G-40MCWJEVZR 400ページ以上つまらない!「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ 代表作・あらすじ・つまらない?【書評】
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「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ

文芸作品

 失礼と当初の誤解に満ちた開口が許されるのであれば、思ったより退屈で、物凄くイギリス的な小説で、読み進める間はこの作品が世界的に売れたのが信じられなかった。だから絶対に投げ出さずに最後まで読んでほしい、これはそういう小説だ。

 優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いを巡らす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女たちの回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく――全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の代表作

ハヤカワepi文庫 概要文

1954年生まれ
1982年「遠い山なみの光」
1986年「浮世の画家」
1989年「日の名残り」
1989年 ブッカー賞
1998年 フランス芸術文化勲章
1995年「充たされざる者」
2000年「わたしたちが孤児だったころ」
2005年「わたしを離さないで」
2015年「忘れられた巨人」
2017年 ノーベル文学賞
2021年「クララとお日さま」

 簡単に探してみたら、この略歴はなんて栄光に満ちていることだろう。
 本作の読後感に関しては本物だと言わざるを得ず、圧倒的な心地に、「全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の代表作」の言葉には嘘偽りがないことが分かる。
 刊行から二十年近く経ってから読んだ私がこうして震えていることは、恥ずかしくもあり、同時に文芸読書の可能性と喜びに満ちていると思うし、先日までの私と同様に未読の方がいればぜひ読んでみてほしい。著者は好みではないけれど本著は素晴らしい、という評価と判断は客観性が高いはずだ。
 「クララとお日さま」ソフトカバーで1650円でにあるのに対し、「わたしを離さないで」が文庫で800円で読めるのだから、かねてから私が思う海外作品の読みづらさにおける翻訳刊行とさらには文庫落ちのハードルをクリアしていて、映像化や商業化の必要性と価値を物凄く感じる。読まれやすさ、読まれなければ始まらない文芸の弱さを改めて思う。


 何者かであるかよりも、何者として生きるかの方が重要だ、というテーマは、その後ロストコーナーであるノーフォークにて思い出の探し物をするキャシーとトミーの開かれた豊かさで描かれるようにとても魅力的だ。

「大した問題じゃない。ポシブルどころか『親』が見つかったからって、それで何が変わるっていうんだ。おれにはわからんよ」
「深淵なるご意見、心から感謝するわよ、トミー」
「でも、トミーの言うとおりじゃないかな」と、わたしが口をはさみました。「『親』と同じ人生を送れるわけないんだし。トミーと同感だわ。ちょっとしたはらはらドキドキ。それでいいと思う。深刻になる必要はないよ」
~~~~~~~~~
「なかったと思う、って……。トミー、探す場所が違うのよ」
「いや、テープの棚は全部探したぜ。ただ、こんちくしょうなことに、なんてテープだったか思い出せなかった。ヘールシャムじゃ、男子連中の宝箱から何から片っ端から開けて探してたのにな。いま名前が思い出せない。ジュリー・ブリッジズとか、そんな名前だったよな」
「ジュディ・ブリッジウォーター。『夜に聞く歌』」
 トミーは、そうかというようにゆっくりと首を振りました。「そいつは絶対になかった」
 私は笑い、トミーの腕を小突きました。そして、なんで? という顔をしているトミーにはこう言いました。「ウルワースにあるようなもんじゃないのよ。ああいうところにあるのは最新のヒット曲。ジュディ・ブリッジウォーターなんて大昔の人だもの。あれはたまたま販売会で見つけたの。今頃ウルワースにあるわけないじゃないの、おばかさん」
「へえ、さっきも言ったけど、そういうことはよく知らなくてさ。でもたくさんあったけどなあ」
「あんなのごく一部よ。でも、ありがとう、トミー。すてきな思いつきで、感激ものだわ。ほんとにすごい思いつき。なんたって、ここはノーフォークだものね」

 これだけ有名な作品なのでもうあらすじ以上の情報を耳に入れてから読み始める読者も多いとは思うが、本作はいくつもの謎の単語を小出しにしながら進む。今回も主人公の一人称による回想であり、その小出しの手口とは別に、主人公の彼女自身が幼少期から少しずつ見聞きしていった各種の情報は保護官たちによる小出しの手口にも惑わされつつあるので、二重の謎と時間軸の感覚によって語られる。たいていが不明確に極まりなく、主人公キャシーがいつ見聞きした情報で、その当時何を思い、いつ思い返してどう感じ、回想時はいつで、その際はどう思ったのかなどの、時系列の把握や明確化を困難にしていて、個人的にはこのうろ覚え感が気持ち悪かったが、そこは別に本作の本質とは全く異なるので、気にせず読み進めて構わない。
 創作上の混乱であるとは思うが、その酩酊感はある意味では彼女の混乱といつ何度思い返してみても落着できない不服と不条理への情動なのかもしれず、最終的ないついつまでも彼女はその生まれや育ちの何にも自分の命や人生の全てに納得はなく受け取れもしないし、そうした状況に置かれた人はみな落ち着かない状況である、と読むこともできるし、それは彼女だけではなく、全人類的なモチーフに置き換えられる。その場合の胸騒ぎとはどうだろう。

 読み進める上での退屈の理由にはまず、主人公キャシーの同性の友人であるルースと異性の友人であるトミーの魅力の薄さがまず挙げられる。そしてその関係性の薄弱さもだ。
 特にルースは、この子と友人でいられるキャシーの気が知れないほどに嫌な女友達の粋を集めたような人物像で、人気の先生のお気に入りであることを誇示して鼻にかけたり、平気で誰かを仲間外れにしたり、恩着せがましく謝罪にも手柄が必要だと考えたり、親友の恋の芽生えを摘んで邪魔をしたり、全編に渡り皮肉めいていて魅力が一切なく、こんな子が一番の友だちなのだとしたらそんな人生はつまらないだろうなと思わせる。
 恋愛相手としても魅力的だとキャシーが感じるような相手は一切いなかったようで、その語り方は常に事務的であり、幼少期から三十一歳の現在に至るまで、情感的に異性を求めたことは一度もなかったようにキャシーは語る。素敵な女友達もおらず、恋焦がれた憧れの異性もおらず、楽しい仕事もないのであれば、子供も産めず結婚にも逃げられないそんな人生死にたくもなるよな、の一言で普通なら終わる。
 こと本作には魅力的な登場人物が少ない。語り手であるキャシーも、読み終えてからもその人物像は明確でもなければ魅力もなく、誰も彼もが個を排除した希薄な人物造形として群衆の中の一人であり、みな魅力な個としては描かれない。寄宿学校生活もほとんどなルームシャルでの生活は、描き方によってはとても魅力的な生活と多くの友人との関係性や教師のような立場の保護官を描けたはずだが、多くは外側の描写、とても視座の高い描写に過ぎずに終える、ここに情感が全くない。
 濃厚な魅力も複雑さもない人物造形の浅薄さはここでも健在で、やはり作者共通のものだとするなら、語り手に幼い背丈の主人公を置いて、寓話的な世界観で創作した「クララとお日さま」が自身の創作性における苦手と不出来を覆い隠し、魅力と得意で内包して作り上げた点において、間違いなく創作的な最高峰だとの確信を本作の読書中に、私はまたする。その点において、商業的には間違いなく成功し、それにより最高傑作的な位置づけなのだろう本作よりも、成長と発展性を後日作品に持った意味で私は著者への評価を上げたが、それらの憶測は全くの間違いであったこと読後反省したし、こんな退屈な小説がなぜ絶賛されているのかという謎に強力な答えをくれる。

 題名、わたしを離さないでは、作中で明言される主人公がお気に入りの曲名となっている。
 ネバーレットミーゴー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで………。
 キャシーの読解では、ベイビーは恋人ではなく赤ん坊ということになっており、それは誤読だと本人も認めているが、親も持たず、子も持てない、圧倒的な孤独が彼らにはあるし、自分は無価値で生まれて育ち、信頼していた大人たちにも嘘をつかれて、無意味に育てられる、その全体的で絶対的な虚無を抱えた彼女や本作らしいモチーフになっている。
 キャシーが自分だけのものと感じていた突発的な性衝動についても、どうしても生みたい子供、誰かと共になりたい、といった、孤独の埋め方と生命の価値の感じ方や証明の仕方、本質的な本能であり焦燥感であったのだろうし、後年ルースも告白したので彼女たち全体の問題や感受性による現象なのだろうと思わせる。絶対的な孤独を性衝動に重ねることしかできないとは生物的だ。管理された動物として、個としての一生でしか知の蓄積のない彼ららしい衝動の体感であり言語化だなと感じる。

 語られない部分の不確かさを脇に置いて、魅力的な一つの装置や発想だけでここまで描いてしまえるのは才能だ。『提供者』『介護人』『保護官』『ルームシャム』などの単語は謎に満ちて進む。『AF』や『向上処置』であれだけ書けた作家だから、いくつかのアイデアとモチーフで創作してしまえる器用さが分かる。
 提供者になる前の人間が介護をするという自助システム的な循環は、人種差別や職業貴賤等を思わせるが、その外側について本作は触れない。作中唯一の外部的な人物であるマダムと保護官のエミリ先生の言う活動、それを阻害するさらなる外部などといった告白の部分で多少伺い知ることは出来る。このあたりも、主人公の一人称では語ることができない外部が存在していて、それを奥行きや思索の余地といえば聞こえはいい。
 主人公は最終的には、友人にも恋人にも手を離されるし、それは先に死んでいった友人や提供者たちも同様、そして生きて残っている人間たちとも違う、死を待つ提供者たちもまだ違う。
 私は赤ん坊を抱けないし、私を抱いてくれる母親もいない、生まれて死んでいくだけのこの人生には何の意味も価値もない、圧倒的な孤独。
 そこで物語は終わる、読者は孤独の提示の前に置き去りにされるが、目の前で語られてきた孤独や、奪われてきた希望を前に、それ以上を語ることができないキャシーもわかるし、受け止める孤独として読者はそこにいることしかできずに終わる。

 本作の完成度は、非常に上手い、人称とアイデア装置とテーマ性の完全無欠な勝利だろう。
 創作技術的な刈込や人物造形は何とでも言える、だが振り返ってみたら全部あれでよかったような気もする、全く魅力的ではない友人たちや、どこも魅力のなかった散漫な教育機関でさえ、彼女にとっては手放したくない大事な過去であり、手放されたくない大事な私である。この創作的達成に気づいた時、私は感動した。
 個人的に本作は439頁中400頁はつまらない。2000年代に発表されるには古すぎる小説像で大部分をつまらなく書く英断から本作は始まる。魅力的な人物もプロットも持たないつまらない学校生活を、圧倒的なテーマで意味を持たせてしまう創作技術的な達成という離れ業を行う。テーマやアイデアへの着眼とその創作的な達成を可能する技術。
 語り過ぎない人称も、人物の浅薄や魅力のなさを上手く達成に向かわせる創作性として、世界観の曖昧にまで至らずにテーマに達する絶対性があり、その辺りのバランス感覚が絶妙だ。
 それらの離れ業で作り上げてしまう「わたしを離さないで」も達成だし、創作技術的な寓話性を人称でクリアし、得意の子供時代の魅力で描き上げた「クララとお日さま」についても、この作家の自身の作家性への自覚的なクレバーさが戦略的に際立って成功した創作である、という点において感嘆しか生まず、その意味で満点といっていいと思う。
 テーマと創作的な達成の合致、語りすぎない人称。作者の得意だけで構築した本作は、完璧な小説家はいないけれど、完璧な小説は生まれるという良い好例。恐れ入る。

 生まれの個性を使った初期作品の戦略性はやはり賢いし、その勝負のし方は計画的な知性だ。
 読むべき作家という価値を確立するためのこの作家の戦略性はとても高く、たった数作で世に出て、世界的な賞を獲り、地位を確固にする。幼くしてイギリスに渡った作者は血筋的には日系であり、処女長編からの二作は母国日本や長崎を舞台にした作品らしく、かと思えば三作目は徹底的に自国イギリスに沿った作品でブッカー賞、とにかく世渡りが上手いのであるし、それを可能にするのはやはり、テーマ選択と共に創作技術的な器用、これに尽きる。そしてそれこそが本作で炸裂したことからもわかるように、著者は自身の軽薄さと高い創作技術を認識している客観性を備えていて、非常に自覚的な知性を持っている。
 価値の創出から地位の確立までと、創作技術的な手際を思っても、その器用さは群を抜いていて効果的に作為目標を達成する、その手つきは鮮やかだ。
 ある題材を扱うということは確かに煩雑であり手間で、モチーフから豊かな物語の創作が可能なのであれば必要ではないし、作者は不明確で不器用で非効率的な知性としての個々の他者という人間性は興味がないのかもしれない。興味がない、だから魅力的には書けない、ならいっそ書かない。その作家的な選択は正しいし、作家は自分が書きたいものだけ書けばいい。

 やはり中盤の、ロストコーナー・ノーフォークはモチーフ的だし、明るかった。まだ知る前の明るさともいえるけど、その明るさだけが人生で、私は私の人生を手放さない、ともいえると思う。
 私を私足らしめるものは何なのか。クララではそれを作者は、彼彼女を思う人々の中にある(愛)としたが、それではこのキャシーは救われないことになる。ただ、彼彼女たちの記憶、生まれ育った場所とそこにいた私の記憶、は私が生きている限りに存在する、そんな感傷的な希望は多少残る。
 確かに彼女は職業を意思で選んではいないし、その立場はかつての友人が弱り、無くなっていく記憶を最後まで見届ける精神的な重さを持つ。しかし彼女は作中最後まで自分は介護者のまま、提供者に志願することはない、周囲に許されて介護者でいられる限りは介護者であろうとする、その生命で生きていく自由を手放していない。私はここに大きな希望を見たけれど、本作の創作性としては圧倒的な孤独の側にスポットが当たっているのだろうし、それは創作的に正しいし、読者にとっての情感の意味でも圧倒的に正しい。ただ、その孤独の価値はどうだ。

 そのために生まれた彼らは最初からその価値観の中に狭さの範囲を持っており、仮に彼女たちが私たちと同じような感覚で生きているのだとすれば、それは保護官たちの不手際あり、自我を与えたルームシャムは罪悪だということになる。提供者に志願する仕組み、自由意志に任せたところに外部や保護官たちは人権を組み込んでいるのかもしれないが、狭められた自由意志に価値がないように、狭められた価値観の彼らが感じる孤独は開けた私たちにとっての孤独とはおそらく異なるので、誕生と発育に囚われた主人公の孤独にどれだけ寄り添えばいいのか、読中私は迷った。
 どのようにして生まれた子供たちが集められているかの点では間違いなく人権の問題にはなるが、使用目的の決定した彼彼女に知的あるいは感的な人間性を持たせる諸悪から本作の孤独は生まれる。自由意志や生命の権利については勿論発生するが、それについて本作とその世界は一切触れていない。
 アイデアとして使っただけでは説明のつかない齟齬を寓話性で内包した「クララとおひさま」は、その上でどこかしら現実的な描写も存在したが、本作には現実感というものが明らかに欠けており、語り手の記憶と思考の内部記述でしか存在していない。これだけある一つの情感に焦点を当てた作品において、その発生にケチが付くのは致命的で、この素晴らしい孤独の邪魔をしている。
 知性や感性の培養は発育の過程にあると思えば、ルームシャムにて育った彼女たちの内外をもっと客観的に描かねば得られない情報が本作の孤独には必要で、思考実験的に言えば本作のそれは極めて弱く、400頁以上あってもSF的な要素を設定として使ったに過ぎない。

 著者には一つのアイデアで書いてしまえる知性も器用もあるが、題材や現実に本質的に向き合う姿勢や熱量が創作には存在し、それは完成度や情感で測れるものではない。
 SFの要素を借りて作り上げるのが孤独という情感だけなら、本作のあり方は少々稚拙である気がする。これが200頁の中編小説なら何の文句もない、ただ400頁も超える大長編で得るものが孤独と愛しさというのは骨を折りすぎている。ある意味で本作はひとりの女性の妄信の告白にすぎない、その狭さに気づいてからもこの大長編を文句なく傑作だと言うことがどうしても私には苦しい。
 所詮中編では代表作にならない、本作はそのために長編でなければならなかった、ならばもっと書けることはあった。しかし私の考えではこの作家はそれを書けない。
 ただ繰り返すが、作家は自分が書きたいものだけ書けばいい、その姿勢を読者は支持する。

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