更新しない文学は既存の主体像を再確認し安心を供給するだけで、制度を急き立てない。社会や個人が変わらなくて済む既存の言語を量産してしまう。これは文明の速度を落とす行為であり、文学が更新した倫理は必ず社会を追い立てる。だからこそ、更新しない文学は社会を眠らせる。
日本社会や多くの先進国で長く前提にされてきた女性像は、
前回:男性作家の不在と更新不足、解放と多様化の臨界点『去年の冬、きみと別れて』『ある男』中村文則、平野啓一郎①https://todayisalso-stroll.com/?p=10287
・若年期においては補助労働力や短期雇用
・結婚に際しては退職(寿退社+家庭に入る)
・出産後は無償ケア労働(育児・家事)
・再就職後は非正規・時短・補助的役割
などにより、時間的にも能力的にも切断された人生モデル。これは単に働きづらいという話ではなく、キャリアの連続性が想定されず、成果の蓄積が社会的に評価されず、そもそもの長期的思考・専門化・権威形成が阻まれる、という社会的・当人的にも価値観そのものが制限される構造。
前回①が、解放の前提となる女性の抑圧を扱ったものであったとするなら、今回②は、更新不足の男性性を育成するに至った時代制度背景を扱ったものになる。どの時代に生まれて何を目撃した作家たちは何を書いて、どの時代に生まれて何を求める読者たちは何を読みたいのか、21世紀や2030年の日本文学が求めるものとは?
文学は社会より一足先に感受性を表現する領域であり、実績や現実の構造変化よりも社会的祈りを反映しやすい。それらが文化として定着し社会制度が追い付くことを是とし、未来の普遍的価値観を変えていくことを文学の本質と仮定すると、社会的是正の急務性と文学における女性作家の台頭は重なっており、しかもそれは偶然ではなく同じ歴史的圧力への応答ゆえの更新であると同時に、文学は制度よりも深く、早く、感受性の更新を要求する、その祈り的な表現になることの証明でもある。
今後問われるのは性別ではなく、どれだけ自分の立場を引き受けた語りができるかであり、だからこそどの時代も、その自分で書き尽くせる倫理と更新が全てで、それが社会性に連動していく。
説明責任を引き受けた立場で世界を語れる者が評価され、被害競争や構造的享受から距離を取り、責任と構築を選ぶ語りが人類更新には必要になるし、文学と社会は同時にここへ向かう。
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文学っぽさへの安住=一般的沈黙
個人的に20歳前後で『最後の命』を読んでいて、その時からの成長はあまり見られない。自意識の過剰性、暗く内的に考えれば文学だと思ってる典型。
『最後の命』(2007)は少年時代にホームレス集団の掃きだめで起こる集団レイプ事件を目撃した二人の少年が、その後どのような精神状態や性的嗜好を持ち得ながらどう生きるのか、という悪や犯罪性や精神性などのモチーフを強烈に持ちながらも、その思索性も虚構創作技術も甘くモチーフ負け。どんな純文学作家だよと鼻で笑いつつ、一緒に借りた2冊目『悪と仮面のルール』もタイトルのキャッチーさからエンタメ作家なのかな?と読み始めたがプロットが微妙で挫折。他著作列を見て意欲的なことは確認したが、それ以上は読む気になれず断念。
今回10年以上経ってみて、『去年の冬、きみと別れ』はさらにタイトルや装丁からして商業特化しており、2013年発売当初売れていた印象もあるのでそれは成功したのだろうし、現代的な則し方に傾いている印象。平野もこの点では同様であるが、今回読んだ2作ともどちらもミステリ要素で文芸創作を行っており(戸籍や人物入れ替えで偶然に一致)、純文学がそれだけでは売れないし読まれないことを認識した上での現代的な戦略や創作姿勢は好感を持つが、ライトでキャッチーな切り口や表現形式をとった上で何を表現する目的や思想、そしてやはり文体や筆致の出来を問えば、お粗末だとしか思わず。
中村で言えば、芸術的傾倒や犯罪者インタビューなど、モチーフ的な選択は済んでおり、著作列を見た限り「内的悪・社会悪・集団犯罪」などモチーフをスケールアップして展開しているので、それらへの興味や倫理観などと展開性は感じるが、深掘りするだけの思想的深みや理知的な所が弱いので、主題も浅いまま発展させられず、表現される文章の魅力も弱いので、雰囲気サブカルの域を出ていないように感じる。芥川賞作家がエンタメ風に書くのは戦略的に問題ないが、知性や文体が不足したまま商業性に流れるのみで虚構創作における鋭さや冴えがないことには問題がある。
著者の選択しているそれらのモチーフはスケールが結構大きいので、どちらかといえばその虚構創作上の技量はエンタメ的な要素が強くなると思うのだが、そのような整理や構図がはまっているかは今回と過去作では認識できず。このあたりは『掏摸』(2009)や『王国』(2011)などを読むべきかと思うが、著者の話題は『去年の冬~』が一番強かった印象があるので他はどうせそれほどではないのだろうと程度が知れる感じ、エンタメ商業要素や思索テーマを取り入れても芸術的な実力が弱いとどうにもならないことの典型。
公式評価として芥川賞当時(2005)は、暴力と自我の原点に切り込んだ不安定な主体の描写として評価されたようだが、これは2000年代前半の「内面の暗さ=文学」的価値観の最終局面で拾われた側面が強く、当時の流行や最後尾を感じる。
自意識の暗部を説明的に反復する文体は気分の固定に近く、哲学・倫理が概念の雰囲気止まりの結果、何かを考えている感じはあるが読後に認識が一段も更新されない。表現目的とする思想そのものもそこまでの深さを持たないにもかかわらず、それを表現する文体にも魅力がないので、作風の主体としての文芸に強みがどこにもない。
中村文則は途中から明確に「悪/組織/暴力/犯罪/国家」等のモチーフへ踏み出し、それはミステリ小説や犯罪小説への展開になるが、ここで普通ならそれなりのモチーフを手に取れば、 虚構創作のキレ・構図と強弱・倫理とサスペンスの緊張やエンタメ性などが生まれるはずだと思うが、前述の通り思想も文体も突き抜けるものがあるわけでもないのに、プロットが概念の説明台にしかならずキャラクターが思考の代弁者止まりでもあり、悪や哲学語りの装置に矮小化される結果、社会性にもエンタメ性にも届かない中途半端な思想風ノワール雰囲気小説になってしまっているのかなと。
ここは明確に虚構創作技術が欠如しており、文芸としての文体も形式技術も弱いし売れてもいないとなると「思想・テーマ・主題」もしくは、「虚構創作技術・文体表現・芸術またはエンタメ性」などのどちらを目的と手段のどちらに置くせよ、文学としても文芸としても未達で不十分。
では、自意識を掘っているつもりで思考も虚構も更新できず、文学的表現力も物語技術も不足しているのに、なぜかそんな作家でも結構な位置を築いている理由を考えれば、内面重視がまだ免罪符だった時代、社会や世界への接続を回避する文学が安全だった、その条件が揃った中村文則を、自意識文学が物語にも思想にも進化できなかった典型例として位置づけると、他の作家(平野啓一郎・川上未映子・村田沙耶香など)との比較軸が一気に鮮明になるのかなと。
文学を自意識の吐露として見ることが出来ない私としては、この前提を共有している限り、中村文則はどう分析しても「雰囲気はあるが、更新がない」に収束する。
それに比べたら平野啓一郎は結構面白かった。思い出せば10代で読んだ彼の『葬送』(2002)も結構面白くて、作曲家で音楽家のショパンと、友人で同時代の画家としてドラクロワを扱った作品なので19世紀のパリの社交界を世界観にして芸術やそれを生業に持つ芸術家の心情や、そこから離れた個人としての人情性や人生など、バランスよく過不足なく書けている印象があって、長編の構成も破綻はしておらず、当時トラスティベルというショパンをモチーフにしたゲームが面白かったのでショパンの作品を探して読んだが、その下心発端を満足させるだけの普遍性は感じた。
⬇️音楽とても良いのでぜひ聴きながら読んでください☺️戦闘曲のやる気!
この作品は女の子も男の子も可愛く世界観も良い🗺
今回読んだ『ある男』も、法務部出身の著者が40代の弁護士を視点人物に、彼が受けた依頼からある1975年生まれの男の人生や内面に思いをはせる作りをしていて、1975年というのは著者と同じ生まれ年と被るので、”ある男”の生まれや環境を考える過程で、作者自身もリアルタイムで触れたのであろう社会問題として東日本大震災や地下鉄サリン事などが気軽に通過していく感じも誠意や雰囲気止まりではあるが見える。作家が個人を特定しないし私小説的に書かないとしても、無理なく誠実に書く範囲においても、自分と重なった人物像なのは避けられないし、自然で誠実な態度だと思う。
視点人物は弁護士であるのに探偵ごっこをしたり忙しそうなのに、プライベートでも一人息子の父親で妻との間に少し問題を抱える家庭人であることもバランスよく配置されていて、弁護士や探偵の仕事風景においても、育児をする父親の心理や中年の悲哀も重ねたりして、ありがちなミステリやハードボイルドなどとは異なる書き方で良かったし、離婚しそうでしない理由の家族愛や倫理、他の女性との関わりのメロドラマ、それらも全体的に誠実なバランス感覚で描けているところも上品。
アンパンマンに化けたバイキンマン、偽物の見分け方は?
不遇な過去を照らし合わせたからこそ邂逅した相手との愛は?
偽りの過去で語り合って生まれた愛はどこへ行くのか?
この身体は両親からもらったものだが、親が犯罪者なら子供は?
等、『ある男』はある男をめぐって、普遍的な疑問や道義上の問いに苛まれる視点人物の内声の旅を読み続ける作品。
法的秩序において個人を相当させるのは遺伝と環境、自助努力や誠意だけでは測れない、彼を作る土台や過程は無視できず、それを国家が法的に裁く、ということの難しさは法学部ならではで、その要素や思想観の根底を隠さず主人公設定に含めるのも誠実で、作者が興味を持つテーマとその思索の登場を無理をしない設定で書き上げる所にまた好感を持つ。何をもってして個人を個人と特定するのか、というのは結構文学的な主題であるし内的テーマで、刑期を待つ死刑囚の絵画は許されて、突如平穏を奪われた被害者の幸福は許されないのか、という一瞬出てきたモチーフにも関連する。
それらは確かに中村文則よりも込み入ったモチーフテーマを、上品にさらさら描きながら、なんとなく考えさせる肌感覚的な問題提起要素は存在するし、破綻なく長編を織り上げるのも上手いので、異なる人生を味合わせて没入させることによるフィクション的癒し効能も相まって、悪くない。
この全体的な印象は『葬送』の時に感じたものと相違なく、あちらはゴシック時代の芸術モチーフのためもう少し濃厚、こちらは現代法学部の子育て世代の中年、故の切実。虚構性それぞれの魅力で描けている節は一定以上あるが洗練がされている分、これが限界値かと思う反面、もう少し作者を突き上げる何かがあれば変わるのではないか、とも思うのだが、それは本当に情動で価値観だからなとも思うばかり。
でももう50歳らしいからなあ、皆川博子さんは90代だけど。

平野は、ある意味で男性版の綿矢りさのような最年少受賞の華々しさで序盤を埋め尽くしているが、文壇側に作られた華であって、一般的な読書の場面でその著者名をほとんど聞いたことが無い、この温度差が文芸文学の非現代性を物語っている気がしないでもない。
京都大学在学中に処女作でデビューし翌年の芥川賞を当時最年少の23歳で受賞(1999年)、その後しばらく受賞は途絶え33歳の時に『決壊』芸術選奨文部科学大臣新人賞(2009)、50歳で渡辺淳一文学賞(『マチネの終わりに』(2017))、51歳で読売文学賞(『ある男』(2018))、受賞歴的に途切れていた初期の10年間は先に触れる『葬送』や『一月物語』等の長編を執筆し意欲的、その後は現代的な中短編に移るもめぼしい活躍はあまり見えてこず、デビュー付近の最年少以外、1期も2期も不作だった感があるが、この辺りかなあと。細かく読んでいないので推測だけど、序盤のここで、自己を貫いて不作に陥った現実より、華々しい業界・商業達成や成功側を選んだルートで上手く乗れていたらだいぶ違ったのだろうこと、そちらを選ばなかった結果に尽くした自分のルートをどれだけ頑張れた結果どんな成果を上げられたのかというところ、が年譜に立ち上がらない所。若年での成功をどのように扱い、自分の作家性をどのように扱うのか、というのは興味深い所。


その後50歳前後にして『マチネの終わり』や『ある男』など、純文学の作家にしては売れていそうだし映像化作品もあるが、作家としての一般的な成功の印象がここまで弱いのはなぜなのか?
文章も悪くないし東日本大震災や在日を扱ったり意欲も感じるが、与えてくるものもなければただの冗長で、文芸作品としての完成度としては疑問符。「文学=認識更新装置/倫理の先行実験」という視点から見ると、平野のスタンスや貢献の曖昧さは、理知感で語るが更新を起こさない作家に収まっていて、テーマも時事的で倫理的かつ文章も一定以上、業界的評価は高いのだろうし映像化もされ一定売れている、なのに文学的に揺らした痕跡が弱い。
けれど、出版社や市場から見た強みとして「純文学×教養×安全」につき、適度に知的で適度に社会派だが難解さも暴力性もないから炎上しない上、映像化し易い虚構性を展開する物語構造を持っている。
こういう作品は、売る側としても読む側としても安心して出版や読書を任せられるし、商業成績や読後感の回収もスムーズなのだろうなと推測できる。
今回は読まなかったからあらすじなどからの想像になるけれど、『マチネの終わりに』などは典型で、芸術(音楽)・国際性・恋愛・歴史的事件(震災など)を摩擦ゼロで回収していく虚構の準備は総合点だし、それは今回読んだ『ある男』でも同様で、落ち着いた年齢設定と落ち着いた文体にて適度な文化性や社会性をミステリ性と恋愛要素、面白い所では中年以降の結婚生活や育児風景を扱いながら綺麗にまとめ上げているところで、非常に上品な読後感だった。
大冒険は無くとも自分の主題や物語の型を持っていて、文体は破綻せず、裏切られない作品が読めるし、誰もにとって社会的に安全で管理が可能であること、それもまた中村と同様に、書き手・売り手・読み手の誰も損をしない、流通しやすい作品性で成り立っていると思われる。これらは著作列と、今回読んだ一冊とかつて読んだ『葬送』から受ける総合成績みたいなものだけど、中村文則と同じく、更新しなくても成立する作家としての安定感の正体なのかなと。
分人主義というのが著者の大きなテーマのようだけど、理知感としては誠実なテーマであるのは分かるのだが、物語によるメロドラマというよりは理性上の内省による表現は台詞劇などとあまり変わらないし、著者により用意された概念を登場人物がなぞる構造は、諸問題に触れて理解した気になれるが認識は揺れず、新奇的な読書体験やその情動刺激にはなりづらいのかなと。この辺りの文体や虚構表現により試作や世界観を立ち上げることが作家の仕事であるとすれば、著者はその辺りが弱い気がするが、どうなんだろう、上品すぎるのか。
なぜ売れて・読まれているはずなのに、烈な印象や読者が見つからないのか、の違和感を考えれば、作品が思想的に安全すぎるし踏み出さない上に虚構創作性も曖昧である、の総合で言い表すことが出来て、「震災・在日・差別・国家・個人と社会」など扱うテーマは重く豊かだし、その整理は文体・物語ともに上手いのだけど、結論が読者の認識を壊さないし倫理的に正しい位置に着地するだけの表現にとどまる結果として、読後に不快感も残らないが世界観も情動も揺さぶられず、自己像が解体されないのだから社会的な変革は持ちようがなく、常に理解可能な距離に留まり、良識のある知的作家の範疇を出ないのかなと。社会的に暴れず傷つかない問いしか出さない事は表現者としての存在価値としてどのように踏み込み、他者や社会を揺らさない問いの倫理の根本に疑問すら湧く。
倫理は提示されるが思想を先行しないし、物語と文体をもってしても読者側の情動化されないことは、表現形式として褒められたものかどうかの疑問は残る。
文学を洗練された教養的対話として位置づけてるのであれば、複雑な問題を複数の視点で丁寧に語り直す知的空間として構築し、その場合の読者リアクションとして想定するのが衝撃や変容ではなく理解や納得可能な整理などであるとすれば、もう文学観というよりは読書観ともいえるかもしれないけれど。主体の破壊や革新ではなく、主体を穏健に拡張し再定義する読書、近代主体を壊すのではなく理性的にアップデートする立場、それが平野の作家性や文学性だといわれたら結構納得するが、それはだいぶ才能とか功績とかとは距離があるなとも思う。
私にとって文学は倫理を先行させ、社会を引きずる物であるのに対し、著者の文学は社会と並走し、理解を深める為のもののように感じるし、ゆえに私には与えてくるものがないし読後に更新が起きないと感じられるし、その読書に価値を見出し事が難しい。これは感覚の相性ではなく、思想の非交差なのかなと。
安住が許された背景(時代・制度・出版商業)
文体も内省も虚構性も、何も更新していないように見える2人が、それでも芥川賞を受賞し、何作も出版され、一定顧客を持ち得ている理由を考えてみると、更新しなくても生存できた環境が浮かぶのではないかなと。
制度的回収
中村文則(2005)が芥川賞を取れた理由には、才能や実力の固有による評価というよりは、文学っぽいステレオタイプや旧態純文スタンスの役割に適合した制度的適合であるのではないかなと思うし、津村記久子(2008)に感じた制度的迎合の1段階前なのかなと。綿矢りさ(2003)絲山秋子(2005)等更新系も目立つが、2000年代前半の芥川賞は同時に旧態的な安全な暗さも回収していて、「社会批評や政治性は強く出さないが内面は深そうだが過激ではない=文学っぽい雰囲気」を表す文体は平坦で読みやすく、それっぽい若手を回収する制度に成り下がり、批評機能としては低俗であることは現代からすれば明白なのかなと。
現代文学的な要素を満たさなくても、文化的ステレオタイプに合致すれば一定のスタンスは満たすし、翻訳にしても文体が平易で構文が単純かつ内面中心はやり易いだろうし、この点は川上未映子(2007)も同様かなと思う。更新的作家ほど翻訳が難しく、敬遠される。
更新を狙わず、慣性や惰性で存続することにより評価は固定化し読者は入れ替わらず、批評的議論は起きないが絶版にもならない状態は、文学史的には停滞だが市場的には安定という状態を作り出せるのかなと。そうした書き手ばかりになって、文学的更新も商業的盛況も生み出さないので、文化としては確実に静かに衰退するわけだけれど。

ここで焦点になるのは、芥川賞という制度が何を選び、何を排除したか、その結果、その制度の中や日本文学の中でなぜ更新が起きなかったか、であり、内部的な自己責任であることも浮かぶ。
そもそも芥川賞・直木賞は出版社主催の星印なので、文化と商業どちらもの役割を果たすための代表的な門戸であることは知られていて、その出版社が一番嫌うものはやはり失敗だし、欲しいのは成功で、その時代のその予測と目算は必ず存在し、文学も文芸も現代における多くは文化と商業どちらもの成功性から目を背けては存続できないの、評価が割れたり炎上したり、予測や説明不能により社内合意が取れない、政治的・倫理問題として揉める商品も難しいわけだから、事故らない安全パイだが「文学・文化っぽい」作品や作家が歓迎されるのは仕方ないわけで、中村や平野はここに見事に適合していることが分かる。
更新型・跳躍型の作家は編集者が制御不能になる気もするが、編集者や売り手側に制御可能な作家が社会や読者を変えるかも疑問。ただ、売り手や読み手の期待を大きく外さずに期待に応える事の価値も決して低くはないし、文学的には致命的でも商的には重要で、売上がゼロにならないし批評も荒れず、書店が棚を外さないし文庫化まで見通せる。商売の限りに作家も出版社も更新やヒットより事故らない本を一定数必要とする事は現実。
社会批評はするが具体性はなく、悪や暴力は出るが制度批判向かないために雰囲気に留まり、被害者性はあるが加害構造を描かない事は政治性を回避し、読後に誰も傷つかないこの無風性は、今の出版環境ではある意味で最強の武器でもあるし、万全の安全策とも思えるか。
商業的回収
何作も出版される理由には、才能ではなく再生産可能性や読者の安定感も関係するだろうし、売り手・読み手からすれば中村文則や平野啓一郎は、文体が均質で作風が安定し、大きく外さないし炎上もせず政治的に安全に毎回だいたい同じものを安定供給する、これは商業的には結構重要。
読者側の需要も一定以上あることも明白で、そこから考えるとこれらの読者層は、もしかしたら文学的更新を求めていないし、世界認識の変化も求めていないのではないかと思うし、難解すぎず哲学っぽい手頃な深さを理解した気になれる、この作品スタンスは市場ポジション的にも安定することは想定できる。
毎回だいたい同じものを出せることはブランド化を手伝うし、同じ雰囲気で同じレベルで再生産できることはある意味でプロ的・職業的であるといいことの最低限と思えば、それを満たすことは現実的な責任を果たしていることに他ならない。中村文則=暗い・内面・哲学風、読者が想像する内容と実物がずれない、裏切らない、という徹底性はこれはもう商品カテゴリとして扱える状態だから、書店も仕入れやすく読者も手に入れやすく営業もしやすいし、過去作の再利用が効く。
更新はしなくていいから、毎回同じ品質で書いてほしい出版と読者の雰囲気的な停滞に忠実に応えられることが求められる作家により、文学史的には停滞し、批評的には語られなくなるとしても、刊行は続くし一定の読者は離れない。これは才能の如何ではなく適合の如何であり、最初から更新を求められていない作家の存在価値なのかなと。
文化が商業であり、その衰退によって書店や文化の先細りがあるのので、一定の雰囲気や生産性が求められることもまぎれもないのだが、ここで私が覚える違和感は、文学を更新装置や認識装置として見てしまうと、出版社や作家が現代的な感覚で文芸や小説を「商売道具・流通させるべきもの・安定供給可能な商品」として認識し展開させていることであり、そこに価値観の不一致や評価の断層が起きるのかなと。ただこの場合に中村文則が批評制度よりも商業的活用により運用され適応した事実は見えてくるし、結果として2013年に『去年の冬、きみと別れ』が一定以上の商業性で売り手と読み手の期待に応えたわけだから、これは否定しようがないのかなと。ただ商業性と文学性、勿論批評性とは異なる軸であること、それぞれの軸が明確な価値貢献をせずしてそれぞれの文化価値の発展はないこと、には注意が必要。
これは作家個人を超えた市場の安定帯や商業流通の話であって、そもそもが文学が芸術と学術、文芸が商業と文化を担うように多軸で多様であることからそれらの複合的評価からは逃れられず、さらに現代は加速する資本主義・市場主義であることから商業性が最優先されてしまうことも仕方がない。
ただ、文学っぽさや手頃な深さやその雰囲気的な共有や癒しが、現代文芸の消費として機能する場合に、その文芸と読書の文化やそれ自体がどこへ向かうのか、ということは結構問題で、
文芸読書は勉強や更新とは異なるから、雰囲気享受の癒しでも構わない側面は否定しないけれども、努力せずに深さを所有した気分になれる深さに対し、問いは立つが解決や転倒は起きないし、哲学は語るが概念は更新されず、不安や悪が描かれるが現実の責任に接続しない、その文章の倫理の姿勢に、読者が何を感じ、そうした作品を量産した結果に、文化や読書がその後何を伸ばして何を迎えどこへ行くのかを考えると、基本的には思考や更新を要求しない読書にどのような価値があるのか、という部分へ個人的には行きつく。
難解すぎない作品性の重要性もわかるし、本当に更新的な作品は読解コストが高く、読者に自分の理解不足を突きつける上、認識を揺さぶられて不快や不安が残る可能性があし、その読書を快か不快のどちらに感じるかは極端に分かれる可能性がある。そこへ行くと中村や平野のような作品性を貫く限り、そのポジションは、最後まで読めるし置いていかれず理解が追い付き、読者が負ける面がない為に自尊心が傷つかず、分かったつもりで終われる読後感を無意識に求める層は実はけっこう多いし、消費社会の文芸の正体は多くがこれであり、読書=新しい認識・常識の更新・破壊と再生が快楽、という層よりも実はけっこう多い、というのは最近人と話していて感じて、私が愕然としたことなのだけど、人はそこまで新規性や発展性に興味が無くて、実は好きで停滞や予測範疇に安住したいしそれが心地良い消費であることもあるのだ、ということを、私はまざまざと感じたりもする。
文化的回収、が一般的大成功にならない理由
例えば、中村がモチーフに採り易いと思われる「実存/悪/自由/暴力/孤独」等はすでに一般教養として誰もが雰囲気的に知っている単語であり、読者は自身の認識の引き出しに気づくし、未知の概念を導入しないで済むので理解が破綻しない。
平野モチーフも同様で、在日や国際問題、犯罪なども、理解出来た気になれる心理的報酬を考えると、「自分は思考的であり軽い哲学や時事問題が分かる=難しい本を読める側だという自己像」等も認識の快楽に繋がり、読後に宿題が残らないから、世界観を修正しなくていいし、行動や価値観を変えなくてもいい安全な知的消費に繋がる。そういう読書は疲れないから安定的な趣味として機能するし、他人に勧めやすいから話題の種にもなるし、文学っぽい体験を保証する。これらはおおく、作者・出版社・書店・読者、全員が損をしない、だから爆発的に売れないが安定的に機能して消えもしないラインを最低限保証してくれるのかなと。
こういう文化の生存性を厚くし、現代商業と接続して機能する商品や作家を軽視しべきではないし、これは私が文学性を求めるあまりに軽視しがちな評価軸なので注意する必要があるが、問題は、幾多の映像化作品やその機会をもってしても、それがそこまで商業的に拍車をかけて、大作家の風格まで押し上げ、文芸文学のジャンルを底上げしているのか?という視点。
商業的な機能を求めるのであれば、そこまでの結果を出すべきで、中村は『最後の命』(2014/柳楽優弥)『去年の冬、きみと別れ』(2018/岩田剛典)『悪と仮面のルール』(2018/玉木宏)等と結構な主演俳優を据えて映像化しているけれど、そこまで伸びた印象が無い。
平野も『本心』(2024/監督・脚本に石井裕也、主演に池松壮亮)『ある男』(2022/妻夫木聡・安藤サクラ・窪田正孝)、『マチネの終わりに』(2019/福山雅治・石田ゆり子・伊勢谷友介)等、結構豪華メンバーを集めているところを見ると、製作資金などもある程度潤沢にスタート出来るだろうだけの原作の力やいわゆる文学作品映画化的な箔付けにもなっているのかもしれない。
俳優とそれから見える制作規模にしろ、両者ともにかなり厚遇されているわりに、商業的や認知的には国民的作家ラインまでは一度も到達していない。これは日本の映画産業・文芸市場・読者層構造の限界がそのまま露出している事例なのかなと。
映像化の多さに比して、ヒットは出ていない疑惑
『最後の命』(2014/柳楽優弥)小規模公開・話題性限定。興収も大台に乗らず。文学的評価は一定あったが、一般層への浸透は弱い。
『去年の冬、きみと別れ』(2018/岩田剛典) EXILE系主演+恋愛サスペンス売りで、パッケージ的に大衆成功を狙ってなお興収的に失敗。SNSの反応も薄く、原作ブーストは起きず。
『悪と仮面のルール』(2018/玉木宏) これも動員・話題ともに伸びず。玉木宏のキャリア的にも代表作にはならず。
中村作品の特徴は、宗教性・原罪・悪の構造・自己崩壊をモチーフに、暗く・救いがなく・読後にカタルシスが薄いという旧態文学っぽい雰囲気で、情動キャラクターや物語による創出が欠けていて、人物はあくまで説明される観察対象の域を出ない。これらは映像にした時に不利な虚構性をしていて、映像化でヒットする虚構性は基本的に「恋愛/家族/成長/再生/感動」などの情動やカタルシスやキャラクターであるのに対し、中村は「構造的悪/袋小路/人間性の終わり」等の具体性が無い抽象的な内省要素を具現化する物語構造が弱いので、ミステリタッチや恋愛要素やキャッチ―な設定を取り入れている分映画化はされやすいがヒットしにくい構造を持っているのかなと。
製作側としては、文学的格があるし作家性が強い風なので、企画は通りやすいのかもしれないが観客がついてこない=興行的成功は遠い、構図。
平野啓一郎はさらに豪華布陣だが、それでも社会現象化しない、結果寒い。
『マチネの終わりに』(2019/福山雅治・石田ゆり子)
『ある男』(2022/妻夫木聡・安藤サクラ・窪田正孝)
『本心』(2024/池松壮亮・石井裕也)
キャスティング的に異常なほどの厚遇で、製作側の期待値はかなり高いと思われるが、『ある男』は評価は高いようだが興収は中規模止まり、『マチネ』も話題性の割に大ヒットではない、『本心』も 文芸ファン中心で、広範な国民的話題にはなっておらず、ここでも、企画も通り易く製作費も確保し布陣も豪華だが社会現象や一般的成功には結びつかない、という構図が見えてくる。
ここまでお膳立てされて、なぜ国民的作家にならないのか
中村も平野も、アイデンティティ・分人・自由意志→責任・悪・他者性といった「考えたくないが、考えねばならない問い」を真正面から出すが、これらは文芸で消費する層からすれば手軽な重さだが、虚構商業にて娯楽消費としては負荷が高い。中村・平野は、自己や世界を疑わせ、倫理的主題を匂わせ、逃げ場を潰す作風ではあるが、娯楽消費と文芸消費の売れる構造が真逆であることがここではっきりとわかるし、後者に安住している著者にとって前者で成功することは原作の力では難しい。
文学作品の映像化という箔はあるが、それ以上の拡張力がないことも理由の1つだと思う。上記のように、文系作品を映像化するにあたって、原作をいかに映像作品として加工するのか、は最初で最後の難題だとは思う。製作側は「文学作品+実力派俳優+評価の高い監督」=良い映画になるはず、という期待や既存のまま動く、これは業界内評価・賞レース・文化的信用には効くが、一般層の感情動員にはほぼ効かない。批評的成功・賞のノミネート・映画祭評価は取れるが、動員・熱狂・社会現象化には直線的に繋がらない。ここには原作や役者を使って社会現象まで伸ばす邦画製作の力不足もあるのだろうが、私は今回一作も映画作品を見ていないので、ここは割愛。
映像化の数は多いし、俳優の格は異常に高く、製作資金は明らかに潤沢、つまり期待値は業界的には高い、それでも社会現象も起こせず商業的ヒットもしていない、『悪人』や『国宝』で売れた吉田修一のが大ヒット作家に思える、文芸業界における評価はそれほどの優劣があるとは思わないが。
文芸誌に載るし、芥川賞を始め各種受賞による業界評価もあり、単行本は一定数売れる、だから映像化もされる意味で文芸作家の中での勝ち組的ポジションにいることは揺らがないとは思うが、社会的には影響力がない事が明白になるのかなと。
昔で言えば、大江健三郎、三島由紀夫、村上春樹初期等は文学が社会と直接接続していたが、今の中村・平野などは文芸内循環の勝者であって、社会的駆動力にはならない。ここにまず決定的な断絶があり、現代における文芸の弱さが露呈がある。
文芸業界側からすれば、商業映画にすれば跳ねるはずという幻想が、毎回裏切られていることも内外にとって重要で、製作側も「文学×豪華俳優=ヒット」の期待を持っているからこそ、製作費が確保され、玉木宏・岩田剛典・柳楽優弥・福山雅治・妻夫木聡・安藤サクラ・池松壮亮みたいな、一線級を次々投入することも可能だが、結果は毎回大ヒットにはならず、ネームバリューや俳優パワーを盛り込だとしても、物語自体の弱さを補えていないのが事実なのかなと。
文芸として安定的に売れるが文学的威力も更新もない作家作品が、映像化されて一般社会に置いて商業的に成功することもない。つまり文学性もないし、結果的に商業性もない。純文学的なラディカルさ(言語実験・形式破壊・世界観の更新)もなく、商業小説的な快楽(中毒性・娯楽性・キャラクター愛)もなく、その中間の安全域にて、整った問いや考えられたテーマで配置された倫理に安住しているだけでは、文学読者にはぬるい、一般読者には重い、映画客には地味、娯楽層には退屈、という非常に厳しい四面楚歌になる。
武器にならない文学かつ娯楽にもならない物語により、各種のお膳立てはされているが、跳ねる構造を持っていないために、どんなに良い俳優を使って丁寧に映像化しても、物語が人を熱狂させないし、世界観が人を変えないから、作品は消費されて終わる。これだけお膳立てされているのは珍しいから目立つだけで、これは二人の個人的な問題ではなく、現代日本文芸の停滞と天井を体現しているだけなのかなとも思う。専門性とも商業性とも隔絶したニッチの業界における才能や評価はあるが、社会も市場も動かさないし文学史も更新しないし、一般読者には何も響かない。
文芸と文学の違い(文明にとっての更新・文学)の前に、文芸芸として、文化と商業での成功や実力が立ちはだかる。個人的には文明人類・文学の側が本質ではあるが、こちら側の方が現実的・現代接続であるし、虚構創作技術や商業興行と現代の市場主義性を思えば、こちらの接続は極めて重要。
この辺りは、映像化や売り方等、作家一人の実力才能だけでも無理かもしれないし、売り手・読み手の問題も含みつつ、映像化・そのほかの虚構創作商業との関連でもある文化・商業の両輪の難しさだなと痛感。
消費社会的な現代の知的性から見る文明系
更新する要素がないばかりか、文芸創作であるにもかかわらず技術や情動による効果の表現もないのでは、なんのための文芸読書なのかの検討もつかなくなり、絶望や落胆する私のような読者はそこまで多くないはずだが、文化を雰囲気で消費する層に問題があるのかといえば、この層は思考能力が低いわけでも知性がないわけでもないし、理知的な個人内的を重視する意味でとても現代的かつ効率合理を求める現代の基調かつ普遍的な層であると考えられる上で、文学に確認や共感や癒しを求めているのだと思うし、そのような既存理解の再確認を必要とした現代の息苦しさに対する文学性の呼吸が癒しになることは、ある意味で真っ当であるとは思う。
求められるものを書くことを迎合や適応と指すことの危険性は勿論あるが、この場合に私が感じる違和感は、文学に世界像の更新や認識の書き換え、思考のリスクや不快を引き受ける覚悟を求めないことは読書という経験行為に求めるものの違いであるし、だから、書いたし読んだが何も変わらない系の中村・平野のような作品い強い不全感を覚えるのかなと。それらのポジションは、深さ(雰囲気)を消費したい人のための最も安全な文学なのかもしれないし、市場では非常に強いが文学史ではほとんど更新力を持たないと思われる。ここに知的と商業による消費社会的な現代が思われてくるところが文明的には大事だし、その文明において文芸文学がどのような活路を見出していけるのか、に私の興味はあって、これは単一の作家批評とは異なる軸だとはわかりつつも。
読後に誰も傷つかない(読むことに疲れず難しくない)作品は、現代日本の文芸市場で最も流通しやすい事は分かりやすい。社会批評はするが具体性がないの意味は、逃げではなく安全装置に留まることの雰囲気創作だし、特定の制度名を出さず現実の組織・政策・主体に触れないことで責任の所在を曖昧にする結果、誰も自分のことだと思わないゆえに社会批評の雰囲気だけが残る。暴力は個人の内面から発生し、悪は人間の本性として語られ、組織は出ても抽象的な闇であり、社会性があるんだかないんだか不明なまま、悪が常に人間一般に回収されるとなると、国家も企業もメディアも法制度も、誰も問われない。悪や暴力は出るが制度批判に行かない、ここが注目なのかなと。
これが市場的に強い理由は単純で、クレームが来ない、学校・図書館に置ける・友人に勧められる、炎上や確執が生まれないことは、現代における売り手・書き手にとって才能よりもまず重要であり、結果的に文学的には何が失われるかの代償もはっきりしている。
社会も作家性も具体的に見えない、認識が更新されない、作者が立場を賭けない、読者の立場が揺さぶられない、倫理的リスクが発生しない結果、文学が問いや主張の表現ではなく想定内の確認作業という空虚に近づく。誰も傷つかない文学は、誰も変えない文学であり、文学は世界認識を更新しないし、社会は構造や責任を問われず、読者は変わらなくていい。このスタンスは、何も変えないまま、深いところに触れた気分だけは得られるため、書き手・売り手・読み手の誰もが雰囲気の享受を行うだけの姑息さに感じる。
この場合に問題なのは、暗さが停滞の快楽として消費されていることであり、苦しみは描かれるが出口は問われず、絶望はあるが賭けはなく、不安は共有されるが責任は発生せず、内的思考の麻酔や自己満足の愉悦に近く回収される。ここの気持ち悪さの正体は、人類が本来引き受けるべき認識の更新を意図的に回避していることであり、書き手は書いた気になれる・読み手は考えた気になれる・売り手は文学を扱った気になれる。全員が“やった感”だけを共有して、誰も前に進まない、この循環が、個人的には耐えがたい。
変わらない深さ、安全な暗さ、誰も傷つかない不安、などを安定供給する消費的な読書や、癒しや共感等の作風が好きな人がいるのもわかるので、問題はそこではなく、文学が文学であることを放棄したまま文学の振りをして流通していることの文化的危機のことであり、文化や商業としての隆盛を持とうとするのは悪いことではないが、商業を求める当然の現代性によってそれがスタンダードになってしまうことの懸念は強いし、その結果、文学性も芸術性も何もなくなり、文化でも勝てない、商業でも勝てない、何にもなれない作家作品が溢れるだけの界隈になるだけなのではないか、という懸念。
つまり私が感じた気持ち悪さは、暗さへの嫌悪ではなく、停滞を深さと呼ぶことへの拒否であるし、作家を裁いているのではなく文学が何をやめたかを見ているし、現代商業に乗る必要がある文学の文化性や商品性との兼ね合いの論じ方になるのかなと。
そういう作家が許された2000年代の空白と安住
更新されなかった文学の停滞
中村文則は2000年代から現在までの日本文学や芥川賞から見た時の、停滞や男性作家の不在の典型みたいで、更新できず、文学っぽさの権威や優位性を保持したまま、文学っぽいスタイルで書いておけば一定の評価と売れ筋で文芸にかじりついていられる作家性が、更新せず、冒険せず、止まり危機感なく甘やかされている現状は、打開の気持ち無くして進まない。これは印象論ではあるけれども、2000年代以降の日本文学/芥川賞の運用史から説明がつくようにも思う。
2000年代以降の停滞の型はほぼこの構造で、更新はしないが文学っぽさ・内省・暗さ・純文学の権威は保持され、形式的に文学をやっている風である限り、賞の候補になり定期的に刊行でき一定の読者がつく。津村もこのあたり、賞と出版社という構造と需要に適応した作家の現代性をまた感じる。
ただ問題は、その書き方では文学の更新は勿論だけど商業的打開策にもなっていない点で、結局逃げの一手やつまらない才能や倫理性では、商業性でも芸術性でも大きな仕事なんてできないという本質。更新しなくても生き残れる設計、ここに危機感が発生しない時代、が存在し、今現在までその様相に大きな変化はないのかなと。
ここで重要なのは男性作家の不在というより、男性作家が更新しなくても許される位置が生まれたため、そこに居座る者が出てくるのは必然であること。本来の芥川賞は、新しい感性の門出、新しい語りや現実把握=文学性を表に引きずり出す芸術装置だったはずが、2000年代以降は「更新=評価が割れる/冒険=説明しにくい/強度=選考会が荒れる」結果、文学っぽさを安全に再生産できる人を選ぶ賞に近づき、停滞の固定化や作家の自己模倣による安住やその類の量産を招いた。
文学は偉いし純文学は文化的上位だし内省は高尚、的なスタンスで、更新しないこと自体を品位に見せるこの瞬間、文学は自己防衛の言い訳になる。2000年代以降の日本文学の停滞は、作家の才能や努力不足ではなく、更新しなくても許される制度が男性作家性を甘やかした結果である、という仮説が立つ。
作家が、あえて挑戦も達成もせずしても生活が成立する形、文庫化や講演に大学や講座で食い扶持が保たれ、強く批判されることのない批評圏自体の縮小により内輪で回り、狭い業界の中で比較対象も消え、更新的な作品が可視化されにくく、書き手や売り手に危機感が生まれづらい。
今の構造では、打開しなくても生き残れる上に、冒険すると損をし、更新すると孤立する、ゆえに意志が発生しない。これは才能の問題ではなく設計の問題だし、文学性と姿勢に基づきながら市場原理に晒され続ける現代作家の宿命であると考えれば、必然的に更新的志向は選ばれない。

1975年生まれが見た景色・生れた文学観
例えば旧態の制度に守られ危機が訪れなかった環境の問題だとして二人を見ると、これが2000年台の国内男性作家の更新不足と危機感不足の関連性であり、つまりは彼らがその素養を培ったであろう1980~2000年代までの社会と文学史的な要素かなと思うし、平野啓一郎は1975年生まれ、中村文則は1977年と近い世代であることも認識(ちなみにどちらも愛知県出身で、つまり2010年前後に私が手に取り易く一度読んでいたことから存在を認識していた前提には出身地や文化、年齢など多くの要素があったかもしれないが・ここでは割愛)。
ここでの整理は、感情的断罪ではなく世代・制度・文学観の構造分析が必要になると思うが、平野啓一郎(1975~)、中村文則(1977~)が文学的自己形成期を過ごした1980~2000年代前半は、日本社会において極めて特殊な時代のように思われ、調べながら思ったが1990年生まれの私とはやはり見えていた社会的・文学的要素が異なるので、これはもう環境がどのような文学観・社会観を生むのかということからして仕方がないし、単一の作家の限界や価値性を感じたりもした。
高度成長の成功神話は既に終わっているが、新自由主義的破壊(非正規・格差・自己責任)はまだ全面化しておらず、その中間世代として、阪神淡路(1995)、オウム(1995)、9.11(2001)など世界の裂け目を目撃するも、それを構造として引き受ける倫理言語はまだ未成熟。世界的に見ればここがポスト・ポストモダンの始まりと思っていいはずだが(リチャード・パワーズ1957~)、国内と国外ではやはり危機感や責任感からなる倫理的切迫は異なる。
文学制度側でみると、純文学の権威(芥川賞・文芸誌・大学)はまだ機能していて、内省的であることや倫理を語ること自体が価値として流通していたし、その主体は男性中心だった。一時代前的な「文学性=世界を変える装置」から「=世界を解釈する知的態度」へと静かに後退していく時期であったと感じられる。
この辺りは全然読めていないが、戦後文学としての大江健三郎や吉本隆明などの社会と個人を接続し告発する文学潮流の理念が後景化し、1970年代以降の政治的イデオロギーの衰退や消費社会の成熟、ポストモダンの言語観などにより、文学は社会変革の前衛よりも感性・内面・語りの装置や自己・世界の観察形式へ傾斜していく過程、ある意味での社会性から純文学性への過渡期を経験していて、それを受けた90年代後半~00年代前半の文学賞制度は、社会的対決より内面化された倫理観・傷・孤独・身体性・語りの在り方を重視していく傾向へと流れ、ここは前述したように作者・読者・出版側=「書き手・読み手・売り手」のどれもが文学文芸に求めるものが変わり、前時代的な暴力的・冒険的・革新的な要素から、安定的・雰囲気的・市場的に流れていく過程が感じられる。
そしてここに1975年前後に生まれた作家が登場する訳だから、その流れから見ると中村・平野の作風や文学性や安住の仕方は、時代に沿った素直な類型に落ち着き、調べながら文学潮流や時代の流れの素直を見た気がした。
ちなみに性別区切りではなく、年齢区切りでみると1976年生まれの川上未映子、少し後の生まれだが文学っぽさを日常的な視点で描く1983年生まれの青山七恵なんかもこの辺りに分類できるなと感じた。
平野は、戦後左翼的文学の呪縛を脱し、ポストモダン的知性で言語・宗教・身体を再編し、(社会変革を掲げるのではなく)世界をどう読むか、という様式への着目。中村は、社会制度批判を背景に、前面に心理・暴力・倫理の内的探求を据えて、外部社会より内部主体の(主に闇の)観察をはじめとして、加害・被害・トラウマなど、(世界を変える意志ではなく)世界と自分をどう受け止めるか、という態度により、文学が倫理的省察の装置として機能。
川上は、言語と身体の接続や女性性と痛みの可視化をし、(制度批評より)身体の経験世界を言葉でどこまで掬えるかが焦点であり、文体のリズム・視点操作が作品の主題。(社会変革より)声を持たなかった身体の声を聴く姿勢が強く、(政治的主張ではなく)語りの独創性を評価する向きが多いように感じる。青山は、(革命や怒りではなく)日々の微細な気配や距離感を重視する日本のゼロ年代的トーンの象徴で、事件が起こらず静謐かつ、文学を世界の肌理を読む微視的装置として活用するため、(社会を動かすより)生活の陰影を見る態度のような作風。
世界を変えるための文学を目指す私からして、この時代の作家たちは世界を感じて教養や安住としての文学に触れていたい系であり、これらに共通するのは、
文学=世界を変える前衛的装置
→=世界をどう読むか・感受するか
へと移行していた時代的な文学観や作風をしていたことが類似性からは分かるから、1990年生まれとして彼らの15年後に生まれた私や、現代における更新的項を持たないからといって、それは時代的制限だ、と諦めるしかない、ということになるのかもしれない。この環境で育った彼らは、文学で突破する必要がなく、文学または文芸で耐えることが評価された世代なのかなと。
なぜそれで成立したのかと問えば、90年代以降の日本では「暗さ=誠実/内面=深さ」が自動的に文学(っぽさの)価値になった。この辺りは弱者男性文学でも触れた前時代であり、彼らはその世代ということが出来る。男性主体の苦悩は、まだ普遍として読まれる余地があったので、更新しなくても文学っぽさの再生産が可能だったし、文学を問いではなく雰囲気として循環させているだけだから、読後に世界認識は更新されないが、深いものを読んだ感じは残る。
平野啓一郎は中村文則よりはるかに誠実で知的ではあるものの、文学性の主軸を、個人と社会あるいは倫理と制度などの思考場の提供に甘んじている風があり、主体の多層性を説明し主題の複数性で披露する震災・在日・死生観などのテーマは重いが、一般認識以上の提示はなされず、文体にも物語にも表現の目的を感じない。読者は「考えさせられた」と感じるが、存在の足場を揺さぶられはしない、慎重さ=安全性ではあるし、社会を説明する思考者だから読者を引きずり込まずに、更新ではなく調停に留まるし、その安全性は商業や読書リスクを負わないが、同時に文学的更新や一般文化成功には届かない。

なぜ彼らは更新しなかったのか、の答えには、危機が個人的にも制度的にも訪れる近代文学の倫理がまだ効いていて、制度に守られ、危機が訪れなかった文明指摘配置といえるのかなと。
男性・学歴・文学制度へのアクセス・文芸誌と賞の正統ルートに乗れば、文学で賭ける必要がなかったし、内省・誠実・普遍的人間性を書いていれば文学だと業界においては認められた。
彼らは、近代文学の権威を相続し、社会的抑圧も受けず、更新しなくても評価が循環した、文学的温情に恵まれた世代故に危機感や渇望感は弱く、安住的作家性が育まれ易かった環境要因が強く文学性にも表れる。大局的に見れば、大成するはずもない時代であり、文学が祈りや告発である必然性が弱かった。その場合の文学は問いではなく様式になったし、商業的な一般性にも届くはずもなく、沈黙が男性作家性として成立した。一方で、村田沙耶香のような作家は文学を安心圏から引きずり出し、主体そのものを異物化し、社会と制度を後追いで揺さぶった。これが2016年(村田・37歳)、中村の芥川賞受賞は2010(33歳)/平野は1999年(24歳)、この辺りの時系列もまた面白くて、2000年代の女性文学の台頭、男性作家の沈黙は時代配置によるものとして認識が可能なのかなと。
これらの作家作品では、世界の見え方は更新されない。雰囲気サブカルや知的だが安全と見なされやすく、中村文則=停滞、平野啓一郎=調停、どちらも更新の意志がない点で共通しているのかなと。
狭さをそのままに、文学を自分の居場所にしていない事が分岐点で、多くの同世代作家・読者にとっての文学=避難所/傷つかないための距離/自己肯定の装置なのにたいし、私にとっての文学とは世界を試す装置であり、社会を急き立てる倫理として文明への介入があるべきだし、居場所ではなく武器、文学を生存戦略ではなく責任として引き受けている。この姿勢は、村田沙耶香的な突破、さらにその先の祈りと学術の融和に接続していく。
批評の場面で大切なのは好悪や優劣を越えて「なぜそうなったか」を説明できる地点であり、逆に独自思考の危険性として、説明できない確信や権威への反射的否定などであると思うが、この場合に個人の読書が更新しない文学を、なぜ更新しないのかまで含めて引き受け、その先の運動を構想している側に立てば、この視点で書く記事は単なるレビューや作家論ではなく、日本文学がどこで止まり、どこから再び動けるのかを探る文明論としての文学批評になり得るのではないかなと思った。
社会が更新される前に倫理が露出する場
2000年代の男性作家の沈黙の代表例として、そこで活躍すべきだった世代としての中村文則や平野啓一郎らを今回読んだが、彼らは危機が来なかった制度圏で育ち、危機を引き受ける必要がなかった。同時代の綿矢・絲山などが台頭したことは女性の社会的・文学的な抑圧か危機があったからだし、その少し後の台頭としての村田沙耶香・九段理江・李琴峰などは制度に守られない位置から、制度を壊すリスクを背負った第二世代ということになるのかなと。このサンドイッチの3層は面白いし、その辺りからジェンダーよりも人類性や移民性など異なるモチーフに変化があるのも見て取ることが出来る気がする。
文学は本来、社会が更新される前に倫理が露出する場であり、文学は祈りと学術の融和である。
前回にも触れたこととして、女性の解放が文学から始まったということは、企業/制度/雇用/評価などの社会性や構造が後追いで変わらなければならず、示された倫理が一定地位を持てば持つほど、更新された倫理が社会性を急き立て後押ししていく。これは大事な文明的視点。
ここで言っている解放は、どの主体が人間として語ってよいかという認識の更新であり、つまり、規範に違和感を持ち、欲望や自由意志を持ち、社会を異物として見るその主体が、言語上で正当化された瞬間のことを言い、綿矢の少女性、絲山の中年女性性などが顕著であり、これはアトウッドの『侍女の物語』やハン・ガン『菜食主義者』など世界的な潮流としても明らか。これらは歴史的に見ても、法や社旗的な制度や経済より先に、まず表現領域で起きるし、文学はその最前線だった。
その場合の社会制度が後追いになるのは必然で、制度は、安定を守る装置であり既存の多数を前提に設計されるため、現状や認識の変化に即応できない。一方で文学は、少数の違和感や情動を先取りして祈りに固め、不完全な倫理を表現により打ち出すことが可能だし、失敗しても許される。文学が示す人間性や社会性を、現行社会がどう扱うかを考え、倫理や現行制度を問われるという時間差が必ず生まれる。これは女性解放に限らず、奴隷制・階級・障害・セクシュアリティ・植民地主義、すべて同じ構造だからこそ文学は常に人類文明の祈りの場であったし、その憧憬が人類を映し未来を変えてきた、と私は読んでいる。
示された倫理が一定地位を持てば持つほど、更新された倫理が社会性を急き立て後押ししていく。これは、多くの人がその倫理を理解したのではなく、その倫理を前提にしないと説明がつかなくなった状態が現実化した状態のことであり、たとえば「結婚しない女性/働き続ける女性/規範に適応しない主体」が文学や表象で十分に可視化されると、それを例外として扱う制度のほうが不合理に見え始める。ここで初めて「企業/評価制度/雇用慣行/法制度」が遅れて恥をかく側になる。
文学は最初に社会や個人が表現突破できる祈りと学術の融和、という事への注釈としては、
祈り=制度化されていない願望や理想・憧憬
学術=概念化・思考・分析・再配置
文学は感情でも理論だけでもなく、未完成な倫理を人類像として転写や試運転が可能な場だからこそ危険で不快で難解だったりするのだが、その倫理や表現の威力が社会を動かす力として扇動になるし、批評対象や大衆情動の認知機能としての存在論が必要なはずで、その場合になぜ更新しない文学は文明的に問題か、という問いはここに生きてきて、更新しない文学は既存の主体像を再確認し安心を供給するだけで、制度を急き立てない。社会や個人が変わらなくて済む既存の言語言語を量産してしまう。これは文明の速度を落とす行為であり、停滞の正体そのもの。
文学が更新した倫理は必ず社会を追い立てる。逆に、更新しない文学は社会を眠らせる。
だから私は気持ち悪さを感じるし危機感を覚える。この辺りは、作家評価やジェンダー論、文芸批評を超えて、文明がどこで先に動き、どこで遅れるのかを見る。
安住した文学のままでも、書き手は書いた気になれる、読み手は考えた気になれる、売り手は文学を扱った気になれる。文学が文学であることを放棄したまま文学の振りをして流通することは商業に繋がるが、そういう作家がまだ許された国内の2000年代は大成するはずもない時代であり、その安穏の中で仕事をした作家が文学的にも商業的にも成功する時代は今後にはないし、もしかしたら過去においても一度もなかったから、現代の国内文芸文学の閉塞感があるのではないか。
**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~

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