G-40MCWJEVZR 若年作家の世界観の狭さの限界と魅力『推し、燃ゆ』宇佐見りん - おひさまの図書館 - あらすじ・芥川賞・発達障害・つまらない
スポンサーリンク
スポンサーリンク

若年作家の世界観の狭さの限界と魅力『推し、燃ゆ』宇佐見りん

現代国内

現代の芥川賞作家の価値とは?

 あまりにも拙い文章が続いて、これは外れか、と落胆した。それが

 長いこと切っていない足の指にかさついた疲労がひっかかる。外から聞こえるキャッチボールの音がかすかに耳を打つ。音が聞こえるたびに意識が1.5センチずつ浮き上がる。

推し、燃ゆ

 を皮切りに、推しとの出会いを、その時の役柄であるピーターパンになぞらえて語られる文章は、一変して濃度を増し、内的な文章と日常や物理を描写する力の明らかな違いを見せつける。
 稚拙な文章も仕方がないこと、著者の芥川賞受賞した本作は2021年、著者が大学2年生の時、21歳前後での執筆ということになるので、まだ若いし、世界への視野も広くない、文章化出来る知見も経験も狭く、感性に探知される日常の狭さが世界観にそのまま表れる。
 文章の稚拙さが続く冒頭に対し、光る一文でひきつける意味では、『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞した綿矢りさが18歳前後での執筆だったらしいので、既視感。その意味では一時期芥川賞が若年女性作家の売り出し商業に行く流れは、私は別に悪いものだとは思っていない。才能がありそうな若年女性作家、魅力的な響きを見出して商品化するのは、一時的には商業的な効果がありそうだし、作家側の輩出にも一役買った。

 世界観の狭さで言うと、初読の時に感じた、本作の優れたテーマ性としての「推し」の社会的なテーマとしての機能をなぜ使わずに、狭い内的個人の矮小テーマに終わったのか、という本作の難点にも今更ながら合点がいく。20前後の著者にとって、「推し」というテーマは社会的なものではなく、個人単体から見た絶対的に身近で内的な憧憬に近いものだった。それを精一杯使って書いた小説であり、恐らく社会的なテーマ性には気づきもしなかった、その世界感の狭さが、どうしようもなく感じられる作品だ、という意味では可愛らしく、若年の女性作家特有の狭さと内的な小説の真骨頂だったのだ。
 その中でも光る魅力、そしてそれをこれからも伸ばし続けて、広い世界を見てからも伸ばし続ける成長性があるか、その出発点は、いつか必読の一冊になると良い。

ブログランキング・にほんブログ村へ

若年作家の世界観の狭さの限界と魅力『推し、燃ゆ』

 主人公は、学校でも家族ともうまくいっていない女子高生で、生きがいは8歳年上の男性アイドルを「推す」ことだった。主人公は推しを見つけてから一年が経過しているらしく、活動をしている他の熱心なファンにも「ガチ勢」と認識されるほどになっていた。

 テレビ、ラジオ、あらゆるの推し発言を聞きとり書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に地積している。
 CDやDVDや写真集は保存と観賞用と貸出用に常に三つ買う。放送された番組はダビングして何度も繰り返す。溜った言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった。解釈したものを記録してブログとして公開するうち、閲覧が増え、お気に入りやコメントが増え、<あかりさんのブログのファンです>と更新を待つ人すら現れた。

推し、燃ゆ

 何かから逃げるためではなく、何もないことからの逃避。
 推しの結果発表の日程を中心にバイトのシフトを組みながら、グッズや出費のために限界までバイト代を稼ぎたいと算段する姿は、時間の使い方からお金の使い方まで、一つの関心ごとしか中心におかれていない、あるいはそれが人生になっていく。
 彼の存在を自分にとっての背骨ととらえる主人公の日常を一変させるのは、推しの言動を研究し続けた主人公にも不可解な推しの言動による炎上、それによる人気投票の順位、そのテレビ放送の前後から不協和音を醸し始める主人公の実生活での不調と、家庭での人間関係による。

 ラストは素晴らしかった、それは間違いない。引用したいくらいで、ぜひ読んでもらいたい。
 おそらく冒頭の薄ら幼い文章はわざとだろう、対比するほどに恐ろしくなる終幕の文章は必見。
 ただ内情の爆発とその吐露の明確さが作者の文章の持ち味だとしたら、それと外側の発達障害と思しきを結び付けるのは表現上無理がある。内的文章や意識が濃いのに、外側があまりに薄すぎるのであればそれは地の文や意識の根底をはき違えることになるし、あるいは障害のある人の内的のあまりな豊かさを挙げることになる、それはどちらもアンバランスだ。それだけの言語能力があれば、主人公は他者にもう少しまともに答えられる。ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』の創作的成功の逆と言っていい。
 作者の魅力である内的な文の力強さと、発達障害を思わせる外側の創作的相性の悪さに目をつぶれば、主人公の空虚を埋める「推し」という存在を失ってからの不安定さや危なげなさは確かに文学的であるかのように見える。ただそれでは、発達障害だからその人生には背骨がないとも、その人生に背骨がない理由は発達障害だからだと読めてしまうところにも、推しという豊かなテーマ性との可逆性がある。発達障害だから背骨がなく、故に空虚で、せっかく手に入れた背骨を失い、慌ただしく混乱し、悲しくわびしく一人で生きるしかない、という絶望で締めるのは果たして、推しと障害の両方のテーマモチーフにとって適切かどうか。そして作品として魅力的かどうか。

 推しというモチーフを扱うテーマ性としても、主人公の障害性が妥当であったとは私には思えない。
 甘い希望や夢を被せただけの何もない人生や生活は現代的だし、商業的に見出す二次元三次元推しも現代的テーマになりえるし、どちらも虚構性・フィクション性ともに豊かな魅力がある。
 推しという2024年現在では普遍的になった価値観をもとに構想して2020年に上梓した鋭い着眼があるなら、そのモチーフをより一般的な創作性の中で昇華もできたはずだ。それであれば作者の文章の魅力もそのままに魅力的でシンプルな作品になったし、障害を持つ人生を空虚の前提条件にしてしまうこともなかった。主人公が個人的な障害を抱えるがゆえの内的空虚や外的憧憬が必要であったのではなく、現代社会に生きる全年齢の女性あるいは全性別が陥り、そしてその空虚に滑り込みやすい概念や本能から渇望するその理由や、一度手に入れたそれを失う時の絶望、あるいは失ってからの日々もしくは希望。
 推す、という人生に没頭しているとはつまり、自分の人生は限りなく空虚であるということだ。ではなぜその空虚とその可能性が生まれたのか、それは障害や特別な事情ではなく、普遍的な構成で説明できるし創作できたはずだ。その上で、他者を推し、自身は発達障害。現代的なモチーフを扱って描くマイノリティ。障害者の人生に現れた魅力的な背骨、それを失った人生は空虚に戻り日常は続いていく。それが現代の作家が描くべき題材なのだとしたらその文学とは何なのだろうか。

 現代的なテーマである「推し」や社会問題的な「炎上」、等により浮かび上がるネット現代の偶像との距離や、内的個人と家族や友人との関係性など、学生個人の視座においての有機的な要素を普遍的に描き切れる可能性と価値とを考えると、そのセンスを素材に十二分に書き切ったとは私には思えなかった。

著者にとっての本作のテーマ、著作列で注目したいテーマ
私にとっての芥川賞、現代においての芥川賞

 小説の主人公とは常に内的な声だ。しかし文学が小さなそれに留まり固執する限り、文芸は人類に広がりを見せない。エンタメにもなれない、知見にもなれない、せめてもの豊かさもない、ただの狭さと暗さだ。障害者の人生は空虚なのかもしれない、一時的に水を得て生き生きとし、失ってもなんとか自らの人生を立て直していかなければならないのかもしれない、でもそれを突き付けて描くことが芸術として魅力的な灯りなのか。
 しかしもしも作者にとっての障害や不適合が個人的なテーマであり、モチーフを変えても立ち上るほど関心が強い描くべきと志向するテーマで題材であるなら、少しだけこの限りではない。そこの判断をするには作者のほかの作品を読む必要があるし、逆に一般的なモチーフとテーマで当時弱冠で芥川賞を獲った綿矢りさの『蹴りたい背中』を再読したくなったし、完全に未読である金原ひとみも同様だ。その契機を与える一冊目だった、という意味では重要な読書になった。
 ただ、恐らくそれら過去作家よりも社会的なテーマ選出の意味での才能を感じたりもするので、若さに対する今後の期待、という評価としては十分すぎるくらいは出来るかなと思う。
 やはり芥川賞は若い作家に与える賞なのだ、という納得をする。

 発達障害を主人公の中核に据えるのであればその人生を背骨がないと表現し、一人称で文章化させるのは、作品性を損なうしそれを芸術的とも思えない、品性の問題だとすら感じる。
 ラストの表現、筆致は物凄くよい。これを20歳で書くのか、と思うし、しかしこの狭さが芥川賞か、とも思う、それと同時に、私はまだ全然芥川賞を知らないし、それが私の現状であり、恐らく現代においての文学賞や文芸の状態である、とも思う。
 この気持ちをどのような言葉にして表せばいいか、まだ少しわからない。

ブログランキング・にほんブログ村へ
ぜひシェア!

コメント

タイトルとURLをコピーしました