津村記久子という手垢のついていない新星に頼りながら自壊した意図のように、現代における旧態の純文学が、いかに文化として文明に生き残る道を模索し、文学として文脈を求めることを一時放棄してでも背に腹は代えられなくなった矮小さが目立つには、2003年の爆発を忘れられずに2015年にまたそれを頼る転機に甘え、ついに制度としての権威を地に落としていく経過までしばし待たれる。
芥川賞の段階的劣化という一般化、純文学の大衆化という言葉が持つおかしさと切実。文化商業の中で文芸を売るを志す本屋大賞、中間小説としていつまでも独自性を持てない直木賞、文学と芸術として大衆成功を掴めない日本文学とメディア展開における市場原理上の文学性と打開策。文学作品の社会的スケッチ化という機能劣化に見る文学の至上性、あるいは文芸を売るべき商品で文化であるとした前提と、読み手・売り手・書き手の倫理とリテラシーからみる文明性。
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落胆する読書を減らしたい、確信する読書を増やしたい
純文学があえて自壊し、迎合した時流
文学的弱さが、なぜむしろ評価されたのか?
完全なる上位互換としての絲山秋子を認識したことにより、際立って思い出された津村記久子に感じる文学性の無さと、近代日本文芸と芥川賞の近代化と一般化の流れ、その苦肉と時代的変化とともに浮上した2015年の又吉直樹の『火花』事件、こちらもまた2003年の綿矢・金原の平成の爆発に続いた大事件的火花だったし、芥川賞が一般化と商業化を狙った一手ではあったが、それらの点在が示す芥川賞の現状と、以降に続く価値や可能性とは?


同じモチーフとして会社員小説を書くが、絲山と比べると津村の軽さや未熟さが際立った。社会人数年でリタイアした津村と、35歳中年まで働いた絲山の成熟、そして彼女たちが生きた時代が女性に求めたもの、個体差の知性・学歴・就職先のレベル等の社会人経験が作家を育み、才能と思考性や価値観を決定づけていく。作家の才能と環境、適応と成長が与える文学性と著作列とは?
この問いは、作品の深度を規定した「社会構造×著者経歴×主体の成熟」の違いを明確化する作業だから、本質的には優劣の話ではなく種類の話ではあるのだが、商業性における上位下位が存在するように文学性にもまた明確に上位と下位が存在することは明言しなくてはならない事実だ。
では、であるにも関わらず、津村記久子はなぜ評価されているのか、その評価は文学的に妥当か、という疑問は少し前に津村を読んで2記事書いたときにも膨らむばかりだった。
結論から言えば、津村記久子は制度側の要請に合った作家であって、文学的強度という意味では文学の水準には到達していないことは断言してよいだろうし、その存在価値と評価理由は「時代+読者+文学賞制度」の三重構造が生んだものとして見ることが出来る。
文学性ではなく時代性に支えられた時の加速
津村が台頭した2000年代~2010年代は、女性文学が活発化した時期
・綿矢りさ・金原ひとみが若さと身体性で爆発
・川上未映子が難解化・哲学化
・村田沙耶香が異物性で突破
・ジェンダー系やシスターフッド系も台頭
ここに出版社や制度側が求めたのは、さらに一般読者が読めるような軽いがそれっぽい純文学であり、津村はそれに適応したのかなと。
現象の描写に終始して構造に踏み込まないし、生活の範囲を超えていかない抽象度の低さにより世界認識が狭いので社会的・思想的な厚みが生まれにくく、文学的な重さもなければ中間小説的な強さもない。経験や視座が限定的で人物造形に深い倫理性が無いことは主体の成熟の低さによるもので、この辺りは学生時代に作家デビューをして社会人経験があまりないタイプにはよくあるものなのかなとは思う、この辺りが作家の難しさに感じる。
津村は社会人を経験してはいるものの、実生活的経験を補うために選ばれがちな学術性や専門性などの歴史性・構造性にも乏しいため、例えば同時代の海外女性作家が扱うような制度や権力の中におけるジェンダー構造や経済的圧力からの言語観などもあまり育っておらず、普遍的にどの時代にもある主題としての文学を支える根の根本が弱い。かつ、その表現としての文体が飛躍しないのは興味もないからではないかなと思うし、読みやすく読者には優しいが、とっかかりにはならないし筆致はどこにも届かない印象がある。

2000年代以降の文学賞は本格文学としての選定機能ではなく、一般商業に接続しやすい作品や作家を選ぶ広報要素に流された節があり、特に芥川賞ですらその傾向が強まった。
他メディアで取り上げられる要素を備えた大衆性や作家単位の偶像性による話題性で手に取られた場合に、受け入れられやすいような平坦さと文学っぽさの兼ね合いなどが重視されるようになった結果、ちょうどよく軽い純文学が重宝されることになり、津村記久子はその潮流での成功体験のような気もする。ここに浮かぶのは文学性の高さではなく制度的利便性の高さであり、文学的貢献とは違うが文化的貢献としては一定を感じる。
文学的評価というのは個々の文学観にも左右されるものなので一概には言えないものではあるものの、例えば絲山秋子を津村の上位互換として書いた記事にて扱ったように、両者の作家としての水準の差は明確で、批評的に見てもレベルや扱う階層が異なることは間違いないし、文章表現ひとつとっても物が違うことは一冊読めばわかるところだとは思う。
では絲山秋子の方が津村記久子よりも売れているのか、といわれたらそこは分からないし、映像化してどちらが売れるのか、というのもそれほど明確に想像は出来ない。
絲山が扱うのは主体・構造・非対称性・現実の歪みで文学としての根が深く、津村は生活・感情・日常の温度に留まることで文学の本質的領域には届かない。これは嗜好の問題と取り違えられやすいが、根本的には作家としての倫理観や理知感の問題でもある。文学性が大衆的な読書や商業に向くのか、生活モチーフや分かりやすい文章を好む読者層が現題は主流であること、大衆性や市場性において文学性という価値は相対評価であって絶対評価ではなく、ここで市場原理だけでなく批評性が相対的に力を持たなければ多軸評価による成果や達成には届かない構造もわかり始める。
直木賞的才能を芥川賞が認定した時流的着手
津村の日常的リアリズムを軽やかに提示し、職場文化の空気を軽度に文章化して虚構表現として苦楽の共感を集める作風は、大衆かつ一般的読者を文芸に引きつける機能を持っていて、その軽さや親しみやすの価値には純文学と大衆文学の中間を埋めるものがある、だからこそ中間小説的な立ち位置の直木賞との相性の方が良いし、その方が芥川賞の権威的には守られた気もするが、純文学側がその接続や橋渡しを求め、あえて自壊した、という流れが注目に値すると面白い。
才能で見るなら津村は直木賞で扱うべきだったし、本人や売れ筋・商業的成功やその文化的隆盛を考える正統ルートであり、芥川賞としても下手に権威性を落として迷走するよりも本質特化ではあったが、ここに時代に対する柔軟と迷走、文芸文化の制度側がどのような復権や隆盛を求め、純文学がどのような活力や本質を求めていくリアルタイム性があるのか、の岐路を見る。
純文学と大衆文学の中間を埋める、という意味で、一般的には以下で触れるような本屋大賞系が台頭した今日では、純文学(芥川賞)-中間小説(直木賞)‐大衆小説(本屋大賞)という並びのがしっくりくるのだが、第3としての本屋大賞が成り立つまでは直木賞の立ち位置が曖昧な期間が長く、権威側であるのにエンタメ小説を選出し、かつあまり売れない、という謎の期間が長かった。
津村はまだその直木賞が微妙な時期に、芥川賞と直木賞の中間的立ち位置に選出されたイメージが強く、文体は平坦で読みやすく、主題は現代大多数の労働的日常や心身の疲労と社会との摩擦を扱い、純文学権威側に選出された一般読者にも親しみやすい中間小説の意味合いが強い意味で、新しい中間小説の趣向を放つ。
ここで重要なのは、娯楽側に寄せた虚構的強さの中間ではなく、純文学的な倫理と社会性を保ったまま当代大衆共感テーマの選択や、読解コストや思索レベルが一般読者的な作者として開いた中間という点で、ここが津村の格の出るところなのかなと。
例えば絲山が一度直木賞の候補に挙がったように、両賞が互いに中間小説要素として作家や作品をめぐって権威や商業を奪い合う構図、というのは結構象徴的。このあたりに、一般化したい芥川賞と売れないエンタメよりは権威性に走る迷走の直木賞の傾向がみられて面白い。

津村は本来なら直木賞との相性の方が圧倒的に良い。読みやすさや主人公の社会的立場(会社員・労働者)、読後の残り方(重すぎないが軽くもない)などは完全に直木賞的で、商業文芸として読者層も広いし、書店の棚でも一般文芸寄りで扱われがちな印象がある。
それでも門出としての芥川賞が引き取った意味には、純文学側がその接続や橋渡しを求め、あえて自壊した起死回生の転換を見ることが出来る。
2003年に綿矢・金原の成功体験を持つ芥川賞は2000年代後半~2010年代にかけて、純文学の読者減少、難解化による孤立、内輪の倫理に閉じていく感じに、文化と商業の両面での危機に晒されていたのは間違いなくて、その中で「社会性とつながれる純文学/現実を扱える純文学/働く人の主題」を取り入れて書ける当代的な作家が必要だった所に津村記久子が現れた、という構図は、芥川賞が津村を選んだというよりも、その特性を必要とした、という見方に近い。
私は好きでも詳しくもないけれど、深さ熱さ的な純文学は本来、主題傾倒的に純度を上げたり文体実験をするため、読者を選ぶことで自分や体制を保ってきた。そこに、読みやすくて社会的で大衆読者が共感可能な作家を中心に据えたというのは、純文学の境界を自分で溶かしにいったことにより自壊を含んだ延命策として映る。純文学や文学制度が、文化や文学を守るために壁を溶かしたことは一応歴史的転換点になるのかなと。 ある意味での自尊を捨て、新時代に何を求めていくのか。
これは津村の立ち位置の独自性にも功を奏して、著者が本来的な直木賞に行っていたら現代テーマで書ける大衆作家枠で回収されて終わるだけだったかもしれないが、芥川賞に行ったから一般受けしやすい売れる純文学(の一定刷新者)という物語が付いた。これによって津村は軽く扱われないし、純文学側は現実性を選出した形を保てるので社会的に閉じていない振りができる、読者も芥川賞作家の作品が読みやすく共感もしやすく親しめる読書的自尊心に触れることが出来る、という三方良しの政治的配置が成立した。これは制度設計的に結構美しくて、すべて軽度な三者三様の権威が守られた。
津村記久子の真価は純文学と大衆文学の中間を成立させたことにあるが、その由来は純文学側が時代的危機感から彼女を選びながら一般への接続を試み、新時代の芥川賞作家的に扱い始めたことで、著者は箔付けと中央を陣地どりすることに成功し、商業的成功や一般的読者確保という、ある意味で世俗的かつ自活的で、文化が市場原理に晒された結果の物語として非常に原理的な事件とみることが出来るのかなと。制度・賞・位置・役割・犠牲構造としてみると、現代の日本文学史の設計図やその経過が思われるような気がするし、作家単独でみると、文学の更新や達成を狙わなくてはならない純文学性で勝負したり、その上であまり売れない姿になり果てるよりもだいぶ賢いし、ヒロイック性も見て取ることが出来て、本来的な直木賞や本屋大賞的な才能を使いつつ重みの振りが出来る現代における幸運な立場に躍り出ることが出来たのかなと。
初めて津村作品を読んだ時のこと、ブログを始めてから芥川賞受賞作や本屋大賞2位になった作品を読んだとき、その都度の違和感や落胆の正体が今回やっと落着した思いがする。
そして同時にその役割を書き手・売り手・読み手が3方向的に自覚的になって今の現状なのか、まだ不十分故の状態なのか、戦略と効果が文化や商業としての文芸と文学をどこへ連れていくのか、興味は続く。



「少女性の大爆発」と「線香花火的一瞬の商業性」
津村記久子という手垢のついていない新星に頼りながら自壊した意図のように、現代における旧態の純文学が、いかに文化に生き残る道を模索し、文学として文明性を求めることを一時放棄してでも背に腹は代えられなくなった矮小さが目立つには、2003年の爆発を忘れられずに2015年にまたそれを頼る転機に甘え、ついに制度としての権威を地に落としていく経過までしばし待たれる。
2003年の綿矢による芥川賞の一般爆発は少女性の更新と相まって良かったが、
2015年の又吉による線香花火的一瞬の商業性は芥川賞の権威を完全に地に落とした。
2003年・綿矢りさの一般爆発は更新

綿矢りさの登場は、若さ・身体感覚・感情の即時性・語りの非成熟さが新しい主体の形として機能していて、マーケティング的な若さではなく世界認識の新規性としての若さとしての発露には確実に文学性があった。その上での商業的爆発は、上世代には若い才能を感じさせたし、同年代や下世代にも読書文化や内面肯定や表現文化を覚えさせた。
文学史的にもジェンダー的にも意味があったし、文化的更新としても意味があった。ゆえに文学の内部から起きた爆発として必要な事件だったという見方が出来る。
2000年代以降の芥川賞は、この成功体験を忘れられないまま停滞期を迎える。
そして2015年にもう一度爆発を狙う。
2015年・又吉直樹の爆発は外部衝突
2003年/綿矢りさ『蹴りたい背中』単行本125万部強
2015年/又吉直樹『火花』単行本230万前後
2016年/村田沙耶香『コンビニ人間』単行本100万部達成
これらの商業的成功の中で際立っているのは、数字と異色性で2015年の又吉は特筆すべき点。
芸人という圧倒的知名度やテレビメディアとの相乗効果として、芸人が書いた純文学という実物語の導入が先に立ち、商業性や話題的には抜群だろうと、文学の内部更新ではなくメディア環境の外圧による現象によるものであり、しかも、作品自体は極めて保守的で、文体もテーマも教科書的な旧態純文学で何一つ更新していない。制度的立場の芥川賞は、線香花火的一瞬の商業性ほしさに制度としての自らの権威を完全に地に落とした、という結果だけが残った。
ここで問題なのは又吉の作品性ではなく、文学的に新しいから売れたのではなく、売れる属性があったから文学として消費された構図であり、消費するために選出し合った相互構図にあり、その結果の講評が制度と著者本人をどのような文脈的位置や意味に落とすのか、の賭けに勝つ気だったのか負ける気だったのか、という戦略性と結果なのかなと思う。
この瞬間に芥川賞は、純文学の最前線や鬼門から、話題性や商業性の解放と回収の機関へと成り下がることになり、本質的な文学性や文化性とは明確にズレた上で、その後商業性や文化性を突き進めたわけでもなく、結果的に何も得ていないことが致命傷。
この記事を書くために受賞作を読んだが、他の著作を読んでいない為に作家単位で語ることはできないが、受賞作に関してだけ言えば、別に悪くないし、文章頑張る具合で言えば津村より頑張っていた。勿論モチーフとしての芸人や漫才が立体的に虚構創作されているかという点や、主人公が憧れる先輩の偶像性と落着点、或いは成功と絶望の明暗が強い業界の悲哀性、その人生の男性性等と重ねるノスタルジー性など、書き込めば文学性を帯びる要素は盛り込まれているが、そこを選んで膨らませて表現出来ず、終始生真面目な文体のみで羅列する部分に創作上の才能を感じることはないし、傾倒気味な純文学性よりは小刻みなコミカルや自嘲気味な小器用さなどのが目立つし、描きたい世界観よりは小手先感が否めず、それが作家性の限界だと感じた。悪くないけど、又吉の名前が無いと売れない作品、の域は出ないし、彼が書くから読む人間はいても、この作品を書けるのは又吉だけ、とは反転しない。
それでも、そういう作家作品に頼らなくてはならなかった業界の現状、何よりそれ以下でしか面白くない作家作品がいくらでもある状態に、文化と商業の前の文学性を感じ入るべき。
芥川賞の段階的劣化
綿矢で更新に成功し、
津村で境界を溶かして延命し、又吉で外部人気にすがった
つまり芥川賞は、綿矢で更新に成功し、津村で境界を溶かして延命し、又吉で外部人気にすがった、という段階的劣化をしている。この流れを見れば、日本文学が自力で世界を作れなくなったことの自白であり、特にその発端は旧態の文学性としての男性主体であり、そこから少女性に頼り、一般共鳴と大衆普遍性に頼り、外部文化に頼った。構造的な縮退を意味するし、自発的な売り方も読まれ方も出来なくなっていることの自認の姿ですらあると思う。
かつての純文学は少なくとも、世界をどう理解し、人類はどこへ向かい、社会と主体はどう関係するか、という文明レベルの問いを引き受けていたか、少なくとも引き受けている振りはしていた。それが今や、個人の傷・生のつらさ・ケアされなさ・しんどさの共有に極端に寄っており、もちろんそれ自体は悪ではないが、問題は、それしかなくなったことであり、文明性を求めることをやめ、文化の独自性を忘れたながらはき違えたことにある。
文学が、文化にも商業にも置いてけぼりになれた結果、骨格である世界に責任を持つ覚悟がなくなった、もしくは最初からなかったことが浮き彫りになる。日本文学はいざ知らず、世界的な文学は本来、世界を解釈して世界に抗い、世界を書き換えるという攻撃性や真価を持っているはずだと私は思っていて、でも今や日本文学は文芸ですら文化や商業を保てずに、傷つかないこと・断罪されないこと・炎上しないことを優先し、その結果、安全で脆弱な内向きの矮小な文芸に成り下がっていているように感じる。賞や制度も更新を評価できないし挑発を引き取れない、つまり危険な作家を選出できず奨励も出来ずに安易な話題性や共感性や消費可能性に寄っていく姿は、文学が文学であることを諦めている状態を表す。
本質的には、文学が文学足るかというところに市場原理や大衆性も虚構創作性も関係はないが、文明や人類の装置として機能しているかという基準が必要だとは思う。旧態の純文学がいかに文芸として文化に生き残る道を模索し、文明や文学性を求めることをやめて、現代に則そうとした結果に得た矮小さ、という三段構えの批判感覚はそれほど的外れではないとは思うのだけど、業界の中に生き方や制度を担って若手を抜粋してきた方たちからすると他にもっともらしい価値や狙いがあって、その成果は今萌え芽として進行中だったりするのだろうか。
でもこのように考える時点で私は結局文学に期待している側の人間であり、故に諦められず、消費者にもなれない所にいる。あるべきはずの姿を求めて、現状に悲しんで、でも絶望していても意味がないと矮小の直視から始める必要があるこの地点は、本来性からして終わらせていいものなのか、という問いを諦められない逡巡の地点。
芥川賞=社会問題のガイドスケッチ化という機能劣化
芥川賞の一般化が純文学に与えた5つの弱体化
*形式的更新が後退、社会性・テーマ重視へ
*文学賞が社会問題の窓口化
*読みやすく売れそうな新人に最適化、
危険な新人の消失
*メディア露出と商業性が選考に影響傾向
*受賞が文学的キャリアの褒賞ではなく、
商業的な通過点に落ちた
芥川賞は純文学の先端性(形式・思想の更新)的才能を評価する賞だったが、2010年代にかけて、次第に一般読者に届くことが主要軸に組み込まれはじめ、賞自体の重心がずれた。
かつての芥川賞は、文学の制度の内部でしか読めないような形式的挑戦が中心で、高度な語りの実験、文体・時間構造の飛躍、主体の分裂や倫理の問いなど、研究対象になるタイプの文学で、一般読者が消化しやすいものではなかった。
2000年代は読者層の意識が前提化されたことにより、社会問題のわかりやすい切り取りや題材の身近さ、短時間で読める量であることや、同時代性(生きづらさ・貧困・職場の苦しさ)などが評価軸に入ったことで、前衛的な何かより、わかりやすい社会性が優先されるようになった結果、作品そのものの制度的価値は希薄化し、前衛による更新から社会問題の入口へ重心が移る。
「テーマの強さ」>「文学の強度」という逆転
文学賞は本来更新の場だが、純文学の一般化は芥川賞を社会問題の導入書のようにしてしまった。
ワーキングプアやブラック企業、育児負担やジェンダー、地方衰退や家父長制など、これらの社会現代的テーマはもちろん重要だが、ジャーナリズムや社会学が担うべき領域であり、芥川賞はテーマに従属するようになった。この時に重要なことは、モチーフ選定をすれば評価され、その虚構創作性はそこまで重視されることはなくなったこと、ここでもつまりは批評性が問われる形になるし、何をテーマモチーフに採るのかよりも、どれだけ・どのように書けるのか、が問われる文学であるべき初心が、社会性の元に軽んじられてしまうことが挙げられるのかなと。これにより、文学独自の価値(虚構創作・文芸構造・文体更新)が後景化し、文化や賞の制度的権威が薄れる。
本質的には私はテーマ重視であるし、文学性とはとどのつまりその部分であるとすら思うのだが、それでもここを取り上げることの重さを認識してもらいたい。社会性があれば現代文学でもないし、テーマ性があればそれが文学性になるわけでもないこと、作家はジャーナリストでも思想家でもなく、虚構創作や文体の技術と魅力無くして作家足り得ないこと、社会性やテーマは間違いなく必要、でもそれだけでは創作の仕事ではない。意義があっても魅力なくして、意味があっても技術なくして、情動も数字もついてこない。


メディア露出と商業性の優先
純文学の一般化をもっとも象徴したのは、芥川賞の受賞作を社会現象として売ることに目覚めたことにより、売れる作風が選ばれやすくなる→ますます一般化が強まる、という循環を持つようになったことであり、それにより賞の仕組みがメディア企画や時事トピックなどの様相に変化し、ワイドショー的な存在となったことにより消費傾向が加速していく。
芥川賞の社会的地位は上がったが、文学的価値は相対的に低下することは避けられないし、こうなると審査側も文学的更新より報道価値が高い作品を選ぶインセンティブが生まれるし、そもそもの判断基準が時代と共に変質しつつ進む。
芥川賞は新人賞であり、新人に文学的革命=才能の誕生を要求し奨励する場所だったはずが、2000年代以降の一般化の流れにより、出版社が売れる新人・一般が読める文芸を投入する場所に様変わりを果たす。
文章が滑らか・キャラや設定が理解しやすい・テーマがキャッチー・SNSで流通しやすい、などの売り易く安全な作家ばかりが候補に上がるようになるのは必然で、構造を壊すような文学的な危険性を持つ書き手が減少し、制度の役割が発掘装置ではなく流通装置に変わり、出版の目的が商業生産と安寧へと移る。そのため芥川賞や出版が文学的リスクを引き受ける場所ではなくなった。
芥川賞の一般化によって純文学の出口が変質し、受賞作に作家的核心が書かれにくくなり、受賞後に大きく自由になる作家が減り、その後の作品が売れる構造が弱まり、芥川賞自体がキャリアの通過点化していく結果、文学的権威装置としての機能が弱まった。
芥川賞を読む=文学構造の差異
*テーマと形式の力関係
*受賞当時の社会状況との同期/非同期
*村上春樹以降の影響軸
*2000年代の貧困ナラティブの制度化/共感物語
*純文学と新書・社会学の領域の混線
*新人の安全化と、話題性の優遇、偶像性消費
紐解く、純文学の大衆化
純文学の大衆化は一夜にして起きた現象ではなく、メディアの拡大や読者層の変質、出版社の経済構造変化と賞制度のポピュラリゼーションが複合したプロセスに思うし、純文学は作家の個性や日常描写と読みやすさを重視しながら売れる形に変形していき、構造的な実験や歴史的断面を扱う本格文学は相対的に評価場から押し出されていく。
1|〈年代→変化→代表例〉
戦前~戦後直後<知的エリートの言語空間>
変化:近代文学が知的階層の教養として整備
代表:芥川龍之介以前の近代短篇的伝統
1950~1970<大衆化と大衆文学の隆盛>
変化:雑誌・文芸誌と単行本市場の拡大。戦後の読書文化普及
代表:三島由紀夫・川端康成
(権威化と大衆性の両保持)
1980~90<文芸市場の商業化開始>
変化:新書・文庫流通・書店チェーン化、編集のマーケ重視化
代表:村上春樹の世界的ヒット
が象徴する文学と文芸商業の曖昧化
2000<女性作家の台頭+賞のポピュラリゼーション>
変化:綿矢・金原・川上らが話題化。
芥川等の受賞作がメディアで拡散。
代表:綿矢りさ、金原ひとみ、川上未映子。
編集側の話題作戦略が顕著。
2010<売り手主導の本屋大賞型消費シフト>
変化:書店、SNS、映画化で
売れる、読まれる小説が優先。
代表:本屋大賞受賞作の売上とメディア露出。
2020<デジタル化・プラットフォーム圧力と賞の相対化>
変化:ネット書評・レビュー文化、
音声化、サブスク、海外翻訳市場の影響
芥川の重みはもはや限定的だが相対化。
代表:受賞作が必ずしも話題化しない現象、
賞の象徴性と機能性の乖離。
1|大衆化が進んだメカニズム
1980~90年代をこの文脈で語るうえで避けては通れないのが村上春樹だと思うが、先行嫌悪して読んだことが無い人間からすれば(申し訳ありません)、村上春樹を評価できる点は、彼が示した「(純)文学でも世界市場で売れる商品になり得る」という成功体験で、文学っぽさと文体の読みやすさを世界観が両立し、文学性・編集・翻訳・メディアが一体となるモデルを作ったことは間違いなくて、これは文化・業界的に絶対的な革命であり、その後へ続く幻想、なんならセカイ系。
2000~2010年代は女性的爆発を狙った編集戦略として、若い女性作家の衝撃的爆売れは、制度というよりも出版編集の戦略と思う。話題を作ればメディアと書店が追随し、SNSや一般読者が反応し、受賞も売上も連動する大きな流れを見た。これもまた制度や業界が夢を見られた一端。
2010~2020年代は、壊死自壊した芥川賞直木賞に対し、本屋大賞のみが市場的には機能している雰囲気があり、積み上げの時期を見事に昇華。書店員が選ぶというプロモロジックで、賞→販促→映画化のパイプラインが確立され、商業としての文芸の主役化を果たす。古臭い純文学から、現代商業物語へ。
2020~現在は、SNS・レビュー時代として、レビューと口コミが即時に広がるため、編集は炎上を恐れて読みやすさを重視しつつも、バズることを狙う議論性を両立させる路線を選ぶが、それは文学性ではなくあくまで話題性の範疇にあり、そこの実験や挑戦は一時的かつ短絡的で単独作家の継続は類を見ず、文脈としても語ることは適わない感がある。
■編集・出版社の収益構造の変化
出版社は不況と競争でリスク回避を優先。市場原理に基づいて、読みやすく売れる安全策を求めて売る構え。企画会議→マーケット適合が最重要。
□文学賞の報道化と選考基準の政治化
賞がニュース価値を持ち、受賞作はメディアで消費される仕組化。選考は文学性だけでなく、話題性や雑誌や単行本が売れるかも考慮されるようになる。経済活動としては至極当然だが、文化と商業としての両面の保持と成長のどちらも低調。
■批評エコシステムの希薄化
専門批評の衰退、雑誌メディアの縮小により、じっくりと構造分析を行う場が減ったし、行う批評側も自分の食い扶持や存在論もある為にここにも市場原理が働く形があるし、業界や書店と組んで売りに走ることの方が賢く、炎上を避ける心理は批評側にも影響。
■書店チェーン/本屋の影響力
書店は小売業として売れる商品を前面に出すため、分かりやすい物語や話題作に棚や特集を割く。棚が露出を生み、売上→賞評価にも影響していく。局地的な作戦が文化化していく意味では好例だが、文芸商業だけが正当化していく文脈に対し、文学や制度がなんの太刀打ちも出来ず衰退していく様は個人的にはむむむ。
□読者層の拡大・読書習慣の断片化
読者は多様化、効率的な現代性も手伝って短時間で楽しめるテイストを好む層が増える。スマホ時代の読みやすさが重視。
□デジタルプラットフォームの評価軸
レビュー数・ランキング・SNS拡散が可視的評価になり、アルゴリズム的に見つかりやすい作品が優先される。映像化に次ぐSNS化の最適への流れはもはや潮流。
□メディアと映像化の連動
映像化しやすいプロット(人物ドラマ・恋愛・家族)が優先される。映像化できる本は編集側でも推されやすい、映画制作側は原作による知名度や一定顧客の確保など、双方にジャンプアップを狙う相互関係。
2|文学性が失われるメカニズム
|社会文化的インパクトの帰結
短期:◎読みやすい作品が増え、読者接点は拡大
中期:△文学の実験的更新が停滞し、
構造変化を担う作家が生まれにくい
長期:×文学的多様性の収縮。
×世界文学への接続や選択肢が減る確率
×文化資本の貧困化が進行。
制度や商業出版=編集は抽象的・理論的な問いを扱う作品よりも、物語的解決を提供するテキストを好み、深い構造的問題は出づらくなる。そこに文学性が生まれ易いわけもなく、抽象度の低下を免れず、言語実験のコスト化も相まって文芸性まで低下。実験的文体は読者の取っつきにくさを生み、販促コストが増すため、出版社は投資効率の観点から敬遠。個人的には形式は文学性とそこまで認識していないが、アカデミック的にはこれも重要な点なのだし、推奨や褒賞なくして育つはずもなし。
賞・書店・メディアの評価基準が読者性に寄ることで、異質な声はノイズとして弾かれやすく、評価の均一化が生まれる、つまりそこに文学性が生まれるわけもなし。
学術・専門批評の場が縮小し、文学の制度的自己修正(=批評による再評価)が弱まる。批評の空白、読み手の簡略化、つまりそこに文学性や更新が生まれるわけもなし。
津村記久子のように文学界が一般化を狙って仕掛けた純文学作家は、2000~2020年で見ると系譜的に拾い出すことが出来て、そのようにして芥川賞や純文学に疎い私が認識しやすい、ということがすでに一般化としての成功例で軽薄さである、というジレンマも生まれる。
①純文学を柔らかくする潮流
=読みやすい・日常系・文体の軽さ
町田康 → 吉田修一 → 津村記久子
②若者・話題性で入口を広げる潮流
=純文学をメディア商品として一般化
綿矢りさ・金原ひとみ→津村
③大衆文学との境界を薄める潮流
=一般読者の一次興味大規模流入
津村→又吉
津村はこの三つの中間地点にあり、文学賞の権威×読者の取り込みが最も自然に成立した成功例だったのではないかなと思うし、この辺りで止めておけばよかったのにな、の点でもあるのかなと。
津村記久子は文学界が救世主として必要としていた役割に合致したから推された作家で、文学的水準でいえば絲山秋子・川上未映子のような革新ではない上で、綿矢又吉等の一時的商業爆発にもならない、その意味でも中間者であり、重すぎず、軽すぎない。文学賞の受賞歴が多いのは実力の証明というより、選びやすく・乗せる価値がある等の制度の都合が多分であり、芥川賞をはじめとして箔付けバッジとしての機能は、賞と作家双方に享受され、現代性・商業性・社会性、重さと軽さを挟みあった力学が生まれた。
1. 町田康・伊藤たかみ(90年代末~2000年代)
純文学の硬さを和らげ、一般読者に読ませる文学への転換点。業界側が読者受けしそうな新顔として持ち上げ。結果的に純文学のポップ化の最初期はこの辺り。津村記久子の「軽やかさ/読者=一般人」という路線の前史
2. 吉田修一(2000年代前半)
純文学 × 大衆性の橋渡し役。
売れる純文学という構図の強さ。
映像化されやすい題材、読みやすい文体。
出版社が客層拡大のための顔として位置付けた典型例。作品の文学性はそこそこだが、一般の人も読める純文学として推されていた印象と、映像化によって跳ねた印象。けれどそれが結果的に複数作ヒットしているわけだから大成功例。ある意味業界が一番見習うべき存在はこちらなのでは。
3. 金原ひとみ・綿矢りさ(2000年代中盤)
話題と売上を両立させる若者の純文学という商品戦略。若さ・キャラ性を前面に出した売り方。
文学賞が一般メディアに大きく取り上げられた例。純文学の一般化の中でも、完全にメディア経済を利用。文学的価値より現象としての側面が強いが、女性文学台頭の開口を作った功績は大きい。
4. 又吉直樹(単体というより現象)
純文学を完全に一般読者のものにした象徴。
他ジャンル人気者が書いた小説なら純文学でも売れる事の証明。文学界が積極的に一般層の窓口として利用。又吉は完全に純文学一般化の頂点。双方の箔付け、サブカルの究極。
資本主義時代の迎合と本懐を守るリテラシー
資本主義の時代に市場原理や経営観点を抜きに語れる業界は少ないし、文芸文学も勿論違わず、だからこそ本屋大賞等の内部から売ろうとする行為や、制度が異なる文学性を模索して時代と共に受賞対象を変化させていくことも問題ない、ただ問題はその延命し維持し隆盛を求める制度側が本質的に尊び発展させるべき文学性の真骨頂を失っているのではないか、資本主義の難しさや愛らしさや悲しみにあると思うし、どの文化ジャンルも抱えるジレンマ。
純文学であっても、制度・賞・書店・編集部・読者層・広告・書店キャンペーン、すべて資本的文脈の中で動いていていて、文芸も市場原理の中にあり、文学は理念だけで成立するものではなく、常に社会経済的な循環の中で評価される。この前提を認識することが、現代文学の構造理解には必須。
制度側には生存戦略としての延命が必要で、読者・売上・メディアとの接続なしには成り立たないため、延命や売上を追求する姿勢は必然。芥川賞や直木賞が対象を時代に合わせて更新する、本屋大賞が内部からヒットを作る、これ自体は制度の賢明と戦略であり、ここで柔軟性を失えば文芸と文学そのものが時代との接続を失う。
文学制度は存続のために安全で消費可能な作品を選ぶが、真骨頂は市場原理を超えた挑戦・文明的視座・思想的冒険にある結果として、自己保存のために自己規制され、縮小化し独自性や倫理が希薄化する。これは資本主義と芸術・学術の永遠の相克であり、人類各人の合理的時流の中で本質的文学性は常に微量ずつ失われていく。これが人類と共に歩む文学の当代ジレンマ。
文学だけでなく、音楽、美術、演劇、映画…どの文化ジャンルも、生き残るためには市場・制度・消費者に依存し、真価を追求すると市場で評価されない可能性がある。資本主義下の文学は市場原理の影響を避けられないため、制度側の延命策(本屋大賞・受賞対象の変化)自体は合理的だが、その延命の中で失われるべきでない文学性の真骨頂が犠牲になっていることは懸念であり、これは文学だけでなく、すべての文化ジャンルが抱える資本主義的ジレンマ。つまり、現代文学の課題は生存戦略と文明的使命の両立にある。
ここで重要なのは、文学制度が延命と文明的使命のバランスをどう取るか、作家が市場と思想・視座のどちらに重きを置くか、この二軸で現代文化は動いている、という認識。
これはまさに、近年の芥川賞の流れの本質。
又吉、津村、綿矢…いずれも、文学的技巧より社会的接続力や話題性が先に立っており、著者の偶像性・話題性が第一である状況は資本主義文化の現実そのものであり、芥川賞はもう純文学性だけで成立しない。読者動員力やメディア露出、消費可能性の模索、これは市場原理として合理的であり、制度が文化としての社会的接続をで持続するための延命作業は重要につき、ここで重要なのは、制度と市場構造の中で文学を読む視座で、存続のためには作品の内部強度(文体、構造、思想)は二次的であることを認め、それでも文学性第一の本質を保持しつつ、制度や市場との乖離を理解する必要がそもそもの始まり。
芥川賞は社会性・話題性優先の傾向が顕著であり、それは市場原理・商業的文脈において仕方が無く、大衆性や市場性において文学性という価値は相対評価であって絶対評価ではなく、批評性が相対的に力を持たなければ多軸評価による成果や達成には届かない構造において、内部だけではもはやその維持は困難なために外部の倫理・リテラシーが必要。文学性を尊ぶ視座を持ちながら、制度・市場・メディア・話題性・偶像性などの現実も認識するこの二重視座には、文学を守ろうとする覚悟と資本主義下で文学をどう扱うかの洞察を同時に持つことから現代文学の全体像が立ち上がる。
制度内部ではもう自発的に文学性を守る力は働かないし、市場原理に抗うためには外部からの介入・評価・批評力が不可欠であり、読者や評論家が話題性だけでなく文学的価値を見抜き、発信する力が必要である、という売り手の倫理と読み手の批評性の必要性は、未来への提言に近い。
文学第一主義を保持したまま、資本主義下で文学がどのように扱われ・歪められ・消費されるか、ここにこの論の面白みと強度があるし、書き手・売り手・読み手、の倫理・批評性・文化という外部循環が21世紀的には必要で、それらを内的化する爆発力はもはや芥川賞には存在しない、革新ではなく庇護下にあり、芥川賞の延命と文学的価値維持は内部だけでは成立しないという指摘。
作家だけが倫理を持っても足りない、編集者だけが目利きでも足りない、文学賞だけではなお足りず、必要なのは外部の倫理とリテラシーであり、ここで初めて「文学第一の立場×市場理解」が対立ではなく、緊張関係として共存し始める。純文学を聖域化せず、市場原理を対立軸に置かず、無力な文学が今置かれている現実から目を逸らさない批評性が必要な現在位置の確認にもなる。誰も悪くないが誰も強くない状況において、一度失った信頼や長年それで来た旧態を覆すのは容易ではなく、文化や土壌の衰退は基本的には宿命。けれど女性の抑圧の解放が危機感と生命線であったように、不在の自意識からの打開は率先を取りやすく、現状打破のきっかけは小さな筆致からでも始まると信じる所からが文芸。
二重視座の構造
① 文学第一の原理的立場
・文学的強度、言語の密度、形式の倫理、思想的射程
・それ自体が価値の根拠であり、市場や話題性とは本来独立
・文学を売れる物語=文芸ではなく、
世界認識を更新する装置として捉える姿勢(核心)
② 市場・制度への現実認識
・文学は現代において
出版制度・文学賞・メディア・SNS的話題性・作者の偶像性
から切り離されて存在できない
・とりわけ芥川賞は
社会性・時代性・話題化可能性 を優先する傾向が顕著
・その結果
文学的強度は二次化、市場原理的には合理的だが文学内部から見ると劣化
③外部の倫理と批評性の必須
・読み手-話題性消費→判断力・摂取性
・売り手-売れる作品より売りたい作品、売れる理由より売りたい理由
・書き手-看過や惰性よりも奨励や指摘、炎上より衰退を恐れる忠誠
**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~


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