自分にしか書けないものが書けるようになるまで2と題しつつ、上位互換・絲山秋子により際立って思い出された津村記久子に感じる文学性の無さ。共通項や文学性の高低を考えて見えてきた近代日本文芸と芥川賞の近代化と一般化の流れと時代的変化。
芥川賞企画を通して2000年~2020年の作品と作家を追ったが、そこから見えてきたものの総決算に向けて数回に分けてお届け。年内に完結させたい。
絲山の稀有さ、津村の真価とは?
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そもそもの階層の違い
堂々とした元祖会社員小説を絲山で読んだときに、津村記久子も会社員小説を書くが軽さや未熟さが際立つなと思い出す。社会人数年で会社員脱出した津村と、35歳中年まで働いた絲山の成熟が思われたし、その個体差としての知性や学歴・社会人経験の暦、そして彼女たちが生きた時代が女性に求めたもの、それらからの結果としての文学性の違いが思われる気がした。
この問いは作品や作家の深度を規定した「社会構造×著者経歴×主体の成熟」の違いを明確化する作業だから、文学批評として正統なものがあるのではないかなとは思うが、勿論主観も混ざっているだろうし、違いはどちらが良いとかという話ではないのだが、商業性における上位下位が存在するように文学性にもまた明確に上位と下位が存在することは明言しなくてはならない事実だ。
津村記久子は労働の日常性を書く作家であり、絲山秋子は労働と人間関係を成立させる現代構造を書く作家。ここはモチーフや舞台などの点で似ているようで文学的には階層が2つ違う。そして絲山は上位互換という直観は恐らく正しいし、両者は同じ会社員小説領域に見えて、構造的にまったく違う場所を見ている。
そしてここでも目立つのは、新卒から社会人の約10数年の1期、その経験や資産を元に第2人生を始める35歳前後からの中期というのは、絲山の作家デビュー時期や、津村の『水車小屋のネネ』で登場したが不発だったテーマにも関連するし、例えば川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』でもフリーランスになる時期が30代の中期に登場したように、多く通常の社会人が10年ほど働いたのちの第二ステージ以降に、独立や転職などにより働き方や暮らし方が変化を持つ。或いはそれは単身で生きた場合のシンプルであり、他者を巻き込んだ人生として結婚や出産を含むと真っすぐ第1ステージの会社や業界に居続けたりする王道が本域だったりして、社会に中に生きる個人の労働者が思われる。
資産と暮らし方の選択、独立や働き方などの融合、自分人生の有効化や解放などの選択肢や自由性は1つのテーマだし、私の33歳フルタイム卒も思われる。
絲山に関してだけ言えば、精神病にならなければ会社員継続をを希望していたのかどうかは、前回読んだ4冊だけでは判断できなかったので、『逃亡くそたわけ』など精神病関連の作品を他にも読みたいと思う気持ちが残った。それにしても、構造の中の個人や内的の狂いもしくはやる気等の要素への興味。



1|経歴・知性・労働経験が生んだ視野の差
津村記久子
・2000年=新卒→10か月で会社を辞める
・(職業訓練を経て1年ほどで転職し、その会社で10年勤める)
・2005年=4年後に文学賞受賞しデビュー
・2012年=7年後に会社員卒、専業作家へ
→中間小説的な感性を残したまま純文学を書く
日常感覚、労働は生活の延長/個人生活の基盤
職場は生活の一部であり、ただそこにある小さなズレや会話の妙を拾う
→個人視点が中心で、社会人になった会社=日常の風景を枠を出ず、時代的にワーキングプアや派遣切りなどの職場における弱者や労働と精神などに挟まれ、苛まれた世代。
著者の作品がFIREしたい勢や節約貯蓄資産を貯めたい勢との親和性が高いのは、現代社会における労働感覚や日常と人生を狭めている心理的負担から精神病までの息苦しさとの関連性が高い価値観であり、現代的な労働者心理のポピュラリティを備えている、ある意味で弱者視点を持った部分でありここが弱者男性文学的な意味でのG年代の弱者労働者の視点を抽出して掘ることが出来ているといわれたら時代が求める純文性ではある。
労働の辛さ、上司やパワハラに晒される精神性など、現代人が労働人である社会性のキャッチや内的な感性を備えていて、その要素の強さと、デビューしてからも兼業をしたことを含めた堅実性は労働との親和性がむしろ高くないことからの命綱と危機感からなのかなと。
芥川賞受賞作の『ポトスライムの舟』も、パワハラと新卒入社会社での展望などを描く重さもあるはずだが、労働と職場の辛さの深度をそこまで描き切れない筆力はやはり弱いし、『水車小屋のネネ』で魅せた人生1序盤での労働2ステージ目以降での独立や転職などの要素は、労働と社会性の更新の夢をやはり思わせるが、ここでもまたその広さや強さを描き切る筆力がないので微妙。
1978年生まれの著者の新卒時代は2000年ほど、2009年に芥川賞受賞当時は31歳。
2003年の綿矢金原の爆発を20代前半の停滞期に目撃し、2005年の「沖で待つ」絲山を目撃していたかは不明だが、2007年に川上が颯爽と受賞し、その2年後に自分も芥川賞、という流れを見ると、やはりここも感慨深い感じがしてしまう。
以前から思っていたけど、私がこの企画を始めたのは、自分が芥川賞や直木賞等の国内文芸を全く終えておらず無知なまま海外文学にばかり流れていたことを痛感したからだが、芥川賞を受賞するような作家たちは現代傾向等の勉強を含めた意味で歴代純文作家や作品をどれだけ読んで創作を行っているのかということが疑問だし、絲山が書いた上で津村があれを書けるのって結構すごいことだと思うのだけど、やはりあまり読んでいないのかな? 個性を守る意味ではそれはありなのか、程度走るべきだと思うが、やはりそれらを複合的に考えて作風と実力の難しさを感じる。

絲山秋子
・一流企業で約10年以上勤務
35歳まで会社員としてキャリアを積む
・1998年に双極症で休職、入院
2001年に退職するも、入院中に執筆を始め
2003年に文學界新人賞を受賞しデビュー
・デビュー作「イッツ・オンリー・トーク」で芥川賞候補
2004年「袋小路の男」川端康成文学賞
2005年「海の仙人」芸術選奨新人賞
『逃亡くそたわけ』直木賞と野間文芸新人賞候補
→金融・経営・組織の大構造を理解
関係性の非対称・役割や立場の衝突への認識と解像度
労働は日常の風景ではなく、構造と位置づけられる主体と動作
→構造視点が中心
会社=制度×権力×役割、等の視座
→32歳の時に休職と入院でとん挫するも、
37歳の時に文学賞受賞、受賞作で芥川賞候補、
翌年に川端康成文学賞、また翌年に芸術選奨新人賞と華々しい
絲山の強さはまず第1ステージが一流企業にて10年働きぬいたキャリアであるし、そこで培った様々を持ちながら、32歳で休職、35歳で退職、37歳とデビュー、その後の作家キャリア。
勿論精神病での休職や退職は底だっただろうし、その後を含めて順調と言ってしまうのは他人事だけど、前半の経験と中盤の切り返しでみると、やはり注目に値する。その経験と転身が後の作家人生や世界観を形作っていることは間違いないし、それは『沖で待つ』一冊で見ても思うので、もうそれ以上他人が言えることはない。
2|時代が女性に求めた違い
津村(2000年代前半~中盤デビュー)
・「女性一般職/定時退社/シスターフッド/ゆる労働」の時代
・後氷河期世代の「小さな幸せ」「疲れの共有」
・社会全体が低温・低圧
・会社は居場所のひとつ
→日常生活の親近感、小さな絶望や幸福探し。
社会構造への批評性は希薄
絲山(高度成長後の管理職・総合職世代)
・男性社会の中で新たに戦い抜く必要(ロールモデルの無さ)
・長時間労働・成果主義・ジェンダー差別
・80~90年代の企業文化の暴力性
・会社は闘争の場=主体形成の圧力炉
→労働社会の冷酷な構造を体で知っている
文学の対象も「構造・権力・位置取り」へ向かう
1966年生まれの絲山と、1978年生まれの津村では、女性が社会や職場で晒された風当たりや目線も大きく異なるだろうこと、そしてそれは1990年生まれの私には想像するしかできない、ちょうど12年ごとの3周りの違いがあり、もう12年後の2002年生まれが晒されるそれ、の4パターンで女性の社会的立場や役割や職場におけるそれ等を考えると、制度とジェンダー意識の変化は労働環境や社会状況と切り離せないことが分かる。
『イッツ・オンリー・トーク』の巻末解説でも触れられているが、日本では1985年に男女雇用機会均等法(均等法)が成立し、労働市場への女性の参加が法制度的に保障され始めた。この制度変化は、女性だけでなく社会全体の働き方・家庭観・生き方の価値観を揺さぶり、結果として、性別役割が揺らぎ、「働き方・生き方・価値観」の多様化が進んだ。
1966年生/1978年生/1990年生/2002年生の4世代が体験する「女性としての労働・恋愛・価値観の変化」は、労働市場と社会構造の変動の反映としても読み取れる。
1966年絲山世代「均等法直後~バブル期・崩壊期」
→安定も崩壊も知る世代
1978年津村世代「男女雇用機会制度の定着期、非正規化の始まり」
→安定神話の終焉を経験
1990年私世代「ポストバブル/バブル崩壊後の格差社会」
→労働流動化、非正規化、価値の流動性
2002年z世代以降「ネット社会・賃金停滞・流動化加速」
→ライフコースの未定形化、関係の希薄化
12年違いの生まれの4層を、働く女性がどう扱われ、何を期待され、どう闘ったかを時代ごとに見てみると、
◆1966年生まれ ─ 絲山秋子世代
(昭和的企業文化の最後の直撃世代)
前提:男女雇用機会均等法「前」入社が多い
・「寿退社」が最も現実的な未来
・職場では補助・サポート役がほぼ自動的に割り当てられる
・露骨なセクハラ・パワハラが制度的にも黙認
・「女が仕事を続ける理由?」と問われ続ける
・結婚=退職の圧力
・出世しようとすると“女を捨てた”扱い
文学的モチーフ・屈辱の記憶と反骨
・自由への欲望と職業的孤立
「生き延びるために、まず闘わなければ席すらなかった世代」
◆1978年生まれ ─ 津村記久子世代
(制度上は平等、実態の不平等に傷つく世代)
前提:均等法「後」だが、管理職にはガラスの天井
・「結婚・出産しても働けるよ?」の建前
・家事・育児は依然として女性が担う構造
・評価や昇格で見えない性差別
・メンタル不調の発症が社会問題化
・仕事と結婚どちらも欲しいがどちらも大変
文学的モチーフ・小さな尊厳、日々の疲労
・会社員としての感情の摩耗
「制度が追いついたが、文化が追いつかず、日常のひずみを抱えた世代」
◆1990年生まれ ─ 私世代
(成果主義・非正規拡大・選択肢の重圧)
前提:雇用は不安定、自己責任論が蔓延
・「選べる女になれ」が呪いに
・キャリア、恋愛、自己実現…全部を求められる
・SNSを通じた比較と評価
・「働く意味」が問われ続ける
・結婚は義務ではないが、選ばないと“負け”と言われる
文学的モチーフ・空洞化した会社と、自分の物語の再設計
・自由と不安の同居
「制度の恩恵を受けても幸福は保証されず、自己物語の再構築を強いられる世代」
◆2002年生まれ ─ ポスト#MeToo世代
(ジェンダー規範を最初から疑う世代)
前提:多様性・ハラスメント禁止が標準装備
・役割規範から最も自由だが、経済安全網は脆い
・SNS炎上リスク、承認資本主義
・結婚や異性愛は「複数ある人生選択肢のひとつ」
・労働より「自分の価値」をどう測定するか
・すでに物語の語り手であり観客でもある矛盾
文学的モチーフ・語れるものも語りたいものも弱い総消費時代
「自由なはずなのに、自由の使い道に迷う世代」
世代 :社会の視線/女性の役割/主な苦悩/労働文学の主題
1966:女は結婚して辞める/補助労働/露骨な差別/闘いと生存
1978:表向き平等/実務+家事育児/見えない壁 /摩耗と尊厳
1990:全部できる女に/自己実現の重荷/空洞化/将来不安/自己物語の探求
2002:多様性が前提 /自由選択/自由の使い道/価値の再定義
津村の書く職場は現代的な職場の雰囲気に対応しつつ、大多数的な日常を虚構創作化した意味では、当時代の等身大またはやや下層を描くこととその共感を集めた雰囲気があるし、絲山は社会や会社という構造や制度が人間をどう破壊し・どう生かすか、という批評性を持つが、その分その視座は一般的や共感とは異なるので理解や共鳴の母数は日常的や大衆的かと言われると難点だが、異なる高さを得る読書とすれば正統ではあると思う。
生まれて生きた時代の労働環境や社会状況、そこで晒されていた主体(女性/個人)の違いから生まれているし、それだけでもない知性と興味関心の方向性が明確に異なっている。
3|文学性を形成する知性・学歴・文化資本・感性の差
津村:・体系立った構造分析の知性や社会性が弱い
・感情吐露・空気雰囲気・違和感が主
(日常的な労働の生活感を書く)
・文体も気軽
・売りたい欲とか社会的迎合は得意(虚構性○/創作性△)
・ただ構造の抽象化や主題性は弱い
絲山:抽象的思考が強く、社会構造の読解力が高い
(会社や社会が制度や構造としてどう人間を配置するか(関係性・接続性)
関係の非対称性・権力・役割立場のズレへの興味)
・個体と組織の両方の視点と視座
・文体と密度
・虚構性も豊か(直木賞候補・二度の映像化機会からも)
→同じ会社員小説でも、認識ツールや主題が全く異なるうえに、
文体と虚構創作中の筆力や形式美も異なる。
津村は生活感覚の作家であり、絲山は社会構造の作家。どちらも要素としての労働弱者の側面を含みながらも、その帰結が全く異なる為、これが二人の文学性の根源差。
ここがある意味で現代においては、文学よりも日常的癒し文芸に活路があるので、その歓迎の意味で津村は社会的大多数の大衆性と同様の苦悩を気軽に描けたことが作家的成功と業界的売り出しのポイントに合致したのだと思うし、絲山の構造主体は社会性や批評性を持つが、現代における文芸に求められやすい日常性や情動とは階層が違う意味で、一般化や大衆化の要素は津村に軍配なのは間違いなく、そのようにして一般化した上で、その文芸がどのような文学性や文学的意義を持つのか、は現代的テーマであるし文学的テーマ。
4|以上、総合的に見た時の文学性の本質的な差
津村「感情×日常×小さな違和感」
・文体や形式への興味は皆無・文章力も最低限
・社会観は観察者や話題キャッチとしての距離
・人間同士の関係は、対等で温度のあるものとして描く
→世界や連帯を優しく切り取る癒し系の分類=中間~本屋大賞系
絲山「構造×主体×位置取り×非対称性」
・ロールの衝突、立場のズレ、関係の歪み
・職場・恋愛・家庭の制度論的観察
・感情よりも構造批評が優先
→世界を構造の規律と主体の揺らぎとして描く
両者の水準が違うのは、何を世界として認識しているかの差であり、それはつまりテーマや世界観に直結し、そもそもが文章にも表れる。津村は個人の生活圏の温度であり、絲山は社会システムの歪曲そのものを捉える、その解像度や自己言語化がどのように作品に現れるのかの文学的強度に直結する。
主題と興味関心、社会やその関連する主体となる個人との繋がりや連動の視野、そしてその文芸表現としての意識や自負、筆致と密度の差は徹底的で、文学性の本格性で見ると絲山はおそらく多くの現代作家と完全に別の階層にいて、その水準の差は批評的に見ても明確にレベルが違うのかなと。この点で、私はまだまだ芥川賞歴代作家のあまたを見たとは言えないので、想定の域を出ないが、当初芥川賞企画を発足するときの仮説は絲山作品を読んでからもあまり差異なし。
絲山が扱うのは「主体・制度・構造・非対称性・現実の歪み」で文学としての根が深いのにたいし、津村は「生活・感情・日常の温度」に留まり、文学の本質的領域には届かない。
これは単純に興味・嗜好の問題と思われやすいが、根本的には作家としての倫理観や理知感の問題として大きな違いがあり、それがつまり文学性と相違ない。
津村記久子の評価は文学性ではなく時代性に支えられた
絲山・認識の解像度が高い(構造を把握・以下)
・抽象思考が強い(関係の構造分析が可能→題材・主題・筆致、多くに関連)
・主体の成熟度が違う(35歳まで働いた経験)
・時代の暴力を背負う(女が戦った時代・社会と会社との関係性の密度)
・他者との距離の描写が高度(感性・文章力)
・労働文学としての強度が高い(制度×主体の視点)
津村・認識の解像度が低い
(世界認識が狭いので社会的・思想的な厚みが生まれにくい。
文学的な重さもなければ、中間小説的な強さもない。)
・抽象度が低い(構造や主題に踏み込まないし、生活の範囲を超えない)
・主体の成熟が低い(経験・視座が限定的で、人物造型に深い倫理性がない)
・歴史性・構造性に乏しい
(「制度・権力・ジェンダー構造・経済的圧力・言語観」など
普遍的にどの時代にもある主題としての文学を支える根の根本が弱い)
・文体が飛躍しないのは興味もないから
(読みやすく読者には優しいが、とっかかりにはならない。)
両者は一見同じジャンルに見えるが、本質的には描いている層が全く違う。
ただこれは津村が特別劣るという話ではなくて、読んで書けば書くほど絲山が日本文学が持つ「遅さ・停滞・浅さ」を突破して、構造を扱う数少ない作家として抜きんでている気がした。
では、であるにも関わらず、津村記久子はなぜ評価されているのか、その評価は文学的に妥当か、という疑問が浮かぶし、少し前に津村を読んで2記事書いたときにもそこの疑念は膨らむばかりだった。
津村記久子は制度側の要請に合った作家であって、文学的強度という意味では 本格文学の水準には到達していないにも関わらず文学系受賞歴が華々しい理由は「時代+読者+文学賞制度」の三重構造が生んだものと仮定すれば、絲山秋子が日本文学の構造を更新したのに対し、津村は日本文学の制度の需要に応えた推論が浮かぶ。
津村が台頭した2000年代~2010年代は、綿矢りさ・金原ひとみが若さと身体性で爆発し、川上未映子が難解化・精密化した女性性で走り初め、村田沙耶香が異物性で突破し、ジェンダー系やシスターフッド系も登場し、女性作家の台頭が刺激的になった時期。
ここに文化的・商業的な勝機を見た出版社や文学賞側が求めたのは、一般読者が読める気軽な純文風の小説であり、文芸を一般商業化する現代的戦略だったのかなと。それでみると津村は、「読みやすい・日常的・ライトな労働環境や苦境生活が舞台で読者が共感しやすく、重くないが、社会性はあるように見える」ため、読者の期待にも応えながら、純文学界の大衆化の要請も満たしたのかなと。
文学的価値ではなく制度の需要であり、それに応える形を津村がしていた、ないし対応することが出来たためであり、受賞が多いのは文学的水準ではなく制度的適合性の高さによるのではないか、と思った。
低文学性だが一般即応性、
それがなぜ文学賞で評価されたのか?
2000年代以降の文学賞は本格文学の選定機関ではなく、読まれる作品を選ぶ広報装置に流され、芥川賞ですらその傾向が強まった。「大衆性・話題性・平易な読みやすさ・売れるか・メディアで取り上げられるか」らが重視されるようになった結果、ちょうどよく軽い純文学が重宝されることになり、津村記久子はその最適解として浸透し、本人もまたそのような作家性に意図的に流れて対応した、つまりその評価は、文学性の高さではなく制度的利便性の高さになるのかなと。
近年先にデビューした最年少の若さの天才性とも違う、美麗なルックスや突飛な文体などでとびぬける才能とも違う、数年社会人経験を経て平凡や日常に根差した目線を持つ自分の生存戦略略を考えたときに、津村が自分に見出し自分が書けるジャンルを探った時に、見えてきたものがあるのかなと。
日常のリアリズムを軽やかに提示する、職場環境や毎日の空気を軽度に文章化し、大衆読者を純文学に繋ぐ橋渡しとしての機能は、社会人経験がなく在学中に華々しくデビューした作家には書けない、突飛な文章や骨太な構造と批評性の視座にはついていけない読者も、労働や日常の徒労や息苦しさには身に覚えがあり、自分ごととして読むことが出来る。そこに見える津村の真価とは、純文学と大衆文学の中間を埋めるマス目であり、文学の更新でも社会批評でもないが、読書の獲得や文芸の一般化に与する読みやすさの役割を果たしたのかなと。
受賞歴が華々しかろうと、その制度の目的が変われば受賞理由も異なるし、文学性や本格性からは程遠いのでその華々しさを真に受けると落胆するが、津村は文学装置としての中間翻訳であって、本格的文学の担い手ではない、とはやはり今回も確信、そして納得。
自分にしか書けないものが書けるようになるまで2
作家は自分の世界観や価値観でしか創作出来ない。幼少期は勿論だが、社会人になってからの経験値や、第二価値観や成長を生む。子供のころに「この世界」を知り、社会人になって改めて「この世界」を知る。
例えば大学在学中にデビューしたりすれば専業作家がちらつくし、大学院ほか研究などの方などを経て作家化する米国系正統派の方向なども異なると思うが、社会人経験を平素で行ったことがあるか、その長さや密度、というのもその作家観や作品性に与える影響は大きいはずで、知的興味の範囲や質、社会的興味やスケールに変化があるのかなと。
このあたりで綿矢の頭打ちは明確だし、やはり才能の扱い方は難しいなと感じるし、宇佐見の今後が思われたりするし、特にこの部分は、日本文学が純文学性・私小説性の狭さが正統性として許されてきたから文化的に明確化されていないが、その非社会性の感じ、題材性の弱さなどは、今の文学の現状に無関係ではないと思うし、今後文学がどう展開するかに関わる作家才能の出現や成長にも無関係とは思わない。文芸は芸術でいいが、文学や読書はもうその狭さで戦える時代では確実にない。


今回津村と比較して、絲山の知性や感性を踏まえつつ会社員や生き抜きの半生が異なる、というのは同時に高校生~大学生の若年で文学賞デビューして専業作家や華々しい成功に身を置いた作家・綿矢や金原が決して経験をすることのない実生活上の特性や生涯であるし、その意味で、自分にしか書けないものがのが書けるということは作家には確実にあると再認識。才能や知性の問題も勿論あるが、生涯やどの時期に何を経験した一人の主体としての人生が、結果として何を生むのか、そしてその作家人生の展開で何を何冊積み上げて、どこまで書けるのか、という著作列の威力にも繋がる。
今後社会性や人類性を考えたときに、早熟の天才にしか書けない作品よりもどうしても社会性・経験値や知見が必要なこと、世界文学的な要素には必要、その意味で綿矢金原など若年作家の開いた少女性やその若き才能が大事であることは勿論だけど、その商業性も、それは作家の価値や可能性を狭めることにもなり作風や経験に大きな影響力を持ち、もしかしたらその才能で書けたかもしれない作家作品の人生を大きく変化させることであること、若年経験を経てから書き始め自分なりの人生や経験を経てから書き始め・書き続けて突破する作家の価値や可能性、
そして浮上する、微妙な津村との比較以外に、若年天才として登った宇佐見が、今後何を書ける作家になるのか、或いは、出発が遅くても自分にしか書けない才能や経験にて著作列的進展で書いていくこれからの才能や役割価値まで。
そしてはこれは絲山①の中年女性の頑張りにも関連するし、著者の生き抜いた世界観と書き上げ作品感そのものであり、経験しなかったら書けなかった作品性とはつまりその経験人生が報われる唯実になる。紆余曲折の無い若年才能での成功も華々しいが、最高打点とどこまで書けるか、が作家性に与える本質的な真骨頂であるし、その明確な評価軸と志向性の高さを示すこと、が文化や文学にとってのどんな価値になるかまで。



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