G-40MCWJEVZR 孤独なエンジン~運と才能で勝手に好転して欲しい~ - おひさまの図書館
スポンサーリンク
スポンサーリンク

孤独なエンジン~運と才能で勝手に好転して欲しい~

働く読書習慣

 できれば世界に勝手に好転してほしい。
 でもなぜか世界は勝手に変化してくれない。
 努力したくない、失敗したくない、幸運と才能で成功したい、という心理は、人間の根源的な自己保存・快楽追求・不安回避の欲求に根ざしている。

 消費者構造は思考する余地の剥奪こそが本質であると仮説し、その構造に抗えるのは科学でもマーケットでもなく「志向し言葉にする読者としての個人である」というのが前回ではあった。
 淡々と仕事するべし、勉強するべし、行動するべし、成長するべし。それが正解だと思っても実行しづらい理由は「やらない理由を探す心理学」として以前記事にしたが、今回は、個人の脳内心理よりも、ある層の個人の孤独にする均衡した構造世界という視座から見てみる。

ブログランキング・にほんブログ村へ
そうはいっても面倒くさい、やる気が出ない、今じゃなくていい「やらない理由を探す心理撃退」
前回から分かるように読書のメリットあるにも関わらず、なぜ読書離れは叫ばれ、働いていると本が読めなくなるのか? 読書以外にも、勉強、運動習慣、減量や食事制限、節約、その行動が明らかに自分にとってメリットがある良いことだと分かっていても、あと五...

努力したくない、失敗したくない、幸運と才能で成功したい

 好転してほしい・失敗したくない心理は扁桃体の不安反応による自己防衛行動であり、人間の脳はエネルギーを節約しようとする本能があり、「楽して得たい」は正常な進化的適応だと言える。
 努力したくない気持ちには失敗して自尊心が傷つくのが怖いという防衛的動機があり、才能で勝ちたい思いは「努力=能力の証明」と無意識に捉えるがゆえに成功が偶然であってほしいという責任回避の願望によるものと言われている。
 自己保存と成長欲求の葛藤として、人は「現状維持をしたい(安全)」「自己実現をしたい(成長)」という矛盾する2つの欲求を同時に持つようになっている。
 快感報酬系(ドーパミン)は達成よりも期待に強く反応するため、成功の幻想に脳が快を覚える。無力感・学習性無力感を回避するため、わざと努力しないことで失敗の言い訳を作る自己ハンディキャッピング行動が生じる。建築的アプローチとしては自尊心の別軸化として、結果や才能以外(誠実さ・過程・挑戦)で自分を評価する枠組みを作ることが有効だ。
※内発的動機づけが弱い場合、脳は外発的成功(賞賛・富・運)に過度に依存する傾向が強まる。

 ただそれにしても、世界と成果の発端は個人と内的にあり、その内的の躓きに脳と心理が関係している以上『やらない理由を探す心理学』では、5分やる・70%やる等の感情よりもシステムを導入しすることを提案したが、個人レベルのそれに対し、社会レベルのそれが今回。
 発揮したくない私たちの個人の感情的な逃避や快楽が人類社会を資することがない非構築性は、むしろ損へ与する社会関与にもなり得る。それでも個人の理知感に委ねるべきだし、選択するべき私たちが故に個人の理知感を育てるべきだし、それに従って個人は行動発揮構築発展するべき結果が人類に繋がる。

 ・努力しないことで、失敗しても本気じゃなかったと自己評価を守る。(「セルフハンディキャッピング」(Berglas & Jones, 1978))
 ・才能・運がすべてという世界観は、挑戦や努力を「自分の能力の限界を晒す場」とみなす。(固定的能力観(Fixed Mindset)
 ・成功体験がない人ほど「自己価値=結果」でしか自分を評価できず、行動しなくなる。(自己肯定感と自己効力感の分離)
 →「成功したい」ではなく「今日を変えたい」に軸足をずらすマインドセットシフト。
 →失敗を許容できる最小単位の挑戦から始めることで、行動→結果→自己効力感→さらなる行動 という正のループを築く。

現実構造と内的個人のジレンマ

 個人は社会的構造の中で最も得をする選択肢を選ばされているようで、実は最も損をし続ける全体構造を支える参加者にされている。そこから抜け出すには合理性を再定義し、「損かもしれない協力」が意味を持つ新たな社会設計を政治・文化・教育で実現する必要がある。

 短期的得により裏切る方が個人単体にとっては合理的であるように現代は設計されており、極めて資本主義なマーケット主導の収益構造となっていて、情報格差と短期利益により編成される。
 「広告・アルゴリズム・価格競争」によって長期的利益(持続可能性・倫理)より短期的報酬(快・安・便利)が目立つようになっており、高品質・持続可能・エシカルな商品は「高価・時間がかかる・理解納得しづらく」結果として、協力(倫理的消費)するほど損をするようなナッシュ均衡に社会が落ちており、協力的な選択は割に合わないように設計されている。
 現代の消費社会では、個人が自分にとって最も「お得・快適・即効性」のある商品や行動を選ぶことで、全体としては「社会的・倫理的・人間的な損失」が起こる構造が広く存在している。ファストファッション・SNS中毒・ジャンクフードなどの安く手軽な快楽を選び安いのが現代の消費社会の象徴であり、協力すれば全体最善/倫理的・持続的な消費行動に繋がる可能性のあるフェアトレードや有機食品や適正価格などは、消費構造の中ではなかなか現実的だとは言えない。
 たがいに裏切り、全員が競争的・即物的消費を選ぶことで文化・環境・人間性の崩壊がある(=ナッシュ均衡)のに対し、個的自律/自分の優先順位が高すぎる個人主義的消費スタイルが蔓延し、自己最適化が加速する(=レパード均衡)。
(※このあたりの社会構造とそれを見抜くことが出来ず消費者として労働と思考ゼロに陥ったラットレースの話は前回のフレームを利用していただくと分かり易いです)

思考停止の快楽「人間性の放棄と回復」〜皆消費者社会における希望とは?〜
受動的にて「考えなくていい」ことに甘えて脳を無思考に浸せる時間の愛おしさは、日々のストレスから解放する現代的な怠惰ともいえる。資格勉強をしなくちゃいけない、読書がしたい、なのにふとスマホに手が伸びてSNSチェックをして、スクロールを繰り返す...

 意識的・意欲的な消費の戦略、協調と革新のナッシュ均衡を作り直すには、以下のような施策が必要ではあると考えられる。個人間での連帯や共同体形成を通して、孤立したレパードではなく共感・批評・対話に基づく協働的消費文化の再構築などが求められ、およそ個人レベルで解決するものではなく現存社会を是正していく構造や制度へのアプローチの必要がわかる。
 ただそれを資本主義的な経済や既存の資本や体制が許さないし、それに慣れた現代的な私たち自身にも受け入れづらくなっており、より楽によりお得に、自己短期的な報酬を求める一途をたどる。

長期的な人類社会のためになるが、既存利益体制に受け入れづらい施策
・情報の非対称性を是正する政治的・教育的介入
・倫理的消費や社会的帰結についての教育
・プラットフォームや広告の透明化
・社会的な報酬システムの再設計
  (グリーン消費への税控除、エシカル商品へのポイント還元)

囚人のジレンマ:互いに協力すれば最も得をするのに、合理的に考えると裏切るしかない。2人の囚人が同時に、自白(裏切り)or 沈黙(協調)の選択を迫られ、どちらか一方が裏切ればその人は軽刑、相手は重刑。両方裏切れば中程度の刑。両方沈黙すれば最軽刑ではあるが、共犯証拠が得られないためやや不利。
ナッシュ均衡:プレイヤーが他のプレイヤーの行動を知った上で、自分の最適な行動を選んでいる状態。誰も一方的に戦略を変えるインセンティブがない状態のことを指し、囚人のジレンマにおける両者が裏切る状態がナッシュ均衡に当たり、合理的だが全体としては非効率。
レパード均衡:レパード(豹)は孤高・自己保存的・攻撃性と自律性の象徴とされる動物。文学・進化生物学・社会理論の文脈では、協調よりも自律的戦略をとる個体の安定性を象徴することがある。

 ナッシュ均衡が個々の戦略合理性による全体非効率を指すのに対し、レパード均衡は自己利益と孤立化を戦略化した末に得られる局地的な均衡(破壊的安定)を指すと考えられる。消費社会・資本主義構造における「孤立化した個人の自律的行動」のようなもの。

確信的な人生は構造的に排除されやすい

 個人的正解である合理的な選択をしているつもりが、構造的損失に加担しており、確信的に生きることが社会によって矛盾させられる。結果として、倫理的・知的選択をする人が正しく孤立することになる。  
 ここで言う確信的な人生とは、自らの価値・倫理・目標を内在的に問い、自律的に選択しており、かつその選択が人間性・共同体・未来に対して建設的であることを指す。現代の社会構造では、こうした確信はしばしば市場の外部性(経済的に報われない)、または社会的逸脱(主流文化とズレる)として扱われるために、報酬と承認の回路から外されやすい。

 ・フェアトレード製品を買い続ける消費者 → コスト負担を背負う
 ・公共に尽くす職業(教育、看護、芸術)→ 賃金や地位は相対的に低い
 ・ネットで倫理的消費や政治的思考を発信 → ノイズとして流されるか、炎上する

  なぜ正しいはずが孤立してしまう状況が生まれるのかといえば、現代社会は選択の自由を強調するが、その選択肢は市場やプラットフォームが設計したものであり、構造的でない自由に価値を与えない。結果、倫理的な選択や意味ある孤独は消費対象にならない。自律的選択は“ズレた人” “変な人” “意識高い系”マージナル化されもし、これは人間の誠実な内面が消費社会においては黙殺・排除される仕組みともいえる。
 「正しく孤立する」ことの可能性と意義として、歴史的に見て多くの思想家・芸術家・活動家は孤立した(ソロー、ニーチェ、ハンナ・アーレント、ヴァージニア・ウルフ)。
 彼らは孤立の中で確信を深め、それがのちの社会に回収された。
 現代における孤立の再定義とは、社会的に繋がらないことではなく、雑や楽な同調作業に加担しないことであり、それは反社会ではなく再構成的倫理の可能性を指す。本来の意味での市民的不服従や内面からの連帯は、正しい孤立から始まる。
 文学はこの「孤立した確信」「消費されない価値」「社会に聞かれない声」を描き続けるジャンルであると言えて、カフカは無力で滑稽だが誠実に抵抗する個人を描き、チャード・パワーズは人間が自然や倫理の構造に責任をもつ可能性を描き、ピンチョンは知りながら壊れていく文明の中で無名の個人が問い続ける姿を刻んだ、と定義されている。とすれば文学は、確信的に生きることが無視される世界で、その記録と証言の場として機能するということは一応可能であることにはなる。
 ただ、批評性や文学性などは、それ単体表現で存在価値があるものではなく、その表現を受けた個人や社会がどのように受けとめて機能していくのかの発端に過ぎないから、社会や個人にどのように回収されていくのか、という施策であり現実的なシステムの外側に存在する文脈には変わりない。その意味で依然として孤立した確信である。

資本主義に回収、承認されづらい才能や仕事

 資本主義は、基本的に即時性(短期的な収益性)、需要と供給(市場で可視化される欲望)、分かりやすさ(伝達・再生産・スケーラビリティ)のロジックで成り立っており、これに対して、時間がかかる、理解されにくい、すぐには利益を生まないようなものは、市場の論理からはこぼれやすい。

 難解で遅効性のある理論・思想の探究として哲学・理論物理・純粋数学などはその典型であり、現代においてビジネス的な価値を持たなくても、彼らの仕事は数十年〜数百年単位で人類社会に浸透・影響する。(スピノザ、カント、ガロア、グロタンディーク、ウィトゲンシュタイン。など)
 芸術のうちすぐには商品化できない=すぐに数値化されない形式などもここに含む。抽象絵画、前衛演劇、難解な小説、音楽の即興性など。 市場よりも人類文化の深度に貢献しているが、多くは理解者が少ない。
 言語・沈黙・記憶を扱う才能、記録者・詩人・翻訳者・研究者など、歴史的トラウマや非言語的知識の伝承は、直接利益を生み出さないが、それが人類社会にとっての価値に与さないとは言えない(ホロコーストや原爆体験の証言者たち、詩人パウル・ツェラン)
 世代を超えて続く教育・育成に従事する層もビジネスとは異なる役割を担っており、むしろ割安になることが文化的な享受に繋がる側面があり、待遇が相対的に低いにもかかわらず献身をもとめられもする。保育・教育・伝統継承など 未来の社会を支えるが、短期成果は測定困難。
 構造的矛盾や抑圧を見抜く役割なども現代社会から人類知に与する者として貢献するが、権力や市場の利害と衝突するため支援されづらい(ジャーナリスト、批評家、社会運動家、アクティビスト、など)。

 現代資本主義では可視性・即時性が価値の大前提であり、たとえ本質的な価値があっても「非現実的」「遅効性」「難解性」は排除されがちで、これは情報資本主義下のアルゴリズムに最適化された価値観とも関係する。それでも現代においてビジネス的な潮流に乗れない才能や実力が重要な理由は、中長期的な社会・人類を考えれば確実に存在する。
①社会の深層を支える知の地層
 ・本質的な理知や芸術、倫理的批評がなければ、社会は消費と反応のみに堕する。
  (気候危機、AI倫理、民主主義の制度疲労に対処するには短期思考では不十分)
② 人間性の核を守るため
 ・詩や哲学、記憶や物語は、人が人であることを定義し直す装置。
 ・それは市場や利益では換算できない。
※③中長期で評価され直す「逆転現象」
   生前には無理解、死後に社会的意義が顕在化する場合も。
 (ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、フランツ・カフカ、エミリー・ディキンソン)
(1)中長期的視野の育成
   教育や公共知の仕組み(大学・アーカイブ・公共図書館)の再評価が必要。
(2)共感経済・分散型支援の活用
   クラウドファンディング、パトロンサービス(note/Patreonなど)は一つの可能性。
   ニッチでも支援者が直接支える仕組み
(3) 承認されないことの意味を引き受ける
   すぐに価値が可視化されないことが意味である、と自らの倫理で抱える姿勢。
  こうした才能や仕事は、「即応的な社会の欲望に応えないことで、むしろ未来に応答している」というパラドクスを抱える。資本主義の中で承認されづらくても、それが人類性の最終防衛線となることがあり、それを信じ、支え、記録する人間が残っている限り、それは消えない。

人類に尽くす確信的な人生は、正しい孤立を引き受ける覚悟の上にしか立ち得ない

 中長期的な社会性で自律的に選択しており、選択が共同体や未来に対して建設的である個人が、現代の社会構造では、経済的に報われず、主流文化や社会的逸脱者として扱われることで報酬と承認の回路から外されやすいことを前項で触れたが、それでも人類に尽くす確信的な人生は前提が変われば可能であり、この転換は、与する人生を市場や社会の即時的な評価から解放する。

 古い前提「尽くす=集団に従う・社会的承認を得る・役に立つことをする」
 新しい前提「尽くす=構造に対抗する・未来に証言する・孤立のなかで意味を鍛える」

 それは損失に見えるし、現代的には一見黙殺されるが、未来や他者における遅効性のある贈与として文学・思想・倫理の中に刻まれ続けている。もしその孤立を共有する他者とつながれたなら、それは新たな社会の前提そのものを再設計する力になりうる。

 人類に尽くす確信的な人生は正しい孤立を引き受ける覚悟のうえにしか立ち得ない。この時期哲学的命題を土台とし、個人から社会へ火をつけるためには、理想だけではなく行動と具体的かつ多層戦略が必要であり、市場化・消費化された社会構造のなかで、火種や発端として静かに社会や他者を燃やし始めるような構造を創出することの活動的な生命は、すでに孤独を引き受けている。
 「確信する人生の孤独」という主題は、ハンナ・アーレントの「活動的生(vita activa)」やジョルジョ・アガンベンの「潜勢力としての生(potenza / potenzialità)」を通じて、深く哲学的に照らし出すことができる。

「活動的生」における孤独と確信 ハンナ・アーレント

 アーレントは『人間の条件』(The Human Condition, 1958)において、人間の生を「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三層に分け、「vita activa」として描いた。

 アーレントにとって人間が確信に至るには思考が不可欠であるが、思考は常に他者の不在によって成り立つ。自分自身との対話こそが思考の本質であり、孤独の形式であるともされる。(※「孤独(solitude)」は自分自身とともにある状態であり、「孤立(loneliness)」とは異なる。)
 思考する主体は他者の評価を求めず、良心や断力の源泉となる確信へと至る。
 アーレントの哲学において確信する人生とは、思考によって内的対話を持ち続ける主体であることであり、その営みは本質的に孤独の中で行われる。人間の自由は「活動(action)」=公共的空間での他者との相互作用において実現すると考えるが、公共の場に出てゆくための確信や判断は、必ず私的な孤独の中で練られる。
 (公共性であるこの緊張が、彼女の活動的生を倫理的・政治的に深くしている、とのこと)

「潜勢力」としての生と自己の確信 ジョルジョ・アガンベン
 アガンベンは、特に『ホモ・サケル』シリーズを通じて、「生」には常に行使されなかった可能性(潜勢力)が含まれていることを強調する。この観点から、確信する人生の孤独は潜勢力としての自己をいかに保持するかという問題として現れる。
 アガンベンは、アリストテレスに由来する「潜勢力(ポテンツィア)」という概念を精緻化する。それは単に将来の可能性ではなく、「何かをしない可能性(不行為)」も含む純粋な能動性のことを指す(「語ることができる人間」は、沈黙することもできる)。「語らないことができる」沈黙の力こそが、言葉の真の自由を支えている。この構造の中で、確信する人生とは外的に成果を示す生ではなく、潜在的に様々な選択肢を保持しながらも、それでもある方向を選びうる自由の保持に関わるものとなっている。
 アガンベンにおいては、潜勢力としての生はしばしば政治的な力によって管理される(バイオポリティクス)。この管理に抗して「形式としての生(form-of-life)」を志向すること、すなわち潜勢力を消尽させずに保持し続ける孤独な抵抗が重要になる。アガンベンにとって確信する人生の孤独とは、行使されなかった自由、語られなかった言葉、選ばれなかった可能性を内包したまま立ちつづけることであり、それは沈黙と不可視の中に倫理を宿す姿勢のことを言う。

 確信する人生の孤独は、アーレントにおいては思考の倫理と公共性の準備であり、アガンベンにおいては行わない自由を守る沈黙の倫理と言える。両者に共通するのは、確信とは外的正当性や結果によらず、内的な倫理的関係と自由の保持から生まれるという思想。このように孤独は、断絶ではなく自己の根拠を問う誠実さであり、それゆえに人間の倫理的・政治的自由の核として位置づけられる。

アーレント×アガンベンによる「確信と孤独」
             アーレント×アガンベン
 確信の根拠:内的対話・思考の倫理 × 潜勢力の保持と沈黙の倫理
 孤独の意味:自分と共にある(solitude)× 不可視な力の温存(not-doingの力)
 公共性との関係:公共性の前提としての詩的志向 × 管理社会からの撤退と沈黙による形式の提示
 人間像:判断し行為する市民 × 行為しない自由を守る潜勢力的主体

行動する知性の孤独、その着火剤

 基本的な労働者や消費者たちは知的要素にアクセスすることなく、社会によるレールが敷かれた世界に住み、労働と生殖により消費させたい層によって操られていると言っても過言ではない。それを科学は明確に、文学や哲学は思索的に、提示する。
 資本や政治や教育的な発揮と構造の社会に生きて、主体的に思考する理知感的な発揮をする個人こそが人間性であり、世界に消費されずに、世界を消費していく個人のモチーフである。立ちどまって個人的な幸福や意思決定を行い、納得して自己の日々や人生を消費できる効力感が幸せに繋がり、行動できる個人がこそ構造の中の希望であり、個人個人はその大事な一人である、という落着は主題的だし本項の結びとしても自然で正しい。
 確信的な人生は構造的に排除されやすいし、資本主義に回収・承認されづらい、教育とも違う読書はけれど、個人の内側に火を灯すし、その個人からしか始まらない遅効性の価値貢献と人類性がある。

 短期的な欲望に対する知能や批評性は、発揮しない個人であり続けることは全体社会の価値にはならないことを明確に示す。行動する最初の知性や個人の孤独とは、社会構造に反発されて打ち砕かれる結果の成果の出づらさや経済的な逸脱による。確信的な生き方は存在しうるが、報酬と承認の回路から外されやすいことは資本主義社会の構造により回収されている。
 読書とは内的思考資源の生成装置であり、批評性・主題性・探求的意向を伴う読書は生産的準備につき、社会的影響力を内包する。それをもたらすものは教育ではなく、思考する個人の外部出力や社会的流通であり、知の社会的転換装置としての構成の明晰さ、媒体選定、読者設計を通じて、出力の階層性が決まる。純粋数学や哲学や教育などの分野が経済的に恵まれなくても人類価値であり続ける理由は、世界の構造を表し人類の後進や未来を育てるからであり、内的にはインプット資源の蓄積と転換、外的には社会的意味や構造への翻訳と実装を伴い、公的・構造・可視、構造化により他者に届く言葉や物語化や戦略が必要になる。その生産性の差は量的ではなく、翻訳・構造・流通の完成度に現れ、現代的に言えばネットによる拡散や影響力のそれもまた、価値であればこそさらに広まる強さが求められるし、それは単なる作業時間ではなく設計力と対象の社会性によって価値が分化される。
 知的な気づきによる価値や実行には社会的な変換プロセスが必要であり、それは知の社会科技術であるともいえる。消費者構造は、思考する余地の剥奪を本質と仮説するからこそ、構造の中で読み、書き、語る者が、考えることの復権に携わる。読み、書き、語る者が、考えることの復権に携わる。これはSNS時代にも関連し、人同士の観応や呼応を内包する。
 私はおそらくここの勝つための虚構創作や物語化、創作技術や商業的成功が好きだし、正義だと思うところの現代性(資本主義性)が好きだという異なる側面もあるが、今回はその片面の本質としての何が勝つべきだの価値性についての話で終わる、故に勝たねばならないは先へ譲る。
 稼げないことが弱者なのでも無価値なのでもないが、その価値を信じ貢献を求めればこそ、現代社会で効果的に広げるにはどうすれば良いのかを模索する行為は正義で、ミクロで見た時の個人が自分の弱さや概要に打ち勝ち、いかに思考し行動していくのかの、弱さと強さが反転する。

 人間の誠実な内面が消費社会においては黙殺される仕組みにより、未来に証言し、孤立のなかで意味を鍛え、動く人生や与える人生を市場や社会の即時的な評価から解放するための、正しく孤立することを楽しく協調することに変換する仕組みが必要になる。
 文学はこの「孤立した確信」「消費されない価値」「社会に聞かれない声」を描き続けるジャンルとしたが、行動する個人の内面や、成功する前な理知感や内在を外面化させる発揮の強さと弱さが人間個人であり、現代構造における文学の孤独、理知感の孤独、私の孤独、多くを内包する。欲望に負ける怠惰な自分、そういう思考ゼロに負ける個人を消費する構造と報われなさを作り出す孤独に対し、着火する理知感と正すべき社会構造は人類の長期的な合理性であり、そのための文学哲学、そのための政治制度、そしと現在の資本主義構造に加担する個人と消費主義、からの全体主義とスケールアップはいくらでも広がる。

 知の社会装置としての媒体により、表現や伝達によって他者の思考が立ち上がる。それが提供するのは情報ではなく思考の可能性であり、最適な社会貢献とは概念・問い・構造を他者と共有し、他者が思考を始められるように設計することだということになる。これはビジネスでも教育でもないが、知的媒体としての貢献であり、社会の内発性を高める。この回路を設計することもまた社会貢献ともいえるし、提供するのは思考の余白と構造を含んだ言語の設計が他者の内部思考を共鳴させ、知的衝動や自己構築のプロセスを装置的に駆動する。
 可視化できない貢献や思考を始めさせたことはその人の言葉にはならない為に評価されにくく、成果の遅効性、経済的に転換されづらく、観測困難であり、内的燃料が枯渇しやすいが、問いと構造による知の循環を起こし、思考の機転を与え、個人や社会に成長の回路を作る。
 構造的ジレンマとして、行動する個人は自分自身が最初のエンジンであり続ける必要がある。
 内的に火種を持ち、外的に形式を与え、社会に共鳴を仕掛ける才能は目立たないが深く刺さる。
 自分で考える文脈や装置を渡されると人は思考主体になる。人間の知的発達は情報の獲得よりも、問いを持つことで深く進化する。自らの中に生成された問いは、最も強力なモチベーション装置になる。他者の内部に未然の問いが燃え始めたと消えている。最も深く、最も静かに世界を変えている。

なぜ読書が自己投資と言われるのか?「静かな最強の習慣」だと決定づける力強い結論
読書が自己投資だと言われても、実質的に知的経験がどんな役に立つのか。知識や経験を貯めて強く豊かに高くなっていく自分の価値とは? 現代人は価値やメリットをすぐさま欲しがるので、物静かで目に見えない中長期的な読書に価値を見出しづらく後回しにしが...
coff.ee/the.sun

ぜひシェア!

コメント

タイトルとURLをコピーしました