芥川賞作家は、この時代に何を描くのか。
これもまた、現代においての本企画や該当作家に求められる問いかもしれない。
現代文芸に求められる癒し系要素、社会的な悲しみや禍根に対する文学や虚構性の癒しや祈りの要素、そこに結びつくところに生まれる魅力や威力、或いは平和や平凡について。
前回は、著者の芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』ほか1冊を扱いました。
今回は、2024年に本屋大賞2位に登った著者一般化作『水車小屋のネネ』。本作は単行本で484頁、18歳の姉と8歳の妹が家を出て二人暮らしをするところから始まる50年を描くために結構な厚みだが、その割にリーダビリティや威力の弱いこの本がなぜ売れたのか不思議でしたが、掲載は毎日新聞、2021年7月から翌年の同月までの新聞連載小説であったこと、の多くに合点。
基本的には「いい話だな」と読む人みんなが思う話、ではあるが、文学として考えるには、それ以上の何があるのか?という視点で読むことになってしまうし、私にとっての読書は「いい話だな」で終わるものではない。そして本作には10年単位の5章構成の中に2011年と2021年が含まれ、東日本大震災とコロナ禍の2つのモチーフが登場する。



本屋大賞2位の著者初長編『水車小屋のネネ』
良点1:8歳妹を抱えて生きる、
節約と労働が始まる18歳の姉の目線
被服の専門学校に進学する予定の18歳の姉・理佐は、ひとり親で自分たちを育ててくれた母親の様子が少しずつおかしくなっていたこと、8歳の妹・律をないがしろにしていることを感じつつもバイトに励んだりして深くは考えないようにしていたある日、入学金の未払いで進学の道が閉ざされ、その理由が母親の再婚相手の事業への先行投資だと知る。夜の公園で、家を閉め出された妹を発見する。自分たちをひとりで育ててくれた母親は今後は男に頼りたいのだと知る。その男に、自分たちに使ってくれるはずだった気持ちやお金を使っていくと決めたのだ、と知り、妹と二人で家を出ることを決める。
装丁は明るく優しさに溢れた印象で、中身にもイラストが添えられており、ほのぼのしい雰囲気も感じるのだが、序盤の設定と展開は結構不穏。毒親過ぎない控えめに描写される母親と婚約相手の男にそこまでの濃密はないが、働き始められる年齢の姉と児童虐待も思わせられる8歳の妹、という主人公たちの年齢設定がまず良い。
新聞の連載小説だから、でなければこんな長編で冗長な作品どう売れたのかなと疑問だったが、少しは納得と同時に、こういう話も読まれるのだから、やはり癒し系の現代渇望を感じる。
前回と今回と過去で5冊読んだ著者の全体的な感想で言うと、あまり思考的な強さや深さはないし、情動的な要素も控えめ、社会的なことを書きたい姿勢は感じるが、表面化された文章力だけを見ると基本値は低め、適切な文章を並みに書けはするが魅力威力ともにないので、文芸の仕事をしていることが不思議なくらいに筆力に疑問符。なぜ華々しい受賞歴があるのかが作品を読むたびに私には結構謎。
ただ現代的な労働逃避感覚や職場ストレス文学みたいな意味で、着眼キャッチ―の時代性と、それを表現モチーフに使う特異性は感じるが、それを武器に書く姿勢を歓迎するのは一般読者側で、文壇とか文学賞側がそのように評価奨励する理由がいまいちわからず、普遍的な文学性に届いているとも思わないし、ただ個人的にはまだ本質的や到達点的な作品を含めて著者を読めていない可能性もあるので、現状の結論に留まる。
ただ、筆致過ぎない文章と適切さ、意欲と着眼のところ、そのバランスかなと思えば、器用と継続を感じるし、そしてそれがエッセイとか商業性ばかりに逃げていないところ、少なくとも小説作品を重ね続けているところ、等は一応作家性と言えるのかもしれない。
主題やモチーフ選定を含めて現代文学の模索、という感じもする。純文学でもない、商業的成功も必要、でも文化的な雰囲気やお洒落さも必要、そういう現代小説に求められているものの多様さを感じるか。その意味で著者の、ふわふわした節点や個性は文芸の幅になるのかもしれない、とは思う。
ただ、私の理解が追い付く、著者の筆致が模索し続ける、その文学性は結局今後が示す。今はデビュー作の熱さで純文の門を出てからは、社会性の素材を手にしつつ癒し系にも手を出し、文芸の域に拡がっただけ、と思う。そして、著者を好きな層はそういう小説が読みたい、それでいい現代を感じる、だけで今はいいのかもしれない。
ただこの方向なら、もっと魅力の濃さは必要だし、癒し系の巨頭・青山美智子が目立つ。


良点2:10年単位の構成は日常と事件を数える
1章は1981年、二人が子供時代の姉・理佐の視点。
2章は1991年、妹の律を視点人物に、1章でお世話になった人の老衰や遺産相続が描かれる。
3章は2001年、視点人物がいれかわり、たまに縁の薄い人になったりして驚くが、姉妹の周囲に人が溢れていく過程は、2人が主体となって生きていく構築の人生が思われる、以降はその展開。
4章は2011年、東日本大震災の年の姉妹たち、48歳と38歳になっており、人生の中盤。
5章は2021年、2024年発表の本作の時間軸に近くなる、コロナ禍の様子がチラッと映る。
本作は10年単位で視点人物を変えて描いていく。
1章は、姉妹が住み込み的に働く蕎麦屋の魅力も節約生活の魅力も描かれず、つまりはその生活の彩も苦しみも描かれず、かといって姉妹が母親とその婚約者から逃げる理由となる毒親の描き方も薄い為、ちょっと微妙な感じがするが、描きすぎてもそれはそれで序盤が重くなりすぎるので、バランスや配慮としては悪くないとの見方も出来る。ただその代わりに姉妹の周囲に暮らす人物や人間関係が描かれた厚みが2章に活きてくる。妹の律、藤沢先生、園山さん、そして杉子さんなど印象的な人物が登場し、そのようにして本作は、姉妹とその周囲の人間模様を10年単位の長期期間で描いていく構造にて、人生の長さ短さ、人の温かみや繋がり、そして2011年の震災、2021年のコロナ禍を含めた時系列を描く。
序盤にて印象が強い登場人物の多くが女性、というのもどうかとは思うが、シスターフッドを感じないでもないし、記事が消えて悲しいけど『若葉荘での暮らし』にも関わる。蕎麦を打つ守さん、男手ひとつで娘を育てる寛美の父はあまり目立たない。
ここで思い出したのが、前回の記事で著者の芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』にてアラサーの節約生活として『派遣社員のあすみの家計簿』を並べたが、本作ではさらに若い年齢で節約生活や貧困を描く意味で『神さまが待っている』にも関わるかなと思わせておいて、そういう貧困性はほとんど感じられないつくりをしていて、そこはファンタジックに濁されており、このあたりも文学を目指していないし、かといって実用性というか現実性を楽しむ要素からも逸脱していて、非現実性が至極目立つ。
18歳で高校を卒業したばかりの姉が8歳の妹を養いながら暮らしていくその先50年の話、を現実的に描けば重く暗くなりそうだが、本作ではその姉妹を囲む人々の多くの善意と偶然の処遇により成り立つので、そこに生まれる人の温かさや出会いや感謝に焦点を当てる作りにより、社会性や不遇や不運などといったリアリティは存在しないから、安心して優しい世界を嗜める。
人と人の繋がり、親や姉妹との関係や共生、職場や恩人等といった人間関係は基本的に、何も賭けておらずとも満ちている優しい世界の虚構性をどう受け止めるか、により全体の感想は異なるか。ただ本作は後半に続く、人々が傷つき不安に満ちていた時代を描き、その禍根が育んだ土壌を持つ現代人に贈られたものなので、無条件で受け入れられる理知感の恩恵を狙えている、と言えばそうなのだろうと納得はする。

ただ、3章は、親や家族の問題で職業上の夢や進学を諦めざるを得なかった男女の邂逅が焦点。どんな親の元に生まれ、家族がどんな境遇や言動を経過するか、そしてその際に他の家族がどのような対応や態度をとるかで左右されてしまう広義の子供たちへの影響、そして自活する子供自身の生存や期待について。
その要素だけで見ると3章は『空飛ぶ広報室』を思わせるが、あちらは恋愛や信頼ドラマが明確に描けているが、本作は生涯上の共通点と共感だけで恋愛パートナーになる、という狭さと共感性の弱さは考え物かなと個人的には思うし、この部分でも著者のドラマの描き方の不足を感じる。
ただその孤独と、縒り合わせることの出来なかった従来が非共感性にあったと言うならば仕方ないけれども、であるとすればそこでは人と人との繋がりを軽視していて、本作のメインの温かさがそこだけ不在になり違和感。
どう考えても本作は人物間の親愛や助け合いを、そして親子間以外の要素で語る部分に肝があるのに、その部分が描けておらず自然偶発的な発露に納得するしかない展開は個人的には気持ちは乗らないが、それら人間心理や助け合いが勝手に自然に都合よく生まれて編まれていくのは、もしかしたら合理性や解決とかとは全く別の、癒し系や肯定系の究極だし、やはりそれが受け入れられるだけ現代人が疲れていて、色々な現代性の影響や不安があるのかもなと心配になった。合理的でも情動の積み重ねでもない信頼や共鳴に、本質的な価値がないと個人的には考えてしまうが、現代文芸の売れ筋である癒し系について思考が深まりそうかなとは思う。
幼い頃から学校行きながら図書館通いやアルバイトをする今日で勤勉な妹・律は、正社員で働きながら朝夜にネネの世話をするなどという柔軟さや時間の使い方の後、結局なぜかいつの間にか労働の波に飲み込まれて余裕がなくなる描写も雑で、基本的に本作の描写や描き方はそんな感じで、細部も弱いし強度も足らない。

良点3:人と人とのつながりが歓迎され強調された
震災とコロナ禍の記憶
正直、途中、中弛みもあるのだが、人と人の繋がりの中で生きる、誰かを助けることが出来る、誰かに助けられて守られて、出会って寄り添い合って暮らす、ということが主体の本作の振り切り方と、幼少期から始まる妹・律が2章以降の主要人物になる構成は良い。姉と夫は奥へ引っ込みつつ安定感と優しさを醸し、当初中学生だった研司との出会い、小学生時代からの幼馴染の寛美と震災、改築したカフェとそば粉、ヨウム動画とコロナ、などと転換していくし、最後はうっすい登場人物たる美咲から見た大人になった研司の家族をメインにしていて、他の登場人物の存命や触れられない浪子さんや藤沢先生とかはもう他界しているのかなと思わせつつ、主要人物中は律だけが登場する構成もまずまず。最後は上手くまとまっていたと思う。
人との繋がりをメインにして、蕎麦屋の魅力も、水車の魅力や動力も、18歳と8歳の節約生活も、節約進学も、果物商社も陶器の商社も手芸やの副部門長?もあまりはっきりしないし、やはり全体的に素材を扱えているとは思わず、基本的に人との繋がりのみを描いて、密度としては弱いし、480頁以上かけてこれは薄いよなあと思わせるのだが、そこは現代文芸の癒し系分類で芥川賞作家が初の長編を書いた、という価値くらいか。そしてその癒し系の風潮は、本作が扱った以下のような社会的背景があったからこそのものだとも感じる調和はある。
本作は東日本大震災とコロナ禍という二つの社会的出来事をもうっすらと扱っていて、その素材の扱いも、やはりほかの要素と同様ひどくうっすらしか描かれていないし扱えてもいないが、例えば震災について私は有川浩や辻村深月のそれぞれの作品で触れたが、作家が自分過ごす時代に起きた事象について、リアルタイムに近い創作系列で、自分なりに表現して形にしていくことは歓迎するし、そのようにして自己消化し、昇華した上で他者に手渡していく、という作業はひどく作家的で、虚構創作における一つの重要な工程で目的だと思うので、意欲は買う。
ただどれも本質的に扱えているとは思えないので、また別枠として、その辺りの社会的素材を主題的に上手く扱えている作品は当たりたい。
ではアメリカ人にとって、では『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は上手く扱えているのか、映画『アメリカン・スナイパー』はどうなのかと考えると、重く苦しいモチーフやテーマであればあるほど、その扱い方は慎重を極め、えてしてその際に創作性を緩めることが作家の自己防衛に繋がるのもわかるが、ならばなぜその素材を手に取る覚悟はあったのかを感じられなければ、主題性は置き去りにされる。マスターピースを創作しうる作家性、というのはやはり現代作家が目指すべきものだし、歓迎や評価すべきものだが、その威を威のままただ飾るだけに文学性も創作性も宿らない。


良点4:成長する、老いていく、
共に生きる人らを見つめる40年の目線
人との繋がり、それにより助け合い生かされている、というほんのりした主題だけであれば微妙だなあで終わったが、10年単位で5シーンを扱うので、8歳だった律が最終章では48歳となって登場するのだが、スタートで一番幼かった律が現代寿命折り返しの50歳前後ということは、当初大人だった周囲の人たちはさらに老いたり亡くなっていく悲しみと、後に律の年下として現れる者たちもみな年を重ねて成長していく力強さを感じる本作。
その人生の厚み、老いて、成長して、死んでいく、人生の体感も表現しきれているかは微妙なところではあるが、個人的に母親世代や祖母世代の加齢や老衰に敏感なので、ここは来るものがあるし、親切にしてもらった理佐と律が浪子さんや守さんを最後まで大事にする姿勢も良い。律が子供のころ大人に感じた藤沢先生が作中一番光っていたと個人的には感じ、帯に採用されていた「誰かに親切にしなきゃ、人生は長く退屈なものですよ」の、大事なテーマであるのに密度の無い言葉が、ほんとに本作全体を表している皮肉だなと今も思う。本作そのままでしかないこのセリフを恥ずかしげもなく帯に採用する絶妙なセンスが誰のものなのかは気になる。
毎回10年以上前の読書記憶で申し訳ないのだけれど、虚構創作における人生の厚みで思い出すのは、芥川賞企画のスタート記事で触れた青山七恵の『めぐり糸』で、ただページを重ねる、虚構人物に年を取らせる、その文章を羅列するだけでは得られない、長い人生と物語の経過を感じさせる表現の魅力は確かにあるはずだが、本作にはそれはことさらには感じなかった。

この時系列の厚みという構成はとても良いのに、活かしきれていない感じがするのは、結局はこの作家の表現力であるし、筆致主体の主題の根幹をそこまで見出しきれていないからではないかと思うし、それは前回読んだ『ポトスライムの舟』『サキの忘れ物』でも感じたが、自分がこれぞと思う主題や対象を見つけられないか、見つけてもどう書けばいいかわからない、作家性の不在を感じたりもする。筆致は間違いなく足りないし、書かないのではなく書けないのだと感じるが、少なくともデビュー作の『君は永遠にそいつらより若い』にあった執着の熱さとしての作家性は本物だと私は感じていた。
ただその深掘りや筆致を失っても、今回で言えば長編の長丁場や全体の構成を意識しながら書き切ることへの集中があったからこその作家的な躍進であり成長だから、今後の書き方に慣れたうえで、何を材に何に熱心に執着して書く今後が見物だ、とは思う。
良点5:人生の中盤、副業と本業のまなざし
助け合いと貢献の調和
「誰かに親切にしなきゃ、人生は長く退屈なものですよ」
本文・抜粋帯
その柔らかい言葉と裏腹に、藤沢先生は教師をしながら、学習困難家庭や生徒への支援などを並行して行ったり、私財を投じて子供の進学を手助けしたりと、作中一番の強靭さを陰で行っているのだけど、そこもふんわりとしか描かれない。律も、2度の正社員転職を経て、いつしか元の職場のパートタイマーとして14時を定時上りと、蕎麦屋を改装した2階で開いた自習室との掛け持ちという、セミリタイア+個人事業、みたいなことをしていてて、38歳の数年前から経済的なことや経験を踏まえて、1度目の仕事が落ち着いたら副業や本業を始める、ということも全体的に描かれている。この辺りにも藤沢先生の価値観として、40も近くなれば人助けに行きたくなる、という社会貢献的調和が満ちている部分。
姉の理佐も、蕎麦屋と水車小屋を28歳頃退職して、本来の希望の被服へ移るし、義兄の悟も清掃+水車小屋+季節農業という掛け持ち労働形態から、語学や経験を買われてNPOへ移る。
長い人生の使い方として、序盤は生活経済基盤→本質的な解放へ、という長い人生の働き方や暮らし方等の要素も、個人的には興味深いし、著者の労働や職場と体感等のモチーフは主題や興味関心だと思うし、それを人生の広い視点で見る価値観も必要な視座だとも思うが、ここもやはり深くは描かれない。
着眼は興味深いのに毎回深くは描かれない、ということがこの著者では常に起こる。プロットやあらすじ以上の魅力を本文や読後からは得られない消化不良の感を、まさか私だけが感じているわけもないだろうし、愛読者の方はこの書きすぎないふんわりや行間を読め的な膨らまし方を楽しむのが文芸だと思えるのだろうか? 設定だけならAIでも事足りる時代に、人が紡ぐ物語の魅力は文芸においてはつまるところ文章に落とす最前線だと思うし、それを受け取る私たちの中に明確に広がる筆致だと思うのだが、やはり私たちは見えない行間を自己の中で拡げ続けるしか余地がないのだろうか。


個人的には藤沢先生のピリッとした言葉の要素として以下の部分の方が光っていた。
周囲の大人が守ってくれる安心と信頼、それを親から受け取ることが出来なかった姉妹を守った周囲の人間関係を獲得していく40年間の始まりを告げる場面は、親との決別の場面。
「この子は今年の4月から短大の行く予定だったんだㇲけれども、3月に私がうっかり入学金の振り込みを忘れてしまって、そのことで怒って家を出たんです。でももっとちゃんと頼んでくれてたら私だってなんとかしてたでしょうし、本当はたいして行きたくもなかったのに、私のやることにとにかく不満があったからそれを口実に家出したんだと思います」
p161
「妹を連れていったのは、本当に我々に対する当てつけですよ」
母親とその婚約者の話を、藤沢先生は表情のない顔で黙ってうなずいて聞く。理佐は青い顔をして、2人の言い訳を耳に泥が入ってきたような気分で聞き流していた。
「子供が親に学校の入学金を振り込んでくれと<もっとちゃんと頼む>とは、具体的に何をすることだったんでしょか?」
頭を下げて泣いてたのむとか? と藤沢先生は少し間を置いて続ける
あとは音楽や映画モチーフのばらまきも印象的だが密度は薄めていて、あくまで飾りや密度の無さのカモフラージュ、おしゃれ雰囲気添えな感じは否めないが、特に音楽は、婦人会のコーラス・寛美の発表会・クリスマスの演奏会、と場面切り展開の要所に登場するし基本的にネネが歌が好き、というモチーフが本作にユニークさをプラスしている。
あまり言及できずに来たが、タイトルに入っているネネが本作の可愛らしさや平和の象徴であり、人と人を繋ぎ、幾多の人の救済や回復の場所としての水車小屋での仕事を作り出していたことは揺るぎようがないが、それがそれ以上の何かになっているとも思えず、特に言うことはない。中盤以降の飛行シーンの自由さは、序盤の閉塞から解き放たれた幸福には思う。
この作家の主題と生命力、根本の違い
以上、良点は数えると結構あり、要素としては複数集めてきていて、やはり著者は着眼は良いし、それに加えて本作では長編の構成力や時系列を使った厚みの出し方も得たが、なのになぜ色々まだまだだと感じるし、何より著者自身が、これを書きたいという情熱は本当にどこかにあるのか、やはり疑問。
けれども、芥川賞作家としての重みや深さは無くしたうえで、一般的にそこまで悪くなく挑戦的な長編を構成しきった作品が商業的にも歓迎され広く読まれた実績を作った、というのは悪くないが、コロナ禍や東日本大震災を扱って、描けるのがこれ、描きたかったはこれ、そして受け入れられ方として「なんかいい話を読んだ」程度なのは、どうなのか、とはやはり思う。
商業文芸としても威力は控えめだし、文学としても威力や貢献はあったのだろうかと数年後思って、どうなのかという疑問は残るが、あの時「ネネ」を書いた経験が「ここ」に生きたね、というような作品を後年ものにしてくれたら、すべてが布石なので、それを願う。
前回の芥川賞受賞作を読んだ津村記久子①を投稿してから色々見て回ると、特に著者の退職前後をまとめてある『ポトスライムの舟』は、労働者にとっての癒し系小説なのだ、現代ストレス=職場逃避文学という位置づけに至り、それは一定の価値があるし、現代文芸の癒し系と同じ系譜である、と認識。
では本作はその著者の何カテゴリーの癒し系なのだろうと考えると、毒親と貧困、震災とコロナ禍の癒し系、つまり時代に合っている選択が出来る作家性、ということかなとも思えた。
それで見るとデビュー作は性暴力に対する癒し系ということになり、ではやはりこの捉え方では軽薄だなと感じ、このカテゴライズに限界を感じるなどした。ただ今作でも、さまざまな着眼素材を集めてくることは出来ており、ただそれが曖昧にしか描けておらず、筆致よりは調和を目指した浅薄な印象が拭えないので、作家的深度や強度が無くても売れるけど、読後感が残るかどうかは別の話で、これで満足する読者像をこそ考えてしまった。つまりそれほど受け手に強いストレスや不信感、不安定なメンタルや価値観があるからこそ、この優しい暖かさが受けるのか、と思えば、それは確かに現代の文学なのかもしれないと思うなど。1978年生まれ、まだ若い、意欲はある、軽薄や浅薄を埋めるには数を書くよりある気はするが、自覚があるか、興味がどこを向いているかが問題。あと何作か読んでもいいが、基本的な文学観とか筆致や能動性の部分で、自分とは確実に違う人だな、と感じる。
でもこういうやんわりと傷つけない言動が出来る人が癒し系だとも思うし、私はそれとは違う人種だ、とも人生何度目かに思う。
例えば私は才能で書けてしまう作家として小川洋子の記事で「小川洋子の魅力はまずモチーフ選びにあるし、豊かなそれを例えば実写化するよりも素敵に仕上がる文章で書きあげる所で、ああ、いい小説家だなあと思う。どう足掻いても実写の映像では作り上げられない魅惑的な世界がそこにはあって、~~」などと書いたことがあるが、そういう文章の魅力とか、つまり小説家としての魅力や才能の輝きみたいなものは著者には一切感じない。小手先の頑張り屋さん、という感じがする、そういう作家性を芥川賞作家として送り出し、求め続ける、というのは現代の文学観の迷走な気もするし、著者は恐らく直木賞系の作家だったのではないかと思うが、それは本人の責任ではないので、自分なりの創作を続けてもらえばいいのだが、文学だと思ったら文芸の類だったことで落胆する10代の私みたいなタイプの出会いがないといいなと思うし、多様を認める意味で私の読み方も変化があるから、誰かの書き方も、現代の文学観や文芸に求められることにも変化はあるべきで、あっても仕方がないし、変わり続ける状況を決定づけていく展望を描く作家性なら私はどれも応援したい。




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