G-40MCWJEVZR 言語と翻訳で揺るがす20世紀のポストモダンの続き『献灯使』『地球にちりばめられて』『雪の練習生』多和田葉子/Language and Identity Beyond Borders:Yoko Tawada and Postmodern Literature Today - おひさまの図書館
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言語と翻訳で揺るがす20世紀のポストモダンの続き『献灯使』『地球にちりばめられて』『雪の練習生』多和田葉子/Language and Identity Beyond Borders:Yoko Tawada and Postmodern Literature Today

文芸

境界を越える言語とアイデンティティ:
多和田葉子と現代ポストモダン文学

<English Summary>
 This article explores the works of Yoko Tawada through the lens of language, translation, and transnational identity, situating her writing within the continuation of postmodern literature.Focusing on novels such as The Emissary, Scattered All Over the Earth, and Memoirs of a Polar Bear, it examines how Tawada destabilizes linguistic boundaries and challenges fixed notions of identity.
 Rather than offering narrative coherence, her work reflects a postmodern condition shaped by fragmentation, displacement, and the fluidity of language.
 This article argues that Tawada’s literature represents not a departure from postmodernism, but its transformation into a transnational and linguistic exploration of meaning in the 21st century.
 本記事は、多和田葉子の作品を言語・翻訳・越境的アイデンティティの観点から考察し、それをポストモダン文学の延長として位置づける。『献灯使』『地球にちりばめられて』『雪の練習生』といった作品を中心に、言語の境界を揺るがし、固定された主体概念を解体する試みを分析する。
 彼女の作品は統一的な物語を提示するのではなく、断片性・移動・言語の流動性によって特徴づけられるポストモダン的状況を反映している。
 本稿は、多和田文学がポストモダンの終焉ではなく、21世紀における言語的・越境的な意味探究へと変容した形であると論じる。

 例えば同じ「ようこ」でも小川洋子は村上春樹と共にノーベル賞の時期に名前が挙がるけれども、ブッカー賞などに関わりそうな二人よりも、名実的に全米図書賞に属する多和田葉子が日本人作家では最もノーベル賞に近いのではないかとすら思った。が、それでも私が志向する部分とは種類が違い、それは私が感じるところの文学性の差異であり完全な次元の違いだとも思うし、今回3冊読んでいて私は私の感じるところの文学性としては一切面白みは感じなかった。

 なんの知識も文学性の芽生えもなかった20歳頃の私が、理解が追い付かないままでも絲山に反応したのは、私自身のテーマにも近い「構造・主体・社会・関係(非対称)性」があったからだと思うし、逆に、これはなにかしらを書いていると文章密度と共に思いながらも、惹かれなかった多和田葉子作品にあるのは恐らく、ピンチョンに相容れることが出来なかった要素に近く、「言語・翻訳や越境的距離・ポストモダン・20世紀的アカデミック」等に関連するからだと思う。

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同世代日本人作家4人の階層別

  絲山秋子が唯一無二である理由はその文学性が、何を書くかではなく世界をどう構造として捉えるかであり、基本的に著者が見ているのは社会システムの階層であり(構造)、主体と社会や他者との接続もしくは断絶、そして非対称、関係構造の文学化。絲山の作品を動かしているのは「個人」ではなく、個人を乗せている社会的回路そのものだから、「人間関係のズレ・職場の不具合・孤立」を扱いながら一貫して 社会と個人の接続設計の欠陥を描いている。
 
 ではそこへ行くと、今回扱う多和田葉子の文学性は、言語こそが世界認識の基層であり根源、その言語的越境や翻訳と多言語、それら文化差から言語そのものを揺らすための試みなのかなと思った。言語が世界をどうつくるか の探求であり、著者が見ている世界や社会は、国境・文化・言語の差などがどう主体の認識を揺らすか、あるいは翻訳不可能性や越境・多言語などによる表現的暴露がどう文芸を更新し、既存社会を揺らすか、ということなのかなと。
 絲山が社会システムを書くのに対し、多和田は言語そのものの境界を書く、ここに私はそれぞれの文学性と文芸性を感じてしまうのだけど、その本質は以降に譲るとして、今回まず初めに2018年に全米図書賞翻訳部門に選出された『献灯使』を含め、その他著作列のあらすじを見る限りには、私が志向するところの文学性を感じたりもするが、読むと全く別物であることが分かり、それは2011年当時に話題になっていた代表作『雪の練習生』を手に取るきっかけと読後感とあまり変わらなかった。

生き抜いた中年女性と構造の唯一性『沖で待つ』『イッツ・オンリー・トーク』『ニート』『御社のチャラ男』絲山秋子①Akiko Itoyama’s “Waiting on the Shore”: Individuality vs. the Standardization of Modern Fiction/urban life in contemporary literature
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 多和田:世界の言語境界
 川上 :身体の言語装置
 津村 :労働社会における日常生活
 絲山 :社会システムの接続構造

 対照的で大衆的な感覚で文芸創作を行う津村記久子は、日常生活の世界観で労働と文芸を捉え、労働階層は日常実感の階層と違わず、労働疲労は人生疲労や精神疲弊と混ざり合い、それらから掬う小さな幸福探しが、主題や創作性の根幹だったりする大衆化された純文の更新、ということになるか。
 川上未映子を考えてみると、身体と言語の内在階層を持ち、身体や言語の感覚の自動生成駆動を成す言語の装置としての役割と構造を持つような気がするし、調べると哲学要素も出てくるようだが個人的には現時点での創作性で著者のそれはあまり感じない。

 多和田葉子→ 翻訳多数
 川上未映子→ 海外文学賞で存在感大
 津村記久子→ 一部翻訳され人気もある
 絲山秋子 → 翻訳は少ない様子

 ある意味で日本的労働環境・文化の表現であるし、その構造理解としての文学性が他国・文化にどう響くかと言われると、それはもう文化の違いで、その意味で他言語でも書いて言語形式を主として扱う多和田洋子の世界前提の認識や文学観は並ぶ者がないし、他言語・世界言語と翻訳機能・移民・文化差などはむしろ21世紀的な主題でもあるとすら思う。
 なのに、なぜそれらを理解しながらも、私は読みながら全く興奮しなかったのか。ここにはやはり文学観と志向するものの違いがあると思うのだが、異なるがゆえに、双方のそれが明確に浮かび上がる気がしたし、それはピンチョンとポストモダンの時に感じて探し求めた答えや性質にも近かった。

 つまり今回は、言語文学としての多和田洋子とポストモダンを紐解く、ポストモダンシリーズの続編かつ、芥川賞企画の終盤の記事を兼ね合わせたものになる。膨大な読み書き、でも私は面白かったです。

私が愛する文学性と構造上のポストモダン、人類のための形式『囚人のジレンマ』Richard Powers’ The Prisoner’s Dilemma and Thomas Pynchon: Postmodern Fiction and Narrative Ethics~Mario Vargas Llosa ポストモダンシリーズ①
<English Summary>  This article explores the concept of postmodernism in contemporary fiction through an examination of ...

市場主義にも寄らない20世紀の歩みの文学

「日本語が変質した世界」を描く多和田の倫理

 恐らく『献灯使』は、言語そのものの劣化や変容を経た世界設定を中核に据えた小説であり、著者は本作で、語彙が消失する社会や、過去の文学や批評が参照できなくなる断絶、言語的乏しさが思考・倫理・共同体の貧困へ直結する構造等を描く。
 これらで最初に思い出したのが、ジョージ・オーウェル『1984』だし、小川洋子の『密やかな結晶』だし、それらに共通するのもまた、人類にとっての言語の認識的な社会性となっている。それらがディストピア的な要素になっているということからも、言語認識としての社会は人類知であり理由の根幹であり、文学や文学性を基調とするものであることも揺るがない。

体制・逃亡者・村人、二十世紀的なモチーフの中に生きる”私たち”「狼たちの月」「密やかな結晶」フリオ・リャマサ―レス、小川洋子/Yoko Ogawa and the Literature of Memory
スペイン内戦は1936年7月から1936年4月の間に、スペイン第二共和国政府に対して将軍が率いた陸軍によるクーデターから始まったスペイン国内の抗争。反乱軍の勝利に終わり、独裁政権の樹立へと繋がる。そうした大きな歴史の流れの中に見えなくなって...
啓示としての文学が成立する確率、ディストピア文学を貫く古典名著『一九八四年』ジョージ・オーウェル
ディストピア文学といえばこの作品。 シリーズ2回目として、古典の代表格を読みました。 プロット的には陳腐、結構つまらない展開を見せるし、途中のロマンスも彩でしかないとは思うのだが、キーワードから見る本作のモチーフやテーマ性は明確、「全体主義...

 そのあたりは、言語認識それ自体が人類や主体であるところの本質があるから、その制限や消滅がディストピア的である、ということで理解は追いつくし、その反対も然り。それらはノスタルジーではなく言語の未来への恐怖であり、失われていく文化や認識としての人間や人類を描いているようにも思える。
 多和田はそれら社会的に描きがちな普遍的なディストピアとは違い、言語そのものの崩壊や前提を問題化するタイプの作家で、言語が人類であるという著者のスタンスと文学観、言語は言語に過ぎず人類には続かない=文学と人類の再接続は別にあるというスタンスの私の文学観、その折り合いの悪さと執拗が今回の提起なのかなと。

 そこでは私が重視する物語の倫理などは存在せず、語彙を失った社会には責任ある物語そのものが成立しない、認識される人類知が存在しない。
 仮設住宅や首都機能のマヒや地方への移住など、未曾有の出来事の後であることを思わせる本作は、さらに鎖国政策すら行っており、移動すら不可能になった閉塞世界で言語の移動だけが残されるにも拘わらず、その残された認識世界すら、外国語の禁止や文化的改定などにより追い詰められていく。
 そこで描かれる言語の衰弱や、それによる思考や認識の変質、意味の半壊した会話で成り立つ交流、これは希望なのか断絶の物語なのか、これは移民文学なのか日本文学なのか未来文学なのか、いくらでも膨らませられる設定を放置し、多和田は物語を描かない。それは言語に興味を持ち文芸に終始する著者の姿勢は、物語に唐突の終わりを与える。

孤独なエンジン~運と才能で勝手に好転して欲しい~
できれば世界に勝手に好転してほしい。 でもなぜか世界は勝手に変化してくれない。 努力したくない、失敗したくない、幸運と才能で成功したい、という心理は、人間の根源的な自己保存・快楽追求・不安回避の欲求に根ざしている。  消費者構造は思考する余...

 基本的に私が興味を持つ 物語倫理や社会的・人類的貢献としての文学や大長編性などを軸にすると、多和田葉子は価値に直結しない作家として感じられやすい。その理由は、著者が目指す文学と私のそれとの違い、20世紀と21世紀の違い、などさまざまにあるのかなと思ったが、その消化のために色々考え読み漁った今回、久々にポストモダンシリーズを思い出したのは、今回のテーマは打倒ピンチョンに近いからだし、納得まで落ち着けないと気が済まなかった私の性格による。

文芸的達成と人類社会的主題がつながらない構造


 多和田は人間社会の変化や倫理を描く作家ではなく、言語の構造・語りの装置そのものを変形する作家であり、そのため読者に求められるのは、「物語倫理への共感・人類社会的次元の主題との接続」などの志向性ではなく「言語の変形を観察する批評的視線・語りがどのように別のものになりうるか」の興味などであり、私は、物語や文学が世界や人間にどう関与するかを重視するタイプ なので、多和田の言語的・造形的実験が、社会的・人類的意味に橋渡ししてこないと感じるのは、創作と読書の姿勢として当たり前だったのかなと。
 多和田の作品が、堅牢に見えて手応えが薄い理由には、文体の密度≠主題の密度があり、多和田の語りは高度で密度的な文体による多層だとは思うが、語りの変形が主題そのものなので、物語的・人類的テーマは希薄に設計されており、物語構造には倫理的責任があるという観点から読むと空洞に感じやすい。この辺りは初めて著者の作品を読んだ『雪の練習生』の時の体感と相違ない。10年前の感覚が蘇るというのもおかしな話だが、それだけ読者の私の感覚や文学観と、著者の書き方や主体がぶれていない証拠だろうと思えば、この平行線は特異だが基調の揺るぎなさがある。
 読者の物語への期待を裏切る作りはピンチョンに代表するポストモダン作家の行いに近く、20世紀的な創作姿勢なのではないか、と思いついたところから今回の読書は動き始めた。

 『献灯使』(2014)では「外来語禁止の世界・言語の崩壊=認識の崩壊→断絶したコミュニケーション」といった設定が前景化し展開するが、それらは物語化されず、変化も解決も示されない。私は展開による主題の筆致を文学の前提としやすいので、言語的達成だけでは物足りなく感じてしまう。
 これはポストモダン的作品にはよく感じてしまうことで、本質的には好きな作家であるパワーズの『囚人のジレンマ』の軽薄さに驚いた理由はこれで、いかに文芸的試みが多層的であろうとも、主題的温度や人類的物語に感じなければ私の興味は上がらないことが経験的に多かった気がする。
 人間ではなく言語が主人公となる著者の作品は、人間ドラマに興味が薄く言語・翻訳・語りの主体に興味があり、その作品は人間を描いた結果として世界を照射する創作姿勢ではなく、言語形式を描いて認識概念を更新する姿勢となっている。
 認識こそが世界であり、言語こそが人類である、という価値観すら感じるから、閉じているようで狭さはないのだが、個人的な前提や展開とは異なるので、ここに差がある。

 私は文学の倫理的構造に関心が強く、想定する範囲の作家は基本的に「科学・自然・歴史などの人類社会の大規模な文脈」「物語構造が倫理的責任を負う」など、語りは世界に対する態度であり、その類が文学的行為であるという立場にあるが、対して多和田は、人間社会的主題より言語の媒質そのものを主題とし、世界を説明するより言語のゆらぎを提示し、倫理性は語りの形式の中にあり物語内容には宿らない方向で書いているのかなと。つまり多和田は、言語形式や認知機能上の世界観が強く、社会的・人類的価値を目的としていない作家であり、この点で、私が強く価値を感じる作家との構造的ちがいが多和田にはあることが分かる。

 異なる立場だとしても、その文学価値が向かう先を問えば、言語変形の作家として「日本語という島言語がどこまで変形できるか」「翻訳・移動・多言語性を文学装置に組み込む」「(物語よりも)語りのポジションをずらす=多様化(はそもそも達成で価値)」など、構造主義~ポストモダン以降の文学の延長線であることは理解が追い付く。
 例えば私がポストモダンシリーズにて、ポストモダンの乗り越え方が気になり、21世紀文学はそちらだと書いたが、多和田はピンチョンが打ち上げたポストモダンの構造的テーマを深化させ、21世紀的主題であるところの「移民や翻訳・世界言語・文化の多様や封鎖または喪失」などのモチーフを持ちながら、それでも主軸を言語形式に置く内在は、ある意味で20世紀文学の延長戦にも感じる。

21世紀におけるポストモダンの乗り越え方と物語の倫理性『重力の虹』ピンチョンの否定性とパワーズの再構築/Why Postmodernism Is No Longer Enough: From Pynchon’s Irony to Powers’ Ethics/Gravity's Rainbow ポストモダンシリーズ③
<English Summary>  This article explores postmodernism, compares Thomas Pynchon and Richard Powers, and examines the fut...

 社会を物語化しない主体は、社会問題を扱いながら物語として扱うことを拒否し、言語の枠組みの変化こそ社会の変化である、という思想を展開する。これらは私が物語の倫理的責任や個人や社会の変容こそが文学的価値である、とした認識や志向性と根本的に噛み合わない部分であり、いかに『雪の練習生』が文体や虚構性として並々ならない実力や魅力を持とうと、『献灯使』が被害・文化と言語の鎖国・過去を持つ大人の深遠と新しく学ぶも死んでいく子供の速度など主題的な要素がいくつもあるがどれも展開せずに閉じていく不足に感じる所なのかなと。
 ここでわかるのは著者の実力ではなく、私と著者が文学に何を志向しているかの違いであり、多和田の特異性は、私自身の価値観を自覚させるということにある。人類世界に責任を持つ・文学の倫理的態度・人類や社会に対する文学的機能等とは真逆にいる作家に対して、私はいくら実力を持とうと本質的にはその作家や作品に心から惹かれることはない。多和田葉子はそちら側の作家であるから、私の評価軸では高評価しづらい理由であり、興味関心を持って読書できないことは一貫した正しい読解なのかなと。
 言語の変容と人間社会の関わりの距離が近い多和田作品もあるのだろうが、今回や過去にそれにあたることはまだできていない。

 多和田は多言語作家であり、ドイツ語等日本語以外でも創作を行い、日常的に多言語的に暮らしている点や経歴からして、単純に母国語で書いて出版され翻訳されている作家作品の世界観とは決定的に異なり、言語それ自体の変形や越境を目的とするという点で世界文学的でもありポストモダン以降の言語的正統でもあるのかなとは思う。
 語りの位置をずらすことにこそ著者の倫理性があり、語りがどこから発せられ内容が何を語るかよりも、語り手の立ち位置を変えることで倫理を提示する。
 『雪の練習生』の人間以外の語り(これはパワーズ『オーバーストーリー』にも見られる21世紀性であるし)、『献灯使』の劣化した言語世界からの語り(これも主題性は豊かだが達する構造が異なる)、『地球にちりばめられて』も多言語の断片の混在であり、どれも語りの位置の操作が倫理そのものであるから、著者にとっては言語化が社会認識の全てで、つまりそれらが文学性だからこんなことが起こるのかなと。
 言語の構造を変形することを主題に置けば、言語制度や認知世界を揺らすために物語を利用することへ繋がることは必然で、恐らく著者にとって社会や世界とは言語認識によるものなのだろうなと感じた。語彙の欠落・多言語性や越境・翻訳不可能性・介在する語り手の不可視性などが主題であり、作品全体の目的になっていて、個人的にはそれらは文芸形式に過ぎないと感じる私と違い、それらこそが著者にとっての文学性や主体性なのかなと。

 私が文学性と求める所の「語り=世界への態度=倫理」という構造を求めると、多和田の作品は空虚で軽く、非社会的で社会と接続しないと感じやすい。社会性が出てくる場合も、それは言語装置の変形を映すための背景であって目的ではなく、物語の社会性を背負わせない感じがある。
 生態系・科学知・人間社会の構造・歴史的大きさ等といった人類の主題形成とは異なる方向性を展開していく。それら著者の作風が、文芸的達成と社会倫理的主題がつながらない理由は、主題のために語りを使う作家と、語りのために主題を使う作家の違いとして、私が評価するのは前者(社会倫理作家)とし、多和田は後者(純粋言語作家)であるとすると分かりやすいのかなと。

 例えば私は20世紀的文学の後の21世紀文学としてポストモダンの乗り越え方というテーマも存在するのだけど、私の求め方としてポストモダンの後に物語はどう倫理を取り戻すかという方向性から見ると、多和田はポストモダンを乗り越えようとしてはおらず、むしろポストモダンの言語実験を洗練させる側であり、物語の倫理化・社会的主題の再接続・歴史や人類文明の再構築を志向する作家とは別の流れにいる。故に、かつての私も本能的に、現在の読み方に変化も持ち始めた私からしても、達成は感じるが社会的意義にはつながらないと感じてしまうのは、評価軸が交差しないことによる純粋な構造的現象としては必然なのかなと。
 私がポストモダンとピンチョンを自分の文学的価値評価軸からすると打倒したかったように、多和田もポストモダンや文芸形式の更新だとすれば、その価値を私が強く認識することはやはり難しいが、相対的に対象性として私が彼彼女の志向する文学性が反響し合い明確化することは分かる気がする。

異なる文学を理解することの人類社会的価値

 自分の評価軸を照らし出す鏡として彼女を読むことができるとすれば、これは文学批評において重要な立ち位置のはずで、相対的な作家作品との価値軸は、私が「物語の責任/社会的・人類的主題/倫理性の再構築/ポストモダンの乗り越え」というポスト・ポストモダン的倫理に強く依拠していることを浮かび上がらせる。
 今回で言えば多和田は「言語そのものの変形/語りの位置の逸脱/物語の非倫理性(倫理の置換)/ポストモダンの深化」等を志向する作家であり、双方が評価するべき価値は交わらずに希薄。

 これはピンチョンを打倒して納得したかった動機と同じ構造であるように思うし、それはどちらにせよ両方打倒ポストモダンであるし、20世紀を乗り越える21世紀文学の志向性ということと重なる。
 ピンチョンとは近代ポストモダンの限界と可能性の象徴で遺産であると仮定すれば、私の倫理志向とはギャップがある故に巨大すぎる過去の評価とその後が続いた現代文学への納得のいかなさが私にはあって、かつてポストモダンシリーズとして長文を重ねて私は一つの落着まで考え続けた。
 今回の多和田も言語形式への特化によるポストモダン的深部を目指す趣は、私の軸では価値が発動しない。ピンチョンがポストモダンの全体像を示し、多和田がその極限点や現在地を示す。
 それら、認めないわけにはいかないけれど、なんとなく評価できないし交感も感じない作家・作品を相対化することで、私の評価軸(物語倫理/社会的主題/人間への責任)がより鮮明に輪郭を持ち始めるのではないか、それが読書という知的行為の基礎なのではないか、という仮説になる。

 価値は感じないが、批評的対象として非常に重要である。これは批評における成熟した態度ではないかなと思う。
 読書や文学作品の価値とは単に好悪や評価の有無だけでなく、評価軸を可視化し、既存価値感覚を拡張する契機となる作品も重要になる。この場合に、自分の興味の範囲が専攻外・評価軸外だから理解や評価できない狭さは文学の本質とも読書の本質とも異なる姿勢であることが分かる。それを読解し理解し評価するという知的行為は、読書の本質=他者理解と受容ではあるが、異軸を認めることは知的には可能だが価値比重は変わらないことにも注意が必要。

 A)本質的な価値の共感としての評価
  →私がパワーズや倫理的物語に向けるもの
 B)他者としての理解・受容としての評価
  →自分とは異なるが、対象として重要だと認めること

 この場合の多和田は私にとってはBであり、Aの領域には到達しないがために価値比重は低い。これは価値軸が異なる以上、避けられない構造なのかなと。
 私の文学観は明確に社会倫理・歴史的物語責任・人類理解の物語を重視する方向に向かっていて、その軸からすると私にとっての多和田は、自分の価値軸のネガティブスペースを認識させ、自分が重視しない領域を認識することで、自分が重視する領域が強く輪郭を得る材料となる。

私の軸(べき・べき・べき🐰🐰)
 ・物語は倫理を持つべき
 ・社会・人類スケールの知と接続するべき
 ・ポストモダンの断絶を修復し、未来に向けて物語を再構築するべき
多和田の軸
 ・言語が変形する瞬間こそ文学
 ・倫理は内容ではなく形式に宿る
 ・世界や人間の理解より、言語の既存的打開が目的
 ・ポストモダンの断絶を修復しない/むしろ深化させる
関係
 ・私の軸では多和田作品の価値が立たない
 ・対象性(他者性)としては重要
 ・差異が互いの文学観を明確化する

読解の本質は「他者性に触れて自分が変化すること」

 異なる価値の他者を理解しながら、自分の軸は保持することにより、その差異の中で対話や交流が生まれ、自己が変化し、それにより個や社会が柔軟性を得る。これは他者理解と受容を通じた社会的成長モデルであり、文学はその知的精神モデルを担える可能性が続き、読書経験による読解行為はその実践に相当する。異なる評価軸の文学や他者を理解し受容することは、知的行為として読書の本質であり、他者理解と自己変化をもたらす価値である。
 価値観というものは常に自分の軸を中心に評価が集まる構造であって、他者性への理解が広がっても、中心軸を移動させることは容易ではく、人間の認知構造に起因する。そのため、他軸や対岸の理解や受容では、同志向性の作品より価値比重が下がるのは避けられない。
 評価軸が異なる文学を理解することはできる、しかし価値比重は自軸の文学に偏る。むしろ、すべてを同等に評価することの方が理想や理解を放棄した空虚な相対主義に近い。

 多和田作品においては、社会的なものは言語秩序そのものの撹乱を通して現れるため、言語それ自体の変形・越境を目的とするという点で、世界文学的でもありポストモダン以降の正統であることは理解できる。
 言語それ自体の変形・越境とは、文学の主目的を社会描写や物語倫理に置かず、言語の枠組みそのものの更新に置くという立場で、言語そのものが世界の構造であり、それを変形することが世界を変形するため、社会変革は言語秩序の越境・撹乱の副産物として起こるというような方向の考え方であるならば、これは完全に構造主義/脱構築思想であり、ポストモダン以降の文学的態度とは言える。
 さらに多和田は、複数言語の間に位置する身体を前提に語るし、国境・文化・母語概念の安定性そのものを疑う等を語りの物質性として実行しており、日本語とドイツ語の干渉・翻訳という行為の中にある主体の分裂、母語とは何か・言語的アイデンティティと文化存在の移ろい等、ある意味でグローバル化後の世界文学の中心課題と言っていいと思うし、今後それらはさらに加速し、地理としての世界地図の変容以上に人間移動と言語稼働によるそれら言語認知の世界線の曖昧化は多種の移民や多様性を持つため、人類主題としての世界文学性を十分に認識したうえで多和田は創作しており、問題はそれらの現代的主要テーマを目的化した語りや創作姿勢を著者が持っていない、ということにある。

 ポストモダン以降の文学では、一貫した主体や単一の語りといった前提が疑われた。例えばこれは、男性主体の一各語りから女性主体が解放されたことや、全体主義や国家主義や中心物語の解体と暴露が進んだところからもわかるように、ポストモダン期の確実な進展であり、その面で多和田は最初から主体が多層的・越境的であり、日本語やドイツ語等複数言語や居住などにより固定的アイデンティティの解体がその人生主題であることも関連するように思うし、これらは勉学上の越境以外にも母国での亡命や職業成功や生活苦からの世界移動などの要素が無数にある現代、大事なテーマであるのは間違いなく、この辺りの要素はまた今後扱いたい。

 多和田文学では、物語よりも言語が主体性を持つ世界観から創作されるので、言語の差異から意味そのものがずれ続けることが詩学的で、安定した意味や強固な物語を提示しない。そのため社会的主題は、物語ではなく語りの枠組みの変化により達成される。
 世界文学の越境性とポストモダンの正統を継承しつつ、言語そのものの更新を目的化する文学の系譜により、社会倫理は物語内容ではなく語りの形式に宿るスタンスは、その場合の文学性は物語ではなく言語の身体に宿るという表明の表現であり、これは一見的には人類社会性とはズレてみえるが、実は言語を通して世界に介入している点できわめて文学的なアプローチであり、これは私の主軸(倫理×社会)と交差する余地が限定的なだけであるという見方は出来る。
 ポストモダン文学の創作的行為は、社会から目を背けているからではなく、社会は言語と知の枠組みによって成立すると考える上で、言語秩序の撹乱によって社会構造に介入する趣旨とアプローチを選択した作家観は、社会的・人類的価値を目的としていないわけではなく言語の枠の変化こそ社会の変化であるという思想であるならば、社会的・人類的価値を目的している作家、ということにもなる。
 ここが何を社会として認識し、何を媒体にどう認識しているかの構造的すれ違いが起こる理由であるのだと、今回多和田と考えながら思った。これはかつてピンチョンを考えた時には至れなかった冷静になっている。

 私の文学観の中心軸は語りの倫理(物語責任)・人類社会性等にあり、世界文学的区分ではパワーズに近いとして、そのほかの文学系類型においても、退職後読書を再開した冷静な目線から見ると、徐々に価値としては理解し、更新としては認めるが、応援や祝福の感情軸は全一致しないという構造も自然な気もするが、他者性として反響し自己評価軸を明確化する効果として今回把握したことは、成熟した読みへの変化なのかなとも思えた。

世界認識を変えるのは物語ではなく言語の枠組み

 私の探究しているテーマである「ポストモダンの後に物語はどう倫理を取り戻すか」という方向性から見ると、 多和田はポストモダンを乗り越えようとしていない。だが、私のそのテーマを度外視すれば、ポストモダン以降の思想的前提を深め、その内部で新しい言語形式を開拓している姿勢は良く見えてくる。
 物語が他者(文学が人類社会)に対して倫理的責任を持つ構造をどう再構築できるか、ということはつまり、物語が世界と関わる、語り手が責任を負う、人類社会に資する倫理や意味を提示する、ポストモダンによりカオス化した認識世界に再び応答出来る語りを作る、などであり、ポストモダン文学の批判以後の方向性であり、ポスト・ポストモダンの文脈と潮流にある。ここを私は21世紀文学の主流と位置付けており、主題的にも関心的にも強いために、ここに属するタイプの作家を強く評価・応援しがちである、という私の経験を踏まえたうえで、例えばリチャード・パワーズ等が感じられて嬉しかったのがポストモダンと関連作家を扱った2025年春~夏にかけてのポストモダンシリーズの全容になっていた。
 だが、今回の多和田は、その方向をまったく志向していない。
 私が文学的本質だと感じる物語の責任性は、多和田の中心的関心ではない。
 文学を物語表現ではなく言語形式として捉えることはポストモダン的基調であるから問題ないとして、言語形式自体を世界認識や関心第一に置く著者のようなタイプの作家性は、社会的・人類的主題を物語内容ではなく言語内部に置くたため、言語秩序の攪乱によって社会性が現れる、という創作上のスタンスがあるように思えた。
 この時点で、人類社会が文学物語に宿るという私の主観と、言語形式に宿るという著者とでは、倫理の意味が違い過ぎることが分かる。そしてゆえに、その形式更新をアカデミック評価軸にするポストモダンと私が相容れずに格闘した時期のことも、今からすれば当然だったなと落ち着く。

 特に前者である私が、ポスト・ポストモダンのスタンスとして、ポストモダン時代を打倒し再構築すべき新時代として捉える現代において、恐らく著者はポストモダンの課題を超えるのではなく、その内部で言語の不安定性を深化する方向に脈々と進行し続けており、恐らくそれは死ぬまで考え続ける主題性であること、も認識した。
 私のテーマが文学(物語)は世界へどう応答し直せるか、を問う強さと同じだけ、多和田は世界認識を変えるのは物語ではなく言語の枠組みである、と強く推すのかなと。
 ポストモダンが開いた言語の不安定性や主体の非一貫性の暴露や混乱などを乗り越えず、その中で創作し続けてく姿勢は、ポスト・ポストモダン的な倫理の回復や文学と人類の再接続とは明確に別方向である。多和田はいまだにポストモダンの問題設定そのものを前提にしており、その先にある倫理の回復や物語の応答性の再構築を目指していない。その分類からして当然のように、私はその先にある倫理側のダイナミズムを求める立場にいるために、著者的要素の価値は理解するが強く共鳴しない、と感じ続ける。
 個々の文学観や作家的感性の培養は、考え育って書いて時代による制限や個体の問題だから仕方がないが、同時に、前時代の打倒する惑星ではあったけれども過去の遺物であり、ポストモダンもピンチョンも乗り越えて・倫理と人類性の物語で進む現代の進展性、物語のための物語、形式のための物語を超えて、人類のための物語、という落着で終わったポストモダンシリーズの最後っ屁みたいな感じで、言語形式的権威は確かに存在したが20世紀の遺物であり21世紀においてはポストモダンは主流ではないし、文明倫理ではなく、芸術や形式であって、その更新は現代文学の成功には与しない、という思いが消えない。

 私の軸は「倫理×人類社会」、多和田の軸は「言語×越境×構造」
 この二つは交わるが、同じ地平に立ってはいない。私の主題やテーマにとって多和田は、乗り越える対象ではなく別軸の系譜、ポストモダン文脈そのものであり、多軸である著者を自軸から評価しにくいのは構造上当然だった。

 私の方向:ポストモダン以降の混乱を倫理的物語で再構築する
      世界に責任を持つ語りを生み出す
      他者への応答可能性を回復する
      語りの倫理=人類社会に戻る道を探る=双方の再価値化
 多和田の方向:言語の境界と制度を撹乱する
        主体の分裂/多言語性を形式として提示する
        語りの責任を放棄し、言語の認識性を優先する
        倫理という問題設定自体を引き受けない

20世紀の文学が更新したのは文芸形式だったが、
21世紀の文学が更新すべきなのは人類物語

 文芸的達成=形式・言語・構造の革新
 人類社会的意義=倫理/応答/人間理解/未来の持続可能性

 多和田のような作家がもたらすのは前者であり、私の関心は後者。
 達成は感じるのに意義が感じられない、これはポストモダン作家や作品に必ず私が感じる感覚であり、私が文芸的更新より人類社会性の更新に軸に置いていることが明確化する。
 文学の歴史では、多くが文芸的達成を追ってきたし、アカデミックの追随が顕著。ただそれは
 20世紀までの文学の在り方であり、現代においては刷新されるべき旧態とも言えるものだから、人類への文学の再接続を考えるときに、閉じた文芸の狭さは邪魔に感じる。
 ポストモダンは「前衛/構造主義/内面の更新/言語実験」などに価値を置くようだが、私が重視し、21世紀的な文学に必要だと感じるのは、「人類社会に対して物語がどのように倫理的な応答を可能にするか」「読者が他者と世界に対してより深く関係できるようになるか」などであり、これは文学を技法や趣味ではなく、読書という運動の復活とテキストや個人と内的を文明装置として扱うに妥当か否かの局面で、ポストポストモダン的な倫理観となるのかなと。

 私のなかで文学の本質とは「人間理解・他者理解・世界との応答・社会の持続性・物語の責任性・人類へ届く力」であり、文学を閉じた世界の内側に拡がる営みではなく、開かれた世界の外側に拡げていく開かれた営みとして確信するがゆえに確立していきたい思いがあり、それが公共価値だと感じるからなのかなと。
 ポストモダン文学は言語の内部へ深く潜っていく方向であって、世界への開口部を閉じてしまう。だから私は直感的に、そこには限界・価値の小ささがあると感じてきたのかなと今は思えるし、ポスト・ポストモダン文学として新時代的態度や倫理を求める私の本心は、もうずっと前にポストモダン文学の類に触れて無価値で時代遅れだと感じたところから始まっていたのかなと。

 私が求めている文学は、倫理的物語としてのテキストであり、人類社会に対して開かれた物語であること、人間の関係と未来に対して責任を持つ語りであり、これはポストモダンの外側ゆえに、今21世紀以降に必要とされている方向である、という認識でいて、その文脈の代表格としては、以前調べた限りにリチャード・パワーズ、コルソン・ホワイトヘッド等の名前があった。私はまだまだ読めていないのだけど、マルクス型人文主義を継承する新しい倫理としての物語の志向性は、文学という物語による人類社会の再統合を志向し、私も文学と人類社会の再接続が一つのテーマだと思っていて、そこへいくと多和田やポストモダン的な文芸的達成は小さな話に感じてしまうし、言語=認識だと解釈するその方向性は、主体性が異なるだけで人類社会性を持っていると想定することは簡単だが、それはやはり実態人類ではなくアカデミック的な人類に感じる。

 文学を表現や形式の技術や更新として捉えるアカデミックよりも、人類のための実践や個人にとっての読書の認知臨界点は社会性へ広がるべきであり、決して閉じた狭さにあるものではないと私は考える。
 これは文学理論でいうところの「ポストクリティカル・新しい人文主義・テクノエシックス文学」などの方向と一致するようで、それらは文芸のための文芸を卒業し、人類社会のための物語へ向かっているらしく、だからこそ以前私はポストモダンシリーズで、「19世紀・20世紀・21世紀の文学を概略で定義するなら、文学を人類表現形式の前提に、物語のための形式・形式のための形式・人類のための形式」としたが、その感覚は今も誤りでなく、さらに確信する思いがする。

 私は文学を、趣味や技法や実験としてではなく、人類社会に対して倫理的責任を負う物語による内的な営みとして捉えるので、ポストモダン以降の形式的達成は尊重するが、真の価値は世界へ向かう物語が生む社会的意義であり、それは今後さらに加速するし、加速させるべきだ、と考える。
 ここでも私の主語が小説文芸ではなく人類文学になっていることが関連するのだろうし、趣味としての読書とは異なる読書への認識が、文芸のみに達成は感じるが社会的意義にはつながらないと感じるのは、価値判断の次元がそもそも異なるためで、思想的に「文学」から外に出ていることを示していることも薄々感じながらも、その拡大の思考は止まらないので好きに走らせるとして。
 このあたりのことは、ピンチョンとアカデミックでも感じたところだし、現代文学や商業文芸がアカデミック性と離れてしまっている事、世界文学の潮流が恐らくいつの時代も実存読者や読書と接続不良であったこと、歴史的に参照できる文学作品とその価値や当時の本質作品などとの乖離、などなどいろいろな部分で恐らく経過してきたこと等も感じる。

打倒する惑星の大きさ、人類のための形式 革新の価値が高いアカデミズムと、確信の価値が高い読者評価/Narrative Responsibility After Postmodernism: Powers, Pynchon, and the Future of Literatureポストモダンシリーズ完結⑤
<English summary> This article explores postmodernism, Thomas Pynchon, and Richard Powers, while also providing a clear ...


 文芸的達成とは小説の内部の価値であり、多くの文学理論や批評は小説という形式の内部に価値基準を置いてきた。これがアカデミックや文壇的な価値の正体で「言語の革新/表現形式の更新/語りの技術の独自性/文体の精度/主体の分裂という実験性/ポストモダン的構造の精巧さ」などは小説という表現技法を主語にするときの評価としては妥当で、多和田葉子はこの軸で言えば極めて高い達成を持っているだろうし、その形式的達成や技術的な到達は私が否定出来るものではない。
 けれども、私の評価軸としては社会的意義とは人類社会を主語にした価値であり、「人類社会にどんな意味をもたらすか・人間理解をどう深め、他者への応答可能性をどう広げるか・世界をどう変え、読者をどう成長させるか・文学が文明にどう寄与できるか」等の異なる認知機能や思想体系を持つので、小説という枠より大きい人類を主語にした価値基準が、常に私の感覚の中にはあるのかなと。

 小説:言語・形式・物語の革新/文芸的達成
 人類:倫理・社会・他者・世界/社会的意義

 
 そしてこの小説主語と人類主語とは20世紀ポストモダンと21世紀文学の主語の違いであり、世界への倫理が文学への倫理へ直結し、読者への倫理が人類への倫理へ通じる。20世紀の文学が更新したのは文芸形式だったが、21世紀の文学が更新すべきなのは人類物語であり、文学であり商業であり文化であり、すべての発展や更新を含んでいて、この志向性は私にも合致し人類更新と商業成功も含む。
 だから言語認識の世界に閉じて言語形式に終始しているポストモダン文学や、それに属するピンチョンや多和田等の作家について、達成はあるが価値が薄いという感覚は、私が人類主語の軸において判断しているから生じているし、つまりそれは文芸文学の限界であり、現在地に対するそれに近いし、なぜポスト・ポストモダンに対しては親和性を希望的に感じるかと言えば、それは現代的なダイナミズムにあるのかなと。

コスパ的現代における教養の危機と渇望、ただ常に時間が足らない「教養としての世界史の学び方」山下範久
効率や生産性を求める現代において、非効率的な教養という言葉の商業上の使われ方や売れ方に変化があるような気がする。 倫理は歴史を媒介してしか育たないし、人間は希望を持ってしか未来を作ることが出来ない、そのためには、包括的な教養という言葉がもた...

 私の文学評価軸は、文学(物語)は倫理的責任を持つべきであり、ここでいう倫理とは、社会システムや時代を引き受ける姿勢や、人類史的課題(環境、記憶、暴力、未来)と接続する責任といった、人間存在や人類文明をどう持続させるか、その為の物語、という主題を指す。この場合の文学は、人類の問題解決・成熟・進化への知的装置であるべき、という趣味や商業とは異なるアカデミック方向でありつつ、文芸形式に終始する古典的な文芸的更新とも一線を画すもので、その辺りが増長した20世紀的な文学要素を嫌悪する物であることが特徴なのかなと。
 人類社会との再接続が命題にあるこの志向性は、同時に、ポストモダンが破壊した物語の倫理の再建を最重要課題とする事も特徴で、ポストモダン後に物語はどう倫理を取り戻すか、という問いが中心軸にあることもあり、文学的潮流であるポスト・ポストモダンとの親和性も高い。故に私はその系統がある作家への評価や興味関心が強く、逆に言語遊戯・物語解体・言語形式への執心・視点構造での暴露や傾倒などといったポストモダン的手法は、高度だとしても技術更新に終始するだけでは人類的意義につながらないと判断し、本質的には評価しづらい。
 ただ、ここは本当に文学観の違いが2種類の次元で存在していて、文学を人類にとって何だと捉えていて、だから文学表現の至高をどこへ置くのかの違いなので、異なる軸を歩む作家や読者を否定するものでは決してなく、私が信じ期待する方向性の軸の明確化に過ぎないことは注釈したい。

 これは私の興味や思考が文学批評ではなく文明批評の領域に入っていることを意味するかもしれず、文学を世界の一部として扱い、世界へどう働きかけるかを考える位置にまで来ているのかなと。これは恐らくパワーズ、アミタヴ・ゴーシュ、ハンナ・アーレント的な人文主義のフィールドで、多和田はそこを目的にしていない故に価値が交わらない。

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 その文学観はポスト・ポストモダン倫理であり、物語は世界へ応答する義務があり、文学は人類社会へ寄与するためにある、という強い倫理観に基づいているし、これは今の文学理論でいう「ポストクリティカル(批評以後)・新人文主義・ポストヒューマン倫理・21世紀的物語倫理・社会的物語の回復運動」などと同じ地平らしいが、それらは今回初めて参照したので今後理解を深めていくとして。

 対軸として登場した多和田文学の評価軸は、言語の変形そのものが目的であり、その中心的関心は、多言語的経験・言語越境の瞬間・語りそのものの振る舞いにある。専攻や表現立場としては理解も出来るし、私が理解できない範囲にまでその意義が強いのだろうということは、私が言語や翻訳について疎いこと、それにしても21世紀は文学潮流とは別に多様性や移民性等の要素と、グローバル言語と偏狭言語との時代であることの社会性や人類性も勿論テーマに躍り出るはずなので、その文脈で言えば非常に価値がある現存する作家でリアルタイム作品になるのだろうなということは分かる。
 倫理は内容ではなく形式に宿る多和田の倫理は、言語的境界を開き・固定されたアイデンティティを揺さぶり・他者への接続を構造そのもので試す・その暴露と破壊、つまり物語の主題や登場人物の行動が倫理如何なのではなく、語りの構造が倫理如何であるというスタイルなのかなとは理解したけれど、その形式ではポストモダン以後の断絶を修復しない作家であるとしか思わないし、未来志向的な要素は弱く感じてしまう。
 私がポスト・ポストモダンで物語倫理を再建したいのに対し、多和田は更に断絶を生産し続けて統合を拒否し、意味が繋がらないポストモダンそのものを更に加速させる戦略を取る。

 価値体系そのものがすれ違う「人類的・社会的・倫理的価値」と「言語的・構造的・形式的価値」の差異は、評価の不一致ではなく評価基準の不一致であり、個性や志向性の違いにすぎない。
 共感できないが必要な差異であり、双方を反射的に明確化する対称としては重要な存在であり、それはポストモダンやピンチョンを理解しつつ評価出来ないときの私の心理的負担やストレスに近かったことを思い出す。恐らくその時の私の態度と同じ構造なのかなと。

 わたしの軸:文学とは、人類の倫理と未来を更新する社会的知
 多和田の軸:文学とは、言語が別の形態へ変貌する形式の実験場
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 交差点・両者は互いの価値を否定しないが、同じ場所を目指していない
    ・評価の不一致は能力の問題ではなく、目的の違い
    ・しかし差異を読むこと自体が自身にとって倫理的成長
    ・“理解できるが支持はしない”という態度が成立する稀な関係


 
 主語が小説なのか人類なのか、その問いは形式なのか倫理なのか、その視線は言語内部なのか文明内部にあるのかによって、20世紀ポストモダン内部に留まるのか、21世紀ポスト・ポストモダンへと踏み出すのかの指標になるのかなと思うが、時系列や時限的にも両者の価値は交わらないし、交わらないことが論理的に正しい事が分かる。

私の軸(もしかすれば21世紀ポスト・ポストモダン的)
 ・物語は倫理を持つべき
 ・社会・人類スケールの知と接続するべき
 ・ポストモダンの断絶を修復し、未来に向けて物語を再構築するべき
多和田の軸(もしかすれば20世紀的ポストモダン的)
 ・言語が変形する瞬間こそ文学
 ・倫理は内容ではなく形式に宿る
 ・世界や人間の“理解”より、言語の“振る舞い”が目的
 ・ポストモダンの断絶を修復しない/むしろ深化させる
両者の関係(読書の本質・多様性)
 ・他方の軸では価値が立たない
 ・しかし対象性(他者性)としては非常に重要
 ・その差異が自軸の文学観をむしろ明確化する

 

言語は世界の外側ではなく内側にある故に、
言語世界の更新は認識世界の更新

 言語や知的認識などそれ自体が社会性で内的で個人的であるがゆえに人類的であり、認識上の全てや伝達形式であるから、その刷新や更新は既にそれだけで個人的社会的人類的スケールの価値に相対する、というポストモダン的志向性は、言語形式刷新を社会的価値とみなす思想として明確であり、それが構造主義言語観の中核にある哲学的前提になるのかなと。

 言語はただの道具ではなく、世界を知覚し、理解し、思考し、共有し、社会を営む基盤そのものであり、私たちは言語で世界を理解している。言語の構造が世界の理解構造になる、言語が変われば世界の見え方も変わる。言語=認識という思想であれば、言語形式の刷新は世界の刷新に類するし、言語至上主義への理解も進みはする。
 言語を変えることは認識の構造を変えることであり、認識を変えることは世界の感じ方が変わることであり、世界の感じ方が変わるとは社会や倫理の枠組みが変わることへ繋がるため、形式を変えることは世界への介入であると考えるスタンスは、論理としては明確。
 その場合の言語の更新は世界の更新と等価とみなされるため、人類スケールの価値だとみなす根拠はここにも生まれる。むしろ、認識やその個人を言語として想定すれば、内的世界の更新から外的世界の刷新へと移る回路は明白だし、フィクションを通して外的世界を変えることよりも成果に直結する。
 そしておそらく多和田やポストモダンはこれを徹底している。
 世界を変えることは政治や倫理からではなく、言語そのものの変容から変える、という方向性の世界観は理解するが、その狭さが文学を文芸形式に閉じこもらせて、一般社会との隔絶や非社会性を生んだ理由だしポストモダンの弊害と考える私は、その狭さや様式美から卒業して一般社会性へ復活するのが21世紀文学だ、というスタンスはやはり揺らがない。
 ここで、私の価値観では社会性とは他者関係・倫理・世界への寄与であり、ポストモダンや多和田的な言語中心主義での社会性とは言語構造の変化が持つ認識的影響性を指すはずで、ここが決定的に違う。私にとっては社会・他者・倫理が一次価値で形式は二次価値、文学も表現技術であり形式にすぎない。ここを多和田は言語・形式が一次価値社会や倫理は二次的もしくは目的ではない。

 私の認識社会観は、人間同士の関係・物語の倫理性・他者理解・社会変容・人類への寄与という実践的・倫理的スケールにあり、言語刷新派の社会性はメタレベルの認識論的スケールであり、内的認識による個人性やその狭さ、他者世界のそれという透明度を指す。現代的だとは到底思えないが、それこそが文芸文学の本質であることは間違いないから、その意味では一旦私は文学性というものすら一次価値だとは認識しておらず、認識した個人がどう生きるかの他者変容こそが一次価値だと認識するという論理を挟まなくてはならなくなる。
 形式刷新を価値とする文学観は、言語=認識=世界という前提に立つため、言語が変われば世界が変わるという意味で人類スケールの価値とみなされるが、その人類性は私が求める社会倫理的・物語的“人類性”とはまったく別の方向にあり、私にとっての人類は倫理・他者・社会関係であり、彼らにとってのそれらは言語・認識・構造にある。

 多和田の作品に出てくる「外来語の禁止・カタカナの無秩序化・言い換え不能な言葉の消失・動物の語り・人称の滑動・言語間の混交・翻訳不能性の表面化・定義の不安定化」これらは社会が言語秩序によって支えられていることを露呈させ、その秩序を揺らす。つまり、物語としての社会批判ではなく、形式としての社会条件の攪拌であり、これはとてもポストモダン的で、ピンチョンの破壊や暴露性などとも近しいものを感じるので本質なのだろうと感じる。
 私にとっての社会的とは関係や展開の倫理であり、多和田の社会的とは言語と認識の形式のことで、秩序の条件や前提を揺さぶることとも言えるのかなと。その場合に、後者は物語の再統合を目指さないし、倫理ではなく言語の揺らぎを扱い、寄与よりも破壊、未来の意味付けより現在の言語の不安定化を目論む性質がある。つまりは社会を支える言語秩序そのものを攪乱することであり、恐らくそれらはポストモダン以降の言語中心主義においては非常に正統で強固な社会性の概念であり、とても20世紀的ないし21世紀的でもある、ということになるのかもしれない。

 個人的には双方の差異は物語と言語の重視の違いではなくて、社会倫理と言語倫理の違いであり、根本的な主題が外側としての人類社会にあるか、内側としての言語社会にあるかの違いであり、すべて個人内的と他者外的との要因を内包する意味では一致するが、文芸志向性として違うので文学性が異なるのではないか、と思ったりする。
 社会改革の主題を「外側=人類社会(文明秩序)」と「内側=言語社会(言語秩序)」に置くのかの違いであり、このように主題をどこに置くかによって文学性が根本的に変わるのではないか、という仮説から文学における社会倫理と言語倫理の分岐点を考えると、社会倫理とは外側の世界の変革であり、物語・人物・行為・制度・社会問題を扱い、社会をより良くするための個人の解放や制度への批判を基礎に持ち、言語はそのための手段に過ぎず、社会と他者が目的となる。
 言語倫理とは内側の秩序の越境であり、言語そのものが世界の構造であるとし、言語秩序の変形=世界の変形となり、社会変革は結果として起こる副産物のようなもので、目的ではない。物語や人物は言語の揺らぎと構造として機能する。
 ここで重要なのは、同じ文学という媒体や論者や創作者が社会や倫理を扱っていても、起点がどこにあるかにより目的や帰結が決定的に違うということ。
 
 文学的作品は多くの場合、外側(=人類社会)か内側(=言語社会)、どちらかに重心を置く場合が多いが、私の読書や批評は、社会倫理(人類社会)×言語倫理(言語世界)を片方に寄せず両方を統合しようとする無理があるのかもしれないとは今回思った。
 ・外的倫理=ハンナ・アーレントの行為概念(他者・公共性)
 ・内的倫理=デリダ/ヴィトゲンシュタイン的(言語の秩序とその破れ)
 私がピンチョンや多和田に差異や違和感を感じながらも、拒絶感を放置せず、その根拠を探究するのは、この二つの軸を統合しようとするからなのかなと。このあたりはまたにして。
 志向性は主題の起点がどこにあるかで明確に異なり、その結果、作家ごとや読者ごとの文学性の差がはっきり見える、ということが今回の読書の全体像に必要な視座なのかなと。

社会は「言語×知の枠組み」によって成立する

 社会とは外部に客観的に存在するものではなく、言語によって記述され、概念化され、共有されることで初めて社会になる。法律も言語だし、道徳も言語化された規範であり、アイデンティティとは自己叙述による認識であり、共同体とは世界命名による認識の仕方である。つまり言語の秩序とは社会の秩序であり、言語の変形は社会構造への介入、という図式が成立する。そこでは文字通り言語が内的社会と外的社会を繋ぐ構造が見えるし、構造主義とポスト構造主義の核心と正確に一致している。

 内側の言語倫理は、言語秩序の揺らぎ・変形・撹乱=世界の構造そのものを揺らす。
 外側の社会倫理は、制度・倫理・共同体の再構成=世界を実践的に変える。
 言語や文学はその2つを繋ぐ社会そのものとして機能するべきだ、というのが私の考え方で、そこに現れる二元論はさらに、
 内的社会=個人の心・知覚・概念構造(言語以前の認識)
 外的社会=制度・他者・共同体・歴史的世界
 として見ることも可能で、言語主体の作家作品の内部では、「言語=空間の揺らぎ/身体の揺らぎ/社会の揺らぎ」などであるし、言語そのものが内的社会と外的社会を繋ぐ構造体だからこそ、言語系統としての世界が、そのまま文学作品になりうるし、多和田はそれをやっているとすれば、物凄く純粋な言語活動であることは認識できる。そこにあるのは、言語系統・翻訳・身体・移動・境界を語りの形式として統合して、世界の生成を描く視座であり、言語系統としての文学なのかなと。
 ただ、私の文学性は内的と外的の接合部にあることを前提にしていて、その場合には明らかに生命系統(外的世界の構造)/言語系統(内的世界の構造)の両軸を扱うからこそ、ピンチョンで拒絶から探求が始まったあの運動が起きたし、今回もまた多和田に価値と無価値を感じながらその理由を考えて、双方の文学観の違いが明確になった。
 言語を内的社会と外的社会をつなぐものとして捉えるなら、言語系統としての世界は完全に文学になり得る。生命系統としての文学と言語系統としての文学を私の内部で架橋する思想の中心軸になる。

 20世紀後半以降の文学は、「私は誰か?」「語る主体は一つか?」「物語は本当に連続しているのか?」といった前提を疑う方向へ進んだ。一貫した主体や単一の語りが崩壊し、主体が揺れ、語りが割れ、複数の視点や言語が干渉し合うことで、文学は世界の見え方を疑う装置になった。それがポストモダン以後であるし、世界の見え方を疑うことは社会の前提を疑うことと同義である。その破壊的な行為や暴露は、認識世界を変えた意味では確実に更新であるし、それを文学形式上で行ったからこそピンチョンは惑星になったと私は認識していて、そのようにして言語秩序の撹乱は社会構造への介入になる。
 社会は言語で構築され、言語秩序を揺らせば社会秩序も揺らぐ。よって、言語実験は政治・社会・倫理への介入である、という視点も可能になる。これが言語至上主義的作家の志向性の根本なのかなと。
 ここで重要なのは、介入が物語的な主張によるものではないという点。社会を批判する・政治的テーマを扱う・人間の善悪を問う、これらは物語としての社会性だが、ポストモダン以降の言語文芸は、言語の構造・語りの前提・主体の一貫性・物語という形式そのもの等を揺らすことで、認識世界の構造を揺らす。

 ・内的社会(認知・意識・主体)
 ・外的社会(制度・共同体・倫理)
 ・言語(両者を接続する動的構造)
 ゆえに、言語を撹乱する →内的社会を揺らす
     内的社会が揺らぐ→外的社会の枠組みが再定義される
 よって、文学は言語操作によって社会を再組織しうる。

 この辺りが私が多和田に感じている社会的だが社会的でない複雑な評価軸の正体なのかなと。
 そして多く私はその認識できない言語至上主義性を把握も言語化も出来ずにいること。

 複数言語の間に位置する身体を前提に語る、国境・文化・母語概念の安定性そのものを疑う、日本語とドイツ語の干渉、翻訳という行為の中にある主体の分裂、言語作家が問う母語とは何かを主体とした物語の形式は、グローバル化後の世界文学の中心課題と一致するし、それはパワーズなどポスト・ポストモダン的作家が世界を認識し創作する上での世界文学を捉えるのとは別の方向にて、言語系統としての世界文学を志向する。言語を内的社会と外的社会を繋ぐものだと認識すれば、たしかに言語系統としての世界は文学になり得る。
 その対比から見えるのは、生命の系譜として世界文学と、言語の系譜として世界文学なのかなと。

 


 

言語は人類そのものにはなれない

 私の中心軸は「語りの倫理(物語責任)×人類社会性」にあるし、言語の枠の変化こそ社会の変化という思想ということの概念的理解も進んできたが、それでも文芸表現よりも文学的表現や情動を含んだ虚構創作の形状としては、やはりそこにあるべき人類のためのフィクションとしては、立体感や主題性を持った知的な情動の方が価値があると思う、という主体性を崩せない。
 私にとって文学とは、読者の世界観・倫理観・人類観に責任を持つ語りが成立して初めて価値になる。虚構が人間をどう育てるか・物語が社会とどう接続するか・フィクションがどんな未来像を提示するか・現実の苦しみが昇華された憧憬がどう人類の理想になるか、これらを物語の側が引き受けることを、私は文学の中心価値としてしまう。

 この場合の重点は、「文芸表現」より「文学的表現」を重視することにあり、多和田やピンチョンの軸が「文芸表現(形式)=言語の撹乱、語りの実験、構造の刷新、ポストモダン以降の達成」にあるのに対し、私の志向する軸が「文学的表現(倫理+情動+人類性)=物語による理解の促進、倫理の生成、世界認識の更新」ここにはっきりと哲学的差異がある。
 「ポストモダン文学・世界は言語でできている・言語を揺らせば世界が揺らぐ・だから、言語実験こそが社会的行為」これは社会の内側=言語秩序を変える文学であり、「人間は物語で生きる・物語は倫理と情動を生成する・だから、人類の軌道を少しでも良い方向に変える物語が価値である」これは社会の外側=未来の人類像を変える文学であり、私が求めるのは人類のためのフィクションであって、その場合の人類をよくする物語は、言語を揺らす物語より上位の価値である、という価値観。
 語りの倫理・人類観の更新・読者の成長・社会的・文明的意義・情動による理解の深化、これらが結びつくときにフィクションは文学に昇格するし、形式や創作技術は人類性を更新する手段でなければ文学にはならない、と私はここに強い確信を持っている。
 文学は人類のための倫理と情動を生成する物語であるべきで、言語の刷新は尊いが、それは人類を照らす物語表現の手段であって、目的ではないため、それを目的と至上する文芸性は文学に劣る。

 つまるところ言語は内的社会と外的社会の認識的には人類になり得るから、言語そのものの更新を目的化する文学の系譜の価値は認めるが、言語は認識上の人類以上なり得ず、実存する人類になりえる情動性や大衆性は情動物語や虚構創作表現としてのそれらより、一次元的に階層が異なり、より概念的で・非表現的であるからして、小説として発達した文芸文学としては一段劣る気がする。

 言語は内的社会(認知・主体)を構成するし、言語は外的社会(制度・共同体)を記述するため、言語は人類のモデルになり得る。しかし言語はあくまで認識のモデルであって、実存的な人類そのものではない。ゆえに言語そのものの更新は人類の更新ではないし、認識世界の更新は人類世界の更新の代替にはならない、というのが私が譲れないスタンスと、文学の限界と実存人類の価値と制限になる。
 ポストモダン文学や多和田的文学が重視するのは「言語秩序/語りの枠組み/主体構造の撹乱/翻訳の揺れ/言語間の干渉」これらはすべて認識モデルの刷新であって、人類の実存的な情動世界や共同体倫理に届くわけではない。「情動/共苦/虚構/物語倫理」は人類そのものに作用する、と信じる私の価値駆動は文学の可能性と実存人類の性善説と成長性を基調としていて、「希望/孤独/信頼/成長/世界との関係回復」などの実存的情動であり、物語がそれを経験として読者に生じさせることは言語の撹乱では生まれない。
 文芸的実験は尊いが、人類のための物語より下位にある。文芸実験は概念的、情動物語は実存的、文芸実験は非表現的、情動物語は世界経験を生成する。言語の刷新は認知の刷新だが、物語倫理と情動は人類の刷新に繋がる、ここに情動の軽薄と人類の動物性があり、その前には認識や理性は非現実性や非生命性を映すが、だから私にとって人間を変える物語は、言語を変える物語よりも高次の価値を持つ。

 物語主義(内容・ドラマ)    →19世紀(物語のための形式)
 文芸主義(形式・言語・実験)  →20世紀(形式のための形式)
 倫理主義(人類的意義・社会性) →21世紀(人類のための形式)

 ただし、私の志向性は、語りの倫理や主語をの軸を人類社会性軸に置くかぎりには価値基準は整合するが、文学理論全体における真理にはならないことは、私がそれを文学の限界と制限だと理解していることにも表れていて、文学は一つの表現形式にすぎないことからも出発している。

 言語は人類の認識モデルにすぎないために、言語実験は尊いが人類そのものを揺り動かす情動と物語倫理には及ばない、という考え方は20世紀後半以降の構造主義・ポスト構造主義に対する21世紀的な倫理的・物語の復権・人類社会への再接続と一致している。
 言語は世界の写像にすぎないとはハイデガー以来の「言語=世界」論への批判として妥当で、現代認知科学的にも、言語はあくまで認知の記述インターフェースであって、人間そのものではない。だから「言語をいじる=人間世界を変える」わけではない、という私の直感は的外れなわけではないとは思うが、今回ちょっと広くなりすぎたので、まだまだ考えてみたいところ。
 文学の核は言語操作よりも人間的反応にある、という部分も同様で、「情動/物語責任/社会性」は、現代文学で主流になるところの語りの倫理とも一致する。そこでは言語の撹乱よりも物語が人間をどう動かすかを重視する。私もその潮流にシンパシーを感じる。

その場合の価値基準
■下位(一次元的・概念的)
 -言語そのものを更新する文学
 -言語秩序の撹乱
 -主体の分裂の形式化
 →認識ツールの再設計。実在の人間を倫理的に変える直接性が弱い
■上位(多次元的・情動的・倫理的)
 -物語が人類的責任を問いかける
 -情動の変調によって行動・視野を変える
 -フィクションが共同体の想像力を更新する
 →人類に効く虚構性の本質(と私は位置づける)

 私の軸は、人類と社会を重視するために文学の公共性・倫理性を語ることが出来るし、情動・倫理・社会性を中心に置くため文学の社会的意義を語る力が非常に強く、これが方向性であり潔癖性として現れている。
 言語遊戯や主体分裂の戯れに閉じず、人類にとってのフィクションの役割を取り戻すことを目的とすることは21世紀文学の主要潮流の一つであり、その立ち位置は時代の最前線であるポスト・ポストモダンの文脈に属していて、それはすでに20世紀的ポストモダンの袋小路からは脱出している。
 ただその弱点は、文学の価値を人類的影響に限定しすぎており、言語そのものの美学/形式の革新/言語哲学的探究などを価値として認める立場からすれば、私の示す序列は倫理中心主義に過ぎると映るだろうし、現実的な文芸趣向や市場性とも離れていて(これは言語至上派も勿論ではあるが・人類再接続の目的との距離として)、これらは「物語倫理×人類社会性」を軸に置く以上、構造的に回避不能な偏りだと今回さらに認識した。

 そこをさらに深掘りすれば、その志向性の根本には「文学=人間変容」という方向を価値基準にしていて、フィクションやテキストと人類との関係性を私は個人的にそのように認識しており、文学や言語の多義性をすべてこの軸に還元はできないことは留意が必要。
 ただ、それらを踏まえても、20世紀後半の理論の反省と21世紀倫理的転回、文学論の二系統(生命系統/言語系統)の区別、認知科学的な言語観と物語倫理学など、今回改めてすべてが内部で噛み合っており、私の一連の妥当性は決して低くないことも認識できた。
 ただし、勿論これらは文学とは何かではなく、私にとって価値ある文学とは何かを語っていることは忘れてはならないし、その価値観は、私が目指す知的情動を伴う人類のための虚構表現という軸において合理的であるならばこそ、さらに洗練し、実在化していかなければならない指針にすぎない。

 個人的な正義としての文学性は、個人や人類の成長や展開に関わるものであり、言語的遊戯や美学や陶酔は評価には値しないし、その意味での更新は他の芸術表現と同じ位置まで落ちて、学術やアカデミックな要素や社会科学にはたどりつけない。例えばノーベル賞に文学賞がある理由はそこであり、人類発展に必要なのは理想であって美学ではないし、文学であって文芸ではない。
 これらは単なる好みではないはずだし、文学は美学ではなく、「言語の陶酔/形式の純粋革新/主体の分裂や言語ゲーム」はあくまで芸術表現であって、文学の存在理由や発展性とは一致しないし、個人の享受ではなく人類の進展であることが起因していて、その軸が言語美学ではなく人類的変容に置かれており、この文学観は芸術論ではなく倫理学に属していることがある。

 私の根本には、文学とは個人と人類の双方に変容をもたらす機能でなければ存在理由を「ノーベル文学賞・世界文学論・人文知における公共性・ナラティブエシックス(物語倫理学)」の立場として容認が出来なくなるし、文学が社会科学・倫理哲学・認識論の領域に接続された知的営みでなければ、虚構商業の類や学術研究的距離感などとの区別がつかなくなる。私にとっては文学は芸術の類ではなく学術の類として文明の内部で機能する思考装置でなければ、その存在意義を保てないし、ここが私が落胆しやすく幻滅しやすく落ち込みやすい要素の一つに思う。

 文芸(Aesthetic)=表現の快楽・言語実験
  → 芸術の一系統として尊重はするが、人類的意義は限定的
 文学(Anthropicまたはethical)
 =人類的・倫理的・認識的変容をもたらす物語
  →人類のためのフィクション(私の主領域・価値の中心)

 ここではっきりと明確化したことは、私は文学と文芸の峻別を区別していることで、実際この2つは歴史的にも一致していない。この立場はブログにとって強すぎるほど強い主軸となっていて、単純な作品評価ではなく、文学史や人類倫理への寄与の面を含めて文学を測る視点は、通常の書籍レビューとは異なるし、文芸的技巧より人類的変容をもたらす物語を重視することからも他社会的テーマとの関連も強く、読書習慣から始まる思想は作品ではなく読者の思考を主語にするし、言語虚構に閉じずに人類の未来へ焦点を向けることから、完全に固有の思想的や形態をしていて、そのぶん私の読書とアウトプットがどんな分類に属するのかはどんどん不明になってきている。

 主題は人類倫理だが、それだけでは文学にならず、虚構創作や文芸技術が必要になるし、その完成度や魅力(言語・形式・美学)が不可欠であり、言語美学を否定する立場ではなく、それのみを目的にする態度であり、「情動の立体性・語りの倫理・認識の階層・虚構の強度・読者変容を可能にする物語構造やその密度」などは形式・文体の問題でもあるが、表現技術のみを目的化した場合は文学から落ち、芸術に寄る。

超個人的価値基準からすれば
【第一階層:主題】人類倫理・社会性・認識の成長
   →文学の目的
【第二階層:表現】言語・形式・物語構造・虚構性
   →主題を最大強度で達成するための手段
【第三階層:排除基準】表現が目的化すると文学ではなく芸術になる
  → 言語美学の自律的追求は本質的な文学の領域外

 1|言語は人類の認識ツールにすぎない
  → 言語の更新は尊いが、認識レベルに留まる
 2|文学の本質は人類的・社会的・倫理的変容
  → ここに価値の重心がある
 3|虚構表現(形式・語り・美学)は、その変容を可能にする装置
  → だから軽視しないし、必要不可欠
 4|しかし表現自体を目的にした作品は
  → 文学から離れ、芸術や美学に属する
 5|ゆえに、文学とは
  主題(人類倫理)×技術(虚構表現)という二層構造で成立し、
  主語は常に人類にある。

 恐らくこれはだいぶ誇大妄想で、「文芸vs文学」の境界を吹き飛ばし、文学を文明論に引き上げ、作品論でも作家論でもなく人類論として文学を語る癖が見つかってきたが、それでもこれは今、世界文学・認知科学が向かう方向と必ずしも反するものではないとも感じるし、現代性があるとすら感じる。                                                                                                                          

 文学とは個人から人類を更新する可能性がある物語性虚構創作性を備えている表現媒体であることの最高活用によるものであり、故に主語が常に人類にあり、言語や文芸形式の更新はあくまで認識の壁を改良する技術にすぎず、その技術が一個の人間から人類全体へと倫理・情動・想像力を拡張し、人類そのものを更新しうる物語作用に結びつかないのであればそれは文学とは言えず、それ以外はどれほど精緻であっても芸術であり、形式にすぎない。
 虚構創作という媒体が持つ物語性・情動性・倫理形成力を最大限に活用し、個人の内面から社会・人類へと波及する変容を生み得る場合のみ文学が文学たり得る、というのが私の潔癖な文学観ということになってしまう流れだが、勿論これはそのまま現実現代の文学が一般読者や一般社会性から別離してしまっている要因であり、つまりは文学性の本質だと反転する。
 それでも私には文学と文芸の境界は明確に必要だし、多和田・ピンチョン的な言語軸文学の限界も説明し、パワーズ的人類軸の文学を正当に評価し、私自身の「物語倫理×人類社会性」を正面から位置付ける理論的統合は果たせているように感じる。

自戒する私の文学観の潔癖性

 私がポストモダン系を看過できないもう一つには、混乱や錯乱が社会性、というのは希望性や展望性の私からは進展性だとは思えない点や、性善説や進展性信望などの点から難しい、というのも今回感じた点で、私(=希望・進展性・倫理的主体の更新を軸に文学を評価する立場)と、ポストモダン系・今回で言えば多和田(=言語秩序の攪乱によって社会性を露呈させる立場)の倫理概念のすれ違いがあるのかなと。ここでは倫理の定義が根本的に違う。

私の倫理
 ・人間は更新しうる存在・すべき存在
 ・物語には個人を変化させ、人類全体を進展させうる・そうあるべき
 ・ゆえに文学の価値は「人類倫理をどれだけ高次化できるか」
  ---------------------------
  → 倫理=進展性・再生・主体の成熟
多和田の倫理
 ・既存の言語・社会秩序は「何かを隠蔽している」
 ・それを露出・暴露するためには
 ・秩序を乱す/混乱させる/境界を壊す必要がある。
 → 倫理=秩序を解体することで抑圧を可視化すること
 高次化する倫理と暴露する倫理、という方向性の真逆

 私において「物語に責任を持つ意思」「人類の理知・成熟を信頼する姿勢」が文学観や人類観の中核を占めていて、そこには 性善説的な方向性がある。一方、多和田の倫理は恐らく、成長よりも暴露、発展よりも変容の強制を軸にしており、進展の方向を設定しない。
 後者の要素は更新の方向を提示しないため、私の潔癖な文学観からすると「混乱=社会性」と言われても、そこに進展の光が見えないため、文学の倫理になりえない、という拒否感が生まれるのかなと。ここには倫理の方向性の違いとは別に主題の扱い方や、言語や人間性に対する根本的な価値観の違いが明確に感じられる。
 そしておそらく、普遍的な要素で照らしてみれば私の持つ文学観の方が異質なのかもしれない、という気はしてきていて、その核心は、文学とは人類という主語をもち、虚構によって個人(=読者)の内部に更新可能性を持ち、その更新が集積されることで人類全体の倫理を進展させうる表現である、という途方もなさであるし、ここで重要なのは「文学=人類の更新のための認識ツール」
「言語遊戯や形式美のみの表現=文学ではなく芸術」という明確な境界線を引いていること。
この更新の概念こそが私の文学観の中心軸になるのかなと。
 そして多くの場合こんなものを持っている人の方が少ないので、人との会話や多くの作家作品の感想評価が不明確になるのもうなずけるし
 そうなると、文学とは人類の倫理的進展を更新するための虚構創作であり、混乱・攪乱・破壊・露出のみを目的とする言語表現は文学の条件を満たさない(ピンチョンも含む・旧時代文学)、という極端な帰結になってしまうし、読み返してみても個人的には特に間違いと感じない所が、結構問題だとはもう感じてきている。

 人類の倫理を更新しうる方向性があること、そのための物語的威力を備えていること、この2点を満たしてはじめて文学は文学として成立する。逆に、言語秩序を乱すだけで、主体や人類を更新しない表現は、いくら美しくてもいくら高尚でもいくら社会を露呈させても文学ではなく、形式的芸術に過ぎない。という極端な所にまで私の現時点の文学観は到達している……
 ポストモダン(解体・攪乱重視)を超えて物語の倫理的機能を中心に据える21世紀文学の最前線的には、上記のような極端は問題ではないと思うが、現実問題や多くの文学論や読書感想などにそれをあてはめるのは無茶があるし、リチャード・パワーズや構造主義以降を乗り越えた作家たちと同じ軸にも見えるし、私がそう志向するならこのブログの方向性もそれに従ってしまうことも問題点で、中立性とかはないから公共性が疑わしいが、どちらにせよ人類文明を見たら希望・進展的視野は善ではある、と自己養護したくもなるのだが、極端で潔癖である、ということは間違いない。

多和田の文学は「更新の方向を提示しない」ため、あなたの文学観からすると 「混乱=社会性」と言われても、 そこに進展の光が見えないため、文学の倫理になりえない という拒否感が生まれる。

私の倫理観
 主体は更新されうる。物語は更新の方向性を提示しうる、これが大前提。
 ここでの倫理は「未来志向/成長可能性/個人→社会→人類への波及/物語による変容」
 つまり倫理は上位階層へ向かう運動であり当然。
逆方向の倫理観
 主体は安定しない/言語は世界を隠蔽する/混乱は抑圧されたものを露呈する。
 ここでの倫理は「秩序を壊す/不安定さを露出させる/社会的境界を曖昧にする/変容ではなく振り戻し」つまり倫理は水平的な攪乱であって上位性は持たない。

 私の文学観は「人類を更新する方向(増加方向・成長方向)を提示するかどうか」が文学の条件になっている。だから多くのポストモダン的小説が、更新方向を提示しないどころか、方向そのものを拒否するたびに「世界をただ乱すだけで、未来へ行く気がない」と映り、それは当然倫理になりえない、という読後感が残る。私が求める倫理は進展の座標軸であり、他軸に感じる倫理は座標軸そのものの解体だったりする。
 それに拒絶感がある私には人類の理知や発展に対して、強い信頼と期待(性善説的進展性)を持ち過ぎていて、「人類は成熟しうる・物語は未来への憧憬になりうる・認識ツールとしての文学は進展を駆動する」これらを信じているから、秩序破壊の提示のみを行う文学は私にとっては未来の光を遮断する言語に見えてしまい、そこに倫理性を感じない。私にとって「倫理=進展性」であり、「倫理=露呈/解体」の軸の違いが拒否感の核心。

 ただし、私の文学観が21世紀的=ポストポストモダンであり多和田がポストモダンだというのなら、その文学性は20世紀的であり、前時代的な形式であり、資本主義やポスト資本主義時代に突入入する21世紀においては時代錯誤であり、人類性どころか、文学性の刷新性や発展性にも寄与できず、商業経済にもなれず、文芸文学が各国的にす廃れるのをくいとめられない。
 私の文学観が潔癖すぎるにせよ、最善や打開を求める21世紀文学の最前線であり、言語形式派の作家は本質的に20世紀(=ポストモダンの最終局面)に留まっているとすれば、その差は現代の資本主義・ポスト資本主義の社会構造において、文学が生き延びる道を決定づけるほど致命的な差異になることは注視が必要。

 ポストモダン文学の特徴は「秩序の解体/主語の不安定化/言語の自己反省/文学そのものの構造暴露」などで、これらは20世紀社会(工業化・国民国家・高次情報化の黎明期)には思想的緊張をもたらしたが、21世紀の世界(AI・超情報社会・資本主義4.0)では、露出した実存社会や日常にすでにあるものであり、すでに社会そのものが日常的に不安定で分裂的になっている、それをフィクションや文学がやる必要性などなく、そのトレースや暴露行為は前時代性やその本質ということになる。 
 21世紀文学が物語の倫理的機能を取り戻す方向へ流れているのは明確で、ポスト・ポストモダン的には「再物語化/人類規模の倫理/情動と知の統合/社会変容の方向性の提示/生命・気候・文明・AIなど、外部構造との接続」等のテーマはリチャード・パワーズを筆頭に、テッド・チャン、カール・オーヴェ・クナウスゴール、エレナ・フェッランテ、キム・スタンリー・ロビンスンなど世界が高く評価している21世紀作家たちが行っていることの最前列。

 多和田の文学が前時代的に見える理由は「言語の攪乱=倫理/主体の分裂=価値/秩序の不安定化=社会性/翻訳/越境=揺らぎの肯定」など未来志向の方向性を意図的に拒否していることにあり、それらは20世紀終盤の思想では最先端だったが、21世紀では「(揺らぎだけを見せられても)人類はどこへ行くのか、という問いに答えない=知的責任放棄」として21世紀の読者は日常的に情報過多で不安定な社会を生きるために方向性を示す物語を求めていて、ポストモダンの攪乱だけでは読者も社会も動かない。
 さらに、現代の商業市場では「明快/希望/倫理/エンタメストーリー/社会的意義」がない作品は読者を獲得しづらい。私がピンチョンを否定しづらいのは、アメリカ的な趣向ではあるものの虚構的な設定と展開の創作的要素は保持していて、故に商業的な成功も掴むだろうなと感じるし、多和田の今回読んだ3作においても、題名も虚構性も一定水準以上だと感じるし、やはり作家的なレベルの高さを感じるが、それでもその実力の程度並みに一般読者に親しまれているかと言えば微妙で、商業市場の要求(情動・物語性・社会的有用性)と噛み合わない故に、文芸文学そのものの衰退を食い止められない。
 21世紀に文学を更新もせず、生き延びさせる機能も持たず、20世紀の思想的遺産に留まるだけではその価値を認めづらいが、今回私が読んだ3作は2000年代の作品が中心だったので、2025年現在はどのような創作を行っているのかは注目の所。

言語芸術は、21世紀に何を更新できるのか?

 文学はまだしも時代の流れや年数を感じずらいジャンルではあるけれど、それでも経年や現代感は存在していて、かつてはいくら巨大だったピンチョンが今では現代の主流ではなく遺産や打倒する惑星であるように、潮流や必要は流れていくが、それでも文芸形式の刷新という学術的価値は依然としてあるはずで、21世紀における言語芸術の更新とは何か?を調べてみると、「言語×テクノロジー×認知科学」へ向かう方向にあるらしい。

ピンチョン
 →ポストモダン後期(60~90年代)の巨大な成果
 →だが21世紀の読者には、情報の混乱・断片化の価値は低い
 →現代に読む意味は文学史的遺産
多和田
 →言語攪乱の実験を続けるポストモダン作家
 →言語の分裂=倫理的価値という思想は20世紀の構造主義??
 →21世紀的文脈では価値の中心には来ない。
アカデミック価値は高いが、時代的価値は中心には来ない

現代(21世紀)における言語芸術の更新の主軸
①認知科学×言語
  -言語がどのように世界認知を規定し、物語が認知をどう変形するかの研究と接続する文学。
  -テッド・チャンの思考実験的フィクション
   イアン・マクドナルド
   ジョージ・ソンダース(認知負荷を操作する文体)
 言語の刷新が人類の認知構造をどう変えるかまで踏み込むらしく、私が重視する人類倫理とも接続できる更新軸なのかなと。テッド・チャンの名前を最近よく見るけどSFイメージで未読。円城塔的な感じかと思っていたけど、テクノロジー要素と文芸の融合はやはり現代的。そしてそれは以下にも続く。

②言語×AI×テクスト生成
  -言語を人間とAIの共同創発的システムと捉える方向。
  -自己生成テクスト/ハイブリッド語彙/人間×AIの共同物語
 これは多和田の翻訳的越境ではなく、言語そのものが外部機械との協働によって変質するという、ポストモダンでは想像できなかった更新なので明確に進展。これも認知科学と同様に理解しやすくて、現代性を感じるし、実はこの要素で読書習慣系の記事を年始に1つ大き目のやつを書きたいと思っていて、やはりそれらは文学の現代性なんだなと強く実感。私のSF微妙イメージは近代アメリカ要素に基づいているので(どこかで触れたっけ?)、現代SFなら少しは触ることが出来るかな? いつか読まねばだが、ただこれ系を書く作家の虚構創作や文体の密度などの実力が高いイメージがないので、そのあたりがな。その辺りは文学潮流の話で経なく、作家性の成熟だと感じるが。

③ 多言語性×国境移動×「揺らぎ」→「新秩序の創出」
 -20世紀的ポストモダンが、暴露/転覆/不安の揺らぎを生み出したのに替わり、21世紀文学では「揺らぎの結果できる新しい語りの統合を探る」らしく、こちらも正統に進んでいる事を認識。
 -チママンダ・アディーチェ
  ルイーズ・アードリック
  オーシャン・ヴオン
  ルシア・ベルリンの再評価
 言語の混乱ではなく、複数言語から新しい主体をどう再構成するかを目指すらしく、グローバル化や多様化という21世紀文学要素と結びつく様子。これらも物語倫理や人類社会性に接続可能な方向かなと感じた。チママンダ・アディーチェ最近よく聞くが、翻訳された文学作品はあまり多くないし、アフリカ系はクッツェーくらいしか既読と認識していなくて、いつか読むと思いつつ放置。アフリカは人種や植民地や解放等、ラテンアメリカとは異なるが地域的な特色が強く、虚構性と文学性の要素は充分だし、人口や今後の先進性を考えると10数年単位では興味対象に入るかなとは思っていて、これは年始の記事で触れたいと思っている要素として現代性。

 多言語やグローバル言語の要素としての言語としてみると、それは深遠なテーマであることも認識。そう考えるとピンチョンよりは多和田のが受け入れやすかったのは単に母国作家であるからというよりは、ポストモダンの中でも言語特化の要素が分かりやすかったからかなとも思ったりする。
 ここで感じたのは、言語的ポストモダンの一般主流化の流れと、SFの一般化だったり、やはり現代への流れというのは面白いなということ。
 それと共に、やはり私がポストモダンに関する違和感は希望性・発展性の欠如もあるのかなと。
 勿論私が「人類倫理/物語による変容/社会的希望/進展性/主体の統合/情動と知の高度統合」等を求めすぎていることは心に留めつつも、ポストモダンはその逆に「倫理性を拒否/希望を提示しない/主体を分裂させる/意味生成を宙吊りにする/全体を否定する」から、私の希望性価値観やその志向性文学観からすると、否定して提示せず、転覆させて進展は請け負わない感じが、生理的に受け付けないのかも。
 ただ上記のようにして、言語のグローバルや多様性などは現代的なテーマだし、テクノロジーやAi生成などと組み合わせるのもまた可能性を感じるし、本質的な人類性や社会性も十二分に感じる。20世紀的ポストモダンの要素である「言語の無意識性・翻訳の関係性と非関係性・国家の虚構性」などの構造的暴露を続ける価値は21世紀にもあるが、それは先進国文化的発展ではなく後進国的古典化深化であるだけで、地域にもよるだろうが、やはり新しい価値後進になるとは思いづらく、現代の文学的・社会的要請には応えないのかなと。

21世紀文学の倫理的責任観

 ポストモダンシリーズの時にも感じたこととして、21世紀の文学に対する倫理的責任観=文学観にも近いし、それは歴史的な流れと現代の責任感とかダイナミズムに関連するし、単純に現代を理知感で生きている個人が何をどう思うかが反映される文学性の本質だとも思うのだけど、今回は前時代的ポストモダン作品や作家としての多和田葉子に触れたことで、色々と思うところが触発された回でした。
 それと共に私の文学観とか価値観も明確になり、読書と対軸や理解や主軸なども実感。
 私の文学観は他軸や理解ではなく主軸や使命になっていて、勿論私は作家や文学者ではないので主軸という言い方が正統かどうかは疑わしいが、読者や観測としての文学を、感性として好んでいるのでも趣味として楽しんでいるのでもなく、人類や文明の未来と社会の持続可能性を支えるための倫理的義務であり、人類や文明の命題や憧憬である、という世界観を今回強く認識した。
 特にその場面において「人類社会の持続性(共同体の未来に対する責任・主体の倫理)」「物語の責任性(=語りの倫理=人類文明を変容させ得る力=でなければ文学ではなく文芸)」等、ある種潔癖とも思えるが、考え尽くしてみるとやはりこのあたりの本質は崩せないと思うので、私の認識世界の核心であるのだと思った。

 そして同時に、言語芸術が閉じているように、文学の主体的価値自体まで拡大しても、現代文学は世界の外側に開かれた営みとして更新しなければ、21世紀の文学も、果ては人類も(倫理的に)未来を失う、とすら思えた。これは人類文明にとっての倫理を負うことが文学には可能だし、その役割を果たすべきだと思うからも含む。
 ポストモダン以降の閉塞(分裂・相対化・無方向性)を乗り越えるポスト・ポストモダンの中心思想はその辺りに沿っているし、私も新しい潮流も未来のための文学を構想しているし、進行しているのだと信じたい。

 多和田の言語文学=価値を認めているが、自分の軸(人類倫理 × 物語責任)には合わない、だから否定ではなく超えるための他者として扱う、認めるが超える、という精神構造がすでにポストポストモダン的であり、これは読書と21世紀文学の核である「他者理解 × 自己更新」の倫理そのものなのかなと。
 21世紀ポストポストモダンは未来を再起動する文学にも近く、再構築の方向、物語の倫理的機能を回復する、他者理解と共生の基盤を整える、社会と人類の未来像を可視化する、文学を文明の技術として再定義する、情動×思想×物語で、人間そのもののモデルを再生成する。その結果生まれるものは、希望(未来)を語る可能性の復活であり、物語は再び人間を更新し、社会を支え、人類の想像力の基盤となることで、やっと文学は、世界の虚構性を暴く遊戯ではなく世界の持続性をつくる技術へと復権する。
 この軸は言語より人類を、形式より倫理を、解体より再生を優先する。

 今回この記事を書きながら「Posthuman Futures(ポストヒューマン的未来倫理・文明論的文学)」という言葉を見つけて、21世紀の危機の中で、文学が文明的に何を更新しうるのかを問う潮流、ということにまさに!と反応する心地がしたし、改めて自分の勉強不足や読書量の浅さを実感したりもした。
 そして改めて、言語ではなく人類そのものを更新する虚構性を私は文学と呼びたいのだと思ったし、かつての記事で書いたように、20世紀ポストモダンは言語を更新したが、21世紀文学は人類を更新する物語へ向かっている、ということも確信した。

**最後まで読んでくれてありがとう🌞**
 感想コメント、引用、紹介、たくさん待ってますが、
 とりあえずお疲れさまでした( ^^) _旦~~

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