世界文学旅行企画、第二弾はみんな大好きアメリカ!!
本当に好き?現代の中心地なだけで、私はあまり好みではない、でも20歳前後に『エコー・メイカー』を読んで面白かったパワーズは印象的だったので、今回彼の作品の中から『囚人のジレンマ』を読んだら驚くほど面白くなかった理由とポストモダン、私の好きな作品性や認識する文学性などについて、珍しくまじめに勉強してみたら見えてきたものがありました。
21世紀の物語
世界文学旅行、第二弾はアメリカ
第一弾はラテンアメリカ文学として、私の好きなバルガス・リョサや近代最大の物語作家ガルシア・マルケスを読みました。その中でリョサの『チボの狂宴』とアメリカ在住と自国を行き来する現代的な作家としてダンティカと共にジュノ・ディアスが見えてくる。
近現代アメリカ文学は、ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が記憶に新しい9.11トラウマや人類が抱える問題が先鋭化されやすく、実験的な形式も好きなイメージもあるし、テーマとしての移民国家としての先のディアスも含まれるだろう多様性マイノリティやジェンダーもあるし、文学が生まれやすい所に人類性があるし、現代性を昇華するところが虚構創作における文学性だと感じるし、やはり世界の中心は米国なのか?
或いは文芸文学が映像作品として娯楽や商業として復刻し広告され消費される産業としての映画も米国的であり、『ものすごくうるさくて~』など文芸文学の映像コンテンツ昇華としての製作や、ここには急速に売れた『ザリガニの鳴くところ』や古典を蘇らせる『華麗なるギャツビー』なんかも関わる。
芸術や文化はどこで生まれてどこで育ちどこで繁栄するのか。少なくとも近現代のアメリカはやはり世界の中心地である認識で、政治経済戦争の表面化や数の力、テクノロジーは発展し情報は先鋭化していく。個人的にはゴールドラッシュやカウボーイも宇宙やNASA的モチーフも好きではないし、文芸で言うとよく見るジョン・ケルアック『路上』はまだしも、土俗性が強い『アブサロム、アブサロム』や村上春樹周辺とかも微妙だし今回も有名な翻訳者さんでしたがやはり微妙だと感じたし、、虚構モチーフとしての米国は好みだったことは一度もないのだけど、政治経済と人類モチーフで考えるときに近現代史の中心母体はやはりアメリカだろうと思う。
現代的な文芸文学、現代的な社会問題やそのモチーフやテーマ、それを知りながら現代アメリカや人類文学が知れたらいいな、という思いで、二弾目はアメリカに決めました!現時点でも物凄く面白い、ぜひお付き合いください。




『囚人のジレンマ』(1988)
今回は、リチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』、2段組み400頁以上の長編ですが、真っピンクな全面ネズミ耳のカチューシャを付けた人物シルエットが黒抜きで浮かび上がる非常にキャッチ―な装丁で、それからわかるように本作はウォルト・ディズニーやミッキーという単語が頻繁に出てくる上に、その米国有数の虚構商業モチーフを冷戦と大衆映画プロパガンダとして並走させる。非常に野心的で商業挑戦的な印象があるが、対して理論的でちぐはぐなタイトルが目を引く。
正直今思えばこのあたりから、創作性としてはマッチしていない可能性を感じてもおかしくなかったが、私は著者の作品を過去に数冊読んでいたし文学的評価も高い信頼から、ここが上手く練り上げられてどのような文学性を強く与えてくれるのかと期待して読み始めた。
結果的に本作はパワーズの2作目として、若い資質と稚拙さが見て取れるし、著作列的にもその位置なのだと思う。デビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』は名作と名高い故に臆して挑戦する気になれずに逃げて選んだ本作がこの程度か、と思うと自分にも微妙な心地がしてしまったが、調べていくうちに出発点としては悪くないものを選んだなと思った。以下、著者の本質はあるし、そこに見える文芸や人類への感動や信頼、科学との融合や、私が著者の好きな要素として強く印象に残っている情動や記憶と人間の回顧や哀愁等の要素はきちんと見て取ることが出来る。それらの基本要素は著者が確かに文学性を志向する者だということが捉えられる。
重層的な語りの形式は挑戦的で、アメリカ史、国家と家族の記憶、ゲーム理論や哲学、虚構創作商業の王様たるディズニーとミッキーというモチーフに対してある家族の物語が織り込まれていて、構造にも趣向が凝らされている。ただ複雑性を理解したいと思うほどには与えてくる魅力が弱いし、恐らく理解する範囲ではその構造に文学的あるいは人文的な魅力は無く、構造のための構造、形式のための形式となっており、虚構性やテーマ性に与するものではないような気がする。
第二次大戦とディズニー映画を並べて語る様は、母国アメリカ批判とも思えてシニカルながら、魅力的な創作性は見つからず、そうした表現にも至っておらず、モチーフテーマの設定は魅力的で意欲的ながら描き切っているとは言い難く、個人的には不明。
未読である『舞踏会へ向かう三人の農夫』『われらが歌う時』等、第二次世界大戦やナチス収容所をモチーフテーマに扱うことが多い作家の印象なので、著者にとっての主題性や人類性への興味関心は強いのだと思う。それなのになぜこのテーマ表現や物語プロットの長編で練り上げてこれに終わるのか、想像性や表現性の不自由で不甲斐なさに感じた。
かろうじてp403頁からの20章は現代的な要素をテキスト的に書くので読めるが、全体的には翻訳文も個人的に合わないと感じる訳者さんであり魅力を感じないし、それが表すところは実態でもプロットでもなく概念的であり、展開する戦争と映画や虚構といったものは受け取ることも出来るが、逆にその部分の虚構テーマ性をいかに表現しうるかが文芸や文筆業の表現力だと思うし、家族や中心人物である主人公格や父親の実態を展開する家族プロットの魅力の無さがどうしようもないのは小説家としての才能の問題とすら感じてくるが、そこは商業文芸とは違うとは理解しているが、では文学性の魅力が本作にあるのか、と言えば。
米国の虚構創作における家族のモチーフは、合衆国である米国それ自体と重ねる手法形式であることも多いし、単純に国民性として家族テーマが好きな印象もあるし、創作上の排出数も多いポピュラーでベターな印象もある。その上でアメリカ人作家が家族モチーフを扱う時の手つきや表現し得た魅力の評価軸は辛い物があると思うが、その前提があってこの出来というのは明らかに不自然で不足。
著者との出会い『エコー・メイカー』
著者が好きだと思ってきた印象は、20歳前後の読書経験によってのみ支えられている。初めて読んだ『エコー・メイカー』が豊潤に鮮明で面白く、次に読んだ『幸福の遺伝子』も悪くなく、『ガラティエ2.2』は挫折した。記憶や回想、情景や情感のノスタルジー、兄妹や思いやり、科学や重層と先鋭など、温かさと現代性を兼ね備えた上で長編のボリュームと(幸福の遺伝子は中篇程度)、人文と科学の兼ね合いを感じながらも非常に深く人間性や社会性を膨らませた作風に好意を持った。
ある時期に、人文学や文芸文学における科学的な要素や知識の持ち込みがあり、理系作家による活躍や作品が目立った時期があったように感じていて、日本で言うとSF作家の流行は商業的には良かったし、伊藤計劃や円城塔やSF大賞とか、本質的な作品性や芥川賞を巻き込んだし、特にアメリカでは大衆大成功はスティーブン・キングからしてSF性に溢れて、宇宙や科学の大好きな国民性モチーフはハリウッド映画作品の十八番だし、私の理解範囲が少ないので語れないが、カズオ・イシグロや、最近で言うと韓国SFの「わたしたちが光の速さで進めないなら」も思い出す。


どの時代との比較で行ったとしても、現代は常にハイ・テクノロジーであって、その前進し革新する技術や情報が人類にもたらし、人類を具現化し実経済にも文化にもなり得る要素であるから、それを扱える作家は強い。虚構創作や文芸文学が文系のものであるとするなら、ある意味で理系なそれらを良質に扱う知性というのはそれだけで価値があって、虚構創作が一般人にとって親しみやすい恩恵であるから、創作表現しうる題材の幅は単純に武器だし、そこに生まれる文学性の可能性は広い。
故に理系専攻の人文作家というものの価値は飛躍的に高まり続けており、普遍的なジャンルとしてのSFが近代化してきているのだと思うし、その要素を持ち得ている作家は強い、と思うし、この場合のカズオ・イシグロは完全に下心である、と個人的には思っているが、しかしそれだけブルーオーシャン的な側面が常にあるように感じる。
パワーズにもその要素があると思えたのも好印象の一つの理由だが、思えば『ガラティエ2.2』の時点で今回感じた微妙さや不信感を持ったかもしれないが、その時は単に興味が持てずにそれ以上の著作を読むことは一旦やめてしまっていた。一冊読んで期待して、一冊読んでは落胆して、駄目な方で決めつけて切り捨てるやり方は私の見限りの早い失望癖を表しているような気もするし、それに比べれば受賞作そのほかを読んで複数作でドーム的に評価しようとする最近の私の読み方の流れは成長を感じもする。
ただ、著者の最高打点の印象は『エコー・メイカー』で高止まりしており、印象は最高。あまり好きではないアメリカ文化の中でも珍しく好印象な創作性と著者名で輝いてきたが、10年以上の時間を空けて、ラテンアメリカ文学から次は近現代アメリカ文学だろうと、ジュノ・ディアスよりも先に手に入ったこちらを読み始めたが、ある意味で選書としては失敗でもあったし、近現代アメリカ文学を知る意味ではある意味で成功だったので、以下。
※もしかしたら今回は、単純に小説を楽しみたい層からすると退屈で難解に感じるかもしれません。ただ流し読みでもお付き合い頂ければ、作品はつまらなかったけれど調べてみると見えてきた面白さに感動した理由を共有してもらえるかもしれません。一冊はつまらなくてもいいのだと分かる、受賞作がつまらなくても他に面白作品があるように、初期の作品がつまらなくても晩年の作品が伸びて最高点を高める作家もいるし、それはもしかしたら当時の文化の前進まで担うこともあるかもしれないという感動もします。ぜひ。
あらすじと構造、囚人のジレンマ
舞台は1950年代のアメリカ中西部。元歴史教師エディ・ホブソンは、重い病を患いながら家族と共に暮らしているが、彼の頭の中ではある思考実験が進行している。それは囚人のジレンマにより第二次世界大戦を“書き換える”という試みであり、現実と想像の境界を溶かす壮大な寓話であり、アメリカ冷戦史と個人の記憶が交差する実験的な作品、と読めるがそれが成功したかは不明。
記憶と歴史の虚構性で見ると、物語内で現実として語られる複数の過去は想像と交差し、歴史がいかに構築されるか、家族の記憶と実際の真実とは何か、を明確に曖昧に響かせていく。
タイトルの「囚人のジレンマ」は、人間の利己性と協調の本質を問う象徴として使われるようで、ゲーム理論における人間性や社会性モデルとしての問いのことを指す。相互協力の方がよい結果になる理屈は分かっていても、自己勝手に協力しない者が利益を得る状況では互いに非協力的になる、自己に走る精神性のジレンマのことを言うらしい。各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので、社会的ジレンマとも呼ばれる、とのこと。
囚人のジレンマは、自己の利益を追求する個人間でいかに協力が可能となるかという社会科学の基本問題であり、経済学、政治学、社会学、社会心理学、倫理学、哲学などの幅広い分野で研究されているほか、自然科学である生物学においても、生物の協力行動を説明するモデルとして活発に研究されている。ゲームを無期限に繰り返すことで協力の可能性が生まれる側面もあるらしく、この辺りの認知的実験性や理論的把握の意味で、本作には戦争や原爆なども飾り以上に扱われるし、要素として虚構創作表現のモチーフはやはり物凄くあるのが分かる。
1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案し、ゲームの状況を囚人の黙秘や自白に例えたため、この名がついている。
このタイトルや父親が家族に出す問い、探る真意や真実をある程度の焦点として本作を読み進めれば、そこに浮かび上がるテーマ性や、家族にとっての個人や個人と社会等の基盤も分かりやすいし、個人-家族-国家というスケールアップも可能であるし、自国商業やそのプロパガンダを大事な商売道具であるネズミまで引っ張り出している点からして、アメリカの告発や解体を意味するはずで、戦乱の最中の日系人の強制収容や幕引きとしての原子力爆弾とその被害者の足取りは家族と国家の恥部や根源と成り立ちを思わせ、そのルーツにたどりつく記念館という扱い方の部分も印象的。
それら個人や国家の話と共に並走するのが、戦争とプロパガンダ的な虚構性としてのモチーフに映画制作とディズニー・ミッキーを据えているのが、冒頭でも魅力な点として挙げたアメリカが近現代における虚構創作に適した国であり、その個性を意識的に使った文化的洗脳や物語の力の自己批判が狙われていて、虚構創作や人類文明に対する責任感や使命感すら感じる心地よさがある。
自国作家がこれを扱う、というのは結構衝撃的だが(ハン・ガンのそれよりさらにスケールアップ)、アメリカ文学をよく知らないに現時点の私からすれば、このような作風や創作がどれほどのスタンダードであるのかの判断がつかないが、非常に野心的で人類的で高評価なのは間違いない。ただ肝心の物語性の表現もテーマ表現も弱く、あくまで理論や理念的に終わっていて、読み進めづらいし、読後して感じる表現創作としての完成度や密度は希薄であると言わざるを得ず、魅力的な着眼と価値的なテーマに対して創作性の消化が為されているとは思わない。
著者年譜、著作列
リチャード・パワーズ(1957-)は、知的関心と物語構造を融合させた現代アメリカ文学の先鋒であり、デビューから一貫して「人間の知と感情の接点」を探求し続けているらしく、ポストモダン文学において最も注目されている作家の一人とのこと。
イリノイ大学で物理学を専攻するが、文学に魅せられ文学修士号を取得。卒業後はプログラマとして働くが、ボストン美術館でアウグスト・ザンダー撮影の写真を見たのをきっかけに退職し、2年間を処女作に捧げる。1996年イリノイ大学のスワンランド寄付講座教授に任命され、教鞭をとりながら執筆活動を継続。
この経歴を見る限り、理系だが激情型で運命的な情動の作家であることが分かるが、なぜよくわからないポストモダンにはまり込んだのかはここからは不明。やはり時代の主流と、そこを泳ぐ自然の後に出会い見つかる自身の主題や発展する作風があると思いたい。

本作『囚人のジレンマ』は、デビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)の後に書かれた作品で、著者のテーマである「記憶とテクノロジー」「アメリカ史と個人」が抽象的・理論的に展開される。
一応、この後に続く家族小説要素や第二次世界大戦モチーフを引き継いだ『黄金虫変奏曲』(1991)には、遺伝学と音楽が絡み、その後に来る既読の『幸福の遺伝子』にも関連する遺伝子や化学要素への展開や発展が見て取れる意味で、著作列から読む文脈は明確。本作から見る著者のテーマ性もまた明確で、壮大で人文学的であるのは間違いないが、それらテーマモチーフへの着眼や野心の素養は買っても、実際の作品性や表現的実力あるいは志向するところにある創作性は文学には届かないのではないか、と私は懐疑的に思い始める。その理由は、調べる間に出てきた”ポストモダン文学において最も注目されている作家”と”ポスト・ピンチョン”の言葉による。
ただ、年譜で見る所からしても『The Echo Maker』(2006年)や『The Overstory』(2018年)で広い読者層と賞レースに進出した、とのことで、ある時期からの転換期があった、と読める。では、1988年の『囚人のジレンマ』と2006年の『エコー・メイカー』の間を埋めるものとはなんなのか。
個人的にはこういう作品はポストモダン的だと大体でとらえがちだけど、語るために語る、構造のための構造、巨大な何かがあるとハリボテはったりの向こう側には何もない的な、ピンチョン的な要素に感じてしまう。文学におけるポストモダンもそれくらいの時期だと認識しているけど、好きではないので興味もなくてあまりしたないので、少し調べて見る気になった。
ピンチョンを語るときにその百科事典的な、網羅的な知識と単語の膨大さを語られると思うけど、それだって個人的にはどんなテーマ筆致のためのものであり、その集積としての物語性は情感や人文と虚構創作の最たるものであると感じるし、勿論それらのスタンダードへのアンチテーゼだから反論的な文脈と構造や志向を持たなければならないし、自然作家性の培養として持ってしまっただけなのかもしれないが、個人的にはそういう性質や志向性は生産性だと思わないので好感は持たない。
それと共に、その時代性としての「物語」「主題」「人文性」への反論や反骨が生まれるに至ったマクロ的な文脈で見るときの人類社会として、9.11や世界大戦や情報社会や非人文性のテクノロジーなどの様々な要因や出来事があったのだとしても、それを克服して過去にする形になる虚構創作や、創作や文芸文学の祈りとしての昇華からの逃げであり、巨大テーマ題材からの作家性の敗北と逃走であって、無価値と決めて無価値に嘯くような幼稚さ、価値を目指し価値に尽くすことの放棄であり、人文や文芸文学におけるその放棄は単純に個人や人類の理知感や人類史の放棄であると感じる。その非協力的で非生産性的な感じが、個人的に好きではないし評価も出来ないのだと感じる。
人類テーマとしてのテロや集団戦禍というのは勿論克服しづらいし、他者や暴力といった力学、情報や科学といった無機質で機能的なものを前にして、人文や人間がどう生きて暮らし考え感じるのかというのは、逃げたくなり価値を見出しづらくなるとは思うが、そこから逃げずに向き合うことに人類性があるし、その個人の理知感の打ち出しが人類に与する意味で、やはり私はその逃避行動や嘯きを文学性だとは感じないし、評価したくもない、と前置きしておく。
ただこれは主題や物語性の否定の構築を、創作とは認めないということでは勿論ない。
私の嫌いなポストモダン
一般的な意味でのポストモダン(postmodern)とは、モダン(近代)以後の状況や思想を表す概念で、建築、哲学、芸術、社会理論など幅広い領域で用いられ、近代は啓蒙主義、理性、科学、進歩、普遍性への信仰を特徴とするが、ポストモダンはそれらを懐疑的に相対化する。理性や進歩の絶対性を疑う思想全般のことを指し、相対主義、アイロニー、ハイパーリアリティ等の類を本質として持つ。
・相対主義(真理や価値の普遍性を否定)
・脱中心化(主体、国家、理性の中心的地位を疑う)
・シミュラークルと再帰性(現実と虚構の境界が不明瞭に)
・アイロニーとパロディ(真剣な主張の代わりに模倣と遊戯)
この並びだけで、私が好む要素がないこと、私は正反対が好きだと分かるので、詳しい知識がなくとも私がポストモダンを絵画等他の芸術を含めても概略として好きではないことが明らかだし、ただ人類が逸脱や打破の地点としてある段階でこの状態に陥ることは分かる、レジスタンス的・革命的な要素としては認識できるが、どうしても主体性だとは思えない。破壊や反論的表現自体が進展性だとは思えても、破壊や反論をメインに据えるだけで表現生産に務められていない点で、創造的・人類的だと思うことはやはりできない。
それと同時に、以下のように近代アメリカ文学におけるポストモダンで調べてみると、そこに並ぶ要素がすでに敗北的であり、克服対象を前にしたアメリカ人的な要素があることもわかるし、故に私がアメリカ文学が好きでなかった理由もなんとなく表面化してくる。無機質で無価値に感じる、そこに文学や虚構創作の情動性は無いし、テーマ性と人類的な強さがない、弱さや無気力のその感じを良しとして泰然とするその感じ、知的であろうとも理知感的には無価値に思うが、有史以来どの国も罪悪感や無力感を持たない国は存在しないように、ただそれとどう向き合い克服し、或いは虚構創作として昇華し、今後の発展や進展に努めるという意味では正に人類性とその憧憬であるので、その過程や存在はすでに文学的であるとも思える。
対抗としてのポストモダンに対する更なる反論がすでに出ていること、その繰り返す歴史の一部であり、その進展性の無さの次の進展は始まっていて、それが更なる克服としての展開を迎えていることに安堵する。
文学史におけるポストモダン
文学史におけるポストモダンは、モダニズム文学(20世紀前半、ジョイス、ウルフ、プルースト)への応答として登場し、自己言及、断片化、ジャンル混交、メタフィクション等の特徴を持つ。近代アメリカ文学においては、国家、メディア、消費社会への批評、歴史や自己の不確かさを描く知的かつ批評的文学のことを指す。
ポストモダンは特に1950年代以降アメリカを中心に発展したが、1990年代以降にポストモダンの終焉が議論され、それに応答する形で、「ポスト・ポストモダン(new sincerity, metamodernism)」と呼ばれる潮流が登場した。感情、誠実さ、倫理への回帰(例:ウォレス、ジョナサン・フランゼン)などを特徴するらしいが、本項目の次に来るテーマなのでここでは割愛。
個人的には、価値の定まった手法や価値観、創作性に対する反乱行為で革命であり、有価値を装った破壊行為だし、創造的な行為とは反対に位置すると感じる。ただ、その破壊と混乱による進展が一つの発展性であることは有史的には間違いないので問題はないが、その系譜の作家や作品をそれとして楽しむことは私の志向や趣向的にも難しい。人類や文学史の一部として見るなら、ただの反抗期。それを乗り越えて、テロや主題が集まるアメリカにおいて、さらに書いていった作家に拍手。
・メタフィクション:物語が虚構であることを自己言及的に示す(例:カルヴィーノ、バルト)
・パロディ・過剰な間テクスト性:過去の作品やジャンルの引用・模倣
・アイロニー・遊戯性:深刻な主題を軽やかに、あるいは滑稽に扱う
・構造の断片化 :明確なプロットや人物の一貫性が希薄
・ジャンルの混交:SF、スリラー、ノンフィクションの要素を混在
□近代アメリカのポストモダン文学は、以下のような歴史的条件と深く結びつく
・冷戦と核戦争の恐怖
・メディアと消費社会の発展
・公民権運動とアイデンティティ・ポリティクス
・ベトナム戦争と政治不信
→主題と形式の特徴:
・国家・戦争・メディアへの懐疑(例:デリーロ『リブラ』)
・情報過多とリアリティの喪失(例:ピンチョン、ポスト9.11以降の文学)
・匿名性・権力構造の不透明性
・自己や歴史の不確かさ(記憶、虚構、構築された真実)
□重要なポストモダン作家たち:
・ピンチョン:アメリカの軍事・産業・情報複合体
・デリーロ :メディアと死、ノイズと意味の消失
・カート・ヴォネガット:ユーモアとアイロニーによる戦争批判
・ジョン・バース:メタフィクションの旗手
・デイヴィッド・フォスター・ウォレス(後期):ポストモダンの自己崩壊から出発し、新しい倫理と意味を模索
私が愛する文学性としてのバルガス・リョサ
私のブログの読者さんなら私がバルガス・リョサを好きなのをご存じだと思うのですが、その何が好きなのかと言えば、形式や構造としての重層に意識的かつ、その創作上の効果や意欲としてテーマや人類性の志向が必ず込められており、かつ虚構的物語的な表現創作の魅力も忘れない所などにある。
この辺りは作風であり、作者作品と読者読書の相性や好みであり、そもそも異なる作風同士を並べて作品法家も作家評価もナンセンスだとは思うが、豊穣や堅牢の意味で考えて、どう考えてもポストモダンはその作品が希望的価値を有していないとしたら、それは作風以前の問題ではないか、とも思うのが私の意見だが、マリオ・バルガス=リョサのような多視点にて重層的構造を持つ物語的濃度が高く社会的主題性の強い小説と、ポストモダン的無機質で辞典的なパロディの羅列による意味の解体を目指す作品は、一見対立するようでいて、実は一定の通路で繋がってはいる。
たとえば、『囚人のジレンマ』も複数の形式を使った作品であることをわかりやすく語る解説部分を引用する。
>作家パワーズの第二作である本書は、前作『舞踏会へ向かう三人の農夫』同様、基本的に三つの物語が高度に語られる形式になっている。
①「1」「2」といったように単純に章番号がつけられ、三人称で語られる、1980年代を生きるホブソン一家をめぐる物語。
②「一九四〇-四一年」など、年号が章題になっていて、第二次世界大戦中のアメリカ史を基本とする、しかし作者による捏造が混じった物語。
③「なぞなぞ」をはじめ、何らかのフレーズを章題とする、ホブソン家の息子の誰かが一家の暮らしを回想し、父親の過去を再構築するも物語。
前作同様、最終的にはこの三つがジグソーパズルのようにぴったり合うわけではなく、三者の間には絶妙な食い違いがある。ホブソン家の四きょうだいが、たがいに食い違う世界観や人生観を提示し、そのどれ一つとして特権化されていないのと同じように、三つの物語も、互いを補足しあい、支えあいつつも最終的に「統一見解」に達することはなし、どれかひとつが「正解」として特権化されもしない。三者が錯綜するそのやり方は、前作『三人の農夫』に比べてもいっそう複雑にして微妙であり、『三人の農夫』には着けられていた目次が本書にはないのもそのためだろう。全体をどう見通すかも、読者一人ひとりに委ねられているのだ。(訳者あとがきp417)
語りの構造で言えば、リョサが多視点・時間軸の錯綜や編集的構成であり、物語の濃度をより高める理由は、主題の明確なテーマ性(権力・政治・人間性)の意思や責任感の強度であり、世界を深く描くことで先品性を強めて読者に対しての理解をうながす創作性の責任感がある。語りの構造的に複雑ではあるものの、主題や創作における情熱的な姿勢はブレない、その根源は社会批評や、個人、創作、読書、社会のそれぞれの存在への関与や信頼に支えられているように思う。
対し、ポストモダン的作家作品が、語りの崩壊や物語の無意味化を狙い、主題の曖昧化や空虚化を通してあらゆる意味の自壊を導き、世界を疑い、読者の安定を壊して挑発するような無機質、断片的、百科事典風、引用過多で情報過多な羅列としてのパスティーシュ的で理念的な集合体として、言語、歴史、主体の不安定さの露呈を目的とするかのようなシニカルさが根底にあり、その創作は創造的でありながら破壊的な挑戦で批評的な産物であるのだと個人的に感じる。
相違点としての理念的、実践的で明らかな断絶がある。バルガス=リョサは、語りが実験的であっても、それを人間存在や権力構造の認識や表現の為の手段として用いているのに対し、極端なポストモダン小説では、語り自体が自己目的化し、世界の意味そのものが脱構築されるため、読者は「何も信じられない世界」に投げ込まれる。
両者は共通の技法や思想的土壌も持っているのは事実で、多層的な語り口を組み合わせ、客観視点を崩すことや、時系列の非直線性としての時間軸の切断や反復、未来から過去またはその逆への視線など、類型的な重なりとしての高度な構造主義的手法の共有という意味では一致しているし、物語の形式そのものへの自己言及的態度、社会や言語を構造として捉える姿勢など、知的、構造的、批評的な面での共通点は勿論ある。
バルガス=リョサは構造を使って「人間やその社会を描くための物語」を語り、ポストモダン作家の一部は構造を使って「人間や物語の虚構性そのものを暴く」ための目的論的な違いがあり、手法としての実験性や形式としての構造は方法論として似ていても、倫理的、哲学的な方向性が異なる点が明確に感じる。
バルガス=リョサの構造が、複数の視点が倫理的、社会的重点に収束するものだとしたら、構造の複雑さが人間と社会の複雑さの認識の手段であり、読者に理解、葛藤、共感を求め、形式が倫理性や人間存在への接近に奉仕しているとも読める。
対し、パワーズ『囚人のジレンマ』は上記引用部のような多層構造を持つが、問題はこれらが何に向かって編成されているのか不明瞭なまま、象徴や比喩の雑多な堆積に終わっており、結果としての主題を目的としておらず、その場合の創作性は空虚化しており、語られた物語の無意味さが読後に残る感がある。
家族の物語も、感情的な共鳴に至る前に理屈的構造へ回収されており、その結果、語りが内的統一や共鳴よりも構造の提示に終わっている節があり、解説では家族小説としてのほのぼのしさと触れてあるが、個人的にはそうした温度や好意は全く感じなかったし、引っ張り出した最大の虚構性であるミッキーやファンタジアすら魅力的な表現を持たなかった。
これはポストモダン文学が抱える根源的なジレンマでもあるし、そのため読者はしばしば、「これは凄いのか、空虚なのか?」という判断を宙づりにされ、文学的深度と知的遊戯性の区別がつきにくくなる側面を持つ。パワーズ自身も『囚人のジレンマ』ではこの限界を引きずっていようだが、その後『オーバーストーリー』等では倫理・環境・共感の再構築に向かうらしく、これはポストモダンの技法を脱構築し、再びナラティブ(=語ること・物語)の意義を回復するプロセスとも評価されているそうで、その方向転換の再倫理化もまたパワーズであるという。
『囚人のジレンマ』の構造は、歴史・家族・倫理をめぐる重層的問いを試みながらも、語りの核となる倫理的・情動的求心力を欠いていたため、空虚で構造のための構造に見えるし、この作品は知的であるが物語性や主題性の強い作風との違い(ここでは例えとしてバルガス・リョサ)を感じさせる。この重さと軽さの捩れを引き起こすのは、物語に責任を持つ意志の有無とも思える。
バルガス=リョサ的な文学とポストモダン的文学は、基本的には目的論と倫理観の違いによって相容れないものになりやすいが、高度な構造性と形式への関心という共通点を持ち、特定の作家によって橋渡しされる可能性もある。
両者の橋渡し的存在としての作家性にデイヴィッド・フォスター・ウォレスとリチャード・パワーズが来るのだとして、ポストモダン的技法を使いつつ、再び人間性や倫理を追求しようとした経緯や発展があったようで、リョサのような「語る意味」「物語性」への回帰を模索したような動きがあり、彼らはポストモダンの無意味性を知りながら「無意味でも語る」という戦略を取っている、とのこと。
前者の人間の描写は濃密で複雑につき多声的であるのに対し、後者は機能的、類型的、記号的に終始して味気なく、前者は構造の目的についても倫理的葛藤の把握に利用されており、後者は概念的、メタレベルの問いの演出に過ぎず、理屈のみで何を描く表現の主体性も感じず、文体においても前者は情熱で生理感覚伴うものだったりするが、後者は理知的で脱感情的かつ冷ややかにつき、その根本たる作家的姿勢として、物語への責任と信念がある前者に対し、後者は疑念、皮肉、アイロニカルな距離感を崩さない。そこの差を単純に作風の違いとしてしまえば、評価や批評としての対象を曖昧にするとも思うし、根本的な創作に対する姿勢、人類や社会に対する姿勢、その主眼の違い、その志向性の違いはマクロで見る時の価値として捉えるべきだと私は思う。
バルガス・リョサの活動期は1959~2016年
(1936年生まれ‐2025年4月13日に死去)
トマス・ピンチョンの活動期は1960~現在
(1937年生まれ)
リチャードパワーズの活動期は1985~現在、
単純に地理的、歴史位置的なものや創作的・生涯的環境は違うけれど、リョサとピンチョンは同時期に生まれ、同時期に活動を開始しており、生まれ年と最初の出版時期が1年ちがいでともに23歳の時であることがおもしろいし、パワーズはその25年後の選手ということになるから、一時代以上後輩であることが分かる。※これを調べながらバルガス・リョサの死去が先月であったことを知る。追悼の意味を込めたい。
物語に責任を持つ意思の有無
今回は多層的構造の形式の点で類似しながらも、その創作性における目的意識や人類責任感としての総体として、私が好きな理由が詰まったバルガス・リョサを相対においてみたが、物語構造の倫理的機能や物語の創作性が見えてきたし、以後に続くのは、そうした初期のポストモダン的風潮や作風を歩み経たのちに当代有数の作家となったリチャード・パワーズの21世紀におけるポストモダンの乗り越え方が気になるところか。
ポストモダンの特性を物語の解体と不在とするなら、20世紀後半におけるポストモダン文学の持つ特徴は、大きな物語(grand narratives)への不信
、アイロニー・パロディ・自己言及の横溢、語りの主体や真実性の解体、世界の意味の不確定性の強調等で、この結果、語ること自体に倫理性や責任を課すことが困難になった。(例:ピンチョン、クーヴァー、バース)。
倫理への再接の動きが見られた21世紀の転換の背景としては、9.11、環境危機、AI、格差社会などにより、「抽象的な解体」より「どう生きるか」の問いが切実になり、アイロニカルな距離より関係性や責任を重視する感性が生まれたため、「ポストポストモダン/新倫理主義的リアリズム(New Sincerity)」という動きが見られたと読める。
その際の代表的な作家とアプローチ
・デイヴィッド・フォスター・ウォレス『無限の冗談』→ポストモダン技法で人間の苦悩と倫理を描く
・ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』→多視点・断片構造の中で人間の時間と変容
・リチャード・パワーズ 『オーバーストーリー』→自然と人間、記憶と倫理をつなぐ再物語化
・ジョージ・ソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂』→死者の視点から共感と想像力の政治性を追求
物語構造の倫理的機能とは、作者の縛られるものであり、構造は中立ではないし、物語の構造そのものが倫理的な選択を含んでいる。物語構造は価値判断を内包した世界観の設計であり、それに対する責任が作家に問われる。その場合における物語に責任を持つ意思や社会的主題の強さとは、自己表現に留まらず、社会や読者に対し倫理的、共感的関係を結ぼうとする意志やその創作的関係の模索のことであり、語りのスタイルを美学や批評だけでなく倫理的選択や創作的な試みとして捉える視座であり、それはつまり現実世界の苦悩や他者の声に応答しようとする構えであると言える。
物語構造と倫理と再関係性または再構築としての21世紀の文学では、「語り」が倫理的責任を帯び、読者との関係性を再構築するものとして捉え直されている。構造とは単なる技巧ではなく、共感や想像力の形式であり、語ることの倫理を問う回路である、とするこの視点は、単なる文学史的区分を超えて、物語創作や批評の核心になると考えられるし、それはつまるところ文学や作者が自己に何を信じて課すのか、その志向性の憧憬だと思えた。
・誰の視点を採用するか
→ 誰に共感するか
・どの順番で情報を提示するか
→ どんな因果と意味があるか
・物語を閉じるのか開くのか
→ 救済を提示するのか否か
・矛盾や未解決を許容するか
→ 人間の複雑さを認めるか
ポストモダン文学が気づいた「形式のための形式」は物語の豊かさを解体しながら、何を描こうとしたのか?
『囚人のジレンマ』の複数構造が結果的に描けたものが空虚で浅薄な感じがした私の印象と、ポストモダンのジャンルだから物語性他評価軸が曖昧で、ただそれであれば評価されるとした作風が作家的評価を曖昧にする評価軸は個人的には好きではないし、ポストモダン技法を用いながらも明確な倫理的・情動的中心に欠けているために感じる充足不足は、完全に作家的才能と技量の問題にも感じる。
ここで問題なのは、彼がポストモダン作家であるのか、単純にその志向性テーマ主題に届かない表現力の問題であるのか、の問いだと個人的には感じる。
中期作品『エコー・メイカー』にあって初期の『囚人のジレンマ』にないものとは、主題性や人類的志向に対する表現力であり、その自己の作家的素質を磨く前の当時の主流的に強力なポストモダン的アメリカ文学の風潮に流された曖昧模糊な姿勢と作風の未確立である、と思うに至った。
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