G-40MCWJEVZR 男性作家の不在と更新不足、解放と多様化の臨界点『去年の冬、きみと別れて』『ある男』中村文則、平野啓一郎① - おひさまの図書館 つまらない・ジェンダー・解放
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男性作家の不在と更新不足、解放と多様化の臨界点『去年の冬、きみと別れて』『ある男』中村文則、平野啓一郎①

文芸


 
 市場原理的には女性の台頭は更新ではなく市場がヒロインを欲しただけ、という見方もできるかもしれないし、現代文学を読むことは誰が語り手になる時代かを見ることである。
 倫理と構築を選ぶ語りが人類更新には必要になるし、文学と社会は同時にここへ向かう
 女性の解放が文学から始まった2000年代、示された倫理が一定地位を持てば持つほど、更新された倫理が社会性や構造を追い立てて時代遅れの恥をかかせる。更新できない作家と社会や企業と男性が立ち尽くす現代に、私はいつも女性が商品になる瞬間を思う。

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2000年代の女性台頭と男性不在

 これまで芥川賞企画として9月から3か月強の間、受賞作家を読んできて、文学賞としての遍歴から見える女性の解放や表現的更新が目立ったが、特に後半際立ったのは、綿矢-絲山-多和田(別枠)等の線上。
 綿矢の少女性の解放、絲山の中年女性の解放なども、前時代における文学的社会的抑圧や未発達がなければ起こり得なかったし、韓国ハン・ガンのノーベル賞受賞作も社会制度による性別的抑圧や視線が女性に対する制限や不遇を強いる構造や状態がなければ生まれなかったことを思えば、「抑圧/不遇/未達」の状態があるからこそ「解放/進出/発達」が生まれる、と文学史・社会史・倫理を一つの因果として貫いて言い切ることが出来るのかなと。これは抑圧を歴史的前提条件としての均衡と再分配の話であり、性別的優劣や正当化ではない。
 「抑圧/不遇/制限/未達」は、倫理的には明確に悪ではあるが、同時にそれらは文明がまだ言語化できていなかった領域であり、社会が処理できなかった差異につき、制度が未熟だった箇所の痕跡でもある。文学はそこを感知する装置になり得る。

 綿矢りさによる少女性の解放は未成熟な社会があったから生まれた。少女の内面の価値性や、無目的な衝動という社会化されていない感情、逸脱でも抵抗でもない主体的違和感が、それまで幼稚かつ未熟につき内側から書くに値しないと切り捨てられてきた内面の言語化であるとすれば、社会や文学は少女性を外面と透明な内面として放置してきた。その空白から文学的エネルギーとして噴出させたのが綿矢や金原であったとすれば、その解放は抑圧の反面だと妥当することが出来る。
 絲山秋子による中年女性の解放は、社会や会社や家族そして全年齢の女性の中でも透明化された存在としての働く中年独身女性像があったからだし、著者の書く中年女性はヒロインでもないし母性の象徴でもない上で成功者でもない。中年女性は家庭に吸収され社会からは見えず文学では脇役化され、存在はしていたが語られてはおらず、主体性も持たなかった彼女たちに著者は恐らく初めて主語を与えた。その解放とは、新しい女性像の創造ではなく既存の女性郡の顕在化であり、過去と未来の救済にも繋がる。
 ハン・ガンの作品は2冊しか読んでいない上で語れば、その文学性は抑圧的社会や不遇がなければ生まれない沈黙や強度があり、それは恐らくその主体に自由な社会では成立しない。「身体/暴力/視線/沈黙」が異様な密度で立ち上がる理由は、社会的・性別的抑圧があまりに日常化し、反抗すら奪われた環境があったからこそ可能な文体であると私は読んだ(川上未映子の芥川賞受賞作はこちら路線、前述単語も類似)。そういう作家の作品が2024年に地域的役回りだろうとノーベル文学賞を獲ったことは、偶然にも女性が優遇される時代の副産物だ、とは私は思わない。

 文学的・社会的な解放や進出は、何もない場所から生まれるのではなく、言語化されなかった抑圧や構造化されなかった不遇と発達しきれなかった制度など、これらが臨界点に達したときにのみ、形を持つ。解放や更新は常に過去を含み込む形でしか成立しないのだから、前段階にあった状態としての抑圧をなかったことにして解放だけを祝い、あるいは相対的に呪うのは、文学的にも社会的にも知性の態度ではない。
 この視点は、女性文学を過剰に評価もしないし、男性文学を被害者化をしなければ不遇視もしない。抑圧の歴史を直視し、未来の更新を閉ざすことも許さず、ノスタルジーでも自己正当化でもない成熟した文明の視点となるのかなと。

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 国際的な流れとしては、2000年代は多様性とポストコロニアルの隆盛の時期であったように思うし、文学はグローバル化と多文化主義の潮流の中で、女性作家・非白人/移民系作家・クィア文体・ジェンダーの逸脱に関する作品等が出版界・批評界で大きく評価されるようになった時期だと認識していて、ジャンル横断的評価の高い作家(女性・非白人系)が目立った。この潮流の中で、従来の白人中年男性中心の文学史が相対化されるようになる。
 一方日本国内文学の状況としても出版界・文学賞の多様化としては、21世紀日本文学でも、女性作家や若手の多様な声(性別・ジェンダー・出自)が顕著で、文学賞の受賞動向も多様化し、性別を問わず多声が評価されるようになっていく。それにより相対的に従来の男性作家主体の存在感や権威が薄れたことが男性作家の不在を感じさせる理由であり、評価・編集・マーケティングの軸が、男性作家だから価値があるとした単純な前時代的状況から離れたのは国内外の事実として重なる。
 実際の出版者数・作品数のデータや量数的感覚ではなく、あくまで評価や文化更新の中心がどこに移ったのかが本項の論点であり、特にそれは文学・国内的な純文学において顕著であり、恐らく出版数における性別比は明確に男性不在にはなっていないし、体感でもとくにSF・ミステリ・歴史小説などジャンル小説において依然男性作家の活躍が目立つ。物理的な不在ではなく、評価構造の変化がポイント。(ジャンル小説においては依然として存在感があるのは、解放・更新などが先鋭化しやすい文学性ならではで、ジャンル小説は普遍が目立つのは、文芸と文学の更新が異なるからだろうし・後述に関連する、項を用意した)

 90~2000年代に支配的だった白人中年男性作家の価値基準は、「一元的・権威主義的な物語/複雑さよりも壮大さ・正統性」という基盤があったように思うが、21世紀は「多様性と感受性/マイナー言語・ジェンダーの物語が重視/ポストモダン以降の多角的語り」という方向性へ流れた。結果として、従来型男性作家の評価軸が相対化の流れが起き、評価パラダイムの変化が明確に感じられる。
 批評や市場の変化としても、SNS・Webの発達による書評の民主化、読者のレビュー主導の評価が進んだため、かつてのような男性中心的な文学的権威が弱体化。中心や権威の衰退と特権性としての(白人)男性性の相対化=弱体化の流れは、もう少し大きな視座でとらえると、民主主義的な拡がりと重なる広がる大きな流れであることも感じられる。この辺りは集中モデルから分散モデルへの移行であり、文明段階の移行とも重なると思う。


 文学批評自体がジェンダー理論やポスト構造主義の影響下にあり、伝統的な男性中心語りへの批判、声/視点の多様性の正当化が起こり、男性作家が評価されにくい印象を生むが、これは評価軸の変化であって、才能や創造性の欠如を意味しない。2000~2025年の国内外の文学における男性作家の不在・更新不足を考えるときに、単にジェンダー比だけを見るのではなく、なぜ男性作家の作品や評価が相対化されているように見えるのかを文学的・社会文化的な構造から考えていくと、文学界で男性作家の役割が弱まっていること、新しい男性作家・作品の登場により刷新されていない現状などは見えてくるが、それは本質的ではない。
 主流の評価軸が白人や男性中心から多様性重視へ、その際に想定評価者が批評家重視から読者の声(市場性・非権威~ポピュラリティ)重視へ、作家像もまた権威や正統的な語りから多声やその共有へ流れ、全体的に権威中心的特権から相対化された存在感や多様へ開けていく過渡期であった。その際に表面化しやすかった声や存在が女性や多様性であったことが続く。
 このようにして、2000年以前と以後とでは評価基準の再編が行われていることが分かる。この場合に見えてくることは、男性作家そのもの不在感は歓迎や更新の有無であって、評価の基準・物語の中心が多声・多視点に移行したため、従来型の男性作家の目立ち方が減っているだけであると推察できる。
 特に白人男性作家の文学性が途切れたわけでもなく、世界的な文学賞の受賞歴から見ても中枢にはそれらが健在ではあるが、それにしても移民性や多国籍性のあるカズオ・イシグロ(ブッカー賞1989年/ノーベル文学賞2017年)、文学性からの越境やジャンル超越を行っている感のあるイアン・マキューアン(ブッカー賞1998年/全米批評家協会賞2002~)など、文学潮流=時代の流れや自身の出自や関心を混ぜで独自性で創作を行うことが出来ている作家の活躍は観測できる。(※この辺りの海外作家・受賞関連のリストやその関連は、広すぎて話題も逸れるし、現在の私が扱い切れるものでもない為、来年以降に譲る)
 ここから見えるのは、中心的だった権威男性性の凋落だけであり、それは文学や男性文学の更新的停滞ではなく、文学全体の構変化の結果と捉えることができる。

啓示としての文学が成立する確率、ディストピア文学を貫く古典名著『一九八四年』ジョージ・オーウェル
ディストピア文学といえばこの作品。 シリーズ2回目として、古典の代表格を読みました。 プロット的には陳腐、結構つまらない展開を見せるし、途中のロマンスも彩でしかないとは思うのだが、キーワードから見る本作のモチーフやテーマ性は明確、「全体主義...
カズオ・イシグロに感じた軽薄さの正体『わたしを離さないで』間違いなく傑作
ブッカー賞・ノーベル賞受賞作家の代表作、そして傑作なんでしょう、私も感動しました。しかし非常に複雑。これを大声で素晴らしいと言える人、すごいな純粋に。それほど退屈で、完成度が高く、疑問符が残る作品。ある意味でこのつまらなさは日本の純文学的なことなのかも?

社会的にも制度補正の現代~不遇の男性不満~

 一方、一般社会も同様で、社会的にも女性の台頭と制度補正の時代が訪れ、同時代に生きる男性は主流たる優遇権を失ったことによる不満や不遇が個人間や企業内でみられるようになる。
 社会制度の是正において、昇進レースにおける女性枠や既存男性が履いて来た下駄問題の可視化などと文学における女性作家の台頭は、同じ歴史的要請の二つの表れとして重なっているという見方も可能になってくる。文学性の表明と現実社会の是正展開を見るときに、その台頭や更新が急務だったことの妥当性を考える。

 20世紀後半~2000年代初頭まで、昇進・採用・評価での構造的男性優位に対し、能力以前に機会が与えられない女性の不遇、男性への点数的加算・期待値バイアスによる無意識の下駄は、データ的にも経験的にも否定しようがない現実であったことが近代では急速に可視化。それにより、社会的な是正の急務として「女性枠/クオータ制/評価基準の見直し」は、倫理的にも制度設計上も過渡期の正統な矯正装置として機能していくが、これは男性に対する逆差別や制限ではなく、社会構造の累積による歪んだ現状であるスタートラインを水平に戻すための応急処置にすぎない。
 文学における女性作家の台頭・急増は、同じ仕組みではないが共通点は存在していて、両者はいくつかの点で明確に連動している。

 例えば、社会における女性の労働・ケア・不可視労働等は未だに充分に可視化さや評価れているとは言えず、ここには女性の専業主婦時代の重さから、共働き時代における現代も夫・子供・親介護のケアや家事が女性側に寄ったままであることも代表し、この構造と社会感覚と文化の変化は女性の労働や人生等の暮らしにおける中核問題として依然横たわる。
 文学においては、女性の身体感覚・日常・抑圧・怒り・微細な違和感等が、内容そのものとして初めて正当な語りとして扱われていく。透明だった少女性や中年女性を創作によって可視化した綿矢・絲山もこの層であるし、社会的や労働場面でも顕在的認知が広まる。これは単なる優遇や不遇ではなく社会史・文学史の補正作業であり、文学におけるそれが更新になったのは既存の状態に対する相対性であるといえる。
 ここで目立つのは社会・文学共に、中立を装った男性基準の解体であり、かつての評価基準の瓦解であり、男性の経験=普遍であり、女性の経験=特殊という暗黙の前提に立っていた前提が崩れ、男性作家は普遍性を自動的に付与されなくなり、女性作家は特殊枠から解放されていく。これが男性の更新不足と女性の台頭という印象を生む。
 
 文学は社会より一足先に感受性の地殻変動を表現する領域であり、実績や現実の構造変化よりも、社会的祈りを反映しやすい
 文学固有の事情として、文学は主体の声を扱うことが前提となっており、権力や構造よりも、それに翻弄される経験の切実さに反応する。抑圧されていた声ほど表現のエネルギーが高い上に、その更新は表現だけで突破に値する。既存制限がなければ更新的達成は存在しない。女性作家が増えたのは枠が与えられたからだけでなく、語るべきものが溜まりに溜まっていたから、その熱量の解放が表現上の更新へと繋がった。それらが文化として定着し、社会制度が追い付くことを是とし、未来の普遍的価値観を変えていく。

男性のデフォルト性の剥奪
 以前:男性視点=説明不要
    男性主体=世界を語る資格あり
 現在:「その語りは、どの立場からのものか?」が問われる
    問い直しに耐える語りを更新できた男性は少数。

 21世紀文学の強い潮流は「抑圧・不均衡・声を奪われた経験(=女性・多様)」にありその正統性競争において男性作家は構造的に不利になる。これは時代の主題がそうであるというだけで不公平とは関係がない上に、前時代の公平性の不均等の是正時期にすぎないが、相対的にこの時期の男性性は利益享受を奪われた形に見えるし、それは一般社会性も同様である、というのが面白い所で普遍性。
 過渡期特有の振れ幅はあるし、社会制度でも文学評価でも、一時的に女性であることが加点される時期を経る間は男性であることが疑われる局面は確かに存在する。ただしこれは構造補正が終わるまでの不安定な揺り戻しであって、最終的には性別ではなく更新された語りの強度が再び中心になる時期が必ず来るが、その為やその前に男性作家が文学表現においてどのような更新を行うことが出来るのか? という視点は、一般社会における男性の主体的な姿勢や価値観がいま問われている地点であり、現代文学や文社会としての成熟への要素となってくる。

 多くの男性作家が旧来の普遍性に留まったが、その旧時代的普遍性をこそ更新する声が次の男性作家の役割で更新点であることは間違いなくて、その中の多様性や正統性がこそ21世紀的な要素である、と仮定すれば、世界を代表する語り・人類を代弁する視点・苦悩=哲学的普遍というモデルはもはや自明ではなく、更新できないと古いと見なされる。
 この論点では、旧時代の女性の構造的不遇の肯定や無視して称賛をしないし、男性主体の構造や価値観の当然的旧態価値観の是正の必要性を理解した上で、一般男性の姿勢と認識更新・男性作家の更新不足を観測するものであり、社会史・文学史を長期で見て社会構造と感受性の同期を理解し、次の更新を期待するものである。
 社会的是正の急務性と文学における女性作家の台頭は重なっており、しかもそれは偶然ではなく同じ歴史的圧力への応答であり、故の更新であり、普遍性への一途にすぎない。それは同時に、文学は制度よりも深く、早く、感受性の更新を要求する、その祈り的な表現になることの証明でもある。
 今後問われるのは性別ではなく、どれだけ自分の立場を引き受けた語りができるかであり、だからこそどの時代もその自分で書き尽くせる倫理と更新が全てで、それが社会性に連動していく。

完全なる上位互換、絲山秋子で見えてきた津村記久子の真価「沖で待つ」『御社のチャラ男』絲山秋子②
自分にしか書けないものが書けるようになるまで2と題しつつ、上位互換・絲山秋子により際立って思い出された津村記久子に感じる文学性の無さ。共通項や文学性の高低を考えて見えてきた近代日本文芸と芥川賞の近代化と一般化の流れと時代的変化。 芥川賞企画...
自分にしか書けないものが書けるようになるまで『かか』『くるまの娘』宇佐見りん 芥川賞で日本文学が読めるのか?③
芥川賞で日本文学が読めるのか? 第三弾は、若干21歳で受賞した宇佐見りん。 私は過去記事で『推し、燃ゆ』を読んでいますが、推しという社会派テーマを扱ってなぜかこだわった発達障害が著者の最大モチーフかと思い、狭い範囲で書けた作品で受賞したのだ...

是正が終わった後、文学は何を語るのか
男性作家はどの地点から再び普遍を語り得るのか

 既存の男性的文化や優位・歴史があるらからこそ新時代的に女性に開拓余地があったことは、抑圧からの解放・制度的枠・相対的価値向上による融和性などを社会的側面と文学的側面の両方で観測することが出来る。この辺りは時代の享受や過渡期における感情的な対立に回収されがちな論論点ではあるが、構造として統合しようとしている問いだと思われる。歴史がどう移行したかの話であり、「社会的側面→文学的側面→両者を貫く構造→融和」でまとめることが出来る。

 社会的側面において、男性的文化・優位・歴史などが土台だったという事実を大前提として、近代国家としての資本主義や官僚制、学術・専門職制度らは、圧倒的に男性中心で設計・運用されてきた。これは倫理評価以前に歴史的事実も機能的事実でもあり、男性的文化が果たした役割は大きく、標準化と数値化、長時間労働や抽象的普遍性などの公的領域の拡張など、これらによって社会は拡大し安定し、蓄積を持てるようになった。この過剰に硬い土台の恩恵の上に今日の普遍的社会や価値観が横行できたわけだが、その土台においては、身体差を無視し、ケアや感性を排除し、感情や関係性を軽視することで、私的領域を切り捨てる構造を内包し、結果として女性(や相対的な弱者男性)は参加しにくく、参加しても評価されにくく、例外・補助・特異として扱われた。その歪みと限界を以って、初めて是正=歴史的必然が生まれる。(※このあたりのことを上手く書いて察知しているのが絲山の『ニート』や『御社のチャラ男』などの一連の作品で、他にも似た主題やテーマモチーフでの作家作品を求めたいところ。特に透明化されてきた専業主婦出身属性の作家とかが家事・育児・介護・共働きなどの未だ透明主題で書いてくれたら面白いのになと思うばかり。その視点で言えば弱者男性像で介護を書いた羽田圭介の『スクラップ・アンド・ビルド』に受賞させている芥川賞はさすがといえるのか? 商業性もあるし、ジェンダー作品としても需要がある良いポジションだと思うが、そのあたりの抑圧や制限から表現創作を行う作家性はもう出ているのかな?)

生き抜いた中年女性と構造の唯一性『沖で待つ』『イッツ・オンリー・トーク』『ニート』『御社のチャラ男』絲山秋子①
構造の中の声の純度として最高傑作が芥川賞を受賞しつつ、その潮流の継続を果たし、以降にも影響を与えたことから2000~2020年代を語るうえで避けて通れない一人として、今回は待ちに待った絲山秋子さん。 20歳前後まで読書をしていた時期に、デビ...
弱者男性文学の総本山=芥川賞が現代で機能しなくなったわけ『スクラップ・アンド・ビルド』『バックミラー』羽田圭介
私は以前から、海外作品であれば男性作者を、国内作品であれば女性作者を読みたがる不思議を自分に感じていたが、今回はそれが腑に落ちた気がするし、純文学的な狭さと世界文学的な広さの違いになぜ私が心惹かれ、私の主題や求める文学性がどこにあるのか、と...


 女性枠・クオータ制・表象の是正は必ずしも理想形ではないが、男性的基準が中心にて中立を装っていた既存社会による構造においては、新たな枠を設けなければ可視化すら起きなかったのも事実で、見えない天井を破壊するための道具は、現代現実の均等や中立では更新が見込めないことを是正するための処置となる。ここにある不均等に同時代の男性が自身を嘆くことは想定範疇ではあるが、それは前時代の抑圧と近未来の公平を無視したものであることは注意が必要かつ、その客観的視座がある人間はそもそも現在と自身のみを嘆かない。

 社会制度と違い、文学は数値評価が出ず、成果が遅効的で、声と経験が資本になる領域だからこそ、抑圧の経験や語られなかった身体や排除されていた感情などが、一気に流入し表現するに可能な領域であることも大きい。
 男性中心文学は、国家・戦争・労働・哲学・抽象的普遍を中立の立ち場から中央として語ることが出来たが、日常・ケア・関係性・微細な違和感・身体の変化などが巨大な未開拓地として残り、ここに女性作家が入った。この辺りも一般社会を構成する労働力や貢献性と被る。
 女性文学の台頭は男性文学性の否定ではないという点は見落としがちだが重要で、男性文学が作った言語・制度・市場、男性批評が作った評価装置などを使って女性が別の層を語り始めた意味では、破壊ではなく反転的な拡張であり、この場合の拡張は純粋に女性側の解放であることにも注意が必要。
 男性や男性文学の価値が下がったのではなく価値や主流の分布が再配置されたに過ぎず、従来的な一元的ヒエラルキーが崩れ、複数の中心が生まれたことによる融和的や協調的価値が評価されやすくなっただけであり、これは社会でも文学でも同じ多様性の波として認識が可能。
 現在感じられる違和感は、是正が進行中につき枠がまだ外れきれておらず、消費・メディアが過剰に反応しているための過渡期特有のノイズであり、長期的に見ると男性的構築力・女性的感受性の分業ではなく、統合された人間像が求められる段階に入っていく。
 既存の男性的文化・優位・歴史があったからこそ、そこの歪みの認知から是正が必要となり、多方にとっての開拓余地や再分配の必要性が可視化された。それは反乱ではなく社会と文学が同時に行った文明の自己調整的な成熟の過程であり、この場合の視点は文明がどう成熟するかを見ることが必要。

既存構造×他軸台頭

 今まで土台に適応しやすく、その優位性の中に生きてきた普遍的男性が、行き場や登り方を一部無くしたのは一般社会や企業の中でも文学の中でも関連するが、それを時代や性別的な不遇や不満とするのは過去の女性たちの立場や抑圧的制限に対する軽視であるし、理知的な人間の感覚とは言えない。少なくとも21世紀はそういう時代で、新たな均衡を目指すには反動が必要。ここにあるのは「既存男性(構造)を責める/台頭女性(生存)を守る 」という二項対立ではなく、文明が均衡点を更新する際に必ず通過する認識の問題なのかなと。

 まず前提として、近代~20世紀後半まで普遍的主体としての男性像は、疑問を持たれずに世界を語って闊歩することが出来たし、社会でも企業でも文学でも、標準モデルや暗黙の想定読者とともに評価基準の中心ですら彼らであり、その登り方や成功モデルが現代においては多様化し相対化され、説明責任化された結果、以前ほど楽に上がれなくなった。行き場を失った普遍的男性の現状は被害ではなく既得権の剥落≠不当な抑圧であり、それを時代や性別による不遇と呼ぶことは不快と抑圧の混同が挙げられるし、歴史的非対称性を無視している。
 過去の女性たちは、登り方が難しかったのではなく制度的に塞がれており、語る権利すらなかった。それと評価されるために自分の立場を説明しなければならなくなった状況を同列に置くことは難しく、現代の普遍的男性が感じている多くは、基盤を疑われ説明を求められ無条件の中心でいられない不快や手間であって、軽視や排除による沈黙の強制や生存条件の剥奪ではない。これを前時代的女性が与えられてきたものと同様の抑圧と呼ぶのは言語として難しい。
 理知的な人間とは、自分の立場が歴史的産物であることや、その優位が永続しないこと、そして公平化には摩擦が伴うこと等を理解した上で自分や社会性を更新できる人であり、その場合に自分が不遇だと嘆くことは更新の放棄に近く、相対化に耐える能力のないそうした人間に可能な更新は恐らくない。
 新たな均衡を目指すには反動が必要だが、文明的な過剰補正の是正としての構造的反動や評価軸の再精緻化など、怒りや被害意識などからのノスタルジーとしての情動ではなく構造で起こることであり、起こすべきことである。

孤独なエンジン~運と才能で勝手に好転して欲しい~
できれば世界に勝手に好転してほしい。 でもなぜか世界は勝手に変化してくれない。 努力したくない、失敗したくない、幸運と才能で成功したい、という心理は、人間の根源的な自己保存・快楽追求・不安回避の欲求に根ざしている。  消費者構造は思考する余...

21世紀のその先へ向かって

 どこからの段階からか確実に、性別を問わず、偶像の脱落が起きて語りが浅いものは残らず、説明責任を引き受けた立場を明示した上で世界を語れる者が評価され、被害競争や構造的享受から距離を取り、責任と構築を選ぶ語りが人類更新には必要になるし、文学と社会は同時にここへ向かう
 既存構造に甘えた無条件の優位は終わりをつげ、被害者特権が一時的に隆盛を極め、その先には更新された能力が最善の時代が来る、という順序で文明は進むのかなと。

 文学と一般社会の現代において行き場を失ったと感じる男性が、それを不遇だと嘆くか、新しい登り方を作るか、ここが現状の分岐点。
 昇進ルートの不透明化や、男性というだけで説明責任を課され、無条件の正当性が失われた感覚などを構造レベルで不遇と呼ぶのは誤りであり、彼らが失ったのは権利ではなく前提として与えられていた優位に過ぎないことを自省により到達する男性はまだ少数派かもしれないが、相対的に半数を落として成立していた上昇経路の条件変更であり、過去の女性が直面していた排除や不可視化による発言権の欠如とは質的に異なる。歴史的に見ても現代の不運は妥当ではなく、戦争世代・制度的被差別層・言論を奪われた集団と比べると、自由・選択肢・表現の余地は圧倒的に多い。その上で、物語の中心から降ろされた感覚、模範モデルの消失や努力の方向が見えにくいなどは否定しづらく現代における男性の主題であり課題ではあるものの、現在の男性の違和感を時代的・性別的抑圧として語ることは難しく、新たな均衡を作るためには一時的な揺れや反動を通過するしかなく文明が成熟するときの必然的なプロセスであるならば、その均衡のあとの設計や、次世代時代の更新にかかってくる。
  想定できる二極化は「被害意識に向かう男性」と「自省に到達する男性」であり、感情レベルはまだしも認知レベルの前者は、文学的にも社会的にも更新が止まるルート。
 文学の場においても過去を振り返ると「貴族文学の没落/宗教文学の衰退/国民文学の相対化」など、かつて中心だった主体が語りとして機能しなくなる時代変化は必ず起こってきたし、それは、排除ではなく語りの条件変更にすぎなかった。「自分が語れたのは才能だけではなく制度と歴史が後押ししていた、今はそれが剥がれのであれば次の語り方を作るべきだ」と理解する層も一定数は存在するはずで、この自省は自己否定でも罪悪感でもなく、時代認識の更新による起こるのだろうし、この場合の自省が可能な主体は、まず第一に教養があり文学史・社会史を知っている上で、自分を例外と思っていない認知機能上の基礎をもち、自分を歴史の外に置かない人間となる。 
 更新された普遍とは何か、被害も特権も語らない倫理的主体像とは何か?
 それを問い続ける意義があるのが現題の理知感であり、知的貢献性は隣人から社会へ派生する。

コスパ的現代における教養の危機と渇望、ただ常に時間が足らない「教養としての世界史の学び方」山下範久
効率や生産性を求める現代において、非効率的な教養という言葉の商業上の使われ方や売れ方に変化があるような気がする。 倫理は歴史を媒介してしか育たないし、人間は希望を持ってしか未来を作ることが出来ない、そのためには、包括的な教養という言葉がもた...

なぜ文学による可視化が為されやすいのか

 日本社会や多くの先進国で長く前提にされてきた女性像は、
 ・若年期においては補助労働力や短期雇用
 ・結婚に際しては退職(寿退社+家庭に入る)
 ・出産後は無償ケア労働(育児・家事)
 ・再就職後は非正規・時短・補助的役割
 などにより、時間的にも能力的にも切断された人生モデル。これは単に働きづらいという話ではなく、キャリアの連続性が想定されず、成果の蓄積が社会的に評価されず、そもそもの長期的思考・専門化・権威形成が阻まれる、という社会的・当人的にも価値観そのものが制限される構造
 出産前提モデルや寿退社文化が何を奪っていたかを考えれば、それだけで幼少期からの女性の価値観や雇用形態にまで制限をつける。社会的・労働環境的に見れば、既存の男性中心社会が構築した構造であるがゆえに主体性が異なるので、一般社会にある「企業/官僚制/正社員モデルの限界/長時間労働/年功序列/同質性/フルコミット前提」などはすべて、妊娠・出産・育児と構造的に両立しない。
 女性の解放が文学から始まったということは、企業/制度/雇用/評価などの社会性や構造が後追いで変わらなければならない、ということでもある。示された倫理が一定地位を持てば持つほど、更新された倫理が社会性を急き立て、旧態然が追い立てられて恥なる社会的構図、これは大事な文明的視点であり、実際「リモート/フリーランス/複線キャリア/非連続な専門性」が一般化しつつあり、これは女性の生存戦略が社会モデルに昇格している段階。次に問うべきなのはおそらく、この女性起点の働き方や表現モデルが、男性にとっても救済になるのか、それとも新たな選別や被害者意識や実存境遇を生むのか否か

 文学・言論的活動は、雇用主を持たずに年齢・経歴・空白期間を問われにくく、身体・感情・生活そのものが素材になり、労働時間を断続的に再構成できる等の意味で、歴史的に見ても出産・育児と共存可能な知的職能としてきたし、「女性の経験・身体・沈黙/怒りや違和感」が、企業より先に文学に現れたことは偶然でも感性でもなく、合理的な選択として女性にとって組織の中で主体になるより、組織の外で主体になる方が早く、構造の中ではなく外からの表現から解放が始まるのは分かりやすいし、その主体性を表現しやすい。
 さらに重要なのは、女性の人生における選択の自由の少なさや、進路が他律的に決まりやすく自身の主体性の優先順位は低くなりがち、かつ断絶と中断が多いゆえに、「書く=主体を取り戻す行為」になりやすかったことも関連するように思うし、現代におけるジャーナリングや言語化の網や交換と共感は必然だし、特にそれらの要素がsns・ネット時代と合致しやすく、フリーランスや個人事業と結びつきやすいのも注目。
 男性にとって文学や言語化は「上昇/理論化/世界把握/もはやエンタメや自己肖像化」であることが多かったのに対し、女性にとっては「生存の言語化/抑圧の可視化/自己証明/承認と更新」になり得やすかった。この切実さの差が2000年代以降の女性文学の強度を生んだことは、抑圧の解放の副次的要素として確実に存在すると個人的には思う。
 女性が追い込まれていたから言語化による表現が先に立った、それが社会的注目や商業的成功を呼び込んだ、それらが結果的に更新になった。この一連の運動は社会的にもジェンダー的にも一貫しており、男性不遇論を相対化し女性成功物語を消費に落とさず、社会構造と表現形式を結びつけることが批評性としては必要で、ではそれを文明や社会の成熟としてどのように受け止め、今後を迎えていくべきなのか、という視点の基礎になる。

文学と漫画の作者の偶像性から見る女性性の商業性

 一般消費やメディア性やサービス性や文化性など様々な要因から成る消費社会そのものの力学が性差として消費・メディア・文化経済の層から整理することは結構重要で、文学の偶像形成にまで浸透していることも見逃せない点として現れる。
 前提にある消費社会の非対称性として、一般消費においては長らく女性の方が可視的で物語化やイメージ化しやすく、消費の対象になりやすい構造がある。これは文学に限らず、芸能・ファッション・音楽・アート・インフルエンサーなどの文化や興業性などのすべてに共通する。

消費者の半数①:女性
 同性への共感/自己投影/ロールモデル化
消費者の半数②:男性
 異性への関心/理想化/視線の快楽
→男女両方の消費欲を同時に刺激できるのが女性像。

 これは倫理以前に、市場原理として極めて強い。
 仮に前提条件として、構造上の男女の解放を入れ替えたとして、綿矢が男性であった場合にあれほどの商業性があったか、と言う視点でみればその商業的爆発は文化発展における更新のみならず女性性の商業的市場原理が発動したところによるのではないか、という仮説。

若い女性の商業利用と「読む倫理」平成の爆発、美少女小説家の潮流②『私をくいとめて』『パッキパキ北京』綿矢りさ
売れても売れなくても難しい個人を貫く作家性と資本主義時代の文学性と、誰が語るかの特権から、どう読むかの倫理と、権威からの再接続へ。 ポストモダンの記事の時の、文芸が、語りのための形式から、形式のための形式になり、21世紀は人類のための形式に...

 文学は歴史的に、「作者の内面性・倫理・生の切実さ」「言語を通した世界把握の知的倫理」「執筆=主体の証明という観念」を強く要求してきたジャンや制度で、私小説や視点人物的概念が存在することなどもそれに準じる。作者が「作品+人格+身体性」を帯びやすく、特に文学では「作品内容/作者の人生/語りの切実さ/身体感覚(痛み・ケア・抑圧)」が分離されにくい。
 ここに女性作家が置かれると何が起きるかといえば、近代以降の文学制度は、「普遍的主体=白人男性」を透明化してきたし、男性作家の身体や人生は背景として消去されやすく、一方で女性作家は、語ること自体が発言権の獲得と見なされ、身体・性・被抑圧経験が作品の正当性根拠として読まれやすくなった。結果として「女性作家=語りの主体=生の証人=文化的アイコン」になりやすく、反対に「男性作家=作品と人格を切り離され思想や構造だけを要求される論点になりやすい」ゆえに偶像化はされづらい=主体的スタンダードの名残りでもある。
 これは評価でもあると同時に拘束でもあるし、時代的優位性であり、それが女性文学の台頭に後押しをした側面は事実。女性の身体性や抑圧解放の意味で言うとやはり古典的から身体性を言語でものにした川上が分かりやすいが、一葉時代からの解放・口語体言語解放なども付随しつつ虚構性の強さはこの辺りにあるし、女性がそう扱われてきた社会的かつ身体的性別の”私”が語ることの特権性の価値を最大限に表現に使った優位性は存在する

少年漫画で「女性作家が男性名を使う・性別不明」メリット

 たとえば漫画における作者性は文学のそれと真逆で、作者は透明なまま作品を供給する生産性であることが望ましく、エンタメ性の強い漫画においては作者の内面や人生による文学性よりも「物語構造やキャラクター/展開速度/読者の没入と継続消費」等の虚構創作性が最優先される。
 偶像性を回避し商業性を最大化させるために女性名が不利になる理由として、少年漫画市場では歴史的に「女性名=恋愛中心/感情過多/男性読者向けではない」的疑念や先入観フィルターが存在してきたため、女性作家が男性名を使うことは性別による先行印象を遮断し、作品単体で評価されやすく、作者の身体性や私生活が読まれにくい「=偶像化を回避し、商業的摩擦を減らす戦略」だと思われるし、ここもまた抑圧でもあり、同時に合理的な匿名戦略でもある。 

 重要なのは偶像性の価値とコストで、偶像性のメリットには、社会的発言力や発信力、アイコン的文化象徴性から、批評・アカデミズムとの接続まで広範囲にあるが、偶像性のデメリットには選択可能な作風や主題が狭まる、失敗が許されにづらく、人格の消費が始まるうえ、作品への先入観や商業的な自由度が下がる等、偶像化の強さには評価と搾取の二重構造を持つ。
 文学において作者は意味を引き受ける主体であり、漫画において作者は快楽を設計する装置となる、この制度差が女性作家が文学で偶像化されやすい理由でもあるし、漫画で性別を隠すことが合理的になる理由を同時に説明し、どこで作者が見られるべきかというテーマが見えてくるし、それこそが文学がジェンダーや書き手の主体性で揺れたり固定されたりする21世紀文学の本質と過渡性が見えてくる。

メディア資本になり易い性別と偶像消費

 さらには現代メディア的には、前述ような消費者の半数以上が興味を持ちやすく、抑圧や不平等の前時代や旧態然とした態度含め、「女性が語る/その声が届く/抑圧からの解放」というナラティブは非常に強い一方、男性作家が「人類を代表する/普遍を語る」という物語は、もはやメディア的に使いにくい。結果、女性作家の方が見た目にもインタビューとしても使いやすく、さらには写真・ビジュアルも手伝って結びつく。それらが文学の堕落なのかと問われたら、堕落ではないが純粋でもないし、文学は常に思想や市場とメディア的消費の交点にあったことを思えば、19世紀も20世紀も文豪は偶像だったはずで、作家はスターで読者は消費者だったし、偶像の性質が変わっただけとも言える。

 男性性が消費対象(=偶像)として弱い理由には、男性の内面は(半数問題も手伝って)興味を持たれづらく共感されにくく視覚化しにくいので語化しにくい上に、特に現代では男性的苦悩は特権の裏返しとして疑われ、孤独は自業自得として読まれ、消費的には不利。
 この辺りは<弱者男性文学の総本山=芥川賞が機能しなくなった理由>でも触れたように、時代ともスタンダードや隆盛の方向が変わることは共感や憧憬の対象の意向を映すし、前時代的な旧態を更新しないことで存続する創作の怠慢はそのままに、作者の人格よりも語りに説明責任を問われ、普遍を語るなら倫理的正当性をもとめられ、語りの位置取りへの厳しいチェックを課される。これは創作上、極めて重いし、本質的にというか将来的には女性にも課されるべき点であり、文学にも問われるべき批評性には違いない。

弱者男性文学の総本山=芥川賞が現代で機能しなくなったわけ『スクラップ・アンド・ビルド』『バックミラー』羽田圭介
私は以前から、海外作品であれば男性作者を、国内作品であれば女性作者を読みたがる不思議を自分に感じていたが、今回はそれが腑に落ちた気がするし、純文学的な狭さと世界文学的な広さの違いになぜ私が心惹かれ、私の主題や求める文学性がどこにあるのか、と...

 偶像になり易い女性作家は「女性が語る=語られなかったものが語られる=文化的意義が即座に付与される」この構造は、文学やフェミニズムと消費社会やメディア倫理が重なった結果で、現代における優位性といっても過言ではないが、偶像性と消費性とは二重構造であるので、存在そのものが主題やメッセージとして注目されやすく、批評性において妥当性を欠く場合もあるし、求められるテーマ性や虚構性を固定されやすく、その場合の制限や抑圧も少なからず存在する。
 文学における女性作家の台頭は、正義・是正・才能だけでなく、消費・メディア・市場の欲望とも深く結びついている点は、現代における女性作家を貶めてもいないし男性作家を被害者化してもおらず、現実を構造として見るためには重要で、文学や虚構文化における批評や読書性としても成熟が必要なことが感じられると思う。

ジャンル小説の性別無視は
文学性より虚構性創作性

>>実際の出版者数・作品数のデータや量数的感覚ではなく、あくまで評価や文化更新の中心がどこに移ったのかが本項の論点であり、特にそれは文学・国内的な純文学において顕著であり、恐らく出版数における性別比は明確に男性不在にはなっていないし、体感でもとくにSF・ミステリ・歴史小説などジャンル小説において依然男性作家の活躍が目立つ。物理的な不在ではなく、評価構造の変化がポイント。(ジャンル小説においては依然として存在感があるのは、解放・更新などが先鋭化しやすい文学性ならではで、ジャンル小説は普遍が目立つのは、文芸と文学の更新が異なるからだろうし・後述に関連する、項を用意した)

 SF・ミステリ・歴史小説などでは2000年代以降も、男性作家の供給と評価が途切れておらず、依然活発であると思われること、に触れるには私がそうしたジャンルに不慣れであることから肌感覚でしかないけれど、現代における市場性やエンタメの構造上大きな相違はないだろうと思うし、現代における文化の基本は本格を担う気はないけど趣味や稼げる範囲なら進出の可能性はある、というのは資本主義的だし、社会傾向としては全体性があって良いと思うし、そのバランスは健全。
 SF的な長期的な非現実性への傾倒や執着を必要とする世界観構築、ミステリ全般の非現実的な虚構性としてのパズル性・制度理解と構築、歴史小説に必要な史料・権力・戦争・制度などは、教育・教養へのアクセスや、その時間の連続性や趣味的没入の許容と相性が良く、歴史的に男性に開かれてきたし、それらは上で触れてきたような女性性が規範として持つ現実的な妊娠・出産・結婚・育児などと相性が悪く、現実的なそうした中断や他者ケアや身体性により、女性の人生や生活には趣味や集中よりも他者や身体が割り込みやすい
 男性作家がこれらジャンルに残っていることの意味に、そのような女性側の要素が反転するし、趣味的動機が許されることはかかわりが深く感じられるし、市場的な現代における成功や成果も可視化されやすく、生存と承認が分離できる創作の安全地帯でもある。女性が主体性・社会的意義・可視化の倫理を引き受けてきた時代の一方で、同時代男性がゲーム性・技術性・娯楽性を担ってきた、という分業や文体にも見えるし、稼げず更新の希薄な文学に対してのジャンル小説は健全な資本主義的感覚で、生活と創作の距離が近い趣味的な市場が複数あっていい。
 ただこれは中央集権的文学観の崩壊でもあるし、表現としての切実さが男性作家側にないことを意味もし、やはり他方側である女性の抑圧の解放や必要な可視化が書く意味を帯びる必然性を説明する。
 
 文学だけが文化ではないし、商業性が現題と接続を継続し、趣味的生産が次世代を育て、収益ジャンルが裾野を支える。もし全分野が政治性や倫理性などの表象責任や社会性や思想を背負いすぎると、文化は息切れする。SFやミステリなどのジャンル小説が書き手や読み手の遊び場であることは、文化の酸素供給として重要で、私も最近重い文章や大量の思考ばかりで息切れしてくることからも痛感するし、私もみんなも映画も観れば漫画も読むし、文学や一部の純文学はほんの狭いジャンルにすぎないことは注意が必要。
 文化は意義と趣味の両輪で回ると仮定すれば、その分業が残っているのは社会として健全で、文学を芸術や趣味として市場から生活へ戻す視点は非常に重要で、私が忘れがちな視点。
 趣味ジャンルが更新につながるのか、男性性の保留地になるのかの線で言えば、重要なのは、男性が中心に戻ることではなく複数の場を持つことであり、SF・ミステリ・歴史小説は、世界を作ってルールを設計し仮説を走らせる面での男性性の活用にとって良い訓練場でもあるし、男性作家の復興はここから始まる可能性はあって、文芸での活躍は趣味ジャンルの隆盛を意味するから文化は保持する。 

ミステリの女王の紹介本「クリスティを読む!」大矢博子
小説家とか俳優とか、虚構創作に携わる職業にはえてして虚構性に恵まれたり押し付けられたりするし、現代で言うところのブランディングを含めたイメージ性が商業性や文学的な色気の箔付けになったりする。 世界的に際立つミステリ作家といえば私は一番にアガ...
入門にも復習にも優しい上下巻の三国志『諸葛亮』宮城谷昌光
読書ジャンルの偏りは、隔てりなく読んでいるつもりでも自然と生まれていて、個人的には昔から好きだった歴史小説も、社会人が読書を再開させて読書ブログを開設して以降の近年読んだのは本作のみとなっている。いつか諸々が落ち着いたら読みたい気持ちはあっ...

台頭による調和が済めば、更新できる者の時代へ

 社会的・文学的な女性優位や是正急務はいつ頃まで続き、その転換期はどのような理由によって起きるのかと想定すると、男性側の復興や更新、数字推移的女性の価値解放の達成と社会的変容の多軸で見る必要があるし、一連の動向は2000~2025年現在までの文学的・社会的ジェンダー転換を、倫理・制度・消費・象徴の複合現象として捉えることを中核としている。
 「女性の文学的台頭」「男性作家の不在感・更新不足」「社会制度における女性優遇措置=一時的な是正期」「消費・メディア構造における女性偶像化」これらは同一の構造転換の異なる現れであり過渡期における男性を不遇として嘆くのは、過去の圧倒的な男性優位を歴史的に無視した知的に未熟な反応である、とは先に述べた。

 既存土台が男性仕様で完成していたからこそ2000~2025年に女性の時代が起きたことは社会や文学においてそのほかにより顕著であり、「言語/ジャンル/評価軸/権威構造/主体モデル(理性・ヒロイック・超越)」などはすでに男性によって十分に開拓・制度化されていたからこそ、女性は更新者・再配線者として参入できたことは文学でも企業でも同様。既存の土台の男性主体性の上に登場した女性の台頭が目立ち、享受にも思えるし、同時代の男性はその一種の優遇の波に自身の不遇を感じもし得る。
 従来ないし元来的な女性側の抑圧・不遇・未達が、表現や表明の圧力からの解放を生んだこの流れは文学表現において際立って顕著であり、綿矢りさは少女性の抑圧からの逸脱、絲山秋は労働・中年・身体の沈黙の言語化、ハン・ガンは国家・家父長制・暴力の内面化などを起こし、これらはすべて抑圧がなければ生まれない文学であり、逆に言えば男性は書かなくても生きられていた歴史的事実の裏返しでもあり、女性の切実が浮かび、更新の本質はそれ以前の抑圧的事実があったことを示す。
 この場合、この時代の男性は不遇で、この時代の女性たちは優遇されているのか、といえば、それは誤読になる。男性が失ったものは何かと問えば、権利・発言機会・表現的自由などではなく、無自覚な中心性や努力せずに象徴になれる地位への上昇や凡庸さが許される特権等であり、前時代から続く女性の不遇への均等化の急務への摩擦にすぎない。
 社会や社内の男女比としての構造レベルの均等化が急務であるから、同レベルなら女性が評価されやすい構造は確かに存在するが、それら構造的理由に加えて、生理的・価値観的・社会的ハンデを背負いながら、到達確率が低い(母性・ケア労働・身体負荷)ことは社会生活において顕著であり、それらも表現に到達の物語が内在するために、同じ成果なら女性の方が象徴価値を帯びやすいことは、贔屓ではなく補正と意味付けの問題が大きい。

 ではこの女性優位・是正急務はいつまで続くのか、と推察すれば時期は永続せず、必ず是正期の隆盛は尽き、徐々に収まるのは確実。文化・表現的な台頭時期を経て、社会認識や構造変化を伴い、制度が倫理に追いつきながら加速していく。
 是正期(~2020年代後半)、肌感覚では持ち得ない社会人女性や、彼女たちが晒されていた時代を私がなんとなく可視化出来ているのは80.90年代の絲山が書くような世代や、現在50代前後(1975年前後生まれ)女性の辺りの人生モデルから母親世代(70歳前後/1955年前後)くらいまでで、けれどその20年の間、そして2000年までの間の社会的変化の乏しさを思ってしまうし、芥川賞企画を始めて、めぼしい作家を拾って目立ったのは2010年までで、国内の文学表現的には2000~2010年がピーク、社会的な是正の導入や確変と反応が目立つ現在も、数年すれば社会的にも制度や認識の下準備は整うのかなと。 
 次に来る均衡期(2030年前後~)は、社会制度の中の女性の珍しさが消えて、属性なしに戻る時期があり、ここで女性の優位性は意味を失い始め、成果と思想が再び主軸になるはず。それにしても文化や商業シーンにおける偶像性や消費性は著しくは変わらないだろうが、男性側の体力や身体性が残るように、一定の性差は残って必然であるが、制度の中の個人の生産性やその機能性を重視したジェンダーレス的改革は収まるし、追続が遅れた人間や制度の顕在化は加速する。ここではどちらかというと社会的な変革が落ち着く時期であり、文学側では停滞を感じる、それはもうすでに始まっていると思うが、単に私が認識できていないだけの可能性があるし、国際的な流れやハン・ガンの可視化も数年遅れている可能性があるので、また。(※そもそも2024年に私がノーベル賞予想レースで普遍的なハンガンと、過去の突発的なアトウッドを同時に読んでいること自体が、すでに……)
 再選別期(2035年~)更新できない女性も脱落し、更新できる男性作家が再浮上する時期が必ず来る、個人レベルの萌え芽はもう始まりつつ10年スパンで育ち、表現から制度へ進み、社会全体の変化になっていくのかなと。性別ではなく個々の実力や更新力が評価軸になる時期は必ず来る。これは文学でも社会でも同様。

 第1期:是正期(~2020年代後半)「枠の導入/可視化/メディア集中」
 第2期:均衡期(2030年前後~)
    「女性の珍しさが消失/属性なしに戻る/成果と思想が再び主軸」
 第3期:再選別期(2035年~)
    「更新できない女性作家も脱落/更新できる男性作家が再浮上」

 では、男性側の復興はどう起きるか、と問えば、まず前提として女性側や構造としての隆盛や均等が済んだとしても、復興は被害者意識からは起きない。普遍性を再定義し、社会性から個人までのケア・依存・身体・老い・失敗を引き受け、権威なき状態で生まれる普遍性、つまり旧来の男性性を脱いだ男性だけが生き残り、話はそこからなのかなと。
 抑圧の前時代があるからこそ新たな均衡を目指すには反動は時代の流れと肌感覚であり、怨嗟でもノスタルジーでも性別闘争でもないはずのその瞬間が、ようやく自分たちが立っていた土台を意識化する時間であり、それを自覚あるいは察知して突破した女性から台頭し、後に続いた女性が状況を味方につけることが出来た、その流れからして何を察知して突破する男性が現れ、それに続く男性が波に乗るか、という構造は普遍。女性の解放を消費せず、男性の不満を免罪せず、歴史の流れを構造で見ることが大切で、どの時代も当代の更新や状況や必要が読めないものは愚痴をこぼして不遇を嘆くことに置いていかれるだけなのかなと。
 均衡後の文学は何を書くのか、更新可能な男性性とは何か、などは依然として有効な問いだと思うが、その領域に入る人はそもそも対軸や異なる性別に対する自身の不遇を嘆くような生産性には端から関りはないのかなと。

白人男性>男性>>>女性>黒人女性、の時代から

 従来の優遇や権利の構図が白人男性>男性>>>女性>黒人女性などであるゆえに解放や発達が起こる急務には、感情的なポリコレ論ではなく権利配分・歴史・表現生成の力学があり、国際的に見ても2000年代以降の文学的転換の本質としては、「女性作家/非白人・移民系作家/クィア文体/ジェンダー逸脱」の評価上昇でがあり、文学史における権利配分の是正や表現資源の再配分が同時に起きた結果なのかなと。この辺りで言うと、2000年以前の人種系の作品は未踏のまま以降の多様性や移民性に突入しようとしている自分の読書観はいただけないとは思っているので、いつか読みたいとは思っているが、、

 「白人男性(とくに中年・異性愛・中産階級)>白人女性>非白人男性>非白人女性」という形で、長く機能してきた構図は、「文化(出版・発信)アクセス/教育機会/批評言語を持つ能力/普遍と見なされる視点」すべてに反映されており、ここで言うのは、書ける人間が多かったのではなく、書いたものが普遍として通った人間が限定されていたということであり、それが故に以降の解放や発達として更新が際立った、ということになる。
 なぜ解放や発達が彼ら・彼女らから起きやすいのかといえば、私が上で触れたような偶像性やナラティブ的消費性等は、既に現代的な感覚であり、私が関知しづらい所の2000年以前の感覚として、沈黙を強いられ、自分の言語が正統とされなかったからこそ、書くこと自体が政治的・存在論的行為になる。抑圧が表現の圧力を生み、表現の切実さを持ち、その表明が更新を生み、倫理を生む、文明は受け入れざるを得なくなる。
 白人男性中心文学は、教養小説や成功物語、内面の普遍化等すでに型を持っていた一方で、周縁化された主体は型を持たないし、型を疑い、既存認知=言語そのものを壊していく故にクィア文体や逸脱的語りが生まれ、既存の物語に依存しない形が生まれていくことで必然的に更新作業へ移行する。

 文学における多文化主義とは、表現能力の競争ではなく歴史的に歪められてきた発話権の再配分であるし、90~2000年代に支配的だった白中年男性作家の価値基準は、一元的・権威主義的な物語、複雑さよりも壮大さ・正統性という基盤に立っており、21世紀は多様性と感受性、マイナー言語・ジェンダーの物語が重視され、ポストモダン以降の多角的語りになっていく。
 解放や発達が起こる過程においては、歴史的負債が大きかった層や表現の回収が遅れていた層ほど優先的に可視化されるのは当然だが、それによって白人男性文学は排除されたのかといえば、自動的に中心に置かれなくなり普遍を名乗るには根拠が必要になったという変化が起きただけで、特権が消えたのではなく説明責任を負うようになった、ということは国内のそれと同様だと思うが、世界的な規模のあれこれは勿論私は把握していないのですが、世界的な社会の流れからすればそのような感じなのかなと。
 過去から現在にかけての普遍的な差別は見えない状態で温存されるが、文学はその可視化の装置になり得るし、これは倫理的介入であり、その意味では社会的急務として可視化が必要であるという社会倫理は不可避であるものの、この再配分は永続しないし、いずれ女性であることや非白人・クィアであること自体は評価軸にならなくなる。それもまた社会的成熟が故であるし、その倫理の先で問われるのは、主体の普遍的な更新へと移っていくはずで、ここには現在2025年にはまだあるであろう抑圧や社会的な視線や不遇や不満感情からまた一歩進み、被害者感情にも勝者消費にも安易なポリコレ批判にも落とさず、歴史・制度・表現の三層で捉えていくいことが必要なのかなと。
 人類社会史や文学史の次を考える上で、多文化主義以後の空白を誰がどう埋めるのか、ということも次として見えてくる。21世紀は確かに多様性の時代だが、それだけでは貫けない時が必ず来るし、本質的な文学だけが人類文学との視点だとジャンル的文芸は商業に過ぎないが、市場経済と接続を持たない文化はそもそも生き残ることが出来ない

 90~2000年代に支配的だった価値基準は、問題を孕んでいたが同時に強い機能も持ってて、一元的世界観や正統性のある語り手、大きな物語(国家・文明・歴史・科学)などの提供をしていたことは事実で、これは世界を一つのフレームで把握するための装置であったことも違わず、ただ問題は唯一価値視されていたことにあり、単一至上の価値から多様性へと流れる一次元の狭さと高さによるのかなと。
 21世紀文学が獲得したものと共に失ったものも存在していて、そこにノスタルジーや至上性の類を見てしまう視点も良くわかる。獲得したものには「声の多様性/感受性の細分化/抑圧の可視化/語りの民主化」が確実にあった一方、失いつつあるものには「判断の軸/世界をまとめる視点/迷いながらも前進する姿勢/敗北と更新を賭けた物語=文学性」などなど、2000年代の文学は女性台頭や多様性への開放などを持ちながら停滞はなかった故に目立たないだけで、ポストモダン以降(1900年代後半~)の文学の低迷は学術性・市場性共に接続的均衡しているとは思えないことには注意が必要で、ここは今後もさらに焦点となっていくはずだと思う。
 

 ポストポストモダン作家が引き受けている苦心は、大きな物語は信じきれないが相対主義にも耐えられないという板挟みの中で、限定された普遍や暫定的な倫理、不完全な全体性を提示しよう志向しながら多様性の時代を否定せず、それでも統合を諦めない最も困難な立場である。
 人類文学とエンタメ文芸の分岐点としては、文芸は私の中で快楽の回路を提供する消費と非更新による読書文化の維持として機能する普遍的な生活のイメージがあり、それは文明を映すが、人文学的な私の定義としては、世界認識を更新し倫理と構造に賭けて時代を超えて参照される、が故にエンタメジャンル的文芸は商業にすぎないという言い切りは、役割の違いのことであって貶めではないことは注意が必要だと思うのだけど、どちらにせよ双方ともに全体としての大衆や商業への足場や実績がなく、今後発達の兆しも感じられない時点で、文化としての困窮を感じることは変わらない。
 現代を映し、現代を更新し、現代に浸透しなければ、その言語や物語に価値など無い。
 私は、多様性を否定していないし商業文芸を軽蔑しておらず現代における必須だとも思うが、それでも人類のための文学をどうしても手放せずにいて、文学を思想のインフラだと考えているこの立場は、確実に少数派になるが文学史は常に少数派によって更新されてきたはずだし、いつ誰が書くかではなくいつか何を引き受けるかに移行してい久しいのかなと思うし、文芸や文学のそれぞれ、その書き手や旗手の性別や出自、それら属性を超える更新は何か、という新時代的なダイナミズムに過ぎず、これは敗北ではなく最難関ルートであり、21世紀後半には性別に関係なく文学が歩む普遍性なのかなと思う。

 ネットやsnsへの変化展開として、書評の民主化/読者レビュー主導によって弱体化したのは、権威そのものではなく権威が自動的に信じられる状態であり、男性中心の文学的権威が失われ・権威が常に実力と意味で説明を要求されるようになった事への変化は、民主主義的には健全。
 暴力主義(力の支配)→権威主義(血統・地位・性別)→民主主義(数と制度)→多様性社会(声と経験)、この不可逆な流れの中で立場を失い、突破できず、台頭がないという事態は、不遇や差別ではなく文明的要請に応答できなかった結果と考えるのが妥当であり、文明史的転換の中で性別概念・出自や身体性はどう再配置されるのかを問うのかなと。 
 性別は経験の差や本能や防衛的な視線の違いとして物語の素材に残るだろうが、正統性の根拠ではなくなり、男性性はもはや権威の証明ではしないし、やがて女性性も免罪符ではなくなる。旧来の男性性はもはや機能しないとして、一元的判断や断定的語りや正統性の占有は、権威主義的かつ排除的であり更新不能につき、民主主義・多様性社会ではノイズになる。
 その際に重要なのは女性性も免罪されていないことであり、被抑圧の語りや感受性の消費や私語りだけでは、社会的意義は限定的になる。今後の近現代が求めているのは脱性別的能力であり、現代社会・現代文学が評価するのは、状況を読み自己を相対化する力、そして社会や他者と共存しつつ構造を描く力であり、それが本質的な更力であり、これは男性にも女性にも等しく要求される。男性の復権・女性の優遇・ポリコレ批判のどれにも落とさずに文明が要求する能力の変化として捉えることが必要で、文学批評というより文明論の視点であり、最初の成功例はいつの誰になるのか、は気になるところ。

今回の書評レビューは?
次回②、男性作家は何をしていたか?
2025年もありがとうございました!!

 今回も長くなってしまったので、2分割。
 まさかの書評レビューには届きませんでしたので、今回を踏まえて、次回は中村文則さんの『去年の冬、君と別れて』平野啓一郎さんの『ある男』を扱いますので、年越しを挟んだ年末年始に読むものがまだないよって方は一緒に課題図書として読んで貰っても面白いと思います🐰🐢
 お正月休み、みんな何して過ごしてるのかな?

 年内に完結予定としていた芥川賞画、どんどん膨らみ、残すところ3回分の構想も、ここからさらに膨らむ気がしてなりませんが、とりあえず次回②で消化して、残り3回分。告知すると制限がかかってやりづらくなるのであまりしないのですが、年末にここまでお付き合いくださった皆様へ朗報おまけで告知。以下、キーワードと扱う作家で予定しております。気になる記事郡・作家名などありましたら、ぜひ年始もお付き合いくださいませ。
「芥川賞の一般化」もう一度津村記久子
「既存作家の成長と未来」金原ひとみ
「20年先にも芥川賞は機能するのか」もう一度ちらっと村田紗耶香

 芥川賞企画を区切りに一度国内を終えて、来年はしっかりと本願である海外作品を読んでいきたいと思っていて、そのテーマや主題は様相主題はある程度決まっております。
 現代人類社会を読みながら文学文芸表現を考える、この基盤がしっかり見えてきた2025年。みなさまの一番面白かった読書、上手くいかなかった読書、実生活での不安や疑問や興奮と快楽、多々多々ありながら、ぜひみんなで楽しく効果的な右肩上がりで楽しい世界にしていきましょう!
 2026年もさらに安心と興奮と興奮に満ち溢れた年になりますように。心から。いつもありがとうございます、今後ともよろしくお願いします。

**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
 感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
 とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~

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