G-40MCWJEVZR てっとり早く何者かになれる恋愛・結婚・出産に閉じ込められてきた女たちの現代的姦しさと黄昏、男性の許しを必要としない新しい命『夏物語』川上未映子③ - おひさまの図書館 つまらない、あらすじ、冬物語、いちよう
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てっとり早く何者かになれる恋愛・結婚・出産に閉じ込められてきた女たちの現代的姦しさと黄昏、男性の許しを必要としない新しい命『夏物語』川上未映子③

文芸

 正直、本作は草稿レベルだけど、このように自分が書くべき物語を持つ作家は強い。
 芥川賞機企画として進めていく中で、弱者男性と資産運用やカルト集団等の羽田圭介を挟んで、また川上未映子に戻ってきました。受賞作、恋愛小説、代表作、と進んできて興味を持って、もう1つ著作列の中で転機的に思える『夏物語』を読んでみました。
 3回目となる今回、前回2の段階では選書はブッカー賞候補+芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞した初期の代表作らしき『ヘブン』を含めた2冊となる予定でしたが、そちらは私には再読になる点と、本作の題材性や創作的話題量が多かったため、毎日出版文化賞を受賞した『夏物語』1冊でお送りすることにしました。

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虚構性が詰まって、文章的武器は薄まった
『夏物語』(2019)

 650頁を超える長編の本作は2部構成となっており、1部は2008年に芥川賞を受賞した『乳と卵』焼き直しと加筆修正につき、文筆業を行う主人公・夏子が住む東京に、豊胸手術をしたい姉・巻子が、娘・緑子を伴って泊まりに来るが、緑子は母親相手に口も利かない反抗期中で、筆談する小さいノートと何やら書き込む大きなノート2冊を持ち歩いている。2部はその8年後を描いた夏子を主体とした物語が展開する。専業小説家として自身の生計を立てられる程度にはなった夏子は1.5万円を大阪に住む姉親子に振り込むほど成長しているが、2年前に出した単行本以外は細かな企画連載で食いつなぐだけで新しい作品が書き上げられずにいるし、20代前半で別れた男性以降恋人もおらず、そもそも夏子は性行為が好きではなかった。恋人もおらずセックスに嫌悪感があり、特別なキャリアも財産もない38歳の女性に、子どもを持つ資格はないのか? 夏子は生まれや自分を育ててくれた母親や祖母、姉や姪、現在の自分の現状などと併せて考え、精子提供という方法やそれから生まれた子どもたちの存在を知り、仕事をそっちのけで情報をかき集める。男の性欲に頼らない妊娠、女がひとりで妊娠出産するための覚悟と社会構造、それらについてのそれぞれの立場と現状から思いと人生を叫び合う危機交々。
 『夏物語』はそのものずばり夏子の話であると同時に、題名から連想されるシェイクスピアの『冬物語』のテーマモチーフの反転性が存在しつつ、樋口一葉の『たけくらべ』を基礎に持つものだった『乳と卵』の要素に加えて、本作では同著者の『にごりえ』が持つ女性の語ることの出来なかった時代に対する現代的な展開を行っており、この辺りにフェミニズム要素があるようにも思えた。
 構造上のテーマや創意は趣向や意欲に富んでいてよいが、その反面、彼女の著作をすでに読んでいる人間からすると、出会い頭のインパクトだった文体や突飛なモチーフ性の威力が弱まった既読作を読まされる構成と文章は冗長に感じるし、せめて一部はもう少し刈り込んでもらいたかったし、全編を通してみても完成度的には低い。優れた創作への意志と現代的なテーマへの意識に、まだ少し作家としての実力が足りなかったのかなと思うが、その背伸びや責任感は評価されるべきものなのは間違いない。
(↓小見出しだけ異様に凝っているのがなぜか面白い、
 本文にもそれだけ磨きをかけてほしかった)

 妊娠出産をテーマにした本作は、その行為に直接的かつ主体的に関わるのは女性のみだとした一貫性を崩さないが、同時にその性別の悲しみややりきれなさも描く。巻子と緑子のそれや作家友だちの遊佐と娘のそれなど、育児の場面でも男性性が登場しないことに加え、暴力的かつ支配的な存在や構造として登場する男性性の扱い方などは極端ではあるが、それらもまた家族や社会やもしかすれば当人自身によって個を埋没させた女性や母への批判であると同時に、男性の庇護下にある女性全体への拒絶反応であったり、女性が主体性を放棄することへの軽蔑や困惑、明らかな上下関係にある男女の搾取構造の暴露や、そうした家族観や社会間で生きてくるしかなかった女性たちへの今だから叫ぶことが出来る問いかけであり、これから生まれて始まる未来や生命と判断に対する提言ですらある。
 本作で描かれた女性の人生上の不安、傷心、渇望、葛藤、焦燥、絶望、そして希望からなる多くの妊娠と出産のテーマ表現や諸事情は、本質的にはどこまでも女性の行為として描かれるし、それは現実的にも間違いない。夏子が精子提供を必要とする経緯、思慕にも似た特別な感情を持った相手を見つけてからも落着の仕方の選択に続く背景、妊娠の方法・精子相手・育て方などを選ぶことにより、どこまでも主体的な選択と覚悟によって夏子が母親になっていく物語が展開する。
 テーマとしての妊娠出産育児家族への献身や介護まで、女性の身体や人生に起こることや家族の維持のためにも女性が果たす役割の大きさまでもを広げて、総合的に描く本作。
 私自身も、妊娠を望まないからこそ性行為や恋愛関係や婚姻関係に意欲的になれなず、自分には無関係のものという認識など、これは私の物語だと思うにも関わらず、そこまで熱くならないのは、結局は私がジェンダーではなく社会的問題のスケールに興味を持ち、個人内側女性の体のことはそこまで興味が持てず、個人的なテーマよりは社会的なテーマを優先してしまう部分があるのかなと。個人の問題として性行為と妊娠出産への興味の無さ、というテーマは重要ではあるにも関わらず、きわめて個人レベルの問題には自身が関わっていようと評価軸としては微妙で、個人的なことではあるが、これは結構新たな発見。
 そのようにして女性の身体や人生が搾取され献身や埋没を余儀なくされてきた時代と闘う現代の問題に注意が向いて評価が重いこと等、ジェンダー文学や人類性に関わるのは間違いなく、前時代の搾取されてきた構造部分はアトウッドを、人工生殖に関しては村田も書いてるからそことも結びつけられるし、やはり菜食主義者も浮かぶし、つまりはディストピア文学とジェンダー文学に通じていくし、そちらにばかり興味が湧いた。私はフェミニスト方向に知識が乏しいから語ることが出来ないが、現代文学が、普遍的な人類性の進展や変化を求めていく警告や祈りとして昇華していく際に、この辺りのことは必要で必須だと思えたのも大きかった。
 自分が縛られてきた構造に嫁を押し込めたい・女による悲劇の再生産=復讐が同性に向かう=非生産性(本作で言えば相沢の母と姑の関係=過去のフェミニスト作品にもあった)だとか、父親だと思っていた男性から性暴力を受けた女性の悲しみと、けれど実はそれは生物上は非父親であったただの他人男性から受けた被害であるところからの、家族としての機能や母親の真意の不在、或いは暴力行為によって人生に悲観するしかない壊されてしまった価値観や希望、等に向かう意識や興味の強かったところ、も自分に興味深かったし、
 そのようにして本作は個々の価値観や人生や性別によっては重かったり気まずかったりするほどテーマ性が強いのだが、それにしても、姉妹同士の仲直りを描けて、姪の眩しい恋愛を応援する希望等、きちんとこの世界や未来の良点について描けているところに、人間性的強さも感じるし、明るさもある。

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395>「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」
 遊佐は断言した。
「もちろん女の性欲も必要ない。抱きあう必要もない。必要なのはわたしらの意志だけ。女の意志だけだ。女が赤ん坊を、子供を抱きしめたいと思うかどうか、どんなことがあっても一緒に生きていきたいと覚悟を決められるか、それだけだ。いい時代になった」
「わたしも、そう思う」わたしは昂ぶる気持ちをおさえて言った。「そう思う」
「夏目はそれで本を書けばいい」遊佐はわたしをまっすぐに見て言った。
「本?」わたしは驚いて言った。
「そうだよ、わたしだったらそれで一冊書く。版元に金を出させる。手配も旅費も通訳も全部ね。みんな親の金とか男の金で不妊治療してるんだよ。作家だって妊娠とか出産とか子育てエッセイとか書いて稼いでる。あんたがあんたの妊娠と出産の経緯を書いて何が悪い?」
~「いける。子どもひとり大学出すくらいの金なんか、よゆうで稼げる。わたしが保証する。いくらでも版元を紹介できる。でも、ねえ夏目――もちろん金は大事だけど、これは金の話をしてるんじゃないよ。もしあんたが自分のことを性的なことから収入のことから気持ちの何から何まできっちりかいて、それでひとりで妊娠して出産して母親になることができたら、いや、できなくてもね、その過程をちゃんと記すことができたら、いったいどれだけの女の励ますことになると思う?」
 遊佐は真剣な顔でわたしを見た。
「そんなもの下手な小説を書くより――ってべつに夏目の小説が下手だっていってるんじゃないよ、でもはるかに意味があるね。今を生きてる女たちの、はるかに意味のある力になる。具体的な力になる。指針になる。これは希望なんだよ。相手なんか誰でもいい。女が決めて、女が産むんだよ」

398>「さっきの話」わたしは振り返った。
 「わかってると思いますけど、真に受けないでくださいね」仙川さんは言った。「リカさんの話です。あのひと完全に酔ってるし、煽るだけ煽って無責任なところあるから」
「子どもの話ですか?」わたしは訊いた。「わたしはかなり具体的なこととして聞いたけど」
「冗談止めてくださいよ」仙川さんはからかうようにため息をついた。「精子バンクとカ正気なんですか。古臭いSFじゃあるまいし」
 わたしは頬が内側から熱くなるのを感じた。
「気持ち悪い」仙川さんは吐き捨てるように言った。「あなたが子どもをつくるのもつくらないののも勝手ですけど」
「じゃあ放っておいてください」わたしは唾をひとつ飲み込んでから言った。
「小説はどうなってるんです?」仙川さんは鼻で小さく笑って言った。「自分の仕事を満足に仕上げることも出来ず、人との約束を果たすことも出来ない人が、子どもを作って産んで育てるなんてことできるんですか?」
 わたしは黙っていた。
「できるわけないじゃないですか」仙川さんは笑った。「もっと客観的に自分のこと考えてみてくださいよ。収入、仕事、暮らし……いまなんか共働きでもひとりもてるかどうかって時代なんですよ? 知ってますよね。それに仮にさっきリカさんが言っていたこともが正しかったとしても、あなたはリカさんじゃないんですよ。そりゃリカさんならできるかもしれませんよね、彼女には大勢の読者がいて、お金の心配もないですしね。それに彼女、男に興味ないとか言ってますけど、その貴になったら助けてくれる人なんかいくらでも現れますよ。いっぽうあなたは無名の存在で、明日がどうなるかわからない。怠惰な、約束を守ることもできない、いい加減な書き手なんです。リカさんとは何から何まで違うんですよ」
「すごいですね」わたしは絞りだすようにして言った。「何も――知らないくせに」
「……あなたが言うとおり、わたしは何も知らないかもしれない」少しして仙川さんは首をふりながら言った。「でもね、あなたに才能があることは知ってる。それだけはちゃんとわかってる。ねえ夏子さん、もっと大事なことがあるでしょう。わたしはそれが言いたいの。今やらなきゃいけないことがあるでしょうって、それだけが言いたいの。ねえ夏子さん、小説を書きましょうよ。わたしはわざとこうして意地悪なことを言ってるんです、発破をかけてるのよ」
 仙川さんが一歩足を踏み出して歩み寄った。わたしは反射的に後ずさった。
「夏子さん、あなたは作家じゃないんですか? 才能があるのに。書ける人なのに。ねえ、書けない時期って言うのは誰にでもあるものなの。肝心なのはそれでも物語を捉えて離さないことです。小説のことだけを、人生を賭けて考えてほしいの。あなたは本当に小説が書きたくて、小説家になったんじゃないの」
 わたしは仙川さんの丸い靴先を見つめていた。何も言うことができなかった。
「どうして子どもなんて、そのへんの女が言うようなことにこだわるの。ねえ、しっかりしてくださいよ、夏子さん。子どもが欲しいなんて、なぜそんな凡庸なことを言うの。真に偉大な作家は、男も女も子どもなんかいませんよ。子どもなんてそんなもの入り込む余地がないんです。自分の才能と物語に引きずり回されて、その引力のなかで生きていくのが作家なんだから。ねえ、リカさんの言うことなんか真に受けないで。リカさんはしょせんエンタメ作家ですよ。あの人にも、あの人の書くものにも文学的価値なんてないですよ。あったためしがない。誰にでも読める言葉で、手垢のついた感情を、みんなが安心できるお話を、ただルーティンで作ってるだけ。あんなのは文学じゃないわ。文学とは無縁の、あんなのは言葉を使った質の悪いただのサービス業です。でも夏子さんは違う――ねえ、いまお書きになってるものがどうにも動かないようならね、それはそこに、その小説の心臓があるんです。それこそが大事なんです。すらすら書ける小説になんの意味が? ためらわずに進んでいける道になんの意味が?」

 直木賞受賞作家であり、書店でも新作が平積みされる売れっ子の遊佐の発言の力強さは、社会的な強さや行動力、経済的な自立の上にさらに行動力や企画力を備えた強い女性の台詞として、夏子に強く響く。本作のテーマであるところの、女が一人で生むと決めること、その経緯の発信ですら社会的文が的価値がある実験と告発である、というのはおおむねで正しいし、それを言えるだけの強さを持つ個人的背景が先なのか、女性は本質的には弱いのか、能力や家族構成の問題なのか、何歳になっているからもう手遅れなのか、様々な主題をはらんでいるし、直後の編集者・仏川の冷静な発言で、妊娠と出産に逃げているだけである女の人生のテーマが見えてきたりもする。
 台詞劇の中にこうしたテーマ性を明確に入れ込む形式を著者は良くとるが、本作では割と自然な形で滑り込ませていて、この辺りは成長を感じたりもした。
 ただそれだけで何者かになれる結婚と出産によって女が得られる人生の達成や権威、というものは現代にも確実に存在していて、それは普遍的な母性や情動などという言葉で覆い隠しながら現実的に存在している構造上の焦燥とも関係するだろう。働いているだけではだめ、結婚しているだけでもダメ、子供を妊娠出産していないと未熟者、一度も結婚していない女は一度も誰からも愛されていない、自分の子供を抱けなかった女は幸福を知らない、云々。女性による生命の生産力によって社会や労働力が維持向上してきたのは紛れもない事実であり、社会や家族が女性に求めるまず第一はその生産性であることは生物上もちろん間違ってはいない。
 職業的かつ社会的成功者の遊佐の言葉や計画は明確で強く希望的だが、仙川が突きつける夏子の現実もまた事実作家としての主人公は仕事で上手くいっているとは言い難い。生活ができる以上ではないし、そもそも本作では彼女がなぜ小説家を志したのか、散見される文学作品の名刺以上にはあまり見えてくるものはないが、仙川はそんな主人公の才能を認めたうえで急かさずに友情や信頼行動を見せてくる数少ない友人だった。実家が裕福で編集者として高所得につき豪華な暮らしを満喫する50歳前後の女性で、目の前の仕事を真面目に高潔にこなしていたら子どもとも結婚とも縁がなかった単身女性の属性を持つから、その辺りで穿った見方や本心と執着が見え隠れする上手いつくりをするが、その後夏子は仙川の言葉は何も間違っていなかった、と自戒する。
 一般的な女性が30歳手前で感じる焦り、そこを超えた30代で感じる自分は何者にもなれていない、という状態を簡単に覆すことが出来るものとして、女性には、恋人の存在、結婚相手として選ばれること、そして妊娠出産を経て母親になることなどによっても結構達成されたりする、そのような社会的ステータスだと認識させられている構造上の問題だともいうことは出来るし、生産性のジェンダーの話として仕事をした感や愛された事実を公的に持つことは自己肯定感にも繋がる、社会的にもそういう作りをしている。そこで言うと、バツイチだが子持ちで売れっ子作家の遊佐は既に女の人生を勝ち抜けており強気の発言が出来るし、実家が太く金銭や時間を自分のために使えるが独身子無し50歳の仙川は非生産性の負け組だから彼女の言葉は悲しく響く側面を帯びる、という構造上の仕掛けが良い。そこへいくと、38歳という妊娠期限を間近に控えて恋人もおらず結婚もしていない夏子は、仕事も中途半端な完全な負け組であり、このようにして様々なステータスの中でがんじがらめになる姿が上手く構築されている。
 恋愛や出産が入り込む余地がないくらいに仕事をする人生もあるだろう、そこでしか得られない成功も収入も自信もあるだろう、けれどどこかでどうしても女は恋愛妊娠結婚をもとめられ、それが満たされていない人間は不十分だといわれる側面が呪いのようにあることは、少しずつ変化した現代でもまだ女性が抱える問題の根源の一つとして確実に存在しており、現代のジェンダー論的にはそのあたりが社会構造の中に生まれるし、その呪いを付与する理由はそこに生産性や性的搾取を求めて果たしてほしい役割があるからだし、生産性と女性、社会にとっての女性、あるいは家族にとっての女性など、主題テーマが山積していることも実感した。

 そのようにして、異なる人生立場と価値観の女性の印象的な提言に挟まれて揺らされた夏子は、さらに姉との電話でも、精子提供による妊娠を肯定してもらえないことから仲違いを起こしてしまう。
 前者二人が自分の人生と価値観と覚悟で話すように、若くして身籠ってホステスをして稼ぐしかなかった巻子だからこそ、妹には一人で育てる苦労を考えもなしにしてほしくなかった気持ちは、読者にも痛いほどわかるのだが、揺れに揺れている夏子には上手く感じ入ることが出来ない。
 遊佐は嫌悪への共感と活路戦略を、仙川は人としての人生の目的や使い道の話、巻子も妹への親身から、誰も適当な話はしていないし共鳴するからこその発言をしているだけなのだけど、皆それぞれが自分の人生と価値観でしか話せず、かつ他者から見たその属性による色眼鏡も加わって、四者四様の折り合いの悪さが発露するドラマ性と、それぞれの人生と情動の共鳴と共感である女性性が、だからこそ、それぞれの価値観としてぶつかる、非常に良い場面を構築している。
 そしてここを境に、混乱しながら帰路をさまよう主人公はすれ違った相手に舌打ちしたりして、著者独特の反転の瞬間が来る!!!!

 今までの作品ではどちらかと言えば、変容前の方が物語設定の虚構的豊かさがあって、変容後は微妙で突飛な展開をすることが多かったのだが(『乳と卵』では卵をぶつけ合い、『すべて真夜中の恋人たち』ではアルコール中毒と妄想癖が爆発し、『黄色い家』ではストレスフル犯罪者が友人まで支配下に置き始める)、本作における反転は、今までの既読作品の中でも最良の形として機能しており、以降の展開も良好。それまでは主人公の性行為への嫌悪を持ちながらも、それでも子供が欲しいという願い等の前提を示した上で、遊佐による強さの創造性・主体性の提示、何にも成れていない自分の焦りと才能の迷い、に目を覚ます洗礼を仙川に浴びせられた直後に、
 ・見ず知らずの精子提供者への生理的嫌悪やモラル(恋愛的性行為の最低限の確保)
 ・性暴力被害者による人生や生命への絶望(性暴力や毒親被害者の語りの威力)
 ・なにもかもを破壊して遺恨を残す人の死
 という3つの強い出来事を用意して、夏子がそれまで集めて築いて育ててきた自分の意思や価値観を大きく揺るがす、覚悟や責任の情動レベルを突き崩してくる大きな出来事を置いて畳みかける。それにしても、それを含めて乗り越えてなお、夏子がどのような妊娠・育て方を選ぶのか、がきちんと3段階で描かれているところに責任感を感じる。

 暴力や貧困などの被害者の言葉は重くて、それが全員にとっての真実とは言えないけれど否定もしづらい所、等はある種人生経験からの真実であるとは思うけれど、普遍的なものでもないし、絶望していても希望は見つからず、その為に祈りは存在する。
 生理的に受け入れがたい精子提供者との出会いの場面なんか印象的で良かった。提供者の書類や画像上の情報なんて嘘かどうか判断しづらいのだから、やはり直接目で見て生活するレベルで一緒にいて人間性も体感する、その上で恋愛性行為の相手になること、の自然なプロセスの重要性を改めて考えさせられもした。キスもできない相手は無理、将来子どもがその顔で生まれて、そんな性格になった時に、それでも嫌悪せずに自分の子だと大事に出来るかどうか、は運だし、その時までわからない。これは恋愛関係としてパートナーに問題がなくても、生活する上でのパートナー性の問題が発生することもあれば、誕生して発育の途中で障害が出たりする場合も含むし、仕事や恋愛や子供に価値を見出しても、それが死ぬまで幸せのままでいられるかはわからず、自分でコントロールできるもので選んでも時に事故やアクシデントがあることは仕方がない、その上でどんな人生を選択し許容し我慢し選択していけばいいのか、自立と責任、覚悟と幸せ、女が自分で決める選ぶ、その強さ安心、幸せを含め、それでも自分で選ぶ、女が決める、という強さを描いた本作。

476>「もうすぐわたしの誕生日。ちゃんと予定どおりかえってくれるやんな」緑子は咳ばらいをひとつして言った。
「うん、わたしとしてはそのつもりでおるけれど」わたしは言った。
「お母さんとケンカしたままやろ」
「けんかっていうか、うん――巻ちゃん、なんか言うてた? 元気にしてる?」
~「っていうかさあ」緑子は笑って言った。「昔。わたしがまだ小さいとき、お母さんと一緒にナツちゃんとこ行ったやん。ふたりで。夏な、いまくらいすっごい暑いとき」
「うん、巻ちゃん夜、なかなか帰ってこんかって」
「あのときはさあ、お母さんが胸にシリコン入れるとか入れんとか言うて大騒ぎして、ほんで今回は夏ちゃんかいな、もう、頼むできょうだい!」緑子はおちょけるように言った。

 

 本作でも、過去作品や以後に出た『黄色い家』にも登場する類似の傾向や設定が頻出し、女性同士の連帯や友情、衝突や邂逅、男性の影の薄さ、或いは支配的な男性の管理下にあることを受け容れる保守的な女性の登場、会話による親交を深める男女、幼少期の貧困、今の仕事と生活を投げ出して急に非現実的な課題に取り組みだす没頭性主人公、会話の応酬、母子家庭とスナック育ち、などなど。
 前半は『乳と卵』の、途中は『すべて真夜中の恋人たち』、貧困やホステス部分は『黄色い家』の、これまで読んて来た多くの著作の要素が詰まっていて、恐らく著者の興味や対象だと思うが、素直だし、今回はむしろちゃんと恋愛小説になっていて、姉の明るさが救いになっていて、『乳と卵』では姉とその子供がケンカしていたが、今回や2部では姉と妹がケンカしていて姉の子供が「頼むできょうだい!」と明るく締めるのも良いし、仲直りの場面の関西弁も良いし、虚構創作として良いまとめ方は良かった上で、「この人の子供が生みたい+でも性行為はしたくない+自分のお金で育てる」等の要素を死守した上であそこに落着させる、のも悪くない。
 ただやはり全体が冗長だし、文章の力強さという著者本来の魅力は皆無。全体小説としての要素、全方位的な要素は見受けられるものの、武器は磨けていない印象。テーマとして素晴らしいのに作品としての印象値は弱い、ただ、『乳と卵』と『すべて真夜中の恋人たち』の後、『黄色い家』の前に、こういうのを書いていたのだな、と思うと人間性というか作家性みたいなものが思われる気がして、著者は素直な人なのだなという印象になる。

 個人的には、文体リズムとしての強烈性として『乳と卵』で印象的だった部分、胸派女子とヒヤッと女子やオレオに関する部分など、多くが省略されていたことについて、著者との感覚の違いを感じたりして哀しかったりもしたのだが、ここは価値観や相性、そして批評性になると思うので難しい所。
 でもそのようにして変化や展開自体が面白いし、初期・中期・後期などと著作列で時系列として眺めて考えられるのも作家作品を愉しむ醍醐味だとしたら、その進展や変化だけでも意欲で成果だから私はその姿勢は全面的に支持する。

国内外での受容のされ方、社会的関心と時代性テーマ、カテゴライズのジレンマ『黄色い家』川上未映子②
平成から始まった芥川賞の潮流とも思える女性作家の流れを汲みつつ、海外活躍までさりげなく果たしていることが分かった川上未映子。 最新長編の『黄色い家』話題にもなりましたから題名をご存じの方も多いのではないでしょうか、こちらも新聞連載、くしくも...

『冬物語』との対比でみる本作の女による創造性

 『冬物語』(The Winter’s Tale )はイギリスの代表的な劇作家シェイクスピアの晩年の作品であり、1609年頃に制作されたそうだが、日本の女性作家である川上が2008年に発表した『乳と卵』の進展形として2019年に発表した『夏物語』は明確に『冬物語』を想像させる作りとなっている。
 相対的な『夏物語』における夏が生命や誕生や創造をモチーフにしているのに対し、『冬物語』における冬とは死別や喪失や贖罪などを響きがあり、嫉妬・誤解・喪失・再生などの要素に満ちる。女性像として、男性の嫉妬に翻弄される王妃(パーディタは奇跡的に再生)があり、女性が自らの意志で生と母性を再構築する『夏物語』では、ここも明確に対比であり、失われた娘との再会が奇跡として描かれるのに対し、選択による出産を現実的な意志による奇跡や結果として描かれるのも対比であり、男性中心の神話的再生と、女性自身の意志による創造としてのテーマモチーフが相対的であり、そうしたかつての劇作家による神話を乗り越える現代的な更新としての作為を感じる。そしてその創意が現代の女性の解放や創造性へと繋がる相違であるところ、が、あたかも遊佐の強い発言と仙川の作家性への警告とも響き合う形をしているところ、作家としての川上と夏子と本作の意義をも共鳴させていく。

『夏物語』の舞台は現代の大阪。主人公・夏目夏子は、39歳の独身女性で、小説家。
 彼女は「結婚せずに子どもを産みたい」と考え、精子提供による出産を真剣に検討する。
 ・彼女の精子提供を巡る葛藤
 ・女性たちの生・性・母・共同体の語り
 ・社会制度の偏りと個の選択の孤独
 本作は女性たちが生きる権利を語り合う長い対話の記録として構築されており、このスタイルは以前・以降にも著者の作風として採用されているスタイルだが、本作では最も効果的に機能していると思われる。物語の中盤~終盤では、夏子が人工授精に挑む過程と、周囲の女性たち(友人・姉・母・他者)がそれぞれの生を語る群像劇として多層的に響く。
 『乳と卵』は貧困・身体・母娘・沈黙を描いた短編小説で、女性の身体が社会や男の視線によってどう規定されるか、言葉を持たない女性たちの沈黙と痛みなどとして読めるし、『夏物語』では夏子が「身体をどう生きるか/母になるとは何か」を自らの人生と共に問い直すので、『乳と卵』は身体を奪われた女性たちの物語であり、『夏物語』は身体を取り戻そうとする女性の物語とも読める。
 『乳と卵』の緑子が大人になって登場し、世代間の連続性(沈黙から言葉への移行として)も描かれるし、それによる成長性や変化の兆しも魅力の一つとして輝く。これは単純な二部構成の一作ではなく、数年前の作品の焼き直しによって得られるカタルシスとしても機能している良点。

 女性の身体・沈黙・貧困などを内的・閉鎖的に描く『乳と卵』から、『夏物語』の特に2部では生殖・選択・言語・共同体などを開放・対話的に描く。それらは以降でも触れるように、樋口一葉的要素により読むことも出来るし、女性的神話の創造と更新として読むと、男性的な神話の再生としての『冬物語』も浮かぶ。『夏物語』ではこれらを複合して、女体や人生の女性の自己決定権の明文学化を、語る/語られる関係の反転と共に、神話の再記述としての物語構造を同時に実現している趣がある。
 ここに川上の創作行為的な姿勢があるから、文章は微妙でも創作的な堅牢としての魅力があるうえで、
 『乳と卵』が語れてこなかった女たちの声を描き、『夏物語』は語ることによって世界を創り直す女たちの物語であるといえる。そしてそれは、『冬物語』が夢見た再生の神話を、男の赦しではなく女の意志によって遂行する夏の神話として映る。

 女性の身体が主題でありながら発話できない身体であったのに対し、『夏物語』の夏子は、自ら語り、自ら選択することにより、「どのように子を持つか」「誰と生きるか」を外部の権力(男や制度)ではなく、自分の言葉で定義しようとする。この転換こそ、川上未映子の文学性が、著作列によって沈黙から対話へ(乳と卵)、受動から創造へ(夏物語)と進化したことを示しているのかなと。
 その間で実生活においても自身の体で妊娠と出産を経験し、その声としてエッセイなども多数出しているそうなので、ぬかりない。

「身体を奪われる」から「身体を取り戻す」

『乳と卵』では、女性の身体は社会的・経済的抑圧の場として現れる。巻子の豊胸手術の夢や、緑子の月経への恐怖は、身体が所有される側のものであることを示すのに対し、『夏物語』では夏子が人工授精によって自分の意思で子を持つことを選ぶ。ここで身体は、初めて選択する主体のものになり、「身体の主体化」=「生の再所有」というテーマが発動する。

男女間における搾取、社会における母性、家族観における母親の献身

 母性は長く「自然」「無条件」「自己犠牲」として語られてきたのに対し、本作の夏子の決断は、母になることは選択の一形態であり、倫理的・社会的思考の結果であるという再定義を持つ。母になることを運命ではなく、思考と意志の行為として描く。
 『冬物語』との対照点として、再生の神話を書き換える意味で、シェイクスピアの『冬物語』では、男性(レオンティーズ)の嫉妬が悲劇を起こし、女性(ハーマイオニ)が許しによって再生されるが、再生の契機は、男性の悔悟と神的奇跡に託されており、女性の意志決定や行動は全く関与しないのに対し、川上の『夏物語』はその構造を反転させ、あくまで女性による物語に仕上げている。
 奇跡ではなく選択と行為による再生であり、男の許しではなく女の意志による創造であり、男女や家族の回復ではなく新しい家族の形の創出として描く。『冬物語』が(男性主導の)赦しと奇跡であるのに対し、『夏物語』は(女性主体の)意志と創造であり、これはシェイクスピア的神話を女性の側から再構築する行為となっている
 『冬物語』が死ののちの奇跡的な回復を描いたなら、『夏物語』は生と人生の中にある意志による創造を描くことで、前者は「世界を取り戻す」的神話、後者は「世界を創り直す」現代的な更新物語であり、生の再設計の文学として読める。この反転と進展は、単純な男女を超えた、人類社会性と創作性を備えた有価値的な再設計であり、図らずも夏の人工的な妊娠出産に対して放たれた遊佐と仙川の印象的な対話は、普遍的な創意としてのこれらにも明確に響く意味で素晴らしい。

一葉では語られなかった女の声、
川上は話し続ける女たちにより多種多様の危機交々を交錯させる

『乳と卵』では樋口一葉の『たけくらべ』のオマージュが隠されている、という読みを選評を読んだときになるほどなと思ったのだけど、今回またその時の記事を読みながら整理してみると、本作でもまた樋口一葉的要素、或いは『にごりえ』との関連なども見えてきた。
 樋口一葉の作品に登場する要素として、下町の女たちの日常/閉鎖的空間、貧困・階級の制約、男の不在または暴力的支配、話し言葉・方言・女性の内語、身体と羞恥・欲望の葛藤などがあるが、それは川上作品にも思われる要素であることは既に上記を眺めるだけでも相当するのが分かるし、特に『乳と卵』においては、狭い部屋に閉じこもる母娘・姉妹、シングルマザーと子の貧しさ、男の影の薄さ・女性同士の連帯や対話、大阪弁による独白、豊胸手術への執着・生理や妊娠への恐怖また嫌悪などとして描かれ、特に『乳と卵』は女性の身体の社会的条件を21世紀的に継承し直した現代の一葉的作品である、と断言できるかもしれないし、その読みを含めると以下のような可能性を内包していることが分かってくる。

言葉を持たない女から言葉を発する女への転換

 一葉文学の核心には、語りえぬ女の世界の美徳や我慢があるが、川上は特に『夏物語』にて語りまくる女たちの世界を描くし、川上作品において多くくの女性は喋りまくるし、その文体的魅力も相まってキャッチ―な魅力と文芸形式による本質性もある為、文芸的な魅力ともなっている。
 『にごりえ』の主人公・お力(おりき)は、自分の苦悩を語れずに沈んでいくのに対し、『夏物語』の夏子たちは語り合うことで生や女性性を立て直そうとする。ここには「一葉的沈黙→ 川上的対話」の文学的進化があるように思う。
 さらには、一葉の時代では母になることは女性の宿命であり、母になれないことは悲劇になり、制度から逃れがたいものでしたが、川上はこの母性の宿命を母性の選択へと書き換えていく。一葉の時代の「女は産むもの」川上の時代の「産む・産まないことは選ぶもの」、母娘の宿命性から、母性の選択性へ、ここには先述したシェイクスピア的男性主導の許しと回復からの進展としてのそれも重なりつつ、古い時代の女性性からの進展を、言葉と語りと意志と主張によって更新していく現代の強さと文学性がみられる。

 つまり『夏物語』では、一葉文学の倫理的文脈を自律的倫理(選択可能な生)へと再構築していることは、恐らくフェミニズム文学史上でも重要な跳躍であるし、それは社会や時代に制限されていた女性の解放であり、まさに前例のない新しい物語の創造であり、神話であり、勇気であること。(遊佐的暴論)
 川上作品の特徴である大阪弁による文体のにおいても一葉的な韻律が残っており、川上の呼吸のようにリズミカルで日常語と詩的意識が融合している文体は、一葉の文語体が持つ音楽性・口承的リズムも体現されており、そして当時代における現代口語の中で再現しているといえる部分も継承であると思われる。

 『乳と卵』が現代において、まだ女性が語ることが出来ない身体性に閉じ込められていることを体現する作品であったとするなら、『夏物語』では総じて、樋口一葉文学の継承と共にその時代の女性や作家としての限界や語ることができなかったことを、現代社会や感覚で語り直す試みになっている、と読める。川上未映子の魅力は、恐らくこうしたクラシカルな側面と突飛な虚構創作性の要素も含めた堅牢さにあると今回思った。
『乳と卵』は一葉的閉鎖空間の継承のための体現と模索であったし、『夏物語』は一葉時代を越えて女性が女性として女性を語ることを描く再創造の番であり、一葉が描いた閉じられた生を、川上は語りによる解放にて再生へと変換した、この過程を特に妊娠出産と人工的なそれのモチーフ主題と併せたことにより、そして主人公や友人を作家にしたことなども手伝って、重層的な創造とも併せて響かせた点などの虚構性も味わいを増す要素となっている。

創作行為は常に新しい物語の始め方

 『ヘブン』が吹き飛んでしまったが、『夏物語』がテーマが興味深かく題材性が豊かであり創作意欲的にも優れているにも関わらず、知名度を含め代表作扱いでないのは前述のような作品性としての不足があり、なんといっても著者の最大魅力である文章が弱まり、一般的な小説的な作りに寄せたことで、長所を失った上で新たな長所まではまだ磨き上げられていない実力と、それを置いてけぼりにする大きな思考性や創作性への渇望のギャップがあるのかなと。
 村田紗耶香の『消滅世界』に続いて、現代における性別や女体の扱い、或いは先進国の出生率などの要素として考えたときに、それは貧困や女性の社会的制限や奴隷性にも関わるし、現代から普遍的に扱われていくべき主題としての価値を明確に有したテーマ主題を持つ本作は、それに加えて意欲的な創造性として冬物語の対比や一葉文学が念頭に置かれるなど、著者のモチーフ創作性も光る。他著作に見られるような著者の虚構創作性も広く取り入れて代表作的なスケールがあるにも関わらず、初期の作品に見える文体・リズムの強さは鳴りを顰め、一般的な小説への脱皮という意味では価値を目指していてよいのだが、そこからさらに今一歩、もう一度文体の強さを保持するフェーズが来るのではないかなと思う。テーマ主題/一般化小説性/独自魅力や威力、というフェーズの展開、どちらにせよ価値的で成長性を感じさせてくれる作家であることは間違いない、今後も読みたい。

 今回は特に妊娠出産と人生やキャリア、意志と覚悟、生命と人生の希望や絶望など、多種多様が響き合いぶつかり合い、すべてそれぞれの人生があり価値観があるからこそ、答えや正解が一つでもないこと、だからこそ読者一人一人が自分の人生を考えることが出来ることにより普遍的な価値を持つ作品性ではあるものの、それを書き上げることのみに終始していて、本来的な魅力であるところの文章や完成度は二の次になって追いついていない不足が残念でならず、優れた創意や主題性に対して読まれる頻度が弱いのではないかなと思うのが残念。
 そのような煩雑で、もしかしたら非現実的や現代的やインモラルなことで気落ちする場合もあるだろうし、知らなければ・考えなければ生まれなかった気落ちもあるだろうけど、自分にとっての性別や家族や生命や人生、そして妊娠出産子育てや介護、等の価値観を考えること、或いは多様なその価値観を知ること、が出来る意味では良い経験になるのかなと。その上で、誰かとの繋がりや自分自身の肯定など、温かな要素へ行きつくこと、それ自体が人間性だし人生観であり、希望なのかなと。

2007年『わたくし率 イン 歯ー、または世界
2010年『乳と卵』第138回芥川賞受賞
2009年『ヘヴン』芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞
2011年『すべて真夜中の恋人たち
2013『愛の夢とか』短篇集 谷崎潤一郎賞
  アイスクリーム熱(『真夜中』2011 Early Spring)
  愛の夢とか(『モンキービジネス』2011 Summer)
  いちご畑が永遠につづいてゆくのだから(『アスペクト』2007年5月号)
  日曜日はどこへ(『yom yom』2011年第23号)
  三月の毛糸(『早稲田文学』2012年4月)
  お花畑自身(『群像』2012年4月号)
  十三月怪談(『新潮』2012年6月号)
2015年『あこがれ』
   ミス・アイスサンドイッチ(『新潮』2013年11月号)
   苺ジャムから苺をひけば(『新潮』2015年9月号)
2018年『ウィステリアと三人の女たち』短篇集
2019年『夏物語』 毎日出版文化賞
2022年『春のこわいもの』短篇集
2023年『黄色い家』読売新聞2021年~2022年連載 読売文学賞小説賞

 著作列10冊中6冊きました、私好きな作家さんでも全部読んだりしないので、これ結構読んでる方。

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