主体的な行為や誠意をいかに排除するかで成り立つ娯楽性を発達させていく商業の中では、受動性の易きに流れる消費者を取り込むように、提供側は主体性の根本を減らしてきた。文章を読むということの主体性にある労力が、受動性に特化してきた現代の他の娯楽に勝てないように出来ている。より受け取り易く、より分かり易く、より楽しみやすく。疲れている現代の心身や脳に自ら労働を強いる行動は起こす気にはなれない。
思考を空っぽにしたい日々が続く。業務、対人関係、疲労やストレス、頑張らなければいけない日々、五日働いてやっと二日休みがあったりなかったりする。何も考えずに流し観る動画、簡単な操作で音が鳴ってレベルが上がる可愛らしいスマホゲームのほうが分かり易い、そんな虚無の中に暮らしている。自分が読むより、他人を消費するほうが容易い。
労働時間を増やさなければ給与が増えない、生活が苦しい、貯金が出来ない、働くしかないし、さらにお金を得るには副業もしなければならない。そんな過密な現代において、労働や給料に繋がらない時間の無価値。さらにそこに労力を使いたくはない。
受動であれば嗜むことが出来る膨大な動画や音楽たちは、どんな価値があり、どんな栄養があり、快楽があり麻薬があるのか。文章を読むという原始的な受け手の行為、その労力を経て得る虚構創作の旨味、現代小説の意義とは。
「お探しは図書室まで」青山美智子
正社員として就職出来たからと、パート従業員との業務内容の差もよくわからないデパートの婦人服売り場の女子社員は東京に暮らし続けたいだけで何か夢があるわけでもない、業務が大変なわけでもないのに食生活も部屋の掃除も曖昧で、自分や人生を大事にできていないと感じ始める。
頑張ってきた雑誌編集者が出産を機に資料部に異動させられて業務内容は楽になるが、遣り甲斐もない場所ですら時間のやりくりに苦心し、夫がいるのに自分一人が家事や育児をさせられて仕事を諦めた感覚になり、子供に当たりはしないまでも罪悪感を持つようになる女性編集者。
生活の為に会社員をしているが、本当はアンティーク雑貨店をやりたい会社員、十歳年下の彼女は週三日のアルバイトをしながら趣味のハンドメイド製品を自製のホームページで販売していて、月間の目標金額に喜んだりしているが、自分は生活の為に仕事を続けなければいけない。
仕事と遣り甲斐、仕事と人生、仕事と趣味、仕事と幸せ。そんなものに迷う彼らは、小学校に隣接するコミュニティハウスの一角にある図書室にふと迷い込む。そこで働く司書のすみれさんは、単純な毎日だけでもいっぱいいっぱいな彼らと、少し話しただけで適した実用的な何冊かと、一見関連がなさそうに思えるあと1冊をピックアップして目録として渡す。
付録で彼女の趣味のフェルト作りのマスコットもくれる。これは個人的にはあまりピンとこないし、業務時間内に趣味の裁縫をしているって微妙過ぎるだろうと思うので割愛。しかし装丁にはそれらが載っているので可愛らしくはあるし、最終話でカニのモチーフだけはテーマに上手くかかわってくるし、バッグにピン止めされているのを見つけた時の父親の心地が可愛かったのでそれでフィクション的には丸く収めることが出来た小道具に昇華されている。テーマ的には、すみれさんが渡す本やマスコットが特別なのではなく、そこに何かを見出したあなたが特別なのだ、に繋がるのかもしれないがそれは安易すぎる気もする。ここも結局は作り込みが足らない。
のび太君が助けを求めると適した秘密道具を出してくれるドラえもんのように、彼女は彼らに適切な道しるべや癒しとしての本をリストアップしてくれる。彼らが語ることのない部分まで見透かしてのその作業はフィクション的だなと思うし、多くの人物造形も浅ければ勿論文章も弱いので、するする読めるし厚みも奥行きも足りない。
けれど、現実でいっぱいになっている誰かに贈る適切な一冊を与えてくれる司書、という虚構性は何よりも魅力的な現実性として響く。特効薬としての一冊を処方してくれる彼女はまさに現代人にとっての女神だろう。最短で、効率的に、それぞれに合った一冊を教えてくれる。日々を生きている自分の現状を癒し、打破してくれる、自分に最適に響き、最適化してくれる本の処方をしてもらえたなら、現代における小説ももう少しは魅力的に響くだろうし、その薬を生産する側も分かり易く作業に当たることが出来て効率的だ。
確かに書き込みは結構足りない、情景が浮かぶような厚みはないし、人物造形もうっすらにしか書き込まれていないし、語られない作り込まれも感じない。けれど連作短編のように一つの街のコミュニティや人付き合いをさらりと描いていて可愛らしさがある。このコミュニティハウスというもののうっすらとした存在感と、まったく地域性の中に表現できていない感じの見覚えは、畑野智美「海の見える街」の公民館図書館職員たちのアラサー青春群像劇の厚みの無さにも覚えがある気がする。
実際の司書の仕事内容がどのようなものなのか、もう少し深掘ることをしないから司書の女性がファンタジックな存在感に満ちており、司書補の女の子の直向きさが描けた職業への情熱や資格への現実なんかもあまり伝わってこない。
現代的な小説の薄っぺらさやほのぼのしさは、もはや現代日本のストレス性を抜いた癒し空間の虚像であり、ひどくテンプレートなものかもしれないと思えば、これはこれで現代性を描けているのかもしれないとすら思えてくる。
最後の章、定年を迎えた男性と詩を交えて描き、妻への心配や娘への感動とカニのモチーフの使い方など、すべてが可愛らしくて印象的だった。最後の詩にも、警察にされる職務質問の場面なども可愛らしくて印象的だったが、それだって現実的な65歳の男性を描いてこの可愛らしさというのは現実味がないと言われたらそうなのだけれど、モチーフとしては可愛らしいので薄い文章もそれに拍車をかけて良い。
著者は人気作家らしく、一年近く前に知り合いにお勧めしてもらっていらい、図書館で棚を確認していたが常に一冊も在庫がなく、やっと借りることができたのが本作だった。
読み終えて、最後の印象が良かっただけにもう一作読みたくなったのだが、図書館では恐らく長く予約の番が回っては来ないから、ネットで確認したら翌日には届くとのことだったので他の一冊を注文した。
「木曜日にはココアを」
こちらも連作短編になっていたし、関連する人物が橋渡しをして、一つの喫茶店を焦点にして日本とシドニーにまたがる人間模様が、ある意味で地球規模的にふわふわと温かく描かれる。
悪くなかったし、書き慣れたと思った。文章がしっかりしたし、またも連作短編だけど、その連なりがスムーズで繊細だった。しかしこちらが処女作であり、「お探し物~」の方が後に出ていると聞いて、印象が落ちる。作家の書くべきモチーフやテーマがあるから代表作以降があっても仕方ないが、文章力や構成力などの創作技術は向上していくべきで、そこが少し残念だ。
それくらいに、本作の方が出来が良かった。
「マーブル・カフェ」にて働き始めることになった新米の店長、彼にお店を任せたマスターは本書の各所に現れては人々を繋いでいく。木曜日に決まった席についてココアを注文する女性は何やら英文でエアメールを書いている、いらいらした様子で店を出ていった女性は不慣れなお弁当作りの黄色を埋めるために焦げ付いたフライパンと格闘し、彼女の息子が通っている保育園の規則で禁じられているピンク色の爪で児童と接する保育士さん、彼女の友人、旅先で出会う老夫婦、等といった具合に、人と人が交わるところに物語が生まれて、人と人の関りの中に温かさを描いていく手法は、とても嫌味がなく癒し的な作風で好感度が高い。
するする読めてしまうし、行間も多いので文庫版は200ページ余りだが1.2時間で読了できるその軽さも、日常の癒しとして簡単に読めるからこそ気軽に買える、苦もなく安心して読書による達成感を得られるインスタント風が心地よい。ファストフード的と言っても良い、優しい甘さの焼き菓子のような安心感と可愛らしさがある。
巻末に広告として、「3分で読める!コーヒーブレイクに読む喫茶店の物語」というショートストーリー文庫が掲載されており、著者も参加されていたので、ふと買ってしまった。宝島社に推された作家さんなのだなというのは売り場を見ても感じた。
簡単に読める、喫茶店と読書の虚構性、そして気軽に買える、この心地は気安い。
ちなみに帯にて、宝島社のショートストーリーズは累計85万部突破と書いてあるから、一定の好評を受けているのだろう。この「3分で読める!」は売り場に他二冊見つけたが、どちらも「簡単に読める」「ミステリー風味」「グルメジャンル」という現代で親しまれやすい要素が詰まっていて、装丁も可愛らしいし、商業性としてうまいなと感じた。
私が惹かれたのは、コーヒーと喫茶店で読む物語という部分、そして装丁のイラストだ。
現代ではカフェと読書はセットのような虚構性になっているように感じる。カフェや喫茶店にて文庫小説を読む、が一つのスタイルで趣向になっている、と言い換えてもいい。
読書風景はマグカップやカフェでの軽食と共に撮影されている方が雰囲気になるし、現代における読書や小説の立ち位置や特色のくくりがよくわかる。海外文学の絵画的な濃密さよりも、気軽に読める色鉛筆作品のような国産文芸のが売れる、現代国内における小説や文芸読書の立ち位置や消費のされ方、歓迎のされ方について好意的な見方もできるように思う。
作品単独ではなくて、周辺アイテムや空間込みの静かなアトラクションともいえる。それと同時に一冊の読書は現実的な癒しであり、過密な現実や人生のリアリティに疲れた現代人を癒すものは、ファンタジックやミステリーな虚構への逃避的な旧時代的要素と共にもっとシンプルに、デジタルアウト・SNS断ちというアナログへの回帰も含むし、内的立てこもりによるリフレッシュ、自分と思考のみになる文章はヒーリングとしての瞑想にも近い。その逃避や夢物語による活力から、優しさや抱擁の直接的な癒しまでを含む。
非日常的な分かり易いフィクションとしてのミステリー小説がどの時代もある一定数の需要で求められ、ショッキングな作風にてヒットする状況はむしろ日常的で、分かり易く逃避的なエンタメになる。そこに属さない癒しチームの文芸としては、青山美智子・町田そのこ・瀬尾まいこ等の名前を最近はよく見るし、読まれている雰囲気を感じる。
下手な純文学や大作狙いを読むくらいならそれらの作家のがファッション的だし癒しになるし、大当たりもないが外れもない印象が、別に読んでもいいし買っても良いと思える。つまりそれが現代的な読書の受け取られ方で嗜好のされ方のようにも今回感じた。
つまらなくないし、読めない文章でもないし、装丁は可愛いし、みんな読んでいるらしいし、すぐに読めるし、一冊の本を読んだ気にもなれる、嫌な感じのする人も文章も出てこないし、優しくて癒される登場人物が可愛い、静かな幸福に触れたような気がして瞬間的に胸が満ちる。夜寝る前に少しだけ読む、資格勉強や仕事終わりに疲れて飲むコーヒーのお供に一冊携帯する文庫、優しい甘さの焼き菓子のような存在、現代の小説の一つの役割と受け取られ方と需要なのかなと思う。
別に悪くない、そしてこうした作品が親しまれている中に、ガツンと殴り込む作風や作者が生まれるとなおよいし、継続していく文化の中には遍歴や独自性があってよい。
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