G-40MCWJEVZR 現代文学の難易度と文学性〈金原朝井的現代接続『イン・ザ・メガチャーチ』〉『マザーアウトロウ』『TIMELESS』② - おひさまの図書館
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現代文学の難易度と文学性〈金原朝井的現代接続『イン・ザ・メガチャーチ』〉『マザーアウトロウ』『TIMELESS』②

文芸

 この時代で書くことは汚れることであり、現代社会に接続し市場原理に乗るために一度密度を失う。
 現代的野心とは最初から理解されることを前提にした欲望であり、文学を倫理的高みに置かずに文芸を生存戦略・社会的実践として扱っていて、時代に合わせて文体を変えながら書くことから逃げずに、時代と摩擦を起こし続けて書く姿勢であり、現代に適応した強い作家が文学史を突き破る作家ではない。
 変容を続けることこそ文学のダイナミズムであるし、現代性を嗅ぎ分けてモチーフに選ぶことは現代社会性であるし、それは同時に商業性を保持する。人類社会の祈りが文学なら、現代社会性はモチーフは確実だが、「文学的強度より社会的共有性」「テーマ性>文学的密度」「社会問題スケッチ化」にも関連し、時代の祈りやジレンマだとは言え、現代テーマを引き受ければそれが現代文学になるわけではない。
 では何が文学性なのか?
 文学的密度やその価値とは?
 現代社会テーマとの接続、文芸商業との接続、その二つを意識的に・戦略的に行っている2人を使って、そしてさらに突きつける人類文学・21世紀文学とは?の問い。

**モチベ・やる気アップします**
 読んでるよ!読んだよ!の一言が聞きたくて🐨

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野心と文学性は別物である、という単純で残酷な事実②
市場原理とリテラシー、文化成熟化の中を走るラットレース

 前回は、さんざん作家の才能やデビュー当時よりも成長していく著作列の方がどうのこうの言った末に、作品を読んだら、やはり才能と実力は読めばわかると思ったり、作家作品は才能と実力による出来栄えがすべてで、それを伸ばす著作列の成長が現代文学の打開には不可欠である、という複雑であったが、今回は芥川賞の一般化で触れた「テーマ性>文学性」という関係や本質的な文学制度と現代性との兼ね合いやバランスのそうした作家的戦略や現代文学を考える上で必要な部分ではないかなと。
 前回のように、文学性と成長性が異なるものであるように、現代性やテーマ性と文学性も異なるものであるが、それにしても両保持しなければならないこと、その難度と難儀について、そして直木賞作家朝井リョウと芥川賞作家金原ひとみの共通項から、現代テーマや社会性が現代文学に繋がるわけではないが、野心と下心が書く威力に繋がるのは本当であり、創作技術や文体と主題知性は必要なうえで、現代文学はどこから生まれてどのように書かれるのか?現代文学とは?文学は?
 芥川賞企画もラストパート!!(といって秋口から引っ張っております🐰)

デビュー神話と変容の著作列<金原朝吹朝井綿矢>『マザーアウトロウ』『TIMELESS』①
初期の金原はセンセーショナリズムであって本質的な文学的発明ではない、と10代の私は感じていたし、今の私は成長性を評価することと個々の作品の出来を擁護することはまったく別であると断言する。 綿矢が若さの頂点で静止し、朝吹が資本の中を突き抜けな...
芥川賞の一般化、津村記久子と2015年の線香花火『火花』又吉直樹
津村記久子という手垢のついていない新星に頼りながら自壊した意図のように、現代における旧態の純文学が、いかに文化として文明に生き残る道を模索し、文学として文脈を求めることを一時放棄してでも背に腹は代えられなくなった矮小さが目立つには、2003...
 


 

市場/メディア/賞/SNS/読者
の即時理解を通過しない現代文学は、そもそも存在しない

 例えば直木賞系の作家ではあるが、男性で沈黙しておらず現代的に活躍している著者の一人に朝井リョウがいると思うが、彼は1989年生まれで、芥川賞系で扱った中村・平野より14年若いし、ジャンルも異なるが、戦略性は明確。社会性モチーフを巧みに選ぶし、現代的で語りやすい問題を扱いながら、読者が語り直せる物語を作る。社会性モチーフや迎合の意味では平野中村と同様だが、より中間小説的な立場と時代に生きる普遍的個人という視点のクローズアップと共感や羞恥に余念がなくて、非常にうまいなと感じる。
 2026年の現在は36歳、『桐島、部活やめるってよ』で高校生感を武器にし『何者』で就活世代の代弁をしたり、若者世代の側に立って社会や関係性との接点を書き続けてきたイメージがあるが、それがもう36歳なんですから、自分の年も感じますわな😿(同世代)
 「社会性・テーマ性 > 文学的強度」という芥川賞の一般化で触れたテーマと同様のことが実は直木賞系作家にも存在するが、本質的には中間小説である直木賞系は、その試みが分かりやすいし、正直金原もこの系統に属していると思っていて、デビュー作は女性の台頭・解放として使えたし、津村もデビュー作がそれっぽかったから芥川賞側で使われたが本質的には直木賞系であるように、デビュー作や門出看板やその後の作風などによる明確化や拍付けによる固定化は混迷も、文学的形式の更新、語りの破壊、文体そのものの必然性や密度などを必要とせず、現代社会と密接なテーマモチーフを語り方を変えながら消費しやすく創作するという点で、三者は類似点が多い。
 売り手=業界内部での評価において、社会を語れる商業作家や現代読者との接点を生み出せる、かつ炎上しない作家は公共的言語としては使いやすい。看板として、朝井リョウは直木賞、金原と津村は芥川賞、という色があるだけで、やっていることは近いし、戦略性もそれぞれ濃淡あるが、作家性は近い。評価される主題を選び、語りの角度を慎重に調整し、衝撃はあるが嫌われないラインを見極め、それでも現代を書こうとするし、それにより生き残る、書き続ける、という強い意志と持続的努力がある。
 金原ひとみも朝井リョウも津村も、書かなければ消える、更新しなければ終わる、語らなければ居場所がないという危機感を明確に内在化している意味で、ひどく現代的で、戦略的で意識的な作家である、という点で類似しており、これは旧態の安住系男性作家には見られなかった特徴。
 とくに金原・朝井の渇望は、評価されたい/読まれたい/消えたくない=「今の時代で意味を持ちたい」という、完全に社会内的な欲望と書くことで生き残る意志であり、市場や制度と交渉する意志の強さでもある。それは裏返すと、書くことが場に留まる為の行為になりやすく、世界を押し広げる行為ではなくなりやすいことは明確で、ここが文学性との乖離や距離感ではあるが、彼らのような作家にとって現代小説であることは文学性如何よりもよっぽど価値があるし、元から目指している地点や役割は異なるのかなと思う。
 例えば前回触れた綿矢りさ・朝吹真理子の二人は、書くことが社会的成功や持続の戦略として前景化しておらず、少なくとも作品の内部からはそう見える。デビュー時の圧倒的成功や、生誕時点で社会的や資産的に恵まれている場合に、これらの作家的渇望や野心、特に現代的なそれに対する渇望が弱く、戦略を立てて必死に書き続けて現代に追い求めるものなどないのかもしれず、これが作家の才能と野心に結びつくし、才能と生命力が異なることが明確にわかる。

未来の無い祈り、男性作家の不在と安住『去年の冬、きみと別れ』『ある男』中村文則、平野啓一郎②
更新しない文学は既存の主体像を再確認し安心を供給するだけで、制度を急き立てない。社会や個人が変わらなくて済む既存の言語を量産してしまう。これは文明の速度を落とす行為であり、文学が更新した倫理は必ず社会を追い立てる。だからこそ、更新しない文学...

 社会的に満たされている者が書く必要性(朝吹・又吉)、社会的に満たされた後も書く必要性(綿矢・成功作家)、求めて書き続ける作家性(才能実力ではなく現代に接続する姿勢・朝井金原)、これらは資本主義・社会性ヒエラルキーにおける現代的なテーマだし、その構築は現代的ダイナミズムの真骨頂であり普遍性。衣食住や社会的地位を獲得したあとの生きていける世界で、それでも書き続け、求め続ける意思が作家には不可欠

前回・デビュー神話と変容の著作列① 冒頭

 今回焦点になるのは、金原・朝井の渇望はこの時代でどう生き残るかだが、文学が本来引き受けてきたのは「この世界がなぜこう見えてしまうのか」等であるから、前者は時代依存で、後者は時代制限の無視や飛躍を持つから、文学史で生きるというよりは現代市場で生き残る意味では消費的行為ではあるものの、どこに成功や成果を置くのかという意味で観測すれば全く間違ってはいないことに感心する。
 現代的野心は、評価され生き残り今の言葉で語りたいという、生存合理性としては正しい欲望ではあるが、文学の歴史が価値を与えてきたのは、容易に時代に理解されず説明できない視界ゆえに今の言葉では異物的な感覚だろうとも、それでも書くと決めた作家によって推し進められてきたが、現代に適応する作家の作品は現代を貫くが時代を跨ぐかはのちの参照に耐えうるかの微妙、そこが即応的戦略の強さと限界とも言える。この時代で勝つための文芸は、文学史や人類史において何の価値になるか、は普遍ではない。
 「現代的野心=理解されることを前提にした欲望、または理解されないことを計算した衝撃」と言い換えることも出来るし、これは才能の有無ではなく射程の違いであり種類の違いであるし、その野心やモチーフ選定などの戦略と、表現されるところの技術や深遠情動との落差にもつながりやすいものだ。
 生き残りの巧みさや現代性の調律、社会性の正しさだけでは、文学的密度や高度は約束されないし、読者が求めるカタルシスも異なる。

ほぼ未読作家・朝井リョウの著作列

 朝井リョウの著作列の文脈も進展性がある。高校生のスクールカーストから大学生と就活周辺のランク付けや自意識など、若年層が晒されている現代性との揺らぎや軋轢の代弁的主語や主体から、徐々に社会性を増し、男性性と理性的な語りへと進んでいくテーマモチーフの進展性がまずあり、男性性を強く意識させるモチーフやタイトルが特徴的だし、金原のようなジェンダー的意識も感じるが、どちらにせよ下世話で注目を集めているのに好感度が高いのだから、すごいなと感じる。
(それで言うと私は麻布競馬場は結構好きで読みたくて読むけど、朝井リョウに興味を感じてこなかったのはやはりテーマが一般的すぎるからなのかな? 意識の高い仲間を批判的に見ている自身が最も他者評価に縛られていることの露呈などのありがちな視点軸などは両者とも近しく感じるが、麻布が慶應アングラで朝井が王道爽やか早稲田、の対比は結構面白い。)

デビュー作 『桐島、部活やめるってよ』(2010)高校生
直木賞最年少『何者』(2012)  就活生
柴田錬三郎賞『正欲』(2021)  一般的には若干沈黙ののち・本屋大賞系へ
キノベス1位 『生殖記』(2024)  本屋大賞8位
未来屋大賞?『イン・ザ・メガチャーチ』(2025)

 こう見ると、直木賞受賞後しばらく存在感が弱く、
 男性性主体で再出発してから本屋大賞系にかじを切って再活躍の雰囲気。
 初期は大学在学中に受賞してデビュー、3年後に映画化、直木賞を男性では最年少受賞、という順風満帆な華々しさで、そのまま書き続けているところがまず拍手。ここで慢心して消える国内作家が多い所で、23歳前後出版された『何者』以降は一般的にはあまり聞こえてこなかった時期を経て、32歳前後で『正欲』で再浮上。確か一般企業に就職されていたらしいのでそのあたりかな。

頑張れない時代の私たち「週5日8h労働からの脱走」
1日8時間、週40時間働く、最低限の労働でも大変だし、それすら卒業したくてFIREを目指すような人が増える現代社会においてがんばることは正しいと知りつつも狂気に近く現実的ではない。 がんばることや今の労働以上を目指すこと、夢や希望のために尽...

 

 青春/居場所のリアルを描く
『桐島、部活やめるってよ』(2009~2010)

 在学中に第22回小説すばる新人賞を受賞してデビュー。
 タイトルの~やめるってよ、はある意味で流行語的に使われるが先行文化もあるのかな? 未読の私も内容を知っているくらいには一般化。デビュー作でこれは結構すごいこと。
 高校のバレー部エース・桐島が突然部活を辞める。それを契機に、複数の登場人物の視点で日常がずれ動く群像劇にて、桐島本人を一切描かずに周囲の生徒たちの視点から、学校という小さな社会の歪みを浮かび上がらせていく手法をとる。スクールカーストにおける空気感やその連動など、中心が欠けた時に露出する主題と語らない中心(桐島)という構造はとても文芸形式的で、モチーフとも合致しテーマ的であるのが素晴らしい。
 若者の目線から同世代の空気を翻訳する語り部として時代や世代と接続することにより、若者の実感を言語化できる作家として支持されたことは想像出来る。空気や見えない階層としての関係性の序列、自分の居場所への不安と自己像の揺らぎといった等身大の高校体験を、まだ年齢の近い著者が描き、2012年に吉田大八監督で映画化、ヒット。青春という小さな社会での見えない力学を体感する空気感として鮮烈に描いた点で、読者の自己投影や共感を生み出し、作家としての基盤を確立。

就活生/時代の接点
『何者』(2012)

 転換点の代表作。第148回直木三十五賞を受賞、23歳で直木賞史上初の平成生まれ受賞という快挙。
 就職活動という現代社会の競争圧の中で、大卒前後の若者たちが「自分は何者か」を模索する群像劇。社会と個人との関連やそれによる揺れ、他者評価・SNS的自己表現・キャリア観などの比較によって自己像をすり減らしていく現代社会像と、それに内包される若者像。自己肯定と他者承認のねじれ、就活=人格査定システム、内面の倫理と社会的正しさの合判。
 映画化(2016)もされ、若年層の思考と矛盾を社会的な文脈で可視化した作品として高評価。
 若者側に立ちながら容赦なく解剖するバランス感覚はこの辺りから見て取れる、就職活動という王道勝つ普遍的モチーフ・テーマ選定と真正面から書く姿勢が素晴らしい教室の中に生きる高校生と青春のモチーフから一歩進んで、社会の中に生きるの個としての不安と自己像の形成に進展したことで、作家としての真正面の社会批評性につながった感がある。正統派な成長と進展。ここまでの朝井は明確に若い時代の代弁者であり、読者と地続きであるがゆえに、内的な解剖と吐露による露出が効果的に機能しているように見える。

男性性/ジェンダーとアイデンティティ
『正欲』(2021)

 第34回柴田錬三郎賞受賞、現代の多様性や欲のあり方を人物群像で描写。
 正しさと欲望の境界、社会的価値観と個人の矛盾、多様性の建前と現実、欲望の不可視性、理解されないまま生きる権利、正常な性欲や恋愛規範から逸脱した欲望を持つ人々、がそれでも社会で生きようとする群像小説で、性的マイノリティ、家族を作れない人・作らない人、承認を必要としない欲望、正しさという暴力に晒される、とのこと。自己肯定や若者視点から一段深く、社会的な価値観と人間の内面の矛盾・拮抗へとテーマがシフト。時代の共感を集める羞恥であることは変わらないように感じるが、いかに? 
 著作列を見る限りに、ここで朝井は明確に路線を変える。若者の代弁として共感の語りを行う立場から、社会的正義や理念の提示を行うフェーズへと展開し、性・欲望・身体など、やや下世話に見える題材を扱いつつ、それでも嫌悪されない好感度を維持する、ある意味で商業的・芸術的・社会的・個人的、など様々なバランス感覚を発揮していく感じがする。
 そして重要な点は、語りが極めて男性的な倫理であること。
 実際読んでいないので、外側からの設定や形式上のものになるのだけど、弱者男性文学①や男性不在文学①などで触れたように、旧態化した男性文芸における内的な吐露はそのままでは受け入れづらくなっていることが日本における純文学性や男性作家の内的な語りの正統性を奪っている感が、文学やジェンダー的にみると起こっている、という前提に呼応するような形で見事に男性文芸として機能している感が朝井にはある。つまりこれには、男性不在①の社会性で触れたように、歴史や現代認識と倫理感による理性的な認識を元にしか位置取れない視点の獲得が済んでいるだろうことであり、それは一世代前の男性性や作家性的には達成されていないであろうことの社会的な価値が潜んでいて、この辺りの倫理性やバランス感覚が著者はものすごく優れているように感じる。
 弱者を理解しつつ自認しながら語りを寄せる男性側の視線は現代感覚と倫理観であり、自己憐憫も内的吐露を行ったうえでそれでも現代や社会性に接続している感があることに注目。金原ひとみがやった女性側から男性中心社会を破壊するジェンダー反転とは方向が逆のように思える点が重要で、金原が怒り・身体・破壊など情動的な要素が極めて芸術的な退廃性を持ったと良好にとらえるなら、控えめに見ても朝井の憐憫・調停・説明などの理性的な創作の手法の差は決定的であり、旧態の純文学性や男性文学性とは距離があることが分かる。

 生殖・家族・身体・性役割をめぐる価値観が揺らぐ現代社会の人間関係は「生殖=社会制度」「身体=政治」という視点が強いらしく、生殖と社会的義務、男性性と女性性の再定義、欲望を制度に回収する社会など、あくまで中立性や男性性側のアプロ―チは女性台頭ジェンダー文学性の強い現代に置いて新鮮だし、カウンターパンチで独占状態な感じがする。
 テーマは極めて現代的かつ語りは男性側の知的整理であり、理解しようとするが侵犯しない距離感は理性的なのではないかと外側から感じるが、読み心地はいかほどだろうか。読者によっては共感や誠実、別の読者には下世話や露骨、と評価が割れるのかなとも想定するが、この部分も、金原のデビュー現象をどう見たか、の読者層の二分化にも近いのかなと。


代表作なるか?
最新作『イン・ザ・メガチャーチ』

 『正欲』に加え『生殖記』(2025)でさらに身体性・生殖/アイデンティティといった根源的なテーマへとアプローチし、『スター』(2024)など新作では現代のメディア文化/アイドル/界隈熱狂といった、記号化された欲望やポップカルチャー的要素を扱うなど、社会派の筆致とポップな感受性が混ざり合い、時代の精神性を多層的に描く。朝井リョウは個人の内面世界から始まり、社会的なシステムや価値観、その後さらにポップカルチャーや身体性へと視野を広げてきたし、その地続きが現代の若者の中庸さを書き記してきた現代性普遍であるからこそ、嫌われずに弾かれずに受け入れられてきた感がある。
 初期の青春リアルから中期の社会的リアリティへの自然な転換は見事だし、それもまた高校生と大学生のつなぎ目にあるモチーフやテーマを抽出する手つきも見事。近年は価値観の多様性・メディアの文脈・身体経験へとテーマが深化していることが読み取れ、商業的にも映像化やメディア展開、文学賞受賞といった大衆性と制度性の両立を達成する中間小説的な書き手ではあるけれども、海外作品的な見方をすればそれはむしろ普遍性としての強みなので、現代文芸から文学までもの重要な代表作家なのかなとは思うが、実際に読むと密度に落胆しても嫌なのでほぼ未読。今回、これだけの人気作家だけど図書館で棚に置いてあった不人気作『少女は卒業しない』の文体は全く受け付けなかったので、これはもう次読む気力があるかと言われたら難しくて、つまりは前回の朝吹の逆パターン、正位置の金原のに近いのではないかという懸念も手伝って、読むのが怖い……
 
 若者の代弁者の立場から倫理的に欲望をむき出しにして調整していく男性側、という珍しい位置ずらしを明確に行ってきたなと感じるが、奇をてらっているようでいて実はかなり保守的な感触は見事だし、中間小説的な書き方で読者を集め、名前を売り、若年層の代弁をしながら成熟を重ねた著作列の変転は、安住し沈黙している同時代の男性作家の中では圧倒的。継続性と戦略性も高評価、実際ほとんど読んでいないので文学的な評価云々は出来ないのだけど、商業性・現代性はぴか一、そういう作家はむしろ外側からの評価や認知性の方が大事だと思うので、ここを声高にしておきたい。
 理性的な平野も近いとは思うけれど、よりポップにより現代社会への接続が可能なように、より商業性と虚構性路線で書き続け、恥部や痴情を書くも厭わない形振りは、上品を抜けられない平野にはない持ち味で、ある意味で直木賞・中間小説の書き手の現代最良の形に思える。
 これが文学になるのかはわからないけれど国内文芸の中で際立っているのは確かで、特に癒し系小説が売れ筋の中でも、社会接続性と男性作家であることで群を抜いていることは異論ないものだと思う。ジェンダー文学としてはもしかすれば男性倫理の最良形止まりの出来やテーマ性をしているのかもしれないが、それでも時代に適応した強い作家であることは間違いなく、特に、最新作『イン・ザ・メガチャーチ』(2025)の話題性で、さらに一段作家としての評価が上がった感がある。

 作家生活15周年記念作品として発表された長編小説。現代の物語と人間の関係性、ファンダム経済・推し活・信仰的熱狂と経済的回収構造の分析的描写を中心に、ポップカルチャー的熱狂と経済システムがどのように人を動かし信じさせ消費させるかを炙り出す試みを、世代・立場の異なる3人の語り手による群像劇。
 ①アイドルグループ運営に関わる中年のレコード会社社員はファンダム経済(推し文化のマーケティング)の設計・構築に携わろ、かつての輝きと現在の現実、家族との断絶や孤独感と向き合いながら、熱狂を仕掛ける側の倫理と経営論理の間で揺れる。②ある大学生女性は内向的で繊細、大学での孤独感から推しに救いや安らぎを求めるが、熱中するほどに自分自身の不安と向き合うことになる。③一人の社会人女性は、かつてのめり込んでいた側であり、応援していた俳優の活動を通じて熱狂と崇拝を共有していたが、ある報道をきっかけに離脱。陰謀論的な熱狂へと転移し、推し活と陰謀論の心理的構造の同型性が鋭く描かれる。

 「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」
 帯の言葉に要約されるように、本作は「宗教的信仰(メガチャーチ=巨大教会)」=「愛着・推し活・ブランド信仰」=「陰謀論や界隈熱狂」といった、人間の信奉や憧憬がどのように形成されるか、その社会的・心理的構造を描き、宗教ではなく現代の信仰=熱狂理論を巨大教会としてを扱う。その場合の物語の力と危うさについての着眼は、いかに現代における物語性やファンダム経済が強固であり、その中心に据えられた「推し活」による熱量が経済的価値になる現代社会の構造として、単なる趣味を超えて人間の孤独・承認欲求・社会的価値観と結びつくのかを定義し、信仰と消費が混ざり合う構造描いているのかなと思うし、この辺りは宇佐見りんの先行作品があるように、内的と社会的な要素の結びつきが強い非常に現代的なモチーフテーマであることが明白。アイドル商売は男女ともに関連してきたが、特に推し活として現代主流になっている要素も、その表現として本作で主要人物を二人とも女性で配置しているところにも、著者のバランス感覚が見て取れて心地よい。
 人間描写を超えて文化分析・社会観察としての作品になっているのかなと推測するし、そうした作品が文芸業界だけでなく一般的に読まれているのだとしたら、それだけの価値だし、それだけの力をもう感じる作家にはなっていると思う。
 仕掛ける側の戦略と倫理、信じる側の救いと依存させれた側の失望と再接近、それらが物語性や憧憬性を軸にして交差していく構造は明らかに現代的な虚構性で、それをリアルタイムに形にできるのが著者の才能なのかなと。(実際完成度は未定)
 過去作が自己像や欲望からジェンダー的葛藤などを扱ってきたのに対し、本作では個人の内面や社会的熱狂そして信仰の構造という二層の関係性を統合し、現代社会で人を動かす力学(物語・熱狂・経済)にまでテーマを拡張していること、それも極めて現代的なテーマモチーフで行えているところ、そしてそうした著者の傾向や手法を、業界が歓迎して後押ししているところなどから、『イン・ザ・メガチャーチ』は、著者作品群の中でも個人内的と社会現象というモチーフを言語化する手法の著者の現状頂点とも思えるし、テーマモチーフの大きさや虚構性からして代表作の象徴性もある。
 他にめぼしい男性作家がいない所も手伝っていそうだけれど、それだけの信頼や評価を勝ち得てきた流れは分かる。

 ちょうど先日、本作が本屋大賞ノミネートと発表。

時代を引き受けて書く、という誠意と野心

 芥川賞企画であるにもかかわらず直木賞系の朝井リョウを扱ったことには、金原と朝井の類似性が浮かんだからだし、戦略性がない他の作家に比べたら、二人とも上品ではないがそうした現代性野心はひどく誠意にも感じる。ここに見えてくるのは、承認欲求の強さや生き残りたい意志、そして何より書くことを職業として引き受けている、この露骨を隠さない潔さなのかなと。時代に合わせてモチーフや文体を変え、主題を更新し、フェミニズムや家族や母性や自己嫌悪といった消費されやすいが消化しきれないテーマを何度も書き換えて行くことを厭わない。これは文学的な倫理や実力とは違うけれど、現代での生き残り方や仕事への責任ではある。

 金原ひとみと朝井リョウこの二人に共通するのは、現代的テーマを戦略的に採る意味で上品ではなく好戦的だし、自分を良く見せようとしない上で承認・評価・市場・賞レースを直視していて、文学性より現代性を採っており、既存的な文芸や文学を倫理的高みに置かず、生存戦略や社会的実践として扱っている点の強かさであり、多くの現代作家が持ちえない一つの才能や誠意の種類だと感じる。一見下品にも感じるし、計算高いといえば印象はよくないかもしれないけれど、現代現実において書くことから逃げておらず、文芸を聖域化して安住する気もないし出来ないと悟っていて、アップデートして話題を作らなければ書き続けられないことを認識している危機感や生存本能がある。この辺りが、旧態や安住系作家とは異なる。
 ここにある誠意は、普段私が扱うような21世紀的物語や文学の倫理とは異なるし、旧態的な純文学要素とも異なるのだが、だからこそ現代的であり市場原理や商業と接続可能な接点であって、高潔さよりは世俗であるがゆえに、自分が置かれている市場や武器となる文脈やジェンダー、世代や評価経済等を無視せず、あえて使って書き切ってやろうという心地自分の生まれ持った体や時代から逃げずに書くことで生きていくことを引き受ける態度なのかなと。ある意味で現代的なその役割を引き受けること、現代文学を書くということは、文芸は汚れているし自分も汚れているし、この時代は難しいけれども、それでも書く、という態度に対する評価に近いような気がする。
 それは、上品で無垢に文芸的才能だけで立っている作家より下品で野心的で計算高いのだけど、それでも書き続けることを選んだ作家は現代的であると言えるし、そうした作家がいなければ文芸や文学は社会的接点を失い続けて、打開点は失われ続ける
 ある意味で、文芸や文学が読まれず売れない今の時代において最も誠実な態度の1つかもしれないし、それ以下の作家の多さに対する批評姿勢になるのかなとも思う。

 そもそもが根本的に主題やモチーフの選定が、現代や現実とどのように向け合い、揺れる心、という明らかに現代に接続し、それを隠さずに告白することに主題があるので現代でしかなく、文明の進み方としての時代のリアルを描き出すことは間違いない。空気の読み方、教室や就活に即応して生きる若者の主体や共感、晒され続ける女性の心身と世代間変化、などというモチーフは現代的な制限を持つ作品群になることは明白でだし、朝井の再浮上のきっかけがジェンダーである、というのも金原デビュー作と被り、男性性が打開する不定性ではあるが、ジェンダー的下駄や性的威力にも感じるところが、個人的には穿ってしまう理由かなと。
 いつの時代も虚構性や商業性としてジェンダーは強く、男性性の露出が倫理的な語りになるのは武器を感じさせるとも思うし、それでも嫌われなかった誠実な内的語りになったのであれば著者の一貫した武器と作風を感じるが、やはり下駄を感じるしそこに文学的実力や密度を期待しない既視感は金原と被るかなと。
 劇的で感情を整理しきらずに善悪を最終判断まで持っていかず、スタンスを正しく清い側に置かないことでのスキャンダル性だったり、ある意味での後ろ暗い文学っぽさも付与したりして、そのあたりは中村的な気軽な純文性を感じたりもする。著作列を見る限りに朝井リョウは一貫して、視座を高みに置きながらも、人は自分含めてみっともない負の感情を持ってるしそれを隠さない地点から語るところが誠実な態度であって、そこに現代的な倫理と共感が向かうことを、もう彼は成功体験として分かっているし、その共感の集め方が本屋大賞的な商業に接続しているところ、強いなと思う。
 この場合、現代的な野心の向きが文学ではなく社会に向いているのが面白い所で、金原ひとみの野心がデビュー作の出自から生き残ることや書き続けることに向いているとすれば、朝井リョウの野心はもっと露骨で、この社会/この世代/この感情構造を書く、という切実さに向いていて、だから彼の小説は共感されると同時に嫌われずに、これは自分の話だと思わせてしまう当事者化の強制力がであり、生命力なのかなと。それは決して文学ではないのではないか、と外側から見る限りに思ってはいるけれど、現代と文芸と商業が接続している一人のキーパーソンだなと思って眺めているし、今のところ後続が見つからないことを考えると、ある意味で現代文芸における男性作家として抜けている印象は間違いないと思う。

 正しさを疑い、被害や加害の線を濁したり、あらゆる欲望をむき出しのまま、ある意味で浅ましさまで描く、羞恥心を寧ろむき出しにする、これは旧態的な純文学にも存在した弱者男性文脈であるし、現代における男性像の率直な吐露であって、その弱者感や現代における弱者像から逃げずに、むしろ意図的に、あるいはおそらく打算的に、書き上げることで名が上がることを分かっている嗅覚があるとすら思う。現代において弱者性が共感を集めること、それを書き上げることから彼は一切逃げない、それは上品や文学性ではないけれど、現代社会の実相には近いし、それは津村や労働者モチーフを使って芥川賞がやったことに近く、直木賞側からして成功したアプローチということにもなるか。
 虚構創作・商業成功・現代接続、それらを露骨に引き受けて現代的テーマモチーフで書く、執拗に感情を反芻し、自己嫌悪の掘削ですらあるそれはエンタメではないのに大衆心理に刺さるそれは、ある意味で今の時代に必要とされる文学性や文芸の形が思われるところ。
 芥川賞においては自己憐憫的な弱者文学はもう使えないとしたが、大衆小説においてはまだその周周知や自己憐憫の正直な告白は誠実さとして映る一つの要因となり、現代における若者や不遇男性の側を起点に、弱者側のスタンスを崩さずに書き上げ、ひいては女性まで含んで羞恥や恥部を徹底的に描く、ということを芥川賞側ではなく直木賞側で行う、より大衆的で共感的で明快なプロットと舞台設定で、広く浅く共感を集めながら読ませる手法に特化する、文芸の社会性や現代性と商業性への接続、その徹底は素晴らしいなと感じる。

 金原ひとみ・朝井リョウに共通して感じているこの誠意は、崇高さではないし純粋さでも無垢でもないが、この時代で書くことを引き受ける姿勢の表れでもあって、市場も評価経済もジェンダーも世代論も全部わかった上で、それでもここに言葉を置く態度に対する信頼にも近い感覚なのかなと思う。彼らの真価は、文学的倫理でも才能如でもないと思うけれど、現代商業や虚構創作から逃げずに欲望や羞恥を誤魔化さないし、更新を止めずに求め続ける
 読者ではないので、実際のところ金原や朝井がどのような読者心理で支えられているのかはわからないけれど、大衆作家の大事なところは、読んでもいない第三者にどのような認知を持たれているかが社会性であったりするし、「社会派・鮮烈・欲望テーマ・現代の若者感覚・説明責任や創作責任・安心して読める」など好感度の高さ保ちつつ、知名度を獲得していくことの難しさや文化的に正しい位置を維持することのバランス感覚であり評価点。内部でやっていることはかなり露骨でも、承認欲求の醜さを直視し、善人でありたい自分の卑小さを描きながら社会的正しさを欲望として解体する的なことは、嫌われやすい行為であるはずが、文体を穏健にし倫理線を踏み越えずに読者の逃げ道を残すことで、嫌われない形で嫌なことを書くという高度な調整をしているようにも見える。これはとても現代的な実力と言って過言ではないと思う。評価されている姿と実際にやっていることのズレといってもいいかもしれないし、そこから見ると金原も朝井も、安全で誠実に見えるが、危険なことを言っているねじれがあるように思う。
 世代や社会問題へのメディア言説としての距離感の取り方は非常に洗練されていて、沈黙で消極的な上の世代と異なり、失言せず立場を壊さずに常に語れる位置にいる、という作家としてのリスク管理能力もあり、炎上・失敗する人は使えないし、そうならない上で戦略的に狙える人間が必要とされる現代構造と同様であり、結果として、安心枠に回収されている。


「文学的強度」より「社会的共有性」評価し歓迎する現代システム

 芥川賞の一般化の文脈や前回などで「社会性・テーマ性>文学的強度」という逆転現象、という部分があったが、そこでは津村を中心に社会性を扱えば文学性だというような勘違いが現代にはあるが、朝井リョウや金原ひとみにも言えて、社会性モチーフをとればそれが現代文学になるわけではない。
 この時代で書くことは汚れることだ、というのは、社会性を扱えば評価され、テーマが正しいほど文学になり、倫理的に安全な主題が強度を持つ、という制度的誤解の中で書く、という汚れであり、現代社会に接続するために文芸や文学が現代性や社会性を持つことで失う密度であり、現代社会的洗礼である、ということも出来るかもしれない。
 「社会性・テーマ性 > 文学的強度」という逆転は、本来的には社会性は題材で文学性は達成だったはずが、現代の評価構造では、社会性を扱っていることが現代的であり文学的である、という短絡回路が成立してしまっているからであり、津村記久子から派生した流れで言えば「労働・非正規・疲弊する個人や日常・社会構造の圧」などを描くこと自体が「人間性や時代性=文学性の証明」であるかのように扱われる節があり、これはもうまさに日本経済や文化の貧困化を感じるのだけど、労働者文学=大衆心理=時代的要素ではあるものの、それが本質的な文学性になるかといわれると微妙で、ただ単純に現代日本が文学的貧困や文明的困窮である、という状態とその民衆性の証左に過ぎず、それによる選択と達成は一重では文学的強度の代替ではない

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 そのようにして現代性のある作家は、差別・ジェンダー・承認欲求・世代的閉塞といった現代性モチーフを巧みに選ぶが、その選択により社会的に語りやすい位置を確保したことそれ自体が文学的達成を保証するわけではない。
 社会性モチーフを採ればそれが現代文学になるわけではなく、社会性を書くことと文学的強度のズレは明確であり、文学的強度とは本来、語りの必然性や文体の密度・主題の構造的圧や表現力・語られざるものの残響的非言語化のナラティブ・倫理的判断を読者に委ねる不安定さなどに宿る。故に読解コストや非具体性と隣り合わせな一方で、社会性モチーフは共有されやすく説明しやすいので評価しやすいが為に強度があるように見える。社会的に正しい問いを投げることで、読者が分かったと感じや現代を味わった気になれる。ここにはまた安住と停滞の影があり、この既視感は文芸文学への旧態的な雰囲気享受を使い回すそれっぽい再現性と同様の既視感と言って差し支えない。
 社会性や現代性を扱っているから評価されている、商業的達成や大衆掌握の正義性、という構造そのものを疑う必要があって、これは作家批評ではなく制度批評に繋がるものであり、そしてそれは、芥川賞・文芸メディア・読者の成熟度などの全体に向けることが出来るのかなと。
 またしてもここで、売り手・書き手・読み手の現代リテラシーの話に繋がる。

 この時代で書くことは、制度に触れることで必ず汚れ、市場原理を受けて立てば必然的に文学性からは遠ざかるし、社会性モチーフは文学的強度の代替にはならない現代文学は現代社会における正しいテーマや商業的成功や大衆的共感等では成立しないし、朝井リョウもその誤解の上で評価されている側面があるが、直木賞タイプとしての明確さがあるので、文芸がモチーフや顧客層拡大によって社会性や現代社会読者数と接続することに繋がるのだろうし、ゆえにそうした書き手が書き続けること自体は評価できるが、文学的強度とは別問題。
 これらは非常に厳しいが、今の文芸批評が本来やるべき水準であると思うし、その区別と両得を求めて狙い続ける必要性が文学と文芸に、あるいは文化と商業において、どちらもある。
 直木賞系の作家が芥川賞の文脈で語られないことはほぼ前提化していて、朝井リョウは文学的には語られないし、津村記久子も大衆的に語ることははばかられるのかもしれず、では金原はどうなるのか、などなど問題は山積しているが、基本的に純文学と大衆小説というくくり、あるいは私が文芸と文学は異なるものだとしたようなくくり、というほど明確には海外文学にはないようなので、まずはその価値観や固定観念からなのかなとも思ったりする。個人的には区別や判断は必要。

 朝井や金原は社会性モチーフを巧みに選ぶし、現代的で語りやすい問題を扱うことで、読者が読み易く語り直せる物語を作る。これは「社会性・テーマ性>文学的強度」という現在の評価構造に合致するが、文学的形式の更新や語りの破壊など、文体そのものの必然性を最優先する芥川賞的価値観とは関連しないし、文学的強度とも異なる。ここの妙といびつさが芥川賞の一般化がもたらしたものであるし、現代文学が社会性やテーマを文学的密度や評価と並べて価値評価するところの文学性と現代性の揺れ動きだとも言えて、現代文学の大きな懸念点
 社会を語れる商業作家は必要だし、読者と文芸を繋ぐ人だけが時代を繋ぐことが出来るし、炎上せずに成長し続ける公共言語的作家も必要で、それは本屋大賞系や直木賞系に期待されるものであって芥川賞系に期待されるものでない、とすれば、さらに隔絶と困窮を生むのだけど、制度こそは自身の根幹を真価を誤るべきではないと思うので、朝井金原のような作家も津村や芥川賞や直木賞も、自身の真価や武器を見誤らずに行うことが吉ではある。
 芥川賞という制度側が社会性を扱えば文学的だという誤解を拡張してしまったことで、芥川賞の基準自体が曖昧になり、文学性や一般性を不信したし、読者を置き去りにしない語りや現代社会性を共有可能な物語に翻訳する力は、必要な資質ではあるが、文学的強度や更新ではないことには注意が必要で、表現技法と目標設定を止まってはいけないし、芥川賞的文学的強度とは別物。

 本来は嫌われかねない主題を嫌われない形に創作出し続けている朝井リョウは、読者や大衆個人も社会も断罪しないし、自分も含めて「みんなそうだよね」に着地させる。この着地の上手さが、読者の安心・メディアの好意・業界の信頼を生むが、同時にそれは、危険を危険なまま出さないという選択でもあるし、虚構創作における加工技術であるともいえる。
 外から見ると誠実で良識的に説明責任を果たす作家に見えるが、内部では、評価される主題を選び、語りの角度を慎重に調整し、嫌われないラインを見極め、それでも今を書こうとする強い意志と持続的努力があり、評価経済を引き受けて書いている生々しさや戦略性を感じざるを得ないその感触は、現代を生き抜く作家の才能と即応に属しているなと感じる。そういう作家は社会を翻訳する作家であり、読者と時代をつなぐ作家だし、危険を公共語に変換する物語作家として、直木賞・本屋大賞的役割を果たすし、文学的強度や語りの破綻や判断不能性など読後に残る倫理的不安を引き受けるタイプの文学性とは距離がある。
 文学性とは現代社会性を扱ったかどうかではないし、文芸とは言語が社会制度の中でどう無害化されるかという批評にも近い

 現代文学が逃げられない二重構造があり、
 ①書かなければ可視化されない
 ②可視化されるためには時代語に乗らねばならない
 現代文学は、市場・メディア・賞・SNS・読者の即時理解を通過しないと、存在しないも同然になる。まず市場原理に乗らなければ存在しないも同然だから、それを満たそうとする結果、世界の見え方より先に、何として読まれるかの保守性が先に来てしまうことがある、その先行する現代的野心が矮小に見え、文学性と関係が乖離してしまう理由にもなる。
 現代的野心は生存合理性としては正しい欲望であり、現代的野心が最初から理解されることを前提とした戦略と計算を基本にしているのに対し、文学の歴史の価値を築いてきたのは時代に理解されないことや説明できない視界と感受性、当時の言葉では異物だった感覚等であり、その言語化や虚構化は才能の有無ではなく目的と射程の違いであり、現代的野心は文学的価値を標的にしていないし、現代的に価値の低いそんなものを求めてもいない。

 金原のデビュー作が新鮮だと感じる層と既視感だと感じる層に分かれる、が朝井のそれにも当てはまるのかなと。下品や戦略性だと思うかは二手に分かれるにしろ、どちらも現代鮮烈・生き残りの戦略と野心だとはわかる。それが文芸で小説家で現代それ以下の作家はいくらでもいて、現代は読まれなければ存在も確認されず市場原理で勝たなければ無価値であり、勝ったところでそれが文学性ではないし、どの時代も理解できず認知されづらいのが文学性だったりして、現代社会性で書ける作家は強いし必要で戦略で、ただそれは自分が置かれている市場・ジェンダー・世代・価経済これらを無視せず逃げないことであり、今の時代に書くということ。朝井のそれには弱者男性感もあり、その内的吐露が誠実さに移る構築の仕方は、しばらく男性不在で来た純文学には新鮮で、商業と接続しているところも注目。ちなみに身体ジェンダーは川上も使っている手法。

現代を見る作家の創作エネルギー
言語を見る作家のエネルギー

金原ひとみ/朝井リョウ
 →生き残りたい執念/承認への渇望
 →作家的エネルギー源になっている
 →どこか矮小にも感じる
綿矢りさ/朝吹真理子
 →その種の渇望や執念を感じない
 →エネルギーの質が違う

 前者は書かなければ消える、更新しなければ終わる、語らなければ居場所がないという危機感を、明確に内在化している。これは、綿矢りさ・朝吹真理子の作家像とは、まったく違う。
 その像を矮小と感じる理由は、渇望の射程が社会内で完結していることにあり、その渇望は今の時代で意味を持ちたいという社会内的な欲望であり、一方で綿矢りさ・朝吹真理子の初期衝動は、世界がどう見えてしまうか/自分の感覚が社会とズレていること/書かずにはいられない違和感であり、社会以前の感覚に根ざしている。この差は結構大きいし、表現の前の自由度が大きく異なる。
 前者の欲望は説明可能であり、言語化できるゆえに理解可能であり評価経済に翻訳できる。これは現代的で、健全かつ戦略的ではあるが、文学的強度はしばしば本人にも説明しきれない衝動にあり、書く理由が不明なまま続いてしまうことから生まれる類のものだったりするので、人知に簡単に収束する渇望や野心は、人知や人類スケールとしては射程の小ささを感じるのは仕方がないことだとも思う。
 現代で流通・通用しやすいように書くためには、市場や制度と交渉する設計を持つ必要が生まれるが、それは裏返すと、書くことが他者の希望や接続に乗り易いための設計ありきになっているということでもあり、それは商売ではあるが表現創作であるかというと疑問は残る。ここもまた文学や人類のスケールというよりは、現代や他者のスケールに収まってしまっているということにもなるし、それが現代的であるということと文学的であるということの永遠の距離にも思う。

 そこで見ると綿矢りさや朝吹真理子この二人は、書くことが社会的成功や持続の戦略として前景化しておらず、少なくとも作品の内部からはそう見える。だから、野心が可視化されず欲望が作品化されない、その結果、作家の生存戦略より感覚の異物感が前に出る。それだけが文学性だとは思わないが、金原・朝井のようなタイプの渇望は「この時代でどう生き残るか」だが、文学が本来引き受けてきたのは「この世界がなぜこう見えてしまうのか」だから、前者は時代依存で、後者は時代を突き抜ける普遍性として機能する可能性はある。現代社会としての商業性には生命力もある、でも文化的射程は短いし、つまりそれは消費物と変わらず、現代的野心は現代が終わると一緒に古びる
 下品さや執念は作家的源泉になりうるが、社会内的・説明可能・生存戦略中心に留まると、文学的射程は矮小化する。金原・朝井は現代に適応した強い作家だが、現代を突き破る作家になることは難しく、ここの違和感は、文学を時代適応した消費物ではなく世界認識の更新として見ていることから来ている固定観念による。

構築ではなく消費
現代文学は「世界」ではなく「時代」を書かされている?

 世界=人間の知覚・存在・倫理・時間
 時代=社会問題・言説・制度・流行

 本来、文学は「世界」を書くものだったが、現代では時代をうまく書けたものが作品として流通する。時代を書こうとする作家は瞬間的に売れるし社会に接続しやすいが、時代サイズに最適化されす過ぎていくし、それでも書くしかない残酷さを継続したうえで、時代を突き抜ける文学は当時ほぼ評価されないし、評価されない文学は継続できない。継続できないと書き切る前に消える、作家の名も作品名も世に上がらない。だから現代の作家は、まず生き残り、その中で何とか射程を延ばすための迂回戦略を取らざるを得ない。金原・朝井の露骨な下品さや執念じみた感じは、この構造を引き受けている証拠でもあるし、そこに私が誠意と同時に限界を感じるのかなと。そしてすべからく、そうした現代接続を第一念頭に置いたものの文体や表現は密度が低い接続した者が勝つ社会における実力とは本質をはき違えやすく、評価軸が異なるもののために対応した結果、それは文学的密度を請えない。

 おそらく私がこの問題に強く反応するのは、商業的な数字や社会的なテーマや達成を愛する一方で、文学を世界認識の更新装置だとまだ信じているからだし、それは決して制度内や現代社会内で成功する技術、すなわち生き残りの巧みさや社会性の正しさだけでは満足できず、普遍的かつ構築的な人類価値を求めるからであり、文学が本来持っているはずの信義や憧憬の問題だとは思う。
 そのようにして現代文学の難しさとは、世界を書くためにまず時代を通過しなければならないことであるし、多くの場合、時代を通過した時点で世界は痩せてしまう
 この問題は、現代の文学が最も正面から引き受けるべき問いであるはずだし、市場原理に乗った多くの技術や正義や倫理の問題でもあるはず。

 市場原理や大衆心理に立ち向かえば必然的に文学性からは遠ざかり、社会性モチーフは文学的強度の代替にはならなず、他者の希望や接続に乗り易いための設計ありきで評価軸が異なるもののために対応した結果、文学的密度を請えない。芥川賞という制度側が社会性を扱えば文学的だという誤解を拡張してしまったことで、社会性や現代性を扱っているから評価され、商業的達成や大衆掌握の正義、という構造そのものを疑う必要があって、これは制度と構造批評として売り手・書き手・読み手の現代リテラシーに繋がるし、今の文芸批評が本来やるべき水準であり、求め続ける必要性が文学・文芸・文化・商業においてある、と私は信じたい。

(※またも長くなりそうなので次回・最終回へ
  切り上げないと今回も目が回り始めます🐶)

現代的野心=理解されることを前提にした欲望、
      または理解されないことを計算した衝撃
文学的野心=????????


**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
 感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
 とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~

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