面白かった!!
最初は、資産形成や年間配当を増やして自分の分身を作る、という主人公設定をメインに興味を引いたが、中盤以降の展開はその主人公=彼女から見た恋人の傾倒するオンラインコミュニティ・現代的なカルト集団の様相や、「資本主義(労働より金融)」と「ポスト資本主義(脱紙幣~新しい幸福構造と常なる旧態依然様式)」的要素の2つのモチーフの選定は今回も光っており、作風は継続を感じるものの、2015年に芥川賞受賞作『スクラップ・アンド・ビルド』と同じ作者なのが信じられないくらい広いモチーフテーマとエンタメ的プロット展開に込められた確かな文学性に、少々驚いた。
デビュー作の系譜で正統な成長をした作品で直木賞を受賞した千早茜でも嬉しかったが、著作列から見られるこのような成長や活躍は好ましい。
先週の羽田圭介①ではその弱者男性感モチーフの魅力を前面に扱い、著者単独の評価の面では悪めに書いてしまったけど、その心地でどうせ設定頼みのつまらない読書と記事になりそうな負け戦感があったが、想定違い、現代文学性、自分の作風、どちらもあります。
偶然にも、再来週に働く読書習慣系の記事で扱おうとしていた社会性や金融的な孤立や高慢なども関り、そのイメージやモチーフがあるからこそそういう読み方をしたのかなとも思うが、それにしても本作には魅力も気概も感じた。弱者男性感は控えめ、それが良かったのか悪かったのか、著者の個性はどこなのか、それは分からなくなった。



資本主義と脱資本主義の交差、信仰や幸福への意思とカルト
『Phantom』(2021)
主人公・華美は、外資系食料品メーカーの事務職勤務で年収は250万弱、生活を切り詰めて株式投資を行い、給与収入と同等の配当を生む“分身”システムの構築を目指している節約系投資家。 恋人の直幸は、”使わないお金は死んでいる”という聞きかじりの思想を持ち、華美の投資や貯蓄志向を笑いながら、オンラインコミュニティ「ムラ」に傾倒し、やがて集団生活に移行するのだが、華美は直幸をこの「ムラ」から救い出そうと脱出劇を企てる。
オンラインサロン的活動、月額有料会員制、地方移住・助け合いを名目としたインフルエンサーのコミュニティという形式が現代的なカルト集団めいた側面を露出していくに従い、繰り返される新世界やカリスマ要素の構造が見えてくる。 お金・時間・肉体・信仰の交錯が描かれ、資本主義や貯蓄・投資、共同体的生活が生み出す幻想や強制と暴力、脱資本・脱貨幣的志向が成り果てる半ユートピア。現代の資本主義的な格差やマネーゲーム性と、オンライン時代の新しいライフスタイルや信仰めいた共同体構造が交差する物語。
数回前の津村記久子『ポトスライムの舟』(工場勤務の低収入女性が自分の年収と同等金額で世界旅行に行けるから副業収入のみで生活して一年間で旅費を貯める話)を読んだあたりで、本作のあらすじの中の「資産形成をして配当生活システムの構築を企てる」要素に同類を感じて羽田圭介を読もうと決めて、受賞作と最新短篇集『バックミラー』を読んだ前回、ひどく狭い弱者男性文学性に驚きつつ、芥川賞を見る視点の一つが浮かんだ。今作は打って変わってとても社会的な広さを扱う前提にまたしても現代の弱者層の絶望と希望化を発端に置く上手さを感じさせる一作に展開していく。
このようにして『ポトスライムの舟』と『Phantom』の要素を並べてみると、「労働や人生に価値を見出せず」「工場勤務の低収入な社会的弱者」「モチーフ選定の定評と文章力微妙な作者特徴」等からも類似点が見つかるし、やはり芥川賞=現代弱者(男性)文学、という要素が感じられて香ばしい。
でもそんな狭い話に、どれだけ現代描き切ることが出来、読書として楽しめるか、という視点があり、設定や発端である株式投資や配当金投資で生活をするという前提物語に惹かれて読み始めた読者に対して、どんな衝撃と説得力でテーマ消化を期待して読むと、少し的外れな感はある、という所感になるだろうか。設定や展開の飛躍は評価できるが、作品性として完成しているかは微妙。
であるにも関わらず、私は記事を書いていてとても面白かった理由はどこにあるのか?

17>華美は元手として八〇〇万円ほどしか費やしていない。日本円換算にして年約八〇万円の配当を生み出すシステムを構築できたのも、七年前から度々世界中の株価が低迷したタイミングで、高配当優良株を安く大量に仕込むことが出来たからだ。
華美には目標がある。五〇〇〇万円だ。
配当株十数銘柄へ分散されたそれだけの金融資産があれば、年利五%で運用しただけで、二五〇万円の配当収入を毎年得られる。働かないでも、会社からの今の年収とほぼ同額を得られるわけだ。
そこまで達したら、毎年生み出される二五〇万円を頼りに、会社を辞めるのも一つの選択肢だ。少なくとも、数十年間減配・無配なしがほとんどの米国株配当銘柄の集合体は、アメリカ本社の都合で好き勝手にやられている日本の暖簾分け企業より、信頼出来た。
31>華美はリビングから和室に異動し、ふすまを閉め部屋を独立させた。寝ころびスマートフォンを開き、「食費二〇〇円で二億円! アーリーリタイアを目指す会社員ブログ」の新着記事を見る。米国株のみに投資しているその人とは手法が似ているため、参考にしたりぺ時view数で応援する意味合いもあり、華美は週に数度チェックしていた。会社で管理職についているその独身男性は五〇歳前後の人で、毎日のように閉店間近のスーパーで半額のしなびた天ぷらや半額のうどん、半額のもやし等、とにかく半額のものばかりを食べ続け、浮いた金を全力で投資に回している事が、毎日の報告として書かれていた。
36>会社から帰宅後、簡素な自炊で夕飯を済ませシャワーを浴びると、華美はニューヨーク市場が始まるのを待ちながら、テレビのニュース番組を見ていた。
~午後一〇時二〇分になった時、華美はノートパソコンの電源を入れ、玄米茶を淹れた。入社二年目までは毎日飲んでいた酒も、今は週末たまに飲むくらいだ。税金を高くとられる嗜好品は、切り捨てた。
それに、数十年後には何億円にも増えているはずの資産を使うためにも、長生きしたい。お金のことをつくつめるとおのずと、早く死ぬ前提で激務と派手な浪費の不摂生な生活に励むか、長生きして金の効力を愉しむべく健康志向になるか、どちらか選ばざるをえない。
74>若い女性は珍しいのか、華美に興味津々という態度を露にする。老男性三人は同じようなセミナーや優待銘柄の株主総会、優待券を使える都内の映画館やレストラン、カラオケ店で何度も顔を合わせる間柄らしい。
楽しそうに語り合っている老男性たちは、お茶やコークのペットボトルに水道水を淹れた者や手製のおにぎりを持参し、低価格アパレルメーカーの作る服に身を包み、タイヤメーカーブランドのスニーカーを履き、華美とおなじく格安スマートフォンを持っていた。
やがて三人は華美に対し、働かないで配当生活を送るための投資の心得や節約術について語り出した。華美はなぜかしら彼らから目を離すことができず、相槌をうちながら聞く。経済情報に限らず、知性を研ぎ澄ませた蹴れば大型書店やインターネット通販サイトでめぼしいほんの著者と作者名をメモにしるし、後日図書館で借りて読むことで書籍代を浮かし、食事は徹底的に自炊を貫く。やむをえず外食する場合も株主優待券が使える店に絞り、それはカラオケやボーリング、映画館といったあらゆる商業施設でも同じだということ。
~三人それぞれの金融資産が時価総額にして一億円を超えていると聞いて、驚いた。一億円分以上の金融資産を手にしても、タイヤメーカーブランドの靴を履くのか、そして優待券を消化しきるために自由を奪われているようにしか見えない彼らの姿が、最近目にしたなにかに似ていると思った。
家賃四万二〇〇〇円、と誰かが口にしたとき、華美の頭に県営住宅の光景が浮かんだ。テレビで見た、古く狭い部屋だ。たしか、夜のニュース番組で扱われていた、生活ほぼ受給特集で見たのだ。モザイクがかけられ声も変えられていた画面の中の受給者たちの生活と、ここにいる配当生活者たちの生活様式が、ぴたりと重ね合わさる。
このあたりの価値観なんかは、株式投資を少しかじったり、xの投資界隈で暮らす人にはなじみがある定義や生活様式な気もするし、それはとは無縁の一般的な方からしたら新しい価値観に触れられてキャッチ―なのかなと思うし、一つの提示にはなっている。
高配当銘柄5000万円運用にて配当金年間250万円を目指し、給与労働をする自分の分身=味方の価値と可能性を信じてひたむきな主人公の姿が描かれる序盤と、短期売買によるトレード行為から大衆性と弱者としての自分や幻想としての資産額などの幽霊性/ファントム性が交差する部分には、株式投資における奥行きや翻弄が描けたと思うが、そこが弱いのも微妙と言えば微妙。配当金生活を目指す過程は中長期的資産形成になると思うが、その特色の落着として、主人公はセミナーで出会った金融資産1億円を突破したいわゆる”億りびと”3人の男性と出会うが、その生活は質素倹約の貧乏生活で子どももおらず外食の楽しみ方も不憫に映る、というありがちの帰結を果たす。中短期で資産形成するそちらの側面と異なる短期トレードの側で負債を抱える一夜と大衆追随の弱者に回る側のモチーフ性の創作的な整理や際立たせ迄届いていないから、主人公側のテーマが曖昧なのは減点かなと思う。配当生活と貧乏生活のマッチか、タイトルに関連するトレードと大衆の幽霊性や弱者性等の、両方のモチーフを上手く仕えていないし、細かなことかもしれないが、配当利回りなどので頻出する漢数字表記で読みづらいのは気になる、この辺りは、漫画版のがイラストや構図がシンプルに見やすかったが小説版では把握がしづらかった『派遣社員あすみの家計簿』が思い出された。数字を扱う場合はやはり横文字のが読みやすいですね、私のブログも数字の表記は難しいなと感じつつすべて数字で書いていますが、縦書きや基本漢数字ですものね。

46>自分は特別な一人であるという意識からの解脱が、肝心だ。大衆と化し、大衆たる自分がどう動くかの予想のわずか先に、勝機を見出す。
ニューヨークの市場やナスダック市場の開始から一時間ほど経過した頃、華美は苦戦していた。”自分たち”の数手先を読み出し抜いたつもりでも、どこまでいっても”自分たち”に追いつかれる。十数分後に株価が急上昇することを見込み買い注文を入れようとした銘柄は、華美が注文操作を入れるより数秒後に急騰した。反対に、大衆たる自分を裏切ろうとして波に立ち向かい、マイナス材料だらけの割安株を買った数秒後に買値より下落し始め、大衆と比べ大負けした。
一昨日一気に増やした短期用投機資金をすべて含み損に変えてしまった華美は、パソコンの前で身動きが取れなくなっていた。まるで相場に参加している自分の一挙手一投足や思考を、得体のしれない誰かに、すべて見られているとしか思えない。売ればその直後に値上がりしたし、買えば下落した。
87>走っていた軽自動車に対向車の大型セダンが無理な右折をして正面衝突。軽自動車を運転していた二五歳の会社員女性は死亡し、大型セダンを運転していた八六歳の男性は軽傷だという。
軽自動車に非のある事故ではなかったのだ。テレビカメラは、前側がぺしゃんこになったピンクの軽自動車をアップで撃つし、その直後に、フロントバンパーが少し凹んでいるだけの、グリルの大きなまるで電車みたいなセダンを映す。とても車同士で正面衝突した事故には見えなかった。衝突のエネルギーは、どう分散されたのか。
「さすがロールスロイスは頑丈だな。軽じゃひとたまりもない」
「そうなの?」
「あれはファントムだから、五〇〇〇万円以上はするよ。金持ちが死にたくなくて買うあんな頑丈な車にぶつけられたら、燃費第一で軽量化してアソビもない一〇〇万円の軽自動車は、ぺしゃんこになるよ」
次のニュースに移っても華美は、二台の映像を頭から追い出せなかった。そのうちに例会から迎えが来るであろう八六歳の老人が無理に右折したことで、二五歳という華美よりも年下の人が軽自動車の中で押し潰されて死んだ。仮に、二五歳の女性も、老人と同じく電車みたいなロールス路オイルに乗っていたらどうだったのか。正面衝突ならそれなりに衝撃は生じるだろうが、軽自動車のように片方が一方的に力を受けぺしゃんこになるということは――まだ未来がある人が死ぬことは、避けられただろう。
五〇〇〇万円のロールスロイスを買ってさえいれば、助かった命。
使わない金は死んでいる。
華美の頭の中で、さきほど直幸が口にしていた言葉がよみがえった。
資産管理アプリによると、今日時点での華美の全金融資産は、一八〇〇万円ほどだ。はいとうきんで暮らすシステムを作るにはまだまだ足りないが、なにかを買おうとしたら、色々なものが帰る。株を買うことは、なにかを買ったりするうちに入らない。
死んだりしないために、今すべきお金の使い方があるんじゃないか。
使わない金は死んでいるし、金を使わないと死ぬ。
題名が示すところのPhantomには複数の意味があり、株式相場でマネーゲームに興じる自分を含めた大衆性に自覚的になりながらトレードをする場面、5000万のロールスロイスと100万円の軽自動車の事故場面において資本主義的な交錯と現実を目撃する場面、自分が働かなくても配当金を稼いでくれる分身であり仮に自分が死んでからも口座で増殖を続けるイメージすら持てる資産の幽霊性への信仰具合、など、ある程度のモチーフの描き出しには成功しているが、そもそもタイトルとしてダサいので、もう少し虚構的に狙ってあげても良かったかなと思う、この辺りはセンスやタイプの問題とも思うが、虚構創作技術とか一般化するだけの実力がまだ著者にはないと感じる。ただ、純文学系の作家が社会的な題材で書くということがまず難しい脱皮だと思うので、姿勢は良い。素材選定の意欲や現代性意識などはあるし、そうした時代性を前にした弱者男性モチーフの使い手というのは結構面白みがあるので、非常に勿体ないなとは思うし、本作の満足度が弱いのも結局はそういう部分の実力不足があるだけで、素材としてはとても可能性を秘めたものに感じた。上手く書けていないだけで、面白くなる可能性はいくらでもあったし、有価値に成る可能性も幾らでもあった。
そういえば華美の元アイドル設定やコスプレイヤー活動の設定はどのように生きて、そしてまたストーカー要素が出現したりしたわけで、それらも幽霊的要素として収束させればいいのだろうか? 不十分に感じたし、カルト構造の中で女性の性的搾取に関する部分が生まれる前に、芸能活動をする女性がその構造の中で巻き込まれる性的搾取の萌え芽みたいなものを出したかったと思われる部分など、いくらでも使いようがあったと思われるが微妙だし、それらの苦渋や羞恥の反転として若い体を維持しようとしたり、その活用や承認欲求としてのコスプレ活動なども関連余波を感じるのに微妙なまま放置されているし、それら女性的な要素の濃厚や収束を描くには根本的にこの著者は女性を描くことが不得意であり、魅力に辿り着くことは不可能に近い気もした、これは前回記事でも触れた。この点は間違いなく低評価、女性を魅力的に描けない作家は男女老若男女問わず魅力が弱く感じられるものであり、作家としての大減点対象で、商業性が弱いのもうなずける。本作も、主人公性を男女どちらに入れ替えて、恋人をどちらに入れ替えても成立しそうな感じが弱いなと感じるし、それにしても少し顔が良いだけの男が中年になってモテなくなったから何にもなれなかった自分を忘れるためにオンラインサロンに入会して金魚の糞よろしく自己肯定感を上げていく弱者男性を遠巻きに描く部分は上手いので、女性側だけもう少し何とかならないかなと思うばかり。
金融資産や貯蓄の感覚で暮らす主人公に対し、資産や消費の価値観が違う恋人が執心するオンライン・コミュニティや信仰がメインに展開しはじめると、前半の主人公側の株式投資的生活との価値観の相違が描かれ、後の展開や落着には前半の肯定は少ない為、現在株式投資やその資産構築に興味や信頼がある読者からすれば面白くない進行に映る可能性は高い。ここが、あらすじやキーワードで手に取った読者層をどう楽しませるのか、或いは裏切ったうえで何を突き付けるのか、の実力や筆力ありきの戦略をとる視座があったかどうかが問題で、本作の作りは恐らくただ客寄せした上で逆を突き付ける衝撃性を武器にした結果の期待外れが、読後感のスポイルに繋がっていると思う。
個人的には、主人公である彼女側が信仰する資産形成の構築性にも肯定的だし、そちらの物語が読んでみたかった思いもあるが、それと交差するようにその恐怖や他軸として差す現代カルト性なども面白く読んだため悪くなかったが、読後感の悪さや途中から楽しめない読者層も感じるため評価は分かれそうだし、黙らせる一体感やの物語の強さみたいなのの弱さも問題とは思うか。
本作がただの節約生活や株式投資という資本主義社会に起きた必然性と偶発のおこぼれ要素をシンプルに描かず、対岸に置いたカルト要素を中盤以降の主軸に置いたことは私は評価するし、そういう作品は、例えば中村文則とかが書いていそうだけど、虚構創作は結構されているのだろうか、私はあまり読んだことがなかったので新鮮でもあった。女性作者で言えば宗教二世を描いた今村夏子『星の子』でも、信仰や指導者や構造の中の搾取やリンチの要素なども描かれたが、本作に置いて言えばそれらが「オンラインサロン」「サステナビリティ」等現代キーワードを使用し、よくある胡散臭さをまとわせながら描けたことがリアリティに繋がった点でも、3冊しか読んでいない著者に感じる軽薄さや時代迎合の姿勢と上手くマッチしていて、その点も加点に繋がった気もする。武器や特徴を生かす、ということは評価が高いし、自身の軽薄さをむしろ理性的に扱えるというのは特に高い。

新しい倫理や人類の進化を語る時、
むしろ最も古い支配の形を再生する
インフレや副業が加速し、国の社会保障や年金制度が崩壊する様相の現代にあって、資産形成が個人の自己責任や自助努力に押し付けられている現実的に、投資題材やそのミニマム生活は質感も手触りだけでも魅力的に映ったりもするし需要もあるが、その客寄せパンダを否定しつつポスト資産主義的な要素が暴走してカルト宗教性に加速していく中盤以降、この描き方が上手かったかは難しいが、提唱し警告したかったテーマは明確かつ冷静で、とても筋トレと介護で芥川賞を採った狭さの作家がそのまま書けるものではなかったため、2015年の受賞から2021年の本作までの6年は価値があるものだったのだと思える、そうした補強が作家人生には必要だ。
カルト集団の歴史や、彼らの新機軸的妄想の無知、信じてやまない新しさと繰り返す歴史、類似傾向や心理、リンチや性的虐待など、構造の中の個人や歴史の中に類似していく現象について、非常に理性的に虚構創作されてたなと感じた。
弱者男性の内側を掘り続けるだけでは描けない作品として、大衆弱者が生きる個の現代や社会的な本流や暴走を含めて描き出すこの手法は作家としての姿勢や視野の広さを感じる。


本作の読みやすさとして、資本主義と脱資本主義の交差を描く際に、その焦点として1組の男女を置いたシンプルな構成があげられる。
主人公・華美と、恋人・直幸の2人はそれぞれ異なる価値観や金銭間の不一致が作中に起こりプロット展開を作りつつ、それぞれのテーマモチーフを全うしていく。華美の「株式投資」「配当で収入を得る分身システム」志向は、資本主義の中で自己の労働性と金融性をして「使わずに貯めて権利収入を得る」理想像を体現しようとするものである一方、直幸の参加するムラは、「紙幣社会からの卒業」「共同体に帰属する」「既存経済を超える」という志向を持っており、これにより資本主義的な生き方とその裾野からの脱出願望が対立する。この二重交差のモチーフ主題性は著者作風であり、良点だなと感じるし、双方どちらも現実現代的なモチーフ要素を拾い上げて虚構創作するセンスは毎回一定以上に感じる。
本作は、資本主義・脱資本主義のどちらの方向にも純粋な解答はないことを提示しており、どちらも幻影になりうることを描く。投資も共同体も、新しい生き方や選択や自助努力を謳いながら、実際には搾取・歪み・孤立を生む可能性を帯びている。
新しい共同体/アップデート等の言説の危うさから本作を読み解けば、中盤以降の舞台となる”ムラ”は「人類のアップデート」「最先端」「革命的」という言説を掲げ、言葉自体は魅力的ではあるものの、ある程度社会性や常識を知る者からすれば過去に既視感のあるカルト構造の反復であることが分かるのだが、 昔あったものを知らない・理解しないまま新しいものとして飛びつくことが、むしろ同じ構造を再生産してしまうという警告が込められていることが分かるし、彼女の立場から華美も何度か直幸に直言するが、異なる価値観に生きる者同士の言葉は苛立ちにはなっても親身には響かない。故に1組のカップルが主義的な相違ですれ違う恋愛プロットを描くことに成功する。(ただここに、出会いから情動のメロドラマもなく、双方少しルックスに秀でた低収入である類似性以外の設定もなく、すでに恋愛関係はマンネリ化しているので、読者的にはこのカップルが別れようと主人公が元カレのフリーの傭兵(??)と寄りを戻そうと、別にどっちでもいい感じが、本作の虚構性やドラマ性の弱さだし、完全に著者の不足を感じる部分でもある。その意味で感情移入も応援も出来ない弱者同士のメロドラマであるところがリーダビリティの弱さ)
もう少し踏み込んで、肉体・自由・主体性の喪失などといった要素で本作を読むと、華美も直幸も、会社・株・コミュニティという仕組みの中で自我を揺さぶられていおり、特に直幸はムラにおいて集団生活を始め、個としての自由・判断が奪われかねない状況へと転じていくことを、本人視点では描かれず、相反していた華美が大枚をはたいて直幸を助け出そうとする所で本作のプロットが大きく動き、ドラマが描かれることになる。
「人間の肉体が欲するもの…中央集権的に不自然に集まった力が向かう先は、過去のカルト集団と同じになる」などと本文でも述べられているように、肉体・自由・主体性の抑圧が構造としてそこに見えるし、故にその悲劇性には既視感があり、生物が繰り返す悲劇の物語の陳腐さはその身体性にまつわるとした矮小な視座で締結できることにも思い至るし、やはりカルト集団が信仰する或いは制度化し既得権益化する欲望の陳腐化もわかりやすくなるが、それが現実なのだと進行する場合の恐怖は感じる。
もう一つには、そうした物理性から離れた「幻影(Phantom)」としてのお金・信仰・共同体の面で見れば、株式の評価額が幻影のようでもあるし、ムラという共同体も幻影のようであるし、本作では「お金」「信仰」「共同体」「アップデート」というものが実体/実効あるものとして見えながら、実は幻影にも似ており、主体を惑わせるものとして描かれ、どこに真実や現実性があるかは不明確のまま、著者も明確には描かずに完結させる。この点で、「新機軸的妄想の無知」「信じてやまない新しさと繰り返す歴史」「類似傾向や心理」の問いが、本作全体を貫く動機になっていく、この辺りの空白や余韻は悪くはないが、強い印象までは届かない。筆致、表現力、その辺りはやはり弱い。
自由と幸福を求めて共同体を作るとき、なぜいつも人間は誰かの自由を犠牲にしてしまうのか?
カルト構造だけでなく、現代の理想主義全般(脱資本・自然回帰・持続可能性など)へのメタ批評でもあるし、共同体という幻想の危うさでもあるし、社会的理想の裏に潜む人間の肉体と権力の原型なんかを書く著者だとは思っていなかったので驚いた、なぜラブドールとか筋トレの話とかを書いたのか?ブレーン的な意味のPhantomを感じるくらいに外部的な要素で尽くされた本作、私は面白く読みました。現代的弱者、資本主義やその脱出やそこに繋がるスローガンや生活習慣、その為の節約や資産形成或いは既存社会からの解脱など、要素が多い本作、どう読むかは人によると思うので、感想聞けたら面白いなと思います。
「ムラ」=ユートピア幻想とカルト構造の交差点
カルト集団には社会学・宗教学・心理学において、いくつか典型的な構造が指摘されてる
・一人(または少数)に象徴される指導者/カリスマ的存在
・会員(信者)が日常生活・価値観・行動様式を集団の枠内で再編・統制される
・集団外部からみると異様に見える信奉・服従・他者との切断
・財・時間・肉体・自己犠牲を要求するケース
・「新しい世界観」「既存社会からの脱却」
「アップデート/革命」の幻想を掲げる
・社会からの疎外感・不満・破壊的な力を背景に、共同体化が機能する
このような構造が、本作の「ムラ」にも明確に投影されている。
女性たちが人類のアップデートと称して洗脳され、幹部の子を産むように強要されたり、断れば水攻め、性的接待によって幹部候補生へ大出世、などの胸糞描写もありますが、狭いコミュニティにおける権力構造を含めれば仕方がない帰結だし、生物的に起こりうる必然や欲望にバリエーションがあり、人間が幽霊性ではなくあくまで生物性である限り、力や収束が向かう先は新世界性とは程遠く、カルト構造や社会構造におけるジェンダーや身体の扱いの狭さが分かる部分。
このような暴力・性的搾取・物理的拘束・集団内の制裁(リンチ的構造)などは、実際のカルト集団が外部から批判されてきた点でもあり、共同体という名のもとに、個人の肉体・自由・意思が抑圧され、「新しい共同体志向」が常に暴力構造を内包しうることを示唆し、その歴史的反復が描き出されていることが本作の注目点の1つ。
この辺りもまたジェンダーディストピアや現代のディストピア性に関わるし、共同体としての人類の中で女性が果たしてきた役割、或いは今後果たしていく役割、ないし選ぶ自由と尊厳の本質等のテーマが見えてくる。



本作ではムラにおいて女性たちが幹部の子を産むよう強要される描写や、裸でマッサージしたら埼玉支部長になったという会員の身体性を活用する搾取的エピソードも挿入される。こうした描写は、カルト集団が肉体を道具化あるいは犠牲化する仕組みを象徴しており、そこにあるのは性的/身体的支配へ繋がり、それが以降の集団的暴力やリンチ的構造の正当化、そのようにして集団内部の権力序列や維持にも繋がる内的事情も見てとることが出来る。
女性に向けられた構造上の不遇や身体的役割や圧力に対し、下っ端男性や幹部男性の明確な被害は本作の表現上は描かれず、悲惨さは集められた女性からの搾取や暴力にのみ終始している、というのがまだ薄っぺらいが、共同体の中で一番騙され一番搾取されているのは誰であるかの視点として、またも身体性が浮かび上がるし、ジェンダー搾取が最も目立つ幼稚さしか転がせていないのが本作の限界とも思えるし、この組織の幼稚さとも思える。つまんないことに執心している組織は、つまんないことでよく転ぶ。
主人公は恋人のこのムラからの逃走に手を尽くすが、男性である恋人は現状まだ不利益らしい不利益をこうむってはおらず、すでに不遇状態にある女性を救うことは、主人公女性がアイドル時代の過去の自分という女性性を救うことの翻訳でもあるし、それは現在コスプレイヤー活動で自己肯定感を上げる趣味的な行為とは他者貢献的にもまったく異なる、ということなどは明確には描かれずに捨て置かれるし、男性性側はムラを進行した結果に全財産を奪われ、今更誤りを認められずに突き進むしかない、という要素は描かれるが、その不便さ、上位に騙される下位の弱者感までは示されない。
心理的支配・信奉・洗脳の面から見るとオンラインサロンの「ムラ」の構造として、「月額会員制」「集団生活」「最先端を採用しているという自己肯定」などが描かれ、書店など一般的に流通する場においても軽率に出版物に同等と紛れ込むインフルエンサーやその子銭稼ぎも相まって、信奉や盲従の心理メカニズムと重なっていく。作中の「ムラ」は、「資本主義的競争から脱した理想社会」「貨幣を介さない共同生活」「自然と調和する暮らし」といった現代的理想郷の言葉で装われていますが、その内部では次第に以下のような古典的支配構造が出現します。
・指導者・幹部による序列と絶対的服従。
・「人類のアップデート」「進化した生き方」
といった新しさの言語による正当化。
・肉体の共有化・出産の義務化など、
個人の身体の支配。
・外部は堕落した世界として断罪される閉鎖性
ここでは、新しい時代の価値観として打ち出された「脱貨幣」「脱資本」という理念が、実際には「脱・個人」「脱・自由」へと反転していく過程が描かれ、そこにも実体を持った人間が作り出す構造的な矮小さを見て取ることが出来る。
歴史的にも集団内部での異端者や離脱しそうな者への制裁としての恐怖という典型的なリンチ構造は存在していただろうし、それが制度としての権力規律や維持を目的化してループする仕組みは想像しやすい上に、そこでもまた肉体の道具化のようにカルト集団構造の継続化の形状としては限定性があり、歴史的な類似や回帰性が思われる。
カルト集団では、内部秩序を保つために暴力が浄化として機能し、異端や脱走者への制裁が共同体の団結を強め、性的奉仕が愛や進化の言葉で正当化される。それら恐怖と救済がセットで提示されることで、依存が強化されていく。
『Phantom』ではこの構造が明確に描かれ、特に女性の身体が共同体の理想のために使われるという形で、ユートピアの裏側にあるディストピア的真実を露呈させることに特化している。ただ、なのに主人公を女性に設定し、過去のアイドル活動や現在のネット上でのコスプレイヤー活動等の、女性性の消費やそのたびに被った弱者として搾取構造被害をどのようにも扱えずに、そうした女性たちを構造から救い出す中盤以降の展開においても恋人を救い出すことにだけ特化して、女性性へのヒロイックは表現上は封印しているところが、恐らく著者のジェンダーや構造の中の弱者への視点は希薄であることを思わされ、やはりこのあたりに著者の興味の浅さや類型の限界を感じたりもしたが、どうなんだろう。
現代における文学性にジェンダー要素が強すぎることはそれもまた問題だとは思うが、描ける素材を採用しておいてそれを描かないというのは不誠実か実力不足かのどちらかだと感じる。
「新しいライフスタイル」という神話の罠
本作に登場するオンラインサロンの発生型である「ムラ」的共同体は、見た目こそ「サステナブル」「自給自足」「脱資本主義」「人間の再生」といった理想的で現代的な言葉で飾られていますが、実態は古典的なカルト構造の再生産であり、ここでも繰り返されるカルト性や構造の中で騙される個人が浮かび上がる。
ムラでは、貨幣や個人資産の価値を否定し、共同体の中での共有や互助が理想とされるが、そのようにして貨幣を否定した社会では人間の身体と労働時間が通貨化する社会に戻る、という逆説が生じる。
かつての宗教的共同体が信仰の名で信者の人生を支配したように、ムラでは脱貨幣という理想のもとで、労働・身体・性愛・忠誠といった人間の最終的リソースが搾取の対象と転化していくが、この時点ですでに懐古を原点回帰の美徳で覆うこの構造は、実在のカルト(オウム真理教、統一教会、人民寺院など)にも共通する。いずれも「金銭を超えた価値」「精神的救済」「人類の進化」といった理想を掲げながら、結果的に指導者や幹部が富・権力・性的支配を独占する構造へ転化していくためのシステム作りのスローガンに過ぎなかった、と外側から構造を見ると思えるその批評性を、取り込まれた人や思考を奪われた弱者性には映らないし、気づいてもすでに構造からは抜け出せない作りになっている。
ムラの掲げるスローガン、「アップデートされた人類」「持続可能な生」「現代社会のリセット」は、新しい時代の言語としてのの権威性に依存した信仰体系であり、既存社会(資本主義・競争・孤独)への幻滅は、過去とは違う場所や行為に希望を見出したい欲望を掻き立て、最新や革命という言葉による正当化を促す。その間、批判的距離をとる思考を古さとして排除する常なる現代性が存在し、「新しいから正しい」「先端的だから美しい」という逆転した倫理構造も生まれていく。進歩信仰の形骸化を脱資本思想の中に見出して描かれたのが本作である、と仮定すると、その弱者文学性は物凄く強いのが分かる。
なぜ人は共同体に惹かれるのか
現代心理学では、カルト的共同体への傾倒は以下の条件で起こりやすいとされる
条件 :心理的動機
疎外・孤独 :自己の所属感を求める
経済的・社会的疲弊 :意味・救済を欲する
過剰な合理主義への反発:感情・信仰を再導入したい
SNS的評価社会の疲弊 :絶対的価値を与えてくれる「師」を求める
イデオロギー:脱貨幣・脱資本・アップデート思想/新興宗教・エコ共同体・オンラインサロン
社会構造:指導者+服従する会員
/カリスマ支配・閉鎖社会
経済構造:共有・無償労働・身体資本
/経済搾取・性的支配
心理 :疎外・救済願望・新しさ信仰
/自己同一性の危機と依存
文学的意義:資本主義と反資本主義の対称性
/ポスト資本主義的共同体の危険性
本作では現代版オウムとも言える情報社会におけるカルトの再演として設計されているように見えるし、そこに「投資」「副業」「オンラインサロン」「地方移住」といった現代の幸福的新語を埋め込み、それがどのようにテンプレ的な信仰へ転化しうるかを描く。
新しい幸福の形式は、古い支配の形を装ってやってくるという逆説的なテーマにより、歴史の反復が表現される。新しさ信仰がカルト化するメカニズムの恐怖は村社会的な狭さでのみ起きることも面白みとなっている。
かつては「救済」や「悟り」がカルトの語彙だったが、「自由」「幸福」「持続可能」「アップデート」がその代わりを担う現代では 宗教や霊性ではなく情報と幸福論が信仰の代替となる時代を描いていく。本作における「ムラ」や「投資・副業・自己啓発・地方移住」といった要素は、資本主義以降の幸福言語として宗教言語の置き換えを果たしているし、信者は神を信じるのではなく、仕組み・ノウハウなどの情報を信じる変化を遂げていることが描き出される。オウム真理教が科学と宗教の混交を起こしたように、『Phantom』では経済とスピリチュアルの混交が起こり、”アップデートされた幸福”を語るムラでも、同じように身体と自由を展開を見せるが、それらは「幸福」「自立」「仲間」「意識の高い生活」といったポジティブな価値語そのものが信仰装置になっていく過程として機能したように見える。啓蒙が理性によって自由を得ようとした結果に全体主義を生んだように、幸福の合理化が信仰の合理化”を呼び込む結果、本作の「ムラ」はどうなったのか?
「幸福語彙の宗教化」:ポスト資本主義的信仰
・「脱資本主義」 →実際には共同体内の権力集中
・「自立」 →新たな従属の形
・「アップデート」→古典的支配の再演
・「幸福」 →管理された満足感
再生産されるカルトの構造
社会学者マックス・ヴェーバーが述べたカリスマ支配は、合理的秩序を破壊しながら「選ばれし少数」「覚醒した指導者」という神話のもとに正当化されるカリスマ構造と支配の構造を思わせる。
ムラにおける指導者は、貨幣や制度を否定しながらも、新しい秩序の中心として信奉され、性的支配・暴力・恐怖を通じて権威を保持する構造を作り出す。新たな価値観としての脱資本を謳いながら、人間関係を再びヒエラルキー化される既視感へ収束していくが、その場合の支配の単位が貨幣から身体・信仰・忠誠へと移るだけであることに注目すると、物凄く旧態への遡りであることが分かる。
多くのカルト集団(例えば日本では オウム真理教 等)が新しい思想・ライフスタイル・共同体を掲げた際に、外部からは「画期的」「革命的」と見られ、内部では信奉・共同生活・隔離的構造をとることがありました。特に、「過去の事例を知らない若年層」「新しいメディア環境」「オンライン化された信仰・共同体」が、同種の構造を新たに生んでいる可能性が示唆さていく、この辺りが本作の主題だと思われるし、本作が指摘する新機軸や新世界的な幻想と、歴史の繰り返しの構図は明らかで、「新しいライフスタイル」「オンライン・ムラ」「FIRE・投資」などはいずれも「既存資本主義の枠を脱する」「自分自身をアップデートする」といった語り口を持つが、結局は古典的な共同体支配・信仰/服従構造と同型になる可能性を本作は示唆しています。
作中の若者や底辺弱者たちは現代社会に対する不安・失望・倦怠を背景に「ムラ」へ惹かれるが、彼らは資本主義に代わる生き方を求めて集うものの、歴史的な共同体支配の罠を知らない意味でも、またここでも弱者の立ち位置に送られる、この無知な新しさこそが本作の批評の焦点になるのかなと感じた。
自分たちは過去のどのカルトとも違うし新しい時代に生きていると信じる瞬間に、同じ構造を再生産しているし、そのことに外部や恋人の声も届かない。これらは、オウム真理教、ジョーンズタウン、あるいは戦後の新興宗教運動などに共通する啓蒙的カリスマの罠の繰り返しであり、人は新しい倫理や人類の進化を語るとき、むしろ最も古い支配の形を再生する歴史の再演を狙ったのが本作であり、文学作品としてその告発や祈りの昇華は正しい意味で、弱者文学としても自立性があることは明確。
依存の形を変えているだけの「新しさ」の危うさ
本作では、直幸が「使わないお金は死んでいる」という一見革新的な思想を掲げ、「ムラ」への傾倒を深める様が描かれるのと同時に、華美の投資・貯蓄志向もまた、それなりに新しい生き方であるという文脈を帯びながら展開する。
華美は、資本主義的合理性の末端に位置しており、「株」「配当」「分身」という抽象的数値で生を構築しようとする一方、直幸は資本主義に対抗する「生身」「共同体」「身体的な絆」を志向するムラの末端に所属するが、どちら構造の奴隷に過ぎないことを描き出し、資本主義の合理性に依存するか、カルト的共同体の情動に依存するか、という対立軸で二人を描いて見せる本作。
どちらも自由や主体性を標榜する高慢さを持ちながら、実は依存の形を変えているだけであり、信仰の対象が異なるだけだという落とし込みを行うことで、共同体と個の再定義を試みたとも言えます。
「投資」が幻影(Phantom)になり得ること、ムラが「脱資本/脱貨幣」志向を掲げながら肉体・服従・搾取の場となること。というふうに、「新しい」と信じていたものが過去と同型の構造を内包しているという皮肉を描きます。この「新しさへの信仰」が、心理的には、自らが最先端でありアップデートされた自分であるという自己像の確保や、現在の生・時間・資本との乖離感を埋めようとする急進的な行動である一方で、原理を深く問わず、共同体や指導者/システムへの盲目的な信頼に繋がる。これらは、カルト傾向の心理とも重なっていく。
カルト共同体の反復パラレルマッピング
オウム真理教:科学×宗教による「人類進化」
→テロ・虐殺・性支配
ジョーンズタウン:平等と愛による「人種を超えた共同体」
→集団自殺
ラージニーシ教団:性と瞑想による「自由共同体」
→武装化と自治都市の崩壊
一部のエコ共同体運動:脱資本・エコ倫理
→内部序列化・排他性
メディア時代の信仰構造の再演
現代の信仰はネットワーク上で増殖し、分散化している。
教祖はもはや一人ではなく、インフルエンサー、メンター、コミュニティ運営者、サロン主催者といった形を取る分散的カルト的側面があり、本作はその当たりも取り上げていて、私はこのあたりのことは詳しくないので、特に現代的だなと感じてしまったし、やはり全体的に感じるうさん臭さまでもをきちんと表現できているともうまいなと感じた。
オウムの時代では物理的共同体が暴力を生んだが、本作Phantomの時代ではデジタル共同体が信仰の快楽や損得を生んだ。それは暴力的でないぶん、より無意識的で、より従順な構造の中で、信じているという意識すら失いながら、人々は幸福の形式を信仰していく。近代であるSNS社会の構造そのものを宗教装置として描くことで現代批評性として、旧時代的なオウム的な狂気の再演ではなく、資本主義現代の果てに生まれた幸福信仰のカルトを描いた、と言える。故にカルトを扱っても安易さや古臭さがないのが本作の特徴で、その辺りのテーマモチーフが上手い。
教祖の代わりに自己啓発と共感、救済の代わりに幸福のデザインや構築が機能している本作では、現代的な不安や幸福から突き進み進行する未来の形、そしてそれを繰り返す人の形が見えてくる。
理想と暴力が同一構造から生まれる、人間社会の根源的逆説として
暴力により秩序の維持が行われる構造として、理想と暴力が同一構造から生まれる難しさも思われる。
カルト集団では、暴力は単なる逸脱ではなく、秩序を保つための機能として組み込まれており、異端への制裁により浄化や覚醒として内部の一致を演出し、性的奉仕により愛・進化・使命による底上げがカリスマの権威維持に役立つ。それら恐怖の提示は試練・罰・因果として依存を強化し脱出を阻む。
ムラにおける性的搾取や出産の義務化は、この構造の現代版として機能し、人類のアップデート」「自然回帰」という理念のもとで、女性の身体が共同体の“素材”として利用される流れが描かれる。理想の言語が暴力を覆い隠すとき、共同体は最も安定し、それがカルト構造の品質にも近いのではないかなと思う。
理想主義そのものが倫理を生むと同時に暴力を内包する構造的装置であるということ、その接続のメカニズムを明確に本作は描いていて、理想とは、誰かにとっての正しさを普遍化することであり、普遍化の瞬間に、異なる価値は異端となる。この部分から、構造内の偏執的要素が目立つ、とは先述した。
「自由」「幸福」「自然との調和」「アップデート」等、これらは本来肯定的な言葉ですが、共同体の中で従うべき倫理へと変換された瞬間、それは暴力の正当化装置へと変わり、正義や数字が暴力的であること、暴力が外部からではなく理想の言語そのものから生成される。
身体性の政治から見ると、自由と幸福の代償には思想や制度よりも肉体の支配を発端にしている。
『Phantom』では、身体そのものが共同体のために使役され、個人の自由や幸福が生殖や奉仕として再定義される。理想を掲げる社会ほど、身体は理念に従属させられる、この構図は、フーコー的な意味での生政治(biopolitics)を想起させる。ムラの理想が脱資本であっても、そこでは新しい形の生政治が作動していく。
本作では単純なカルト構造を糾弾しているのではなく、現代の理想主義(ポスト資本主義的幸福論)そのものを内側から批判している点が面白く、それを自然、持続可能性、脱成長、ウェルビーイング、共助などが掲げる理念の中にも、同じ構造的危険が潜む可能性の示唆に富んでいる。
人間がより良い社会を作ろうとするたび、なぜ誰かの自由や身体の所有が犠牲になるのか?を突き詰める筆致は冷静だし、それぞれがそれぞれの理想を求めること自体は否定されていない。その上で、心身の犠牲を伴う構造になった瞬間に倫理が崩壊する、という点を描き出す。
ここには倫理的文学としての試みを感じたし、過去2作読んだ狭さには存在していなかった諸々がある。カルトの社会問題性、認知機能的正義や、身体支配の倫理、理想と暴力の構造、理想主義の終焉としてのポスト資本主義文学などなど多角的に読める可能性も秘めている。
ポストモダン以降の構造に囚われた個の無価値と可能性
本作は個人が己の地理感を信じて現状の自分から自由を求めて自らを檻に入れる自己構築型ディストピアとして読むことも出来るし、そのように構造の中に追い込まれる個人も読み取れるが、これはポストモダンの他者による管理を超えた、自己の能動的服従(self-enslavement)の物語と読むことも可能、とまで広げてしまうのは尚早かもしれないが、巨大なシステムに包摂される個人の無力を主題とするポストモダン以降の倫理文学の延長線上にある、と言えるかもしれないとすら思えた。(虚構創作的な魅力や完成度ではなく、その志向するところにある可能性として)
ピンチョン『重力の虹』:軍産複合体が個を飲み込む/技術・戦争
デリーロ『ホワイト・ノイズ』:メディアと情報に覆われる現実/情報・消費
パワーズ『オーバーストーリー』:自然を失った人類の倫理/生態・資本
羽田圭介『Phantom』:幸福を求めて共同体に囚われる/情報・自己啓発・脱資本信仰
その点で言えば、「読書習慣」「世界文学」「現代国内文芸」「物語構造の倫理的機能」など個人の理知感や主体性と社会への繋がり等私の主題とも非常に関連深いことが分かるし、個人の主体性や理知感を重視する私にとっての、信仰やカルトといったもの、或いは物語や文学の倫理的機能や資本主義の裂け目や共同体の罠など、私にとって関心が強い素材に満ちた作品だったことは明白で、その意味で反応してしまっている点は否めないかなとも思うが、世間一般的にはこの作品はどのように許容されたのだろうか。あえて調べないし、著作列を見るだけではすでに色物感のある著者の存在論的な要素に関わる気がするので、その辺りもまた今後。
今回この一冊を読んだ限りで、私は個人内的理知感に重きを置くがゆえに、自分の価値観や確信を信じるが、その価値観でさえ借り物や詐欺であった場合に、何を信じて理想憧憬に置く個人はどのようにどれだけ正統性があるのか、そして社会や他者はそれをどのように許容肯定支持して構築していくべきなのか、という社会性まで広がる思索を提供する本作。
前回の記事で弱者男性やその文学に希望がないのかと言われたら、その弱さと向き合い、立ち上がろうとするときの責任感や倫理観に強さがあり、その希望こそが本質的には文学性であるし内的個人の魅力や価値である、というところから立ち上がれたら、それは人類性や文学性に繋がるとは思えたし、打倒する惑星やポストポストモダンも、その弱者からスタートしてる克服の歴史であると捉えることは可能だった。そして今回は、低年収の現在から、一方は株式投資や短期トレードで金融資産を積み上げることや、オンラインサロンから知見や人脈を広げることで自分も何者かになれる希望が見えたし、構築や脱出、弱者の一撃的な希望性やその渇望、資本主義や現代格差からの発端と希望が、市場や上位に消費され、どの時代も変わることのない弱者構造と強者構造の普遍性や犯罪性に関わったりする幅広さを感じた。
人は何の信者になり、正しさを判断する理知感も培う個人の明確さと儚さについてもだし、冒頭でもふれたように近々扱うテーマとしての社会性過剰と資本主義世界の高慢な孤立、にも関連しつつ、いつだってなにもかもを自分で決められる時代に生きてなお、でも何を信じ、妄信や無知の扱い方や、構造の中に生きる個人の内的理知感の価値と真価を問う私のテーマに深くかかわるものだなと。
希望的観測が強い私が現在ディストピア文学を扱っている逆説性や多様さもだが、構造の暴力性や理想の不適格性をはらむカルトなどについての今回の興味の走り方も、私にとっては本質的にとても関わるものだなとも思えた。これらは個人内的理知感の限界、構造の中の個人の矮小さ等、信じるものが不確かでありきたりで誤り易いものであるか、の提示でもあるし、その展望の可能性や非力性を内包する。
資産運用や配当収入構築に目がない節約株トレーダー女と、顔がいいだけの大人になった弱者男性が有名人のとりまきから夢を語る。今回も2つの素材モチーフ着眼は良いし、少し長いプロットをまとめてあること、社会的かつ現代的なメディアやカルトやいろいろ扱えていることも、悪くないし、意外と面白かったし、それ以上にそこから生まれた思索性には個人差があるだろうと思うが、弱者男性文学が思われた前回も、カルト性に浮かぶ人類社会性あるいは個人の理知感まで色々思わせてくれた今回も、もっと気軽でつまらない記事になる予定だったのが、どんどん重く鋭くなったのは、私にとっての面白みを色々はらんでいる1冊であることが理由であるのは間違いないし、どんな読書であったのかはつまりその作品自体よりも読書体験を生み出す読者自身により発展することも実感。
この作品を読んで、あなたはどう思いましたか、という話を最近では一番したくなった作品。
とりあえず疲れた、毎回こんなに重くなるのが続く、読書としては良いが生活としてはどうなんだろうか、私も500万円のロールスロイスに乗って無双したいし、5000万運用で年250万の配当金が貰える夢想もしたい。現代の夢と希望と生活、その矮小さの反対側には、構造に閉じ込められて使役する側が見えてくるのか、それとも自分個人の生活の満足度を拡充する幸福人生を進んでいくのか、ふと立ち止まる一瞬として、こういう1冊や1記事を読むのも、ありなのではないかなと思いながら、今夜の私もストレッチをしてから米国株を眺めますよ。

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