現代の芥川賞作家の価値とは?
あまりにも拙い文章が続いて、これは外れか、と落胆した。それが
長いこと切っていない足の指にかさついた疲労がひっかかる。外から聞こえるキャッチボールの音がかすかに耳を打つ。音が聞こえるたびに意識が1.5センチずつ浮き上がる。
推し、燃ゆ
を皮切りに、推しとの出会いを、その時の役柄であるピーターパンになぞらえて語られる文章は、一変して濃度を増し、内的な文章と日常や物理を描写する力の明らかな違いを見せつける。
中学生の主人公は推しを見つけてから一年が経過しているらしく、活動をしている他の熱心なファンにも「ガチ勢」と認識されるほどになっていた。
テレビ、ラジオ、あらゆるの推し発言を聞きとり書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に地積している。
推し、燃ゆ
CDやDVDや写真集は保存と観賞用と貸出用に常に三つ買う。放送された番組はダビングして何度も繰り返す。溜った言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった。解釈したものを記録してブログとして公開するうち、閲覧が増え、お気に入りやコメントが増え、<あかりさんのブログのファンです>と更新を待つ人すら現れた。
何かから逃げるためではなく、何もないことからの逃避。
推しの結果発表の日程を中心にバイトのシフトを組みながら、グッズや出費のために限界までバイト代を稼ぎたいと算段する姿は、時間の使い方からお金の使い方まで、一つの関心ごとしか中心におかれていない、あるいはそれが人生になっていく。
彼の存在を自分にとっての背骨ととらえる主人公の日常を一変させるのは、推しの言動を研究し続けた主人公にも不可解な推しの言動による炎上、それによる人気投票の順位、そのテレビ放送の前後から不協和音を醸し始める主人公の実生活での不調と、家庭での人間関係による。
ラストは素晴らしかった、それは間違いない。引用したいくらいで、ぜひ読んでもらいたい。
おそらく冒頭の薄ら幼い文章はわざとだろう、対比するほどに恐ろしくなる終幕の文章。
ただ内情の爆発とその吐露の明確さが作者の文章の持ち味だとしたら、それと外側の発達障害と思しきを結び付けるのは表現上無理がある。内的文章や意識が濃いのに、外側があまりに薄すぎるのであればそれは地の文や意識の根底をはき違えることになるし、あるいは障害のある人の内的のあまりな豊かさを挙げることになる、それはどちらもアンバランスだ。それだけの言語能力があれば、主人公は他者にもう少しまともに答えられる。
ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」の創作的成功の逆と言っていい。
作者の魅力である内的な文の力強さと、発達障害を思わせる外側の創作的相性の悪さに目をつぶれば、主人公の空虚を埋める「推し」という存在を失ってからの不安定さや危なげなさは確かに文学的であるかのように見える。ただそれでは、発達障害だからその人生には背骨がないとも、その人生に背骨がない理由は発達障害だからだと読めてしまうところにも、推しという豊かなテーマ性との可逆性がある。発達障害だから背骨がなく、故に空虚で、せっかく手に入れた背骨を失い、慌ただしく混乱し、悲しくわびしく一人で生きるしかない、という絶望で締めるのは果たして、推しと障害の両方のテーマモチーフにとって適切かどうか。そして作品として魅力的かどうか。
推しというモチーフを扱うテーマ性としても、主人公の障害性が妥当であったとは私には思えない。
甘い希望や夢を被せただけの何もない人生や生活は現代的だし、商業的に見出す二次元三次元推しも現代的テーマになりえるし、どちらも虚構性・フィクション性ともに豊かな魅力がある。
推しという2024年現在では普遍的になった価値観をもとに構想して2020年に上梓した鋭い着眼があるなら、そのモチーフをより一般的な創作性の中で昇華もできたはずだ。それであれば作者の文章の魅力もそのままに魅力的でシンプルな作品になったし、障害を持つ人生を空虚の前提条件にしてしまうこともなかった。主人公が個人的な障害を抱えるがゆえの内的空虚や外的憧憬が必要であったのではなく、現代社会に生きる全年齢の女性あるいは全性別が陥り、そしてその空虚に滑り込みやすい概念や本能から渇望するその理由や、一度手に入れたそれを失う時の絶望、あるいは失ってからの日々もしくは希望。
推す、という人生に没頭しているとはつまり、自分の人生は限りなく空虚であるということだ。ではなぜその空虚とその可能性が生まれたのか、それは障害や特別な事情ではなく、普遍的な構成で説明できるし創作できたはずだ。その上で、他者を推し、自身は発達障害。現代的なモチーフを扱って描くマイノリティ。障害者の人生に現れた魅力的な背骨、それを失った人生は空虚に戻り日常は続いていく。それが現代の作家が描くべき題材なのだとしたらその文学とは何なのだろうか。
小説の主人公とは常に内的な声だ。しかし文学が小さなそれに留まり固執する限り、文芸は人類に広がりを見せない。エンタメにもなれない、知見にもなれない、せめてもの豊かさもない、ただの狭さと暗さだ。障害者の人生は空虚なのかもしれない、一時的に水を得て生き生きとし、失ってもなんとか自らの人生を立て直していかなければならないのかもしれない、でもそれを突き付けて描くことが芸術として魅力的な灯りなのか。
しかしもしも作者にとっての障害や不適合が個人的なテーマであり、モチーフを変えても立ち上るほど関心が強い描くべきと志向するテーマで題材であるなら、少しだけこの限りではない。そこの判断をするには作者のほかの作品を読む必要があるし、逆に一般的なモチーフとテーマで当時弱冠で芥川賞を獲った綿矢りさの「蹴りたい背中」を再読したくなったし、それは金原ひとみも同様だ。その契機を与える一冊目だった、という意味では重要な読書になった。
ただやはり私は、発達障害を主人公の中核に据えるのであればその人生を背骨がないと表現し、一人称で文章化させるのは、作品性を損なうしそれを芸術的とも思えない、品性の問題だとすら感じる。
ラストの表現、筆致は物凄くよい。これを20歳で書くのか、と思うし、しかしこの狭さが芥川賞か、とも思う。自分のその類の読書経験や価値観に少し自信がなくなった。
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