<English Summary> This article examines the distinctive literary world of the Chinese writer Can Xue through her works Yellow Mud Street and Old Floating Cloud. Through personal reading impressions and literary criticism, the essay explores the dense and unsettling atmosphere that characterizes Can Xue’s fiction. Her narratives depict decaying towns, grotesque figures, and mysterious events that blur the boundaries between dream, allegory, and reality. In this sense, her work can be understood as a powerful example of experimental fiction and avant-garde literature. The article also situates Can Xue within the broader context of contemporary Chinese literature and world literature. By comparing her work with writers such as William Faulkner and Gabriel Garcia Marquez, the essay reflects on how Can Xue constructs a uniquely intense literary landscape. Ultimately, the article suggests that Can Xue’s fiction challenges conventional narrative structures while revealing deeper layers of cultural and psychological experience. 本記事は、中国の作家・残雪の作品『黄泥街』および『蒼老たる浮雲』を取り上げ、その独特な文学世界を考察する。 個人的な読書体験と文学批評の視点を通して、本稿は残雪の作品に特徴的な濃密で不穏な雰囲気を探る。彼女の物語は、腐敗した街、奇怪な人物、そして夢と現実の境界を曖昧にする出来事を描き出す。この意味で残雪の作品は、実験小説(experimental fiction)や前衛文学(avant-garde literature)の強力な例として理解することができる。 さらに本記事は残雪の文学を現代中国文学および世界文学の広い文脈の中に位置づける。ウィリアム・フォークナーやガブリエル・ガルシア=マルケスといった作家との比較を通じて、残雪がどのように独特で強烈な文学世界を構築しているのかを考察する。 最終的に、本稿は残雪の作品が従来の物語構造に挑戦しながら、文化的・心理的な深層を明らかにする文学表現であることを示している。
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一つ前の韓国の若手SF作家の『わたしたちが光の速さで進めないなら』が、爽やかさと共に軽やかに描かれ、密度を作り出すのは科学的な単語の後ろにある膨大さによる、ある意味で単語に助けられたものだったとするならば、もはや現代的なそれと相対するような古典の域ですらある残雪の作品を作り出している密度は、完全に文化や言葉の向こう側にある実質的な事物や事象であるしその描写の力であって、熱気と湿度を伴って描かれる世界の果てしない密度は圧巻だ。

世界一汚い街を描いたデビュー作
『黄泥街』(1987)
本著はある意味で土俗的であるし、この密度や湿度の泥臭さは、例えば『アブサロム、アブサロム!』のフォークナーを思い出し、ともすればあちらの方が幾分軽やかでおしゃれですらあると感じ始めて慄くマルケスの『百年の孤独』を思い出したりもした、それほどに泥臭く密度的な世界観が築かれているように思う。
これは私にとって結構意外で、残雪はカフカやピンチョンなどと並べて語られる系譜を観たことがあるので、作家がそこに作り出す独創と共に、そうした不条理劇やおとぎ話的なアンチテーゼを内包した現代性を持った中華風作家なのだと思っていた。思っていた、という言葉を使うように、私の中で残雪の名前は池澤夏樹編集の世界文学全集シリーズにある『暗夜』(2006)の著者で、十年以上前にさわりを読んだがどうにもなじめずに途中で閉じた作家の一人として記憶しているに過ぎなかった。
今思えば、確かに当時の私が著者の作品を途中で投げ出す理由も、別にわからなくもないのだ。
恐らく『暗夜』も世界観の描写などが続き話の筋がよくわからなかったことと、退屈にすら感じるのは私がおとぎ話や古典を好まないからとも思うが、今落ち着いて読めば、その圧巻の密度や文章を読み進める類の文芸だと思えばするする読める。少し引用したい。
「早いねえ、いや、おはよう! ああ、ねむ……」寝ごと同然だ。朝食を食べながらもまだ寝ている。こくりこくりといい気分だ。古い糸とじ本を読めば、読んでいるうちに瞼は足れ本は落ちる。いっそ読むのはやめて、ひたすらいびきをかく。便所で糞を垂れてもやはり居眠りし、眠りから覚めれば糞も垂れ終わっている。包子を買う行列に並べば立ったまま前のものに倒れかかり、はっとあわてて身を起こす。街の中をののしり歩くあばずれ女もののしっているうちにあくびを押さえきれなくなる。ひとつ出ればまたふたつめが出、みっつめが出るが、それでもののしる。ひとことののしっては足を踏み鳴らし、あくびをする。どうして居眠りせずにいられよう? 春はうららか、秋はさわやか、夏の夜は短く、冬は仕事にならない。四季折々に言い訳には事欠かない。それともいっそ昼間で寝れば、一食ぬける。消耗も少ないのだから。通り口からはずれまで、ちっぽけな家の中で、道端で、老若男女がこつんこつんとぶつかりあい、東へ西へよろめいているうちに、はてどうしたことか、何もしないのにその日も暮れる。そこであきれて舌打ちする。
「もう暮れた!」
そう、太陽は通りの入り口にある王四麻(ワンスーマー)のぼろ家のあの茅ぶき屋根に、またもや沈んでいった。またたく間に! じっくり考えるいとまもなく! ちょっと転寝した間に一つの季節が過ぎ去った思いだ。いたしかたない、黄泥街はまた寝るのだ。家々は戸締りをする。まだ暗い黄色の小さな電灯をぽつんと灯している家もあれば、窓が真っ暗になった家もある。しかし九時ともなれば、その小さな電灯も残らず消える。最後の小さな眼が閉じてしまえば、黄泥街はこの町はずれからすっぽり消え失せたかのようで、探しあてる術もない。
ラテンアメリカやマルケスがおしゃれだし軽やかに感じるほど、とは自分で感じて驚いた。それだけ残雪の世界観や作品感が泥臭く、汗臭く、視界が暗く、おぞましいほどに昔話じみている感じがする。引用の部分は私が気に入った文章部分と、世界観と文章の披露に役立つと思い抜粋が、ここは割ときれいな文章が占めているが、本作はここからさらにどんどん汚物めいていく。
黄泥街は狭く長い一本の通りだ。両側には様々な格好の小さな家がひしめき、黄ばんだ灰色の空からはいつも真っ黒な灰が降っている。灰と泥に覆われた街には人々が捨てたゴミの山がそこらじゅうにあり、店の果物は腐り、動物はやたらに気が狂う。この汚物に塗れ、時間の止まったような混沌の街で、ある男が夢の中で発した「王子光」という言葉が、すべての始まりだった。その正体をめぐって議論百出、様々な噂が流れるなか、ついに「王子光」がやって来ると、街は大雨と洪水に襲われ、奇怪な出来事が頻発する。あらゆるものが腐り、溶解し、崩れていく世界の滅びの物語を、言葉の奔流のような圧倒的な文体で語った、現代中国文学を代表する作家、残雪(ツァンシュエ)の第一長篇にして世界文学の最前線。
一章目で世界観の構築が終わってからは、意外と台詞活劇のような滑りの良さで勢いよく進み始めて、逆に固定的な個性は失われた感じがする。滑りがよくなることで失われる世界感の重さ自体が、個人的には魅力的に感じていたことにもそこで気づく。
そしてその後の、世界一汚い街の遅々とした展開のしなさには嫌気がさしてくる。
おそらくテーマとするところの掃きだめ、語りの饒舌さと近代的な単語の違和感に対し、人間の身体性や生理現象を含めたあらゆる汚物感、真実がどこの誰にあるとも知れない語りと欺瞞とそれらの流布と充満により、一向に進まない世界の進捗の愚かさと、それにより進み続ける世界と進まない人間の対比など、やりたいことは分かるつもりなものの、その遅々とした進まなさの体現の為の冗長さが読書の魅力と相反するので、どうしても微妙な読後感になってしまう。そして本当に汚く愚かな物語だから、気持ちも良くない、ある意味で芥川『羅生門』のさらに酷く濃密な深遠世界みたいな塗り固めのような。
著者はこれがデビュー作ということで、処女作での野心もあったと思う、それをやり切ったのだろうと思うし、発表時期は1987年(34歳前後)の作品ということで、古めかしさやフィクション的な冗長さは仕方がないのかとも思うが、本作は250ページ程度の長編になっているがもう少し短く150ページくらいに収めた方が鮮烈だったかなと思う。序盤の文章と中盤の体現は問題がない、その展開の無さをテーマにこの長さを使うならもうひと山あってほしかったかなという所。
読んでいて楽しい作品でも、狙いが分かってからも圧倒されるような作品でもない、狙いはわかるだけに惜しいなと思う。ただ、このテーマ的な達観や野心、文章は申し分ない。中華系のフィクションになじみがないので印象でしかないが、この文化的な熟成或いは生活的な水準のばらつきもかの国を感じる要素がないわけでもない、他の作品も読みたいと思ったぶん、十代の頃の私とは読書が異なっているのだと思えて安心した。
『青老たる浮雲』
二冊目、『青老たる浮雲』は中短編がいくつか入っていたが、図書館で借りて期日までに読み切れずに表題作のみ読んで返却した。 先の『黄泥街』とは打って変わって、冒頭に構築される瑞々しい綺麗さは、あまりの世界観のふり幅に驚くほかなかったが、読み進めてみると、連続するがゆえのこの作家の特徴も見えてくる。
『黄泥街』が人の生物性や死肉性の意味での生理現象を煮詰めたようなモチーフであったとするなら、『青老の浮雲』は野生生物を基本とした生物性と共に、その際たる人間の生物性をまがまがしく描き、かじり、患い、噛みつき、卑しくも離れない。
この作家は文章と狂信と世界観構築の作家であり、それはつまり体現テーマの作風であって、だいぶ一筋縄ではいかない。表題作も中篇で150ページほどあるのだが、大部分が何を書いてあるのかがよくわからない。
隣家として接する二つの家にはそれぞれ夫婦が住んでおり、片方の家の妻と片方の家の夫は、いっとき互いにそれぞれが同じ人間なのではないかと思うほど、同居人に聞こえない相手の声が聞こえ、壁を隔てた向こうにいようともなにかしらが手に取るようにわかったりした男女が、その瑞々しさに終わるはずもなく絡み合い展開していく。同居している妻の挙動の可笑しさや変貌、その父で舅の存在感を筆頭に、どう考えてもこれは多くほとんどが現実的な展開をしない、虚構の極みにある。
その中で、男女の性愛の場面の描き方のさらりとした美しさは目を見張るものがあった。こんな描き方があるのか、と思った。その二か所、併せても3.4行に過ぎない文章の洗練だけでも、今すぐ誰かに読んで貰いたい。
面白かった。『暗夜』で微妙な記憶のままだったが、毎年ノーベル文学賞の最有力候補のように名前が上がるのも伊達じゃないなと感じたし、名が通ってる作家には理由があるのだなと信頼が増した。あまりに若いハン・ガン(1970〜)が取ったことで、マーガレット・アトウッド(1939〜)や残雪(1953〜)はきついかなと感じたが、作風や時代性を含め、まだまだわからないと感じた。直近で2012年に中国の莫言が獲得し、2024年の今年にアジア人初の女性受賞者の枠も失ったが、異なる創出の仕方をしてくれるのではないかと期待したい。
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