G-40MCWJEVZR 「星の子」今村夏子 - おひさまの図書館
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「星の子」今村夏子

文芸作品
星の子

 十年越しの作家、とも言えるかもしれない。今村夏子という名前を私が知ったのは2011年の「こちらあみ子」の書評か何かだったと思う。そしてそのまま私は読書の存在しない長い空白に入ったので、本作が初対面ということになるが、なるほど噂の今村夏子はこういう作家なのか、と思った。
 29歳の時にふと書いた小説が2010年のデビューにつながり、2011年にその処女作を収録した一冊で三島由紀夫賞を受賞、(二冊目の「あひる」が2016年に出版され、)2017年に本作「星の子」で芥川賞候補になりつつ野間文芸新人賞を受賞、2019年に「むらさきのスカートの女」で芥川賞を受賞、現在43歳、偶然にも一つ前の辻村と同じ1890年の2月生まれらしい。文章にすれば順調にも思えるが、純文学の女性作家が29歳のデビューと二作目は5年後の空白の末、というところは少し気になるし、私は必ず「あひる」と「むらさきのスカートの女」を読む。

 冒頭から、本当にするっと自然に怪しい水の話が滑り込んでいて、ごく自然に静かに不穏な要素はちりばめられているし、それを普通の出来事かのように描写していく主人公の一人称も子供の目線で何も疑うところがないから、本作は224頁なのだが一気に読めてしまう。それはけっして台詞が多いからとか文字数が少ないからとかの理由ではないはずだ。
 子供のころ体の弱かった主人公を心配して色々な病院にかかり対象を心配する母親を救ったのは、父親の職場にいた磯崎さんが教えてくれる特別な水を含ませた濡れタオルで出来物ができるお子さんの肌を拭いてやりなさい、ということだった。その後、父親は磯崎さんの紹介で職場を変えたり、家には外では見ないラベルを張った水が常備され、主人公の姉は16歳で出ていくし、両親は親せきの集まりには歓迎されなくなり、家には豪華な仏壇があって、親子三人で住むお家はどんどん狭くなって、両親は普段バザーで買った緑色の全身ジャージを着ているし、主人公が食べるものを探して冷蔵庫の中に見つけるのは蒸した貰い物のジャガイモと豆腐だ。
 主人公の一人称で語られて進んでいく文章は、その一つ一つの事象を簡単に説明していく。過ぎていく毎日を簡単に説明していく、特にそこに特別な感情を挟み込まないし、純粋とも思える主人公の素直な説明の仕方は、自分自身にも及ぶ。甘いドーナツに夢中だったり、法事で出されるお弁当を目当てにしていたり、何人も存在する歴代好きになった男の子たちの理由は顔が整っているからだし、そんな頼りない主人公は現在中学三年生になっており、

志望校の理由を問われた時も

「わたしはみんなと同じだよ。少しがんばれば入れそうなところ。私立は無理だから公立で、あとバイトOKなところ」

星の子

友人に元カレとの復縁を進めるときも

「バイトはさあ、話しきいてみるとなべちゃんのためにするみたいだよ。デート代稼いだり、バイクの免許取ったり」

星の子

 親戚が心配して、春になって高校生になったら、両親から離れて通学にも近い我が家から通わないか、と親せきが口説いてくれる場面でも

「心配なんかしないで。しんちゃん、わたし大丈夫だよ。誰にも迷惑かけてないし、お金のことだって自分で何とかできると思う。おじさんが出してくれた修学旅行のお金は高校に入ったらアルバイトして全部返すって決めてるし」
「おじさん、おばちゃん、しんちゃん、心配してくれてありがとう。迷惑かけてるんだとしたらごめんなさい。でもわたしは大丈夫。ケーキごちそうさまでした」

星の子


 明らかに問題がある家庭環境で、それを水を吸うように抵抗感なく受け入れている主人公だけれど、台詞ではまともなことを言っていることに私は安心するし、頼りない地の文と違い、全編に渡って主人公の台詞による安心感が貫かれていて安心して読める。 そのことが「推し、燃ゆ」の不安定さとは全く異なる安心感をくれるから、安心して読み進めることができる。
 個人的には本作の盛り上がり部分とも言えるのが、主人公と友人とその元カレの三人を、主人公が密かに憧れて授業中にその似顔絵を十二枚も書き詰めているイケメン男性教師が、もう遅い時間だからと放課後に車で送ってくれることになり、主人公を下した近くの公園に不審者を見つける部分だ。ここは、家の中では見慣れた両親の慣習を、けれど室外で知人とともに目撃することで、主人公も初めて見たような気になる重要な場面。
 同じ場面を友人の元カレである新村くんが面白い言葉で表現するので、作中で一番の深刻な場面だと思われる一幕を物凄く面白可笑しく読ませてくるところに、この作者の魅力を感じた。作者の創作性が十二分に感じられるため比較として両方引用したいが、著作権的に許されないかと思うのであきらめるとして。私はこの引用の中で何度も笑ってしまった、しかしとても深刻な場面だ、なのに何度も笑ってしまえるし、きっと作者はそう読ませている。難しい言葉は何も使っていない、台詞ばかりだ、なのにこんなにも面白い文章になる。

 わたしはしゃくり上げながら、「南先生に送ってもらったときに公園で見た怪しい人、あれうちの親なんだ」といった。
「知ってるよ」となべちゃんは言った。「だって有名じゃん」
「……おれは知らなかった」新村君はいった。
「おれは本当に知らなかった、そうか、あれ林の父ちゃんだったのか」
「ごめんね」
「あやまるなよ……。そうだったのか、おれはてっきりかっぱかなにかだと思った」
「バカじゃないの」となべちゃんが言った。
「まじなんだ。そんなわけないとは思ったんだけど、なんか全身緑色に見えたし、頭の上に皿乗せてるし。それに隣のやつが水かけてただろ、皿の上に」
「隣にいたのはわたしのお母さんだよ」
「えっ。あれ女?」
「うん」
「……そうか、ごめん」
「新村、近視だから」
「そう、おれ近視なんだ」
「暗かったし」
「そ、そう、真っ暗だったし」
「……うちの親ね、普段から緑のジャージ着てるの」
「ああ、だからだ」
「頭の上にのせてたのはお皿じゃない」
「なにあれ」
「白いタオル」
「タオルかー」
「水をしみこませたタオルをね、頭の上にのせてると、悪い気から守られるの。うちのお父さんとお母さんはそう信じてるんだ」
「……そうか」
「うん」
「……そうか、信じてるのか……」 新村くんは困ったようにわたしの顔から視線をはずした。わたしは新村くんのことを好きだと思った。
「あんたも?」となべちゃんに聞かれた。「信じてるの?」
「わからない」とわたしはこたえた。
「わからないけど、お父さんもお母さんも全然風邪ひかないの。わたしもたまにやってみるんだけど、まだわからないんだ」
「ほんとだったらすごいと思うけど」と、なべちゃんはいった。
 わたしはうなずいた。
「そうだね。ほんとだったらほんとにすごいんだけど」
「……でもさ、外でそれやると目立つからやらないほうがいいよ」
「うん」
「お父さんとお母さんにも、いったほうがいいよ」
「うん」

星の子

 この友人のなべちゃんもいい、小学生からの知り合いなのだが、公園でそんな不審な行為をしているのは誰の親で、どの子がその娘なのかは有名な話だというのに、それでも主人公との交流は続けてくれていて、でも友達ではないと距離をとる口ぶりも、むしろ主人公のために距離をとっているかのように思える。このなべちゃんだけでなく、クラスメイトの何人かが登場するがその誰もが基本的に主人公に対して陰湿な部分は感じられなくて、むしろたいてい優しいのも救いだ。小学生から中学三年生の現在までの間に、通常なら仲間外れやいじめに発展していてもおかしくないのに、その描写は一切登場しない。主人公が気づく範囲には存在しないだけなのかもしれないが、主人公の内面に陰湿な影が存在しない理由と、逆にその不利益が存在しないからこそ両親への疑念や動転に発展しづらい理由でもあると思う。

 ICチップとか撲殺リンチだとか急に物騒な言葉が流れ始める終盤、少しずつひたひたと、主人公家族が参加している団体の不穏さが、この作品なりの不穏さであらわされ始めたところで、物語は終わる。それは家族の場面だ。
 逆に気づかなくなっていい、この何かわからない世界が私を騙し続けてくれるのでもいい、催眠術で閉じ込めてくれるのでもいい、そしたら私はこのまま家族と一緒にいられる、父と母はまーちゃんを失った時のようにまた悲しまずに済む、今度は私が悲しませずに済む。もうきっと他の大人は私たちを放っておいてはくれない、友達もだ。そしてきっともう私もこの感じ始めた異常さを無かったことには出来ない、この悲しみもなかったことには出来ない。家族が離れてしまわないように抱きしめるこの腕の中は温かい。でも時は止まらず、星は流れ続け、主人公は眠りに落ちたい、身を委ねたい。
 という祈りだと思い読んだ。この世界や愛する人たちや自分の人生に対する、絶望でも希望でもある、一瞬目を閉じて祈る、星を探して張り詰めて乾いた眼球にまぶたが熱くも優しいのだ。
 たまにこういう、明言されない作品があり、私は創作的には嫌いなのだけど、テーマや主題を考えさせる意味では同意する。読書はどんな読み方をしてもいい、どんな読み方をしたと話して書いてもいい、読む人の数だけ違う読み方があっていい、読み方に正解も不正解もなく、面白い読み方とつまらない読み方があるだけだと思っていて、だからどんな読書感想文にも書評にも価値がある。
 誰かの読み方を知りたい、正解を知りたいと縋るのもいい、一般的な人はどう読んだのかを気にするのも普通のことだし、この人はどう読んだんだろう?と個人の読み方が気になるのもいいし、自分が一体何を読んだのかわからなくても別にいい。
 私は読んだ、こう読んだ、この人はこう読んだ、こう書くのか、そして作者は書いた、こう書いた、ただそれだけに映る実態のない文章や物語が私はたまらなく好きだ。そしてそこに映るその人の知性と感性、表れる文章が好きだ。

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