G-40MCWJEVZR スペイン語の翻訳とラテンアメリカ文学研究/Latin American Literature in Translation: How Japan Builds Literary History Through Translators ポストモダンシリーズ③ - おひさまの図書館
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スペイン語の翻訳とラテンアメリカ文学研究/Latin American Literature in Translation: How Japan Builds Literary History Through Translators ポストモダンシリーズ③

World Literature

翻訳されたラテンアメリカ文学
日本はいかに翻訳者を通じて文学史を構築するか

For readers interested in world literature, translation, and the circulation of culture
世界文学、翻訳、そして文化の流通に関心のある読者に向けて

<English Summary>
This article explores how Latin American literature has been received, translated, and studied in Japan, arguing that translation plays a far more central role than in many Western literary traditions.
 Due to linguistic, geographical, and market barriers, Latin American literature in Japan has developed within a relatively small but dense intellectual community. In this context, scholars often function simultaneously as translators, critics, and historians, particularly in the reception of major authors such as Gabriel Garcia Marquez, Roberto Bolano, and Jorge Luis Borges. As a result, translation is not merely a secondary act of mediation, but a primary force that shapes literary selection, interpretation, and canon formation.
 By examining key figures, translation history, and major introductory works, this article suggests that Japanese engagement with Latin American literature reveals an alternative model of world literature?one in which literature is understood not simply as a body of texts, but as a network of circulation, interpretation, and cultural transfer.
 Drawing on theoretical frameworks such as David Damrosch’s concept of world literature as circulation, Pascale Casanova’s literary world-system, and Emily Apter’s critique of untranslatability, the article repositions translation as a central agent in the construction of literary history.
 Ultimately, this case study raises a broader question: if literature only becomes “world literature” through movement across languages and cultures, then who truly creates it?the author, the translator, or the system that enables its circulation?
 本記事は、日本におけるラテンアメリカ文学の受容・翻訳・研究のあり方を分析し、翻訳が西洋文学以上に中心的な役割を担っていることを論じる。
 言語的・地理的・市場的な障壁により、日本におけるラテンアメリカ文学は、小規模ながらも濃密な知的コミュニティの中で発展してきた。この文脈において、研究者は翻訳者・批評家・文学史家を兼ねることが多く、特にガブリエル・ガルシア=マルケス、ロベルト・ボラーニョ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスといった主要作家の受容において顕著である。その結果、翻訳は単なる媒介ではなく、作品選定・解釈・カノン形成を規定する主要な力となっている。
 本記事は主要人物や翻訳史、入門書を検討することで、日本におけるラテンアメリカ文学受容が、単なるテキストの集合ではなく「流通・解釈・文化移動のネットワーク」としての世界文学の別モデルを提示していることを示す。
 また、デイヴィッド・ダムロッシュの「流通としての世界文学」、パスカル・カザノヴァの文学世界システム論、エミリー・アプターの翻訳不可能性批判といった理論を参照しながら、翻訳を文学史構築の中核的主体として再位置づける。
 最終的に本記事は、文学が言語と文化を越えて移動することで初めて「世界文学」となるならば、それを作っているのは誰なのか――作家か、翻訳者か、それとも流通システムそのものなのか、という問いを提示する。

 

 ラテンアメリカシリーズ3弾目は、視点を変えて翻訳や文化流通の話。
 ネット時代やグローバル化により人や言語の越境性は増すばかりで、翻訳機能はついにxにおいて更なる変化を遂げてよりシームレスな世界へと加速していく。その中で言語・翻訳・流通・越境はリアルタイムながらも日本ではあまりピンとこない、私もあまり興味なかったですが、今回はそういう記事です。
 ラテンアメリカ文学シリーズをやるにあたり関連書籍を何冊か適当に図書館で借りてくると、同じ名前や見たことある名前が見つかりラテンアメリカ文学の翻訳者・研究者に興味を持ったところから。
 前回のバルガス=リョサの『世界終末戦争』のあの長編具合や私のブログ記事的にも、これ以上の作品って何を読むの?と思われた方も多いでしょうが、やはり色々と深堀や拡張の方向はあるわけですよ🐰
 多くなったので分割したのですが、次回扱う書籍が難しすぎてひさしぶりに頭がちんぷんかんぷん、まだまだだなあと痛感しました。奥深く、広大です。

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日本語でのラテンアメリカ文学の研究
Latin American literature in Japan

 バルガス=リョサで燃え尽きたので、手元の関連書籍を読み進めるかと眺めてみると、また寺尾隆吉の著作が何点か見つかる。寺尾さんは当ブログでは『100人の作家で読む~』にて扱っているが、ラテンアメリカ関連書籍を揃えて何冊も手に入るのは面白いなと思いつつ、入門編・整理・羅列・ピークの抽出が主な興味なのかなと思ったり、『純真なエレンディラ~』の解説でよかった野谷文昭さんも偶然一冊あり、主要人物が少ないのかなと仮説。
 ちなみに直近では岩波文庫の『世界終末戦争』の旦敬介さん解説も良かったし、久野量一さんは初耳だと思ったけど「島の重さをめぐってキューバ文学を読む」を図書館のリストに入れていたし、「ラテンアメリカ文学を旅する58章」は以前読んでブログ記事にしてある。

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>カヌードスの戦いについて、われわれがこれほど詳しく知りうるのは、ブラジル文学の最高傑作のひとつとされる前述のノンフィクション作品『オズ・セルトンィス』があるからだ(題名はセルタンの複数形)。一九〇二年に刊行されたこの作品は、カヌードス制圧に向かった最後の舞台に従軍記者として同行したエウクリデス・ダ・クーニャ(バルガス=リョサが作品の冒頭で献辞に名をあげている)の著者だが、これはセルタンの地勢学とセルタンの文化人類学から始まって、先頭のルポタージュへと展開していく壮大な構想によって書かれ、セルタンに津小手あらゆる情報を提供してくれる怪物的な本だ。バルガス=リョサにとって最大の情報源がこの本だったことは確実だ。そこには、カヌードスの戦争が克明に描き出されている。
>しかし、思い出してみれば、一九六〇年だおにラテンアメリカの小説家が何人かまとまって国際舞台に登場してきた時(ガルシア=マルケス、カルペンティエル、コルタサル…‥‥)、そのなかで一番古典的な、たくみな小説家という印象をあたえていたのはまさに一番若いバルガス=リョサだったのではないかろうか、フロベールを最愛の小説家とするバルガス=リョサは、むしろ好んで伝統的なタイプの小説家を志向しているようなところがあったのである。
 それでいて、たとえば、本初第三部Ⅵの一番最初の断章(下巻冒頭)など、バルガス=リョサがこれまでに書いてきたすべての文章の中で最も傑出しているのではないかと思う。モレイラ・セザルのタイから送り出された偵察隊がなぶり殺しにされているのを記者が発見するくだりだ。描き出される状況が混乱しているうえに、それを描き出す精神の方も混乱している。この断章にはバルガス=リョサの持っているものがすべて木混まれている。ここで視点を握っている記者の精神状態に正確に対応して3つの時間がまったく区別なしに併置され、しかもせりふなどの再現と描写と独白が境目なく連結しているのだ。時間構成の複雑さに、発語のレヴェルの複数性が重ねられて、精神のコンダクト状況の混乱を描き出すのに最高度の効果をはっきりしていると思う。軍隊の作戦行動のはらむ「数的な複雑さ」と、そのなかに巻き込まれながら観察している実質的な語り手(記者)の精神状態がはらむ「質的な複雑さ」をどのように描くかという問題に対するバルガス=リョサの回答がこれだ。そこでは、『ボヴァリー夫人』のなかの有名なの農業共進会の場面などが意識されていたのかもしれない。フロベールから何を借りているのかは、バルガス=リョサのフロベール論『果てしなき饗宴』で浮き彫りにされている

 つまりそのように、体系的に調べていない私でもすでに数冊・数回・数人とは自然と触れているのは、日本におけるラテンアメリカ研究は局地的かつ濃密で、人物・資料数も限られているからなのではないか?
 自国文学や英米文学に比べて研究者コミュニティが小さいであろうことが予測されるのは、言語的・地理的・市場的、あらゆる側面から妥当であるだろうと思うし、日本ではラテンアメリカ文学研究者が限られているとすれば、同じ人が翻訳も研究も解説もやっているから巻末解説と関連書籍に同じ名前が見つかるのだろうし、それらが手引きとしても機能する素晴らしい文章であることがあるのも体感と相違ない。
 日本では植民地経験が異なるうえに地理的距離が遠く語圏の被りもなく、歴史的・文化的な共通点も弱いため、市場需要も小さく研究コミュニティが小さい。故に同じ翻訳者のテキストや著作に頻繁に出くわすし、関連書籍としてリストアップしなくとも同様の著者の書籍が手元に集まったのかなと。
 これらを考えるとき、明らかに日本におけるラテンアメリカ文学の翻訳や研究は英米研究とは異なる点が多いように思う。日本語圏では翻訳を通じて文学が受容される為に翻訳史/出版文化/受容研究が多く、欧米ではLatin American literary studiesとして扱われるが、日本ではラテンアメリカ研究/スペイン語圏研究の中に入るために、単純に文学・テキスト受容だけでなく地域研究と一体化する側面がある。
 例えば、日本文学・現代文芸を読むうえで私たちは予備知識の多くが必要ないと思って読書を気軽に楽しむことが出来るが、地理的・歴史的・文化的に遠く離れたラテンアメリカ文学を気軽に楽しむことは私たちにとって容易なことではない。そこには、文化背景や歴史的文脈の異なりがある。
 「文学×国家×歴史×地理」はラテンアメリカ文学の基本だと思うが、日本語圏ではこの枠組みを補ったうえで読書趣味を楽しむことは結構難度が高いから、このラテンアメリカ文学シリーズでのアプローチは研究/批評/読書の交差点に位置してしまうそんな読書の難しさを、もう少し気軽に、そしてできればもう少し味わい深く楽しむことは出来ないか、という実践と探求にかかわるのかなと。
 勿論ここには、時代が異なれば日本文学や現代日本文学であろうとも、テキスト性や文脈性の予備知識がなくとも十二分に楽しめるわけではないことや、10代の私が何の知識や親しみがなくともラテンアメリカ文学に何らかの理由で共感や感銘を感じたことと相異することとはかかわりがないが、今回自分なりにラテンアメリカ文学をさらに楽しむための視点を得たこの1.2カ月でもその解像度の変化を感じる。
 ただそれにしても、今回の記事を書くににあたって関連書籍を一冊ずつ読んでもらちが明かないし、まとめ方にも苦労した。文学作品を1冊読んでサラッと感想を書くような体裁を繕うことが出来ないブログだなとつくづく痛感。

 

言語的・市場的・地理的ハードルの存在

 局地的かつ濃密、これはかなり本質的な特徴だと感じるが、まずやはり言語ハードル。歴史的に植民地背景を持つ諸国であるラテンアメリカにおけるテキスト研究には、スペイン語/ポルトガル語/フランス語が必要なことが多く、心理的・知識的ハードルが高いために英語のみの場合に比べて参入者が少ないのは想像しやすい。
 そして日本では一般読者市場が小さければ翻訳出版数・購買数も限られるために食い扶持も少なく、結果的に研究者も増えにくいことは想像に難くない。その理由には、地理的ハードルの高さ、歴史・文化・文脈の前提認識や理解がまず異なるため、そのテキストを楽しむハードルの高さへ直結し、これが市場の弱さ・読者の弱さにも繋がる
 その場合、増えにくい研究者・翻訳者の双方が合致し、一人の人間が兼務しなければならないこと、あるいは横断できる可能性も自然と浮かび上がる。日本では研究者=翻訳者のケースが多い様で、野谷文昭はボルヘス翻訳と研究、柳原孝敦はバルガス=リョサなど翻訳、このためコミュニティがかなり密接になる。
 つまり私の体験は典型で、体系的に調べてないのに数人と数冊に触れていることはこれはこの分野ではよくあることなのかもしれず、理由は単純に主要人物が本当に少ないからではないかと。数は少ないからこそそのコアに当たりやすく、日本のラテンアメリカ文学研究の中心が素人目にも分かり易い、ということなのかなと思ったりもした。
 例えば日本語圏でボルヘス、マルケス、ボラーニョなどを読むと、かなりの確率でホルヘ・ルイス・ボルヘス、ガブリエル・ガルシア=マルケス、ロベルト・ボラーニョの翻訳や研究に関わる日本人研究者が重なる。原語研究/翻訳/世界文学研究を同時にやる文化があるからだし、例えば寺尾隆吉は出版文化・世界文学流通という視点でも見つかるし、タイトルや出版点数から見ても一般向けの出版をしている感じがする。

 日本では文学研究の主体が翻訳者にあるのかもしれないという視点は越境性の日本視点であるし、グローバル化する現代における言語や文学性・文化性の問題にリンクする。他言語が「原文→英文→自国語」の遍歴を持つのだとすれば、日本では「原文→日本語」という経路を持つために、日本の外国文学研究はしばしば「翻訳者=文学研究の主体」という構造を持っているのは感じるし、これは世界的にも少し特殊である事もなんとなく認識。
 欧米では役割が分かれており、研究者が理論・批評を書く、翻訳者が翻訳する。しかし日本ではしばしば研究者=翻訳者で、例えばラテンアメリカ文学だと野谷文昭/柳原孝敦/寺尾隆吉などは研究/翻訳/解説/文学史整理全部やっているように見える。なぜ日本では翻訳者が主体になるのかを考えると、日本の外国文学研究では翻訳史/出版文化/受容史が重視され、「文学=テキスト」ではなく「文学=文化の流通」として見る視点が活きてくるのかなと。だから翻訳研究が主体性を持つし強いのではないかと推測される。

①言語的孤立
 日本語は世界文学の主要言語圏から離れている為、
 翻訳がないと文学が存在しない状態になる。つまり翻訳者が文学の入口。
②読者層が小さい
 外国文学は原語読者が少ない/市場が小さい為、
 翻訳者が作品選定/文学史紹介を担うことが多い。
③日本の近代の形成
 日本の近代文学はそもそも翻訳によって形成された。明治期にはシェイクスピア/トルストイ/イプセンなどが翻訳されて日本文学のモデルになった。翻訳は文化輸入の中枢。


 今回感じた一人が翻訳/研究/解説/文学史整理を全部やるという状況は、分野が小さいと必然的に起こる構造にも思える。日本のラテンアメリカ文学研究は研究者数が少なく、読者市場も小さく、原語読者が少ないゆえに「研究者 = 翻訳者 = 文化紹介者」になる。これは他の小さな分野(中東文学、アフリカ文学)でも起きていることなのではないかなと思うし、大人数を抱えて細分化出来る大企業と、対極にある中小企業の雇用形態と働き方に例えればわかる事。
 もう一つ大きいのは、対象そのものが複雑なことで、ラテンアメリカ文学は普通の文学史と違って「植民地史/国家形成/地理/人種/言語/革命/独裁」が絡むから、読むときも「歴史/地理/政治/文学」を一緒に扱う必要があり、つまり対象自体が学際的(interdisciplinary)だからこそ、その翻訳・研究・読解・解説作業にも複合的な作業や知識が求められる。(翻訳関連や英米文学関係のこれは、文化芸術・テキスト性が強く、それもまた解説を必要する類にも思えたが、この辺りはまた別だし私は詳しくない為ここでは割愛)
 このハードルの高さがあるからこそ、読者にも紹介者にも専攻性が生まれる。社会史・題材性が強いからこそ、今回のラテンアメリカシリーズのスタート記事ではその成り立ちとしての基礎として歴史背景から扱ったのは、読解や理解に必要だと感じたからだし、それは他国文学を読む意味・語る資格に直結していくのかなと。
 このようにして見ると、ラテンアメリカ文学研究は周縁から世界文学を見る起点であると捉えることも可能ではないかと思える。例えば植民地/翻訳/文化移動/世界市場などを考えるとき、ガブリエル・ガルシア=マルケスやフリオ・コルタサルなどのラテンアメリカのブーム文学の中心作家や作品などは「ラテンアメリカ→ヨーロッパ→世界文学」という経路で広まった、つまり1970年代において文学のグローバル化のモデルとして可視化することが可能であると思うが、この辺りはまた扱うとして。
 翻訳が主体になると「文学=作品」ではなく言語の越境として「文学=翻訳された文化」ということにもなる。日本は出版文化も強く翻訳の質も高いと予測できるし、市場も比較的大きい。だからラテンアメリカ文学も多く翻訳されてるし、日本の外国文学研究は人数は少なくとも世界文学研究と相性が良いとみることは可能で、翻訳から受容、そして文化移動という問題を常に扱うことが可能であること。日本の外国文学研究のテーマとしても翻訳文学圏としての日本という問題が思われる。

日本語で読めるラテンアメリカ文学研究の必読10冊?

 と銘打ちながらも、まだまだ手探りで、今回は3冊読みながら、一緒にリストインした書籍も乗せつつ、少しずつ読んでいくとして。すでに同じ名前、例えば見たことある翻訳者の名前などがちらちら見つかる。例えばやはり寺尾隆吉(1971~)が一番目立ったし、次に野谷文昭(1948~)、個人的に名前だけでときめく木村榮一(1943~)さんは、調べてみたら、カルペンティエール『この世の王国』カルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』ミゲル・アンヘル『大統領閣下』バルガス=リョサ『緑の家』と錚々たる翻訳があるし、マルケス『悪い時』『族長の秋』『わが悲しき娼婦たちの思い出』ボルヘス『エル・アフレ』なども多数。私が読んだのはおそらくアジェンデ『精霊たちの家』サンティアーゴ・パハーレス『螺旋』フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』『無声映画のシーン』など、スペイン文学も関連するみたいか。
 木村さんも野谷さんと同じく鼓直(1930~2019)さんに従事したらしく、すでに重なりを感じる。よく見る大学名としては東京外国語大学/立教大学/慶應義塾大学/大阪大学などかなと思うから、主な拠点も集中しているのかもしれないし、研究者の実人数の規模もそれほどではないのかなとか、その中でも中心圏に触れていけていたらいいなと思うばかり。まだまだ手探り。

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100人の作家で知るラテンアメリカ文学ガイドブック

著:寺尾隆吉
 文学史ガイド。作家を軸に国/文学潮流/歴史を整理している。
 研究者・読者の両方の入口ではあるものの、分かり易いタイトルと形式の割には、創作論に寄っていいて、紹介的な効果的な羅列になっているかは微妙。前提とする歴史的・地理的背景を捉えて託す役割は担えていないと個人的には思う。以前ブログ記事にも扱っています。
 想定とタイトルのキャッチ―さは良いが、それで足を踏み入れた初心者読者にとって、創作性・批評性が強い全文はどう映るのか? 個人的には、タイトルと想定から思われるような一般読者向けのガイドブック本に徹してほしかったのが本音。

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ラテンアメリカ文学を旅する58章

編:久野量一
 日本のラテンアメリカ文学研究者が集まった本。
 文学/文化/歴史/政治を横断する日本の研究コミュニティの縮図。
 こちらも以前読んでいます。
 地政学的な要素、ブーム前後よりも昔の前衛詩(ネルーダ/ミストラル)の扱いから始まるなど、より広範囲かつ背景性が強いので初心者入門ではないが、ラテンアメリカにまつわるノーベル文学賞性や歴史背景を含むため、去年私は面白く読んだ。50人前後の筆者の寄稿の寄せ集めのような体裁だったので、論旨的な収束や結論は意図されていないが、主要作家や年代別、独裁小説や証言小説性、など多彩の網羅はいかにラテンアメリカ文学が複合的で進展性があったかを教えてくれるし、その背景には常に地政学が絡んでいて現実的な文学性の存在を示す。この辺りからラテンアメリカの複雑性が地理や歴史的に結びついていることを感じていたけれど、それよりも前からその魅力を感じていたので、その紐解きは面白い旅になる、とも思わせてくれた。
 最大の欠点は、中学生の教科書のような色気のない装丁は本書の中身の魅力とのギャップが凄く、非常に残念なこと。これは装丁で損をしています。

【図書】歴史的虐殺モチーフを片道切符に「ラテンアメリカ文学を旅する58章」Latin American Literature Explained: A Guide Through 58 Writers and Historical Contexts
<English Summary> This article explores Latin American literature through a critical reading of A Journey Through 58 Cha...

ラテンアメリカ文学入門

著:寺尾隆吉
 ラテンアメリカ文学の歴史/主要作家/文学運動を体系化した本。
 こちらは今回読みました。こういう薄い整理本によくある適切な羅列という感じで、足早に軽やかな点は高評価、さらさら読めます。建国小説の流れや文明と野蛮、政治と芸術の交わりと反旗を翻すブーム作家たちや、彼らを取り巻く出版状況、その世界的な航海に乗り出す船に乗る主役5人や彼らの作品、彼らを揉む荒波としての時代や各種政治状況と、作家の姿勢や身の振り方、そしてマルケスとリョサの蜜月から波乱までを扱ったりして、ラテンアメリカ文学のブーム前後の流れが把握できます。
 上の『100人の作家で知るラテンアメリカ文学ガイドブック』と同じ著者のものを偶然手に取ったが、入門編という名づけは今回は適切。個人的には先に読んだ『疎外と反逆』と重複する構成やピークの作り方に既視感があったので終盤で失速するが、このページ分量で全体的な文学史をつかませる構成から深堀の無さと網羅性は相反するために及第点。ビジュアル要素が少ないので、初心者に全体像を提供する意図であれば、もう少しライトに仕上げても良かったかなとは思った。論旨の無さや帰結の弱さを補うことが可能だし、あくまで入門編としての体裁が保たれる。

『疎外と反逆 ガルシア・マルケスとバルガス―ジョサの対話』

訳:寺尾隆吉
 上で触れたとおり、こちらも焦点となる部分が重複していてそこが微妙で視点的狭さを感じさせるが、「2大スターの対談/リョサによるマルケス作品の批評文/若き日のリョサとエレナ・ポニアトウスカとの対談」、という別種類のテキストが翻訳されて残されるという形は悪くない、解説部で触れられている通り、そして翻訳による他文化の流通や保存としての価値は明確。リョサ好きとして対談はとても面白く読んだし、こう並べてみると3種別々のリョサ関連にテキスト資料ということになるか、そう考えると、そこまで面白かったわけではないかなとは思えてきたのはやはり、どこか編集作業や論旨や筆致的踏み込みの部分で相性が悪いのかなと感じる。

ラテンアメリカ文学の出版文化史

著:寺尾隆吉
 これ、少し先の内容だと思って見送ったがリスト入りしている。
 やっぱね、タイトルで観るとこの人の本は魅力を感じる、現代的でとても良いと思う。
 やはりライト層や外側からすれば装丁とタイトルは大事。これ後2冊もとても良いなと思って拾ってしまった。いつか読んだらまた書きます。テーマもいいです、ブームと出版/証言小説と動乱/亡命とスペイン語、キャッチ―かつ核心的。テーマが良いのに論旨は微妙というのはなんなんだろう、問いの立て方ではないだろうしやはり編集作業かな?

 

ラテンアメリカン・ラプソディ

著:野谷文昭
 今回読んだ3冊の中ではこちらが抜群に面白かった。
 著者は以前、ガルシア=マルケスの『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』を読んだときにその解説だけで読む価値があるなと思った筆名だったので頭にあって、そもそも今回楽しみに読んだ。
 冒頭から、ガルシア=マルケスが好きなんだと感じたし、それ以降も扱った翻訳作品としてプイグ『蜘蛛女のキス』や、中上健次(1946~1992)などを扱いつつ、様々な記事や講演内容などの編集策だったが、読むうちにロベルト・ボラーニョの『チリ夜想曲』『2666』、リョサの『フリオとシナリオライター』『子犬たち/ボスたち』『ケルト人のゆめ』など網羅してるのに、彼らへの記述は少ないのもなんだかおかしかった。ボルヘスも扱っていたり、距離感はまだいろいろ掴めないが、中心的な人だなと感じたし、創作性への言及も地政学的な要素も表面上は強くないけれど、マイルドでユーモアのある語り口は滑らか。
 分かり易く文学史に寄せたり批評性に凝りすぎたりもせず、あくまで作家・作品を主体にして語る自然な文章力。過去の新聞・雑誌記事を集めたもので、エッセイみたいに読めるのかなと思う。
 ラテンアメリカ文学研究に進むということ、それで食べていく学生を送り出す難しい時期をリアルタイムで生きた人の証言ともパイオニア意識にも触れているので一種のアイデンティティにもなったのだろうし、スペイン語の魅力やキューバに渡ったときの衝撃、各著者との逸話、言語に生きた人としての感慨を語る終盤は趣もあるの面白い。やはりマルケス部分だけ突出している印象、それはラテンアメリカの珠玉であるからの可能性もあるが、この人の場合は本心からの感じがするのが好意的に感じる。ボルヘスやボラ―ニョも扱っている気がするがまだそこまで語っているのを見たことがないし、中身で触れていたが、ポストモダン的なものを回されることが多く、リョサで言えば『ラ・カテドラルでの対話』は手伝ったが、自分は『フリオとシナリオライター』だけでシリアスや重厚な作品は回ってこない、という裏話も。翻訳にも個性があるんだろうな。まだ未知。

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ラテンアメリカ文学案内

ラテンアメリカ文学案内―文学の祭典 (1984年) |本 | 通販 | Amazon
Amazonでのラテンアメリカ文学案内―文学の祭典 (1984年)。アマゾンならポイント還元本が多数。作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。またラテンアメリカ文学案内―文学の祭典 (1984年)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。

編集:野谷文昭+旦 敬介
 これ読むの凄く難しくて、スクラップ記事みたいな感じで構成やフォントが凝りすぎていて、なんか印刷も読みづらいし、いつの本だと見たら昭和59年でした。
 そらそうよなという感じ、なんというか色々現代ではないです、その時代的なアバンギャルド的な感じですかね? まず段落がどこからどこへ繋がっているか、普通には読めない感じ。説明が下手過ぎるのですが(笑)
 ただその中でも光っていたのはやはり野谷さんで、特に筆名とかは見ずに読み進んでいたら、おっと思って目に留まったから筆名を診たら野谷さんで、もうこの文章だけでブームの説明終わったのではないかだろうか、とてもきれいに短く、という感じがした。以下引用、冒頭の部分しまってていいですよね、これが私の生まれる前に書かれたものかと思うと、作品以上にこういう文章は古臭く感じないように書くのは難しいのだろうなと感じた。
 リョサについての可愛いエピソードもあってニヤニヤ。

ブームの終焉 野谷文昭
 ブームというのは花火のようなものなのだろう。ドーンという音がして夜空にパッと花が咲き、一瞬にして消える。英語のブームboomとはその<ドーン>を表す擬音語であると同時に我景気をも意味するところから、当然ながらコマーシャリズムと結びついてくる。だから、パスのようにコマーシャリズムの産物である「ラテンアメリカ小説のブーム」など文学とは関係ないとして、まったく認めない作家は少なくない。だが現実には、常にイタリック体を用いてではあるけれど、「<ブーム>の小説」、「<ブーム>の作家」という具合に、批評や論文においてさえ<ブーム>という表現はすっかり定着してしまった。また作家にしても、パスとは極めて近い関係にあるカルロス・フエンテスは最近のエッセーの中でこの表現を堂々と使っている。もっともこのフエンテスこそ、問題の<ブーム>の火付け役であり主役の一人なのだから事はややこしい。
 では<ブーム>とは一体何か、あるいは何だったのか。こんな言い方をすると、ホセ・ドノソの自伝風エッセー『<ブーム>の履歴書(邦訳『ラテンアメリカ文学のブーム』)』でのパロディーめいてしまう。
~彼も認めるように、六〇年代のラテンアメリカで国際的な小説、フエンテス流に言えば「新小説」の傑作が次々と発表され、世界的に注目を浴びたことは確かで、一般にはその現象を<ブーム>と呼んでいる。したがって、この時期に代表作を発表した作家が「<ブーム>の作家」であり、その作品が「<ブーム>の作品」ということになる。そのリストは、当事者の利害も絡まって千差万別で、決定版を作ることは不可能だが、少なくとも次の四人は中心的作家として含めなければならないだろう。フリオ・コルタサル、カルロス・フエンテス、ガブリエル・ガルシア=マルケス、マリオ・バルガス=リョサがそれで、彼らの作品は日本でもよく知られている。つまり世界的にも知名度の高い作家たちであり、ある意味では彼ら四人が<ブーム>を支えてきたとも言える。実際、<ブーム>の時期的区分は彼らの作品と密接に結びついているのであって、たとえば、フエンテスの『大気澄み渡る地で』の出た一九五八年からバルガス=リョサが『都会と犬っころ』でブレべ図書賞を受ける一九六二年までを大一気、その後一九六七年にガルシア=マルケスの『百年の孤独』が現れ、頂点に達するまでを第二期、そしてドノソに従うなら、革命によって六〇年代に熱気をもたらし、<ブーム>を鼓舞してきたキューバで言論統制が厳しくなり、詩人バディーリャの作品が発禁となった上彼自身が逮捕されるという事件が起き、<ブーム>を演出してきたバルセロナのセイクス・バラ―ル社が分裂し、雑誌『リブレ』が創刊される一九七〇‐七一年までを第三期とすることが出来る。

 またバルガス=リョサがセイクス・バラ―ル社主催のブレべ図書賞を受けたのは二十六歳の時で、若くてハンサムな大型新人の登場はマスコミに格好の話題を提供し、彼はスペイン、ラテンアメリカにおいて映画スターに劣らぬアイドルとなった。さらに『緑の家』でラテンアメリカのノーベル賞ともいうべきロムロ・ガリュゴス賞を獲得するに至り、その人気は頂点に達し、何気なく入った映画館で、「ただいまバルガス=リョサ氏がご鑑賞中です」という状態アナウンスが流れたというエピソードが残っているほどだ。

島の「重さ」をめぐって キューバの文学を読む

著:久野量一
 キューバ文学研究の重要書。
 革命/国家/アイデンティティ/島という概念。
 キューバは、ブラジルやメキシコと同様に1つとして扱いたいと思っているので、その時にまた。

ラテンアメリカ文学史 

編:鼓直
 植民地文学/近代文学/ブーム文学を日本語で整理した最初期の体系書。
 調べると、マルケスの『百年の孤独』『族長の秋』『エレンディラ』(ちくま文庫/木村榮一さんの連名)、ボルヘスの『伝奇集』『アレフ』『詩という仕事について』など、翻訳書は凄い並び。
 野谷さん木村さんの恩師となると気になるところ。中古でしか見つからない‥‥…

著:柳原孝敦
 近年の研究。テーマ/世界文学/翻訳/文学市場
 著者はボラ―ニョ『野生の探偵たち』『第三帝国』セサル・アイラ『文学会議』リョサ『沈黙をあなたに』などの翻訳のほかに、「メキシコdf テクストとしての都市」「英語に学ぶスペイン語」などの著作や編集作業が目に付くし、1963年生まれ、ブーム後の日本での需要のされ方を考えてしまう。翻訳する作品がないと翻訳者は言語で食べていくしかないのか
 セサル・アイサは最近名前よく見るけど何者なのかな、装丁ポップ

ボルヘス論集
 著:野谷文昭
 ホルヘ・ルイス・ボルヘス研究。
 日本のボルヘス研究はかなりレベルが高く、この本はその代表であるとか。
 ボルヘスかあ……野谷さんなら入れるかなあ

日本のラテンアメリカ文学研究、3つの柱
①文学史整理 :寺尾隆吉/鼓直
②作品研究  :久野量一/野谷文昭
③世界文学研究:柳原孝敦

 文学史+作品分析+世界文学という構造。この分野は研究者 ≒ 翻訳者。
 多くの人が研究者/翻訳者/編集者を全部やっていて、しれが今回感じた日本のラテンアメリカ研究は小さいが濃いという感覚の理由だし、そこに「日本でラテンアメリカ文学がどう翻訳されてきたか」という翻訳史に関連するのかなと。日本の文学受容の構造、そして世界文学の構造。
 日本においてラテンアメリカがどのように受容されてきたか、は地理としてのラテンアメリカの受容+文学としてのそれがあるし、その他国理解=海外・世界文学受容とも関連する。

 ここまで書いてきて、いつも以上にニッチで不必要さが目立つし、それはつまり現在私がしてることのにも関連するのが複雑ではあるが、他者を知り・他者を読む、人類文明にとっての価値そこに本質があるのだとすれば、文化の受容と価値がどんな意味を持つかは、グローバル×ネット時代の今の明確なテーマだと私は思う。

日本でラテンアメリカ文学がどう翻訳されてきたか
translation and world literature

日本におけるラテンアメリカ文学翻訳の歴史
①先駆期(1950~60年代)
 最初に紹介されたのはかなり限定的で、研究者が少数紹介する段階。この時期はまだスペイン文学研究の延長/学術的紹介/小規模翻訳、中心人物は鼓直ほか、翻訳された作家もまだ少なく、ホルヘ・ルイス・ボルヘス/ミゲル・アンヘル・アストゥリアスなど、文学史的に重要な作家が中心。

②ブーム期(1970~80年代)
 日本でラテンアメリカ文学が一気に広まったのはこの時期。
 世界的にはラテンアメリカ文学ブームと呼ばれる。代表作は『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス、『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル、『緑の家』マリオ・バルガス・リョサ。この頃に日本で活躍した翻訳者が鼓直/木村榮一/野谷文昭などのようで、文学出版社が翻訳を出す/世界文学として紹介/魔術的アリズムが話題。「世界文学ブーム→日本でも翻訳が増える」、タイミング的にラテンアメリカはこの流れに完全に乗る。

③研究・再編期(1990年代~現在)
 ブームが終わると、翻訳はむしろ質的に深くなる。この時期の特徴は新しい作家紹介/文学研究の発展/翻訳の精密化などの進展を見せ、扱われる作家も広がる。例えばロベルト・ボラーニョ、サマンサ・シュウェブリン、セサル・アイラ。「ブーム文学→多様な現代文学」に拡張。重要な翻訳者・研究者:野谷文昭/寺尾隆吉/柳原孝敦

 まず最初にラテンアメリカ文学を日本に紹介した世代の中心人物は鼓直と拾えて、この世代はまだスペイン文学研究→ラテンアメリカ文学紹介という形だった。学術的紹介を限られた作家で行う研究者中心であり、翻訳されたのはホルヘ・ルイス・ボルヘス、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスなどであり、文学研究の一部として翻訳された。
 次にブーム翻訳世代、1970~80年代、世界的なラテンアメリカ文学ブームが起き、日本でもこの時期に翻訳が急増。代表的翻訳者としては木村榮一/鼓直、この世代が紹介した作家はガブリエル・ガルシア=マルケス、フリオ・コルタサル/カルロス・フエンテス/マリオ・バルガス・リョサ、つまり現在読まれているラテンアメリカ文学の基盤を作った世代。
 1990年代以降は少し性格が変わり、翻訳者は野谷文昭/寺尾隆吉/柳原孝敦などで、この世代は研究→翻訳→文学史を同時にやっているように見える。翻訳の精密化/文学史研究/世界文学研究などを特徴に持ち、ここで重要なのが、日本の文学受容の特殊性なのかなと。多くの国ではスペイン語→英語→各国語という翻訳ルートになるが、日本はスペイン語→日本語の直接翻訳が多く、原語研究者が翻訳する/翻訳が研究成果という日本の外国文学研究の伝統によるのかなと。
 翻訳者=文化の橋という視点で見ると、翻訳者は単なる翻訳者ではなく、作家→翻訳→研究→読者という文学の流れの中心にいる存在であると見ることが出来、日本のラテンアメリカ文学は翻訳者が作ったと言っても大げさではないということになる。
 つまり日本のラテンアメリカ文学翻訳は「導入世代→ブーム翻訳世代→研究翻訳世代」という流れで発展し、その特徴は「研究者が翻訳する/原語から翻訳する/翻訳が文学研究になる」という日本独特の文学受容の形を浮かび上がらせる。

 この翻訳史で特徴的なのは、やはり研究者=翻訳者という構造だと思う。
 英文学などでは研究者/翻訳者が分かれている印象があるし、ゆえに巻末の解説を読んでもいまいちピンときたことがないのは、翻訳者が研究的な解読を行えない可能性のような気がする。
 ラテンアメリカ文学では研究/翻訳/解説/紹介を同じ人がやる事は、分野が小さく原語識者が少ないからだし、市場性と言語性による壁と制限が見つかる。

 日本の外国文学受容としては、スペイン語もロシア語ドイツ語も「原語→日本語」など直接翻訳が多く、英語圏を経由しないので、ボルヘスやマルケスなども早い段階で直接翻訳されているし、英語圏の文学市場に依存していないという意味を示す。
 ラテンアメリカ文学も普通「スペイン語→英語→世界」で広がるが、日本は「スペイン語→日本語」の直接翻訳が多く、日本は英語圏を経由しない文学受容を持っていることになる。日本の外国文学研究はもともと「原語→翻訳→研究」という順番で発展したようで、明治以降、日本ではドイツ文学/フランス文学/ロシア文学などを原語から翻訳すること自体が研究となった。つまり翻訳=学術行為という文化があるが、英語圏は「研究→翻訳」であるとのこと。
 そして、スペイン語文学を読める人はほぼ研究者/大学院生で、翻訳は専門家しかできない為、その役割の始まりは翻訳を主体にする。日本のラテンアメリカ文学研究は規模が小さいので「研究者→翻訳→解説→文学史」を同じ人がやる結果、翻訳そのものが研究成果になる。ここに研究者=翻訳者という構造が成り立つ。
 もう一つ大きいのが日本の出版社の役割で、1970~90年代に集英社/岩波書店/新潮社などが世界文学シリーズをつくるが、そのときに研究者に翻訳を依頼する文化ができた。ここで「研究者→翻訳→解説」という出版モデルが成立したことになる。

 翻訳/批評/読者/作家がどう関係したか、外国文学→翻訳→批評→日本文学という流れを分析する必要が出てくるし、受容研究では翻訳者・研究者・読者を含めて文学が形成されると考えられるようで、翻訳者を文学史の主体として扱う視点を持つ分野なのかなと。
 もう少し広い視点としては、翻訳は文化事件/翻訳は知的活動として扱う必要が出てくる。つまり翻訳=知識輸入=文化形成というテーマで、これは単独言語の日本としては重要なテーマなのかなと。
 英語圏の文学市場に依存していない、という部分から引くと、英米文学の場合、例えばウィリアム・シェイクスピアやアーネスト・ヘミングウェイなどは「人気→翻訳→研究」という順番になり易く、「市場 → 翻訳 → 学問」であるが、ラテンアメリカ文学の場合は、「地理的に遠い/言語(スペイン語・ポルトガル語)がマイナー/作家を知らない」ので市場を見た出版判断の前に、まず大学研究から始まることになる。たとえばホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、ガブリエル・ガルシア=マルケスは日本では「研究者→翻訳→文学紹介」という順番で読まれたが、この場合読者市場が小さい為に商業出版社が積極的に出さず、大学研究が中心になる。
 さらに日本の読者はラテンアメリカの歴史/文学運動/世代を共有していないので、読者が文学史を知らない。例えばホルヘ・ルイス・ボルヘス、ガブリエル・ガルシア=マルケスを読むときでも、本来はモダニスモ→前衛文学→ブーム文学という流れがあるが、日本ではそれが知られていないので翻訳者が文学史の説明を書かなければならない。
 英米文学の場合は人気作家や作品主体に、商業出版社/批評家/メディアが文学史を作るが、ラテンアメリカ文学は出版市場・研究母数が小さいために、大学→研究者→翻訳→出版という流れになり、文学史を書く主体が研究者になる。英米文学は日本でも文学史/批評が巨大にあるが、ラテンアメリカ文学は日本では研究者自身が文学史を書く必要があることを、おそらく多くの研究者が半ば自覚的に書いているのだろうし、その機能的横断から研究者=翻訳者=文学史家=紹介者という現象が成り立つ。
 つまり、最初の研究者は「作品→翻訳→解説→文学史」まで全部作る必要があったし、翻訳/作家紹介/文学史解説を研究論文だけではなく、解説/文庫あとがき/入門書の形でも書く。おそらくこれらはラテンアメリカ文学だけではなく日本におけるロシア文学/東欧文学/中東文学などの他言語外国文学研究も同じ傾向がみられるのかと思うし、つまり翻訳=研究=文化紹介である事が分かる。
 これは他の外国文学研究の中でも日本の特徴なのかなと思うが、言語的・市場的な関係から輸入史的にラテンアメリカは強いのかなと思えたりするし、他言語他国における諸外国文学の同様のケースはどうなのかは気になるところ。

 この視点で見ると、この記事では翻訳者が主役ということになるし、作品中心の文学史から流通中心の文学史へ視点が移っていく事にもなる。従来の文学史は作家の歴史であり「作家→作品→文学史」という形になるが、翻訳や出版を含むと「作家→翻訳者→出版社→批評家→大学→読者」というネットワークで文学が成立する形が見えてくる。このとき重要になるのが翻訳者・編集者・研究者ということになる。
 日本のラテンアメリカ文学で感じたことと言えば、鼓直/木村榮一/野谷文昭/寺尾隆吉などが「研究/翻訳/文学史/紹介」を担って翻訳者=日本版の文学編集者のような役割を果たし、「ラテンアメリカ文学→翻訳→日本文学空間」という文化移動をさせている輸入史を見ることにも近い。

ダムロッシュ『What Is World Literature?』

 世界文学とは世界的に有名な作品リスト=正典(カノン)であると捉える視点は従来的で、単純化され、分かり易い。だが今回の翻訳や出版のネットワークの中に作品と作者を含むと、「作者→作品→出版→翻訳→市場→批評→読者」という遍歴を持ち、複雑化した文学観が見えてくる。
 越境性の日本視点という表現から考えると、世界文学研究との接続は、文学を翻訳ネットワークとして考えることから始まるのはここまでの流れでわかる。
 そこで、世界文学とは何か/What Is World Literature? という視点で見ると、例えばデイヴィッド・ダムロッシュは世界文学を「翻訳されてcirculation(循環)する文学」と定義した。

 こちら、2003年の世界的に有名な本で説だそうだけど、私は全く触れておらず、ものすごく納得した。でもまだ読めておらず、概略を調べてみても把握が追い付く程度。こちらも読んでいきたいが、実際に読んで理解できるかは不安だが、翻訳や言語越境への興味は最近出てきたばかりだし、年末の多和田葉子関連でそれらのテーマを見たときは全くなじみがなかったので変化を感じる。
 言語や翻訳などと縁遠いことは、私が社会性・構造性に興味がある事から、ポストモダン的なこと、あるいはアカデミックよりなことへの興味や蓄積が無かったことからだが、そこから自然と自分なりのテーマと興味で沿って突き当たったことは正当性も感じる。

言語と翻訳で揺るがす20世紀のポストモダンの続き『献灯使』『地球にちりばめられて』『雪の練習生』多和田葉子/Language and Identity Beyond Borders:Yoko Tawada and Postmodern Literature Today
境界を越える言語とアイデンティティ:多和田葉子と現代ポストモダン文学 <English Summary> This article explores the works of Yoko Tawada through the lens of ...

 ダムロッシュの世界文学の代表的定義は、主著『What Is World Literature?』に集約されており、最も引用される形としては、「世界文学とは、自文化の外へ流通する文学作品」、つまり「国内にとどまる作品→世界文学ではない」「他文化へ移動・読解される→世界文学になる」、重要なポイントとしては、世界文学は「正典(カノン)」ではなく、流通(circulation)/翻訳(translation)/受容(reception)で成立するプロセスであるという部分。
 「世界文学=テキストの性質」ではなく「テキストが世界を移動するときに生じる状態」であるという視点。つまり世界文学とは正典リストではなくネットワークの循環と流通のことを言うことになる。

理論的な3要素
 ・翻訳によって価値を得る文学
  -works that gain in translation
 ・国民文学の「屈折的再現」
  -他文化で読み替えられ、意味が変形する
 ・読解のモード(mode of reading)
  ‐世界文学はテキストの集合ではなく
   越境的に読む態度そのもの

『What Is World Literature?』
(邦題:『ワールド・リテラチャーとは何か』)

 -定義の提示
 ‐翻訳・流通・読解の理論
 ‐ギルガメシュから現代文学まで事例分析
 比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュ(David Damrosch)が2003年に出版した学術書。世界文学という概念を再定義し、グローバルな文学研究のあり方に大きな影響を与えた。
 出版年:2003年
 出版社:プリンストン大学出版局(Princeton University Press)
 分野:比較文学・翻訳研究
 主要テーマ:世界文学の定義と流通の力学
  「世界文学」を単に各国の文学の集合としてではなく、作品が異なる文化や言語圏を横断しながら新しい意味を生成する「流通のモード」として捉える点に特色がある。ダムロッシュは世界文学を「世界中で読むことができる文学」と定義し、翻訳を媒介とする読解の重要性を強調した。
 ダムロッシュはゲーテの「世界文学」概念を出発点としつつ、現代のグローバリゼーション状況下で再考する。彼は文学作品が「ローカル」と「グローバル」の間で再文脈化される過程に注目し、文化的権力関係や翻訳の政治性を分析した。特に、『ギルガメシュ叙事詩』や『千夜一夜物語』などの事例を通して、古典作品の国際的再受容を検討している。
 『What Is World Literature?』は比較文学研究におけるワールドリテラチャー論争の起点となり、多くの学者がダムロッシュの提起した流通中心モデルを引用・批判・発展させた。出版以降、世界文学研究の標準的テキストとして大学院レベルの教育でも広く採用されている。

『How to Read World Literature』

 -方法論としてのどう読むかの実践
 『How to Read World Literature』(世界文学の読み方)は、比較文学研究者デイヴィッド・ダムロッシュが2009年に著した学術的入門書。世界文学の概念とその読解方法を、異文化・翻訳・歴史的背景を踏まえて解説し、文学を国境を越えて読むための視点を提示する。
 初版発行年:2009年
 出版社:Wiley-Blackwell
 ジャンル:文学理論/比較文学
 主題:世界文学の読解と翻訳の問題
 ダムロッシュは、文学作品を「国民文学」の枠を超えて読む必要性を強調し、世界文学を「流通し、翻訳され、再文脈化される文学」と定義。本書は彼の先行研究『What Is World Literature?』(2003年)を受け、より実践的な読書ガイドとして執筆されたものとされている。世界文学を読む際に生じる三つの視点―ローカル(原文化)/グローバル(受容文化)/翻訳(媒介)―を軸に構成される。各章では、『ギルガメシュ叙事詩』からモダニズム文学、ポストコロニアル文学まで、具体的な作品分析を通じて理論を展開。
 『How to Read World Literature』は、比較文学および世界文学研究の基礎文献として広く用いられている。翻訳を通じた文化交流の理解を促進し、グローバル化時代における文学教育の再考を促す重要なテキストとされる。初版以降、複数回の改訂や再版が行われており、大学の文学・翻訳研究コースの必読書に指定されることも多い。明快な筆致と豊富な事例により、専門家だけでなく一般読者にも理解しやすい構成。

『Comparing the Literatures』

 ‐理論の再検討・更新
 比較文学の方法と目的を再考する学術書。著者は世界文学研究の第一人者として、グローバル化した現代における文学比較の枠組みを理論的・制度的両面から提示している。
 出版年: 2020年
 出版社: Princeton University Press
 分野: 比較文学・世界文学研究
 頁数: 約400ページ
  本書は、20世紀の比較文学の歴史をたどりつつ、21世紀の学問的課題に対応する新たな比較モデルを提示する。ダムロッシュは文学作品が国境を越えて移動・翻訳される過程で生じる「比較可能性(comparability)」に注目し、文化的・言語的多様性を尊重しながらも、共通の分析基盤を築く方法を探る。
 ダムロッシュは、伝統的な西洋中心の比較文学から脱却し、ポストコロニアル理論や翻訳研究を取り入れた包括的なアプローチを採用。各章では、文学制度、翻訳の政治学、カノン形成、学際的連携などを取り上げ、比較研究がどのようにグローバル文脈で再構築されうるかを論じる。
 『Comparing the Literatures』は、比較文学研究の新しい指針を示す重要書として高く評価されている。多様な文学圏を横断的に扱う視野と、批評的な制度分析を兼ね備えた点が特徴で、学術界では世界文学研究の基礎文献として広く参照される。

 結構調べたけど出てこないので、日本語で読める著作には限りがありそうだけど、少しずつ読んでいきたい。概要の理解はできたけど、実際はどう展開するのかは気になるところ。

批評的・補完的理論も見つかる。

① 文学場のグローバル構造
 The World Republic of Letters
 (フランス語原題:La Republique mondiale des lettres)

 文学を「世界システム」として捉える
 中心/周縁の力学
 →ダムロッシュより社会構造寄り
 『The World Republic of Letters』(フランス語原題:La Republique mondiale des lettres)は、フランスの文学批評家パスカル・カザノヴァ(Pascale Casanova)が1999年に発表した文学理論書。世界文学の不均衡な構造を分析し、文学の中心と周縁を可視化した代表的著作。
 著者:パスカル・カザノヴァ
 初版年:1999年(Seuil社)
 英訳:2004年(翻訳:M. B. DeBevoise)
 主題:世界文学システム・文化的資本・翻訳の政治
 形式:文学社会学・ポリシステム理論的分析
  本書は、世界文学を国民文学の総和としてではなく、国際的な競争と権力関係に満ちた「文学世界空間」として描く。カザノヴァは、パリを中心とする「文学的首都」と、そこに対して周縁化された地域文学との関係を明らかにし、文学的価値が政治・経済と同様に「象徴資本」によって形成されると論じた。
 カザノヴァはピエール・ブルデューの文化社会学と、イタマール・エヴェン=ゾーハルのポリシステム理論に影響を受けた。文学を「自律的だが不均衡な場」と捉え、翻訳や受容の過程を通じて中心への接近や抵抗が生じる構造を分析する。
 『The World Republic of Letters』は、世界文学研究の転換点として国際的に引用されている。デイヴィッド・ダムロッシュらによる「ワールド・リテラチャー」概念や、ポストコロニアル批評の発展にも影響を与えた。文学の地政学的視座を提示した点で、翻訳研究・比較文学・文化研究における必読文献とされている。

② マクロ分析(遠読)
 Maps, Graphs, Trees

 個別作品ではなく統計的パターン分析
 →ダムロッシュ(精読)への対抗軸
 『Maps, Graphs, Trees: Abstract Models for a Literary History』
は、文学理論家フランコ・モレッティ(Franco Moretti)が2005年に発表した批評書。文学史を数量的・構造的に分析する「遠読(distant reading)」の手法を提案し、文学研究に自然科学や社会科学のモデルを導入した先駆的な著作として知られる。
 著者: フランコ・モレッティ
 出版年: 2005年
 出版社: Verso Books
 主題: 文学史の理論化・データ分析的アプローチ
 形式: 3つの講義をもとにしたエッセイ集
  本書は、文学史を従来のテキスト精読ではなく、地図・グラフ・系統樹といった抽象モデルを用いて再構築する試み。モレッティは、膨大な文学作品を俯瞰的に扱うことで、文学的進化やジャンル形成のパターンを可視化できると主張。
 モレッティは三つの章で異なる分析モデルを提示する。
 地図(Maps): 物語の地理的分布や舞台を可視化。
 グラフ(Graphs): 出版年やジャンルの出現頻度など、文学史的データを数量化。
樹(Trees): 進化生物学の系統樹を応用し、文学ジャンルの変化をモデル化。
 『Maps, Graphs, Trees』は、デジタル・ヒューマニティーズや計量文学の発展に大きな影響を与えた。伝統的な批評方法に対して賛否両論を呼びつつも、文学研究を科学的分析へと拡張した重要な転換点とされる。

③ 翻訳不可能性批判
 Against World Literature

「翻訳で豊かになる」という前提を批判
 →ダムロッシュの楽観主義への修正
 『Against World Literature: On the Politics of Untranslatability』(2013)は、アメリカの比較文学者エミリー・アプター(Emily Apter)による批評的著作である。世界文学という概念が翻訳可能性に依存しすぎている点を批判し、「翻訳不可能性(untranslatability)」の政治性と理論的重要性を提示した。
 著者: エミリー・アプター(Emily Apter)
 出版年: 2013年
 出版社: Verso Books
 主題: 世界文学、翻訳理論、比較文学
 関連分野: 文学批評、哲学、ポストコロニアル研究
  本書は、近年注目を集める「世界文学(World Literature)」研究の潮流に対する批判的介入として書かれた。アプターは、文学の普遍的流通を前提とする世界文学論に対し、言語的・文化的な差異を軽視していると論じる。彼女は、翻訳不可能性を単なる障害ではなく、文化の複雑さを理解する鍵として再評価する。アプターは、ジャック・デリダやヴァルター・ベンヤミンなどの思想を踏まえ、言語の限界と翻訳の政治を考察する。彼女は翻訳を単なる媒介行為ではなく、権力関係や知的権威の再生産に関わる行為として捉える。
  『Against World Literature』は、翻訳研究と比較文学の再編を促す重要なテキストとして評価される。特に、グローバル化の中で文学をどのように読み・教えるべきかという問題に新たな視点を提供した点で学界の議論を喚起した。批評家の間では、理論の難解さを指摘する声もあるが、その問題提起の鋭さは高く評価されているとのこと。
 →こちら、世界文学関連ではなく翻訳関連で出てきたので偶然手に入れることが出来たので今読んでいますが、だいぶレベルが高くてちまちまとしか読めていません。自分がいかに言語や翻訳ということに感心が無かったことを痛感。こちら次回扱う予定うです。

④ 総合的ハンドブック
 The Routledge Companion to World Literature

 分野全体の理論整理
『The Routledge Companion to World Literature』(ラウトリッジ版コンパニオン・トゥ・ワールド・リテラチャー)は、ワールド・リテラチャー研究の動向と論点を体系的に整理した英語の論文集。Routledge Literature Companionsシリーズの一冊として、Theo D’haen、David Damrosch、Djelal Kadirが編集し、2011年に初版が刊行。

ジャンル: 文学理論・比較文学/ワールド・リテラチャー概説
編者: Theo D’haen, David Damrosch, Djelal Kadir
出版社: Routledge(ロンドン/ニューヨーク)
初版刊行年: 2011年(電子版は2011年9月頃)
  本書は大きく4部構成で、ワールド・リテラチャーという概念・分野を「歴史」「学問領域」「理論」「地理的広がり」という軸から整理。
 ゲーテの「Weltliteratur」から始まり、エリアス・アワーバッハ、エドワード・サイード、パスカル・カザノヴァ、フランコ・モレッティなど、ワールド・リテラチャー論に重要な批評家・理論家をたどる。比較文学、文献学(フィロロジー)、翻訳研究、グローバリゼーション研究、ディアスポラ研究など、隣接分野との関係を論じ、ワールド・リテラチャーがどのような学術的位置を占めるかを検討。
 カノン形成、ジャンル、ジェンダー、政治・倫理、ポストコロニアル批評などのテーマを通じて、ワールド・リテラチャー研究で問題となる理論的論点を扱う。例えば、テクスト流通、権力関係、周縁/中心の問題などが繰り返し論じられる。アフリカ、アジア、ラテンアメリカ、中東など各地域の文学が、世界文学としてどのように読まれ、流通してきたかを扱う章が並ぶ。これにより、英米中心ではないグローバルな視点を提示しようとしている。
 本書は、2000年代以降急速に拡大した「ワールド・リテラチャー」研究ブームの中で、代表的なエッセイ集として頻繁に参照されている。既存の理論・批評を集成するだけでなく、世界文学の歴史記述や方法論、大学教育カリキュラムへの導入など、実践的な問題にも踏み込んでいる点が特徴である。比較文学やグローバル文学研究の入門・テキストとして、多くの大学院・学部レベルの講義で採用されている。
 2023年には第2版が刊行され、プレモダン世界文学、AIとワールド・リテラチャー、犯罪小説、ルソフォン文学、中東文学、オセアニア文学などを扱う新章が10本以上追加された。

従来    :世界文学 = 名作リスト(ゲーテ的伝統)
ダムロッシュ:世界文学 =越境する文学の運動(circulation)
            翻訳による変容(transformation)
            異文化的読解(reading mode)

 私個人の「物語は倫理を持ちうるか」という問題にダムロッシュ的なテーマを持ち込むと、本質は作品の内部倫理ではなく読まれ方・移動の中で倫理が生成される、ということになる。倫理はテキスト内ではなく、文化間のズレと再解釈の中で発生する、という論理。
 このワールドリテラチャー問題は本質的で、文学史や世界文学の捉え方の根本フレームの話だと私は解釈したし、そこから同時に翻訳や言語性にまたがり色々拡張される。
 今回の翻訳とかラテンアメリカブームの核心であるとは思うが、まだまだ捉えられる気がしないので、少し触れて、次回は個人的な規定通りに翻訳3冊を扱う予定だし、その中に偶然(上で触れたように)ダムロッシュ的ワールド・リテラチャーの翻訳ネットワークの善性に対する反論アプローチにエミリー・アプターの「翻訳地帯新しい人文学の批評パラダイムにむけて」(原題:Against World Literature: On the Politics of Untranslatability(2013))が混ざっていて、順番としてはどうなのかと思いつつも、これもめぐりあわせなので、扱うことを予定している。

 現代の世界文学研究や比較文学の方法論として、文学を作品単体ではなく流通システムとして見る、ということがよくある視点であることを学ぶ。
 現代の世界文学研究では文学は次のようなネットワークで成立すると考えられているようで
 「作家→作家→翻訳者→出版社→批評家・研究者→読者」つまり「文学=テキスト+流通+解釈」
 例えばホルヘ・ルイス・ボルヘスやガブリエル・ガルシア=マルケスの作品は、日本語で読むときには「原作→翻訳→解説→読者」という形になるため、日本の読者にとっては「翻訳+解説」が作品の一部になる。そのため世界文学研究では翻訳者=共作者に近い存在と考えることがあるとのこと。
 ラテンアメリカ文学の場合は、「言語が遠い/地理も遠い/文学史が共有されていない」ので「翻訳+文学史説明+作家紹介」が必要になるため、これを日本では鼓直/木村榮一/野谷文昭/寺尾隆吉のような研究者が担ってきた、というのが見えてくる、というのを上で触れてきた。「作家→作品→翻訳者→研究者→日本での受容」とはつまり文学が日本に入ってくる過程の可視化であり、この文化は英語翻訳を挟まずに言語から日本語に翻訳する日本の翻訳文化から発展している、というのも上で触れてきた。

「世界文学は誰が作るのか?」という問いに対し、作家だけか/翻訳者か/出版社か/大学か、この議論の中では「文学=作品 + 翻訳 + 流通 + 批評」と考えられているとのことで、これは私の以前からの、売り手・読み手・書き手の関係に近いし、翻訳研究者はどれでもあるということだし、むしろ中核であり、批評・一般発信的な役割との2軸であると考えられる部分も、今回提起は異なってもテーマ的な重複を感じられる点かなと思う。
 今回の記事の発端は、翻訳者を主役にできる所が面白い所だなと感じたし、世界文学研究の視点ではむしろ核心テーマである可能性も見えてきた。そしてこの言語や翻訳/越境性のテーマは、文学から離れても、移民・グローバル化する世界の言語や文化や情報のシームレス化が加速し必須化している現代そのもののテーマで主要トピックであり、その意味で文学もまた並走出来ているし追随の必要があるところが感じられて楽しい。翻訳=研究成果という順番は文化を生み、日本の翻訳者が研究者を兼ねる特性も見えてくるし、その役割は確実に文学史の中心を担うものだと感じた。

global literary circulation
グローバルな文学の流通

 ダムロッシュのあたりから駆け足が凄かったが、あれを読解し読み下すのは簡単ではないと思うので今はこれ。先に偶然にも反論側から手に入れてしまったので順番も間違えているし。

・世界文学は「正典(カノン)」ではなく、
 流通(circulation)/翻訳(translation)/受容(reception)で成立するプロセス
・世界文学を読む際に生じる三つの視点
 -ローカル(原文化)/グローバル(受容文化)/翻訳(媒介)


 2000年代に重ねられているので、現代2026年はそれが浸透した時代のはずで、以下はこの記事を書く前に私が考えていたこと、あるいは、芥川賞シリーズで私は文学と市場の関係がテーマだったとすると、ラテンアメリカ文学シリーズでは文学と翻訳の関係をテーマにしようとしているのかなと。

20年先も芥川賞は機能するのか?半年間の企画まとめ報告/How Contemporary Japanese Fiction Reinvents Narrative:A 2000s~2020s Akutagawa Prize Overview
<English Summary> This article concludes a long-term blog series examining the evolution of narrative structures in cont...

**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
 感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
 とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~

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