初期の金原はセンセーショナリズムであって本質的な文学的発明ではない、と10代の私は感じていたし、今の私は成長性を評価することと個々の作品の出来を擁護することはまったく別であると断言する。
綿矢が若さの頂点で静止し、朝吹が資本の中を突き抜けなかったのだとすれば、なぜ彼女たちは書き続ける必要がなかったのか? デビュー神話で満たされた綿矢、文化資本や出自で満たされた朝吹、他文脈での社会的成功がある又吉と、文筆を生業に他で満たされない渇望がある朝井金原。
今まではどちらかといえば、若年で処世や成功してしまったことによる社会経験の有無によって積みあがる作家性や主題性などが変化する方向で着目してきたが、書かなくても成立する人生に回収されていったように外側からは見えるような作家に、果たして他者や文学史はどのような価値を感じるのか? 2026年の今、現代作家の価値、現代文芸の価値、そして芥川賞とその受賞作家の価値と永続性とは?
こう見ると金原ひとみ主題は、消費されない痛みを物語へ変換し続ける営みであり、それは個人と物語や人類と文学としての祈りの本質に近い。
社会的に満たされている者が書く必要性(朝吹・又吉)、社会的に満たされた後も書く必要性(綿矢・成功作家)、求めて書き続ける作家性(才能実力ではなく現代に接続する姿勢・朝井金原)、これらは資本主義・社会性ヒエラルキーにおける現代的なテーマだし、その構築は現代的ダイナミズムの真骨頂であり普遍性。衣食住や社会的地位を獲得したあとの生きていける世界で、それでも書き続け、求め続ける意思が作家には不可欠ではあるが、どの時代のどの文明もその難度は高いからこそ真正は孤独につき本質。
芥川賞受賞は文化資本・家系背景・話題性のコンテクスト込みで成立し得るものであり、それ自体は作家性の証明ではないし、変容を続けることこそ文学のダイナミズムであり、現代性を嗅ぎ分けてモチーフに選ぶことは時代感覚の社会性につき、同時に商業性を保持する。書くために食べ、生存以上に何を求めて書いていくのか。デビュー作の野心と下心、戦略性がばっちりはまる文脈と爆発、それが生まれる背景としての家庭環境や幼少期の培養の仕方、デビュー神話と著作列から見る作家性。書いて伸びていく生命力は筆致に宿る。
**ご訪問ありがとうございます**
感想、リプ、引用、紹介、たくさん待ってます
デビュー神話は誰の責任?


2003年の綿矢・金原の若年女性の同時受賞は、自己の内面としての身体や感情を少女自身の声として初めて解放した語りの主体であったことは間違いないし、それらは観察される存在から自身が世界を観察し自身を語る存在へと少女を転換した事は間違いなくて、主体が語るという上で文芸にとっての価値で文学的達成であることにほかならず、語り手の権力の移動と少女性の解放を両得しているし、2人は文学がまだ誰かの言葉で語られていた時代を自分の身体で語り始めた時代へと変えた起点ではある。
ここで重要なのは、身体を通じてしか自己を語れないという感覚が、理性中心の文学観を揺るがしたことにも関連し、ここに少女の内外から性別普遍性としての文芸表現の移動も存在し、特に私小説性への回帰に感じる部分も混じるし、性別焦点の主題も加速する。これは後の川上未映子『乳と卵』、宇佐見りん『推し、燃ゆ』に直結していくが、いずれも言語では整理しきれない身体感情の揺れを文体で表現する文芸傾向のナラティブがあり、これは旧態的な純文学性とも相異なく、必然的な発展と発声であることは文脈的。
さらには、2003年の綿矢・金原の事件性とは若い女性の美しさと希少性をメディア資本として有効活用出来る成功体験である一方で、その利用が結果的に文学の語りを変えてしまった文化的経過であり、日本的ジェンダー資本主義の縮図だった。
ここには若年的才能を周囲が早期に消費する商業性や、単独作家の存在論的問題もはらんでいて、以下で触れるように、作家作品をそもそも偶像商品化し消費し安定供給をもくろむ売り手・書き手・読み手による現代社会の中で、本質的な文学性が生まれづらい背景も分かる。
少女ブランドが商業や文芸更新の一端であるが同時に下駄にも映り、若手才能の出現と爆発的成功が作家の才能や成長の停滞を生み、安住や量産ルートの創出に寄与したという見方も出来るし、津村や又吉など、芥川賞の一般化にも大きな影響力を持ったことからも、綿矢と金原の爆発は2000年代の芥川賞や日本文学における重大事件で発生源であることは疑う余地はないが、そのジェンダー文学の台頭や女性作家の増加、ないし男性作家の更新不足や活躍不足、芥川賞の一般化としての文学性の緩和や密度の低下、迎合による権威の失墜などの過程は問題を山積していくし、結果的に2000年以降の芥川賞が輩出した時代を代表する作家や作品がどれだけあるのか、2025年における国内文芸や日本文学の現状は成果であるか失敗であるか、はたまた道半ばの転機や道中であるのか、という現在文脈までつなげると、判断は結構難しい。
綿矢と金原は身体を象徴化せず、主体としての質感で主題として書いた。
『蹴りたい背中』では他人への嫌悪や憧れが身体的衝動として描かれ、『蛇にピアス』では身体改造が自己確立の手段として語られる。デビューからの最年少受賞歴と商業の爆発より一気に文芸の次世代寵児となった感のある綿矢の作品はリアルタイムで読んでいたが、金原ひとみの作品は触手が全く動かなくて、私は当時も読んでいないし、働いている時代の約十年間も読むことはなかったが、その後名前を聞かなくなった綿矢と違って、金原ひとみはその時々で名前を聞くことはあった。
そもそも、作家を才能のデビュー神話として早期に消費し、作家自身もその作風や成功に安住して成長や進展がないスタイルはいったい誰のせいなのか? この辺りは前々回の中村・平野にも関連するように思うし、綿矢と同様系譜にある文化資本が高い出自を持ちながらも伸びなかった朝吹真理子など、結果的に芥川賞が制度として売り出すも、その後日本文学を担う役者が育たなかった理由はどこにあるのか?
デビュー作では全く興味が持てなかった金原ではあるが、人生変化や時代変化に合わせたその時々で題材やテーマを変えていく意欲や書き続ける意思のようなものは感じていて、そこにはデビュー当時に感じた野心と同様の真骨頂と、現代性を読み取ってその都度戦略的に書いて付随する狡猾さも感じたし、それ以下の作家ばかりいる文芸畑では異質にも感じてきた。
金原を才能や技巧ではなく意志・必要・持続のモデルとして評価する視点をベースに論旨を展開すると、文学は変化し続ける者のものだし、変化する時代において変化する世代として変化する理知感を書き上げる作家性は、現代的だと仮定することが出来る。
ジェンダー革命、金原ひとみの場合
金原のデビュー作で芥川賞受賞作『蛇にピアス』は、当時の文壇で歓迎された若い女性の生の語りではあるけれど、綿矢りさの『蹴りたい背中』のような軽やかさや瑞々しさとは対照的に、自傷・破壊的性愛・ボディモディフィケーション・希死念慮的感覚・アイデンティティ欠損などの若さや青さに踏み込んでいる印象があり、もうこの主題やモチーフの並びを想定するだけで私が読みたいたぐいの作品でないことが明らかであること、つまり、読み手に精神の健康度・自己破壊性という非生産性に触れる興味・他者の虚無に対する共鳴性あるいは渇望が要求されるため、読み手の性格や人生観などが問われやすい作品であったのかなと思う。ある意味で、作品性が読者にゆだねる負荷が大きく、全年齢や全体的な理知感における普遍的作品や文学性とは言い難い。
綿矢が等身大の思春期の苦みを描いたとすれば、金原は若い精神と身体性の苦みを見せた。少女性の解放として普遍的な綿矢を更新の鍵として許容することが出来ても、痛みを慟哭することで衝撃性を書き上げる風な金原の作品を、私は文学性とそもそも認めづらい部分がまずある。
その上で以下のように、10代の私が読まずして金原の文学性や作風を不必要と断じたのことには、文芸や商業的な革命がジェンダー転換により起こったことは個人的には形式的な革新とは認めづらいこと、その衝撃が商業と結びつきやすいことを認めても文学性とはなんら関係がないこと、を10代のうちに決めつけていたことに関連する。
そして読書を再開して、読まず嫌いはだめだと思っても、綿矢は読んでも金原は読まずに芥川賞をここまで進めてきたが、どの文脈や主題であれば金原を読む気になれるのか?のフェーズがやっと来た。
異例の若さ+女性性による反転語り=センセーション→商業性≒文学性、という嫌悪
そもそも、私が金原のデビュー作に興味が持てなかったのは、その若者の暴力性や身体性の鮮烈といった慟哭的な作風は、例えば村上龍とか石原慎太郎的な、割と古典的なものを若い女性が鮮烈に書きましたよの下駄以上のものは感じられなかったから、が大きい。
男性不在①にて女性文学の台頭はジェンダー的優遇ではないが解放のためのバランス調整だ、としたが、ここではそれが下駄的に働いただけ、とするのも不均等だとは思う。ここでは文学的更新においてジェンダー性が下駄の役割を果たした前人未到性に対する商業的衝撃の側面で語っており、更新は更新だし革命は革命だが、やはりそこは本質的に文芸的な更新とは異なる、と私は感じる、という論旨を置きたい。

衝撃的な若い暴力性を書けば文学だ、という謎な趣向の純文学性を私が嫌いなことには注意が必要だが、どう考えてもそれは退廃性の芸術ではあっても理知感的な文学とは異なる、というスタンスが私にある限りに、もうこの辺りは仕方がないし、文学観の違いではあるが、ではそれを含めても、その作風や文学性において金原は更新したのではなく革新の主体になっただけであり、それは語り手のジェンダー転換につき実力や倫理ではないし、手法的な更新ではなく出現による勝負であったこと、それが暴力性や商業性を持つだけであるのに、読後的威力や商業的達成に繋がる軽薄性を私が嫌悪したこと、等にある。
暴力性・身体性・性の露悪的描写は文学史的には新しくないが、それを若い女性が書いたことがニュース性を持っただけであり、表現の強度そのものは旧来の系譜における密度に並ぶ期待はしなかった。 綿矢のそれは認められても、金原のそれは新しい表現ではなく新しい主体のふりをした異性による表現と主体に過ぎず、更新ではなく打開の範疇であり、異例の若さ+女性性による反転語り=センセーション→商業性へ結びついた戦略的狡猾さが目立ったことが、若い女性の消費に感じたことの嫌悪に繋がったのかなと。
『蛇にピアス』の評価の多くは、表現の新奇性ではなく主体の新奇性であり、先行系譜としては村上龍(退廃の美学、若者の死と性、肉体の痛覚)石原慎太郎(反社会性・自我の突撃・破滅願望)などがあり、金原の初期はこれらの痛みや破壊の文学性を継承しつつも、語り手のジェンダーが転換するだけで痛みの色調が変わるし、女性語りによるそれが商業的活用になる、という現象自体が文学史的事件になっただけであり、ここには少女の解放=新しい主体=最年少商業爆発、ともまた異なる力学が存在している。
読者を痛覚表現や身体性の話題性で引きつける装置として、2000年代に流行した若年層の文芸行為としての「ケータイ小説」なんかが思い出されて、あれも文学というより表現形式上の消費に近く、属性や作風としての金原は大きくこちら側に寄っていると個人的には捉えた。
「身体破壊=生の証明」的価値観は90~00年代の既視感ある定型であるし、それは前述の通りに身体や性的消費が退廃芸術的な趣でとらえられていて、文化的な行いであると認識されている前提を用いる普遍的な大衆性と、エンタメ娯楽的な要素の交錯する特異な点であることにも由来し、自傷・性・破滅性は刺激として消費されうるし、特に女性のそれは特筆すべき素材であることは明白。そこに金原やケータイ小説は文脈的に近く、これは女性が商業として機能しやすい偶像性として、過半数の同性の共感や興味を引き、もう過半数の異性からの性的趣向や関心なども引き付ける、商業的な有利性が働くことも手伝う。(商業利用・綿矢②を参照)
個人的には退廃性や心身の痛みを商品化する構造を嗅ぎとると興覚めするのは、文学性とは理知感の更新や進展であり希望的観測や人類憧憬性と重ねているところからくる趣向の違いではあるものの、それを全部含めて人間の営みや真骨頂であることは前提に置きつつ、若年才能の衝撃とケータイ小説の流行と美学が隣接していた事はゆるぎないだろうし、その市場原理主義や商業的な少女性の消費は、普遍的な文学的価値や文化貢献とは言えず、やはり消費だろうと類するしかなくなる。
傷や性別を売る作風を疑って読んでしまうのは、理知感ではなく身体や痛みを生産物にする市場の匂いは商業的であれ文学的に通じるとは思わないこと、この距離感は批評眼としてとても重要だし、書き手・売り手・読み手が戦略として活用することは構わないが、あらゆる退廃は基本的に気分や陶酔的な消費であり停滞を生み、それが手段ではなく目的だと錯覚してしまうことが問題なのかなと。
自傷行為やモラル破壊に類するカタルシスに価値を見出せない私のような構築性や倫理性の人間からすると、その身体性や心理的闇等の要素は、人生に必要が無さすぎるマイナスにつき、これらを私は理解できないが、文学には一定こういう要素がある。自己と向き合い味わい手放すうえで獲得する的なジャンルとしての退廃や耽美その為の文芸的行為が、結果的に文学性を帯びることはあるし、上記に触れたように、村上龍や石原慎太郎等純文学の系譜にそうしたジャンル系譜があるので一定以上の地位が確立されていることも揺るぎないだろうし、そこを反転させた金原も文脈的な継承者ということは可能。
ただ、そういう逃避性文学や、若者の暗さや新規性、理解できないものへの畏怖性を芸術性と棚上げするような、ある意味で寛容で理解ある大人な価値観で若さの暴走や青さを見る視点、それが若年文学だ、とみる向きは純文学だけでなくて色々あるだろうし、でも例えば私はサリンジャーとか米系のそうした若気の暗さや至りみたいなのも好きじゃないので、ジャンルの違いと一定以上は思う必要は感じる。これもイメージ先行、バルガス=リョサのデビュー作も青さや暴力性のジャンルだと括ることも可能なので、ここではモチーフやテーマよりも、結局は表現形式や文体の質や文学的強度の話であり、食わず嫌いせずに読んでから語れ、に落ち着く可能性はある。この点は以降でまた。

村上龍(1975・年武蔵野美術大学在学中『限りなく透明に近いブルー』芥川賞・100万部)
→ 退廃の美学、若者の死と性、肉体の痛覚
石原慎太郎(1956年・一橋大学在学中デビュー作『太陽の季節』芥川賞・太陽族を生む🌞)
→ 反社会性・自我の突撃・破滅願望
金原の初期は旧態的な痛みと破壊の文学を継承しつつも、語り手のジェンダーが転換することにより痛みの色調が変わる、ということを体現して見せたし、男性作家の暴力性の吐露が世界を殴った自己語りになるのに対し、女性作家の暴力性の吐露は世界に殴られた経験の吐露になること、その自己被害性へ繋がることもまた文学性にように共感され易い部分にも若干虫唾が走る。
しかし、これらのことが読み手によっては新しいと感じる層がいることも認識しているし、虚構性と商業性が高いのも認めるが、文学性として既視感として受け取る層も確実に存在するであろうこと、これは読書体質からわかる作品の評価軸の違いには注意が必要。
性別を変えると色調が変わる、ということが芸術的な観点からは評価できても文学的に更新かといわれたら微妙で、それもまた綿矢の少女性の解放と近いが、金原のそれはもっと商業的な下心に感じて疑惑が強かったこともある。実際結局、現在は読まれていないし引用されてもいないとなると、時代消費的な側面は普遍的な文学性とは別枠と結論付けることは現実だし、文芸はそもそも消費物だとも落着してしまう。そこが個人的にはそもそも嫌悪対象。
ジェンダーが違うだけなら更新としては弱いし、商業性の匂いが強いと冷める。これはおそらく審美の好みではなく評価軸の問題だと思うのだけど、退廃・陶酔・身体性の自傷行為を文学の核と見ず、理知・構造・思想を文学の中心価値に置く読書をすると、痛みをどう知性に変換するかの視点からは、やはり金原のしたことを外側から見るとどうしても消費に見えてしまうのだけど、実際読むと違うのだろうか? というのを10年越しに、以降の理由から最近の著作を読むことで検証していく、というのが今回の記事の導入部分になるのかな。
中期にみられるタイトルのカタカナとか、知性的に飾らない外側の感じも初期を引き継いでいるし、現代社会性主題を扱うことは、ある意味で価値的だがキャッチ―に飛びつく下世話でもあるし、ある種全体的に下品、その感じを私は金原ひとみからずっと感じていて、それは村上龍的な要素、文学は芸術だし芸術はエログロの露出や性的暴力の正当化に近い感じ、衝撃がそれだけで正統性を主張することにも近い感じ、この辺りはもう少しジャンルをあたるべしとは思うのだが。
と同時に、内的成熟をした少女性を使った清純派の綿矢と、外的大人を装う金原の告発も所詮消費感、の対照的な2軸は、やはり虚構的だったのだなと改めて感じる。
金原ひとみ初期作品の系譜への位置づけ
村上龍 → 肉体の暴走と若者の死の美学
石原慎太郎 → 自我の突撃・破壊・反社会性
金原ひとみ → 同系譜の"傷と破壊"を、
女性の身体=生傷そのものとして語り直す
語り手のジェンダー転換が退廃の色調を変質させたこととはつまり、男性作家が描く暴力や性は世界を殴る物語になりやすいが、女性作家がそれを引き受けると世界から殴られた身体の声になる。これは批評的には価値のある転換であるように見えるが、文学史的には更新は本質的には起きていない。
読者が二層に分かれる理由
①新しさを感じる層
ジェンダー変換自体に事件性を感じる
傷・自傷・破壊の生々しさが美学的体験になる
②既視感と感じる層
文学的枠組みは村上龍・石原慎太郎と変わらない
当時の感性をなぞっているように見える
金原の現時点での初期・中期・現在をみる
デビューから初期の金原は、痛みや若者の破壊という旧態の女性版ではあるが、それが商業的流通性に合致し若年成功を達成する。それが同時期の綿矢の少女性の解放と方向性が合致し、かつ鋭利で刺激の強い作風であったためにともに成功が爆発。
中期以降は、著作列を見る限りに育児・夫婦・回復・依存・生の再編がテーマのようで、初期の傷ついた若い身体から回復する生活へと焦点が移ったように思えるが、この時期の商業的成功は限定的な様子だが実際の数値は未定。ここにある破壊から治癒へ向かうバイオグラフィックな拡張は、初期からの打開として同一作者における進展性を感じるし、デビューが華々しく知名度が高い金原が書き続ける姿勢をとる限りに業界・出版側も活用の仕方はあるように、一般商業化が成功せずとも、せまい業界内での受賞も多少以上にあるように感じ、文学的にも商業的にも細々とした活動ではあるが、これらによる安住は中村・平野でも既視感があるので、その内輪安住は無視しない。

金原初期は痛覚の告白文学であり、ある意味で自傷発露的若さは普遍的な純文性としてみることも出来るのだが、男性作家の退廃文学の延長に見えた為にジェンダー転換≠主題更新と判断したし、身体と傷の消費は文学性より陶酔を感じ、ケータイ小説的商業性と隣接して見えた。今回の記事では、それら初期は更新の幅は限定的だったが、その後の成熟が評価点になる。
私が感じた下駄以上がなかったという感覚の背景には、傷を描くこと自体が目的化していて手段に終わっていないところが文学性や構造批評や社会性への回路が薄いと目しやすく、未読のまま聞こえてきた様子としては破壊の描写の快楽性が村上龍らほど洗練されていないことは創作技術的な次点であるし、暴力の意味づけや創作性が形成途中で、モチーフ選択による痛覚の描写は強いが必然性が弱く、それはそのまま目的化の最終地点を感じた所にもよるのかなと。
ただ、金原のその後の作品は、傷の理由を掘ったり、家族・母性・社会と接続するなど、モチーフ選択や物語構造が厚みを増すといった変化を示しているように感じる所に以前から注目はしていて、初期の未成熟を消費した上で伸びしろの余白を活用していったのではないか、という意欲性や戦略性が見えてきたことによる。
初期(デビュー~2000年代)
2003年に『蛇にピアス』で文壇デビュー。作風としてはおそらく性・暴力・ボディモディフィケーション・自傷などを描く、生々しく刺激的なリアリズムが特徴。受賞作の身体的かつ心理的破壊は従来の文学的感受性とは異質な衝撃と評価されるなど、若者文化やカウンターカルチャーの影響が色濃く、ポストバブル期の価値観を象徴する視点としても注目される。
この辺りも、ジェンダー的活用と時代的な文化文脈の系譜を繋ぐ作風と題材選択であることが分かるし、これだけの文脈を揃えればそれだけでも結構注目されたはずが、さらに綿矢とのwで目立つ相乗効果だから、何度も触れるけど2003年の爆発は本物。
私は金原のそうした作風や受賞作の初期に興味はないけれど、そのように爆発的な出世認知・商業的成功を出発に持ちながらも、書き続けて変わり続けた作家性や著作列性に注目する、というのが今回の論旨なので、作品の中身よりも著作列的経歴等の外部要素の方が大事と判断。結局今回も『蛇にピアス』を読む気にはなれず。
デビュー作『蛇にピアス』はすばる文学賞・芥川賞を受賞。芥川賞受賞時の年齢(20代前半)は異例で、大きな話題を呼び、商業的成績としては累計100万部を超えるベストセラー。英語圏を含む複数の地域で翻訳されたそうで、2008年には国内映画化。おそらく私が吉高由里子を見たのはこの作品が最初。
初期はセンセーショナルな表現と若い感性で一気に文壇の中心に躍り出た時期で、作品も著者も若さ真っ盛り、そこからどう遍歴を持つのか、というのが今記事の方向性。
中期(2010年代~)
『TRIP TRAP』(2009)で織田作之助賞、『マザーズ』(2011)ドゥマゴ文学賞等を受賞し、若年世代の暴力や性などのセルフデストラクション(自己破壊・自己消耗・自己崩壊)等のテーマ性から、母性・家族・他者との関係などへの関心が強まったのが分かる著作列の変化が見て取れる。作品発表とともに受賞歴も順調に重ね、この辺りは制度や出版側との足並みや迎合ではないかなとは思うが、書き続け、テーマの変化を持つだけでも、スタートが大きかったし若かった作家としては頑丈で偉いなと感じる。
若さの鮮烈が目立った初期の作品に対し、女性の人生が進展し積みあがる経験や内的世界との対話や自己認知など、複合的社会テーマへの深化や興味の自然な移り変わりが見て取れる時期。
処女作ほどの商業的成功はないものの、そこで得た知名度をフル活用しながら書き続けることで読者層を維持するだけでも及第点で、評価と商業の両面で安定した中堅作家に成熟していく時期なのかなと。この辺りでやっていることは平野中村と変わらない感じ、業界の扱いもそのようではないかな。
私は読書をしていなかった時期のことなので、至極外側の印象からすれば、文芸業界内での停滞やくすぶりに感じられるが、おそらく読書界隈からすれば息長く書いていて偉いな、という印象ではなかったかなと推測。片方の綿矢さんが行方不明な感じなのも手伝う。
現在(2020年代~)
近年は『アタラクシア』(2020)で渡辺淳一文学賞、『アンソーシャルディスタンス』(2021)谷崎潤一郎賞、『ミーツ・ザ・ワールド』(2022)で柴田錬三郎生など多数受賞し、また再起動している雰囲気。ちなみに2024年に離婚を公表しているので、その少し前から執筆活動が活発化しているところが、生命性や作家性の活発が見えて面白い所か。
題材的にも震災やコロナ禍などの社会的モチーフや、関係の現代性を見据えた作品が特徴で、意欲的な風が見えるし、2025年の最新作『YABUNONAKA』は、snsの読書界隈でも去年よく見かけたし、性加害問題を多面的に問い直す作品ということで、初期の衝撃性やジェンダー生徒の融合としての真骨頂もあるのかなと思いつつ、
これらの2020年以降の作風やテーマは単なる告発や糾弾ではなく、現代社会のテーマ性を意欲的に描き出そうとする試みを感じられるし、やはり作風は衝撃性やキャッチ―な選球眼を武器に、社会派へ成熟しつつ追求する風が見て取れて、意欲や姿勢を感じる。
それに応えるように業界的にも谷崎潤一郎賞・柴田錬三郎賞など受賞歴で呼応しているように感じるし、snsでの反応においても『ナチュラルボーンチキン』(2024)『YABUNONAKA』(2025)『マザーアウトロウ』などが読書界隈にて散見されて、初期で消費し切った感のある綿矢りさよりも確実に現役感や現代作家感があること、これは実体以上に素晴らしいこと。自分の若さや性別を意図的に消費したことでデビューして認知された著者が展開させる著作列の進展は、強い作家性と錯覚させるのに十分な威力があって、それも複数作、十数年に渡ってそれが散らばり現在に至っているのが素晴らしいなと。商業成績やメディア展開において、初期ほどの社会現象的売れ方はせずとも、息長くsns的な読書界隈に親しまれて鮮度を保てばもう問題ないくらいには中堅の作家だろうし、そこに安住するのではなく意欲作を出すのだからそれも評価点は高い。
話題作と文学的強度や更新性を両立しているかは作品を読まないとわからないが、この辺りの外側からの見立ての方が金原みたいな作家を評価するには大事な視点なのかなと思う。むしろ現代作家はそちらを抜きに語ることは、現代批評性としては異なるのかなとすら。
ちなみに、処女作を村上龍と重ねて感じていたが、彼が司会進行を務めるTV番組であるカンブリア宮殿の役回りを金原が引きつぐとの報道を先日見て、分かる人はわかってるのかもとニヤニヤしつつ、好きな番組だから息の長い人にやってもらいたくて、この任は結構重いから、短期リレーになって軽くしない為にも、金原さんには頑張ってもらいたいなと思うなど。
時期:文学性・作風 評価 商業的
初期:生々しく衝撃的なリアリズム。若者文化と身体の描写。
芥川賞等で鮮烈デビュー。
累計100万部超ベストセラー。映画化。
中期:家族・他者・成熟したテーマへの転換。
複数賞受賞で安定した評価。
固定ファン基盤・安定販売。
現在:社会的主題への深化・多層的視点。
谷崎賞・文化賞等で高評価。
文学界での地位確立・話題作継続。
現在まで、なぜ彼女は書き続けるのか?
テーマの転換を考えると単独と社会性、孤独と関係でみることが出来て、初期は身体と孤立を読者の身体感覚に迫る鋭さで描いた点から、中期以降は自己と他者、家族や社会との距離感を描くことで作家の視野と表現の幅を拡張していったのかなと推測。現在は社会的テーマや多視点的にも挑戦し、成熟した姿勢を強調していくのかなと。
金原の特徴は、若さ・過激な身体性などから年齢や成熟を重ねつつ、作家としての生き延び方や稼ぎ方として中年・日常・社会関係・他者との距離などに興味を移しながら、それでも書き続ける強さや下心的野心を感じたりもする。
デビュー作のような過激さ・身体性・暴力的自己破壊・若者視点だけでなく、中年・日常・精神の不調・関係の疲れ同調圧力など、より多様な年齢層・社会階層の視点を取り込むようになってきている。社会的テーマ(DV、不倫、メンタルヘルス、他者との関わり、マイノリティや外国経験)を作品に取り入れる作風が目立つようになってきており、国内では確かなポジションを維持している様子。最新刊も話題になっており、テーマの社会性・時代性が時宜にかなっているため注目されることが多い一方で、海外での翻訳・国際的受容については調べたが出てこず、経歴としてのフランスでの滞在経験は見えるが、翻訳出版・国際文学賞等でのノミネートなど、川上未映子ほど顕著な動きは確認できないのかなと。
そのようにして書き続ける金原が目立つのは、反射としての綿矢や朝吹真理子などの同時期に芥川賞から輩出している若年成功や門出以降全く伸びなかったことからも相対的に目立っていて、綿矢は途中で失速し、朝吹は三作出したあとは沈黙している。かたや金原は意欲的に書き続けた、その作家性はどこにあるのか、その進展こそが本質的には作家性なのではないか、という点。出発点や類似点がある2人ないし3人を並べてみても、金原の成長性や進展性はそれだけで価値があると思う。
中村平野を調べたときに、1975年生まれ前後の作家の文学観は時代性もあると学んだが、今回のように同一世代で起点が似ている並びながら、成長曲線がまったく異なる理由はどこにあるのか? 若さ・話題性・女性作家の登場、などを飾りに早期に賞を取り、時代の注目を浴び、デビュー作が強く言及され、以後の評価の基準点となり、若い女性が語る痛み・性愛・感性・がメディア的に消費された、ここまでは三者は似て見える。
綿矢の方は既に作家的にも女性的にも満たされている部分があるので、それ以上の野心や渇望を感じず、日常的に生きていければいいやの余勢を感じる。個人として満たされているならそれでもいいが、それは作家的ではないし、単独でみた良心でも他者から見た可能性や価値でもない。
一生涯を満たされずに突き進む作家的な強さや渇望、なんてものが本当に存在するのか、早熟や成功をした上で或いは、成功しないで誰に多く読まれず資本主義の中で他者世界的成功をおさめずして、続ける、書き続ける、成功し達成すること、その難しさや孤独のエンジン感じつつ、やはり内的な個人=主題としての、早熟や満たされた上でさらに求めて強く突き進む成長性や文明性や再現性を感じる。
そしてこの力強さこそが作家性の重要な1つの要素であること、作家は才能屋デビュー神話で語られがちだが、本質的にはその才能やデビュー逸話を武器に、どこまで書いてどのように書き続けられるか、に真価をや評価軸を持つように成熟やリテラシーを持たないと、個人単体才能と完成度や密度を求める文芸文学は、常にどの時代も作家や才能を使い捨てさせて安住させるだけに終わる、つまらないジャンルのままになるのではないか、という不安と懸念が最近可視化されてきた。
そのような不安定で非合理的な設計では、現代や将来域に凝ることが出来ないこと、の可視化。

最も書く必要のなかった文化資本のお姫様
金原と同じように翻訳家の親を持つ芥川賞作家として朝吹真理子が浮かぶが、あちらは親族がさらにとんでもないことになっていて、本人の出・学歴・文化水準が申し分ないが故に渇望が弱く作家としての覚悟などの自己内的が育成されづらいから、その後の生産性的に作品数が出ていない現状、仮説を立て金原の比較対象として調べてみると、結構面白かった。
作家の才能と生命力の源泉となるもの、その稀有や力強さとは何によって形成されるのか? そしてその著作列や創作性とは?
2011年に芥川賞を受賞した朝吹真理子という作家を認識している方は、果たして現代にどれだけいるのだろうか? 個人的には、西村賢太と同時受賞した女性作家、という印象だけど、その経歴や家系図はすごい。
ご本人は1984年東京都生まれ、慶應義塾大学大学院国文学専攻(近代歌舞伎研究)修士課程修了。父は詩人でフランス文学者、大叔母に翻訳家、祖父も文学者という多重の文学・文化資本を持つ家系に生まれる。本人も25歳『流跡』(2009)でデビューし、翌年ドゥマゴ文学賞を受賞。2011年『きことわ』で第144回芥川賞を受賞。
この背景は、単なる翻訳家の親を持つというだけでなく、文化資本の層が多層的に深い家系であることが特徴で、極めて文化資本性の高い環境に生まれた、ということが彼女の才能や作風に影響したことは言うまでもなくて、その意味で父親が翻訳家である金原も関連するように思う。綿矢はサラリーマンの父と英語教員で准教授の母親を持つとのこと。
朝吹を作品数や生産性の意味でみるとその数は限られ、デビュー作の『流跡』 (2009)、芥川賞受賞作『きことわ』 (2011)、その後七年ぶりの新作長編『TIMELESS』 (2018) 。エッセイ集『抽斗のなかの海』(2019)等も刊行している様子だが、基本的に長めの間隔は、一般的な商業発表をして食べていく作家のイメージからは距離がある。これは、家庭環境・社会的地位・文化資本性、結婚もして妊娠出産や家族のケアや家事も含んだりするだろうし、書く必要も稼ぐ必要も内的圧力が弱いために執筆や作品の量産性に結びつきにくい、という見方は可能だし、経済的安定や外的要因による執筆制限を持たずして創作期間を持つことが出来る待遇による7年間であり、次の作品も執筆期間中の空白であるとの見方も出来る。
芥川賞受賞時も選考委員からの評価は高く、受賞作として文学的な細やかさや構造の実験性が評価され、批判にさらされやすいリスクもない質の高い作品と受け取られていた様子。文章の美しさ・リズムの精緻さ、時間・記憶・主体の連続性・感覚の交錯などのポストモダン的感性の文学的深化などがあり、身体感覚や時間感覚の風景化が重視される作品として読む事が出来たような気がする。
受賞作を私もリアルタイムで読んだ記憶があって、少女小説的かつ文体の密度は存在していて、健やかかつ知的な夏休み的な安心感と優良さがあった気がするが、それ以上の何かがあった印象はなく、その意味で文学的な威力は感じなかったが、破綻もしておらずケチがつく感じもなかった。 純文学的な深さも熱さもないが、そうした世俗的な要素からは距離のある詩的寄りの文学性や、記憶としての文体を美しいと捉える向きがあれば楽しめるたぐいの作品だった印象で、社会的な様子も文学的な更新も存在しないが、静的かつ感覚的充足に徹した表現作品に共通する読みの評価構造としては良質だったのかなと。
ある意味で感受性文学だし、詩的性などを高評価しない私も読むことは可能な、優等生的な作品であり、著者の作品は内面の渇望や破壊的必死さや現代性などを描くよりも、感覚の往復や記憶の層を静かに開く作家性の傾向が強く、世俗との距離は一つのポイントですらあるのかなと。そういう作風は話題作や社会現象的なベストセラーにはなりにくいが、文学的成熟度は高くなる傾向はあって、ある意味で内向きで・業界向けな評価軸は存在するだろうことは感じるし、読書筋受け読書になり易く、作品数も相対的に遅速気味であろうと許され、通俗的話題性は限定的でも構わない向きは存在するのかなと。
ただここで焦点になるのは、朝吹くらいの文化水準・社会的地位や人脈があれば、文学新人賞や芥川賞を採るなんてことは教養や親族話題性くらいでとれるくらいのものに思えるし、作家性の渇望は著作列の中長期で語るべきということであり、おそらくこぎつけることが簡単な商業出版のスタートを軸に、本人の力量や七転八倒が見られるであろう中期以降の著作列的進展や作家的大成が作家性の真価を見せていないことや、又吉的な、別に作家で生きていく必要性も渇望もない作家、という仮説を私に立てさせた。
芥川賞受賞は文化資本・家系背景・話題性のコンテクスト込みで成立し得るものであり、それ自体は作家性の証明ではないし、デビュー後の著作列が作家としてどの方向に伸び・深化したか、書かずにはいられないほどの内的必然性、書くことへの渇望が生活の必然であるかという評価軸で見たとき、又吉と同様に朝吹にそれが見いだしにくく、書く必要がない人が書いている印象、書くことが生命力に直結しない脆弱さがある。
そこで見えてくるのは、文学的価値とは特にデビュー作や初期作品単体ではなく、時間軸の中で作家性が成長・強度・内的動機を持続できたかで測るべきだという、一種の著作列批評・成長批評だと仮定することが出来る。
価軸:朝吹真理子:又吉直樹
デビュー時の素材:家柄・文化資本・環境の豊かさ
芸人としての社会経験
芥川賞の文脈:話題性/文化資本による加速あり得る
社会的背景で注目を集めやすい
その後の著作列:飛躍・深化が限定的に見える
『火花』以降が停滞気味
作家としての必然性:「書かずにはいられない」迫力が希薄
同様に必然性の持続は弱い
次を期待させる現代性:あまり残らなかった
同上
なぜ彼女たちは書き続ける必要がなかったのか
①文化資本の充足により、文学が生存戦略ではない(承認・経済的圧)
②文体の進展不足の根拠、
初期に確立した静的な語りの拡張が起きなかった(内的圧)
③時代と接続する焦燥・倫理・問題意識の希薄さ
デビュー神話で満たされた綿矢、文化資本や出自で満たされた朝吹、他文脈での社会的成功がある又吉と、文筆を生業にし・満たされない渇望がある朝井金原、という全体図が見えたのが今回の記事であったし、突如登場した朝井とは朝井リョウのことで、これはまた後述。

従来から同時受賞の要素と作風の違いで綿矢/金原の比較は存在したと思うが、今回新たに出自や文化資本による才能と作家性培養の要素からは、金原/朝吹の比較ラインが浮かんだ。
今まではどちらかといえば、若年で処世や成功してしまったことによる社会経験の有無によって積みあがる作家性や主題性などが変化する方向で着目してきたが(絲山・津村・今後の宇佐見)、デビューまでの文化資本や社会的地位が著作列に与える要素として金原と朝吹の対軸で見てみると、作家の家庭環境や学術的成熟等が形成する内的な渇望や達観が作家性や文化性に与える影響、著作列を含めた生涯的な生産性などへの新たな注目として加わる。
(作家デビュー前に自身の力によって多業種にて社会的地位を確立した人間の、作家転身前後の扱い方も面白くて、例えば又吉やでディーリア・オーエンズなんかしか浮かばないが・これもまた、一作で執筆意欲や書くべき意思を失うのか、むしろ作家的転身が著作列進展で生涯を貫くのか、というところに面白い作用を見ることが出来る気がするが、今回は別軸にて)


同時代の女性作家でありながら文学性の駆動源がまったく異なる二つのモデルとして朝吹真理子と金原ひとみを対軸として配置し、家庭環境/文化資本/渇望/生存戦略としての環境がどう作家性や著作列、生涯的持続性に影響するか
①吹真理子:②金原ひとみ
環境①文化資本に極めて恵まれた家系(文学・学芸に連なる)
②比較的庶民的で不安定な環境、
家庭内の緊張や生存の切迫感(性格に与えた影響も)
文学への動機①知的・審美的興味の方向性が強い?
②生存・自我の維持・情動の発散が核?
創作の必然性①書かずとも社会的に生きていける(安定~不安定)
②書くことでしか世界と折り合えない(切迫~充足)
作品の重心①美意識・感性・空虚の造形
②身体性・生傷・痛覚の告白
文学制度との距離①既存制度に自然に接続(芥川賞受容も滑らか)
②制度は居場所の獲得の舞台
両者ともに家庭環境により言語認識や環境が密接であったことに相違はないだろうが、朝吹は文化資本的な蓄えの上での芸術行為に見えるし、その安定感がむしろ不安定感をもたらすかどうかが鍵になる気もするが、序盤の接続や連動はゆるやか。金原は社会的な切迫と暴露によって動機が支えられながら鋭利である可能性を高め、その切迫を初期装備に考えると、著作列的発表による社会的評価の獲得は自己承認や認知を高め、充足の感覚が強いのではないかと推測できる。
商業や経済的にみると、文芸文学が生活以前の必要か生活以後の表現であるか、その本質の違いでもあるし、自己承認や社会的立場の獲得と美意識や戦略性等にも関わるように思えるし、外側からの判断だけでは難しいが持続性・変容にも関わることが推測される。
ちなみにこの点でみると綿矢はある程度一般家庭的な出自ではあるが、デビュー後の社会的評価は金原以上で、大学入学や恋愛結婚に関してもその社会的成功の上に乗って順調に滑り上がることが出来たことから、創作活動外の成功が創作活動内の圧を弱めた可能性も出るとしては扱いやすいのかなと推測できる。
著作列・長期生産性の観点から見ると、朝吹真理子は作品発表数が少ないことと、静謐・空白・無時間性や非身体性の浮遊感などを核にしたまま、初期に文学観や作風を獲得した上で変化や進展はあまり見られず、作家的内圧があるのかないのかは観測しづらいが、生産性としては現在は断絶。デビュー後の変化は緩やかで、文体や主題の拡張や変化の爆発力は弱い。内的な焦燥として社会や自我との摩擦が希薄で、書くことが必要ではなく表現可能性だったという印象を受けるし、ゆえに書かなくても成立する人生に回収されていったように外側からは見える。
後述するが、唯一の長編小説を読んだ後では、彼女は彼女なりにその家庭環境や自我との摩擦や浮遊感と闘いながら漂った雰囲気はあるから、むしろ結構苦労型なのかなと思わなくもない、ここは外側からは分からない作品内部の観測と想定にすぎない為、どちらにしろ確定はしない。それにしても著作列が語るところの才能性と生産性の両軸の話で今回は展開する。
1984年12月生まれなので2026年現在は41歳、どこの段階で結婚し妊娠出産を経たのかは拾えなかったけれど、そうした生活が落ち着いて、再び文筆生活に戻る可能性もなくはないので、続報があれば待ちたいし、そのようにしてやはり女性の人生の主体性は、恋愛・結婚・妊娠出産・家事・育児などの生活やケアに当てられやすく、それが職業性や生産性として主体になり易い、ということも分かる。ここは難しいテーマ。
それらを言語化していったかもしれない金原ひとみは前述のように、デビュー期は身体性・破壊と性愛・摂食障害といった露骨な傷口と衝撃的なモチーフを選び、その後は家族・育児・成熟・回復をテーマとしながら、人生経験の変容や蓄積が作品列に刻まれ続けており、生の変化とともに書くことが生活史を伴って持続していく様が見て取れるし、そのような切り売りは悪しとは感じず、むしろ出し切る作家的感性は特徴的なのかなと。
この対称が示すものとしては、執筆や著作列的の持続は才能よりも渇望・不全・必要性に依る所が大きく、それは経済・社会認知・自己欲求的なものに左右されやすく、文化資本が高すぎると必要性は弱まることすらあるが、その安定や必要をどのように転換するかには個体差があるから、様々な内的要因や圧力をもってどのように特定個人の作家性が駆動するか、というのはケースモデルにしかならないが、面白い着眼だなと思った。
文学性や作家的価値観は、何に支えられる時に生涯性と変容を持つのか。家庭環境は幼少期の経験や文学観や言語観に与えるものも大きいが、安全であれば内圧は弱くなりやすいし、不全であればそもそも培養されづらく、欠落は危機ではあるが書くことが生活線になる可能性も高まるし、何が出力に与える影響度が高いかは個体差。文学は生存の必要と美意識の均衡点で燃焼するとは思うが、才能とは燃え続ける理由を持てるかどうかの問題なのかもしれないし、その渇望はまだ未確定。
綿矢りさ・朝吹真理子の場合は、成功の早さと文化資本が渇望と摩擦しなかったのではないか、あるいはその欲求がとん挫した才能の宙ぶらりん的敗北現象なのではないか、という仮説が今回の基本となっていて、家系環境や社会的承認を早期に獲得し、生存や経済のために書く必要が薄い2人は、文体・テーマが内側で熟成せずとも生存戦略は済んでおり、その後は変化の回路が閉じやすく、作品数・発展が限定的。その場合の文学は必要条件ではなく十分条件だった作家と位置付けることが出来、成功によって満たされ、破壊や切迫が消えたとき、作品の更新圧力も同時に弱まった。これは同時に、経済的・承認欲求的な理由で無理に暴走せずに自分の才能を大事に創作することが出来るメリットも存在するのだが、とりあえず綿矢・朝吹の場合はそのメリットによって文学性や生産性が向上している形跡は、中盤以降にはない。
一方の金原ひとみは、初期に痛覚・破滅的な若者文学による衝撃で注目を集めるも、中期以降の主題選択やモチーフを展開させて生活・家族・性別などの生を持続活用しつつ創作性を自分で書き換えて、年齢と経験とともに語りを変節させ、立身後も書き続ける理由を保持しながら自ら更新した。文学者にとってこれは極めて困難な操作であり、綿矢・朝吹が躓いた地点を突破した、と言える。
基本的には文学は、変化し続ける者のものだし、変化する時代における変化する世代として、変化する理知感を書き上げる。例えば綿矢・朝吹・中村・平野が初期の規定性を脱しきれなかったのに対し、金原は作品によって自分を更新し続けた。繰り返しではなく変身を選んだ点こそが、彼女の作家性の真骨頂であるように思うし、これは21世紀文学に必要な態度そのものでもあるとすら思う。
作家性とは出発点ではなく、変化と成長を担保する内圧そのものだし、才能の出自や誰しも一つの物語は語ることが出来て、傷の告白はさらに誰にでもできる。だが傷を抱えたまま成熟し、それを新しい文体に変えるのは難しい、金原は痛みの再生産に依存せず、テーマを拡張し続けるそこには、意志と努力と書く必然がある。才能や技巧ではなく意志・必要・持続のモデルとして評価する視点は特異。
才能よりも変容できる意志と必要が作家を長期的に存続させる意味で、金原は作家としての生涯回路を開いた稀有な例であるし、この視点は批評性としても文学史的価値も高いのかなとは思う。
少なくとも2000年代の大事件である若年少女性爆発の当事者が二人とも早々に潰えてしまっていては、その制度としての役割はものすごく低下していたところを、相対的にも絶対的にも生存し展開し続けている金原の存在は、芥川賞や文学界隈的にも有難いだろうし、芥川賞の一般化の文脈で見ても、知名度の高い彼女がアングラな初期を抜けて社会派テーマ作家に転じて一般社会や一般読者との再接続に一役以上買う可能性は高く、そのあたりの多機能的な貢献は、2000年代の芥川賞受賞作家の潰滅的な状況を避ける意味でも大きな収穫。
若さの才能は消費されやすく、持続性の核にはならない現象に対し、有名若年作家が成熟へ転じるメカニズムは作家的な生命力を感じる上で、制度的に登竜門的役割を果たしている面目を保てる。旧態的な純文学的な系譜における破壊から回復の時代への橋渡しであるし、男性作家から女性作家への転換の象徴でもありつつ、金原は2000年代の終わりに自己破壊的文学の出口と性別的反転着色でを示した、という構図は見て取れる。
綿矢が若さの頂点で静止し、朝吹が資本の中を突き抜けなかったのだとすれば、金原はそこから書いて抜け出して進み続けた。その意味で作家性とは出発点のデビュー神話や才能の種類とともに、その個性と資質を変化と成長で担保しながら登り続けるための内圧にも評価軸は移る。そこに意志と努力と書く必然があるか否か、才能や資質よりも、変容し更新しながら書き続ける意志と覚悟が作家を長期的に存続させる。
これらは、性別や前提条件に安住して停滞している中村文則や平野啓一郎の進展性の弱さとも対軸になるし、綿矢朝吹とも対軸になるし、つまりそこでは性別ではなくて本人の書く気と更新性や成長性のみであり、書き続けて変わり続ける力強さこそ現代のダイナミズムで、21世紀文学に必要な気概であり、作家性だと位置づけることも可能。
作家性とは、才能や出自とともに、変容し続ける意思と必要に宿るものであり、才能や若さの暴力性は資源でもあって消費されうるが、その中で文体と主題の更新を続けた者だけが作家であり続ける。才能や実力で金原をそうだとは思わないが、その真骨頂が示すところは充分に示唆的だし、そうした力強さが無い国内作家の中では目立つのは当然で、その後を見る価値があるだけで可能性に映る。金原ひとみを評価すべきは初期の鮮烈さではなく、そこを起点にしつつ、それを脱して成熟や展開へへ昇華した点に作家性の核があるのではないか。
中村文則 :暗闇・暴力・内面の陰影。更新は微細。
平野啓一郎:倫理・分人思想。理論的だが表現的深化が乏しい。
綿矢りさ、
朝吹真理子:出発点に強度あるものの、後の拡張は緩慢。
停滞や安住型作家を類型するとすれば、才能・テーマ・初期の成功によって早期に像が固定され、以後の作品はその延長線から抜けることが難しい、とする。彼らは優れているが、変化しないがゆえに次第に閉じた作家になっていく。
変容型の作家を生涯執筆に向かう本質と定義すると、出発点のテーマにしがみつかず、自身の人生・倫理・身体・社会観の変化を創作にも転換していく変質と展開を持つ。金原ひとみや、例えば興味と意欲で変化し続ける皆川博子など、テーマやモチーフの選択だけでなく、書き続けることで変わり続ける作家性、を私は評価しがちであることは認めるが、それにより個性や才能が変化進展し続ける点は揺るぎない要素だと思うが、どうか。
①初期テーマが尽きたとき新しい燃料を探した、ないし、
新たなテーマへの旺盛性もまた創作性や表現の源泉
②痛みから回復へ、あるいは祈りから創作へ向かう意志等
自身にとっての書く理由がある者の強さ
③市場性に迎合せず、或いは戦略的に、
生活と文学の接点を個人的に更新する
変容型として金原のテーマ遍歴を見ると
初期 … 傷の露出・痛みの表面を書き殴る
中期 … 痛みを抱えた他者を関係性の中で再定義
現在 … 社会構造(加害/弱者/制度)と痛みを接続する物語
①綿矢じゃない方からの脱却
芥川賞同時受賞(2003)という状況は、二人を対として語らせる仕組みを作り、同世代の書き手としての刺激はあっただろうこと。
清涼感・情動の繊細な観察、社会と接続可能な普遍的少女像の綿矢に対し、破壊性・疼痛・生の危うさ・社会から切断された身体的生などの金原は、メディア消費の面でも二面性があっただろうし、双方が消費された体感もあっただろうこと、どちらかといえば大衆受けしやすいポップさや普遍性の綿矢は読んで、金原は読まない類の私のような読者層もいただろうし、批評筋も正統派とアングラ性と扱いも割れたのではないかと推測。
②父・金原瑞人の存在
朝吹とも被るが、金原の家庭環境としては、翻訳者(金原瑞人)の家で育ち、常に言語・文学が生活の近くにあったという文学制度の内部で育った作家である点。これがもたらした二つの方向性としては(翻訳者・仏文学者の親を持つ、という類は作家には結構存在)
利点:文学へ接続する導線・環境が整っていた為
作品化の早期実現の可能性(言語的才能の足場)
負荷:個人単独での価値承認に対する問い(誠実な倫理)
屈折やコンプレックスが強靭さや伸びしろに繋がったとみる向きは個人的には好みだが、同時にそれによる挫折や放棄も存在するだろうし、金原自体もデビュー作にて社会的・商業的成功を収めているのは綿矢と同様であり、その点で朝吹はそこまで伸びていないし、この辺りはぐずぐずで邪推の域を出ないか。
こう見ると金原ひとみ主題は、消費されない痛みを物語へ変換し続ける営みであり、それは個人と物語や人類と文学としての祈りの本質に近く思えるし、その駆動源には、何かしらの作家性の源泉が存在していて、後者は時間とともに深化し表面化しやすいのが作家という職業だから、著作列から見える金原の強靭さや進展の可能性は、他の現代作家にはなかなか見られない力強さや野心に感じる点に好感を持つ。
野心と文学性は別物である、という単純で残酷な事実
『マザーアウトロウ』の文学的陳腐と
現代作家として生き残るということ
今回は手に入りやすかった『マザーアウトロウ』を買いました、『ナチュラルボーンチキン』は図書館で順番待ちしてましたが間に合わずz断念。人気は前者の方があったので買ったのですが、読んでびっくり、文体がひどすぎる上に台詞会話にて現代思想やキャッチ―要素を繰り広げる手法は浅はかで、初めて金原ひとみの著作を読んだが、デビュー何十年経った中堅以上の作家の作品とは思えない完成度、密度、商業出版されていいレベルではなかったし、綿矢りさのパッキパキ北京を思い出した。
この違和感はおそらく好みの問題ではなくて完成度の問題のはずで、すべての安直さは、もしかしたらU-Nextとの書下ろしコラボ的な要素がある故なのかなと思いつつ、それでも自分の名前で商業出版しているわけなので、中堅以上の商業出版物としての最低は優に下回っている前言は撤回出来ないかなと。
ただ、この文体はいくらなんでも逆に戦略的に、読書しない層へ向けた読み易い軽薄さを狙った可能性もあるので、そこはもう現代日本文芸の打算が読者層の分断にどう対処できるのか、という問題であるとも思える。扱っているテーマは社会的に見えるし、フェミニズムや晩婚や共働きや嫁姑問題を含む現代的アップデートという帯の文言も間違ってはいないし、中年以降の女性が気になる要素は詰まっているだろうことも嘘ではないかなと思うが、普段読書する人間からするとテーマ云々の前にあなたは表現方法に文章を選んだ文体表現商売であるはずがト書きの脚本勝負なのか、と問いたいほどの文章の薄さはどう擁護していいか迷う。
これらは、文芸の社会派やテーマ性主体の作風が増えた中でよく散見する問題にも関連しているが、テーマ主題ありきで物語や文体が表現形式として未達のまま草稿発表されているような密度の薄さが商業的にはどういう貢献や成果を持つのか謎で、普段読書しない人にはこれくらいでいいでしょう的な感じだから文化として廃れるのではないかなと思うくらい。虚構創作の他ジャンルがどんどん進化する今、薄っぺらい台詞により人物が概念を喋るハリボテ劇を見たい人なんていないと思うのだけど。
著作列やあらすじなどの外側から読んだ限りと、実際の読書は全く異なる、ということを改めて実感するとともに、基本的に読者は何を読もうか、どれを買おうかは、その外側やあらすじで評価判断して、期待して買って読み始めるので、この落差や落胆は普遍的で現実的。
成長性を評価することと、個々の作品の出来を擁護することはまったく別であること、やはり著者の初期に感じた軽薄さや衝撃先行の手法への違和感や嫌悪感は核なのかなと思うなどした。外側から作家や著作列を見たときに、作家や作風の変化がいくらあろうと、それは中身や作品性を約束すること、その表現成果の完成度を指すものでは決してなく、文芸表現として書けていることとが乖離することもあるのだという一例だと肝に銘じたい。
では金原の成長性や変容の評価は誤りかといえば、ここが一番大事なところだけど、必ずしもそうではない。そもそも彼女の光るところはおそらく当初から技巧や才能ではなく、書き続け変わろうとした意志は本物であり、時代や社会に適応して接続していこうとしたことも事実に感じるし、それが素材を変えて興味関心を変え続けて書き続けてきた原動力であり、それが作家としての回路であることを含めても妥当だとも思う。しかし、商業出版された作品の品質や、現代的テーマやキャッチ―な虚構要素を据えようと、その表現自体に実力がなく、文芸の場合の文体はそもそも追いついておらず、思考を小説化する技術が未成熟にかまけたまま商業的・時事的語彙に逃げている実態はで、一般読者が接続しやすい場所になる立場を背負った役割としては疑問符。これは単純に文化レベルの話にもなる。
初期の知名度があり、発表点数を重ねて、受賞歴も増やそうとも、作家的・商業的に伸びていない印象はすなわち実力不足や代表作不足であって、結局のところ最高打点は商業的に大成功したデビュー作のままだという落着を見る。
綿矢や朝吹よりも書き続けているし現代接続を行えている、という仮説のもとに書いてきたこの記事のコンセプトは脆くも崩れたわけだけれども、やはりここに純文学や現代作家の難しさ、社会派テーマと文学的密度、等のテーマは依然残り続けるし、それだけのテーマであるからこそ現代の日本文学の停滞や袋小路を感じる、と直視することも可能。
金原におけるデビュー作の軽薄さとは、暴力性や退廃身体性などの古典的手法や表現形式を女性が行えばセンセーショナルになる、という戦略性や野心にも似て、芥川側賞を獲って知名度だけはある作家がフェミニズムを軽快キャッチ―に扱いながら若者文化もわかってる感をちりばめる感じが、どちらも主題テーマモチーフの選定と意欲ではあるが、それが文学的に何かになるかとか完成度とは全く関係しない、ということの証拠、何年たっても文学観の根底は変わらない、という事とも合致し、成長性や変容を評価してきた前述に対し、むしろ何が変わっていないかを見抜く視座が必要なのかなと。
『マザーアウトロウ』で感じたのは、フェミニズムや若者文化、キャッチーな語彙と口語的会話など、材料は揃えていて現代的な感じがするが、現実問題としての軽薄さは戦略や選択の上手さを全く具現化せずに明確な読み心地を読者に送ってしまう。
金原のデビュー当初に感じた違和感と軽薄、のちの成長性というテーマ変容と書き続ける意思や現代接続の意欲とは別軸の評価体制であり、初期も現在もその作風は、中身は既知だがラベルを新しくしてセンセーショナリズムを煽るものであり、本質的な文学的発明や文学的強度は関係がないので、商業的に成功しようと若者文化の表現であろうと、既視感・下駄・計算高さを感じるのも自然であるし、その本質を感じるからこそ文体や完成度に期待はできなかったのでデビュー作を私は読まなかったが、それはつまり新規性や現代性とか野心と文学性は別物である、という単純な直観は、正しかった、と振り返ることも可能。
主題・テーマ・モチーフの選定や意欲は、文学的完成度とは無関係である。これは混同しやすいが、まったく異なる軸であることは注意が必要。野心があり、戦略的に市場の空気を掴むことが可能で、現代社会的な要素や時代の言葉を知っている、それでもそれでも文学にならないことは普通にあるし、それが商業的成功を呼び込もうと文学的達成とは全く関係が無いし、現代社会と接続された内実も無いに等しく、ただ売れた、ただ読まれた、でも何を残した、で語ることは難しい。
表層のテーマは変わっても文学観の中核が更新されていないのであれば文学的には意味のない営みであり、何年たっても文学観の根底は変わらない、という指摘の重さには、やはり文学的才能や個性の本質は必要不可欠だし、その後の変容や更新には上達や向上が不可欠であること、その両軸が一番厳しく、かつ重要なのかなと。
金原の初期は既存の破壊文学を属性転倒でやることであり、後期は社会思想をキャッチーな会話でやることであって、やっていることは同様につき、概念をショートカットし、文体で思考も表現もせず、読者に衝撃や理解を即座に与え、余白や表現の勇気も回りくどさも美徳も技術も持たず、読書行為が経験を生成しない。
文学的価値は、主題の新しさでも、属性の転倒でも、時代語彙の軽快さでも決まらない。文体がどれだけ思考し、経験を生成し、時間や密度を引き受けているかだけが問われるし、その文学観や表現技術的実力が変わらない限り、何年経って何作テーマを移行しようとも文学は更新されない。
これは金原批評であると同時に、現代日本文学全体への実態診断にもなるのかなと。
私が金原に対し、初期に距離を置き、成長可能性として一度評価し、実作を読んで否定した、というこの流れは、拒否と再評価として良い形をしていて悪くないとすら思うし、読んでみなければやはりわからないものだなと。ただ、一冊読むだけでは外れをつかんだ可能性もあるが、そのようにして一冊読まれただけで読者が失望してもう二度と読まずに読書への信頼が失墜する可能性が、常に文芸読書にはある、ということを改めて実感する好例。
表層のテーマは変わっても 文学観の中核が更新されておらず、既存の破壊文学を属性転倒でやることから、社会思想をキャッチーな会話で行う以降は、やっていることの本質は同じであることと、外側から作家作品を見た時の評価感覚と実際に一作でも読んだときの感覚評価は全くの別であることの証左であるし、その意味で私はデビュー作については狙って書いたと分かったが、そこから成長して時代に即したテーマピックアップを行える意欲性を見出したが、実際のそれは中核で変わらずにあった彼女の唯一の原点で長所、それ以外の実力は成長していないまま、ということが分かっただけだった、というところで今回は閉じるしかなくなってしまった。
多くの読書が混乱し、混同からも言及が難しい点として、テーマは更新されているし、時代語彙を使っているから社会的には意味がある、つまり成長しているように見える。しかし読むと、文学性は何も変化しておらず、作品完成度は恐ろしく低い。外から見ていて興味や価値を感じづらかった、社会接続や書く意思は評価していたが、どうしても文学性には感じなかった。現代社会性が文学性に必ずしもならないことは文学密度や強度の話だけれど、この三段はむしろ批評的。ただここの論点は、作家ではなく文学観の更新失敗と文学密度と社会性との対比に置いてあることは重要。
外在的評価と内在的読書は、まったく別の次元であり、外側から見た作家評価(位置・意欲・制度内の意味)と、実際に一作でも読んだときの文体体験は完全に別物であることは、読書という行為が内的審美であることが分かる。そしてその場合に、現代性というものがきわめて価値が低いことも今回感じた。
①デビュー作への違和感
狙いが見える=属性転倒のセンセーショナリズム
既視感 →距離を置く(未確認・予断)
②中期以降の成長仮説
書き続けている・テーマが拡張している
社会的かつ生活的主題を扱う
→意欲と持続に価値を見出す(合理的仮説)
③実読による初検証
文体未熟・文学的完成度の低さ
概念の会話化・即時的なわかる感
実力向上は未知数も伸びたはずの現在も経験は低い
→仮説棄却
成長していたのは主題の表層だけで、文学観の中核は更新されていなかった、という仮説の推移は、もしかしたら批評として理想的なプロセスであるかもしれないとすら思うが、どうだろう。
唯一の原点が長所であり限界だった、という最終判断は悪くなくて、金原の原点は、概念や衝動を短絡的に提示し、読者に即座の理解を提供することにあり、それはデビュー時には分かりやすい鮮烈さとして機能したが、深まらず、初期の成功様式がそのまま継続されたこの形は、伸びなかったのではなく、伸びる必要がなかった或いは求められなかった、ないし自他に必要だとは判断されなかった、これは才能不足ではなく文学観の固定であり、需要への提供だし、作家単独の問題ではない。
出発点さえあれば、継続や文学的に正しく魅力的でなくとも生存できることはおそらく中村や綿矢が証明しているので、金原はそれでも業界経済には適応しているのだろうし、受賞歴からも出版点数からも歓迎されていることは分かるし、存続価値や役割は固いのだろうことはわかる。
テーマが即時的に読めることは認知上の快楽に繋がりやすく、思想っぽさを会話劇で消費できることは社会的論点(身体・性・フェミニズム・若者文化)を軽やかに配置できる作風となっている。中村文則の純文学っぽさに浸ることが出来る読者的安心スタイルに対して、ここで沸く金原文学的作用は読者に現代テーマに触れた気分を与え、出版側に時代性を扱っている感を与える意味で、商業ラインに乗りやすい安全な作家で非常に現代文芸的である、ということが出来る。
ここでもまた、変化や成長の無さがむしろ安定供給になる事へ繋がる。何年たっても文学観の根底や作風が変わらない事は、売り手や業界から見れば個性や武器がブレずにブランド化するため売りやすく、評価軸を更新しなくていい安心感は失敗を避けるという制度的な長所になになる。成長しないことでリスクを取らず、結果商業や制度と衝突せず、事故らない。中村や平野を思い出すこの既視感は、たぶんに日本の文芸の現状なんだろうなと思う。
日本文学には若年受賞させることで早期偶像化し、文化アイコンとしてイベント消費や商業利用し、拍付けしたその体で生きる浅はかな文体のままで、以降に思想を語りたがったり社会派を気取りたかったりする作家性を発揮するのはあるあるかなとも思うし、そうすると知的不足や表現技術の未熟もバレやすいので、結局のところ評価は内外から得られない結末を避けられず、どの方向を向いても失敗に甘んじる結果にしかならないのかなと。綿矢の後期、朝吹の停滞(空白にはまだ可能性)、平野・中村の安住、そして今回の金原にも部分的に重なって見える。
それでも作家の成長性や進展性を価値主体にしたこの議論は壊れていないと展開することが可能であれば、主題は更新することが出来る。
作家性や文学的更新は変容の意志や持続力だけでは足りず、変容を文体として成立させる能力が伴わなければ成長は幻想に終わる。つまり意志は必要条件であり、技巧と形式の獲得や成長は十分条件であるため、主題や虚構設定を現代的に選び直し続けたところで、それを扱う著者の実力や完成度が未熟なままでは十分条件に失敗したまま終わる、という評価が可能なのではないかなと。
デビュー神話よりも著作列による変容を期待することは、成長や最高打点の価値を評価することであり、変化し続けたところで向上が無ければその実態には伴わず、変容が文学的に成立していなかったと判断することは妥当。才能と代表作や著作列等の総合評価は全く別だし、文学的更新とともに文学的魅力や完成度というのもやはり明確に存在し、それは社会に接続しているテーマや商業的な成功を呼び込むような舞台設定等の用意などで補って余りあるものでもないこと、これは文芸文学が本質的には現代興行とは異なること、批評性や審美眼に晒され続ける読後感勝負であること、を如実に感じさせて、むしろすがすがしい思い。
芥川賞システムと作品軽薄化の共犯関係は、芥川賞作家という看板は拍付けになるから、いくら軽薄に物を書いても著者未読の人間にはバレないので、その存在価値は認知価値にすり替わって継続可能であることが金原の強みでブランドの基本なのかもなとも思う。もう一段踏み込むと、これは個人だけの問題ではない。
・芥川賞=話題性
・若年性・属性転倒・社会性
・メディア露出
・現代性・若者の声的ラベリング
綿矢にしろ津村にしろ中村にしろ平野にしろ金原にしろ、作家が変化する前に像が固定され、挑戦して変わるより期待される役割を演じる方が合理的になることは、文学の制度的悲劇でもあるし、再現性を狙った売り手の戦略そのままにも思う。ここでもまた、売り易い・読み易い・書き易い、三方良しが存在し、すべて軽薄なまま文芸は衰退していく。
芥川賞は本来、才能の出現を測る機関ではあり、その実績や社会的告知機能により、ある作家の才能がどう変質し深化した結果どのような文学史的な射程を獲得したか、を追跡し奨励する制度や批評性は、日本には存在しないか機能していない。
日本の文芸出版の現状は制度的に消費して使い捨てのように作家や作品を輩出し、文学的成長を放棄して安定感的に生産しているにすぎず、中枢であるはずの芥川賞でさえ商業としての回路としてしか機能しておらず、それは文学どころか文化としても存在価値が微妙な状態に感じる。例えばその意味でも、金原は村上石原ラインを継承し、制度としての芥川賞が日本文学の中枢の登竜門として機能してきた功罪を感じさせる。
現代商業、現代社会性への接続、それらと、作家的成長や文学的更新や確信といったものの取得や両得の難しさを改めて感じた。
そのようにして、実際の作品性でケチがついてしまった金原ではある側が生んだ作家掻き続ける姿勢、一応制度側が生んだ作家が書き続けているということの強さや価値、そして切に現代性と結びつけようとする意識、現代接続がいかに商業としての文芸を助け、その難度を語る上で、朝井リョウに触れたりしながら、もう少しだけ現代文芸と文学について考えてみたいと思うが、今回もまた少し長くなってしまったので、二部構成に分割します。
ちなみに、この記事のために金原の『マザーアウトロウ』を買って先に読んでいて、次の記事で扱う朝井リョウと今回の朝吹真理子の作品も何かあるかなと図書館でみると『少女は卒業しない』と『TIMELESS』があったの借りて、記事を書きながら読んでみたが、時間が足りないのもあり朝井リョウの方は1編目で挫折し、朝吹の方は読む時間がなかなか取れずに終盤まで1ページも開かずにこれを書き続けていて、いくら何でもさわりも読まずに返却し投稿するのもな、と寝る前の30分読もうとしたら、文体が良くてひさしぶりに夜更かししてしまった。
こんな記事を書いていてなんだけど、今回読んだ3作では朝吹真理子が1番面白かったし、もっと書いてほしいと思った。『マザーアウトロウ』と『TIMELESS』を読むと、文芸的才能と文学性というものをありありと感じるし、現代性と非現実性なども感じるが、それは文学性とは基本的に関係が無いことも痛いほどわかって、個人的に私は才能の出発よりも著作列の成長や進展性を好むし、主題や現代性を評価するけど、朝吹の『TIMELESS』が非現実性で言語性が強い作品で著者はその後書いていないにしても、おそらく未読の金原のどの作品よりも惹かれる本質があるのではないかと思った。
残酷なことに、作家の才能と著作列とは関係が無いし、文体的魅力は読んでみないと分かり分からないし、それは現代性とは全く異なる、ということもしみじみと感じた。文芸文学は難しい。
**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~

コメント