カラカラなるのが聞こえてくるんです」
「そうでした、お父さまはいつでも缶々を持ち歩いておられた」
「中身が何か尋ねても、教えてくれませんでした。
あちこちの旅先で拾った、名付けようのないささやかなものだ、と言ってはぐらかすばかりで」
「お守りのようなものだったのでしょう。長旅にはそういう何かが必要です」
「耳たぶにふれる」
収穫祭の会場、早泣き競争、優勝した男は祭りに不釣り合いなスーツにネクタイと業務トランク。
「人間が涙を流す代わりに、鳥たちは声を出すんでしょうか」
「お利口だな、君は。だから涙も、さえずりと同じくらいきれい、というわけだ」
~「物を売り歩くという仕事は移動、移動の連続でね。時々、くたびれてしまうんだ。
~だからかなあ、立ち寄った先でふと心に留まるものがあると、こうして拾って大事に缶にしまっている。~こんなふうに、忘れられたものたちと一緒に補聴器を売り歩いている。今晩も夜行列車に乗って、次の街へ移動だ」
「今日は小鳥の日」
小鳥ブローチの会、作業はまず小鳥の死骸を手に入れる所から始まります。
落葉にくるまり、平和な夢を見るように息絶えているシジュウカラもいれば、猛禽に食われ、羽根をむしり取られて血まみれになったスズメもいます。親に巣から突き落とされ、嘴から舌先をのぞかせているヤマガラ。ネズミか何かに腹を食われ、眼窩からミミズがはい出しているモズ。池の緑に横たわり、水草に全身をぐるぐる巻きにされたヒヨドリ。
~あなたのような方が補聴器を売ってくださるからこそ、私値は耳に残るさえずりをよみがえらせることができます。わたしたちがこうして一堂に会することができますのは、誰にも見向きもされず、打ち捨てられ、土に埋もれた小鳥ブローチを、掘り起こして缶に仕舞うあなたがいて下さるおかげです。クッキーの缶が鳴る時、ことりたちは地中深くに横たわっていた長い眠りから覚め、宙に解き放たれます。私たちはそれぞれに、もう二度と戻ってこないはずの自分の小鳥ブローチと再会しているのです。
「踊りましょうよ」
サービス付き高齢者向け住宅”ビレッジ・コクーン”で介護助手のアルバイトをしている大学生、お金持ちよりも大事な深遠を持ち、どんなお客さんに対しても平等に接し、プロとしての一流の腕を誇示しない謙虚な紳士=セールスマンさんの、偶然の出会いに見せかけた挨拶。ある日二人はボートに乗る。カルテットのみなさんや小エビたち、拒絶を知らない耳をお持ちです。
「選鉱場とラッパ」
わなげの景品のラッパが欲しかった少年は、母親が夫と離婚して二人で辿り着いた鉱山で住み込みで働く生活に守られていた。少年は窓から見える光を線で結び、自分なりの星座を作って遊び、社会科見学で行った貝類博物館で、ご自由にお吹き鳴らしてくださいと展示されていたほら貝を吹いたりして、魅せられていくが、祭りの三日目、最終日に、輪投げ屋のおばあさんと少年に起きた悲劇と丸めた五線紙の切れ端の行方、耳の中で鳴り聞こえるもの。
現時点での私の中の小川洋子
芥川賞企画の一環として、受賞作+最新短篇集を読んだ今回。
受賞作は、視点人物が男なのかどうか、もう一度読みたかったが、次に予約があったの江延長は出来ずに図書館に返却してしまった。シンプルなテキストに隠された著者の技巧は、一度軽く読むだけでは理解は難しいのかもしれないとは思ったが、一度目で与えてくる強烈さはやはりない。
視点人物が女性だと思わせておいて、女性作者がジェンダー的な従来性を覆す創作、というのは主題的ではあるが、その技術や凝ることの価値は、やはりテーマやモチーフ性によると思うし、文芸が何を表現するものなのか、の社会性が私はどうしても気になってしまう。新規性や生産性がないのであれば、個人的には面白い読書とは言えないかなとも。現実的には。
それらを考えたときに、私は文芸や虚構性を好むくせに、商業性や社会性も欲しがる、恐らく文学のシンプルや純粋性からは距離のある嗜好性を持ち、文学性と人類性を結びたがる志向があるため、ひどく世俗的であり、純粋に文芸性や文学性を楽しむには、広い世界を好きな心地が捨てられないので、そこで狭さやはっきりしなさに対する微妙な心地が残ってしまうのかなと。
でも創意は評価するはずで、文芸を含む創作性は時代とともに変化があるから、その辺りのわだかまりや変化と遍歴を認識したうえでの昇華や消化が私の読書や文芸筆致の目的なのかなとも思ったりしました。
文芸は現代にどのような役割を持ち、資本主義や貧困や暴力を含む現実的で現代的な人類的歴史の中で、どのような価値を命題として打ち出して独自的な貢献を果たしていけるのか。もしかしたら海外世界における日本文学や国内文芸の貢献と現状とは何か、にも関連するのではないかと。
著者の一般的な知名度からするに代表作は映画化もされ商業的に成功した『博士の愛した数式』だとは思うが、個人的に好きなのは『猫を抱いて象と泳ぐ』なのだが、海外にも読まれている文学の意味では『密やかな結晶』になるらしく、その辺りの現状はあまり納得いかない、今一歩抜けきらない感じがするのは、著者は魅力的なモチーフだけでも書けてしまえる作家であるし、すでに読まれている作家であるし、書くことの魅力も徒労も十分わかっている作家であるだろうし、その上でさらに強く高く長編や代表作を求め続ける狂気じみた晩年というもの求める熱烈な作家性みたいなものは感じない。
それは結構勿体ないと思うし、『密やかな結晶』にはその野心の熱さやアンバランスさがあった。単独ではそこまで評価もしていないが、挑戦する姿勢や青さがあった意味で、置きに行く短篇集や小さくまとめていく姿勢で2022年の本作以降も書いていたら、それは複雑だなと。
その意味で言うと、才能にも読者にも恵まれた上で、それでも求めて書き続ける強さの輝きがある、ということの難しさと希少さが思われる。
過去記事でも似たようなことを書いています。多く納得。
仮に『猫を抱いて象と泳ぐ』を未読でも、『掌に眠る舞台』と『耳に棲むもの』を読むだけでも一定以上の作家だと考えるでしょうが、『妊娠カレンダー』だけだときついかなとも。
結局は才能に胡坐をかいた作家、という印象は強まる。好きなんだけどな。

以下、おまけで著作列と受賞歴、既読品にマーカーしました。作家生活37年で39作の小説、うち私の既読は5冊なので、掴み切れないのも仕方がないと言うものか。次読むとすれば『海』『ことり』とかかな。
そして私は大抵の読書は、把握したくて読んでいるし、断言したくて考えていて、残したくて書いているから、まだずっと著者を把握も断言できずにいるが、残したいから、それも書いている。
なんだか可愛い表紙とタイトルも見つかるけど、エッセイとかかな
著作列
1988年「揚羽蝶が壊れる時」海燕新人文学賞
1989年『完璧な病室』
1990年『冷めない紅茶』
1991年『妊娠カレンダー』芥川賞
『余白の愛』
『シュガータイム』
1993年『アンジェリーナ』
1994年『密やかな結晶』
『薬指の標本』
1996年『刺繍する少女』
『やさしい訴え』
『ホテル・アイリス』
1998年『寡黙な死骸 みだらな弔い』
1998年『凍りついた香り』
2000年『沈黙博物館』
『偶然の祝福』
2001年『まぶた』
2002年『貴婦人Aの蘇生』
2003年『博士の愛した数式』読売文学賞、本屋大賞、日本数学会出版賞
2004年『ブラフマンの埋葬』泉鏡花文学賞
2006年『ミーナの行進』 谷崎潤一郎賞
『おとぎ話の忘れ物』
『海』
2007年『はじめての文学 小川洋子』
『夜明けの縁をさ迷う人々』
2009年『猫を抱いて象と泳ぐ』
2010年『原稿零枚日記』
2011年『人質の朗読会』
2012年『最果てアーケード』
『ことり』 芸術選奨文部科学大臣賞
2012年『いつも彼らはどこかに』
2015年『琥珀のまたたき』
2017年『不時着する流星たち』
2018年『口笛の上手な白雪姫』
2019年『小箱』 野間文芸賞
『約束された移動』
2022年『掌に眠る舞台』
2024年『耳に棲むもの』
2025年『サイレントシンガー』

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