<English Summary>
This article concludes a long-term blog series examining the evolution of narrative structures in contemporary Japanese fiction through Akutagawa Prize winners from the 2000s to the early 2020s. It traces how Japanese literature has navigated the tension between tradition and global literary trends, responding to social and ethical questions while experimenting with narrative form. Among contemporary authors, Yoko Tawada and Mieko Kawakami stand out as emblematic figures who have achieved a universality resonant with world literature.
A defining trend in this period is the amplification of marginalized voices particularly those of women and minorities through diversified perspectives, the articulation of suppressed experiences, and the reconstruction of narrative subjectivity. These developments challenge the historical dominance of male-centered, single-authorial narratives, revealing literature as a space that anticipates social and ethical questions rather than merely reflecting them. Contemporary Japanese fiction increasingly prioritizes formal innovation, narrative experimentation, and the restructuring of perception itself.
Yet the literary ecosystem remains structurally incomplete. While discussions of style, individual authors, and market considerations abound, integrated analyses of narrative structures, institutional contexts, market dynamics, and synchronization with world literature are largely absent. This systemic gap has left the central questions of literature the trajectory, purpose, and ethical stakes of contemporary fiction underexplored. Without sustained critical frameworks, literature risks formal innovation without depth, creating an aesthetic hollow.
The series argues that understanding contemporary Japanese fiction requires visualizing these structural shifts, connecting narrative innovation to social, institutional, and global contexts, and recognizing literature’s anticipatory role in shaping ethical and civil sensibilities. It highlights the necessity of rebuilding a functional critical ecosystem that can guide readers, authors, and publishers alike in navigating the evolving literary landscape, ensuring that innovation is accompanied by interpretive and structural depth.
For international readers, this means approaching contemporary Japanese fiction not merely as a collection of novels or cultural artifacts, but as a dynamic field where narrative form, social conscience, and ethical inquiry intersect inviting readers to consider how literature can both reflect and shape the evolving sensibilities of a society in transition.
この記事は、2000年代から2020年代初頭までの芥川賞受賞作を通して、現代日本文学における語り構造の変遷を検証した長期ブログシリーズの総括である。本シリーズは、日本文学が伝統と世界文学の潮流との間でどのような緊張を乗り越え、社会的・倫理的課題に応答しつつ語りの形式を実験してきたかを追うものである。現代作家の中でも、多和田葉子と川上未映子は、世界文学と共鳴する普遍性に到達した象徴的存在として際立つ。
この時期の特徴的な潮流は、女性や少数派を含む抑圧された声の増幅であり、多様な視点、抑圧された経験の表出、語り主体の再構築を通じて実現される。これらの展開は、従来の男性中心・単一作者的ナラティブの優位性に挑戦し、文学を単に社会を映す鏡としてではなく、社会的・倫理的課題を先取りする空間として浮かび上がらせる。現代日本文学は、形式的革新、語りの実験、認識の再構築そのものにますます重点を置くようになっている。
しかし、文学のエコシステムは構造的に未完成である。文体論や個々の作家の評価、マーケティングの議論は盛んである一方で、語り構造、制度的文脈、市場の動向、世界文学との同期を統合的に分析する試みはほとんど存在しない。この構造的欠落により、文学の中心的問い―現代文学の進行方向、目的、倫理的意義―は十分に探究されていない。持続的な批評的枠組みが欠ければ、形式的革新は深みを欠き、形式だけの空洞化を招く危険がある。
本シリーズは、現代日本文学を理解するには、これらの構造的変化を可視化し、語りの革新を社会的・制度的・国際的文脈に結びつけ、文学が倫理的・市民的感受性を形作る先取り的役割を担っていることを認識する必要があると論じている。また、読者・作家・出版社が進化する文学環境を適切に把握できるよう、機能的な批評エコシステムの再構築が不可欠であることを強調しており、革新が解釈と構造の深みを伴う形で実現されることを求めている。
国際的な読者にとって、現代日本文学は単なる小説や文化的成果物の集積としてではなく、語りの形式、社会意識、倫理的探求が交差する動的な領域として捉えるべきものである。本シリーズは、文学が社会の感性の変化を反映するだけでなく、それを形成する可能性を持つことを読者に示している。
2025年の8月末からスタートした芥川賞企画。
21記事書いて33何冊読んできました、やっと完結。
色々書き散らしてテーマも多種多様かつ長いので、自分の振り返りまとめをしながら、最終課題。
スタートは「芥川賞で日本文学が読めるのか?」で個人的テーマ興味や着眼として2000年代の受賞作を読みました。締めの問いは「20年先も芥川賞は機能するのか?」を起点に書きました。
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2000~2020年代の芥川賞を読むということの価値
日本文学的語りの跳躍を2000年代の女性作家で見る
①綿矢りさ・金原ひとみ
少女が観察対象から語り手に昇格(主体の奪還)
②絲山秋子
大人女性の壊れかけた意識の文体(意識構造の破壊)
=日本語の地の文の父性を破壊
③ 多和田葉子
語り手が日本語という檻からの解放(言語の越境)
語り手=人間、という枠も崩す
綿矢・金原は語りの主体の解放を起こし、絲山秋子は語りの構文の破壊を行い、多和田葉子は語りの言語そのものの越境を実現し翻訳性を探りながら言語の探求を進める。同じ系統ではなく、語りの三方向への進化を示していて
綿矢 =「内側」
絲山 =「構造」
多和田=「外側」 への拡張
綿矢(金原) → 絲山 → (川上) → 多和田(主体言語)
2000年代の芥川賞を読み進めるうちで見えてきたこの系譜は、実は一本の線として読める。
綿矢りさ・金原ひとみが少女の身体・感情の自己語りにより、日本文学に少女が主体で語る文学を定着させ、絲山秋子は壊れかけの中年女性の意識を流体化することで、少女性以後の主体を文学的形式に可視化させた。それらを受けた川上未映子による身体と言語のポスト・モダン化は日本語の音声・身体性を先鋭化させて海外流通を図り、多和田葉子は主語・母語・国境を消す語りにより翻訳性と形式で世界文学としての日本文学の確立を目指す。
絲山秋子が少女を脱したあとの傷ついた主体の継続をどう語れるかを開き、日本文学で初めて中年女性の意識の断片を文学形式として成立させた。多和田葉子は主体そのものを越境させ、語りと言語の前提を破壊し日本語文学を国境の内側から解放した。綿矢・金原が身体の初期衝動なら、絲山は崩れていく主体の持続と拡張、多和田は主体そのものの脱構築と言語翻訳性。この三段階は、日本近現代文学にとって実は不可欠な連続性に見えるしジェンダー文学の台頭と文芸が難しい時代に合致しつつ展開したのが2000年代の日本文学と読める。



2000年代以降の日本文学を語りの構造変化という視点で俯瞰すると、必然的にその3名が節点になる。2000年代~2020年代の20年で起きた進展は、少女 → 大人の女性 → 越境主体だけではなく、他にも決定的な進捗が複数あり、(語り・主体・文学史の構造)に最も近い整理で見てみると
■2000年代以降、日本文学に起きた語り構造の進展
=個人的に主題的な文学的価値とは思わないが、
アカデミック的な・文芸形式における進展
①「私小説の死」と「語りの技術化」
2000年代は、日本文学における王道にも近かった私小説(=生活をそのまま書けば文学になる)が完全に終わり、語りを意図的に設計する作家が中心に来た転換点としても読める。
・写実的リアリズムが技法としてのリアリズムに置き換わる
・語り手の属性(性別・世代・社会階層)が設計可能なパラメータになる
・文系形式をナラティブとして理解する作家が増えた
・吉田修一、桐野夏生、平野啓一郎、絲山秋子
→生活を書くのではなく、語り方から小説を組み立てる方向へ
②非人間の語りへの移行(2010年代~)
さらなる脱私小説化の進み方として、人間ではない語り手(=植物、動物、AI、集合意識、場所そのもの)で語られる物語が増加。これは海外文学と完全に同期する進展。
・気候変動・環境思想(エコクリティシズム)
・ポストヒューマン論
・人間中心主義の相対化
→パワーズの『オーバーストーリー』主眼
◆日本での展開
・小川洋子 :『猫を抱いて象と泳ぐ』の物の視点
・柴崎友香 :都市空間そのものの語り『わたしがいなかった街で』
→勝手にアンサーの形で青木淳悟『私のいない高校』から
『四十日と四十夜のメルヘン』も面白かった記憶
・宇佐見りん:声と身体の分離
→少女の主体性から一歩進みならが熟成
・古川日出男:言語以前の「声」の小説化
・円城塔 :非人間的語りの純化(数学・プログラム視点)
③言語そのものの物質化
綿矢・金原の感情と身体ではなく、言葉そのものを身体性として扱う方向が進む。
・音響=意味
・リズム=情動
・口語/詩/散文の境界破壊
・川上未映子、古川日出男、滝口悠生、多和田葉子の後期作品
④階級の語りの再浮上(2010年代後半~)
海外の下層の語り(ミルクマン、フレンチ女性作家の台頭、郊外文学)と同期。
◆日本の特徴
・階級が公然と語られるようになった
・都市・非正規・介護・貧困・地方が語りの中心へ
→ 語りの主語=少女・中年女性だけではなく、
社会階層が語りの主語という方向。
⑤オタク文化・ネット文化の内側からの語り
(=ライトノベル化と純文学の融合)
ポスト・エヴァ世代以降の文学的自意識。
・物語に二次元的自意識が紛れこむ
・ネットスラング・匿名言語が文学形式に流入
・物語がメタ物語化する領域が拡大
・滝口悠生、佐藤友哉、円城塔、最果タヒ
※ジャンル横断的に語りの二次元性が増した。
→ここちょっと個人的に弱いんだけど、やっぱ文化。
⑥世界文学との同期化
日本文学が国内の事情を離れ、世界文学の共通言語に接続し始めた二つの方向性
・身体と言語の実験(川上未映子)
・言語越境・国境越境(多和田葉子)
この二つは世界文学の中心主題に完全に近づいた。
→基礎を作ったのは村上春樹によるセールス、主題的中核に近づいたのは2人と思う
この20年の進展を総合すると「綿矢金原 → 絲山秋子 → 多和田葉子」というのは、語りの主語そのものが拡張され続けた20年の中心線にあるように見えるし、それと並行して、非人間の語り・階級の語り・言語の物質化・世界文学化といった複数の潮流が同時に起きていて、2000年以降の日本文学は語りの主語・語りの身体・語りの視点が前提から丸ごと崩壊し、その節点として不可避に参照される以下は、語りの構造の歴史といえるのではないか。
綿矢・金原 → 少女の身体が語ることを許可
絲山秋子 → 壊れ続ける大人の主体を語りの形式に
多和田葉子 → 主語も国籍も言語も越境する語りに




私は海外文学のが好きだし読書から離れていたこともあって、芥川賞系にも国内文芸にもなんとなくの感覚しか持ってこなかったが、その外側から見たなんとなくの感覚でも時代的に外せない作家の抽出はある程度できたのかなとは思ったが、今回感じたことは、やはり芥川賞をシリーズとして読むことで得られる体系性は一定以上あるし、私が興味を持てず未読作家にも系譜的な作家もいるのかもしれないが、一般的に知られてきていない・社会性や商業性の作家が本質的に文脈を次いで変化に寄与してきたということは事実的にあり得ないことだし、逆に価値があるのであれば絲山・多和田ももっと伸びるべきだし、深い批評的知性の働き、そのリテラシシーや呼応は必要だし、外側にいたままでも感知が可能な核心の節点も存在するはず。
例えば上で挙げた3名(綿矢金原・絲山秋子・多和田葉子)は、2000年以降の日本文学の語りの変化の軸をずらした作家として、外側から見ていても、書店での扱い・文壇の熱度・メディア上の言及・他作家の文体の変化などの表層の揺れや構造的な変動として表れていた。それらの揺れから、単なる人気・話題ではなく構造そのものの動きだと察知することは可能で、これは中心点を把握する構造感覚であり、そのようにして感覚は市場の流れを読むし、出版市場・文壇は作品そのものより先に文化の変動(主語・身体・価値観)を察知して動く。
①綿矢・金原
少女が主体になる“消費=主語”の時代の象徴
→市場は若年女性の価値を過度に増幅した
②絲山秋子
大人の女性の壊れた主体が初めて商品価値を持った瞬間
→生活・疲労・断片が文学の素材になる時代へ
③多和田葉子
国籍・母語の境界が溶け始めたポスト国家的市場の到来
→翻訳されても減衰しない文学へのシフト
川上未映子と多和田葉子だけが超えた壁
世界文学の共通言語
これらを察知する直観はほぼ現代世界文学論の核心に一致していて、そのなかでも川上未映子と多和田葉子が果たしている役割は、世界文学(world literature)の標準的な理論枠から見ても説明可能。
2000年代以降の日本文学の中で、世界文学の共通基盤に到達した作家は現時点でほぼこの二人だけのように今回の流れでは読めたが、その前段階では翻訳可能性で素養のある村上春樹によるセールス性と、海外から見た日本文学に求められるところの静かな内面の不気味と独白的な要素の小川洋子なのかもしれず、そのあたりは難しいところ。ブッカー賞的なことも関連するとは思うし、道を切り開いたあとの2000年代が今回。
川上未映子=“身体と言語”を接続する文体実験
多和田葉子=“言語と国籍”を外側から組み替える越境文学
この二方向は、世界文学の中枢となっているし、以下のような現代文学の主流に同期している。
①ポスト・ヒューマン的言語観
②越境・移民・複数母語性
川上未映子的な文体・身体の再構築、多和田洋子的な言語・国境の越境、この二者の問や作品はいま現在の世界文学(特に英語圏の批評界)が最も注目している二大問いに対応しているらしく、近年の世界文学は主題よりも形式、民族を超えた普遍テーマではなく語りの形式そのものの革新を評価軸にしていて、ゆえにポストモダン的な形式文芸の側面が強い名残がある。例えば、海外で現在評価されやすいのは、言語そのものを疑う作家(クレア・ルイス、ユドーラ・ウェルティ)、移民・越境者の語りを再設計する作家(チママンダ、エドゥアルド・メンデス)、ポストヒューマン的視点(動物/AI/非人間の語り)のようで、
つまり、いまの世界文学は、「何を書くか」より「どう存在を語るか」が中心であり、日本文学の中でこの潮流と同期したのが、川上と多和田で、ゆえに海外評価が高いのだと納得。(個人的には「何を書くか」主題の方が好みなので、この辺りが多和田との距離なのかと思うばかり。この辺りもポストモダンとポスト・ポストモダンの逡巡がある気がするが、結局は潮流と価値観と段階)


川上未映子=「身体と言語」を世界文学の課題として書く
言語の物質化(Language as Body)として、世界文学の中核にある「言語そのものが身体性を持つ」という潮流と完璧に一致するらしく、これはヘレーネ・シクスーやジュディス・バトラーの系譜に接続可能らしく、もはやだれやねんなんですが、
□ヘレーネ・シクスー(1937~ ポスト構造主義」のフェミニスト批評家)
代表作『メデューサの笑い』にて女性の存在と自己実現を妨げる計り知れないほど多くの束縛を打ち破るエクリチュール・フェミニンとして蘇らせた、とのこと。
□ジュディス・バトラー(1956~ 政治哲学・倫理学他・アメリカのフェミニスト)
『ジェンダー・トラブル』ジェンダーと性的マイノリティをめぐる政治哲学・ジェンダー学・文学批評・フェミニズム運動などの幅広い領域。欲望と主体の関係(=人間が物事を判断したり何かに欲望を向けたりするとき、何がそうした判断・欲望の主体となるのか)、そうした行動は歴史・社会からどのような制約を受けて成り立っているのか、等を主題に置いたものらしく、近代社会は個人が独立した主体として判断を下すことが前提とされているが、実際には歴史や社会による制約が主体に入り込み、無意識化で様々な抑圧を受けているのではないか、という問題意識に関するものらしい。
(→この辺りのことは結構川上作品にも出てくる)
性の体制が男女という二項対立で構成されていることをすでに抑圧、と指すのは面白い。
フェミニズム全然わからんわーと思いつつ、
川上未映子の強みや評価軸として、言語と身体があるのは明確にわかるし、
言語の物質化(Language as Body)としてのBodyには思うところもあり、それはジェンダー文学的にも極めて重要な主体性と身体性で著者と社会を縛るし、それが認識世界の制限や抑圧に繋がるといわれたらそうだとも感じる。故に言語認識世界と主体身体としての人間の一体感と根源性もまた。
・声の揺れ =感情の動き
・言葉のリズム=身体の動き
・文法のズレ =主体のズレ
世界文学はこうした文体を通じた形而下の思想性を高く評価するとのことで、『乳と卵』はまさに「語り=身体」の問題を扱い、海外の批評家の分析対象になりやすいことは納得。
多和田葉子=「国境・母語・主語」を溶かす作家
多和田の革新は、日本よりむしろ海外の批評界で強く支持されるらしく、ドイツでの人気がすごいのだとか。複数言語での創作が特に例に挙げられ、世界文学の中で重要な潮流のひとつが複数母語作家であり、多和田葉子はこの潮流の日本からの代表になっている感がある。英語圏にとっては、アゴタ・クリストフ(ハンガリー→フランス)やママンダ・アディーチェ(ナイジェリア→英語)と同列。
そこで問題になるのは、主語の越境であり、母語を越境・国籍を越境=語り手のアイデンティティが溶ける=言語変換を文学的事件とする趣で、これらは世界文学の中心課題と一致する。特に移民文学系統にとって多和田はグローバル変動を文学化した作家として重要のよう。21世紀文学の初頭としてジェンダーとともに移民性があると思っているが、その部分に接続する要素。
ここには村上春樹が突破しやすかった翻訳可能性の問題や、急速に進むグローバル化の中での多様性・アイデンティティと越境性など21世紀的な主題と、言語認識=世界とした文芸文学の根本的なテーマも隠れていて、去年の秋に多和田葉子を読んだときよりも、最近の流れからも感じる部分は増えているが、個人的には言語・翻訳・知覚認識上の世界よりも、現実・社会・存在上の世界を重視する要素が強すぎるため、ある意味で純粋な認識や形式である言語やポストモダンを主題に全体を考えることが難しく、興味・関心を集中できない傾向があるのかなと。
それでも、そのたぐいに関する認識は多少深まってきたのは収穫かなと。
「文化的リアリティ」と「構造的普遍性」の落差
彼女たちは世界文学と同じ源流の問題を扱っていて、同じ問いのもとに書いている。日本文学が世界の流れに寄せたとも見えるし、川上と多和田は世界文学を生む問いから出てきたとも見える。
では、なぜ彼女たち以外は同期できなかったのか、とすれば、多くの日本の女性作家は、文化として消費されて終わり、文学的普遍性や形式に昇華できなかったから、との仮説が浮かぶ。
・構造的な言語実験がない
・主語が日本社会内部に閉じている
・翻訳されると文体の意味が減衰する
・感性中心で形式中心でない
川上と多和田は、ここを完全に突破した。
作家 :世界認識の階層
→主題の中心
→文学的更新の本質
絲山秋子:社会システム階層(構造)
→接続絶/非対称
→関係構造の文学化
多和田葉子:言語=世界認識の基層(根源階層)
→越境/多言語/文化差
→言語そのものを揺らす文学
川上未映子:身体と言語の“内部装置”階層(内在階層)
→身体/感覚/言語の自動生成
→言語の装置=身体の構造化
津村記久子:生活世界・労働階層(日常実感の階層)
→労働疲労/小さな幸福
→大衆化された純文の更新
多和田葉子の文学性が、世界の言語そのものをずらすことや、「言語=世界認識の根源」とするところに生まれる「越境・多言語・翻訳不可能性」であることは認識しやすくて、その場合の言語が世界をどう作るか、が世界と人であって文学だとする探求は明確。その世界は国境・文化・言語の差などがどう主体の認識を揺らすかという根源階層であり、例えば絲山が社会システムを書くのに対し多和田は言語そのものの境界を書くように、階層がそもそも別物であることも分かる。
川上未映子の身体と言語の内部装置を覗き記す文学性は、「身体=意味生成の内在装置」として認識した上での語りの「速度・身体性・リズム」の装置化が要点であって、現実世界ではなく身体内部の言語生成に重きを置いて覗いていることになる。リズムや詩的言語の異常な強さは、身体の中で言葉がどのように生まれるかに焦点があるためだし、川上が興味があるのは社会やシステムではなく、言語の内部構造だしその哲学であって、これも階層が完全に違う。
芥川賞の一般化として津村を扱ったが、津村記久子作品にあるのは労働と生活世界の質感であり、日常の経験階層として「仕事・疲労・ささやかな肯定」などが並べられ、「働く人の日常・小さな幸福・疲れ」を生活者の実感の階層で書くことで、ある種の癒し小説として展開されている感もある。
<現代文学の難易度、デビュー神話と変容の著作列②>の文学的強度より社会的共有性を評価し歓迎する現代システム、の部分で触れた以下の部分で、私は明確に津村を思ったのだけど、その時代性困窮は一種の癒し系や安住性であるから、それで海外輸出を狙うためには、数字や影響力などの大衆性か、やはり不足している文学的強度や虚構創作性などのあらゆる不足の中の一項目でも伸ばし切る必要性があるのかなと。
>「社会性・テーマ性 > 文学的強度」という逆転は、本来的には社会性は題材で文学性は達成だったはずが、現代の評価構造では、社会性を扱っていることが現代的であり文学的である、という短絡回路が成立してしまっているからであり、津村記久子から派生した流れで言えば「労働・非正規・疲弊する個人や日常・社会構造の圧」などを描くこと自体が「人間性や時代性=文学性の証明」であるかのように扱われる節があり、これはもうまさに日本経済や文化の貧困化を感じるのだけど、労働者文学=大衆心理=時代的要素ではあるものの、それが本質的な文学性になるかといわれると微妙で、ただ単純に現代日本が文学的貧困や文明的困窮である、という状態とその民衆性の証左に過ぎず、それによる選択と達成は一重では文学的強度の代替ではない。
現代文学の難易度、デビュー神話と変容の著作列
比較に挙げた絲山秋子は社会システムや構造を主体にしており、その「非対称・脱接続・関係回路・システムの歪み」などをテーマに、個人や主体を乗せている社会的回路を描く彼女の小説は、人間関係のズレ・職場の不具合・孤立を扱いながら、一貫して接続の制度設計の欠陥を描いていて、感情ではなく構造で出来ているこの視点は独特。そこには言語も主体も身体性もほとんど交わっていないように感じる。絲山の文学は「個人 → 関係 → 社会システム」三層のうち、最も抽象度の高い階層に属していて、これが津村の生活、川上の身体、多和田の言語とはまったく異なる出発点。
こう並べるとわかるが絲山だけ社会の基盤構造を見ているし、言語形式に類する川上と多和田よりも、虚構形式と人類構造を主体とする絲山を私が好きなのもこの辺り。
ただ、国内文学としても、海外輸出としても、それほど進んでいるとは感じない背景現時点は現時点の私にはまだわからないが、時代的拘束・都市部的条件・共感する層のニッチ、等かなあと思う、今後読んで考えたい。おそらくもっと読まれていい作家、つまり読まれるべき作家、つまり?
(※後述で絲山と構造の展開については村田沙耶香とともに再度扱います)
多和田:世界の言語境界
川上 :身体の言語装置
津村 :労働社会における生活世界
絲山 :社会システムの接続構造
2000年代の女性作家たちが、ジェンダー的個の閉域から商業認知再爆発から世界的共鳴へと至るまでの言葉の旅として現代的普遍性の地図として読み直すと、「時代×女性×言語×現実の接続史」という思想的な一貫線を見ることが出来るのかなと。
綿矢りさ・金原ひとみによる爆発の時代に見る、女性が文学の中心に立つとはどういう現象だったのか、川上未映子に見る言葉の密度と普遍性で、なぜ彼女の文体だけが海外に届いたのか、それら目立つ作家のほかにも、多和田葉子・絲山秋子など境界の再定義として現実を再び書き換える言葉とは何か、国内文芸を舞台に女性作家が現実と対峙して何を語ってきたのかの軌跡から21世紀文学の言葉の倫理はどこへ向かうのか。この流れは、海外文学への視線(=構造・倫理・思想)と国内文芸のリアリティ(=身体・言葉・社会)がちょうど交差するのかなと思うし、日本文学と世界文学の境界線や今後に関わるのかなと。
綿矢はテーマの革新、成熟した読者との関係をどう保つか、国際化への具体的な進出などいろいろあったとは思うが、例えば川上がその後に埋めていった翻訳・国際露出の拡大、作品を通した普遍性と個性の両立、読み手・批評家間の評価ギャップの埋め方や海外需要や発展性を見ると、綿矢金原の社会一般との接続の仕方は2000年代特有のもので、川上未映子が2000年代後半に世界市場と接続し得た稀有な存在として、言語の密度と普遍性の両立を成した体で個の身体と社会の言語空間を架橋し、多和田葉子・絲山秋子(成熟と再構築)女性作家がどう言葉で現実と対峙してきたかという軸が見えてくるが、言葉・場所・自己の境界を再定義する時期として世界文学的想像力とローカルな感覚の統合が起きていて、女性作家が現実と言語を再接続していく過程の総括として見ることも出来る。

日本の女性作家が2000年代以降に国内で文化現象となった一方で、文学としての国際的普遍性を獲得したのは現時点で川上未映子のみであるなら、その理由は文化社会学的・文学理論的に感じることが出来るのかなと。社会文化現象と文学の分岐点として、まず押さえるべきは、文学とは他者にも通じる構造をもった個の表現の普遍性であり、文化とはその共同体の内部でしか通じない共有感情の体系という違いを持ち、綿矢・金原、そして例えば宇佐見りんらの作品は、同時代の読者に刺さるだろうし、国内文化の隆盛や後追いにはなるが、彼女たちの語りは、(日本の)若い女性という社会的位置に固有の疎外感・倦怠・自己嫌悪に属していて、切実ではあるけれど翻訳されうる価値を持った構造やモチーフであるかと言われると微妙で、彼女たちは文化を動かしたが、世界文学の言語に変換できるほど形式化・構造化していなかった。日常的な語りは同時代的な文化になりはせよ、翻訳的価値までを獲得する構造は持たない。
川上未映子の『乳と卵』『すべてのことはメタファーでありながら』以降の作品群では、言葉と身体の距離、母/女/語り手の位置、社会言語としての女言葉の構造的再演(古典的虚構性)といったテーマを、日本語の構造そのものを問い直す形で書いているそうで、たとえば『乳と卵』は、関西方言という具体的言語を使いながら、女が自分の言葉で語るとはどういうことかをメタ言語的に描いた。この言葉と権力の構造を内側から問う形式は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールやエレーヌ・シクスー以降の西洋フェミニズム理論と接続可能で、翻訳されても思想的・形式的に読めるらしい。こういう部分の言語的な興味や蓄積が弱いため、個人的には知識をなぞる以上はまだできていないのだけど、つまり川上は、文化的な女性の痛みを言語哲学的な語りの構造に変換した、そこに文学性が生まれたのだ、と認識した。
綿矢・金原・宇佐見の多くの作品は、日本語の内面独白としての完成度は高いが、構造的・形式的な革新には踏み込まなかったし、それが文学的な密度や完成度に直結していく。彼女たちの文体は感情が言葉を追い越す文体としてのリアリティはあるが、構造的読解を拒む文体であり、これが翻訳文化圏で再生産できない壁になる。読者は共感できても思想的・形式的に分析できないため、海外では若い女性のリアルな物語として文化輸されても、文学的議論の射程には届かない。それは現代日本文化としての輸出であって、世界文学としての承認ではない。
国内においても、文学にまで至らない文化になった理由として、業界が若い女性作家を世代・性別代表・偶像性として消費し、批評が構造分析ではなく感性の代弁に留まり、日本語圏内部で文体の共同体が形成され内輪化したこと、社会的成功を天井に著作列的洗練や向上を求める文化的成熟の不足等が文学的普遍化を阻んだ。つまり、作家の問題である以前に、批評環境の不在であるとも言える。
それらの作品は感情的には豊かでも理論的に読まれず、結果として、文学ではなく感性文化の領域にとどまってしまった感がある。綿矢りさ・金原ひとみ・宇佐見りんらが開いたのは語りの内的民主化だったが、川上未映子のみがそれを言語の構造改革にまで昇華したとすれば、前者は文化現象として残り、後者のみが文学として世界に通じた。
語りの声・誰が語るのか、の多様性は、間違いなく今後の文学の主体・主題になるし、ジェンダーや多様性の部分・グローバル化した世界の上での共通基盤ではあるが、川上未映子が日本語の女性文体をどのように再構築したか、綿矢・金原系の文化としての文学が現代SNS文化にどう再帰したか、日本における批評の欠落が文学を文化にしてしまう構造と、文化を消費して文学にまで高めることが出来ない文化的未成熟、は依然としてテーマ。ここはデビュー神話の呪縛にも関連するし、三方リテラシー(売り手・書き手・読み手)にも関連。この辺りはまた今後だなと感じた。
文学界の勢力配分は過渡期(2020年代前半)
女性作家の地位は今なお強いままある程度引き継いで構造変動を支える柱のままの一方で、男性・他の新しい作家層がどこまでその構造変動に乗れるかは不確実。女性作家の変動が成熟するフェーズと、他作家がその変動にどう応答するかを試すフェーズが重なっている。
賞制度の変化抑制力として見ると、芥川賞は伝統的に文学界の登竜門かつ権威ある賞として現在に希望しつつも、社会性や商業性を余儀なくされる形に押され、極端に実験的すぎる作品を受賞させることには慎重な選考が続く可能性が高いため、構造変動型の作家や革新性は、候補には入るが必ず賞を取るとは限らない、という状況が続くかもしれない。
国際化・翻訳との絡みでみると海外での日本文学人気は引き続き強く、特に翻訳文学への関心が高いため国内作家(特に若手・構造実験系)にとっては国際展開のチャンスがあるし、国内で文芸が読まれていない状況が続くなかでも輸出はされていて、ニッチ市場は横展開はされているのかもしれないとは感じる。こうした国際的な注目や市場性が、国内文学の価値基準の変動を後押しする可能性もある。→どの分野においても、海外で認められていることの国内下駄は強い


ただそれにしても芥川賞の相対的弱体化は避けられないように感じる。
直木賞や本屋大賞と比べて大衆性・共感性が低い制度であるにもかかわらず、自ら一般化や話題性にかじを切ったために信頼やコア的読者動員力が低下したであろう2020年代は、選考は従来通り文学性重視であるように見えるが、社会的インパクトやメディア露出で勝てない状況は続いており、結果として、文学的に重要だとしても注目されない作品が増えているように感じるし、紆余曲折あった綿矢金原・イロモノ~又吉の爆発や線香花火の後、どういう作家がその門から出て活躍しているのかが見えないのは私が国内文学に詳しくないし興味もないからであるのだすれば希望はあるのだけど、審議はいかに?
それに対し、商業小説の隆盛は割と目立っていて、少し前ではこのミステリーがすごい、現在は本屋大賞を中心に、一定以上の露出や注力は感じるし、話題になれば売れるとして『傲慢と善良』『BUTTER』など、女性作家が一定の社会性やモチーフを採った現代小説は文庫で部数を伸ばしている印象はある。話題の作り方は読者・書店・メディアが本屋大賞系に集中。キャッチーで読みやすくテーマ性が分かりやすい作品が売れる中で、文芸実験や語りの構造変化は相対的に軽視されるし、勿論私が好きな主題性とか長文性の作品とかは存在も見つけられない、つまり知名度も影響力も何もない。
目も当てられない具合で言うと、本屋大賞という上位互換を持った直木賞もどうなっているか、その存在感は不明。社会派・ミステリ・家族小説などジャンルはあるが、従来からその立ち位置は結構不明、高名で格を必要とするのにエンタメってなんなのそれという感じで、商業出版の指向に合わせて作家も安全策を取りがちなので、文芸的実験性は弱いし、そもそもがその密度を求めているのかも不明。
最も立ち位置が難しくなっているのが直木賞で、自ら立ち位置を手放して迷走しているのが芥川賞、という感じ。文学賞=話題性・販売力の側面が強化される一方で、構造的・歴史的・語り的な変化を促し奨励する役割は弱まるため、文学界の構造的更新が内部から起きにくくなり、過渡期的空白が長期化する恐れは消費性を高める。
国内文芸は話題性・商業性に偏る傾向が強まる中で商業出版・SNS・話題性の圧力が強いため、構造的更新は内部からは起きにくい状況があり、選考委員や制度が守ろうとしても迷走しても業界の一般性・市場性・文化性は弱体化が避けられず、特に文学的実験・語りの革新は内部の賞制度だけでは進まないため、芥川賞系の本質的・数値的な弱体化はさらに進む可能性が高く、文学的革新の登竜門としての排出機能ではなく、旧態権威としての象徴的存在になりつつある。
ここで大事なことは、旧態的な権威性や形式革新としての文学性が失われ弱体化することではなく、そうした文化、ひいては文学性が失われることの全体論の方であるし、市場原理に乗せて延命するにしてもその文学性や文化の本質や中核を持たないままでは意味を保てない部分。
どの時代の学術・芸術どちらの価値比重に寄せるにせよ、現代では常に社会・文化・文学構造の三層で見る必要が出てきて、芥川賞弱体化の現状と原因としては、「商業出版の短期的収益志向」「読者・メディアの話題偏重」「文学賞制度の閉鎖性(構造的変化を選びにくい)」「批評エコシステムの希薄化(語り・主体・構造の分析不足」などがあげられる。社会的・文化的影響としては、文学的革新や語りの変動は内部賞制度だけでは認知されにくく、文学が話題性・販売力中心の文化として消費される傾向が強まり、読者層も安全で理解しやすいテーマに偏ることで、長期的な文学的成熟や実験性が抑制される構造的影響として、直木賞はさらなる中間小説としての宙ぶらりんと、芥川賞においても商業主導の安全策を取る作家が増え、核や質の迷走が信頼と本格を落としていくことが懸念される。
内部の専門性・制度・批評エコシステムが機能せずに自己再生・自律性がなければ、外部視座や市場圧力に頼らざるを得ない状況になるが、外側からの介入は打開ではなく構造的に欠落している部分を補完する役割でしかなく、自走性が無い文化の淘汰が芥川賞や文芸界の弱体化の構造的原因ではあるが、それでも外部からの視座や構造指針が作用する余地があるのは、内部自助の欠如があまりに大きいから、ということにも映る。
今回2000年代の芥川賞を読んで、女性主体の解放やジェンダー文学の台頭をつぶさに感じつつ、それとともに変化してきた語りの主体を感じたが、女性作家の語り革新が継続するものの男性作家・他ジャンル作家は構造的革新の参加機会を得にくく、商業的爆発や社会現象を起こしたとしてもデビュー神話や偶像消費に終わり、著作列的成長や世界文学に接続し編入していく作家は一握りであり、ネットや翻訳がグローバル化していく世界の中で言語や文芸だけがその台頭や隆盛を持てずにいるのか、現代の世界文学はどこにあって何を成しているのか、やっとそのあたりの現代状況まで私の読書観や文学観が追い付いてきたのかな、という感じはする。
その上で20年後も芥川賞という制度が機能性や存在論としての価値を持つかという問いは難しく、その答えは日本文学の20年後の姿をどう結論付けているのかに持ち越すかもしれない。現状の流れと構造を考えると、20年後の芥川賞は日本文学の象徴・権威としての位置付けは残るし、「受賞=文学的正統性」の記号性や歴史的継続性が制度に重みを与えることは間違いないだろうし、その連続性を見ることが今回の私の読書歴のように体系性を持つことも一部可能であるが、制度自ら機能性・信頼性を失い続けた結果、文学の形式のみならず文化を牽引する力も推進する機能も恐らくすでに無いし、市場原理現代において商業出版・話題性・SNSに押される構造は文化として当然の状況であり言い訳にはならず、その現代における文学性・商業性・社会性を放ってこそ1ジャンル的価値がある事の再認識が必要。
制度は形式的存在に寄る傾向があるのは仕方ないため、自走性が失われている業界においては外部視座の介入が決め手であり、専門性において学術筋が文体論・作品単体評価に偏った批評になることも編集・出版の短期利益志向も基本的には仕方がないからこそ、内だけで回ろうとする閉鎖的制度がすで20年の停滞を生んだ原因にも見えるし、読者・外部のリテラシーや批評性としての視座や激励が必要であり、文学は社会・歴史・構造と同期すべきであるし、歴史的感度・構造把握能力・批評の視座が制度に作用すれば芥川賞は文学の方向性に影響を与えるハブとして機能しうる中心性は持っていることなる再生の鍵だと私は見た。
20年後も芥川賞は存在するだろうが文学制度の象徴としてだけでなく文化的進化を支える装置として機能する視点や価値貢献を提示する必要があり、そのためには芥川賞や文壇内部の制約を超えた構造的指針が作用することで、20~30年単位で文学界の革新が自然発生的に見える状況にて文学界の進化・再編の可能性は、一応まだある。
売り手・読み手である、出版業界・読者も単なる消費者ではなく視座の共鳴者として参加可能であり、単なる話題作や安住系に落胆する必要もないし、語りの主体・構造・世界文学との同期を意識すれば見える世界は変化するため、批評や読者の問いかけは痛みを伴う刺激であり成長の契機である、と整理すると、「制度批判 × 外部視座の可能性 × 作家への挑戦」が一体になり、やはり売り手・読み手・書き手への実践的メッセージとして落ち着くのかなと。
2020年からの20年はもう始まっていて、同じ20年として2000年代を見たときの収穫を直視する必要がある。
川上未映子は世界文学との同期、身体と語りの実験を以て日本文学の構造的革新の象徴としての位置付けに輝くのだと今回感じたし、弱者男性文学は国内男性作家の閉鎖的自意識の露出を明確化し、少女・女性文学との対比で構造更新の停滞を思わせるし、現代男性作家の弱さに回帰しても、安住系構造更新の停滞はまたも女性作家との対比が使える。
それらの発端には、綿矢りさ・金原ひとみ少女視点の語りによる主体の登場が、文壇的には事故、文学史的には転換という二重性を持ったし、絲山秋子・多和田葉子は中年女性・国境越境・意識の流体化など構造的革新を起こし、世界文学と日本文学の同期、語りの高度化へとつなげた。
制度や業界内部の弱さや非文化性・非一般的な状態からは外部視座・批評の必要性を再確認したし、「20年後も芥川賞は機能するか?」という問いは、存在論的価値の維持と機能性の低下からの外部介入の必要性を示す。文学界全体への構造的指針は、作家への激励や制度批評として締めることが出来るし、制度やジャンルとしての歴史的連続性と断絶、性別・主体の変化を見ながら、国内文学の制度・批評構造の問題と外部視座の重要性を浮き彫りにし、制度批評と文学史の両方を統合していけるのかなと。
芥川賞企画の発端が「芥川賞で日本文学が読めるか?」だったから、2000~2020年を読んだ結果の考察、そして更なる先20年の考察と必要性、で締める構想は良い落着かなと。
制度批評・文学史・作家論・社会的視座から見た芥川賞の価値や未来、文学の過去・現在・未来の連続として日本文学を立体的に把握できる構造を目指し、2000~2020年の芥川賞をまとめることで近年日本文学を読むことが、海外文学好きの私が世界文学を読んでいく前に地固めとして必要かなと去年から半年かけて読んで書いてきたこの期間、なかなか重く、面白かったですが、良い読書期間になったのではないなと。ここでやった2000~2020年の芥川賞作品履修は単純に国内文芸を体系的に読めたらいいなの下心からだったけど、日本文学の構造的理解と歴史的感度を磨く作業として極めて価値があったのかなと思うし、私は国内文芸に詳しくもなく、過去もまだまだ浅いうえで近代文芸にほんの少し接続し始めた程度なので、普段読書もせず文芸に価値比重が無い人からすれば、本当にただのサブカルだなと感じた。
■芥川賞履修の価値
(1)文学史的・制度的理解
(2)芥川賞という制度の選考傾向・評価軸を俯瞰できる
(3)国内文学における「主体・テーマ・言語構造の変動」の整理
→主体の変位、語りの形式、ジェンダー感覚、社会規範との関係性・体系化
(4)商業出版・編集・文学界内部の価値観や構造も間接的に把握可能
(5)性別・主体・社会変化の把握
(6)女性作家の突出、男性作家の停滞、弱者男性文学の状況確認
(7)現代日本文学のトレンド整理
(8)海外文学への橋渡し
■個人的な期間価値
1」芥川賞というフィルターを通して、現代日本文学の更新点と停滞点を短期間で把握
2」単なる作品レビューではなく、制度・主体・言語・社会の構造を俯瞰する視座の獲得
3」6ヶ月で31作品20記事という継続と集中、
その過程で、抽象化・構造化の習慣が身につく
4」準備期間と定めた短期間で制度と文学史の全体像を把握することで、
海外文学との比較を行う前の準備が整う
5」性別・主体・社会変化の可視化(フェミニズムはまだ正直わからん・課題)
6」女性作家優位の現象、男性作家の停滞、弱者男性文学との対比
7」社会との接続・断絶のパターンを作品単位で抽出
→日本文学の構造と課題を多少理解している状態で海外文学に入ることで、単なる読書体験ではなく、国内外の比較的/同期的読解や、語りの主体/言語装置/社会との関係といった抽象的概念で比較読解できる可能性が上がる。
■追加すると価値が増す視点・論旨(まだ萌え芽・今後)
(1)芥川賞という文学制度の選考基準・社会的影響・文化的意味を分析
(2)文学賞としての価値と文学史的価値の乖離への着目
→文学的価値と商業・話題性の乖離を把握
(3)歴史的連続性の抽出
(4)1990年代以前からの芥川賞との比較(前の20年)
→20年単位で文学の構造変化を視覚化
(5)社会変化や出版環境との関係も含め、長期的な文学史に位置付け
(6)国内外文学の同期化
→日本文学の独自性と世界的文脈を明確化
(7)同時期の海外文学のテーマ・語り手・社会描写と芥川賞作品を並べる
(8)制度批評視点
(9)文学的革新の普遍性・固有性を浮き彫りにする
(10)女性作家・ジェンダー台頭と、男性作家・弱者文学との比較
→2000~2020年の女性作家優位の状況と男性作家の停滞・可能性を具体的に整理
(11)更新されたもの/更新されなかったものを対比
(12)ジャンル・テーマ・形式の分類
(13)労働文学、家族文学、社会構造分析型、身体表現型など、テーマごとの整理
(14)語り手の主体・立場・社会との関係性を軸に分類
今回は
(10)女性作家・ジェンダー台頭と、男性作家・弱者文学との比較
→2000~2020年の女性作家優位の状況と男性作家の停滞・可能性を具体的に整理
(11)更新されたもの/更新されなかったものを対比
(2)文学賞としての価値と文学史的価値の乖離への着目
→文学的価値と商業・話題性の乖離を把握
をもう少しだけ展開。
主体の危機もなければ
社会的・経済的ステータスもない職業
2000~2020年の必修作家に女性しかいないのは、私が国内男性作家を読みたい気にならないことにも関わるのかと最初は思ったが、読み進めるうちに、2000~2020年の日本文学において構造変動を起こした作家がほぼ女性作家に集中していたのはおそらく事実で、ではなぜ女性作家が要点にになり、男性作家がそうならなかったのか?
弱者男性文学や男性不在としていくつか記事を書きながら考えたが、今回はその展望。




男性作家は自己物語から抜けられなかった
2000~2020年の男性純文学は圧倒的多数が自分の感情・アイデンティティの反芻に留まり打開点を持たなかった構造的理由があり、それが純文学というジャンルの安住性と重なった。
ジェンダーの解放の時代だったから女性の台頭はあったが、普遍的な文学性が伸びたかといわれると2000年代は微妙で、ジェンダーの反転的側面として一般化を模索したり普遍的な打開が待たれており、ゆえに2020年代は全体的な停滞、読まれない時代・書けない時代に、何を読み・何を書くのか、が焦点になるのかなと。
①戦後以降の私小説的伝統を引きずった
→主体の枠組みが更新されなかった
②社会の構造変動に対する理解が弱かった
→純分系男性作家は自分の内部で語り続けがち
→ミステリや歴史小説などのジャンル小説もめぼしい作家単位は無し
③語りの形式を更新しなかった
→2000年代の世界文学は語りの構造実験が主戦場≠国内外の同期
ここには従来や旧態の純文学性がそもそも男性・中年以上が主体であったこと、世界的にもその基盤があったからこそジェンダー台頭の時代になったことがあげられるし、結果として、男性作家の多くは新しい語りを生み出さず、自己の傷・弱さ・閉じた感情反芻をループする小説になった。この部分を私は全体的に弱者男性文学と総じてしまったけれど(これらは国内だけでなくイギリスなどの洗練系にもみられるので地域性ではなく恐らく現代文学性)、私が興味を持てなかった理由は作品が退屈だからではなく、構造的に変化がなかったからではないか、という仮説を、今回芥川賞を読み始めて思えたこと、外側からなんとなく思っていたけれど・実際に触れてみて体感することとの明晰さの違い、そして直観性は間違っていないことの裏付けにもなった。
一方で、女性作家は意識の構造を更新した
2000~2020年、日本文学で語りが大きく揺れたのは女性側であり
①綿谷・金原「少女主体の分裂と暴力性」という新テーマ
②絲山秋子 「中年女性の意識の流体化」壊れかけの主体の革新
③川上未映子「身体と言語の新しい接続」日本語の構造実験
④多和田葉子「言語越境」 世界文学の主流へ直接接続
すべて語りの構造そのものを更新したことが男性作家との決定的差であり、男性作家にこのような特徴や活躍が見つからない。
なぜ女性側に構造更新が集中したのか?
□2000年代の主体の揺れは女性のほうが先に訪れた
社会構造が変わり、「非正規・結婚/出産・労働の不安定・身体と生の社会的圧力」を強く受けたのは女性側で、主体の危機が女性側で先に起きた。危機が起きた場所で語りが変わるのは必然。基盤がある男性側ではなく、解放が待たれる臨界点としての女性側が強かったし、その勢いは拍車をかけるし、下駄をはける側面は確かにあったこと、その中で男性作家が目立ちづらかったことは事実。読者としての私が言語形式や語りの構造に反応するタイプだとは自分を思っていないが、それでも、意識の分裂・主体の更新・語りの変形・言語の実験が起きている場所に文芸文学が反応する経過はすでに認識していて、2000~2020年は必然的に女性作家側だったために、私が男性作家に触手が動かなかったのは偶然の嗜好ではなく、構造的に文学史が男性側を置き去りにしていたから、または男性作家の更新性や主体性の無さ、は挙げられる。村上春樹や書き続けた東野圭吾、朝井リョウも頑張ってるのを見ればわかるとおり、構造を変えられず更新も持たない非革新であっても書き続ける姿勢は可能であり、世界的に見ても洗練や継続はイシグロやマキュ-アン等は存在する。
国内の文芸において女性作家だけが必修科目だったのは、個人的好みではなく文学史そのものの動きであり、男性作家は中心的な更新を起こせなかったし、商業的な成功も社会的な貢献もなかったため、多くの関心が動かなかったのは自然で正しく、歴史の側に正しかったと言えるのかなと。
□男性側の古い主体モデルが強固だった
「男=働く」「男=物語の主人公」「男=自我の中心」などの神話や普遍性が90年代まで強すぎたため、2000年代以降の小説は変わりたくても変われなかった、という事情と、それに安住する甘受があったように思うし、金原ですらジェンダー転覆と暴力性の野心や継続性があるのに、男性作家でそこまで攻めているめぼしさが見つからないこと、がその実例。本当に何をしていたのか見えない、”彼ら”すら見えない、芥川賞を読んでも見えなかった。
□文芸文学が社会的ステータスや経済的優位を約束しない
女性側は上位優秀が目指す職業や達成に文芸虚構も来るが、男性のそれはもはや現代には来ないから、そもそもが優秀や社会性がある個体が志す業界ではなくなってしまった構造上の問題が実は一番重要ではないかと思っていて、資本主義社会における文学性の価値と主題なのではないかなと。
向こう20年がどうなるかは、現代社会において文学がどんな価値になれるか、が直結する。知的階層が目指す分野・業界でなくてどうして知性や才能がその道を志すか、現代社会にとって文学が高価値でなくて誰がその業界に尽くし、始めるか、ここを変える意思や打開が必要不可欠。
つまり男性作家を読みたいと思えないのは自然な反応であり、そもそも更新新規的優秀な男性作家・作品が生まれづらい構造上の理由があり、それもまた制度や業界が機能していない理由でもあるし、ここでも待たれるのは、書き手・読み手・売り手の批評性やリテラシーになる。
多声性の暴走、中庸的ヒューマニズム
世界が男性や支配構造のみであるように語られる時代から、女性や少数派の声や主題が響くことを当然と受け入れていく時代の背景には、ジェンダーや移民問題など様々あるが、多声化が文明の理想とされる現代において、単声の価値を再考する重要な視点で、文明バランス論=構造保守的な洞察は必要で、単一国家や既得権益を守ることが安定や画一をもたらすことも文化や存続の尊重にも思うし、人類的多声性と文明の持続可能性をどう両立するかという問題は、文明倫理の問題ですらあるように思う。そこに生まれるジェンダーバランスや主体的声のバランスはどう適宜されるべきで、そこには例えば政治的思想などは介入すべくもない部分に感じるが、ここも社会的にはなかなかうまくいかない部分のように感じる。
多様性や変化を求め・推し進めていくことの文明的危機と意義
左翼:多様性・変化・平等/新しい社会構造の創出
右翼:伝統・秩序・同質性/既存構造の保全
この二項のどちらにも属さず、両者の緊張関係そのものを文明維持の条件として見る発想。
多様性を進めすぎると社会的凝集力が失われるが、単一性を守りすぎると人間的自由が窒息する。この相克を思想的に意識し、均衡をとることこそ文明の知性だという立場は「中庸的ヒューマニズム(Golden Mean)」または「構造的中庸主義(structural moderation)」と呼べるし、中庸を実践するためには極端な選択を避け、変化し続ける世界の中で創造的にバランスを取り続ける姿勢が求められるが、それが成長や向上性、持続可能性や希望的発展と、どう折り合いがつくのか?
→個人的にはこれすごく難しい
※勇気や親切などの徳が過剰な状態と不足な状態
(=蛮勇や臆病)の間に位置するべき=中庸(アリストテレス)
文学史的に見た「単声」と「多声」の機能
単声的文明(家父長的・国家的秩序)
-世界の秩序を維持する装置としての物語
-語りの一貫性が共同体の安定を支える
-神話・国史・父性の言葉が意味の中心を保証する
例:古代叙事詩、明治国家文学、戦後初期のナラティブなど
文化的に拘束であると同時に、共同体の記憶装置としての役割も果たしていた
多声的文明(マイノリティ文学・翻訳的社会)
-世界の多様性を表現する装置としての文学
-差異を翻訳し合うことで共存を模索する
-家父長的秩序の批判を通して、倫理的成熟を追求する
例:トニ・モリスン、サルマン・ラシュディ、川上未映子など
これは解放であると同時に、意味の中心を失うリスクも孕む。
単一性と多様性の動的平衡を文明的観点からひも解くと、今回のような直観は、保守性ではなく構造理解的であるとすれば、文化は単一性(秩序)と多様性(変化)の往復運動の中で生きていると言い変えることが可能で、単一性が中核を作り、多様性が枝葉を広げる。核を否定すれば文化は空洞化し、枝葉を抑えれば文明は老化する。文学とは、この両者を往復する知の制度であり、文学そのものが左と右の間に立つ中間存在だと言い換えることが出来る。
中心的ナラティブや叙事詩性の破壊と倫理も同様で、中心物語を否定することは可能で鋭い知覚だが、否定だけして創造が続かないことは理知感における創作的姿勢・ダイナミズム的倫理とは言えない。この辺りはポストモダン的なテーマに個人的には感じるが、ゆえにそこから現代に繋がる主題だとも感じた。


現代の多様性の言説はしばしば、多様性そのものを倫理的正義として絶対化するが、それが極端化すると、同一の価値観で異なる人を批判出来ず、対立を避けるために思考を放棄し、文化的翻訳よりもアイデンティティ主張が優先されることへ繋がり、多声性が逆説的に新しい沈黙を生む場合がある。このとき必要なのが安定と画一の側の知恵であり、それは抑圧の再来ではなく構造の持続条件としての秩序理解であるとも思える。これらの視点は左翼的ではなく、むしろポスト左翼的ヒューマニズムであり、文明は多声性を尊重しながらも、根拠なき多様化による分断を避け、語りを支える構造の安定を保つ必要があるし、文学はその調停装置であり、個々の語りが響き合う構造の秩序(order of resonance)を思考する場としての機能を果たすべきだと個人的には思うし、それが文明における文学の立場と効能、多様性と発展性なのかなと思う。
近代芥川賞の金字塔
本丸は安住系に対する台頭系の村田沙耶香


「芥川賞で日本文学が読めるのか?」の企画の発端で村田沙耶香を扱い、ブログの開設当時に受賞作の『コンビニ人間』は記事にしてあり、綿矢の爆発と中村文則の安住と又吉の一般化、それぞれの文脈の問いに、ちらちらと存在を感じていたのも著者だった。
異物感で突破した村田沙耶香は頑張った飛び出しであるし、村田沙耶香を語るときの核心。しかも重要なのは、彼女は適応して評価されたのではなく、制度にとって処理しづらい存在として、無理やり突破したという点。多くの作家は、文学っぽさに寄せる・評価軸に合わせる・読者に分かってもらおうとすることで生き残ろうとするが、村田沙耶香は逆に分かってもらおうとせずに正常・異常の境界を壊し、読者の倫理的位置を揺らすなど、文芸を安全な共感装置として使うことを拒否したにも拘らず、制度的芥川賞を突破して、その受賞作で商業的成すらものにした。
彼女のやったことは中村文則の安住と比較すればわかるとおりにかなり危険で、「社会制度(結婚・家族・労働を否定ではなく)無効化した上で、読者を被害者にも加害者にも安住させない」これは、中村文則型の「誰も傷つかない暗さへの安住、という文学っぽさ」と正反対。村田沙耶香は必ず誰かを不快にさせ、混乱させ、読者の位置をずらす可能性があるからこそ、文学として内的を動かす挑発になり、それはつまり社会へ通じる唯一に関わる。
『コンビニ人間』が面白いのは、文体は平易で読みやすく、虚構性も強く展開もプロット的であるにも拘わらず、倫理は露骨で社会規範を崩壊させ、読者の価値観が露呈しうる仕組みを持っていることで、形式は安全だが内容は危険であるこのズレが芥川賞という制度を一度バグらせたが、正当な登竜門を突破する強さもあった。
なぜ安住し更新しない男性作家と対照的に見え、彼らの不在性に対し村田の存在感や躍動が目立つのかといえば、現代的な多くの男性作家が内面に沈み、更新しないのに対し、村田沙耶香は内面を使って社会や読者の認識や全逓を破壊する作風を選び、冒険的で挑戦的であること、自意識や文学っぽさを守る殻にせず、攻める手段にした。この差は決定的。ただ、『コンビニ人間』以後もどれだけ頑張れているかは注視が必要、ただその殻の破り方・突破力は特筆すべき。
ここで重要なことは村田沙耶香は、才能や実力だけで突破したわけではないだろうし、評価され売れたから続いたわけでもなく、嫌われる覚悟や抵抗も顧みずに文芸を更新しに行った姿勢そのものに価値があるからこそ、異物として残り、真似しにくく、後続が出にくい。これは構造や制度、市場原理や他者社会性の中に生きる個人としての異常な強さに他ならないし、文芸を生業にする人の強さとして見ると日本文学の中では異様に感じる。

若い女性の最年少W受賞という話題性もなく 、人気芸人の文壇デビューという神輿もないにも関わらず、『コンビニ人間』は近代芥川賞での一つの金字塔だし、売れたし一般化もした、その上で破壊的であることの価値があるし、ジェンダー的に書いたテーマではあるものものの、ジェンダーの解放だから評価されたのではなく、むしろ非ジェンダー的に届いたから更新する力強さに繋がった、これは普遍的な革新。従来に安住するでも制度の迎合を受けて送り出されるでもない、美談なし・スキャンダル性なし・有名人補正なしのまま、純粋に文学としての構造完成度で勝った芥川賞受賞作としては大金星。


現代社会を可視化した構造力として、『コンビニ人間』は単なる変わった主人公の話ではなく、正常とは何か・社会適応とは何か・役割を演じる人間とは私か、つまり、近代社会そのもののシステム批評であり、しかも説教も説明もゼロのまま虚構的魅力を持った物語構造だけで描き切った文学性の完成度すら高かった。
ポスト震災以降の空気を持った当時の日本社会は、成長や激励の物語が壊れ、自己実現神話が疲弊し、普通であり優良であることが圧になっていた、その中でこの作品は何を社会や読者に突きつけたのか?そして小説として洗練されていた作品が、なぜ一般社会にも爆発的に受け入れられたのか?
多くの芥川賞作品は、作家の才能評価・実験性評価・文学史的意味などいくつかの理由で選ばれるのだろうが、『コンビニ人間』は文学的完成度・時代の核心把握・社会への浸透力など多くの力を持った作品だったからこそ、話題性がなくても商業的に成功し、芥川賞史に残る代表作として純文学作品のまま異例の大ヒットになった。文芸形式における虚構創作で、物語は社会と倫理にどう責任を持ち、何を捉えて構造化し、どんな可視化を行って社会に還元することが出来る表現になりえるのか、それはポスト・ポストモダン的倫理そのものであるし、市場原理に乗った成果主義の現代における社会的一般化の成功でもあり、時代と構造を同時に撃ち抜いたから金字塔になった。
村田作品は日本文化を描いているのにテーマは社会や文明そのものであり、労働・結婚・正常・異端・家族・ジェンダーなど多くがグローバル的な普遍問題を扱っていて、海外でも評価されるポジションではないかなと感じる。
村田と絲山の共通点と、
一般化に逸れた芥川賞の、隠れた構造化軸
人間社会はどう設計されているか、を見抜いて描くシステマチックさに関して言えば絲山秋子も浮かんでくるのだけど、村田沙耶香が制度を可視化する構造批評型だとしたら、絲山秋子は職場的社会構造に埋め込まれた人間設計を露出させる作家のようでいて、同じ系譜の別ベクトルとして読めるのではないかなと、ここの二人も結ぶことが出来ると思う。
絲山秋子は社会を批判しないし破壊もしないが、構造の中で設計通りに生きる人間を正確に配置する結果、社会そのものが浮かび上がってくる高度な構造小説をしていて、村田沙耶香との共通点には、情動物語よりも社会構造や人物役割がどう生きて機能しているかを描く点があり、人間を感情の個体ではなく構造の中のシステム回路のような扱いが従来の私小説性や純文学性と異なり、構造と階層の普遍性があるからこそ、近代的な小説だと言える気がする。

村田沙耶香 絲山秋子
「制度を極端化して可視化」「日常のまま可視化」
「思想実験的」 「社会観察的」
「文明批評寄り」 「生活システム描写」
→より虚構的×商業的可能性 →より写実的×文体的洗練
村田の方が虚構創作性が高く、絲山の方が構造的距離感が強い。
絲山秋子は、人間を個人的情動ではなく社会システムの稼働単位として描くから、その小説は驚くほどシステマチックに現実を写し取る。村田沙耶香の虚構性文明構造批評と並べると、現代日本文学の到達点が一気に見えるのかなと思うが、村田のそれが一部デフォルメされつつ虚構性や流通性の高い作品性を持つのに対し、絲山の方が著者が生きた時代の空気感や一部都市感が強めかつ多少入り組んで共感や理解の深さを必要とする部分で、一般社会浸透性や海外翻訳流通性も低くなるのかなとは思う。文体にしても絲山の洗練に比べると、村田のそれは密度はあるものの洗練とは多少違うから、文章としての読み易さも一般的には村田の方が受け入れやすいのも強い。
ただどちらにせよ両者が日本文学の中で、感情中心の近代から社会構造を描く現代への文学的転換点になったことは間違いないのかなと思う。この部分は芥川賞が一般化に逸れたのとは別軸に存在する構造化への目覚めとして顕著な収穫。と同時に、村田は女性や階級的な要素としてその主体性や声が区分されつつも、労働・結婚・性・正常・異端・命を文化制度として設計図化する上で、日本社会や人類社会そのもののモデル化ですらあるからか、作者の偶像性はあまり加味されずに表現・評価されている印象があって、そこも他の女性文学台頭とは若干ニュアンスが異なるのが注目点。絲山の作品やテーマが一部時代的な拘束と都市部地域的な制限があるのに対し、アブノーマルな虚構性で展開する村田沙耶香の世界観は自由で時代と地域的な拘束を一切受けない、ここも普遍性や一般性に繋がりやすい部分なのかなと感じるし、その作風や持ち味が絲山の魅力で制限であるのも書きながら思う。
2016年に芥川賞を受賞した村田沙耶香は停滞した文芸制度の中で、適応や迎合ではなく異物としての突破を選んだ数少ない成功例のように見えるし、制度や出版から見て心地よくも安心でもなく見えるが、それでも芥川賞を獲り、売れ、知名度が一般化し、そのまま書き続けており、誰が失敗しないかではなく誰なら勝ってくれるかの視点で、かくも珍しく純文系であるにもかかわらず制度や出版の期待に応える形があるのかなとは思う。
文体的には絲山や多和田ほどの密度ではないし、虚構性はあっても長編の完成度ではまだ実力不足も感じるが、それでもその姿勢や志向性に価値がある、と批評し応援し続けることが必要であり、その価値は21世紀性。台頭するジェンダーではなく、普遍を更新する姿勢と志向性、も良い関連。
村田沙耶香は虚構性は悪くないけど文章や構成力が長編になると持久力が落ち、彼女が扱うテーマや世界観は長編のスケールでものにすると大きいが、その持久力や集中力など作家的強度がまだ足りず、日本文学的作家の限界にも感じる。従来の純文学性の中短編重視、作家の著作列評価よりデビュー神話視、売り手も読者も長編や重さ、成熟を求め関心を持続し続けない文化的未成熟が感じられる。
村田沙耶香の突破力には、「設定の異化/規範のズラし方/語りの一点突破力/アイデアの倫理的破壊力」などがあり、短編~中編、あるいは長編でも初速はかなりいいが、そこで扱うテーマや世界観は本来的には長編スケールに耐えるはずだが、それでも長編で持久力・完成度が落ちることが現状で、それでは国内で更新出来ても海外展開的に成功するかといわれればやはり長編の壁があるように思う。着眼・アイデアは強く、設定や主題選定は特異だが、全体構想や構造化が不足。これは絲山秋子や佐藤亜紀を見習ってほしい所。
そしてこの芸術性・虚構創作的な技術が、実は国内作家の限界かつ、海外作品としての競争力を持たない部分だと個人的に感じる。日本文学=純文学の根強さ・心理学的な魅力傾向があるから、エンタメ的な構成力や広いケール感との並行が難しいし、むしろ地味で面白くなくする傾向が強く(純文学風でならなければならない感・文学っぽさ重視の限界)、さらに思想や政治性など社会的なテーマ選定があまり成されづらかった土壌も手伝って、その主題テーマは保守的かつ閉塞的であり、虚構技術も主題価値も矮小不十分で、何が評価されるわけもないことが分かる。日本文学的作家の限界、文化的制限を感じる。
テーマの過激さでも、設定の異様さでもない、主題性に現代性や社会性があれば評価され、虚構創作における技術や表現力、文体や創作性の密度や完成度は確実に存在して、同じ問いを崩さず、逃げず、深化させ続ける力として、1作の構造でも著作列においても、短距離では爆発し長距離では薄まる、この差が作家的強度として見えてくる。
芥川賞受賞作『コンビニ人間』短篇集『丸の内魔法少女ミラクリーナ』長編『消滅世界』しか読んでいないが、テーマのスケールは普遍的で、問いの鋭さも十分、作風における異物感も唯一無二、なのに、それを長編構造で最後まで押し切る筋力が、まだ足りないのかなと。
これは村田沙耶香固有か、日本文学的限界かといえば、日本文学は「長編=心理の積み重ね」「物語=内面の連続(心情吐露)」に偏りやすく、「構造・制度・世界システムを長距離で運ぶ作風やその訓練・文化土壌」が少ない。村田沙耶香は突破力はあるが、走法は国内型だから、素養は面白く世界観は大きいのに、短距離仕様で長編における独創性と完成度のズレが起きるのかなと。それはすなわち村田沙耶香や日本文学的伸びしろだと結論付けることは可能。
異物でテーマを突き通す勢いだけはある村田沙耶香と、冒険せずに旧文学っぽさに浸ってる中村文則とは、近代の女性作家の躍動と男性作家の沈黙の対軸に思えるが、ここは単純な優劣や性別ではなく、冒険しない旧文学の持続と異物としての突破(更新の意志)の二点で見たとき、中村文則は近代文学の権威(内省・暗さ・自意識)に寄り添い、更新せずとも評価が循環する位置に安住し、文学を問いではなく雰囲気として再生産する。村田沙耶香は近代的主体・正常性・性役割を破壊し、文学の安心圏を自ら踏み外し、読者と制度を不快にさせるリスクを引き受ける、この差は明確。
動かない男性作家性と動いてしまった女性作家性という対軸は、2000年代以降の日本文学を説明する強力な視座になるし、それは同時に、書かなくても生存できた男性作家と、書かないと生存できなかった女性作家の危機感と言い換えることも出来る。
これは女性作家が本質的に優れているという話ではなく、更新を引き受けた側に女性作家が多く、更新を回避した側に男性作家が多いという配置の問題であり、なぜこれが男性作家の沈黙や不在に見えるのかといえば、近代文学の主体像(孤独な男性的自我)がまだ権威として機能してしまっており、壊す必要がなく冒険しなくても成立するため危機感が発生しない立場や状況において、無理や重責の倫理観や好奇心では動けない結果、書き続けているのに何も動かしていないさまが沈黙に見える。
この沈黙が成立してしまう男性作家性の最も分かりやすい例としての中村文則は、更新を回避したまま、近代文学的権威の内部で文学を維持している作家であり、その安住的再生産は業界や読者の停滞を招き、村田沙耶香は完成度や胆力に限界を抱えながらも、文学の外縁を破壊することで突破力を発生させた作家であり、この差は2000年代以降の日本文学における男性作家性の沈黙と女性作家の異物的躍動を可視化する。
何も突破せずとも成立してしまう点は、個人の怠慢ではなく男性的近代主体がまだ標準として機能してしまった時代を引きずっており、なんなら現代もその波に乗った中堅以上はそのまま生存できる構造の問題であり、それを引き継いでいる出版や構造的制度の問題なのかなと。一方でここでの整理は、村田沙耶香を過剰に持ち上げてもいないと思うし、既存社会性を破壊し、普遍的常識を意図的に踏み外し、読者に不快をあたえるリスクを引き受けるやり方を評価しているのは、更新を引き受ける姿勢そのものであり、だから同時に技術的な不足や完成度の未成熟も言及できるが、現在のそれよりも志向性が作家性に直結する、という二重性も持つ。
逆に言えば村田や、例えば解放されたジェンダーの主体性は、制度の外縁に押し出され、動かざるを得なかったし、更新を選んだというより更新しないと存在できなかった、その生存状態が更新や突破を必要とした、と言い換えてもいい。近代文学の正統に近い位置にいた者ほど動かずに済み、周縁に置かれてきた者ほど異物として動かざるを得なかった。その結果として、男性作家に停滞が多く、女性作家に躍動が多く見える、という配置と構造的結果が生まれた。
中村文則は近代文学的男性主体の権威に守られ、更新せずとも沈黙が成立してしまった作家であり、村田沙耶香は完成度や胆力に課題を残しながらも、近代的主体そのものを異物化することで文学を動かしてしまった作家。この二項は2000年代以降の日本文学の停滞と突破を説明する非常に使いやすい対照軸であり、更新しなくても成立してしまう男性作家性と更新せざるを得なかった女性作家性の間に、明確な断層が生まれたが、これは社会的配置と文学制度が生んだ結果である、と仮説づけられる。
この対軸は感情論でも性別論でもなく構造論にすべきで、中村文則・村田沙耶香を「好き・嫌い」「上手い・下手」「男・女」ではなく、軸は一貫して「書き手が文学的更新を引き受けたか、または回避したか」であるべきで、この対照は個人攻撃でもジェンダー煽りでもなく、2000年代以降の日本文学がどこで止まり、どこが動いたかの可視化にしていく必要があるし、その場合の中村文則も村田沙耶香も普遍的な日本人作家である見方も求められる。
男性作家の不在とは、沈黙が成立してしまう権威を主体としてとらえると分かり易く、近代文学的男性主体(内省・暗さ・孤独)がまだ文学の正統として通用してしまったし、その文学っぽい安定量産を商業出版も重宝し、更新しなくても芥川賞/定期刊行/海外紹介が成立した結果として、文学が問いではなく雰囲気に退行していく。才能がないから止まったのではなく、止まっても許される位置に置かれた前提の上で、男性作家性の危機感不足を生み、死活的な生存戦略を遠ざけ、冒険しなくても破壊しなくても自分を賭けなくても、文学でいられた。
一方で、女性作家の台頭を、従来の主体の解放とともに、異物として動かしてしまった文化活動としてとらえると、女性作家の台頭は個別の才能実力の以前に、前時代から社会的に継続してきた女性への抑圧を主とし、周縁に置かれ正統に居場所がなかったからこそ、動かざるを得なかったし、動くだけで更新の主体になり易かった。川上未映子にしろ村田沙耶香にしろ、まだまだ文体・構成に未達な所はあり、長編作家的強度は未完成だが、それが分かるだけのテーマや世界観的スケール感があるのが重要で、もうそれですでに文学の安心圏を破壊しており、女性の体を引き受けた川上に対し、更新を引き受けた存在としての村田紗耶香は、近代的主体・正常性・性役割を異物化しつつ、文学性を模索し続ける。
文学とは本来、社会や個人が最初に表現として突破できる場であり、祈りと学術が交差する認識更新と憧憬の装置だったと見れば、更新しない文学は文学である前に再生産的な文明のただの消費物になる。安住は作家の問題であると同時に読者と出版社の問題であり、問われているのは、次に動くのが誰かではなく、文学が再び動くことを許されるのかだし、それを求められ・何を志せるかの問題であり、文明が生きて進むうえでの理性や知性における憧憬がどこに向かうのか、ということだとも。文学とは何だったのか/何であるべきか、という問いは、個々人の文学観や価値観だとは思うが、私は様々な事象にあふれる世界における人間性だと思っているので
動いてしまった村田沙耶香との決定的な違いは「正常や異常・性役割・労働・家族」を概念ではなく身体レベルで破壊し、文学の安心圏から意図的に逸脱した。この場合に村田は安住よりも突破的創作を選んだかのように感じるし、それは倫理的・制度的リスクを引き受けることを選んだかのように見えるが、ここは構造的に見ると村田と中村の才能や実力如何というよりは、まず前提に「男性作家×旧態文学性」の特権性と、「女性の抑圧と解放×台頭文学」の生存や切実があると思うし、それはどちらも時代的で、勿論躍動した村田が引き受け、安住した中村の構図は揺らがないが、単純な一人の作家性のみで語ると分かりにくくなるし再生産性にも繋がらないため、「動かない男性作家性」と「動いてしまった女性作家性」が生まれやすく、故に更新されなかった・更新され易かった時代の交錯があることは注意が必要なのかなと個人的には思う。そしてゆえに村田の粗削りも許されるし、その突破力がまだ続くのではないかと夢想出来る点はさらに注視が必要
この二項対立は、批評的に非常に使いやすい感じがして、それは単なるジェンダー的対比ではなく、この場合の村田沙耶香は「文学=社会規範そのものを異物化する装置」として、書くことで「正常と異常/女性性と労働・家族と性」などを破壊するが、未熟な点や不足はあるものの、それでも彼女は文学を動かしてしまった突破力は、更新しなければ生き残れない地点に追い込まれていたからであり、逆に1975年前後生まれの安住系男性作家やこの世代が抱えた限界として、彼らは文学者であるが文学で何かを成す気はなかった。より正確に言えば成さなくても成立してしまったし、危機が訪れなかった作家性、制度が守ってしまった沈黙、これが、2000年代以降の国内男性作家の更新不足の正体であり、そのツケが現在もまだ尾を引いているのかなと。
文学を「祈りと学術の融和」「社会と個人が最初に突破するための場」と見る立場からすれば、彼らが物足りなく見えるのは必然。
これがたとえば様変わりする20年後の1995年前後生まれで見てみると、幼少期には失われた30年が前提であり、思春期には東日本大震災を経験し、文学形成期にはSNS・炎上・分断を身近に感じ、世界は壊れているが誰のせいかはわからず、主体は脆弱で、構造が強い 実感があり、そこにおける文学観は、もしかしたら主題や構造を露出させる装置なり得居るかもしれないが、語り手やそのナラティブは不安定で信頼できず、フィクション自体を疑うポストモダン期であるとも思う。この世代は2020年代の現在は25~30歳前後になるので、男性作家も沈黙が通用しなくなっているはずだし、村田沙耶香の衝撃を横から受けた世代(2016年)。
文学だけが、迷い・不確実性・失敗を抱えたまま
それでも意味を提出できる
文学は社会より一足先に感受性の地殻変動を表現する領域であり、実績や現実の構造変化よりも社会的祈りを反映しやすい。文学固有の事情として、文学は主体の声を扱うことが前提となっており、権力や構造よりも、それに翻弄される経験の切実さに反応する。抑圧されていた声ほど表現のエネルギーが高い上に、その更新は表現だけで突破に値する。
文学は本来、社会が更新される前に倫理が露出する場であり、文学は祈りと学術の融和である。
未来の無い祈り、男性作家の不在と安住
~女性の解放が文学から始まったということは、企業/制度/雇用/評価などの社会性や構造が後追いで変わらなければならず、示された倫理が一定地位を持てば持つほど、更新された倫理が社会性を急き立て後押ししていく。これは大事な文明的視点。
~規範に違和感を持ち、欲望や自由意志を持ち、社会を異物として見るその主体が、言語上で正当化された瞬間のことを言い、綿矢の少女性、絲山の中年女性性などが顕著であり、
~これらは歴史的に見ても、法や社旗的な制度や経済より先に、まず表現領域で起きるし、文学はその最前線だった。
その場合の社会制度が後追いになるのは必然で、制度は、安定を守る装置であり既存の多数を前提に設計されるため、現状や認識の変化に即応できない。一方で文学は、少数の違和感や情動を先取りして祈りに固め、不完全な倫理を表現により打ち出すことが可能だし、失敗しても許される。文学が示す人間性や社会性を、現行社会がどう扱うかを考え、倫理や現行制度を問われるという時間差が必ず生まれる。これは女性解放に限らず、奴隷制・階級・障害・セクシュアリティ・植民地主義、すべて同じ構造だからこそ文学は常に人類文明の祈りの場であったし、その憧憬が人類を映し未来を変えてきた、と私は読んでいる。
~文学が更新した倫理は必ず社会を追い立てる。逆に、更新しない文学は社会を眠らせる。
21世紀文学の強い潮流は「抑圧・不均衡・声を奪われた経験(=女性・多様)」にあり、その正統性競争において男性作家は構造的に不利になるが、これは時代の主題がそうであるというだけで不公平とは関係がない上に、前時代の公平性の不均等の是正時期にすぎないが、相対的にこの時期の男性性は利益享受を奪われた形に見えるし、それは一般社会性も同様である、というのが面白い所で普遍性。
ただ対軸に素直に置く声、価値観や特権性を奪われ、崩れていく均衡を理知感的に感知し、理性的に自省出来る個人が創作ないし生活を営む場合、この時代の明確な男性側の声は解放や表現になるはずで、そこを攻めれば文学性になる可能性はありうる。弱者男性文学を意図的に行い、構造的にその流動を創作化出来れば、これは未来の視点だし志向性の提案で、必ずいつか男性→普遍性側の中心性があるはずだし、21世紀のその先へ向かって責任と構築を選ぶ語りが人類更新には必要になるし、文学と社会は同時にここへ向かう。(男性不在①の冒頭文)


男性不在の記事でも扱ったように、女性の解放が文学から始まったということは「企業/制度/雇用/評価」などの社会性や構造が後追いで変わらなければならない、ということでもあり、示された倫理が一定地位を持てば持つほど、更新された倫理が社会性を急き立て後押ししていく。これは大事な文明的視点であり、「リモート/フリーランス/複線キャリア/非連続な専門性」が一般化しつつあり、これは女性の生存戦略が社会モデルに昇格している段階。次に問うべきなのはおそらく、この女性起点の働き方や表現モデルが、男性にとっても救済になるのか、それとも新たな選別や被害者意識や実存境遇を生むのか否か。
ここではジェンダーと市場原理、そして現代文明性を接続する視点が必要だし、単純なジェンダー批評かメディア経済かという話ではない気がする。
「抑圧/不遇/未達」の状態があるからこそ、「解放/進出/発達」が生まれる
21世紀文学が獲得したものと共に失ったものも存在していて、そこにノスタルジーや市場性の類を見てしまう視点も良くわかる。獲得したものには「声の多様性/感受性の細分化/抑圧の可視化/語りの民主化」が確実にあった一方、失いつつあるものには「判断の軸/世界をまとめる視点/迷いながらも前進する姿勢/敗北と更新を賭けた物語=文学性」などなど、2000年代の文学は女性台頭や多様性への開放などを持つがゆえに目立たないだけで、ポストモダン以降(1900年代後半~)の文学の低迷は学術性・市場性共に接続的均衡しているとは思えないことには注意が必要で、ここは今後もさらに焦点となっていくはずだと思う。
社会制度の是正において、昇進レースにおける女性枠や既存男性が履いて来た下駄問題の可視化などと文学における女性作家の台頭は、同じ歴史的要請の二つの表れとして重なっているという見方も可能になってくる。文学性の表明と現実社会の是正展開を見るときに、その台頭や更新が急務だったことの妥当性を考える。
文学は社会より一足先に感受性の地殻変動を表現する領域であり、実績や現実の構造変化よりも社会的祈りを反映しやすい、とは上で触れたが、社会的是正の急務性と文学における女性作家の台頭は重なっており、しかもそれは偶然ではなく同じ歴史的圧力への応答であり、故の更新であり、普遍性への一途にすぎない。それは同時に、文学は制度よりも深く、早く、感受性の更新を要求する、その祈り的な表現になることの証明でもある。
社会制度と違い、文学は数値評価が出ず、成果が遅効的で、声と経験が資本になる領域だからこそ、抑圧の経験や語られなかった身体や排除されていた感情などが一気に流入し表現するに可能な領域であることも大きい。(制度に対する文学性=祈り、といった主題は今回は煮詰まっていないが・制度に先立って起こる表現=祈り、というのを少し先出しした回であるとはいえる)
文学において女性作家が偶像になりやすいのは、消費社会がそういう像を欲しているからでもあり、男性作家が不在に見えるのは、消費と普遍の両立が極端に難しくなったからでもある。
この先はどうなるかといえば、女性作家の偶像化はピークアウトし、飽和・消費疲れ・記号化の限界を起こし、偶像にならないが更新された男性作家も再評価される時が来るはずだし、来るべきであり、2026年現在はもうその時期に差し掛かっているかもしれず、その頃には男女どちらの身体も持たない語り、被害でも特権でもない位置で責任を引き受けた普遍の作家性が、性別より語りの耐久性=文学性が問われる局面へ移行しているはずだ、と現代文芸の商業性・出版性を想いたいが、どうなんだろう。
台頭による調和が済めば、普遍的な更新ができる者の時代へ、とは男性不在①のサブタイトルに用したが、その通りに、必ず男性作家が必要になる時期が来る、ある意味今の不遇が現実ならそれを打ち破れる。
権威が常に実力と意味で説明を要求されるようになった、これは民主主義的には健全であり、文明史的流れとしての必然性。これは文明社会的な男性主体のそれや文学物語における中心性等多岐にまたがる。
暴力主義(力の支配)→権威主義(血統・地位・性別)→民主主義(数と制度)→多様性社会(声と経験) この流れは不可逆であるから、この流れの中で立場を失い、 突破できず、台頭がない、という事態は、 不遇や差別ではなく文明的要請に応答できなかった結果と考えるのが妥当。
権威が説明責任を負う、正統性が自明でなくなる、立場は結果として獲得されるものになる、この環境下で台頭できないのは、排除されたからではなく機能しなかったからであり、文明の要求仕様が変わっただけの状態での適応の問題。これは個人の尊厳を否定しないが位置を保証もしないし、民主主義・多様性社会の冷たさでもあり、健全さでもある。
重要なのは、後段に進むほど正義(中心・重点)が不安定になるという点で、多様性社会は、誰も絶対的に正しくないが誰も排除されない、という最も高度で最も不安定な段階であり、ここで生き残るには支配力でも正統性でも被害性でも足りず、必要なのは意味を生成し続ける能力、突破力や向心力ということにもなる。
暴力主義 → 力が正義
権威主義 → 出自が正義
民主主義 → 数が正義
多様性社会 → 経験の可視性が正義
男性性は「過去の成功モデル」である限り失効し、女性性は「過去の被抑圧モデル」である限り先細る。両方とも、属性としては評価されない。
男性性の場合、「権威/断定/一元性が価値」だった時代には強かったが、今は、他者の経験や多様性ををどう説明できるのか?その中における自身の役割・立場とは?に答えられない男性性は、能力や説明不足と見なされる。女性性の場合「経験の可視化/身体性/感受性」は、確かに回収されるべきだったが、それで世界をどう構造化できるのか?が次に問われていて、それらもまた社会でも文学でも同様であり、綿矢や金原などがし損なった構造化や再現性、普遍性のそれにも直結すると比較すれば分かり易いか。社会においても文学においても、時代適応のための問いや要請にこたえられない女性性も役割を終える。そこから先に評価されるのは性別ではなく、権威なき場所で語れるか・多様な声を整理し自己の立場を相対化できるか・その上で判断をや倫理を放棄しないか、など意味生成能力と責任引受能力が必要で、これに失敗すれば、男性でも女性でもマイノリティでも台頭しない、そんな時代が必ず来る。
やはりこの場面においては、男性不遇論に逃げず、女性優遇論にも甘えず、文学的ノスタルジーにも沈まず、文明が要求する能力の更新という一点で全体を見る必要があって、やはりそこにあるのはジェンダー論ではなく文明適応論なのかなと思うし、現代において立場を失うのは性別のせいではなく意味を更新できなかったせいであり、男性が先にここに陥ったように見えて、今後は性別を問わなくなる。
そしてその能力や現代社会性を、文学はどう可視化しうるのか。
この辺りで、なぜ私がなぜずっと文学に立脚しているのか、が偶然ではなかった可能性に気付く。法や制度は遅すぎるし、学問は抽象化しすぎる、SNSは分断を加速させ、文学だけが、迷い・不確実性・失敗を抱えたままそれでも意味を提出できる。
現象を論じる側は、何が流行っていて・なぜ評価されていて・誰が不遇で優遇かを説明することが可能だが、設計する側は、その流れがどこで行き止まり・次に必要になる能力や役割は何で・どんな語りが欠落しているか、を見ることが可能であり、その視点は「多様性→限界→統合不能の兆候→次の要請」まで把握出来る観測者的視点を超えていく。
現代において、多様性を否定すると攻撃され、権威を肯定すると時代遅れになり、統合を語ると支配と誤解されるため、どの陣営にも完全には属せないこの孤立を引き受けられる立場が極端に少ない。多様性を理解し、権威の崩壊を肯定し、それでも全体性を手放さずに、この三点を同時に保持することは、例えば文学や批評性には可能な可能性があり、権威なき場所で語れる/多数の声を等距離で扱えて/相対主義に逃げないままで、それでも判断し、賭け、失敗の責任を引き受けることは、作家/出版(編集者)/読者(批評家)=書き手・売り手・読み手のいずれにも要求されるが、全てを同時に満たす人間は稀だが、やはりここだし、私が感じこだわり続けてきた理由で部分なのかなと。
>法や制度は遅すぎるし、学問は抽象化しすぎ、
SNSは分断を加速させる
文学だけが、迷い・不確実性・失敗を抱えたまま
それでも意味を提出できる
21世紀の文学は何によって更新されるか
文学史的には、デビューの鮮烈さ(=才能の登場)ではなく10年・20年後に変わっているかが重視されるべきという視座は恐らく採用されないし、才能は火種にすぎず、作家を存続させるのは変容への意志と必要である、とする論旨は俗物的だとの認識はあるが、作家が才能と素養だけであり、作風のみが文学的出現を示し、そこからの成長や技術的洗練や作品の完成度が何の価値もないとは、やはり思えない。デビュー神話や偶像的消費を誘発しやすく、出現した才能や作風の高価値や読者的楽しみは才能個性の成長性最高打点を論点にしていて、その二つはなかなか折り合わず、若い才能や遅咲きのそれの扱いの難しさも感じるし、多くの素養を業界や市場原理がどのように扱うのか、ということでは普遍的な問題にも感じる。
市場縮小・文芸の求心力低下の時代では、停滞する作家は歴史的に消えてゆくし、逆に村田沙耶香や金原ひとみのように、書き続けて変わり続ける者が未来の基層を作る。
文学は変化し続ける者のものだ、この視座はデビュー神話中心の日本的評価軸を転倒させる。文学において祝福されるべきは初期の衝撃より、むしろ鋭い持続と変容の能力であり、自らの傷・経験・語りを変質させていく自己変換エンジン的祈りこそが、作家性の核心である、と私は思う。
この各々の独自性は、作家性であり、著作列を貫く威力と力強さ、作家が自分が書く意味や意図を生活や人生に与える意味で、駆動に大きな重さを与える。
1」新しい出現(talent)
未踏の感性が登場し、言語を一度破壊し、地図を書き換える。
村田沙耶香の出現、朝吹真理子の美学、ピンチョンやパワーズ。
2」既存作家の成長・変容(evolution)
持ち場に安住せず、痛み・経験・思想を更新し、
作品の質量を変態させ続ける。金原ひとみの成熟フェーズ。
出現か成長以外に、文学が前に進む道はない。
文学史を動かすのは、新しい出現(才能)と既存作家の成長(変容)しかなく、現代文学が新しい文体と倫理を獲得するルートは、驚くほど少ないように思われる。
文学は変わり者の出現によって始まり、変わる者によってのみ前進する。この論は未来へ開かれていて、才能の有無とともに更新する意思があるか、テーマ物語の開示だけでなくテーマから別の物語を抽出できるか否か、その独自性と創作性の到達的発揮を問う。独自テーマや作風に安住せず、デビュー成功と商業に安住せずに、何を書いて死んでいけるのか、経験値・老い・生活・社会の変化を言語化できるか。
そう考えると21世紀日本文学の行方は、既存作家の停滞ではなく、誰が変容の回路を持ち続けるかにかかっていて、金原評価の核心は技巧ではなくこの変化を続ける構造にあることを教えてくれる。彼女の真価は出現時に売れたことではなく、そこに終わらずに変わりながら書き続けたことにあるし、基本的には作家とはデビュー神話に恵まれたことのことではなく、書き続けて死んでいけた者のことを言うと個人的には思う。ゆえに初期売れて失った綿矢でもなく、恵まれた才能を持ちながらも書き続けることを選ばずになしえなかった朝吹を尻目に、現代文芸や商業に居続けて、変え続ける可能性を所持している意味で、21世紀文学的である、と定義づけることが出来る。
才能の出現としての村田はその特異をどこまで伸ばすことが出来るのか、在学中に若手の天才としてではなく社会人経験を経てこそ彼女にしか書けない作風から始められた絲山作品の愛おしさも、ここは例えば宇佐見など今の若手にも十分関連するテーマテーマに思うし、今安住する作家も一作や明日から変えていける死ぬまでの希望の話にもなる。


個人的には、作家は最高打点が基本だし、それでこそ文学史を変えられると思うが、そのために必要なのは成長性や進展性であるし、それにしても日本人はデビュー作や受賞作の鮮烈さで語りがちな所がもう世界文学とは距離があるし、アカデミックな方向も更新を基本としがちだから「デビュー=才能=作風の出現」で語りがちだが、本質的には「著作列の成長具合×最高打点代表作性」で語られるべきであり、この点において文学以外にも日本文化にあるように感じるデビュー中心文化への批判と、個人的に好きで評価する「最高打点×成長曲線」という新しい評価軸の提示へ繋がるのかなと思うが。
デビュー神話の呪縛、文化的未成熟
日本の文芸界・読者・批評はしばしば、デビュー作は才能の証明であり出現、受賞は価値の確定になり、鮮烈な登場=文学的到達点のように扱う。しかしこれは作家を時間軸でなく瞬間で固定する評価体系であり、文学を歴史としてではなく出来事として消費する発想に近い。
世界文学史的には、ピンチョンもパワーズも最高作はデビューではなく中期~後期に生じた。才能で出現した個性や価値が、変容し続けることで経験と思想を燃焼し、尽くして書いた最高打点が歴史を変える域まで届く。才能や個性が作風や傾向の出現が大きいのは間違いないが、その個性が技術と完成度を伸ばしてものにする作品の価値に対して、日本はその成長や成熟に対する価値文化が甘い、ゆえに才能が実力者に伸びない。これは綿矢・朝吹にも分かり易く関連するし、それだけの承認欲求・文学的渇望がないこと、にも展開していける。
最高打点は才能ではなく成長曲線が生む
文学的インパクト =最高打点(代表作)×成長性(変容の軌跡)
デビューの鮮烈さ … 初速
代表作の完成度 … 打点
作品群の変化 … 加速装置
持続と成熟 … 長距離走の脚力
→こんなのは現代ビジネスにおいては明確だが
文学文芸はこの辺りが弱いから・欲望や駆動が足らない
日本の初速偏重、世界の著作列評価
文学研究・批評・受賞制度・市場いずれを見ても、
日本的評価 /世界的・学術的評価
デビュー作の鮮烈さ/生涯の曲線・変容
才能の証明 /思想の深化・主題の拡張
作品1~2冊で語る /著作列で語る
スタイルの固定を喜ぶ/スタイルの更新を評価
日本で代表作の遅咲きが語られにくいのは構造的な問題でもあり、現代文芸は出現によって始まるが、作家は才能ではなく変容し続ける意思によって未来へ残る。だからこそ、綿矢・朝吹に続作への渇望が薄いなら停滞し、村田・金原のように書き続け変わり続ける者に未来が宿る、という判断は合理的で、批評的にも生産的視座になる。
「鮮烈な登場=文学的到達点」のように扱うことは、作家を瞬間で固定する評価体系であり、生涯的時系列で扱う長期的価値を度外視し、文学を歴史的文脈としてではなく瞬間的に現代商業として消費する発想に近い。これは市場原理を至上に置いてしまっている現代において、文芸文学が立ち向かうべき消費体質であるし、すべての文化や学術が陥っている現代的なジレンマ。
読者や批評家が作家を才能でしか見ておらず、継続や更新で見る視点が弱く、短期的に若年性偶像で消費しがちなリテラシーや文化水準が問題である。読者や批評側のシステム的な問題と、その回路に乗った書き手の心情や文化が成果や成功性の基礎を作ってしまうという流れは、有害な価値観の培養であるし、海外においても一般読者もそのようだとは思わないが、少なくとも世界的な作家がデビュー作以降に変わり続け書き続け、その力強さが才能や感性を伸ばし続けて代表作まで書き上げる強さに転じる。
これは作家単独の問題ではなく、受容環境としての読者・批評側の構造的欠陥であり、やはりここに書き手・売り手・読み手のリテラシーが現代文芸文学における先決主題であることに踏み込み、さらに日本独自文化としての若年消費型=成長型が育ちにくいかを論理化することが可能になるのではないかと思う。
消費される才能と、育たない作家の構造は、日本における才能の消費と、成長を待たずに評価を固定してしまう傾向、あるいはそれを利用した商業における短期活用が推察され、これは作家側だけではなく受け手(読者・批評・市場)の制度的問題でもある。
才能デビューが商業利用や安住展開に移行しやすく、変わる余地を奪う。読み手と売り手となる批評・メディアもデビュー作中心の神話の再生を行い、読み手も才能=個性を若さや偶像性という瞬間的価値で作家を消費し、それらは書き手の変わる余地や成長の可能性を奪う。変容を試みて挑戦すれば失敗の可能性に付随して従来希望の安住を求められもし、結果として進化より停滞を選ぶ作家が増える構造が見つかる。
才能賭博に賭けて瞬間を消費し、成熟の道を用意しない事は日本の文学文化の根本的な弱さだし、未成熟なまま停滞する根本的要因と仮説することが可能。これは文芸だけでなく、多くの偶像や若年利用に関連し、芸能や起業家においても、最年少や若年成功をもてはやす日本の文化は、基本的に成熟や老練を良しとしない風がある。これはある意味で、中年男性的旧態構造を作った体制側の風潮と、一般消費的にも新鮮と未成熟を好み、才能や価値に驚き応援したい国民性にも関連するようにも思う。
世界文学においてはデビューは始まりであり、最高作は通常は後に来る。ピンチョンも、パワーズも、フォークナーも、ドストエフスキーでさえ、代表作は人生の後半で書かれ、時間と習作と失敗が燃料になり、経験が厚みを生み、言語が深まり社会との摩擦が思想を育て、作品ごとの到達点が次の挑戦を呼ぶようにして、変わり続けることが評価の前提になっている。
才能や個性ではなく、持続する知性と内圧が文学史を押し進める。世界では作家は生涯の曲線で測られるのに対し、国内では一発の衝撃で消費される、この差が文化の寿命を決める。
読者リテラシーの問題としてのデビュー偏重主義と、それを商業利用して素材を消費して再生産性を求める売り手の編集倫理も手伝って、国内文芸読者あるいは大衆文化における批評は変容を読み取る力を失っている。だから作家は変わらず、文学は更新されない。
文学は瞬間の才能ではなく、生涯という時間の変容によって作られる。最高打点は書き続けた者に訪れるし、読者が変容・進化を求める文化や読める批評性がなければ文学史は動かない。ここで論じられるのは単なる作家論ではなく、日本文学の受容構造への批判だとか、作家成長モデルの再評価や文学史観のアップデートになるのかなと思う。
デビュー神話・受賞歴や最年少などの華々しさは制度や既存評価体制よる拍付けであり、時代即応であって、それをなくして作家は書くことも読まれる機会も与えられず、制度や既存の読み手に評価されていないものを読むことも難しくなる、評価体系づけられた。
在学中のデビューや最年少受賞の華々しさは、時代とともに更新する目玉商品であるし、若き才能や天才の到来は時代の変化として希望を感じさせてくれる。古くは石原慎太郎や村上龍も在学中に新人賞受賞してデビューし、綿矢金原は言わずもがな、朝井リョウも在学中に新人賞、直木賞を最年少受賞。
たとえばこれを起業家モデルで見てみても、『起業中毒』で触れたように、才能あふれる若き起業家は大学在学中の起業が命題で、才能や才気があれば若年登場して当然的なハードルが存在していて、若年成功が出来るか出来ないかで大きな岐路が存在している感がある。

人はドーパミンで動き始め、意味・信念・物語で生き残る。というタイトルでかの記事を扱ったけれど、作家のエネルギーや突破力は何から生まれ、その作用やパワーはどこから生まれ、どう持続し、向上していくのか、という点で、人間の機動力として作家も起業家も相異はないとは思う。
>起業家は、才能ではなく自己調律(セルフ・レギュレーション)で生き残る。
ドーパミンによる高揚感を追い続ける快楽志向ではなく、外的要素に晒されながらも内的落差を管理し、価値と一致した行動を続け、才能で走り出し自己調律で生き残る。
>科学的なドーパミンの暴走を説明するが、終盤では、人は意味で動き、信念体系で持ちこたえ、価値観で回復し、物語で自分を正当化する、という事実に向き合い始める
>人はドーパミンで動き始め、意味・信念・物語で生きり、起業家が倒れるのはドーパミンの暴走ではなく、内的物語の崩壊である
>人間は何によって動き続けるのか、という永続テーマ
>「科学→心理→文化→倫理」という縦方向の階層を可視化が出来るのならば
~発端の科学から最後の倫理までは途方もない距離
>精神の再生可能エネルギーとしての
>より健全な起業エコシステムを構築するために何が出来るだろうか?
読み返してもいろいろと現在とリンクする文章が散見されるのは、個人内的と人類活動、それらの連続や、それを促す個人-人類-歴史、の連続性や構築性に私が興味があるからだし、主題である事。人を駆動するもの、内的な動きや発露した結果の躍動、それら個人の発揮や出現を心待ちにし、そのサイクルを享受する他者や社会を繰り返して、人類文明は維持成長していく。そのために個人は内的=人間性から始まる世界で何が出来るのか、個人であり他者であり世界を形作る、その動力や批評性はどのように生まれ、続き、進み続けるのか。この部分に文学や認知科学などが関連するはず、というところが改めて思われ、その主題は普遍性を持つため文芸作家も起業経済も違わない、というところで今回リンクしつつ、その個人が効果的に駆動し、社会が個人や他者をどう効果的に受け入れていくのか、という部分が焦点であり、そこでは起業エコシステムの構築≠批評エコシステム(三方リテラシー)と関連して個人的には観測しているのだなと、読み返して感じた。
この作家はどういう人だから素晴らしい、というお墨付きを制度は与えて、有史以来は書き手と著作列の進展だしその強さでしかないのだが、作品と作家を前にすれば制度と体系化などで売り手がしてあげられることは限られている。それが書き手と読み手の物語や判断や知見の広さにかかわること、体制や賞制度が機能する必要性、商業原理とその成功、文学性との違いなど、多くがここで交差するし、それは3種のリテラシーの焦点。芥川賞企画他今後扱う企画の多くの明確評価を授けられる立場、倫理や正義の照明的な立場、だから責任と信頼が必要になり、自分の言説も信頼や発信が必要で、賞や制度を読み直し、体系を作り直し、言説を問い続ける姿勢の継続や向上性も必要。
現代性と社会接続、文学的密度や更新、その両方を求め続ける、という読み方の全体が、ここでやっと可能になる。
出現か成長でしか文学史は変わらないし、そんな日本文学や文芸市場やその文化は衰退するだけであり、誰が変えるのかといえば新しい才能の出現か既存作家の成長頑張りしかない。
作家性とは初期の光芒ではなく、持続と変容を推進する内圧であるという定義は、単に金原ひとみ論としても、現代文学論としても射程が広く、「才能=出現」と「著作列=成長」による文学史の更新という仮説につなげる。社会的に満たされている者が書く必要性(朝吹・又吉)、社会的に満たされた後も書く必要性(綿矢・成功作家)、さらに求めて書き続ける作家性(才能実力ではなく姿勢・朝井金原)これらは、資本主義・社会性ヒエラルキーにおける現代的なテーマだし、その構築は現代的ダイナミズムの真骨頂(仕事術的・作家論的な)であるし、衣食住・社会認知など、生きていける世界で、それでも書き続ける・求め続ける意思が作家には不可欠。
金原はデビュー期の「傷・破綻・若さの危うさ」に依存せず、痛みを素材化することから、その再生産ではなく変容の装置にする方向へ移行した。ここで重要なのは、デビュー時におけるジェンダー革命としての傷や衝撃性(=独自性)の開示は誰でもできることと踏まえたうえで、そこから成熟して別の文体やテーマへ転写するのは異なる誠意が必要だが、この差分こそ、作家が長期に持続するか、初期の衝撃を摩耗し消費されるかの分岐点になるのかなと。
デビュー時に社会から消費された若さ(の傷)を再利用せず、人生展開とともに変化しながら書き続けることを選び、傷を見せびらかす作風から成熟の物語に転じていく。綿矢・朝吹・中村・平野が初期の規定性を脱しきれなかったのに対し、金原・朝井は作品によって自分を更新し続けた。繰り返しではなく変身を選んだ点こそが、彼女らの作家性の真骨頂であるように思うし、これは21世紀文学に必要な態度そのものでもあるとすら思う。変容を続けることこそ文学のダイナミズムであるし、現代性を嗅ぎ分けてモチーフに選ぶことは現代社会性であるし、それは同時に商業性を保持する。
現代接続を必要される現代小説
=21世紀のダイナミズム
私は文芸文学・虚構性主題性を愛するけど、同時に、商業的達成/現代接続/人類社会性、も同様に愛していて、どちらかだけでもダメだし、どちらもを達成するのが文学、というところが完全体なのかも。だからこそ、商業性と現代接続だけの文芸には文学性不足、文芸形式だけで主題や商業性が無かったりすると無価値、と感じてしまう。
特に日本の国内文芸と文学は、形式制度であったはずの芥川賞が弱者男性性からジェンダー台頭に押され、社会的意義を持つも、一般化を求めて弱体化し、中間小説化をもくろむも商業化へ走るだけで信頼を失い、社会性・商業性・現代性だけを求めても文芸文学性は痩せていく、その現代文学の難しさに陥るが、中心記号的要素は残るのだから、社会や文化的に価値化することは必要なこと、という総合値であり、そのためには売り手・読み手・書き手のリテラシーが必要で、現代社会性や接続は素晴らしいく、モチーフ選定も戦略性も評価する、でも恐らくそういう作品は実際読む文学性はそれほどでもないから直接読む必要はそれほどないだろうこと、この言語化がたとえば正当に映る必要性、など。
>市場原理や大衆心理に立ち向かえば必然的に文学性からは遠ざかり、社会性モチーフは文学的強度の代替にはならなず、他者の希望や接続に乗り易いための設計ありきで評価軸が異なるもののために対応した結果、文学的密度を請えない。
芥川賞という制度側が社会性を扱えば文学的だという誤解を拡張してしまったことで、社会性や現代性を扱っているから評価され、商業的達成や大衆掌握の正義、という構造そのものを疑う必要があって、これは制度と構造批評として売り手・書き手・読み手の現代リテラシーに繋がるし、今の文芸批評が本来やるべき水準であり、その区別と両得を求めて狙い続ける必要性が文学と文芸に、文化と商業において、どちらもある。

著作列を見る限りに、ここで朝井は明確に路線を変える。若者の代弁として共感の語りを行う立場から、社会的正義や理念の提示を行うフェーズへと展開し、性・欲望・身体など、やや下世話に見える題材を扱いつつ、それでも嫌悪されない好感度を維持する、ある意味で商業的・芸術的・社会的・個人的、など様々なバランス感覚を発揮していく感じがする。
即時理解を通過しない現代文学は、そもそも存在しない
そして重要な点は、語りが極めて男性的な倫理であること。
~弱者男性文学①や男性不在文学①などで触れたように、旧態化した男性文芸における内的な吐露はそのままでは受け入れづらくなっていることが日本における純文学性や男性作家の内的な語りの正統性を奪っている感が、文学やジェンダー的にみると起こっている、という前提に呼応するような形で見事に男性文芸として機能している感が朝井にはある。つまりこれには、男性不在①の社会性で触れたように、歴史や現代認識と倫理感による理性的な認識を元にしか位置取れない視点の獲得が済んでいるだろうことであり、それは一世代前の男性性や作家性的には達成されていないであろうことの社会的な価値が潜んでいて、この辺りの倫理性やバランス感覚が著者はものすごく優れているように感じる。
弱者を理解しつつ自認しながら語りを寄せる男性側の視線は現代感覚と倫理観であり、自己憐憫も内的吐露を行ったうえでそれでも現代や社会性に接続している感があることに注目。金原ひとみがやった女性側から男性中心社会を破壊するジェンダー反転とは方向が逆のように思える点が重要で、金原が怒り・身体・破壊など情動的な要素が極めて芸術的な退廃性を持ったと良好にとらえるなら、控えめに見ても朝井の憐憫・調停・説明などの理性的な創作の手法の差は決定的であり、旧態の純文学性や男性文学性とは距離があることが分かる。
芥川賞企画で朝井リョウが突如飛び出してきて自分でも驚いたのだけど、その文脈は、現代小説による社会・市場的接続と、男性文学としての反転や沈黙打は、の2つの流れがある。
これは世代的に、女性ジェンダー文学の台頭と男性不在に対するカウンタ―であるし、普遍的・理性的な社会性男性の構築。実際に読んでみての文学性とは異なることは注意が必要だけど、社会文脈的に読まれるべき価値は内包しているであろうこと。
現代文学が失いやすい信義と文明の憧憬
例えば、作家や作品のスケール感は、どれだけ大きなテーマやモチーフを扱ったかではなく、どこに立脚して世界を見ているかから生まれると仮定する。
現代性への鋭い感度・その下品さ・野心・流通させたい執念・生存本能、これらはすべて推進力にはなるが、スケールそのものにはならない。なぜならそれらは、「この時代の中で、どこに位置取るか」という相対座標であり、それは時代が変われば自動的に縮む。
作家や作品のスケール感を決定づけるのは、問いがどこに向いているかであり、「小さく見える問い・この社会でどう生きてるか・なぜ評価されないのか・なぜ傷つくのか・なぜ生きづらいのか」などの問いは切実ではあるものの時代依存であり、相対的に「大きくなる問い/なぜ世界はこう見えてしまうのか/なぜ人は意味を求めてしまうのか/なぜ言葉は現実に追いつかないのか/なぜ他者は決して理解できないのか」これらは時代以前の問い。
金原・朝井の問いは前者に強く、現代に求められやすいが、普遍性を求める者が惹かれる作家は後者に振れている。現代的・社会的であることが、普遍的・文学的であることと距離を持つ。ここは本質的には相反する要素ではないが、合致したところに創造を成すことの難度は高い。
現代適応型の作家は社会/制度/メディア/言説/評価を前提に世界を見る。
人類スケールを持つ作家は社会が成立する以前の感覚/人が世界をどう知覚してしまうか/意味が生まれる前の不安定さ、から書き始める。だから後者は、時代を描いていなくても結果的に時代を照射してしまう。前者は、時代を正確に描いても時代が終わると同時に古びる。
金原・朝井は、説明しやすく、共有しやすく、理解可能難易度が優しい方向に最大限努力している。一方スケールを持つ作家は、自分でも分からない・なぜこう見えるのか説明できない・読者にも判断を委ねない、という説明不能性を抱え込む。スケールは説明不能性を引き受けた量で決まる、とも言い変えられるかもしれず、それは現代における流通性と必ずしも反比例するとは言えないが、比例させるために払うコストをどちらが担うのかという問題が発生しもする。
読解コスト・認知共感コストとかに近く、ファストフードは流通しやすいけどグルメとは違うように、社会性・時代性があるものはキャッチ―でコストが低いが、説明可能な文学は、世界を理解させ認識を整理するが、説明不能な文学は認識世界の見え方そのものを微妙にズラす。読後に、意見が変わるのではなく視界が変わる、これが世界認識の更新であり、本質的には文学が個人内的や人類文明で担ってきた文脈で憧憬。
スケール感は才能でも野心でも社会性でもなく、自分の認識が世界とズレていることを社会や時代のせいにしなかった量から生まれるのかもしれず、その表現主体性が独自性として原動力を持った時に、その異物感が世界に投げ出された適応が済むと、受け入れた世界は少し変哲を持っている。世界が悪いのでも、社会が歪んでいるのでも、時代が間違っているのでもなく、それでも、なぜ自分はこう見えてしまうのか、なぜ自分にはそれだけが必要で美しく見えてしまうのか、この問いを、逃げずに、説明せずに書き続けた作家だけがスケールを持し、それは起業家でも芸術家でも普遍のものかもしれない。
現代を突き破る作家とは、現代を書かない作家ではなく、現代を書くための理由にしなかった作家だだし、生き残りの巧みさや現代性の調律や社会性の正しさだけでは、証明できず、満足できない、文学が本来持っていた無理・過剰・説明不能さへの信義の問題でもあるように思う。
生き残りの巧みさ、現代性の調律、社会性の正しさ、これらはすべて、世界を壊さずに書く技術であり、読者を怒らせず誤解されずに炎上せずに評価され継続することが出来る、これは現代においては高度な技能であり、実際、多くの作家はそこに辿り着けない。その上で、それでもそれらがすべて世界をそのまま前提にしており、何が適応すべきなのかという目的が表現には必要であり、表現技術は主題があってこそ価値を持ち、何をどのように書くのかで生まれる価値は、例えば強くなければ生きていけないし、優しくなければ生きている意味がない的な、レイモンド・チャンドラーの「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。if I wasn’t hard,I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive」を思い出すし、
現代文学に、生き残る力はあるか?その上で生き残る価値があるか?
現代で読まれるためにはどうすればいいのかの次には、読まれて売れる価値があるか?と、読まれるべき価値とは何か、文学性とは何で、どこへ行ってしまったのか、そしてどこへ行くのか?
文学は本来、世界は一貫してないし、意味は破綻していて、言葉は追いつかないし、理解は失敗するという事実を、修復せずに差し出す装置のはずだったが、今は、世界に受け入れられる理解度と遡及で急速に注意を集め共感されるための分かり易い言語であることが求められているし、そうなければ生きていくことが出来ず、生まれ始めることも費える。
現代文学は、誤解されないように読まれるように社会的に安全であるように書かれる。その結果、読者に委ねるはずだった不安や判断不能な違和感などはあらかじめ処理されるような時代の要請にこたえていく。文学が世界の不可解さに対してどこまで誠実でいようとしたか、作家が独自の憧憬に対してどこまで正直で居ようとしたか、現代や世界に即するために書くことは悪なのかと、その倫理の問題ではある。分からないものを分からないまま出すか、不快なものを不快なまま残すか、意味が壊れる瞬間を回避しないか、この選択に対する姿勢が表現や文学への信義に関係するし、それらは、技術不足や思考停止の曖昧さではなく、むしろ、世界やそこに生きる個人が本来そうであることへの忠実さであり、世界は分かりきらず整理できないしどこか過剰でありどこか破綻している、文学や表現がそれを滑らかにしてしまった瞬間それは別のメディアになるが、現代文学は常にそれを求め続けられるからこそ、おそらくどの時代も、どのように書き、読まれるのか、ということが、常にさらに困窮していくのではないかと思う。
自分の食い扶持と他者貢献は異なるが
人はだれしも安住しないし戦いたくはない、生きることはつらい
文芸と文学の違いの前に、文芸として、文化と商業での成功や実力、が立ちはだかる。個人的には文明人類・文学の側が本質だが、こちら側の方が現実的・現代接続であり、虚構創作・現代商業接続、を重視する私にも両輪で主眼。そしてこの接続は、現代における文学と存続に繋がるため、無視してはいけないし合理的に批評性の成果も含む。
作家一人の実力才能だけでも無理かもしれないし、売りて・読み手の問題も含みつつ、映像化・そのほかの虚構創作商業との関連でもあり、文化・商業の両輪の難しさ。
あえて挑戦も達成もせずしても生活が成立する形、文庫化や講演に大学や講座で食い扶持が保たれ、強く批判されることのない批評圏自体の縮小により内輪で回り、狭い業界の中で比較対象も消え、更新的な作品が可視化されにくく、書き手や売り手に危機感が生まれづらい。
今の構造では、打開しなくても生き残れる上に、冒険すると損をし、更新すると孤立する、ゆえに意志が発生しない。これは才能の問題ではなく設計の問題だし、文学性と姿勢に基づきながら市場原理に晒され続ける現代作家の宿命であると考えれば、必然的に更新的志向は選ばれない。
打開はどれも痛みを伴う
・強い外圧(海外文学との本気の比較)→狭い鎖国からの開国
・新しい評価軸(思想・倫理・構造で測る批評)
・読者側の変化(「分かった気になる」消費の拒否)
・書き手側の自爆覚悟(売れなくなる前提での冒険)
例えば中村文則と平野啓一郎という現代国内男性作家のそれなりの2人を並べてみても停滞や調停に収まっており、更新には程遠く、それを成す気概もなければ必要性も感じていない、文学者であるのに文学で何かを成す気はない、この見立ては現在の日本文学の制度・市場・倫理の三層を同時に捉えていて、理性的にも批評的にも妥当、その上で、なぜ更新していない中村文則が成立し続けるのか、なぜ平野啓一郎も停滞・調停に留まるのかを考える必要があるが、ここでの本題は、そのように安住数作家は、自分の食い扶持は稼げるが文学を更新し業界を牽引するのかという力不足に関するし、文芸で食べていけることと一般社会に接続し現代文学として機能することは階層が違うことの認識が必要。
20年先も芥川賞は機能するのか?
試される私たちのリテラシーと倫理
例えば作家の著作列からその作家の核心理解や評価総統へ繋がる読書が可能になる作品を抽出するには構造把握の必要があり、その抽出には読む前の読書的嗅覚や読みながらの読解が必要であり、そこまでたどり着くことがすでにコストが高い。例えば私は「直木賞はその作家のつまらない作品にあげるのか?」という直木賞企画の主題タイトルからも分かるように、そして多くの読者がそうであるように、面白い読書をしたい人は現代にいても、ハズレは引きたくないし、つまらない作品を読む時間は惜しいし、その作家の評価や醍醐味に関わらない作品を読む時間はないし、無駄だと感じるのは現代において仕方がないことであるし、1冊の読解以上に1冊の選本に多大なコストを払う結果が失敗なら絶望的だ、という事実と向き合う必要がある。
この辺りは、10代の私の絶望や、読書ブログを開設してから落胆して映画に逃げた経緯のように、私自身も人生や読書生活に置いて実感するものであり、最適化された選本や指標として文学賞が機能すべき必要性、売り手・書き手・読み手(=制度・作家・批評家~読者)の倫理と批評性に直結する部分。



例えば私は芥川賞企画を通じて絲山秋子を10代ぶりに再読し、芥川賞受賞作「沖で待つ」と姉妹編のような作品「勤労感謝の日」を所収する『沖で待つ』、デビュー作である『イッツ・オンリー・トーク』『御社のチャラ男』『ニート』などを読んで、この著者の持ち味や魅力はここだ、と思い至って2記事書いたが、著作列からの作品抽出+1作からの要点抽出、等にはどう考えても多くの批評性やコストがかかっていて、例えばその4作を読んで、著者の重要な4点(距離/関係線/脱接続/階層構造)を選び取ってみたが、それらは超個人的な読解が導いた結果であり、まったく的外れな選本もあり得るし、全く見当違いな読解である可能性もあり、その結果著者の要点や核心を誤って認識し評価する可能性は十分にあったし、現状もまたあり得ていて、一般の読書や読者にとっての難易度、そして勉強や仕事をしながら趣味で行う場合のそれは、とてつもない労力を抱えたうえで、収穫があるかどうかも定かではなく約束されない。
現代において必要なのは散乱情報から要点や構造を抽出する能力であり、現代人は普段から社会・経済・文化・思想・SNSの散乱情報を統合する必要が強く、文学文芸におけるこの傾向も理解に働く。情報量の多寡ではなく断片の意味的重心を見抜くことが必要で、例えば今回のように芥川賞を中心に日本文学を読むというテーマの中では、普段は海外文学を主に読んでいても国内文芸の歴史的節点は拾い上げる必要があるし、興味関心の範囲内外から拾いあげる際には認知的構造化能力などが必要になるなと感じたし、運もある。
すべてのジャンル・テーマ・業界に言えることだが、内部の方が精通し深遠ではあるものの、外側から構造を見抜ける人が触発や革新や新規として価値のある論を持つ可能性は一端にあり、多くの場合は1ジャンル・業界の狭さ以上に市場・思想・社会の動態を見る能力を持つ事が必要になる。この場合に文芸文学を私語りや内部語りではなく、社会装置として批評する直感的感知ないし素直な読書としての受け取りは、読書量・思考の癖・社会洞察・言語感覚などの積み上げから出来ていくのかなとは思うが、文壇や商業出版の表現をそのまま信じて受け取って落胆や失望に繋がるくらいなら、それが時代の意味と同期しているかどうかを無意識に判別していけばいい話なのだ、ということにも気づく。
例えば今回、文学史的にはたった20年ではあるが、2000年代~2020年代の日本文学を語るうえで拾い上げた十数人で、できれば中核や文脈的価値のある作家を直感で選ぶためには、長らく読書すらしていなかった外側から正しい節点を見抜く視点が必要になり、これは楽しく読む・価値を書く側・批評する側の人間に必要な作業であると同時に、外にいる人間にも響いてきた情報しか一般化・社会に接続できているとは言えないし、接続如何とも別に本質の有る無しはやはりどうしても流れて感じさせる部分なのではないか、というところも感じる。
例えば私の思考には「表層の揺れ → 背後にある構造」を即座に結びつける癖があり、それは例えばSNSで感じる空気や書店の棚の組み方、文学賞の話題やネットの語り口の変化、体感する社会のストレス構造やジェンダー・主体性の揺れなどから「綿矢金原・絲山・多和田・川上が時代の焦点だ」と感じるのは勝手な思い込みであるとも言えるが、逆にそのように感じられない時点で個人的な私を見たときには社会的周知・認知的感覚の照準が狂っていると感じたり、業界・ジャンルが閉じていて一般に波及していない証拠だと感じたりもした。
多くの人は文壇の話題性や出版における商業的達成や共感性に引きずられるし、ニュース性や制度が果たす役割とはその通りであるべきだとも思うが、本質的な個人としてはそれを素通りして構造化された意味や文学的倫理をも拾っていく必要があり、それを個人各々に求めることは制度が遡及できることではないが、文壇・出版の宣伝を真に受けるのではなく、背後の時代的意義を持つ事実や作家を拾っていくことが現代リテラシーであることは間違いなくて、それは一人の作家・作品を楽しめるかどうかの普遍的個人としての読書の魅力や価値を左右すると同時に、読書ブログや読書を運用する上で中核を拾えないことの可能性と危険性が存在するわけだけど、ここの嗅覚や違和感などは自分も社会や他人も大事にしていくべき感覚、というのも今回改めて感じた。
今後さらに広がり早くなる時代の中で、だからこそさらに売り手・読み手・書き手のリテラシーと倫理観が求められ、何を感じとって何を求めて何を読んで何を書くのか、その本質的な経験のすべてにかかわってくる部分であり、個人内的の価値と基準判断にも関わる。現象の意味の重心を抽出し、別領域の情報を統合したり参照したりしながら、社会的感覚と文学的感覚を架橋し、文章を書いたり自身の論旨を明確にするときに、この構造を見る必要性は高いし、それが加速する現代におけるリテラシーや知性の最大の要所になるのかなと。
例えば、私やあなたがなんとなく選んだつもりの作家や一冊は、実際には語りの構造変動を作った節点=歴史の要石だったりするし、外側にいる人に見える構造と聞こえてくる評判から何を抽出していくのか、というのは結構大事なことなのかなと感じる。
この場合に大事なことは作品の良し悪しではなく、語りの構造の変動を見ることであり、読書は基本的には「面白い/つまらない・人物が好き/嫌い」といった主観で読むものだが、読書ブログをはじめて「この作家は好きではないけど・存在としては価値」「この作家は好きだけど・存在としての価値があるかは微妙」との区別が存在したりする。語りの主体がどのように変化したか、言語そのものにどのような構造的転位が起きたか、という視点は大事なもので、それは個人的な私の好感度とは異なり人類文明文脈的な価値であること、その感覚はどこかで持たなければならないことを強く感じた。
私は単純にピンチョンや村上春樹が嫌いだけど、価値はどこかには存在していて、だから無視できなかった、それに向き合って見えてくることは結構大きいし、理由が必ずある、というのも読書ブログをはじめ見えてきたことだし、1990年生まれの私が10代で過ごした2000年代の国内文芸において、女性作家は読めても男性作家に興味が持てなかった理由は、私がフェミニストだからとか女性偶像性が好きだからとかだけでは結論付けづらいとは感じていた。証拠に私は海外作品であれば男性作家の方が確実に好きで、海外作品であれば女性作家の評価の方が高い位置を見つけることは難しかった、その裏付けとして、2000年代の国内文学史の変動点に女性作家が集中していることは揺るぎない事実であることを芥川賞を読みながら感じた。その場面で国内男性作家の不在や更新不足も間違いなく、女性作家の台頭や評価定着には商業性や偶像性があったことも否定せず、その人気や話題性を制度や商業側が消費し活用したことも間違いないのだけど、純然たる理由としての構造変動が起きている場所の抽出や好感は察知としては大事なことだったなと。ゆえに私の読書傾向は嗜好の心配ではなく現行や歴史に対して正確に反応しているとみることも可能だし、こうした歴史認識や感覚は社会性・一般性であればあるほど重要で、その意味で私は2015年前後から読書から離れていたことが、むしろ外側から見て聞こえてきた情報をなんとなく感じるだけで判断・認知していた感覚の重要さを感じた、ということでもあるかもしれない。
問いの立て方の重要性としても、「どこに構造的転換があるのか?」「誰が歴史の節点なのか?」
「なぜ男性側には起きなかったのか?」など、文学史・思想史の問いは批評の根本の言語として扱う必要があり、その場合に理知感的には文学文芸を文化装置として見る必要が出てきて、ジェンダー・市場・主体の変動・言語実験・世界文学との同期らを統合して見ていく必要があるし、それらは必ずしも読書量ではなく統合認識と構造抽出の速度が必要になるのかなと。
これらの文学的直感は学術的でもあるのかもしれないし、一般社会的な構造においても正しい方向を向いている必要性があって、例えば私が好き勝手に読んで書いているこのブログも、正当性や体系性をいかに獲得できるのかという部分にも関連するし、その文章の領域が感想でも紹介でもなく思想と文学を接続する批評として機能するためには、どのような理性と知性が必要なのか、その精度の妥当性と獲得はどのように行われるのか、そして一般社会・一般読者にとっての文芸文学に対する理知感のそれもまたどのように培われるのか、というところにも非常に興味が出てきた。
そのように、散乱情報から構造を抽出するという能力が今後の自分の読書には必要になるし、体系的に読みながらも好き嫌いや評価文脈等の多軸のそこから拾い集める必要が最近感じる部分で、それらの思考は「散乱 → 意味重心 → 構造」へ直行する必要があるが、普通の読書は「散乱情報 →(好き嫌い)→ 感想」であったりするので、「散乱情報 → 中心的な意味を抽出 → 構造ごと把握」へ自己の好悪感情と評価構造の対立的思考モデルを察知して行う必要があって、そこが難しいのかなと。
作品単体ではなく作家単位や、それを超えた歴史的配置で理解する必要も出てくることにも注意が必要で、上で挙げたように今回私が核に感じた3名(綿矢・絲山・多和田等)は、個々の作品の良さではなく「語りの主体/言語の構造/文学史の連続性・断絶/社会的背景のシフト」観点で選び取られていて、この学術的妥当性とかは現在の私には論じづらいが、外側から見た時点でそのように展開している、という事実は重要なのかなと。これらには歴史的感度が必要だし、そののちに正当性を問う作業も必要になってくるが、それらは結果的に文学史・一般社会史によって数年や10数年後には明らかになっていくものであり、現行の制度や出版、そして書き手がどのような展開を見せようとも、10数年後にはその結果は純然になる、ということの灯でもあるし、それが現代性で理知感のダイナミズムであり、人類文明性であり、文学性だと改めて思う。
制度・学術・出版など、存在するが目に見えない要素について感じる部分も増えたが、現状の作家・読書の状態に対して、それらがどのような機能を果たしているのかも疑問すぎて、まだ読書を再開したばかりの私が感じたり考えていることなんてそうした専門性の中では当然や通過儀礼だとして、それでも衰退して目も当てられない文芸や文学の文化状況があるのはなぜなのか?
現状の日本文学や商業出版の衰退や元気のなさを作り出しているのはなぜなのか、と無意識に突き刺してしまった問いはきっと日本の文学界が20年以上抱えてきた核心であり、ここで抱いた違和感は、文学研究の現場・文芸編集・批評家コミュニティ・商業出版の内部にいる人自身も恐らく実感している危機感や疑問点であるはずで、それを問題の直視・責任そのものだと仮定しても、謎は深まるばかりだ。
従来の専門領域が育ててきた能力が時代の変動に追いついていないおらず、また学術性と一般社会性が異なり、その翻訳や架橋が常にどの時代もなぜ不足するのか? 日本の文芸界は長らく作品の細部・作家の内面・文体評価を中心に回ってきた感があり、現代社会・商業出版・大衆読書性と距離があるし、単純テクスト性へ閉塞していく感がある。ここでは外部視野が不足していることは明確で、例えば純文学的狭さに対しては世界文学の読解基準に近い、とすら思う。
文学研究者・作品解釈中心
・理論の輸入(デリダ、バトラー、語り論など)
・テクストの読解
→ 構造変動や市場・思想の接続などの広義は無節操?
文芸編集(出版社)・売れる本の制作
・作家の育成
・商業上の判断
→ 文学史・思想史の構造分析や発展寄与は役割外
批評家・個人の感性
・作品論中心
・市場・社会構造の理解は人による
→ 体系的な構造分析が得意な人が発信力として見えない
この3領域の空白で落ちているものは、語りの主体の移動、ジェンダーと文学構造の同期、市場・思想・言語の相互作用、海外文学との同期・非同期、歴史の節点を検出する感度などの広義であり、批評と編集と研究の全部を統合する領域で扱うべき内容だと思うが、現在はその中間領域を専門に担う職能が存在しないか、一般翻訳としての発信として見えないから状況が拾いづらい。ただ、統合的な構造読解は文芸文学が一般文化として回復し向上するには必要不可欠だと思うが、どの部門の専門性も専門性がゆえに関わる事が出来ない部分なのかなと感じた。儲からないし薄くなるし。
日本の文学界が元気を失った理由の一つは構造分析と批判的編集視点が欠けたからではないか、と仮説すると、文体論・個人評価・作家の内面・マーケ議論は別枠で世界文学との同期議論が弱く、育つものも育たないし、育てる意義もあいまいで、読者の信頼が重なるかといえばそれも難しい。
その結果、文学がどこへ行っているかという最重要の問いを誰も本気で扱わなくなったし、誰も自分や誰かの職能に問うことが憚られていく。私の問いは、その失われた中心をいきなり再建していく壮大なものになっていて、その広さや不確かさが、そのまま職能の難度を表すのかなと。認知の構造そのものが批評・思想・編集の仕様になっていく必要があり、さらにそれを翻訳して発信する部分の労力や貢献も必要になる途方も無さに繋がるのかなと。
日本文学界は体系的に扱う批評性やそのシステムを失ったまま20年を過ごしてきたし、それにより売り手・書き手・読み手、すべての不明確さを生み、現状を放置し続けることに繋がる。この洞察は、その失われた領域に完全に重なるし、言い換えれば今の日本文学には、そのタイプの構造分析が不足しているか不十分であり、統合や批評性とその翻訳と発信が不足していて、その場合にそれらは欠けていたものを補う存在になり得る可能性がある。
そこで必要な読解には、歴史的感度による全体俯瞰、主体的な問い立て、制度・主体・言語の抽象的読解を同時に行う必要があったりして、そうした視座を外側から持つ必要が生まれる。
日本文学界では重点が置かれたのは「文体論・作家の個人評価・内面描写の分析・マーケティング議論」などであり、構造的欠落として、語りの構造変動を体系的に分析する批評、市場・社会・思想・言語を統合した編集的視点、海外文学との同期・比較を通じた世界文学的視座等が不足していたのではないか、という考え方と、結果として文学・文芸文化がどこへ進んでいるかという根本問題が置き去りになった感、それがジャンル外に置き去りにされていく現実を生む。
例えば私が芥川賞を読み進める上で触れたような「語りの主体はどこで変位したか」「男性作家は何を更新し損ねたのか」「海外文学との同期は可能か」等の素朴な疑問が売り手・書き手・読み手の間に、仮に提起され同期して機能したのであれば、2026年現状の文芸文学文化の状態はこのようなものになったのか、という疑問と、仮にそれらのような問いと呼応があったのであれば、20年間空白だった批評領域を再建する事は可能なのではないかという視点により、以後を再構築して行くことも可能なのではないか?という点。
ここにおける批評エコシステムの再建とは、やはり売り手・書き手・読み手、すべての倫理とポジションを以て行われるものであって、本来なら文学研究者・作家・編集者・批評家が分担して機能しているはずの領域であると思うが、現在それらがどのような機能を果たしているかが不明確=一般社会的な機能を果たせていない現状が、統合的にあるのかなと、という疑念。
散乱情報から意味的重心を抽出し、歴史的節点を直感的に把握し、構造的変動を社会・文化・思想とリンクすることは、日本文学界が失った批評構造を部分的に復元する行為だと思うが、それらの洞察は、外側から2年間読み進めた上の最後の半年間の国内文芸の読みかじりからの感想なので、現実的な研究や出版社、勿論作者や文芸界隈の読者の方からすでば自明のことなのかもしれないし、ではなぜその自明が放置され落胆を生んで停滞し、あまつさえ安住してしまうのか、というところも問題になるのかなと思う。
作品単体ではなく著作列での評価、主体の変位・男性作家の更新不足・海外文学との同期といった問いの必要性と並走の意思、文学を単なる消費物としてではなく社会・制度・言語装置・主体変動の交差点で読む倫理、その志向性から生まれる文学性、あるいは虚構創作として商業性に乗せる認識による文芸性、などなど、絶対にいろいろ足りないのだけど、大人や職能が集まってのこの現状、というのがいまいちよくわからない。
例えば20年間空白だった批評領域、文学界が失っていた中心的視座の構築、文学史・社会構造・商業現象を俯瞰出来ずに到達出来るはずもなくて、それらの知性や職能は専門性としての研究者・批評家・編集者などの知的体質や操作ではないのか? 巨大な謎過ぎて非常に疑問。
確かに、専門領域の分断と局所化はあるだろうし分断もあるだろうとは思う。アカデミック性と商業性、文学性と大衆性の合致などが難しいのはどの業界でも同様だとは思うし、現代文学が晒されている状況も分かるつもりだが、どこにもその熱源や変化を感じられない部分が問題。
文学研究者
→ 作品解釈・理論・文体分析中心
→ 社会・市場・言語構造への関心は二次的
編集者・出版社
→ 売れる本の制作、作家の育成、マーケ重視
→ 文学史的節点や語り構造の分析は業務外
批評家・評論家
→ 個人評価・感性・作品論中心
→ 構造変動や社会との同期は、得意な人に偏る
構造分析・制度分析・歴史俯瞰・世界文学との同期を体系的に扱う職能が存在していないのではないか、という現状がまず第一の弱点。近代アメリカのポストモダンの時にも感じたが、学術の閉鎖性と保守性も重要な注目点で、基本的にはアカデミック界は専門分野が細分化されすぎて全体俯瞰が難しい上、研究評価・業績システムが論文数・引用数・文体分析に偏重し、世界文学との接続議論は翻訳・英語力・学会ネットワークに依存するし、批評の言語が限定的で社会的文脈や市場構造を統合できない事は明白。結果として、文学の進行方向や語りの構造変動を把握する能力が組織的に不足し、かつ社会性・現代性・商業性に結び付けて、どの分野でどのような成果と活路を果たすのか、の志向性は学術を超えた商業出版の限界であり、そこで主体になる出版社は利益・マーケティングを優先するために文学史的節点や語り構造の分析は二次的であり、話題性や売上等の表層の揺れに反応しやすく・それは作者も同様であり、それらが研究者・批評家と連携して長期的視点での文学の進化を追う体制がない為、結果として、文学の中心を追うための組織的な能力は育たず、常に失われる。
それらの文化的・社会的背景としても、日本の読者やメディアは話題や作家のキャラクター性と短期的評価に敏感であり、デビュー神話は楽しんで消費しても長期的な構造変化や制度的変化には関心が薄く、評価体系が売上や受賞ラベルに偏りやすい傾向があり、これも専門家や内部人材が本来やるべき構造分析を行わない理由の一部で、結果として文化も文学も成熟しない。
分断された専門領域、学術的評価体系の閉鎖性、商業出版の短期的視点、読者・メディアの話題偏重、これらが重なり、内部(売り手・書き手・読み手)の力だけでは文学の構造分析や批評エコシステムを維持できなくなっていて、その欠落を埋められるのがなんなのか不明なまま、内部の空白の大きさだけが分かるこの状態は、一個人や一団体や職能だけで解決出来るものでも、勿論作家単体で解決できるものでもなく、制度・文化・構造の欠落の結果であり、現実として言えば、外側からの新たな洞察が補われない場合、同質の空白が維持される可能性は高い。
ただし、これは絶対的な不可能という意味ではなく、内部だけで20年間で改善するのは非常に難しい条件であり、常に新たな可能性は外部または異端からしか生まれにくい、という基盤を考えるのであれば、むしろ外部刺激や一つの出現だけで変わる可能性があるという、という逆説にもなる。
散乱情報を統合して意味の重心を読み取る、国内外の文学潮流を俯瞰して国内部の構造変化を指摘する、社会・文化・市場・言語を統合的に分析する、等の視座は現状の内部にはほとんど存在せず、外側の観察者や異端者の参入によってのみ刺激の可能性がある構造、というのはその補正や刺激が行われなければ次の20年も構造分析的空白は継続する可能性が高いが、逆にそのような視座が批評として波及し、文化や感覚として普及するのであれば、批評エコシステムを生み出す契機になり得、文学や文芸の文化自体に変化を持つ可能性は十分にある。
その意味で、本屋大賞など商業の面からわかりやすく動くことを10年かけて継続してきて、色物や俗物から文化化してきた貢献度は高いし、業界全体で書店や作家を使っても10年かかった、という事実が重い。つまりやはり、この先の20年はどうなり、その先の20年はどうなるのか、といういことも思われるところ。
内部だけ
- 研究者・批評家・編集者の閉鎖的局所性が維持
- 文学は個人評価や話題性中心、構造・制度・歴史的俯瞰は欠落
- 20年間の空白が継続し、断片的な文学が蓄積されるのみ
外側介入あり
- 失われた批評エコシステムが一気に再構築される可能性
- 語りの主体変化、言語構造、社会文脈、
海外同期まで含めた体系的批評が可能
- 20年ぶりに文学の中心が復活し、内部の停滞を突破
・内部だけでは構造を観測する人間が不在
・外側から入ることで空白を埋め、全体を俯瞰する視座が提供
・結果として、停滞か復活かの二択レベルの差が生まれる
関与があるかどうかで、日本文学界の次の20年が断片的なまま終わるか、構造的再編が起きるかで大きく分かれる可能性はまだある
文化としての文学文芸を変えるとは、作家・読者・出版・批評の4層を連動させ構造を進化させる変容のための刺激であり、単に作家を増やす・読者を増やすだけでは不十分で、視座・構造・歴史・社会の理解が各層で共有されることが本質。この4層の構造的な接点と方向性をつなぐハブが空白の中核だと想定すると、外側からの刺激=批評エコシステムを補い、各層を連動させる触媒的存在である、と想定出来る。従来の「売り手・読み手・書き手」の3方向から具体的に「作家・読者・出版・批評」の4層を連動させる触媒が見えてくるし、直接全てを動かす必要ではなく、構造的方向性を提示することで自然に各層が変化し始める可能性が見えてくる。
作家層への影響
関与:語りの主体変化や言語構造の意識化を示す
海外文学や社会文脈との同期を示す
具体例:外側からの批評や論考で語りの可能性の提示
→文化展開の可能性や評価軸により、
既存の路線に安住せず、新しい表現を試す契機、
死活問題や欲望へ
読者層への影響
関与:話題性や表層的面白さではなく、
文学全体の構造・歴史・社会的背景を読む視座を提示
具体例:批評・解説・SNS発信で、
読者に体系的読解のフレームを提供する。
→読者の理解が変わることで、
作家や出版の活動にもフィードバックが生まれる
出版・編集層への影響
関与:作品構造や文学史的価値を企画に反映する視点を提供
短期消費ではなく長期的文学価値の観点の復活
→何が選ばれ読まれる市場が変われば、
編集・マーケティングにも変化が出る=文化
具体例:出版企画や書評記事で、
作品の歴史的節点・語りの革新性を明示
→編集者・出版社が内部判断だけに頼らず、
外部の視座を補助として活用。
批評・学術層への影響
関与:研究者・批評家が見落とす視点
(散乱情報の統合、歴史的節点の抽出)を提供
閉鎖的議論から社会的意義の解放へ
具体例:「男性作家は何を更新し損ねたのか」
「語りの主体はどこで変位したか」など、
欠落していた批評的問いを再建
■ 現実味のある条件と制約
・個人の影響力には限界がある
・外側からの視座は強力だが、
作家・出版社・批評家・読者の全員がそれに同調するわけではない
・意識や行動は分散しており、
影響は必ず選択的・断片的に作用する
・制度化には時間と協働が必要
・教育や出版、研究制度や読者意識に組み込まれるには、
長期的なプロジェクト・支持者・協力者の存在が不可欠
・20~30年というスパンで少しずつ成果が形になる
そして何よりも、文化・業界・ジャンルとしての意味や価値の再復活、、市場原理的な有効性や将来性、等が無ければ 誰も何も賭けはしないので、やはりそこ。
>文芸文学が社会的ステータスや経済的優位を約束しない
徐紀・参照
女性側は上位優秀が目指す職業や達成に文芸虚構も来るが、男性のそれはもはや現代には来ないから、そもそもが優秀や社会性がある個体が志す業界ではなくなってしまった構造上の問題が実は一番重要ではないかと思っていて、資本主義社会における文学性の価値と主題なのではないかなと。
向こう20年がどうなるかは、現代社会において文学がどんな価値になれるか、が直結する。知的階層が目指す分野・業界でなくてどうして知性や才能がその道を志すか、現代社会にとって文学が高価値でなくて誰がその業界に尽くし、始めるか、ここを変える意思や打開が必要不可欠。
10代の私が、何か読みたいけど何を読めばいいのかわからなかった時に池澤夏樹が手引きになったように、さらには、何がどのように面白く評価されているのかいないのか・その理由は何で、閉じたテクスト間がどのように関連し合い、単一作者の著作列の中から国・文学史の大きな文脈の中での関連や進展性、或いはそれを飛び越えて社会的な時事や現代的な文脈との中で、人類とともにどのように現代文学が常に変化・進展・並走してきたからこそどのような文化・文明・人類価値が憧憬として文芸文学は存在するのか、あるいは今後の虚構や言語がどのような存在になっていくのか・模索し打開するのか、というところまで広げることは可能なのか不可能なのかを志向していくことの可能性と不可能性までを思考する場として、他軸で非公式だからこそ対立軸や相対性としての価値すら生まれ、各々の読書観や価値観や時間軸があるからこそ、あなたと私の意見は違うけど・今回は同じだけど・この部分だけは同意出来るけど・大部分として共感しないけれど、一意見として私のそれもあなたのそれも一つの価値だよね、に落ち着くことが出来る地図や継続性が存在・表明・閲覧できることの価値と可能性まで、を求めてしまうのかなと。読書や内的個人の必要性価値普遍まで広げるテーマだし、そしてそれは同時にネット時代・継続性的個人時代であり時代であることにも関連しながら、少なくとも私にとっての読書がどのようなものなのか、半年かけて・既知の作者から読みたい方向へ読んできて書きたい方向で書いていって、やっと自分の読み方や価値の感じ方をとらえてきた、それだけでも個人的な価値にはなった。
**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
私も疲れたあなたも疲れた、も読書は必ず何かを残す

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