G-40MCWJEVZR 日常に被せるフィクション『魔女たちは眠りを守る』村山早紀 - おひさまの図書館 あらすじ・つまらない・ラノベ?
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日常に被せるフィクション『魔女たちは眠りを守る』村山早紀

文芸作品


 期待せずに読み始めて、結構面白かった。
 私は作中に登場するような典型的な読書趣味の学生時代を歩んだわけではなかったので、逆に言えばその物小ささみたいなものには複雑で、具体性がないことや商業性がないことなどが気に入らないし複雑なのだけれど、それを含めずとも、現代における読書趣味人口がどれだけいるのか、本当に減少傾向なのか、以前は読まれていた時代があったのかどうかすら妥当性はないが、魅力が弱く稼げない場所が隆盛するわけもなく、現状は仕方ないとしか思わない。

 本作は題名からもわかる通り、魔女をモチーフに取っていて、子供の頃その子と出会った記憶すら忘れている読書店員の女性が日々の仕事や社会人人生に嬉しくも悲しくも疲れているときに、ふと思い出す、ふと出会う、ある一夜の出来事を一章目においてスタートする連作短篇集の趣がある。 
 トランクを手に猫を従えて、公共交通機関を利用したりして平和に人間界に馴染んでいるが、少しだけ特殊な能力がある。おジャ魔女ドレミのような、魔法使いや魔法少女に憧れた子供時代がある人は惹かれる導入部分で、これはそういう童話的な本なのだろうと読み進めるが、そうしたメインの読者層ではなく、かつてそんな本好きだったが今は大人になった自分の役割を頑張って疲れてきた大人、が主要ターゲットなのだと気づくし、歳を取る人間の生死と、歳をゆっくりととる魔女の生死観の違いなども含む気がするが、そこまでのテーマ性には消化できてはいないし、文章もところどころ漢字の変換や言葉の使い方が気になりもするし密度もないし、文章力がどうのという作家ではない。
 けれど穏やかで、物語というものを自分が本当に好きで書いているのだろうな、という温かな安心感が全体に通っているような感じがする。童話やファンタジー性を現代に持ち込んだフィクションというとライトノベル的な異世界ものになりがちであるが、本作は現代に魔女の要素を持ち込んだ地ならしも柔らかいし、そこまで突飛でもなく、その創作性が結構うまいなと思い、例えばこれがライトノベルの類であるなら見上げたものだし、他にも読んでみたい気は十分した。
 そういう作者の誠意や温度を感じる。

 別に特別辛いことがあったわけじゃない。自分という人間は突出して不幸なわけじゃない。好きな仕事に就いているし、それでちゃんと食べられてもいる。健康に生まれて、精神状態もまあ健康少ないけれど友人もいる。趣味だって――ちゃんとある。趣味は読書で、それを仕事にしてしまったから、日々趣味に生きる生活だと思ってもいる。
 ただ少しずつ――たぶん丈夫な金属がわずかな力を繰り返し加えられているいうちに少しずつ傷んでいって、いつか傷ついたり折れたりするように、自分の心も折れそうになっているだろう、と叶絵は思う。
 たとえばそれは、売れ筋のコミックやビジネス書が、気が付くと一冊二冊と万引きされていたり、濡れた折りたたみ傘を、雑誌の上に載せて立ち読みをしているお客様がいたり、雑誌や新刊が怒涛のように集中した日に、連絡なしでアルバイトの学生が欠勤したり――いや、手が足りないと言えば、慢性的にその状態なのに、店をやめるスタッフが続き、けれど店がその穴を埋めてくれず、叶絵の担当が加速度的に増えていっているとか、その状態もずいぶん辛かったのだ。
 そんな中で、今日、休憩時間に新刊のコミックスのPOPをバックヤードで作っていたら、眉間にしわを寄せた店長に、
「そんなものは作らなくていいよ」
 と、不意にいわれた。「時間が勿体ない」
 そのひとは若いころから同じ店で働いていた尊敬すべき書店人であり、もっというなら、学生アルバイトだったころの自分の採用を決めてくれた人でもある。POPを描くこと、その描き方を教えたのも、そもそもがそのひとだ。うまいものができれば褒めてくれたりもした。
 そんな店長にいわれた一言が胸に突き刺さるようだった。
 そんなもの――よりによって、「そんなもの」呼ばわりするなんて。
 優しい気遣わしげな表情で、言外の意味はわかっていた。人手が足りなくてぎりぎりで働いているのだから、休めるときには休みなさい――店長はそう痛いのだ。
 それがわかっていてでも、「そんなもの」の一言は受け入れがたかった。
 POPを描くこと、自分が薦めたい本を見出し、お客様に呼びかけ訴えて、すおして売り上げを挙げることは、正しいことだと思ってきた。
 一冊の本が選ばれ、売れていくこと――それは本に関わる現場にいる、ありとあらゆる人間が幸せになることだ。そのために自分はここに、店にいるのだと叶絵はずっと思ってきた。
(なのに――)
 唇を噛んだ。
 わたしがしてきたことって、なんだったんだろう?
 街の片隅で、本屋のお姉さんとして、ただ本棚と向き合い、面白い本を探し続け、売り続けてきた日々。激務の中で、他の職種に就いた友人たちと違って、遊ぶことも旅することもなく、ただ店の棚の前に立ち、雑誌や新刊の入った箱を開け、お客様から注文を受け、売れなかった本たちを謝りながら返品として箱詰めし、レジの前に立ち続けた日々。
 紙で何度も指を切り、本がぎっしりと詰まった重たい段ボールで何度も腰を痛め、いつの間にか汚れていくエプロンに包まれながら、一日を終えて、立ち尽くしは知り尽くして棒になった足を引きずるようにして、ひとり住まいの暗い部屋に帰る――コンビニで買った弁当をあたため、遅い時間のニュースや録画したドラマやアニメを見ながら食べる。
 そんな暮らしを、それなりに充実した楽しい毎日だと思っていたし、実際、親兄弟や友人たちには冗談めかしてそう話していたけれど、ほんとうのところは、どうだったろう。仕事にやりがいがあるから、と悲壮な使命感を持って、がんばろうとしてきただけなのかもしれない、と気づいてしまった。
「――ああ、なんか疲れたなあ」
 水路に落ちる水の音が、とてつもなく優しく聞こえた。
 呼ばれているような。――あの水はどれくらい深いのだろう?
 あの水の中に入れば、心地よく眠れるような気がした。――そうだ、そこに入ってしまえば、二度と目覚めなくても済むのかもしれない。目覚まし時計の音で叩き起こされるような朝とはさよならできるのかも。ずっとずっと起きなくていいのかも。
 ここしばらく寝付けなかったのと疲れがたまっていたのとで、それはとても魅力的なことに思えた。


 本作は六章とエピローグから成る長編小説だが、魔女の類と各章の視点人物となる人間の連作短編のような雰囲気もある。一章は読書店員がふと疲れから入水に誘われる話、魔女の話、三章は子供の頃お世話になった祖母が今や小さな体で記憶も不確かな時期を迎えているかつての少年の話、魔女の話、五章はお盆とかつて死んでしまった少年の霊が弟に会いに行く話、六章は人形の大冒険と動物の霊の話、エピローグはハロウィン、と構成はあまり上手くないし、魔女とお化けやお盆やハロウィンなどの生物や季節のモチーフも上手く扱えているとは思わないし、そこの扱いをもっと人間と魔女の対比として消化できるテーマ性の主眼に据えられたら印象は変わっただろうなと思う。今のままでは魔女側も人間側も何のためのモチーフ性なのかが物凄く曖昧で盛行も落着もしていない気がする。
 それに魔女の章の有効性と魅力に欠ける、これは違う作品のスピンオフなのかなと思うくらいに意味を成せていないくらい効果が微妙な感じで、全体でみると不出来を感じたりもして勿体ない部分が多いが、人間を視点人物にした一章と三章は結構魅力的だし、全体がとても暖かくて誠実で好意に溢れている可愛らしさに満ちている。

 著者は1963年生まれの児童文学作家らしく、いよいよ児童文学とライトノベルの判断が難しいなと感じた。著作を見るとシリーズ化されている『コンビニたそがれ堂』は初期と『コンビニたそがれ堂 神無月のころ』の表紙を見るだけで、なんらかの路線変更を疑う。児童文学から一般レーベルや他出版社からの依頼等らしいが、一般的には目を引く現代的かつ軽薄で甘すぎるイラストになっていて諸刃な気もするが、その後もシリーズ化や他のシリーズ作品の刊行を見ると好評なのだろうと思う。
 本作の装丁も絵本と児童文学の中間のような可愛らしさがある。
 私は商業化や装丁の可愛さなどにも好感を持つが、作者自身の意向や今後含めた志向は気になるところで、決めたならぜひ突き進んで欲しい。

 『百貨の魔法』は2018年本屋大賞ノミネート作品らしく、驚いた。
 確かに本作は読みやすかったし、コンビニも百貨店も、現実的な舞台に魔法ががかった動物が登場する心温まる系の話、というあらすじイメージは本作とも相違がないし、そういう作風なのだろうなと伺える。これも青山美智子路線の現代的な癒し系、いい話系に分類して構わない気がする。その意味で『百貨の魔法』の一般化されながらもビビットな色彩で攻めている装丁は正攻法だろうな。
 ちなみに本作『魔女は眠りを守る』は2020年の作品、57歳の時の作品というのも驚いた。素質は感じても熟練とかは感じない作品。

 私は読書や小説が好きなのだと純粋に言うことがいまだに出来なくて、ではなぜ読みたくて読んでいるのかも上手く言語化できないので、純粋にそう言えるし思える人は羨ましいし楽しそうだなとも思う。著者はたぶんそうした文芸や創作性が好きだし、その気持ちに疑いを持つこともないかのような明るさや柔らかさを感じさせるところに救われる。それは適当な技術とか出来栄えとかよりももっと響くものな気がした。
 現実にフィクションや虚構性を被せる、それを感じながら暮らす、ということに価値や魅力を感じる人間からすると、少し感じ入ることがあった作品。
 最近の体感からやはり私は海外の作品の方が好きだなと思うが、それでも国内の文芸や作家さんは応援していて、これからも気軽に読めるクッションの意味でも挟んでいきたい。読書趣味の基本はきっと自国の現代作家の頑張りや隆盛次第だと思うからだし、現代シーンはかつて以上に価値評価が高いものだと思うからだ。将来は今の兆候や成長からしか生まれない、力強く積極的に書いてほしい。

現代の小説家の価値 畑野智美「大人になったら、」「若葉荘の暮らし」
35歳のカフェ副店長の日々と、40歳以上の独身女性が暮らすシェアハウスでの日々、2作品と共に一旦総括。頼んでもないのに3回も扱われる災難、「神様を待っている」「海の見える街」と同一作者様、これにてしばし手仕舞いです。
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